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2022年1月30日日曜日

ちょっと犬に冷たくないですか [ここはどこ?-物語を読む 11]

 以前から気になっていたことがある。「志村正彦さん、ちょっと犬に冷たくないですか」ということだ。

 最初に感じたのは、「ペダル」だったか。

 何軒か隣の犬が僕を見つけて
 すり寄ってくるのはちょっと面倒だったり

 「ペダル」では「その角を曲がっても消えないでよ」というように、ほかに集中しているものがある状況なので仕方がないのかもしれない。でも、いったんそう思って犬に関連する詞を調べてみると、犬に対する扱いは結構厳しいような気がするのだ。

  「浮雲」の「犬が遠くで鳴いていた」「犬は何処かに消えていた」は、まあニュートラルな描写として捉えることができるが、

 遠吠えの犬のその意味は無かった(「花」)

はどうだろう。遠吠えの相手は「沈みゆく夕日」だから蟷螂の斧というか何というか、確かに吠えたって仕方ないんだけれど、でも、犬にだって吠えたくなるような、やむにやまれぬ思いがあるかも知れないではないか。 それに対してわざわざ「その意味は無かった」というのは、犬の思いをバッサリ切りすてている感じがする。

 その他、広い意味で犬が登場するのは、「Listen to the music」の「負け犬」のような比喩表現か、「surfer king」の「どうでもヨークシャテリア」という駄洒落かなのだが、どちらも犬の立場からみれば不本意な表現と言えるだろう。「負け犬」は日本語にある一般的な表現だから百歩譲るとしても、「どうでもヨークシャテリア」て、ひどくない? と特に親犬派でもない私ですら思う。

 犬についての表現はこれくらいで、決して歌詞にたくさん犬が登場するわけではないが、それでもほかの題材に比べれば登場するほうだと思う。例えば、猫は登場しない。

 そもそも志村正彦の歌詞には具体的なものを特定するような表現はとても少ない。花の歌はたくさんあるのに、具体的な名前は桜と金木犀とサボテンくらいしか出てこない。(すみれはあるけど、人の名前、しかも妄想だし)。それは志村正彦が、歌詞と聴き手との関係をどのように考えているかという重要なテーマと関わっていると思うのだが、そのことについては、またあらためて書いてみたい。

 閑話休題。

 さて、私がずっと気になっていたのは、この犬に対する冷たい感じが、私が勝手に思い描いている志村正彦像とずれていたからだ。もちろん、お会いしたこともないのだし、楽曲や著書やインタビュー記事などから想像しているだけなのだから、ずれていて当たり前である。でも、なんかずっと違和感を持っていた。

 最近になって、それが腑に落ちる出来事があった。

 隣家の黒猫は小さいうちからよく遊びに来ていて、網戸をよじ登ったりすごい勢いで庭を走り回ったりわんぱくだったが、名前を呼ぶとニャアニャア鳴いて応えてくれて、ほんとうにかわいかった。ところが、大きくなるにつれてツンツンして、声をかけても無視するか、しっぽをちょっと揺らす程度になった。今となっては、いっそふてぶてしいというような態度で目の前を通り過ぎていくこともある。それがある日、ひなたぼっこの最中、例のごとく私の声かけに気のなさそうにしっぽでトン、トンと地面を叩いていたとき、急に見知らぬおじいさんが通りかかって声をかけたのだ。別に大声でもなかったのだが、その瞬間、猫は立ち上がって家に逃げ込んだ。そうか、あんなふうでも猫は猫なりに隣のおばちゃんに親しみを感じていて、めんどくさいと思いながらもあしらってくれていたんだな、とその時に気がついた。

 それでわかったのである。「ペダル」で何軒か隣の家の犬が僕にじゃれてくるのは、ふだん僕がその犬をかわいがっているからだ。もし普段から邪険に扱っていたら、すり寄ってきたりしない。

 そう考えると、「花」の「遠吠えの犬」だって、むしろ自分を犬と重ね合わせているからこそ、「その意味は無かった」と表現しているのかも知れない。時の流れとともに変わり、失われていくものを、どんなに惜しんでも嘆いても押しとどめるすべはない。そのことを犬と共有していると考えると、むしろ犬はかなり近しいものなのかも知れない。だからこそ自分に厳しいという意味で、犬にも厳しくなるのだ。 

 というわけで、私がずっと気になっていた「志村正彦さん、ちょっと犬に冷たくないですか」は、どうやら私の思い込みだったらしい。 勝手に思い込んで、勝手に安堵している今日この頃である。

2021年11月7日日曜日

〈消えないでよ 消えないでよ〉-「ペダル」と「自転車泥棒」[志村正彦LN296]

 2007年11月7日、「若者のすべて」「セレナーデ」「熊の惑星」の3曲を収録したフジファブリック10枚目のシングルCDがリリースされた。今日は14回目の誕生日。人間の成長に見立てれば「若者のすべて」も14歳になる。TEENAGERの真ん中の季節にたどりついた。

 「ペダル」を冒頭に置いたアルバム『TEENAGER』について、志村はこう述べている。(【フジファブリック】時間はかかってしまったけど 無駄なことはひとつもなかった OKMusic編集部    取材:岡本 明、2008年01月20日


中学生~?高校生のはちきれんばかりのパワーってあるじゃないですか。あの集中力に負けてはいけないと思ったんです。いろんなことを経験して、あの時とまったく同じことはできないけれど、これからも追い続けていくっていうことを象徴した曲が「TEENAGER」。アルバムもそうしたいと思ったんです。ロックをやる限り、永遠にロック少年でいたいという決意がありますから。26?27歳で少年というのもどうかと思いますけど(笑)、潔く言っちゃう。ジャケット写真は女の子がぶら下っていて、顔も引きつってる。それがロック。ロックの定義は重力に逆らうことなんです。丸くならないで尖っていたい、逆らい続けることがロックですから!


