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2022年4月24日日曜日

現実

 2016年の夏、ロシアに旅行した。モスクワとサンクトペテルブルクの二つの都市を回った。

 モスクワの空港の手荷物検査は2回あった。自動小銃を持った警備員もいた。入国審査も他のヨーロッパの国に比べて厳しかった。凄いというほどでもないにしろ、何かしらの緊張感があった。

 サンクトペテルブルクといえば、ゴーゴリの『外套』そしてドストエフスキーの『白夜』。この二つの作品には思い入れがあるので、そのゆかりの場所を見た。エルミタージュ美術館のコレクションは素晴らしかったが、その割に観覧者が触れられそうな距離に展示されているなど、展示の仕方がおおらかなことに驚いた。

 モスクワ。赤の広場、クレムリン。私たちの世代では、この地はロシアというよりもソ連、ソビエト社会主義共和国連邦の中心地という印象が強いが、かつての社会主義の要塞といったイメージはなかった。観光客が多く、賑わいを見せていた。土産店には、ソ連・ロシアの歴代の指導者(書記長や大統領)から成るマトリョーシカがあり、人形の顔を見てその名を思いだしていった。

 空港でも街でも、ユーラシア大陸の様々な民族を見かけた。私もいきなりロシア語(だと思う)で話しかけられたことがあった。その時は少し特徴のある黒い帽子を被っていた。帰国して調べると、キルギス人の被る帽子に似ていたので、もしかしたら、キルギス人に間違えられたのかもしれない。キルギス人は日本人と似ていると言われている。ロシアは、多様な民族から構成されているユーラシアの大国であると妙に納得した。 

 学生時代を振り返る。ロシア・フォルマリズムの文学理論。ロマーン・ヤーコブソンの言語理論。構造主義、物語の構造分析、記号論の源流。そして、ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』。私たちの世代の学生で文学理論に関心のあるものにとって、必読の文献だった。ポリフォニーの理論は大きな影響を与えた。ロシアの文学理論は、1910年代から30年代、今から百年前に発展し、その後深化していった。

 私にとってロシアは何よりも、文学と言語の理論の国であった。


 ロシアのウクライナ侵略から二ヶ月が経つ。

 私が知っていることは、ニュース映像やネットの情報で得たものに限定されるが、その一部になんらかの虚構がある可能性を排除できないにしても、その情報源が多様な媒体からもたらされていることを考慮すると、総合的に判断して、それらの情報がこの侵略の〈現実〉を伝えていることは間違いないだろう。

 国際政治にも国際法にも全くの素人である私がこのブログに書くことがあるとしたら、日本という場でのこの現実をめぐる様々の言説、そこで使われる言葉の問題、日本の言論の在り方についてである。言葉や言説についての教育や研究に携わる者として、今日はこの点について書いてみたい。

 この間、特に違和感を持ったのは、〈戦争〉という言葉である。戦争の定義は、通常、〈武力による国家間の闘争〉である(実際にはいろいろな定義があるようだが)。国際法上は、戦争は〈宣戦布告〉により始まり、当事国間に〈戦時国際法〉が適用される。当事国のロシアは戦争ではなく〈特別軍事作戦〉と命名している。それゆえに、と言うべきだろうか、宣戦布告はいまだない。

 日本の言論での〈戦争〉という括り方に違和感を持ち、この問題について考えあぐねていたが、危機管理の専門家、福田充氏(日本大学危機管理学部教授)のツイッターの発言によって、考え方を整理することができた。

福田充 Mitsuru Fukuda@fukuda326 Apr 20
「戦争」というメディア的概念の誤用によって、侵略する側と、侵略される側という圧倒的な関係性の非対称性、権力的な非対称性、コミュニケーションの非対称性が無視されて全てごちゃごちゃに語られる日本の弊害の拡散に、一部の研究者や記者、思想家などインフルエンサーも加担しています。 

 副田氏は、戦争というメディア的概念を〈誤用〉(この誤用という表現は、恣意的な使用あるいは党派的な適用という意味だろうが、まだ充分には理解できていない)することによって、侵略する側と、侵略される側という圧倒的な関係性の非対称性を無視している日本の一部の言論を批判している。確かに、この非対称性を無視どころか否定さえしている論者もいる。

 現実を直視しないで、自分の固定観念だけで考えると、現実の関係性そのものを捉え損ねる。そうするとさらに、現実の関係性よりも、自分自身の理想や観念、主義やイデオロギーによって見出した関係性の方へと思考が横滑りしていく。副田氏の観点に拠るのであれば、関係の圧倒的な非対称性がある種の対称性へと整理されていく。〈侵略する側と侵略される側〉という非対称的な関係が、〈戦争する側と戦争する側〉少なくとも、〈戦争をする側と応戦した側〉という対称的な関係へと置き換えられる。歪められると言ってもよい。

 国際法の専門家、酒井啓亘氏(京都大学大学院法学研究科教授)は3月20日の時点で、次のようにツイッターで述べている。

酒井啓亘(Hironobu Sakai)@UtBeneVivas Mar 20
備忘録として。周知のとおり、国際法の観点からすると、ロシアが主張する個別的自衛権による武力行使の正当化が困難なのは、ウクライナによるロシアへの先行武力攻撃の不存在から明らか。国連憲章51条は、「武力攻撃が発生した場合」に自衛権行使を国連加盟国に認めているから。

 要するに、「先行武力攻撃の不存在」は明白であり、主権国家による主権国家に対する武力の一方的な行使、侵略である。国連憲章も正当な「自衛権行使」を認めている。侵略・攻撃とそれに対する自衛・反撃は、当然、非対称的なものである。この場合、非対称的な関係と対称的な関係との間には絶対的な差異がある。

 しかし、対称的な関係を見出す論者は〈戦争〉として捉えがちである。そうなると、戦争の〈当事国〉同士という対称的な関係によって、いわゆる「どっちもどっち論」によって、「喧嘩両成敗」的な論を提示しやすくなる。当事国に対する中立論や、各々の原因を想定した両論併記論にも陥りやすい。さらに、その背景としての「代理戦争」論や根拠のない陰謀論まで持ち出してくる。このような論によって、当事国を相対化する視線が強くなる。この思考の流れは、その論者をメタレベル的な視点に立たせる。

 このメタレベル的な視点は、結果として、その論者にある種の思考停止をもたらす。そのような傾向を持つ専門家、研究者が一定数いる。意外にも、と言いたいところだが、ある面ではこれは当然なのかもしれない。ある局面で思考停止する方が、自分の主張や学説の一貫性を保つことができるからだ。メタレベルからの俯瞰する視点によって、当事国各々の原因や背景という方向に思考が向かう。当事国が対称化され、結果として、相対化されてしまう。「どっちもどっち論」の循環による思考停止。この現状についての強い違和感がある。

 全ての出来事は、その原因をかなりの次元まで遡ることができる。様々な原因、理由、背景を指摘できるだろう。しかし、それはあくまでも〈論〉にすぎない。あらゆる論は、その論じる主体の姿勢をあからさまにする。無意識の在り方を露呈させる。


 2022年、日本の言説の世界に起こっているのはこのような事態である。専門家や研究者は大学の教員である場合も多いので、この現状には特に関心がある。

 論は論であり、現実は現実である。その現実を、前回紹介したピーター・ゲイブリエルの言葉を再度引用するなら、世界の目が、今、見つめている。そして、この世界の現実に対して、思考停止に陥ることなく、今、この場で、思考を深めていくこと。その思考が現実に対して少しでも何らかの作用を果たすこと。働きかけること。私がこの二ヶ月間で考えて特に伝えたいことをこのブログに書かせていただいた。


