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2022年6月19日日曜日

歌詞研究と専門ゼミナール(1)[志村正彦LN308]

   『志村正彦全詩集新装版』(2019年)の重版が決定したそうだ。詩集で重版ということはなかなかない。2011年刊行の元版とあわせて、かなりの部数になるだろう。番 歌、音源としてだけでなく、活字の言葉、「詩」としても、志村の作品は人々に愛されている。

 前回、「志村正彦の世界」という山梨学の講義を紹介したが、担当しているゼミナールでも志村正彦・フジファブリックの作品をテーマにして、3回に分けて演習を行った。

 今年3月卒業したゼミ生の一人が、「オノマトペ・音の持つ想像-フジファブリック・志村正彦の詩と演奏」という題で卒業論文を書いた。「追ってけ 追ってけ」「打ち上げ花火」「銀河」の三作品を主な対象にして、オノマトペという観点から作品を考察した。歌の主体の描写のありかたについての独創的な分析もあり、優れた論文となった。卒論発表会の際に他の教員からも評価された。

 今年度の3年次専門ゼミナールの学生は10人いる。このうちの半数ほどが、ロックやポップスの歌詞を研究する予定だ。大学という場であるので、アカデミックな歌詞研究が求められているが、アカデミアの中でロックやポップスの歌詞研究が進んでいるとは言えないだろう。また、その方法論が確立されているわけでもない。比較的多いのは、データ分析に基づく計量国語学的研究だが、この研究では歌詞の構造やモチーフについての深い分析は試みられていない。視野を広げれば、人々に支持された歌詞から聴き手の心情や時代精神を探る社会学的な観点での研究もあるが、こちらの方も歌詞自体の丁寧な分析は不充分であろう。


 音楽学・ポピュラー音楽の研究者である増田聡は、『聴衆をつくる―音楽批評の解体文法』(2006年)の第4章「誰が誰に語るのか―Jポップの言語行為論・試論」で、英国の社会音楽学者サイモン・フリスの歌詞論を参照して次のように述べている。少し長くなるが引用したい。


 ポップソングのコミュニケーションには特有の重層性がある、とサイモン・フリスは言う。彼によれば、ポップソングが聴かれるとき、われわれは実際には同時に三つの意味の水準を聴くことになる( Simon Frith   Performing Rites: On the Value of Popular Music 1996 :159)。一つはことばとしての「歌詞」である。それは読まれるものとしての詞であり、言語的な水準で意味作用をなす。次に「レトリック」であり、それは歌唱という言語=音楽行為が行う、音楽的発話の特性に関わる。歌における語調や修辞法、あるいは音楽とのマッチングや摩擦などが、単に歌詞を読むのとは異なる意味形成を生じさせる。最後に挙げられるのが「声」である。声はポップの文脈ではそれ自体が個人を指し示し、意味形成を行う。このことはクラシックの歌唱と比較してみれば明瞭であろう。クラシックの歌手の声は楽器と等しく、取り替え可能なものであるが(異なる歌手が同じ歌曲を歌っても、その曲の「意味」はさほど変わらない)、ポップの歌手はその声自体が独自の意味作用をもたらす。同じ歌を違う歌手が歌うとき、両者の意味は明らかに異なるのだ。
 このような三つの水準でわれわれはポップソングを聴く。それぞれのレベルは、各々独自の意味と質的評価を伴うだろう。このような複数の水準が関与する様態こそが、優れた「歌われる歌詞」が必ずしも優れた「読まれる詩」ではないことの要因となる。歌われる歌詞は歌詞自体とその言語行為、および声の質との関係の中で評価されるのだから。ゆえに、歌詞の意味や質をそれだけで評価し分析することは可能であっても、どこか見当はずれな感は否めない。ポップソングは何よりもまず、「音楽」として流通し受容されていることを忘れてはならない。


  増田は「歌詞の意味や質をそれだけで評価し分析すること」を「可能」だとしているが、一方で「どこか見当はずれな感」が否めないことを指摘している。そして、フリスの主張を受けて、歌唱という行為を「歌詞」「声」「歌」「音楽」の四つのレベルに分けることを提唱している。

