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2014年2月27日木曜日

クボケンジ 『ソト』

 前回触れたように、渋谷公会堂ライブのMCで、クボケンジは、『星の出来事』までは故郷の兵庫、それ以降は東京が舞台となり、歌詞の世界が創られているという意味のことを語っていた。
 その変化はもちろん、兵庫から東京に上京したという現実の出来事に起因しているが、物理的な場所の移動だけでなく、青年の成熟という時間的な要因も関わっている。
 クボケンジの世界には変化するモチーフと変化していないのモチーフの二つがあると前回書いたが、この問題を今回は追跡していきたい。

 デビュー作『ギンガ』に、『ソト』というカタカナ表記の曲がある。クボの繊細な感受性と巧みな作詞と楽曲の技術が結実した作品だ。渋公ライブを前にして、初期から現在まで通してCDを聴く中で、印象深い曲の一つだった。この原稿を準備するにあたり、ネットで調べると、2009年9月27日、SHIBUYA-AXで開催のメレンゲ5th Anniversary ワンマンライブで、ゲストの志村正彦が『ソト』を歌ったことを知った。彼の亡くなる3ヶ月ほど前のことで、おそらく、彼が歌った最後の他者の作品が、クボケンジ作の『ソト』になるだろう。『ソト』を選択したのが志村の意志かクボの提案かは分からないが、この事実を知ってからますます、この『ソト』という作品に惹かれるようになった。
 『ソト』は歌詞検索サイトにもほとんど掲載されていないので、参考までに詞全体を歌詞カードから引用する。

  『ソト』

 ようやく 暖かくなって 僕らは汗を掻いた
 ああ 焦げ臭い子供達の靴を隠そう


 彼は話に夢中だ デタラメに船をこいでる
 オレはもう出かけたいな 窓を閉める
 出かけようぜ


 行こう! 恥ずかしい外へ 沈む太陽 追いかけるのさ
 揺れるブランコの音が 夢を連れて 逃げたりしない様に


 どこに隠れているんだい 出て来い俺の前に
 悲しみのトンネルは あとどれくらい
 くぐればあえる?

 
 白い君の手を ふと 思い出すけど
 息も忘れるほどに僕を乗せて生活はまわる


 でもギターはもうほら嘘のなる木 食べれやしないよ? 
  行こう! 懐かしい外へ 上がる体温 復活のとき
 期待を背負って外へ・・・・外へ・・・


 『ソト』を一読しても、歌詞の言葉から背後にある物語がなかなか読み読みとれない。構成された物語よりも、断片的な《光景》と、冒頭に「ようやく 暖かくなって 僕らは汗を掻いた/ああ 焦げ臭い子供達の靴を隠そう」とあるように、気温、汗、臭い、という《感覚》が聴き手に迫ってくる。 「子供達」という語から、幼少年期の記憶を引きずっているようにも感じられる。(MCの言葉からすると、この歌の舞台は兵庫になる。そうすると、もしかしたら、1995年1月の阪神・淡路大震災の記憶が入り込んでいるのかもしれない。あの当時、クボは高校生だったようだ)

 歌の主体は「オレはもう出かけたいな 窓を閉める/出かけようぜ」と呟く。最後は「期待を背負って外へ・・・・外へ・・・」で締めくくられる。題名「ソト」も示しているように、歌の主体「オレ」の「ソト」への出航が物語のモチーフの中心であることだけは確かなようだ。

 『ソト』は歌われることを前提とした作品ではあるが、歌詞の言葉を追っていくと、《書かれた詩》としのて性格が濃いように思われる(そもそも、「ソト」「外」、「オレ」「俺」という表記の二重性は、書かれて読まれることを前提としている)。言葉の凝縮の度合いが強く、抽象性も高い。これはこれで優れた達成なのだが、歌われる歌という面では内容的に難しい、物語がたどりにくいという属性も帯びてしまう。『ギンガ』収録曲にはその傾向が強いが、その後はゆるやかに変化している。

 クボケンジは、記憶や風景を解体し再構築する術を身につけている。『ソト』の物語の余白を埋めるように、「どこに隠れているんだい 出て来い俺の前に/悲しみのトンネルは あとどれくらい/くぐればあえる?」という不思議な一節が歌われる。