2017年8月30日水曜日

最後の完成作『ルーティーン』―ストックホルム5[志村正彦LN162]

 8月9日に帰国してから三週間が経つ。五回に分けてストックホルムへの旅を記してきた。記憶が紛れていかないうちにたどりたかった。

 前回、ストックホルムを「水の都」「島の都」と形容した。俯瞰的な視点でとらえるとそうなるが、普通に街の中にいると「島」にいるという感じはほとんどない。島と島とを架橋する橋も街路がそのまま延長しているように進んでいける。


 8月6日、二日目の朝は、ホテルのあるスルッセンからガムラスタンを経てストックホルムの中心部にあるセルゲル広場へ歩いていった。通りの名でいうと、「Katarinavagen」「Vasterlanggatan」「Riksgatan」を経て「Drottninggatan」に入っていく。「Vasterlanggatan」は旧市街ガムラスタンで最も人通りの多い通りであり、「Drottninggatan」はストックホルムの中心地の歴史ある通りで、この終点近くにストリンドベリ記念館はある。前日、この二つの有名な通りがつながっていると聞いた。地図を見ると確かにつながっている。時間の許す限り、この街路を歩いていくことにした。

 日曜日の朝だった。「Vasterlanggatan」ヴエステル・ローング通りにはほとんど人がいない。静けさに包まれている。商店もまだ開いていなかったが、ウインド・ディスプレーにはいろいろな土産物が飾られていた。お土産の目星をつけながら歩くのは楽しい。昼間この近くのレストランに戻る予定なのでその時に買うことにした。この界隈には十三世紀につくられた路地もある。



 国会議事堂を越えて中心部に入る。しばらくするとセルゲル広場についた。ここは『CHRONICLE』付属DVDの映像にも映されている。フジファブリックの四人のメンバーの人気投票「北欧選手権」をした場所の一つだ。
 このあたりで前方を見ると、かなり向こう側に屋上が青く光る建物が見えた。ストリンドベリの旧居・記念館だった。十分ほど歩けばそこまでたどりつけるだろうが、そろそろホテルに戻らねばならない時間だった。ここでひきかえした。

 ストックホルムは、伝統を感じさせる路地や新しい整然とした街路が混然と溶け合っている。戦禍に合わなかったことやビルの高さ制限を設けてきた都市計画がこのような街並をつくりあげたのだろう。

 志村正彦は、『CHRONICLE』DVDの映像で次のように語っている。

日本にはない大地っていうか、道とか、店とか、建物、空気、そういうものを多分なんか感じたんでしょうね。まさにこう映画で見たような風景がそのままあるんで。すごい不思議な国に来たような感じですね。やはり来た意味ありますね。日本のがスタジオの設備とか人の録音のテクニックとかぜんぜんあるんですけど。そういうものを取っ払ってもなにか大きく感じるものがこの街とか人にはあるんじゃないですかね。

 僕たち日本人にとっては確かに、ヨーロッパの街は「映画で見たような風景」であろう。映画の中に迷い込むような不思議さがあり、新しい感覚が刺激される。志村も何かをつかみとり、『Stockholm』という曲がこの地で誕生した。

 二日目は、ツアーのバスでノーベル賞の晩餐会が開かれる市庁舎、ヴァーサ号博物館、セーデルマルム島の丘などを巡り、観光船でユールゴーデン島を周遊した。
 夕方、タリンクシリヤラインのクルーズ船の乗場についた。夜7時半ストックホルムを出発、翌朝7時にフィンランドのトゥルクに着く。世界で最も美しいといわれるストックホルムの群島の間をぬうように進む航路だ。クルーズ船に乗るのは初めてだ。揺れもほとんどなく、部屋の丸い窓から群島を眺めた。2万4千もの島があるそうだが、陸のように見える大きな島、島と言えるのか戸惑うほどの小さな島、予想をはるかに超える数の島々が続いていた。

 フジファブリックのストックホルムでの録音というとふつうは『CHRONICLE』が思い浮かぶだろうが、僕にとっては『ルーティーン』という曲がまず第一に挙げられる。この曲は11枚目のシングル『Sugar!!』のカップリングとして2009年4月8日にリリースされた。
 志村正彦・フジファブリックの曲を一曲だけ選ぶとするならかなり迷ってしまう。『陽炎』『セレナーデ』『若者のすべて』『赤黄色の金木犀』、いろいろと浮かんできてとても絞り切れない。ある観点からするとこの作品になる、そんな選び方しかないが、そのような個別の観点を超えて一つだけ選択しなけれなばならないとするなら、今は『ルーティーン』を選ぶだろう。それほどこの歌は僕にとって唯一無二の存在だ。

 この曲は志村正彦が生前に録音して自ら完成させた音源としては最後の作品であろう。5thアルバム『MUSIC』収録曲は志村本人によって完成させたものではない。もちろん貴重な音源であることは間違いなく、制作したメンバー・スタッフの苦労には敬意を表したいが。
 『CHRONICLE』DVDの映像で、志村が「最後にちょっとセンチメンタルな曲を一発録りでもう、多分歌も一緒にやるか、まあでもマイクの都合でできないかな、もうみんなで一斉にやって「終了」って感じにしたくて。」と述べた上で録音したのがこの作品だ。「 Recording『ルーティーン』2009/2/6」というテロップがある。DVDには、その際の「ストックホルム”喜怒哀楽”映像日記::ルーティーン (レコーディングセッション at Monogram Recordings)」というフル映像もある。志村と山内総一郎のアコースティックギター、金澤ダイスケのアコーディオンによる演奏時の映像に志村のボーカル収録時の映像をミックスしたものだ。事実として、ストックホルムで最後に録音された『ルーティーン』が完成作としての最後の作品だと考えられる。そのような経緯もあり、この歌はかけがえのないものとなった。ストックホルムを訪れるのをここ数年ずっと願ってきた。

 船はゆっくりと進む。ゆっくりと日も暮れていく。群島の影が濃くなる。満月に近い月が水平線より少し上に出てきた。雲間に映えるおぼろげな月。バルト海に反射した月の光がどこまでも船を追いかけていく。波間にかすかにゆれる月光がたとえようもなく美しい。映画のラストシーンのような風景。出来過ぎの感じもしたが、素直にこの風景との遭遇を感謝した。志村の歌には月がしばしば現れる。そんなことも思いだしていた。




 ヘッドフォンを外してスマートフォンのスピーカーから『ルーティーン』を再生した。少しだけボリュームを上げて室内に響かせた。街でも何度か聴いたのだが、ストックホルム、スウェーデンにさよならをする時、もう一度聴きたかった。
 感傷的なことはあまりしたくないのだが、ここでは少し(大いにというべきだろうか)感傷に浸りたかった。

 志村はDVDの最後近くでこう述べている。

ほんとうにちょくちょく出てきたイタリアとか、フランスとか、そういう街に行ってその土地の音楽とかどんどん吸収したいっていう、そういう貪欲なものが芽生え始めてますね。だから癖になりそうですね、こういう旅が。

 彼はフジファブリックの音楽を世界へ広げていく手ごたえや手がかりを掴みつつあったはずだ。世界の様々な街への旅を続けることができたら、どんなに素晴らしい作品を創り出していただろうか。もともと彼の音楽は、彼の言葉は、「日本」という狭い枠組を超えたある種の普遍性を志向していた。

