新高円寺に師匠が住んでいて、年に数回だが訪ねていく。 青梅街道を駅から師匠の家を過ぎて東に進むとすぐに環状七号線にぶつかる。杉並に住んでいた頃は稽古が終わると夕飯をごちそうになって、都バスで環状七号線を帰ったものだった。今から20年以上前の話で、高円寺に住んでいたという志村正彦と時期が重なるわけではないのだが、「環状七号線」を聴くたびに浮かぶのはあのあたりの風景である。
そんなわけで「環状七号線」は私にとっても身近な存在なのだが、この曲を聴くと何故だか「環状」が「感情」に聞こえて仕方がない。生命線がどれかさえわからないほど手相にうとくても、頭の中で「七号」をとばして「感情線」と誤変換しているのかもしれない。いや、しかし、日本語には古来「掛詞」というものがある。「環状七号線」の背後にはやはり「感情」が渦巻いているような気がしてならない。では、それはどんな「感情」なのか。
火の付かないライター 握りしめていた
辺りの静けさに気付く
耳にツンときて それも加わって
そこから離れたんだ
昨日観たドラマ 気の利いた名台詞
言えるとしたらどうなるだろう
でもそうとして それはそうとして
後にはひけないんだ
志村正彦は歌詞の中ですべてを明らかにはしない。しかし、聴き手は歌詞に書かれたことの外側に感情が渦巻く原因や状況があることを理解することはできる。例えば「それも加わって」ということば。「それも」ということは、「それ以外にも」、そこにいたたまれなくなって離れる理由があるのだ。また「でもそうとして それはそうとして」ということば。 もし「気の利いた名台詞」を言えたとしても、それによって場面の展開をいろいろ予測してみても、その結果がどうあろうとも、「後にはひけない」思いがあるのだ。具体的な物語は聴き手の想像にゆだねて、だが、確実に強い感情の渦巻きを感じさせることばの連なり。「環状七号線」はやはり「感情七号線」なのである。
もう一つこの曲を聴くたびに感じることがある。
対向車抜き去って そう エンジン音喚いてるようだ
最初聴いたとき、理屈っぽいおばさんは「いやいや、対向車は抜き去れないから」とひそかにつっこみを入れた。しかし、夜中でも交通量の多い環状七号線をバイク(原チャリ)で走っていたら、同じ方向に向かう車との関係よりも対向車とすれ違うときのスピード感、両者が急激に遠ざかる感覚の方が「抜き去って」ということばにしっくりくるのかもしれない。
何か嵐のような感情に巻き込まれたとき、それを静めるために闇雲に走ったり叫んだりする、どこか破壊的でどこか破滅的な衝動がある。環状七号線を「何故だか飛ばしている」のはおそらくそのためだ。残念ながら若かりし日にもそんな経験はなかったし、今後はますますありそうもないが、この曲を聴くと環状七号線をバイクで飛ばすときに感じる風やしびれるような感覚を追体験しているような気がしてくる。
このごろでは通ることもなくなった環状七号線だが、今度師匠の家を訪ねたときに少し足を延ばしてビルの上にかかる「おぼろ月夜」を眺めてみたい。
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