 「どこに隠れているだい」と言われる対象、「出て来い俺の前に」と呼びかけられる対象は、いったい誰なのか。歌詞の世界には、冒頭に「僕らは汗を掻いた」の「僕ら」、「彼は話に夢中だ」の「彼」、「オレはもう出かけたいな」の「オレ」である歌の主体(後には「俺」とも表記されるので「俺」に統一する。付言すると、一人称複数が「僕ら」であるのに、単数が「オレ」「俺」であることも謎だ)、「白い君の手を」の「君」が登場する。人称代名詞で指し示されるだけで、各々の個性は分からない。「彼」の方は少年、「君」の方は少女だという気がするが、この「彼」と「君」が同一人物の可能性もある。その場合は少年になるだろう。どちらにしろ、「隠れている」対象は「彼」か「君」と考える解釈があり得る。(先ほど、1995年1月の阪神・淡路大震災の記憶を指摘したが、その場合、この「彼」や「君」という他者はすでに失われた、不在の対象という可能性もある)

 もう一つ、「隠れている」対象が自分自身であるという解釈もできる。歌の主体「俺」が隠れてしまっているもう一人の「俺」(それは現在のことなのか過去のことなのか分からないが)に「出て来い俺の前に」と語りかけている。この場合、「俺」と「俺の分身」とが対話している光景になる。この「ソト」という歌詞のモチーフと重ねるなら、「ソト」ならぬ「ウチ」に隠れている「俺」に対して、「ソト」に出ていこうとする「俺」が呼びかけている。反転して、「ウチ」にいる「俺」が「ソト」に行こうとする「俺」に話しかけているとも考えられる。

 あるいは、「恥ずかしい外」「懐かしい外」が「隠れている」対象だとすることも可能かもしれない。そのような隠れている「外」へ呼びかけ、「外」に出ようとする「俺」の存在を誇示するかのように。
 また、「哀しみのトンネルは あとどれくらい/くぐればあえる?」の解釈は難しいが、「哀しみのトンネル」をくぐることが、「隠れている」対象と歌の主体「俺」とが再び「あえる」ためには不可欠なのだろう。

 初期から現在まで、歌の主体「俺」「僕」と「君」「あなた」との対話、その変奏としての歌の主体と分身との対話は、クボケンジの歌詞の枠組みを形作ることが多い。枠組みに留まらず、この対話そのものが初期から現在まで続く、クボケンジの変わらない主題でもある。   (この項続く)

2014年2月22日土曜日

メレンゲ渋公ライブ 「四泊五日の旅」

 2月14日、金曜日の朝、メレンゲの渋谷公会堂ライブ「初恋の集い 2014 in バレンタイン」に妻と二人で出かけた。ライブが終了、雪の降る中、心あたたまるライブで気分が高まりながら、渋谷の「ユキノミチ」を歩いて帰路に着いたところまではよかったのだが、最終的に114センチに達した甲府盆地の歴史的な大雪の影響で、中央線も中央道も完全に止まり、「帰宅難民」となってしまった。

 宿泊場所を求めて、新宿のホテルを転々とすることになった。帰宅難民「さまよえる甲州人」と化した私たちは、新宿駅や新宿高速バス停に行っても「運休」の文字だけに出会い、ニュースを見ても大した情報はなく、さすがに心細い日々を送った。新宿の街にはすでに雪の影響はなく、ビジネス街と歓楽街という日常そのものの風景であることも心身の疲れを増加させた。

 大雪の影響で仕事も休みになったことだけは幸いだった。何もすることがないので、映画館でひたすら時間をつぶした。全く予備知識はなかったが、好きな監督の作品ということで、フランソワ・オゾンの新作『17歳』(Jeune&Jolie)とテオ・アンゲロプロスの遺作『エレニの帰郷』(The Dust of Time)。話題作という理由でリー・ダニエルズの『大統領の執事の涙』(Lee Daniels' The Butler)。1日1本のペースで見たが、三つとも素晴らしい作品で、しかも音楽との深いつながりがある。

  『17歳』では、フランソワーズ・アルディの歌が4曲大切な場面で使われている。(『私のフランソワーズ』という歌があるように、ユーミンというより荒井由実はフランソワーズ・アルディから強い影響を受けている)
 『エレニの帰郷』では、要の人物、映画監督“A”のベルリンの住居の部屋には、ジム・モリソンやボブ・マーリーのポスターがある。彼がロックの世代の一人であることが強調されている。中でも、ルー・リードのポスターがラスト近くでワンショットだけ映るのだが、やはりあの『ベルリン』を想起させる。
 『大統領の執事の涙』では、50年代から70年代にかけてのブラック・ミュージックが流れ、TV番組「ソウルトレイン」の映像も使われていた。あのレニー・クラヴィッツも執事役の一人として出演していたのには驚く。
 この三つの映画を偶々見る機会を得たのは幸運だった。暇つぶしのようにして見た映画が意外にも収穫が多いという逆説があるのかもしれない。