 『ルーティーン』が聴こえてくる。
 「明日も 明後日も 明々後日も ずっとね」という声。繰り返される日々の「ルーティーン」。日々の「生活」への祈り。それと共に持続していく「音楽」への志を伝えたかった。自らに言い聞かせたかった。この歌詞の中の「君」は音楽そのものかもしれない。そんな風に聴こえてくる。


  日が沈み 朝が来て
  毎日が過ぎてゆく

  それはあっという間に
  一日がまた終わるよ

  折れちゃいそうな心だけど
  君からもらった心がある

  さみしいよ そんな事
  誰にでも 言えないよ

  見えない何かに
  押しつぶされそうになる

  折れちゃいそうな心だけど
  君からもらった心がある

  日が沈み 朝が来て
  昨日もね 明日も 明後日も 明々後日も ずっとね
   
      ( 『ルーティーン』 詞・曲:志村正彦 )

2017年8月26日土曜日

水の都、島の都―ストックホルム4[志村正彦LN161]

 わずか一泊二日間だがストックホルムに滞在できる。志村正彦・フジファブリックのファンであれば、彼らの足跡を訪ねてみたいと思うだろう。

 フジファブリックの4thアルバム『CHRONICLE』を収録したスタジオはMonogram Recordings(モノグラムレコーディング)のものだが、webを見てみると、現在は制作会社としては活動していないようだ。スタジオやその機材も売却してしまったようだ。スタジオ以外ではフジファブリックのメンバー・スタッフの滞在したホテルくらいしか足跡をたどれる場所はない。どこにあるのだろうか。手がかりを探してみた。

 『CHRONICLE』にはDVDが付いていて、『ストックホルム”喜怒哀楽”映像日記』と題する二つのドキュメンタリーが収録されている。「25日間に渡る初の海外レコーディングドキュメント」の中に、滞在していたホテル入口の看板が映るシーンがある。その名を手がかりにグーグルマップで検索すると、ここではないかというホテルが見つかった。

 ストリンドベリ記念館を訪れた後にそのホテルを訪ねていったのだが、記憶の中にあるドキュメンタリー映像の風景とどこか違う。それでも一応ホテルや界隈の写真を撮ってきた。その時の様子をこのブログに書いているときに、再度、撮影した写真とドキュメンタリーの映像を比べてみた。やはり違う。もう一度該当ホテルの名をネットで検索すると、今は閉鎖されてしまったあるホテルの存在に気づいた。映像とグーグルマップのストリートビューの写真を確認すると、このホテルが彼らが滞在していたところらしい。すでに閉鎖されていて、別の名のホテルになっているようだ。そのために検索の上位に出てこなかった。もう一つの似た名前のホテルの方だと思い込んでしまったのだ。自分のうかつさにへこんだ。

 しまったいう落胆の後、もう一度マップを見た。周辺のエリアを拡大してみた。すると、500メートルほど先に僕たちが宿泊していたホテルがあった。偶然だった。わざわざ出かけなくても、ホテル近くの大通りを南西の方へ歩いていけばよかったのだった。十分もかからなっただろう。帰国してからこのことに気づいた。何たることか。でも、近くに泊まっていた偶然に感謝すべきかもしれないと思い直した。この界隈の雰囲気を知ることはできたのだからと。

 このエリアはガムラ・スタンの南に広がるセーデルマルム島(Södermalm)の中心地域にある。僕たちのホテルはこの地域の入口にあたるスルッセンにあった。ドロットニングホルム宮殿からホテルへ向かう途中、バスは大通りを進んでいった。あの日は「Stockholm Pride」というLGBTのパレードがあり、レインボーフラッグを持つ人々がたくさん歩いていた。この大通りをビデオで撮っていたことを思い出した。再生すると一瞬ではあるが、フジファブリックが宿泊していたホテルも映っていた。翌日もセーデルマルム島で有名な展望スポットのある丘への行き帰りにこの界隈を通っていた。

 このセーデルマルム島の地域はアート・ギャラリーや洒落たショップやカフェが並び、近年人気が出てきたエリアのようだ。ガムラスタンやストックホルム中心街の眺めが素晴らしい丘も有名だ。その丘からは、観光船が行き交い、連絡船やクルーズ船が停泊する「水の都」としての景色も堪能できる。ドキュメンタリー映像を見返すとスルッセンにある展望台から撮影した風景をはじめこの地域で撮影された映像がいくつもあった。
 もっとも、志村正彦はあるインタビューで「ホテルとスタジオの行き来以外ではあんまり出歩いてないんです」と述べているので、彼があまりストックホルムを歩いていないことは確かなのだが。

 今回の記事の最後に、ストックホルムで撮影した写真の中からセーデルマルム島に関わりのあるをアルバム風に添付してみたい。


 一日目の夜十時近くにスルッセンにあるホテル近くからガムラスタンを眺めたもの。白夜ではあるが、そろそろ日が暮れていく時間だった。スルッセンはセーデルマルム島の入り口にある。




  二日目の昼、グランドホテル近くの観光船乗り場に行った。一週間続く「Stockholm Pride」イベントのレインボーフラッグが公共施設やホテルをはじめ商店やレストラン、街路や路地の至る所にあった。僕らが載った観光船にも飾られていた。街全体が「自由」と「尊厳」の一週間を祝福していた。




 僕たちが乗った観光船。向こう側の景色は右側がガラムスタン、中央がセーデルマルム島。この船はユールゴーデン島(Djurgården)を1時間ほどで周遊してきた。




 船が出発してしばらくすると、向こう側にセーデルマルム島がよく見えた。「VIKING LINE」のクルーズ船が停泊していた。中央やや右に見える高い塔はカタリーナ教会の塔。この島の中央部は小高い丘になっている。



 航海中の「VIKING LINE」の 「Cinderella」(シンデレラ)号。 ストックホルムからエストニアのタリン、フィンランド領の小さな島マリエハムン間などのバルト海を運航するそうだ。



 観光船が到着する直前に見えた橋。ストックホルムの中心だけでも十四の島があり、たくさんの橋が掛けられている。



 ストックホルムは「水の都」、北欧のベネチアと言われているそうだが、むしろ「島の都」と呼んだ方がいいかもしれない。
 「島」にはそれぞれの歴史や個性があり、それが集まってストックホルムという大都市を形成している。

 志村正彦は、『CHRONICLE』に関するインタビュー(文:久保田泰平)で次のように述べていた。

 日本で録音するのも効率的でいいんですけど、海外のほうがより音楽に集中できるし、ストックホルムっていう街は治安もよくてリラックスできたし、向こうの空気を吸って、向こうの人たちと出会って、音楽を聴いて、それに触発されて「ストックホルム」っていう曲が出来上がったりとか、そういう化学反応みたいなのも起きたから、海外でやってよかったですね。

 滞在していたのは2009年1月から2月にかけての真冬の季節だった。夏とは全く異なる風景の感触や色合いだっただろう。


  静かな街角
  辺りは真っ白

  雪が積もる 街で今日も
  君の事を想う
             (『Stockholm』詞曲:志村正彦)

 このように歌われる『Stockholm』を聴くと、彼にとってこの街は「雪の街」「氷の街」であったようだ。『CHRONICLE』付属DVDの映像にも、雪でおおわれた街路やスルッセン西側のメーラレン湖の結氷が映されている。
 短い夏と厳しい冬の街、夏の湖の水と冬の雪景色ということになると、わずかかもしれないが、ストックホルムの季節の感覚は志村の故郷富士吉田を想起させる。


2017年8月22日火曜日

ストリンドベリ(Strindberg)、公園の銅像、芥川龍之介への影響-ストックホルム3

 ゆるやかな坂を上がり、Drottninggatan 85番地にある「青い塔」の一室、ストリンドベリの旧居・記念館にたどりついた。もう午後7時半を過ぎていた。当然閉館している。でも時間には関係なかった。この記念館は改装のために半年ほど閉館中ということを知った上で訪れたのだった。