 同様のことが、『東京、音楽、ロックンロール』(志村日記)の「ジャケ深読み」(2008.01.25)にも書かれている。『TEENAGER』は、中学生から高校生そして大学生くらいまでの十代の若者、そして〈逆らい続けるロック〉をテーマとするコンセプトアルバムだと捉えられる。「ペダル」から最後の「TEENAGER」まで、歌詞の言葉にもゆるやかなつながりがある。志村は確固たるコンセプトを持ってこのアルバムを制作したのだろう。

 「ペダル」は、ユニコーンの「自転車泥棒」(作詞・作曲:手島いさむ)からの影響があると言われてきた。今回はその点について少し考察したい。まず「自転車泥棒」の歌詞を引用したい。


遠い昔 ふた月前の夏の日に
坂道を 滑り降りてく二人乗り
ずっとふざけたままで

手を離しても 一人で上手に乗れてた
いつのまにか 一人で上手に乗れてた

髪を切りすぎた君は 僕に八つ当たり
今は思い出の中で しかめつらしてるよ
膝をすりむいて泣いた 振りをして逃げた
とても暑過ぎた夏の 君は自転車泥棒

白い帽子 陽炎の中で揺れてる
いつのまにか 彼女は大人になってた

本気で追いかけたけど 僕は置いてけぼりさ
お気に入りの自転車は そのまま君のもの

髪を切りすぎた君は 僕に八つ当たり
今は思い出の中で しかめつらしてる しかめつらしてるよ
膝をすりむいて泣いた 振りをして逃げた
とても暑過ぎた夏の 君は自転車泥棒


 冒頭で〈遠い昔〉〈ふた月前の夏の日〉という二つの時が設定されている。この二つの時間の関係が読みとりにくいが、〈遠い昔〉という大きな枠組の中で、その昔のある現在時から〈ふた月前の夏の日〉という時、小さな枠組が設定されていると、とりあえず考えてみたい。その〈ふた月前の夏の日〉に、〈坂道を 滑り降りてく二人乗り〉の自転車に、〈僕〉と〈君〉が乗っていたのだろう。二人はおそらく十代の若者。しかし、その〈君〉は自転車泥棒のように〈僕〉から去って行く。〈いつのまにか 彼女は大人になってた〉とあり、まだ大人になりきれない〈僕〉とすでに大人になっていった〈彼女〉との擦れちがいを読みとれる。ここで〈君〉という二人称ではなく〈彼女〉という三人称になっていることに注目したい。その出来事を客観的に見つめる視線がある。この言葉は、作者がこの歌を作った現在の時点から語られているのだろう。十代の男女には、大人になるための時の進み方の差がある。〈本気で追いかけたけど 僕は置いてけぼりさ〉とあるように、たいていは男の方が置き去りにされる。作者はその時の光景を〈白い帽子 陽炎の中で揺れてる〉と描写し、回想している。〈自転車泥棒〉とは、投げやりで激しくもある言葉だが、やるせない切ない言葉でもある。突然、泥棒に奪われてしまうかのように、〈坂道を 滑り降りてく二人乗り〉の〈僕〉の大切な出来事が消えていく。二人の〈お気に入りの自転車は そのまま君のもの〉になってしまう。


 次に、「ペダル」(作詞・作曲:志村正彦)の歌詞を引用する。


だいだい色 そしてピンク 咲いている花が
まぶしいと感じるなんて しょうがないのかい?

平凡な日々にもちょっと好感を持って
毎回の景色にだって 愛着が湧いた

あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ

上空に線を描いた飛行機雲が
僕が向かう方向と垂直になった
だんだんと線がかすんで曲線になった

何軒か隣の犬が僕を見つけて
すり寄ってくるのはちょっと面倒だったり

あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ
駆け出した自転車は いつまでも 追いつけないよ

そういえばいつか語ってくれた話の
続きはこの間 人から聞いてしまったよ


 作品の全体としては、手島いさむの「自転車泥棒」と志村正彦の「ペダル」はそれぞれ固有の世界を表現している。明確な影響の関係はない。ただし、〈自転車〉とそれに関わる〈坂道〉〈滑り降りてく〉〈追いかけた〉という一連のモチーフが、潜在的な次元として何らかの影響を与えているかもしれない。むしろ、〈白い帽子 陽炎の中で揺れてる〉の表現が、別の曲ではあるが、あの「陽炎」(シングルおよび1stアルバム『フジファブリック』収録曲)の〈陽炎は揺れてる〉につながる。志村正彦は奥田民生から決定的な影響を受けたことを何度も語っているが、ユニコーンの他のメンバーによる作品からも影響を受けていると考えてもよいだろう。

 歌詞には、トポス(topos)としての言葉、定型的表現が多く含まれる。トポスは《場所》を意味するギリシア語由来の言葉。主題や論題のことだが、月並みな表現という意味もある。和歌の歌枕もある意味ではトポスである。季語にもトポスの性格がある。

 〈陽炎〉を一つのトポスとして捉えてみよう。日本語のロックやポップスの枠内で探しても、はっぴいえんど「花いちもんめ」(作詞:松本隆・作曲:鈴木茂)の〈おしゃれな風は花びらひらひら/陽炎の街/まるで花ばたけ〉、荒井由実「ひこうき雲」(作詞・作曲:荒井由実)の〈白い坂道が 空まで続いていた/ゆらゆらかげろうが あの子を包む〉などたくさん挙げることができる。〈陽炎〉は曖昧で不安な心象のトポスである。「自転車泥棒」の他の言葉では、〈坂道〉〈髪〉〈自転車〉〈帽子〉もトポスの言葉であり、数限りない用例がある。そのようなトポスとしての言葉をどのように表現するか。表現者が最も苦心するところだ。

 「自転車泥棒」は、〈坂道〉〈髪〉〈自転車〉〈帽子〉というようなトポスを歌詞の基盤に置いているが、〈遠い昔〉〈ふた月前の夏の日〉の二つの時間の設定、〈君〉〈彼女〉という人称の工夫や視点の転換によって、ロックの歌が陥りがちな定型性を免れている。優れた歌だと言えよう。〈自転車泥棒〉は苦いユーモアも含まれる巧みな比喩だが、結局、その比喩に〈僕〉の想いは回収される。〈僕〉と〈君〉の世界はそこにそのまま閉じられていく。

