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2014年11月10日月曜日

「現在」の歌-CD『フジファブリック』9 [志村正彦LN94]

 十年前の今日、2004年11月10日にメジャーデビューCD『フジファブリック』が発表された。昨年のこの日からこのアルバムについてのノートを断続的に掲載してきたが、今回で完結させたい。

 今夜は早めに帰宅。CD『フジファブリック』をプレーヤーに入れて、音量をある程度まで上げて、スピーカーで何度か聴く。冬が近づき、部屋も冷たく乾いている。空気が澄み渡り、いつもより志村正彦の声が透き通るように響いてくる。

 このシリーズの7[LN87]で書いたように、このアルバムには、ある地点からある地点へと移動するという意味の動詞が多い。
 例えば「行く」だけを列挙しても、「桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい?」(『桜の季節』)、「放送のやってないラジオを切ったら すぐさま行け」(『TAIFU』)、「駄菓子屋に ちょっとのお小遣い持って行こう」(『陽炎』)、かばんの中は無限に広がって/何処にでも行ける そんな気がしていた」(『花』)、「今夜 荷物まとめて あなたを連れて行こう」(『サボテンレコード』)とある。
 70年代前半のブリティッシュロックの音、レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイドなどを時折想起させるビートに乗せて、何処かに行くという欲望や衝動が繰り返し歌われている。
 

 しかし、シリーズの8[LN88]で、『夜汽車』に触れて、「歌の主体も『あなた』も何処にも行けない。何処にも還ることはできない。帰郷が果たされることはない」と記したように、歌の主体は、結局、何処に行くことも還ることもできない。このモチーフは、CD『フジファブリック』全体を貫いている。
   『夜汽車』のエンディングは、ずっと回り続けるアナログレコードのターンテーブルのように、終わることのない、行きつくことのない旋律を奏でている。この終わり方の感覚が1stCD『フジファブリック』に独特の余韻をもたらしている。

 リピート再生のキーを押す。『夜汽車』が終わり、『桜の季節』が再び始まると、次のシークエンス、『桜の季節』の抽象的な世界の中で具体的に「別れ」を描く場面が気になってくる。

   坂の下 手を振り 別れを告げる
   車は消えて行く
   そして追いかけていく

   諦め立ち尽くす

 「車は消えて行く」、歌の主体が「追いかけていく」。対象は消えて「行く」、主体は追いかけて「いく」。しかし、結局、主体は「諦め立ち尽くす」。むしろ、あらかじめ「諦め」ているかのように、「立ち尽くす」。この「立ち尽くす」あるいは「立ち止まる」という光景は、志村正彦の初期作品によく見られる光景だ。CD『フジファブリック』中の『陽炎』や『赤黄色の金木犀』にもそのバリエーションがある。

 ある詩集の中のある詩の一つの言葉が、その詩を超えて、詩集全体に響きあうということがある。そのような意味で、『桜の季節』の「諦め立ち尽くす」という言葉はアルバム全体につながっているようにも思われる。何処に行くこともできない、結局、其処にとどまるしかないという主体のあり方が反復されている。

 作者志村正彦は、おそらく、何処に行くことも還ることもできないことをあらかじめ知っていた。「諦め立ち尽くす」と歌われているように、《諦め》や《断念》が先行していた。つねにすでに、其処にとどまること、立ち尽くし、立ち止まり、佇立することを身に纏っていた。
 あるいはそれに抗うように、時には再び、何処かにたどりつくことへの《欲望》や《衝動》を歌った。その反作用のようにして、何処へ行くことも還ることもできない《不安》に強く支配されるようになった。そのような痕跡が彼の作品には滲み出ている。

 1stアルバムでの金澤ダイスケ、加藤慎一、山内総一郎、足立房文の演奏は、志村の声を力強く、時に繊細に支えている。特に、この1stと2ndのドラムを敲く足立のリズム感は、志村の歌詞の持つ日本語のリズムとよく調和している。片寄明人のプロデュースを始めとするレコーディングスタッフも充実し、志村正彦は「プロフェッショナル」な音楽家として追い求めてきた言葉と楽曲の水準、演奏と制作の方法を獲得したと言えるだろう。

 『桜の季節』『陽炎』『赤黄色の金木犀』、四季盤の春夏秋の楽曲が卓越した価値を持つのは言うまでもないが、『TAIFU』『追ってけ追ってけ』『サボテンレコード』の新奇でしかもどこか懐かしい感覚、『打上げ花火』『TOKYO MIDNIGHT』の《夜》と《黒色》の奇妙な祝祭の風景など、多様性という言葉では括れないほどの広がりと深みがある。特に『花』と『夜汽車』は、誰もが使う分かりやすい言葉を使いながら、志村正彦でしか創造しえない世界を築いているという点で、傑出した作品だ。

 『花』には「花のように儚くて色褪せてゆく」という一節があるが、このアルバムは「儚い」世界を描きながら、決して「色褪せてゆく」ことのない命を持つ。
 十年という時の経過どころか、数十年、百年というような時を超えても、日本語の歌の聴き手にとって、1stアルバム『フジファブリック』の言葉と音楽は尽きることのない命脈を保つ。

 私たちが、例えば中原中也の詩を、近代詩という歴史的な文脈を離れて、「現在」の詩として読めるように、未来の聴き手や読み手も、志村正彦・フジファブリックの作品を、その時点の「現在」の歌として受けとめることができるだろう。

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