 四ヶ月ほど前、ストリンドベリ記念館の開館日や時間を確認し、訪問時間を確保できるツアーを探して予約したのだが、出発の一月ほど前にサイトを見ると、7月から来年1月までリノベーション工事のために休館するという知らせがあった。予想外の展開にどうしようかと思案したが、すでに準備を進めていた。勤め人であるゆえ休暇期間も調整していた。結局、そのまま旅行することにした。近くの公園には銅像もあり、ゆかりの通りを歩くこともできる。そう考え直した。

 ストリンドベリ記念館は晩年四年間の住居を使ったものだ。youtubeには内部を撮影した映像がいくつもある。当時の彼の書斎や寝室がそのまま残されている。個人記念館としては王道を行く在り方だ。でも映像を見る限り、展示方法は現代の記念館としては古びている感じもする。だから改装されることになったのだろう。
 入口までたどり着いたときに、やはり、とても残念な気持ちに襲われた。仕方がない。入口の写真を撮りこの場を去った。



 「青い塔」の脇の道を少しだけ上っていくと「Tegnérlunden公園」がある。ここに銅像があるはずだ。入るとすぐにかなり高さのある銅像が見つかった。想像していたものもずっと大きくて立派だ。高さは5メートル近い。すぐ下から見上げても姿が分からない。離れてからもう一度見るとようやく全体像がつかめた。ストリンドベリで間違いない。裸身の像で、顔はうつむきながら何かを凝視している。台座の周りには彼の作品を形象化した図柄が刻まれている。ストリンドベリの精神の荒々しさを表現しているようで圧倒される。



 落ち着きのある美しい公園だった。ベンチに腰掛けて三十分ほど過ごした。散歩する人は見かけたが、この銅像を見に来る人はいなかった。(グーグルマップにもこの像については記されていない。観光客が訪れることもないのだろう)
  周りは古い建物に囲まれているのだが、ここには静かな時間が流れている。芥川龍之介とストリンドベリのことをぼんやりと考えた。

 僕は芥川龍之介の晩年の作品について持続的な関心を持ち、論文も少し書いてきた。
 1927年、芥川が亡くなる数か月前に書いた遺稿『歯車』は、その題名が象徴的に示すように、偶発的な出来事やそれらの「暗号」のような連鎖に対する不安、関係妄想的な気分、様々な文学作品(自作や海外の作品を含めて)への言及などの多様なモチーフが「歯車」のように絡み合い作用しあい、「意味」を生みだしていく。その構造を分析するのが修士論文のテーマだった。その際、ストリンドベリの『地獄』(Inferno, 1897年)が芥川『歯車』に与えた影響についても、若干ではあるが考察した。ストリンドベリと芥川は、作家の生活と作品の創造という関係性において共通性がある。

 ちょうど百年前になる。1917年1月12日、当時二四歳の芥川は『地獄』の英訳本に「この本をよんでから妙にSuper Stitiousになって弱った。こんな妙なその癖へんに真剣な感銘をうけた本は外にない」という書き込みをしている。(この蔵書は日本近代文学館に収蔵されている)その後、芥川はストリンドベリをかなり読み込んだ。『歯車』はストリンドベリ『地獄』へのオマージュのような小説でもある。

 ストリンドベリは当時のスウェーデンを代表する作家としてノーベル文学賞の声も上がっていたが、この時代は「立派な人物像」が大きな判断材料であり、この賞に値するような生き方が求められていたそうだ。彼は「多数を敵に回すような言動」があったために受賞できなかったと言われている。

 ストリンドベリの銅像がある公園でしばらく過ごした後、「Drottninggatan」(ドロツトニング通り)に戻った。中央駅の方向を写真で撮った。ゆるやかな下り坂の先にはストックホルム中央駅近くのセルゲル広場がある。さらに向こう側には旧市街ガムラスタンがある。ドイツ教会だろうか。彼方に塔が見えた。


 「Drottninggatan」は「女王通り」という意味で、17世紀につくられた由緒ある街路だ。1912年1月、ストリンドベリが亡くなる四か月ほど前に、かなりの数の青年たちが彼に敬意を表すために炬火行列をした。病身の作家は「青い塔」のバルコニーからそれにこたえたという。
 今年の4月この通りで、トラックの暴走による痛ましいテロ事件が起きている。ストリンドベリが活躍した時代から百年後のこの世界は複雑に引き裂かれている。ジャーナリスト出身であり、社会、政治、宗教、文学、科学について鋭い批評をたくさん書いた彼なら、現在の世界に対してどのように考えただろうか。

2017年8月19日土曜日

ストリンドベリ(Strindberg)、地下鉄駅の壁面、青い塔-ストックホルム2

 午後6時半頃、スルッセンにあるホテルに到着した。
 スルッセンとは「水門」のこと。水位の異なるバルト海とメーラレン湖を繋ぐ水門がここにある。ホテルの窓からガムラスタンを眺望できた。リッダーホルム教会、大聖堂、ドイツ教会。第二次世界大戦に参戦しなかったため空襲がなく、13世紀の街並みが残っている。

 夏は白夜の季節で午後十時頃まで明るい。まだまだ外出する時間がある。白夜をありがたく思う。
 午後7時、ストリンドベリゆかりの場所に向けて出発する。スルッセン駅から地下鉄に乗り、四つ目のRådmansgatan駅(ロドマンズガータン)で降りる。十分もかからなかった。後方寄りの出口に進むと、通路の壁面のタイルにストリンドベリの写真が大きくプリントされている。夕焼けのような赤の地色が目立つ。関連のパネルも飾られていた。現在のスウェーデンでは古典的な作家に入り、現代の文学としてはあまり読まれていないのだろうが、知名度は高いのだろう。

 

 彼の存在は今の日本ではあまり知られていないので、略歴を紹介してみたい。
 ストリンドベリ(Johan August Strindberg)はスウェーデンの劇作家、小説家。1849年1月22日、ストックホルムで生まれる。ウプサラ大学で学ぶが中退、職を転々とする。1874年、王立図書館司書となる。近衛士官の妻シリ・フォン・エッセンと恋に落ち、77年、結婚。 79年、自然主義小説『赤い部屋』)を発表、文壇の注目を浴びる。『父』 (1887) ,『令嬢ジュリー』 (88) 等の戯曲が高く評価。91年にシリと離婚。この経緯は小説『痴人の告白』(1888)に詳しい。

 92から96年にかけて、ベルリンやパリに滞在。93年、オーストリアの記者、フリーダ・ウールと結婚、97年に離婚。この数年間はいわゆる「地獄時代」で、迫害妄想的な精神の異常をモチーフに『地獄』(1897)、『伝説』(1898)等の自伝的小説を創作する。やがてキリスト教に救いを見出し、象徴劇『ダマスカスへ』(1~2部 1898,3部 1904) に回心の過程を表し、後期の創作活動に入る。1901年、ノルウェーの女優ハリエット・ボッセと結婚、04年に離婚。07年、小規模な「親和劇場」を開き、小品の室内劇『稲妻』等を発表。1912年5月14日、胃癌で死去。享年63歳。葬儀には王室、政府、国会、大学の代表者が参列、数千人の市民が見送った。