 「ペダル」も、〈僕〉と《君》(歌詞で明示されていないので《》を付す)の世界が根底にある。〈毎回の景色〉、〈花〉〈飛行機雲〉〈自転車〉などの《見えるもの》のなかで、《君》は歌詞の中の言葉としては登場しない。しかし、《君》という二人称は《見えないもの》として「ペダル」の世界に存在している。志村は《見えないもの》として描き出すことを意図したのではないだろうか。《見えるもの》のなかで《姿》としては描かれないものがほんとうに見たいものであり、《見えるもの》を通して《見えないもの》が浮かび上がってくる、というように。その《見えないもの》は《消えてしまうかもしれないもの》あるいは《消えてしまったもの》でもある。そして、それが〈消えないでよ 消えないでよ〉の対象となる。「自転車泥棒」とは異なり、〈僕〉と《君》の世界が過去の世界に閉じられることはない。〈駆け出した自転車は いつまでも 追いつけないよ〉というように、〈僕〉の想像力はいつまでもどこまでも追いつこうとしている。 〈消えないでよ〉と追い求めている。この想像力、繊細なものの見方、対象の多層的な現れ方が、作者志村正彦の個性である。トポスとしての言葉を独創的な表現へと変換している。

 最後の間奏の後の部分、手紙の「追伸」にあたるところの〈そういえばいつか語ってくれた話の/続きはこの間 人から聞いてしまったよ〉では、歌の主体である一人称の〈僕〉、〈いつか語ってくれた話〉を〈僕〉に話した二人称の存在(この人が《君》なのだろう)、〈僕〉がその話の〈続き〉を〈この間〉〈聞いてしまった〉当人である三人称の〈人〉、という三人の人間が関係している。ここにも複雑な人間の関係と場面の設定がある。志村正彦ならではの追伸だ。〈いつか語ってくれた話の/続き〉は〈消えないでよ〉と思わずにはいられない話だったのかもしれない。


 今回「ペダル」を聴き直す中で、〈消えないでよ〉は、アルバム『TEENAGER』全体を通したキーワードだと考えるようになった。冒頭に紹介した志村のコメントを受けとめるならば、まず第一に〈TEENAGER〉の世界そのものが〈消えないでよ〉の対象だが、〈逆らい続ける〉ロックもまた〈消えないでよ〉の対象だろう。アルバム全体という枠組ではなく、個々の作品、たとえば「若者のすべて」にも〈消えないでよ〉というキーワードが共鳴している。「最後の最後の花火」は消えてしまうものではあるが、〈消えないでよ〉と思い続ける光、その残像でもある。

 アルバム『TEENAGER』2曲目の「記念写真」には、〈記念の写真 撮って 僕らは さよなら/忘れられたなら その時はまた会える〉というユニコーンの「すばらしい日々」(作詞・作曲:奥田民生)を想わせるフレーズがあり、〈消えてしまう前に 心に詰め込んだ〉という一節がある。〈消えないでよ〉を反転させる〈消えてしまう〉というモチーフが歌われている。「若者のすべて」のカップリング、B面曲「セレナーデ」はアルバム『TEENAGER』には収録されなかったが、この時期のきわめて優れた作品である。歌詞の最後はこう結ばれる。


そろそろ 行かなきゃな お別れのセレナーデ
消えても 元通りになるだけなんだよ


 「セレナーデ」では、〈僕〉が〈君〉に〈消えても 元通りになるだけなんだよ〉と呼びかけるのだが、それはそのまま〈消えないでよ〉という言葉をこだまのように反響させる。そして、聴き手は〈消えないでよ〉を召喚するだろう。


2021年10月31日日曜日

富士吉田を歩く、2021ハタフェス・黒板当番さんの絵・「ペダル」[志村正彦LN295]

 昨日10月30日、大学の担当授業「山梨学Ⅱ」で地域活性化の先進的な試みを実際に見て学ぶために、受講学生20名とバスに乗って、富士吉田の「ハタオリマチフェスティバル」に行ってきた。一昨年は台風、昨年はコロナ禍で中止となったので、2018年以来の三年ぶりの開催だった。ハタオリマチフェスティバル、通称「ハタフェス」は、山梨県富士吉田市の街の中で開催する秋祭り。二日間、小室浅間神社と本町通り沿いの各会場で、山梨のハタオリの生地や製品を販売したり関連のイベントをしたりするマチフェスである。

 10時頃、駐車場の富士吉田市役所に到着。2020年12月にリニューアルされた庁舎の壁画を初めて見る。ハタフェスのデザイン画も描いているテキスタイルデザイナーの鈴木マサルさんの作品。配色が素晴らしい。ポップでロックだ。この絵がハタフェスの招待状(招待画?)になっていた。



 僕、アシスタント学生2名、受講学生20名の一行二十数名がぞろぞろと街を歩き始めた。担任に率いられた遠足のような集団で少し気恥ずかしくもあったが、この日は快晴で、ところどころ紅葉も進み、富士山も美しく、歩くのは清々しかった。コロナ禍でこのような外出の機会も少ない学生にとっては貴重な時間となった。

 全員で歩き、入り口の会場で検温検査をしてシールや資料をもらい、本町通り沿いの各会場を確認しながら、メイン会場の小室浅間神社に到着。すでにたくさんの人が集い、活気がある。〈おかえりハタフェス〉といった感じだ。この授業では昨年も一昨年も見学する計画だったのだが、中止となってしまった。ようやく実現できてほんとうに良かった。(主催者や協力者の方々に感謝を申し上げます)

 三つにグループを分けて記念写真を撮った。グループ別に見学し、その後三時間ほど各自のテーマによる自由見学という流れにした。僕もこの自由見学の時間に久しぶりに富士吉田の街を歩くことにした。小室浅間神社近くの志村正彦ゆかりの場所へと向かう。何年ぶりのことだろうか。小さなコートで子供たちがサッカーの指導を受けていた。「記念写真」の一節がメロディーと共に浮かんでくる。〈ちっちゃな野球少年〉ではなく〈ちっちゃなサッカー少年〉がボールを追いかけていた。

 それから会場の一つ「FUJIHIMURO」に行った。その後、本町通り沿いに各会場を回った。ところどころで路地に入り、回り道をしてひたすら歩く。この際、ハタフェスと富士吉田の街を歩くことを堪能しようとした。途中で学生たちと何度か出会った。最近開店したカフェの店主にインタビューしている学生もいた。スライド作成のための取材だ。頼もしい。この後、各自が作ったスライドの発表会が予定されている。この授業「山梨学Ⅱ」の最終課題は、自分が自分の街のフェスティバルや活性化のための具体策を計画して提案するというものだ。ハタフェスの先進事例として学んだ上で、自分自身が主体的に考えていくことを重視している。