 結局、甲府に帰ることができたのは18日、火曜日の夕方。今回の「メレンゲ渋公ライブ」の旅は、「四泊五日」の日程となった。色々な意味で記憶に残るライブとなるだろう。
 戻ってきて「やれやれ」だったが、それもつかの間、我が家と二人の実家の大量の雪かきが待っていたのである。「やれやれ」が続く日々をいまだ過ごしている。

 本題のメレンゲのライブに移ろう。
 渋谷公会堂に行くのは、確か1996年1月のムーンライダーズ20周年記念ライブ以来だから、18年ぶりだ。LN30で書いたように、昨年5月の新宿ロフト、GREAT3とのツーマンライブは見たが、今回はホールでのワンマンライブなので、絶対に行こうと考えた。

 会場に入ると予想通り、9割方が女性、私たちのような中年夫婦は見あたらない。場違い感はあるのだが、そのギャップを愉しむのも「ロック」だと自分に言い聞かせた。
 渋公ライブを前にして、インディーズのミニアルバム2枚、メジャーのミニアルバム3枚、フルアルバム3枚と最近のシングルを揃えて、初期から現在までの作品を通して繰り返し聴いた。どのアーティストにも当然あるのだが、メレンゲの場合、特に、「変わるもの」と「変わらないもの」の二つを強く意識させられた。

 ライブは『アオバ』から静かに始まり、アンコールの『ライカ』のギターサウンドで終わった。前半は落ち着いた感じの曲が多かったが、半ばの『ミュージックシーン』『Ladybird』を経て、後半の『バンドワゴン』から『ビスケット』にかけてすごく盛り上がった。『ビスケット』の際には、御菓子の「ビスコ」!が投げられた。「ポケットには 一人分/叩いて 二人分/粉々になる」演出を目指したのだろうか。

 照明も舞台もシンプルではあるがよく工夫されていた。ホールならではの音響効果があり、クボケンジの声の響きもよく広がっていった。『クレーター』のエッジが聴いたサウンド、本編最後の『ユキノミチ』の静かな余韻と共にしめくくられた。タケシタツヨシとヤマザキタケシの盟友二人は、クボの言葉のリズムを美しく響かせ、サポートメンバーの大村達身・皆川真人の熟練した演奏はバンドのアンサンブルを支えている。2時間近い間、メレンゲというバンドの充実感がよく伝わってきた。

 クボケンジはMCで、今回のライブのために作品を聴き直すと、やはり変化を感じた、『星の出来事』までは故郷の兵庫、それ以降は東京が舞台だという意味のことを述べていた。故郷から東京という場の移動と作風の変化という話題はとても印象深かった。この発言に触発されて、様々なことを考えさせられた。
 クボケンジの歌詞の世界には変化しているモチーフと不変のモチーフの双方がある。次回はこのことも考えてみたい。   (この項続く)

付記
  《詞論》にはそぐわないでしょうが、今回の大雪で色々と考えさせられたことを少し書かせていただきます。
 

 5日間、新宿のホテルでテレビのニュースを見ていましたが、地上波のニュースは「ショー」と化していて、「報道」になっていませんでした。山梨県「全域」がほぼ孤立状態という事実があまり伝えられません。放送には「公共性」があり、ニュースの使命は「事実」の報道にあると思いますが、そのことが軽んじられています。
  交通機関も回復に懸命だったことは分かりますが、新宿の駅でも発着場でも、5日間の間、途中経過の情報すら全くありませんでした。少しでもいいので、帰宅困難者へ情報を伝えてほしいです。
 ふだんは雪の少ない地域ということに慢心していたせいか、国、県、市町村等の行政の対応も遅かったようです。

 帰宅後、徒歩通勤を続けていますが、歩道や路肩には残雪が高く積まれていて道幅を狭め、路面も凍りついて、非常に危ない状態です。日陰の部分はかなりの間溶けないでしょう。特に店舗前の間口の除雪には差があります。駐車場はされていても、間口の歩道部分が全くされていない所があります。間口の除雪まで行政に頼ることは無理なので、間口部分はその店や店舗が除雪せざるをえないでしょう。通行困難な箇所について、御節介なことではありましたが、その店や施設の方に除雪の御願いをしました。ほとんどの店や施設に協力していただいて、有り難かったです。人手のせいか、除雪されていない場所もありましたが、時間を都合して、シャベル持参で自分たちで掻きました。
 人員とか安全の問題もあるでしょうが、「雪かきというのは自分のためではなく他人のためにする」という考え方が公共性のルールとして広まってほしいですね。