 壁面には妻たちの写真がプリントされたものがあった。


 彼が28歳の時に27歳のシリと、44歳で21歳のフリーダと、52歳で23歳のハリエットと三度結婚する。そして晩年には若い女優、ファンニー・ファルクナーに求婚した(結婚には至らなかったが)。パネルの左上下、右上下の順で、シリ、フリーダ、ハリエット。一番右下の女性はファンニーだと思われる。すべて若く美しい女性であり、すべて短い結婚生活で終わっている。
 ストリンドベリには女性嫌悪・憎悪(その裏側には女性崇拝があるのだが)が凄まじい作品が多い。時には迫害妄想や被害妄想に至る精神の軌跡が描かれている。

 Raadmansgatan駅の階段を上がると、Sveavägenという大通りに出る。この日は「Stockholm Pride」という北欧最大のLGBTのパレードがあった。その関連イベントかは分からなかったが、大勢の人が詰め掛けていた。道路にオープンカーが行きかい、街路にはダンスミュージックが大音量で流されていた。「Pride」、尊厳や自由を重んじる社会なのだろう。

 喧噪の大通りを通り抜け、ゆるやかな坂を上っていく。目的地の Drottninggatan(ドロツトニング通り)85番地を目指した。五分も経たないうちに、角の頂上が青く光る建物が見えてきた。「青い塔」( Blå tornet )、ストリンドベリの旧居だ。
   

 1908年、59歳の時に、Drottninggatanという由緒ある通りの上り坂にあるこの美しい建物内の部屋に移り住んだ。ここが彼の最後の住居となった。1912年に亡くなるまで彼はこの家に閉じこもりがちだったという。孤独に向き合いながら晩年の作品を生み出していった。


2017年8月17日木曜日

Bob Dylanの似顔絵、Evert Taubeの銅像―ストックホルム 1

  8月上旬、妻と二人で北欧に行ってきた。ノルウェー、スウェーデン、フィンランドの三か国を回るツアーだが、一番の目的地はスウェーデンの首都ストックホルムだった。

  ストックホルムというとまず思い浮かぶのは、僕にとって作家のストリンドベリ(Johan August Strindberg)だ。芥川龍之介が影響を深く受けた作家である。『令嬢ジュリー』などの演劇は今でも上演されることがあるが、小説家としてはすでに忘れられた存在かもしれない。大正時代にはたくさん翻訳されていて、大正から昭和の初期にかけて文学者によく読まれていた。この街にはストリンドベリの記念館やゆかりの場所があり、以前から訪れてみたかった。

 そして、志村正彦・フジファブリックのファンとしては、4thアルバム『CHRONICLE』をレコーディングした街として記憶されている。この街に25日間滞在して全15曲が収録された。最後の曲『Stockholm』は現地で作詞作曲されたそうだ。さらに、かけがえのない名曲『ルーティーン』もストックホルムで録音されている。

 8月5日の昼前、空路でノルウェーのベルゲンからストックホルムへ。市街へ向かう途中で王家の住居ドロットニングホルム宮殿を見学した。宮殿前の湖には遊覧船だろうか、停泊中だった。「水の都」らしい風景。水が涼しげだ。緑も多い。気候も暑くはなく、日陰に入ると涼しいというか肌寒いくらい。北欧の人は短い夏を慈しむ。



 宮殿を離れ、旧市街のガムラスタンへ。13世紀に作られたという街路をしばらく散策。ところどころ路地裏の風景が広がる。ストックホルムというとやはりノーベル賞が浮かぶ人が多いだろう。中央の広場に面したノーベル博物館に入ることにした。受賞者の展示ディスプレー装置が並んでいる。山梨出身のノーベル生理学・医学賞受賞者、大村智先生の画面を選ぶ。「Nirasaki,Yamanashi」という字を認めると、山梨県人として単純にうれしくなった。



  ボブ・ディランを選択すると、肖像が写真ではなく似顔絵だ。鋭さに欠けた間延びしたような表情。かなり微妙だ。しかも似顔絵であるゆえに変に自己主張しているようで場の雰囲気には合わない。本人の意志なのか。ロック的といえばロック的ともいるが。売店には評伝も平積みされている。ディランがノーベル博物館に(いささかおさまりが悪い形で)「収蔵」されたことは確かだ。




 博物館を出て近くのレストランで夕食をとる。前の広場の向こう側に、眼鏡をかけた銅像があった。地面のプレートには「Evert Taube」と刻まれている。抱えているのは楽譜のようで音楽家かもしれない。何となく感じるものがあって写真を撮る。



 帰国してから調べると、Evert Taube(エヴェルト・タウベ、1890-1976)という音楽家、詩人だった。20世紀の「troubadour(吟遊詩人)」の伝統の体現者らしい。若い頃、各地を航海し、アルゼンチンでラテンアメリカの音楽に興味を持つ。youtubeにたくさんある音源を聴くと、確かに、タンゴ調の明るいリズムに乗せて歯切れよく歌う。スウェーデンのリュートという不思議な形の楽器で弾き語る写真や映像もあった。歌詞は全く分からないが、「R」の巻き舌の音がここちよい。メロディもリズムもシンプルだが、軽快でどこか懐かしく響く。反ファシスト、反戦の歌もあり、スウェーデンで最も尊敬されている音楽家の一人だそうだ。新しい50クローナ紙幣の肖像にもなっている。

 スウェーデンには吟遊詩人やシンガーソングライターを高く評価する伝統があるようだ。ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したのも、このようなスウェーデンの伝統の力があったのかもしれない。

2016年7月6日水曜日

ペソアの偶景[ペソア 10]

 カフェ「A Brasileira」の角を曲がり、ゆるやかな坂を上っていく。ロシオ駅を目指して右折すると下り坂が始まる。その途中で偶々、妻がフェルナンド・ペソアのシルエットが窓に描かれた建物を見つけた。垂れ幕を見ると、彼が借りていた部屋のようだ。(調べると、1908年から数年の間住んでいたらしい)
 思いがけない場所にペソアゆかりの建物がある。


 この建物は小さな広場に面している。大きな樹の木陰が広がり、オープンカフェもあり、人々が涼を求めていた。(ここが「カルモ広場」ということは後で知った。近くにカルモ修道院と教会もある)


 『不安の書』111章にはこう書かれてある。1932年5月31日の日付けがある断章だ。この広場のことではないのだろうが、街中の小さな広場に対する話者ソアレスの眼差しが伝わってくる。

 わたしが春の訪れを感じるのは、広々とした野や大きな庭にいるときではない。都市の小さな広場の貧弱な数少ない樹々にそれを感じる。そこでは緑が贈り物のように際立ち、馴染んだ悲しみのように陽気だ。
 往来の少ない街路に挟まれ、それよりも往来の少ない、そのような寂しい広場をこよなく愛する。遠くの喧騒のなかにじっと佇む、無用の空き地なのだ。都市のなかの村という趣だ。

 「無用の空き地」への情愛、「都市のなかの村」の情趣。その世界に浸り込みながら、話者はこう考える。

 すべては無用で、わたしはその無用さに打たれる。わたしの生きたことは、まるでぼんやりと耳にしたことのように忘れてしまった。わたしがこれから変わってゆくことはすべて、すでに体験して忘れてしまったことのように何も呼び起こさないのだ。
 淡い悲しみを感じさせる日暮れがわたしのまわりをぼんやりと漂う。何もかも寒くなるが、空気が冷えたからではなく、わたしが狭い街路に入り、広場が終わったからだ。