 僕は会場の一つ富国生命ガレージで黒板当番さんのミニギャラリーを見た。以前から黒板当番さんのTwitterで作品を拝見していたのだが、二週間ほど前、仕事の関係でお会いした人が黒板当番さんご本人だということをたまたま知った。黒板当番さんも偶景webを読んでいただいているようで、話をしている内に、僕が偶景webの主宰者だと分かったようだ。結局、お互いに「あなたでしたか」ということになった。山梨は、いや世界は(とあえて言おう)、狭いのである。

 ハタフェスで彼の作品が展示されることを知ってから、この日を愉しみにしていた。ミニギャラリーにはインクジェットプリンターで印刷した60枚のミニ黒板が並べられていた。志村正彦をテーマとする12枚の絵もあった。小さなものには小さなものゆえの存在感がある。

 この後、ネットで見た『ペダル』が展示されている富士山駅の「ヤマナシハタオリトラベル MILL SHOP」に向かった。本町通りは車では何度も通ったことがあるか、長い距離を歩くのは初めてだ。上り道がずっと続く。この日は快晴ゆえに日差しも強かったので、思っていたよりも暑い。寒さを予想して厚着だったので余計にこたえた。

 富士山駅に到着。駅ビル1階のMILL SHOPへ。ハタオリ紹介番組を流すモニターの横に『ペダル』の黒板。椅子に腰かけてしばらくの間眺める。チョークアートの技法はまったく分からないが、チョークのチョークたる所以である、何というのだろう、あの筆触が活かされている。チョークが黒板に接触する際に、チョークの粉がかすれ、消えていく感触が残っている。黒板当番さんの絵が素敵なのは、この擦れて消えていくものが幾重にも重ねられていくところにあるのだろう。擦れて消えていくものは、志村正彦が繰り返し歌ったモチーフでもある。

 『ペダル』の絵は主に、上側に志村正彦、下側に犬の二つのオブジェで構成されている。(黒板当番さんに快諾していただいたので、画像を添付したい)



 歌詞では〈何軒か隣の犬が僕を見つけて/すり寄ってくるのはちょっと面倒だったり〉というように犬が登場する。絵の中の犬は微笑むようにして、〈僕〉を見ている。とても可愛い。その上に描かれている志村は〈ちょっと面倒〉そうに横を向いているが、内心はどうなのだろうか。この絵には他に、富士吉田の街並、空、飛行機雲の線、だいだい色とピンクの花、角を示すミラー、昭和風の喫茶店、スニーカーを履いて歩く〈僕〉の足下と、『ペダル』の世界が忠実に反映されているのだが、女子高校生らしい人物が自転車を漕ぐ後ろ姿が目を引く。歌詞の中ではこのような像としてはっきりと描かれてはいないが、黒板当番さんはおそらく、〈あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ〉と歌われる〈消えないで〉の対象を自転車に乗る女子高校生だと解釈したのだろう。これは卓見である。絵を描く人の想像力がなせる技でもある。黒板画のマチエールそのものもこの題材に適している。(この部分を拡大した画像も添付させていただく)

 白色の花と白色のブラウスが溶け合っていく。自転車を漕ぐ彼女はどこに向かっているのだろうか。彼女の眼差しの向こうには何があるのだろうか。




 もう八年ほど前になるが、〈『ペダル』1「消えないでよ」(志村正彦LN12)〉で次のように書いた。    

 「消えないでよ」という謎めいた表現がいきなり登場する。いったい何が「消えないで」なのか、分からない。「あの角」も具体的な像が浮かばない。通常の流れを考えると、「まぶしいと感じる」「だいだい色 そしてピンク 咲いている花」が「消えないで」ほしい対象と考えられるが、「花」に限定しまっていいのか、心もとない。あるいは隠喩と考えるのなら、「虹」のようなものか、あるいは「平凡な日々」や「毎回の景色」という出来事や風景、そこにうつりゆくものなのか、あるいはそれらの対象をすべて包み込むような何かなのか。

 聴き手がそれを絞りきれないまま、「消えないで」ほしい対象への「僕」の強い想い、その対象に対する呼びかけとそのリフレインが、聴き手の心にこだましてくる。分からないままに、「消えないでよ」という言葉そのものが「リアルなもの」として響いてくる。「消えないで」と願う対象をあえて明示しないことが、歌詞の中の空白部をつくり、聴き手の想像を広げるような作用をしている、とひとまずは言えるだろうか。

 続く〈『ペダル』2「僕が向かう方向」(志村正彦LN13)〉ではこのように展開した。

  「僕」が歩いているとすると、「駆け出した自転車」に「追いつけない」のは「僕」だという解釈も成り立つ。誰かが漕いで「駆け出した自転車」を僕は歩いて追うが、「いつまでも追いつけない」という状況だ。そうなると、「僕」が「消えないでよ」と願う対象はこの「自転車」だとも考えられる。しかしあくまでも、「僕」が「自転車」に乗っていると考える場合は、「僕」が「いつまでも追いつけない」対象は、「消えないでよ」と願う対象と文脈上同一のものになるだろう。

 この第二ブロックの場合、最初に現れた「飛行機雲」が「消えないで」の対象とすることもできる。現実的にも、「飛行機雲」はごく短い時間の移動では消えないが、やがて消えてしまう自然の現象である。第一ブロックの「花」も、より長い時間の間隔ではあるが、その色の輝きがやがて失せてしまうものである。そう考えると、歌詞の展開通り、「花」や「飛行機雲」が「消えないでよ」と願う対象にあげられてよいのだろうが、それだけに限定するのはこの歌の世界の広がりや漂う感覚にそぐわない気がする。やはり「消えないでよ」の対象はより抽象的に把握したほうがよいのではないだろうか。


 以前の考察でも〈消えないでよ〉の対象として〈自転車〉を挙げてはいるのだが、そこで終わってしまっている。誰が自転車に乗っているのかという想像することはできなかった。このときは、〈やはり「消えないでよ」の対象はより抽象的に把握したほうがよいのではないだろうか〉と考えて、具体的なものを追究することを避けたのだろう。