 私自身が「志村正彦LN」で行っていることは、増田の言う「歌詞の意味や質をそれだけで評価し分析すること」にほぼ該当するだろう。それゆえ、「見当はずれな感」も自覚しているつもりではいる。方法として言語としての歌詞に限定しているが、歌詞の「意味」よりも、歌詞の構造や語りの枠組、歌の主体の在り方、歌詞を横断するモチーフなどに分析を集中させているところには、それなりの特色があるかもしれない。文学研究の方法が根底にあるからだ。また、「声」や「歌」のレベルの分析にも関心はある。特に志村正彦の「声」の魅力についてはこれまで断片的に触れてきたが、まとまった論として書きたいと考えている。


 今年の専門ゼミナールは、洋楽のカバーポップス、漣健児の訳詞、グループサウンズ、早川義夫・ジャックス、松本隆・はっぴいえんどという流れで、60年代初頭から70年代初頭までのポップス、日本語ロックの歌詞の変化をたどった。その後、70年代中頃から現在までの動きを、歌詞の役割の相対的低下という観点で簡単に追った。さらに、冒頭で述べたように、日本語ロックの一つの到達点として、志村正彦・フジファブリックの歌詞を3回に分けて考察していった。

     (この項続く)


2022年6月12日日曜日

「志村正彦の世界」山梨学2022[志村正彦LN307]

 山梨英和大学は四月から、多人数が受講する一部の科目を除いて、対面授業を実施している。キャンパスに学生が戻ってきて、活気があるのは好ましいことだが、当分の間、感染対策と学生の学びとの両立を図らねばならない。

 三年前から「山梨学」という科目を担当してきた。山梨の文化、社会、歴史、地域、観光などを総合的に学び、「山梨」の可能性を探究する科目である。年次の必修科目であり、受講生が200名近くいるので、この科目はオンライン遠隔授業となった。全14回の半分は外部講師、残り半分は僕が〈芥川龍之介と甲斐の国〉〈映画作品に描かれた戦後山梨の風景と社会〉〈山梨のロックの詩人-宮沢和史(ザ・ブーム)、藤巻亮太(レミオロメン)・志村正彦(フジファブリック)〉などのテーマで講義している。

 今年度は、志村正彦・フジファブリックの音楽について、「志村正彦の世界」と題して、独立した1回分の講義を行った。『若者のすべて』が高校音楽の教科書の教材になるなど、志村正彦の評価が確立されてきたからである。山梨学の枠組の中で、山梨出身の優れた音楽家、表現者という観点で取り上げるのにふさわしいという了解が得られると判断した。

 2年次学生に対しては、1年次の際に「人間文化学」というオムニバス科目で、〈日本語ロックの歌詞を文学作品として読む-志村正彦『若者のすべて』〉という授業をすでに実施している。題名からも分かるように、『若者のすべて』の歌詞を文学作品として読解し、分析する方法を中心に置いている。今回の山梨学では、志村正彦の全体像に可能な限り接近できるように、次の三つのテーマで構成した。取り上げたい作品はたくさんあるのだが、講義時間は70分程度なので絞らざるをえなかった。


1.『若者のすべて』と系譜的な原点としての『茜色の夕日』

2.四季盤、『桜の季節』『陽炎』『赤黄色の金木犀』『銀河』

3.2009年の歌、『バウムクーヘン』『ないものねだり』『ルーティーン』


 『茜色の夕日』と『若者のすべて』という二つの歌は、言うまでもなく、志村正彦の生の軌跡を表した曲だ。『茜色の夕日』の「できないな できないな」の「ない」は、『若者のすべて』の「ないかな ないよな」の「ない」にもつながっていく。「できない」「ない」。「ない」という不可能なことや不在であることを、志村は繰り返し歌ってきた。この二つの歌は、〈歩いていく〉という共通のモチーフがあるが、志村の歌の軌跡は、「ない」ことを巡る〈歩み〉としても捉えられる。