 これまで 「わたしの生きたこと」を忘れ、「これから変わってゆくこと」も「すでに体験して忘れてしまったこと」のように忘れていく。「わたし」の生は、過去、現在、未来と続いていくが、過ぎ去ればつねに忘却していく。さらに言うのなら、すでに忘却していくことの反復にすぎない。時はつねにすでに「何も呼び起こさない」。
 ソアレス=ペソアの表現をたどりきれているか心もとないが、この特異な思考は記憶されるべきだろう。その思考が「淡い悲しみを感じさせる日暮れ」の風景とともにもたらされたことも。

 再び歩き始める。広場に面した店の一つが楽器店で、ポルトガルのギターが飾られていた。「ギターラ」と呼ばれる12弦のギターはファドの音色には欠かせない。

 

 広場を後にして、ロシオ駅の方に下っていく。急勾配の坂で歩きにくい。途中にあった小さな書店でもペソアの写真が貼られていた。街を歩き、ふっとそれ風のものを見つけると、ペソアだったということが多い。


 ロシオ駅に着くと午後7時近くになっていた。もう一度コメルシオ広場あたりまで戻り、ペソアゆかりのレストランかファドを聴ける店を訪れたかったのだが、かなり疲れてしまった。翌日は早朝出発で帰国便に乗らねばならない。結局、その計画はあきらめた。
 駅の入り口近くは見晴らしのいい場所だ。ロシオ広場の周辺の街を見渡せる。向こう側にはサン・ジョルジェ城がそびえる。
 夜が近づいているのに、空はまだ透き通るように青く、街は美しい。


 フェルナンド・ペソアゆかりの場所を巡る小さな旅の一日だった。
 最初は、ツアーバスでホテルから西の郊外ベレン地区を訪れ、アルファマを経てロシオ広場へ。二度目は、ロシオの隣のフィゲイラ広場からタクシーに乗り、市街地の西のはずれにあるオウリケ地区へ。路面電車28番線を使いフィゲイラ広場近くに戻った。最後は、フィゲイラ広場からバイシャ地区、シアード地区を歩いて回り、ロシオ駅に帰ってきた。中心街から見て、その西側の方面を三回ほど同心円状に巡ったことになる。遠い距離から近い距離へと、色々な交通機関や徒歩によって、リスボン巡りをした。私たちに与えられた時間は一日だけだったが、愉しい充実した時を過ごせた。

 ジェロニモス修道院、ペソアの家・博物館、カフェ「A Brasileira」、カルモ広場近くの部屋。使用したリスボンの交通カードにも彼のイラストが描かれていた。街のいたるところに彼の痕跡があり、異名のような分身が存在していた。フェルナンド・ペソアの「偶景」との遭遇があった。

 ペソアはリスボンを愛していた。今、リスボンはペソアを愛している。

2016年7月3日日曜日

金箔師通りの「砦」[ペソア 9]

 フィゲイラ広場からコメルシオ広場あたりまでの地区は「バイシャ」と呼ばれる。整然とした通りに商店やカフェが並ぶ。下町の綺麗な商業街といった風情だ。
 ペソアがこの界隈を歩く写真が残されている。
 
Wikipedia より

 フィゲイラ広場を後にして、プラタ通りをテージョ川方向に歩いていく。プラタ通りのひとつ東側に金箔師通り(Rua dos Douradores)がある。ポルトガルの銘品「金箔飾り」ゆかりの名だろう。『不安の書』の話者「ベルナルド・ソアレス」が務めている繊維問屋はこの金箔師通りにあるという設定だ。
 17章でソアレスは次のように語る。彼は帳簿係の補佐だった。

 今日、わたしの生活の精神的な本質の大部分を構成している、目的も威厳もない夢想に耽っていて、自分が金箔師通りから、社長のヴァスケスから、主任会計係のモレイラから、従業員全員から、使い走りの若者から、給仕から、猫から永遠に自由になったと想像した。 

 会社勤めからの自由の夢想を書いている。「猫」からも永遠に自由になる想像とはどういうものだろうか。読んでいて微笑んでしまうのだが。
 これに続く部分では、社長や同僚に信頼をよせていることも述べている。孤高の人ソアレスはこの仕事場を自分の「砦」のひとつとして考えていたようだ。

 わたしは、ほかの人たちが自分の家庭へ帰るように、金箔師通りの広い事務所、我が家ではない場所へ帰る。生きることから守ってくれる砦でもあるかのように自分の机に近づく。他人の勘定を記入しているわたしの帳簿や、わたしの使っている古いインクスタンドや、わたしよりも少々奥で送り状を書いているセルシオの曲がった背中を見ると、わたしは優しい気分、目頭が熱くなるほど優しい気分になる。こういうものに愛情を感じるのは、おそらく、わたしには愛すべきものがほかに何もないからであろうし、あるいはまた、おそらく、人が愛する価値のあるものは何もないからなのであろう。

 「帳簿」「インクスタンド」そして「セルシオ」への眼差しには、ソアレスそして作者ペソアの感情の「地」を感じる。「愛すべきものがほかに何もない」と「愛する価値のあるものは何もない」と語っているが、その理屈を額面通りには受けとれない。「優しい気分、目頭が熱くなるほど優しい気分」という「気分」の方がペソアらしい。自己憐憫が投影されたものではなく、日常の細部への繊細な「情」、つましい他者へのそこはかとない「情」が、意外なほどに、彼の散文にはあふれている。

 プラタ通りからサンタ・ジュスタのリフト に向かう角を曲がり、リフトの隣を抜け、カルモ通りを上がっていく。けっこうな坂だ。途中で右折してガレット通りへ。この界隈は「シアード」と呼ばれている高台。人通りも多く活気がある。

 少し歩くとカフェ「A Brasileira」に着く。1905年創業の老舗で、当時の知識人や芸術家が集った店だ。ペソアも常連客だった。店の前の通りにペソアの銅像がある。その近くの席に座り、冷たいものを飲みながら、しばらく時を過ごした。


 
 
 この像はガイドブックにも記載されている。隣には椅子があり、観光客が座ってツーショットの写真を撮ってもらおうと順番待ちをしていた。記念写真の名スポットと化していた。
 大人気のペソアの分身。この像は今、「人が愛する価値のあるもの」になったのだろう。

2016年6月30日木曜日

エレクトリコ28番 [ペソア 8] 

 ペソアの部屋のある2階の中央は吹き抜けになっていて、その壁面にペソアを描いた絵画があった。



 1階に降りる。書籍や記念品を並べた売店があった。ペソア人形のワイン栓などのグッズを買う。これも分身かもしれない。コエーリョ・ダ・ローシャ通りに出る。振り返ると、入口上の垂れ幕の赤、空の青のコントラストが綺麗だ。ここで1時間以上過ごしたが、充実した時間だった。ペソアが晩年を過ごした家がそのまま博物館になっていることが貴重だ。寝室は残し、その他は大胆に改築し、現代的な展示とイベントの場に造りかえた空間デザインも個性的だ。



 遅い昼食を取ることにした。ガイドブックで調べておいたのだが、この通りを西の方へ10分ほど歩くと、カンポ・デ・オウリケ市場がある。1934年に開設された古い市場だが、数年前にフードコートがつくられた。中に入ると、こじんまりとしているが食べもののコーナーが並んでいた。「Casa do Leitão」という店で、焼いた豚肉(レイタオン・アサード)をマデイラ島のパンでサンドイッチしたものを買う。見た目はハンバーガーだが、皮がパリッとしていてとても美味しい。
 店内を回ると、ポルトガル名物バカリャウ(干しダラ)の缶詰屋が目にとまる。色とりどりで可愛いパッケージ。お土産に数個買った。




 カンポ・デ・オウリケ市場を後にする。このあたりは中心街からは西側に離れている郊外の住宅地として人気があるそうだ。市電28番線も通っているので便利な場所なのだろう。