 それに対して、黒板当番さんは〈自転車を漕ぐ女子高校生の後ろ姿〉という具体的なイメージを描いている。この『ペダル』そしてアルバム『TEENAGER』全体、もっと広く言うのなら、志村正彦・フジファブリックの全作品を通じて、〈消えないでよ〉と歌われる存在がある。その具体像の一つとして、女子高校生もあげられる。実際にフジファブリックの「桜の季節」「赤黄色の金木犀」「銀河」などのミュージックビデオには、制服を着た女子高校生らしき女性が登場している。いくぶんかは不可思議で奇妙な雰囲気を伴って、ではあるが。黒板当番さんのこの図像からは、ティーンエイジャーらしい凜とした後ろ姿が漂ってくる。

 そもそも以前の考察では、〈花〉〈虹〉〈平凡な日々〉〈毎回の景色〉〈飛行機雲〉〈自転車〉、歌詞で歌われたすべての情景を〈消えないでよ〉の対象にしている。この対象を〈歌詞の中の空白部〉として捉えているからだろう。言葉で表現する場合、このように概念化したり抽象化したりすることがある。この種の概念化や抽象化はある種の逃げになることもある。(筆者もそのように逃げることがある、とここに書いておかねばならない)しかし、絵を描く場合は、具体像として(抽象的な像もあるだろうが)描出しなければならない。「ペダル」の黒板画を見て、文章と絵画の違いということも考えることになった。


 志村正彦は「ペダル」を歩行のリズムで作ったと述べたことがある。昨日、「ハタフェス」開催中の富士吉田の街を三時間ほど歩いた。若者を中心に沢山の人がハタフェスに集っていた。学生がメモを取りながら見学していた。機織の生地や製品がいたるところに並べられていた。秋の季節。快晴の青空。紅葉。綺麗な雪景色の富士山。富士山駅で黒板当番さんの「ペダル」の絵を見て、記憶の中の「ペダル」を再生した。帰りはなだらかな下り坂。下吉田の街とその向こう側の山々が見えた。歩きながら歌詞の一節を口ずさんだ。

 歩くことによって見えてくるものがある。
 その光景のすべてが〈消えないでよ〉、そう思わずにはいられなかった。


2018年5月31日木曜日

2008年5月31日。[志村正彦LN180]

  2008年5月31日、十年前の今日。フジファブリックは富士吉田市民会館でコンサートを開いた。僕はこのライブに行ってない。そもそも、その頃はまだフジファブリックという存在を知らなかった。おぼろげではあるが、山梨日日新聞の紙面で二三度「フジファブリック」という固有名を見た記憶があるにはある。おそらく「フジ」という名に反応したのだろう。しかしそのまま通り過ぎてしまった。実際に音源を聴くことはなかった。

 2000年代、同時代のロックに対する興味をほぼ失っていた。日本語ロックは終わってしまった。歴史の中に生き続けるしかない。そんな白けた気分があった。そういう個人的な背景があったから、フジファブリックに出会い損ねてしまったのかもしれない。今からすると何か偶然でもあったらとつぶやいてみたりする。結局、自分の不明を恥じる。こんなことを書き連ねても堂々巡りだが。

 今日は時間があったので、フジファブリック『live at 富士五湖文化センター』を通しで見た。2時間の間、様々なことを想った。ライブの映像ゆえに情報量が多い。以前は気がつかなかったことが見えてくる。実際には行ってないライブについて書くというのも「記念日」便乗のようで抵抗がなくはないが、この日付が終わらないうちに書いておきたいことがある。

 1曲目は『ペダル』。「TEENAGER FANCLUB TOUR」なのでアルバム『TEENAGER』の冒頭曲になったのだろうが、『ペダル』がオープニング曲ということは素晴らしい。「ペダル」を漕ぎ出すようにして声と音が動き出す。観客の声援が湧き上がる。


  だいだい色 そしてピンク 咲いている花が
  まぶしいと感じるなんて しょうがないのかい?

  平凡な日々にもちょっと好感を持って
  毎回の景色にだって 愛着が湧いた

  あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ


 志村正彦が終生愛した「花」の描写から故郷の凱旋公演が始まる。あの時志村の視線の向こう側には、富士吉田の「だいだい色 そしてピンク 咲いている花」がまぶしく輝いていたのかもしれない。「花」のモチーフが『ペダル』の基底にある。「平凡な日々」の「毎回の景色」、「好感」や「愛着」の対象も「花」。「あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ」と呼びかけられるものも「花」。「花」の風景の中を「ペダル」が漕いでいく。そんなことを強く感じた。
                               
 2曲目の『記念写真』。「消えてしまう前に 心に詰め込んだ」という一節が迫ってきた。『ペダル』の「消えないでよ」と『記念写真』の「消えてしまう前に」。この二つの曲に「消える」というモチーフが貫かれている。そのことに気づいた。志村には「消える」というモチーフの歌が非常に多い。ライブで連続して歌われるとこの二つの曲のモチーフが響き合う。曲順やその展開によって言葉や音像が交錯し、思いがけない連想がもたらされることがある。消える、消えない。消えないで、消えてしまう前に。「TEENAGER」の声が聞こえ、消えていく。

 志村のMC。メンバーの紹介。観客の表情。会場の雰囲気。記録として残されたことが貴重であり、DVDとしてリリースされたのは喜ぶべきことだ。
 アンコールの二曲、『茜色の夕日』と『陽炎』。この二つの歌を聴くと心が静かに動かされる。揺さぶられ、そして整われていく。

 勤務先では週に三日の「チャペルアワー」で教職員、学生、牧師の講話がある。今年の年間聖句は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」『新約聖書』「ローマの信徒への手紙」12章15節、パウロによる言葉である。クリスチャンではない僕にとって理解するのは難しいが、伝わってくるものはある。講話によって自然にこの言葉と対話することになった。「喜ぶ人」「泣く人」、何よりも「人」に焦点が当てられている。