 山梨学という科目の性格から、富士吉田という地域とその季節感と関わりが深い四季盤の作品は重要である。〈坂の下→路地裏→帰り道→丘〉という富士吉田という場の光景と〈桜→陽炎→金木犀→銀河〉という春夏秋冬の変化が歌詞の中でどのように活かされているのかを話題とした。桜の四季の変化を見通す「桜の季節」の視点、少年期と青年期の二人の自分とそれを見つめる主体という「陽炎」の三つの視点、往路と帰路を見渡す「赤黄色の金木犀」の視点、丘や空から「二人」を俯瞰する「銀河」の視点。四季盤の作品については、視点論を中心に据えた。

 2009年制作のアルバム『CHRONICLE』から『バウムクーヘン』と『ないものねだり』。そして、ストックホルムで最後に録音された『ルーティーン』。〈2009年の歌〉としてこの三曲を取り上げた。『CHRONICLE』についての志村のコメント「"僕"という今の人間は、28年間のなかで、いろんな人と出会ったからこそ形成された"僕"であるし、だからこそ生まれた、自分の分身のような楽曲たちなんですよね」も紹介した。


 この〈志村正彦ライナーノーツLN〉の文章を基にしてSLIDEを作成した。実質的に、この〈ライナーノーツ〉が研究ノートになったわけだが、これは当初まったく想定していなかった。300回を超える記事は各回3000字ほどはあるので、すでに10万字程度、一冊の書物に相当する分量がある。自分で自分のブログのメニュー右側にある「このブログを検索」に検索語を入れて、該当の文章を探していった。すでに記憶が薄れて、この時はこんなことを書いていたのだな、などと発見することもあった。いうならば、過去の自分が今の自分に言葉を送り出している。そんな不思議な感じだった。この作業によってSLIDEを作ったのだが、結局、76頁と多めの量になった。僕の講義スタイルからすると、要点を絞っていけば1分1頁程度可能なので、何とかなるだろうとは思った。

 SLIDEでは、曲ごとに、歌詞をレイアウトし(音声ボタンを作り、クリックすると音源再生)、歌詞の構造を分析して図示した上で、歌詞の技法、表現の特徴を中心とする説明を記述した。志村の作詞と作曲についての姿勢については次のSLIDEなどで示した。




 講義終了後、学生に「振り返り文」を書いて提出してもらった。取り上げた作品の中では、やはり、『茜色の夕日』について言及する者が多かった。『ルーティーン』についてはほとんど知られていなかったが、この曲に惹かれた者も少なくなかった。また、志村の「色々なアーティストの感動する曲」について「すばらしいなあと思いつつも」「ちょっと自分じゃないような感じがする」、「100パーセント自分が聴きたい曲」を探したが「自分が作るしかない」ということに行きついた、という発言に対する反響が大きかった。数多くの学生が〈聴き手中心の歌は、私たちに寄り添ってくれるものであり、自分が表現しきれない気持ちを代弁してくれるようなものだと思う〉、〈志村さんが作る曲の数々がどこか懐かしさを覚え、誰が聞いてもその描かれている情景が目に浮かぶようなものになっていることは、彼自身が一番の聴き手として曲を理解して曲を作られているからなのだなと思いました〉などの的確なコメントを寄せてくれた。

 また、〈人が作った歌は「ちょっと自分じゃないような感じがする」と言う言葉に、自分が創作活動をするときも同じようなことを思うので共感を覚えた。また、「ルーティーン」の歌詞中の「君」は音楽を聞いている私たちなのではないかと感じた〉という捉え方にも感心した。『ルーティーン』の「折れちゃいそうな心だけど 君からもらった心がある」の「君」を「音楽を聞いている私たち」つまり聴き手だとする解釈は、〈聴き手中心の歌〉の本質とも重なる。

 さらに、〈フジファブリックの曲に多くの人が賛同し共感できるのは、この方の歌を通して自己を見つめ自分について考えることができるからではないかと考えました〉という学生の言葉が、志村正彦の世界の核心を捉えていた。