 近くの停車場から、「Elétrico 28」、路面電車のエレクトリコ28番線に乗る。1901年に電化されたそうだが、テクノロジーは当時のままのようだ。振動も多く、建物の壁面間際を走っていく。道路工事の砂がはみ出していたり、車が突っ込んできたりで、はっきり言って怖い。遊園地の乗り物のようなスリルが味わえる。
 夏のバカンス時期なので、私たちを含め観光客が多い。
 


 『不安の書』の主体は路面電車内で「細部」に集中する。101章にこうある。

 わたしは路面電車に乗り、いつもの習慣にしたがって、前にいる人たちをあらゆる細部にわたってゆっくりと気をつけて見ている。わたしにとって、細部とは物、声、言葉だ。
 
 「感受する人」ペソア。物を見て、声を聴き、その言葉を読みとる。彼はその細部からはるか遠くにあるものを想像し、それが増殖していく。

 わたしは眩暈を感じる。丈夫で細い籐で編んだ路面電車の座席はわたしをはるか遠い地方へ運び、工場、職工、職工の家、暮らし、現実、あらゆるものとなったわたしのなかで増殖する。疲れ果て、夢遊病者のようになって下車する。精いっぱい生きたのだ。

 「想像する人」ペソア。車内で「疲れ果て」、「夢遊病者」と化す。百年以上前、この28番線で、詩人は「眩暈」を感じる時間を、ひとつの日常として、過ごしていたのだろうか。

 この路線は人の乗降が多く、途中から座席に座れた。中心街へ入り、アルファマを過ぎる。さらに席が空いたので移動してみると、車窓の風景が変わる。そうこうしているうちに終点に着いた。30分ほどのエレクトリコの旅だった。

 しばらく歩いて、フィゲイラ広場に戻る。この広場の名はペソアの散文にも時々登場する。あの当時は大きな市場があったそうだ。昼前にここからタクシーに乗り、ペソアの家に行き、28番線に乗りここへ戻ってきた。この日の午後、夏の日差しは眩しかった。広場に面した店でアイスクリームを食べる。一息つけた。

2016年6月26日日曜日

ペソアの部屋、トランク[ペソア 7]

 フェルナンド・ペソアの家、博物館。二階の角にペソアの寝室があった。この部屋だけは当時のままらしい。入り口に案内のディスプレー。ポルトガル語と英語で表示されていた。

 中に入る。入り口から見ると手前の左側に、草稿や資料の複製が置かれたチェスト。奥の壁際左寄りにたくさんの草稿が詰められていたトランク。中央やや右寄りにベッド。その横にランプが置かれたサイドテーブル。その右側の壁際にワードローブ。写真には写っていないが、入ってすぐ左側にはペソアの黒のジャケット、シャツ、ネクタイそれに靴も展示されていた。奥の左側には窓があった。通りが望める。



 やはり一番目にとまったのは木製のトランク(収納箱)。キャプションを見ると複製だったが、これが「ペソアのトランク」かと、しばし見入ってしまった。内部には複製の資料がそれらしく積み重ねられていた。当時の様子が想像できる。



 しばらくして、宮澤賢治も沢山の原稿が詰まったトランクを遺していたことを思い出した。賢治は生年1896年-没年1933年。ペソアは生年1888年-没年1935年。賢治の方がやや遅く生まれたが、ほぼ同世代の詩人だと言ってよいだろう。生前はほとんど無名だったが、膨大な原稿が遺され、没後高い評価を受けたという共通点がある。

 ローチェストの上には数点の草稿やタイプ資料の複製が置かれていた。青と赤の色鉛筆、ペン立て、灰皿。ここで書き物をしていたのだろう。












 




 『不安の書』を読んでいくと、117章の冒頭にこういう文がある。

 しばらく―何日間だったのか何カ月間だったのか分からない―何ひとつ印象を記していない。我思わず、ゆえに我あらず。自分が誰なのかを忘れた。存在の仕方を知らないので、書くことができない。斜めに眠ることにより別人になった。自分を思い出さないというのを知れば、目覚める。  

 「我思わず、ゆえに我あらず。」デカルトのコギトを反転した表現はペソアらしい。「自分が誰なのかを忘れた。存在の仕方を知らないので、書くことができない。」もペソア的なあまりにペソア的な言葉だろう。逆に捉えるのなら、彼は書くことによって自分の「存在の仕方」を知ろうとした。自分が誰なのかを思い出そうとした。

 この文には1932年9月28日の日付がある。この前の116章の日付は7月25日だったので、二か月間ほど、この部屋で、「何一つ印象を記していない」日々を過ごしたのかもしれない。
 117章には、ペソアの住む界隈の描写もある。この部屋の窓から見た風景だろうか。

  澄みわたり動かない日の空は本物で、深い青ほどは明るくない青い色をしているのを知っている。かつてよりもいくらかくすんだ黄金色の太陽が湿っぽい反射光で壁や窓を黄金色に染めているのを知っている。風もなく、風を思わせたり欺いたりする微風もないが、はっきりしない町に目覚めた涼しさが眠っているのを知っている。考えず望まずに、そうしたすべてを知っていて、思い出をとおして以外には眠くなく、不安を通じて以外には懐かしく思わない。
 
 ペソアには街の「自然詩人」とでも呼びたくなるような、街路の美しい描写とそれに促された思考がある。
 そして、「不安を通じて以外には懐かしく思わない」という一節を読むと、なぜだか、志村正彦の『陽炎』が浮かんできた。


2016年6月20日月曜日

ペソア博物館、内部の空間[ペソア 6]

 エントランスから階段を上がっていく。最上階から見始め、階下へと降りていく動線のようだ。
 最上階はどうやら三階の上の屋根裏空間を利用して作ったようだ。壁面にペソアの写真がたくさんコラージュされている。ペソアとその異名が増殖している感覚だ。ディスプレー装置がペソアの生涯を映し出す。グラフィックな表示や動画に工夫があり、洗練された展示だった。


   『不安の書』156章で、「複数の人格」についてこのように書かれてある。

 自分のなかにわたしはさまざまな人格を創造した。たえず複数の人格を創造している。それぞれのわたしの夢は見られるとすぐに、たちまち別な人物に化身し、夢見るようになり、わたしではなくなる。
 創造しようとして、わたしは自分を破壊した。自分のなかで自分をこれほど外面化したので、自分のなかではわたしは外的にしか存在しない。わたしは、さまざまな俳優がさまざまな芝居を演じながら通りぬける生きた舞台なのだ。


 抽象的な表現でとらえにくい。末尾にある、「さまざまな俳優がさまざまな芝居を演じながら通りぬける生きた舞台」としての「わたし」という喩えが、それでもまだ分かりやすいだろうか。この展示空間自体がペソアの複数の人格の「舞台」のような気がした。
 展示室には、数は少ないが、眼鏡などの愛用の品もあった。


 三階に降りると会議室があり、ここで朗読会などのイベントが開かれるようだ。小さくも大きくもなく程良い規模だ。ハットにコート姿のかわいらしい人形もあった。これもペソアの分身だ。人形化やキャラクター化されているのは、彼が愛されている証拠だろうが。



 










  二階に下りると、ペソアの家族の写真展示があった。小さな写真スタンドによるさりげない演出だが、やはりセンスがいい。
 吹き抜けの空間の向こう側には図書室や資料室があるようだ。
 ペソア愛用のタイプライターもあった。高価なものゆえ自分では買えなかったので、勤め先の機器を使っていた。それを収集し保管したのだろう。
 