 あの日志村正彦は故郷に帰還した。「喜ぶ人」となり「泣く人」ともなった。とりたててキリスト教の文脈で語る意図はないが、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」という言葉が今日は自然に浮かんできた。「人と共に」いう言葉に立ち止まってしまった。この文の書き手である僕は彼を知らなかった、いや未だに知らない。僕のような存在は、志村正彦という「人」と「共に」ということはできないだろう。安易に「人と共に」と考えてしまうとかえって「人」から遠ざかってしまう。「人と共に」ではない位置があるのか。あるのだとしたらどういう位置なのだろうか。そんなことを自分に問いかけた。

 自問自答が続いた。単純ではあるが、「作品」を聴く、見るという基本の位置に思い至った。「人と共に」は不可能であっても、「作品と共に」は可能であるだろう。

 作品と共に喜び、作品と共に泣く。『茜色の夕日』と共に喜び、『茜色の夕日』と共に泣く。『陽炎』と共に喜び、『陽炎』と共に泣く。そのように喜び、泣く。その経験を書くことはできるだろう。

2014年5月25日日曜日

「角」の原風景 [志村正彦 LN84]

 
 昨日、富士吉田に行って来た。5月上旬に続いて、今月は2度目となる。
 天気が良く、初夏を思わせる気候。通り抜ける風がさわやかだ。日に日に、富士山の雪解けも進んでいる。

 数日前の地元ニュースで、山梨を訪れた外国人観光客が前年より34・5%増え、その理由の半数近くが富士山の世界文化遺産登録だったことが伝えられた。確かに、河口湖から富士吉田へと向かう途中で、外国人の姿をたくさん見かけた。アジア諸国の若者が多い印象だ。観光は山梨の大切な資源であり、産業でもある。観光という形であっても、人々の交流が進むのは大歓迎だ。

 昨日の目的のひとつは「志村正彦を巡る小さな小さな旅」。今までも何度か訪れたことはあるのだが、今回は志村正彦が中学生の頃まで暮らしていた実家跡を起点として、幼少年期から小学校中学校までのゆかりの場をたどっていくという道筋を選んだ。彼の視線から見える風景を再体験する旅、最近の言葉で言い換えるなら「志村正彦フットパス」とで言える試みだ。

 彼の通った保育園、小学校、神社、路地と路地裏。
 小学校の校庭。野球団に入りたくてたまらない少年がそこから一人で寂しそうに眺めていたという石段。そこに座り、前方を眺める。細長いグランド、白線、向こう側には小室浅間神社の樹木が並ぶ。友達とよくその境内で遊んだらしい。

 『陽炎』の舞台となった駄菓子屋跡。細い路地が続く。直線は少なく、微妙に折れ曲がった道筋。路地の角が視界をふさぐ。角を曲がると新たな風景が開けてくる。振り返ると、それまでの風景は消えていく。幾分か、迷路を歩いているような感覚にとらわれる。富士の裾野のなだらかな斜面、北側の山々からの斜面と、傾斜がゆるやかに続くことも、この路地の形を複雑にしている。

 「角」が歩行にリズムを与える。『ペダル』の一節、「あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ」を想いだす。消えないでよと望む対象と自分自身を隔てるものとしての「角」。この町並そのものに、「角」のモチーフが隠されている。

 しばらく歩く。路地の薄暗がりを抜けると、小さな橋と川に遭遇する。陽の光が射し込み、川辺の緑がまぶしい。遠く山の稜線。時には富士山の一部が視界に入る。路地の壁と壁の間に切り取られた富士山。この界隈ならではの富士の姿だろう。

  原風景としての「角」。下吉田、月江寺界隈の路地では、「角」を起点として、それまでとは異なる小さな小さな世界が連続して出現する。同じようでどこかが違う路地。川、池、山、空の自然の風景。断片としての富士。灰、青、緑、茜、色調の変化。風景が転換し、風景の複雑なファブリックが形作られる。

 多種多様な「転調」が志村正彦の楽曲の特徴だと言われている。転調や変拍子の多用はプログレッシブロックの手法だ。彼もプログレやその他の音楽の転調の手法を学んで作曲したのだろう。
 しかし、そもそもの感性のあり方としても、彼は曲調の複雑な変化を好んだのではないのか。幼少年期の風景は、人の感性に強い影響を与える。

 彼の場合、それは楽曲だけにとどまらず、言葉の選択、物語の話法にも及んでいる。楽曲と言葉の転換が微妙に絡み合いながら、あの独特の詩的世界が立ち現れる。志村正彦の原風景をたどるとそのような仮説が浮かんでくる。

2014年4月19日土曜日

歩行の律動-4/13上映會2 [志村正彦LN 79]

 ふじさんホール、全体の中央やや左よりの座席に座る。スクリーンと近すぎず遠すぎずちょうど良い位置だ。このホールは座席を始め大幅に改装されたが、舞台は当時のままらしい。その舞台上の大型スクリーンには、プロジェクターで投影された映像。送り出しは通常のBD・DVDプレーヤーのようで、アップコンバートして解像度を上げているようには見受けられない。デジタルテレビの高画質が標準になってしまった時代では、この輪郭の甘さは残念だった。
 ただし、ややぼんやりした映像の質が、時の経過を告げているようで、これはこれでよいのかもしれないと、自らを納得させた。

 反対に、音響は専用のPAを入れているようで、予想以上の大音量。音の残響も計算されているようで、臨場感がある。低域についてもほぼ満足できるレベルだった。ロックのコンサートの場合、低域の音圧が重要。音に関しては、現実のライブ演奏に近い質が保てていたと言える。
 夢の中のようにややぼんやりした映像と、耳元に届き身体を揺らす充分な音量。視覚と聴覚のギャップのようなものにも、しばらくすると慣れてきた。

 オープニングの「大地讃頌」合唱を受け継ぐ形で、『ペダル』が始まる。画面の中と外の観客の拍手が重なる。『ペダル』は、この「志村正彦ライナーノーツ」で最初に論じた作品(LN12,13,14 http://guukei.blogspot.jp/2013/04/ln12_5.html)。思い入れのある歌詞だ。3rdアルバム『TEENAGER』の冒頭曲で、この「live at 富士五湖文化センター」でも、ライブ自体のスタートを告げる楽曲となっていた。