 最上階から降りてくる動線であり、空間の構成が複雑なので、部屋の階や配置の記憶があいまいになってしまった。記述が間違えているかもしれないことをお断りする。

2016年6月13日月曜日

ふたつの日付 [ペソア 5]

 今日、6月13日は、フェルナンド・ペソアの誕生日だ。128年前、1988年6月13日にペソアはリスボンで生まれた。
 ペソアの異名「Alberto Caeiro(アルベルト・カエイロ)」の詩の一節にはこうある。

  私が死んでから 伝記を書くひとがいても
  これほど簡単なことはない
  ふたつの日付があるだけ──生まれた日と死んだ日
  ふたつに挟まれた日々や出来事はすべて私のものだ

 昨年夏の旅は、ジェロニモス修道院の棺と碑から、ペソアの晩年の家(ペソア博物館)へと遡るものだった。生と死の「ふたつに挟まれた日々や出来事」をほんのわずかだけだが、たどろうとした。

 旅に戻る。ジェロニモス修道院を後にして、バスは中心街へと出発した。リスボン大聖堂の近くで降り、アルファマ地区を歩く。この界隈は1755年のリスボン大地震でも被害にあわなかったそうだ。古くからの建物、その間に狭い路地が続く。リスボンの昔の面影があると言われている。街並を通り抜けると、ファド博物館に行き着く。ポルトガル音楽というとファドだ。音楽好きとしては寄りたかったが、時間が許さない。再びバスに乗り、ロシオ広場で解散。まだ昼前。これから自由時間だ。


アルファマの路地
ファド博物館

 

 私と妻の二人はペソア博物館へ行くために、28番線の市電、エレクトリコの停車場に向かう。始発の停車場はすごい行列。あきらめて、フィゲイラ広場に戻り、タクシーに乗る。リベルダーデ大通りを上がる。街路の並木の緑、車の窓からの風がすがすがしい。大通りを左折して西の方角へ進んでいく。車窓の風景と地図を見比べて、もうそろそろ着くかなという頃、新米の運転手さんのようで道に迷っている。通行人に聞いたり道を行ったり来たりして、やっと「Casa Fernando Pessoa(フェルナンド・ペソア博物館)」に到着した。「Casa~」なので、文字通りでは「フェルナンド・ペソアの家」と呼ぶべきかもしれない。


ペソア博物館

 ペソアは1920年から1935年の死去まで、二階の一室に住んでいた。中心街からやや離れた場所にあり、当時も今も生活者の住む街だと思われる。
 1993年、リスボン市はペソアが晩年を過ごしたこの家を利用して、ペソア博物館を設立した。ペソアの部屋をのぞいて、内部は大幅に改築された。さらに数年前に展示ルームなどを現代風に改装したようだ。外見は道路沿いにある普通の建物なのであまり目立たない。近づくと、通りに面した窓に「PESSOA」という赤色の字が記されていた。壁面にも文字があった。


  入り口のドアを開け、エントランスでチケットを購入すると、年配の女性の受付の方から「どこから来たのですか」と声をかけられる。「日本からです」と答えると、「日本からの客を迎えるのは初めてです」と言われた。日本人は珍しいのだろうが、「初めて」という言葉に驚く。受付も当番制だろうから、この女性の当番の時に初めてということだろうが。どのくらいの期間の中での初めてなのだろう。確かめてみたかったが、タイミングを逸してしまった。日本人が訪れることは極めて珍しいことは間違いない。

  平日の昼頃の時間帯のせいか、他に客は見あたらなかった。一時間以上滞在したが、その間、子供連れの家族を一組見かけただけだった。ここでは時々、詩の朗読会などが行われるようだ。そういうイベントの際や生徒や学生の見学の場合を除けば、来館者はあまりいないのかもしれない。日本でも同様の状況がある。
 東西を問わず、文学者の記念館は地味な存在だ。

2016年6月8日水曜日

『不安の書』[ペソア 4]

 「どれほど些細なことも/お前のすべてを注いでなせ」。ジェロニモス修道院のペソアの碑文にある異名レイスの詩の一節だ。

 ペソアの没後、27543枚の原稿、ポルトガル語、英語、仏語で書かれた韻文や散文が大型の収納箱に遺されていた。ペソアが彼のすべてを注いで書いたテクストがそこに存在していた。

 生前から散文の主だったものは『不安の書(Livro do Desassossego)』という題で刊行する予定だったが、果たせなかった。膨大なテクストの調査研究の結果、1982年、ようやくこの書物が世に出た。詩と同様に、ペソアの「異名」ベルナルド・ソアレス(Bernardo Soares)、リスボン在住のある事務員の綴る手記という形式で、断章のテクストが集められている。序文には、ペソアがソアレスに出会ったことが語られている。実名と異名との遭遇。眩暈のような出来事からこの書は始まる。

 2007年、高橋都彦氏によって翻訳書が刊行された。649ページの大著で、企画から十数年要したそうだ。この労作のおかげで今、私たちはペソアの散文を読むことができる。邦訳『不安の書』(新思索社)は460の断章を収録している。未整理の遺稿という性格上、オリジナルの書にもいくつかの編集版があり、章の数も一定しないようだ。文字通りの「未完の書」である。


 この書の舞台はリスボンの街。話者ソアレスは路地を歩き、小さな公園を訪れ、事務所の窓から街を眺め、部屋で眠りにつく。書名の「Desassossego」という言葉には「動揺」という意味もあるようだ。街の風景を見つめ、街のざわめきを聞きとり、小さな出来事に遭遇する。主体は揺れ動き、何かを感受する。その感性が凝縮された思考と結びつくとき、断章が生まれる。日付のあるもの、ないもの。日記風のもの。散文詩的な作品。哲学的断章。創作めいたもの。純粋な断片。そして彼の生には倦怠と疲労の主調音が流れる。

 ここ二年ほど、休日に時々『不安の書』を読んできた。断章であるゆえに、ある日は250章から、ある日は100章からというように、部分、部分を読みすすめ、それを何度か繰り返した。このような読み方の方がこの書にはふさわしいだろう。

 ジェロニモス修道院の回廊の内側には中庭があった。
 その中庭に降り注ぐ光。芝の緑。通路の白。空の青。回廊のベージュ。その色合いがおだやかな調和をなしていた。周囲の喧騒をよそに、静けさに包まれていた。


中庭を囲む回廊の一階にペソアの棺と碑がある

 今回の文を書くにあたり、『不安の書』を読み返した。89章が目にとまった。なんとなく、あの回廊と中庭の風景につながるような気がした。この章には1931年9月16日という日付がある。ペソア、43歳。彼の生涯からすると、もう晩年だといえる。この章の全文を引用したい。

 去りゆく日がくたびれた深紅色に染まって流れるように消滅する。わたしが誰なのか、言ってくれる者は一人もいないだろうし、わたしが誰だったのか知る者もいないだろう。わたしは未知の山から、やはり知らない谷に下り、穏やかな午後、わたしの足跡は、森に開いた空き地に残した痕跡だった。わたしの愛した人はみなわたしを忘却の陰のなかに残して去った。誰も最終の船について知った者はいない。郵便局には、誰も書くはずがないので便りが届いている知らせはなかった。
 しかしながら、何もかも偽りだった。ほかの者たちが語ったかも知れない物語は語られず、当てにならない乗船に望みを託した以前出発した者、未来の霧ときたるべき逡巡の子については、確かなことは分からない。わたしは、遅れてくる者のうちに名前を連ねており、その名前はあらゆるものと同様に幻だ。  九月一六日



 「遅れてくる者」の名、「幻」の名が、ペソアの碑に刻まれている。