    平凡な日々にもちょっと好感を持って
  毎回の景色にだって 愛着が沸いた

 「平凡な日々」「毎回の景色」。富士吉田や東京での日々。再生映像と音響ではあるが、ホールという場の中で、800人の観客を前に、志村正彦の言葉がこだまする。

   あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ

 「消えないでよ 消えないでよ」の言葉がリアルに胸に響く。生涯、消えてしまうものを見つめ続け、消えてしまうものに対して消えないでよと呼び続けた志村正彦。この上映會を通して、通奏低音のように、「消えないでよ」のフレーズは鳴り響いている。
 この言葉は、私たち聴き手が祈りのように、彼に対して今も囁き続けている言葉でもあるのだが。そんなことを考えていると、感情の渦の中に自分が消えてしまいそうになる。 

 照明の光量が上がる。白い光の中、二十八歳の若々しい顔立ち。時々見せる、透き通るような眼差し、あどけないような表情、高いキーを歌う際のやや苦しげな様子。
 胸元が開いたU首のシャツ、その黒い地のシャツの図柄の一部、左右に走る斜めの線が一瞬、富士山の稜線の形に浮き上がる。ホールの舞台を踏みしめるように、歩きながらリズムを確かめる姿が印象深い。

 ポリープ手術前ということなのか、声の調子はあまりよくないが、聴き手に伝えようとする歌詞の解釈と意志の力によって、歌には確かな説得力がある。
 『ペダル』のbpmは志村の歩くテンポに合わせてある。加藤慎一、城戸紘志のリズムセクションに支えられ、金澤ダイスケ、山内総一郎の音色に彩りを与えられ、志村正彦の歩行のリズムが会場に溢れ出る。観客はフジファブリックのサウンドの律動に大きく包まれる。

  駆け出した自転車は いつまでも 追いつけないよ

 彼は「いつまでも 追いつけないよ」と歌う。映像のフレームの中の彼は再現前している。しかし、私たちはいつまでもどこまでも追いつけないでいる。たどりつけないでいる。「消えないでよ」と祈る。しかし、ここで佇むしかない。 

 『ペダル』が終わる頃になると、観客の手拍子や拍手も静かになってくる。皆が画面に集中していく。2008年5月31日と2014年4月13日という二つの時は次第に、2008年5月31日という一つの時に収斂していった。     (この項続く)

2013年4月7日日曜日

『ペダル』3 尽きない魅力 (志村正彦LN14)

   『ペダル』の第2ブロックが終わると、曲がフェードアウトしそうな雰囲気になるが、それを裏切り、50秒ほどの長い間奏の後で、これまでの流れとはまったく異なる出来事が唐突に語られる。第3ブロックの追加だ。ひそやかなつぶやきのような声で歌われるこのフレーズは、手紙で言えば「追伸」のような部分にあたるのだろう。

  そういえばいつか語ってくれた話の
  続きはこの間 人から聞いてしまったよ


 ここには、一人称の話者である「僕」、「僕」に対して「いつか語ってくれた話」をした直接の相手である二人称の存在、「僕」がその話の「続き」を「この間」「聞いてしまった」相手である三人称の「人」、という三人の人間が登場する。しかし、この三者の関係は分からない。

 聴き手にとって特に、「僕」と二人称の相手との関係と交わされた話がとても気になる。この二人は男と女なのか、あるいは男と男なのか。どのような関係なのか。「話」とその「続き」とはどのような内容なのか。聴き手にはそれを知りたいという欲望があるにもかかわらず、作者は当然のように、それを謎のままにしておく。聴き手はその謎、空白の中に置き去りにされたような気持ちになるが、想像を広げていくことで、自分自身で物語、ショートストーリーを作るようにして、歌の物語を補填していけばよいのかもしれない。

 それにしても、移動する「僕」と「花」や「飛行機雲」を始めとする風景との遭遇だけで歌が完結した方がきれいにまとまるにも関わらず、最後になって人間的な世界が介入してくるのはなぜだろうか。三人の人間が関わるこの部分も「消えないでよ」のモチーフとつながっているのだろうか。「僕」は「いつか語ってくれた話」をした相手から、その「続き」を聞きたかったのだろうか。

 そうであれば、もうその話は「人」から聞いてしまったので、その相手から聞くという経験そのものは消えてしまったことになる。二人の間で交わされるはずだった出来事が消えないでほしかったことなのか。もう少し踏み込むなら、この二人が語り合う時や場、この二人の関係そのものが、「消えないでよ」と願う対象だと考えられるのだろうか。歌詞の言葉からはなかなか手がかりが見つけられない。やはり、追伸のような形で述べられるこの第3ブロックの意味と「消えないでよ」のモチーフとの関連はよく分からない。分からないことは分からないままに、空白は空白のままに、歌を愉しむのが、志村正彦の歌を享受するあり方かもしれない。

 志村正彦の歩行のリズムを身体に感じながら、問いが答えとして完結しない、不思議な感覚にあふれた言葉を読み、静かにそして次第に激しく旋回していくような浮遊感を持つ、美しく構築された楽曲を味わう。それが『ペダル』の尽きない魅力である。
 この歌は、2008年1月発売の『TEENAGER』の冒頭に収められた。このメジャー3作目のアルバムはいろいろな意味で、志村正彦とフジファブリックにとって転機となった作品である。

2013年4月6日土曜日

『ペダル』2「僕が向かう方向」(志村正彦LN13)

  『ペダル』の歌詞は三つのブロックに分かれている。今回は二番目のブロックに移ろう。

  上空に線を描いた飛行機雲が
  僕が向かう方向と垂直になった
  だんだんと線がかすんで曲線になった


 「僕」が移動している途中、「飛行機雲」が現れる。「上空」に描かれた「飛行機雲」の線の方向、それと垂直に交わる「僕が向かう方向」。「飛行機雲」の「線」が「曲線」になる変化。「あの角」の「角」も、見えるものと見えないものとの間にある「垂直」の「線」であろう。この三行は見たままの風景の描写だろうが、「僕」が「線」や「方向」そして「垂直」や「曲線」に鋭敏なのはなぜだろうか。それは、「僕」が生きていく「方向」に何か不安があるからではないのか。不安なまま「僕」は、風景の中に自分の位置や方向を確認しつづける。言葉にもとづく根拠はないのだが、そう感じられてならない。

  何軒か隣の犬が僕を見つけて
  すり寄ってくるのはちょっと面倒だったり


  あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ
  駆け出した自転車は いつまでも 追いつけないよ


 この歌の題名は『ペダル』であり、「駆け出した自転車」という表現もあるので、歌の主体の「僕」は「自転車」に乗って「ペダル」を漕いで「駆け出して」いる、という情景が思い浮かぶかもしれない。しかし、最初の2行にある、「何軒か隣の犬」が「僕を見つけて」「すり寄ってくる」という出来事で描かれる、「犬」と「僕」の距離感からは、「僕」は歩いて移動していると考える方が自然だという気もする。『FAB BOOK』には、「この曲のBPM、というかバスドラムのテンポですけど、それを僕が普段歩いてるときの速さと同じにしてくれって」という言葉があり、この歌のテンポが志村正彦の「歩行」のリズムであるという興味深い事実もある。

 「僕」が歩いているとすると、「駆け出した自転車」に「追いつけない」のは「僕」だという解釈も成り立つ。誰かが漕いで「駆け出した自転車」を僕は歩いて追うが、「いつまでも追いつけない」という状況だ。そうなると、「僕」が「消えないでよ」と願う対象はこの「自転車」だとも考えられる。
 しかしあくまでも、「僕」が「自転車」に乗っていると考える場合は、「僕」が「いつまでも追いつけない」対象は、「消えないでよ」と願う対象と文脈上同一のものになるだろう。

 この第二ブロックの場合、最初に現れた「飛行機雲」が「消えないで」の対象とすることもできる。現実的にも、「飛行機雲」はごく短い時間の移動では消えないが、やがて消えてしまう自然の現象である。第一ブロックの「花」も、より長い時間の間隔ではあるが、その色の輝きがやがて失せてしまうものである。そう考えると、歌詞の展開通り、「花」や「飛行機雲」が「消えないでよ」と願う対象にあげられてよいのだろうが、それだけに限定するのはこの歌の世界の広がりや漂う感覚にそぐわない気がする。やはり「消えないでよ」の対象はより抽象的に把握したほうがよいのではないだろうか。

 視界から、見えるものと見えないものの境界から、消えそうになってしまうもの。記憶の中で消失しないでほしいもの。私たちの心にあり続ける、「消えないでよ」と祈るしかないもの。そのような対象は、志村正彦の歌には潜在的にも顕在的にも繰り返し登場している。例えば、『花』の「花のように儚くて色褪せてゆく」ものも、『陽炎』の「きっと今では無くなったもの」も、『赤黄色の金木犀』の「目を閉じるたびにあの日の言葉が消えてゆく」ことも、そのような変奏の一つであろう。

(4月7日一部改稿、次回に続く)

2013年4月5日金曜日

『ペダル』1「消えないでよ」(志村正彦LN12)

  前回書いた志村正彦の変化を具体的に表している曲を探してみた。例えば、『TEENAGER』冒頭の『ペダル』はどうだろうか。この歌には、話者と主体としての「僕」が登場するが、最初に「僕」が見つめる「花」が視界に浮上する。

  だいだい色 そしてピンク 咲いている花が
  まぶしいと感じるなんて しょうがないのかい?


 「だいだい色 そしてピンク 咲いている花」は、例えば「桜」や「金木犀」のような名のある花、季節感と結びついた花、時には季語的な言葉と一体化している花ではなく、おそらくありふれた花あるいは逆に名も知らないような花であろう。このような花を描いたこと自体が、作者の変化の兆しを示している。

 彼には独特の色彩感を持つ歌があるが、この作品もその系譜の一つである。「まぶしい」と感じる色と光の小さな氾濫に、「花」も「僕」も包まれているようだ。「しょうがないのかい?」という問いかけは、おそらく自分自身に向けられたものであろうが、意味も文脈も分かりにくい。歌詞には書かれていないがこのフレーズに続く、「オオ、アーアーアー、アーアーアー」という、戸惑いのような嘆きのような声とあいまって、聴き手に、意味にはなりきれないような、それでも意味がこめられているような、不思議な意味の感覚をもたらす。

  平凡な日々にもちょっと好感を持って
  毎回の景色にだって 愛着が沸いた


 「平凡な日々」「毎回の景色」に対する「好感」や「愛着」。日常の出来事や風景に対する親しみ、和解のようなものが伝わってくる。これはあくまで歌詞の中の話者であり主体である「僕」の想いであるが、この「僕」が、現実の志村正彦の分身であることは確かなことのように、私には思われる。「平凡な日々」「毎回の景色」に対する「好感」や「愛着」が、志村が追い求めた「リアルなもの」の枠組みにも入ってきた。そのことが率直に「僕」を通して語られている。このような変化が作者に訪れたのである。

 しかし、「平凡な日々」は定型的な表現だろうが、「毎回の景色」の方はそうではない。「毎回の」という修飾語にには定型から離れようとする意図がある。志村正彦は日常に好感を持って接し始めているが、その日常の捉え方や切り取り方には彼らしい独特な感性があり、言葉もかなり吟味されている。それをよく表しているのが、続くフレーズである。

  あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ

 「消えないでよ」という謎めいた表現がいきなり登場する。いったい何が「消えないで」なのか、分からない。「あの角」も具体的な像が浮かばない。通常の流れを考えると、「まぶしいと感じる」「だいだい色 そしてピンク 咲いている花」が「消えないで」ほしい対象と考えられるが、「花」に限定しまっていいのか、心もとない。あるいは隠喩と考えるのなら、「虹」のようなものか、あるいは「平凡な日々」や「毎回の景色」という出来事や風景、そこにうつりゆくものなのか、あるいはそれらの対象をすべて包み込むような何かなのか。

 聴き手がそれを絞りきれないまま、「消えないで」ほしい対象への「僕」の強い想い、その対象に対する呼びかけとそのリフレインが、聴き手の心にこだましてくる。分からないままに、「消えないでよ」という言葉そのものが「リアルなもの」として響いてくる。「消えないで」と願う対象をあえて明示しないことが、歌詞の中の空白部をつくり、聴き手の想像を広げるような作用をしている、とひとまずは言えるだろうか。
(次回に続く)