 それでも甲府はまだ良い方で、富士吉田のある富士北麓地域や八ヶ岳南麓地域の残雪はとても多く、復旧が遅れているのが心配です。こういう大雪が今年だけで終わらないような気がしますので、皆で取り組むべき課題になると考えます。

 これまであまり雪が降らない地域にお住まいの方々も、何か対策や準備をしておかれた方がよろしいかとほんとうに思いました。

2014年2月12日水曜日

報われる時 [志村正彦 LN71]

 
 今日の夕方、フジファブリックの2008年5月31日収録DVD『Live at 富士五湖文化センター』、2006年12月25日収録DVD『Live at 渋谷公会堂』、その二つのDVDと写真集やグッズがパッケージされた『FAB BOX II』が各々4月16日に発売されることが発表された。すでに、ツイッター等のリアルタイム検索を見ると、凄い反響を呼んでいる。

 メジャデビュー10年を迎える今年、何かがあるのではないか、何かがあってほしいという期待があった。特に、過去の音源や映像が志村正彦の「音楽遺産」として発表されることへの願望をこのLNでも何度か書いてきた。このような形で現実のものとなり、驚きと喜びと感謝の気持ちがこみあげてくる。と書いていいのか、むしろ、言葉にならない想いに包まれている。

 『桜の季節』の発売は2004年4月14日だから、ちょうど10年を迎える桜の季節に、志村正彦の結果として最初で最後となった、あの「富士吉田市民会館」(富士五湖文化センター)ライブがDVDとなり、リリースされることになる。
 すでに、シングル『Sugar!!』付録のDVDに『ペダル』『TEENAGER』『茜色の夕日』、『FAB BOX』の「FAB MOVIES」(LIVE映像集)DVDに『ロマネ』『浮雲』『星降る夜になったら』『茜色の夕日』が収録されているが、どちらも限定生産で現在では入手できない。(ストック品や中古品はあるが、かなりの高値となっている) 特設サイトによると、『TEENAGER』収録の10曲の他、『桜の季節』『陽炎』等を含め全部で19曲がMCを含め完全な形で収録されるようだ。

 『茜色の夕日』の前のMCで、志村正彦がこれまでの歩みを振り返る言葉はすでに映像化されているが、これを見たファンの誰もがそう感じるだろうが、この言葉とその後の歌を聴く度に、心の底からの感動をいつもいつも覚える。
 月並みな言葉でしか言い表せないが、ここには、自らの音楽を創り、聴き手に届けるために懸命に生きた一人の青年の純粋で美しい生の軌跡の記録がある。

 彼が故郷に帰還し、歌う。それは結果として、「一世一代」の舞台となってしまったが、この映像がDVD作品となって永遠に遺されることは、志村正彦の人生と音楽に対する最も重要な追悼ともなる。

 様々な困難を越えて、このDVDが実現したのは、現在のメンバー金澤ダイスケ氏・加藤慎一氏・山内総一郎氏、所属事務所、レコード会社の「想い」と志村正彦の聴き手一人ひとりの「想い」が一つになって結実したからだろう。これは希有なことであり、志村正彦、フジファブリックという枠をも越えて、現在の閉塞した音楽と音楽業界への何らかの提起ともなる。

 そして何よりも、特設サイトの「STAFF BLOG」欄にある、担当ディレクター今村圭介氏[EMI RECORDS] が書いた『14.02.12 フジファブリック デビュー10周年記念企画』という「想い」にあふれる文の最後の2行を読むと、このDVDが実現したのは、志村正彦の御家族のご尽力があったからだいうことが、深く理解される。

  彼はMCの中で、「今日、ライブができて、まあとりあえずその日は、その今までは報われたかなと、そういう自分は報われたかなと思っています。」と語っていた。
 この春、桜の季節に、『Live at 富士五湖文化センター』DVDという形で、もう一度、志村正彦の音楽と人生が報われる時が訪れる。その春の日を待ちたい。

2014年2月9日日曜日

手紙-CD『フジファブリック』5 [志村正彦 LN70]

 一昨日夜からの大雪で山梨は白銀の世界。甲府は40センチを超え、富士吉田も60センチ近く積もった。富士山の雪のイメージが強いせいか、山梨は雪が降る地域と思われていることが多いが、実際はそうではない。東京よりやや回数が多く、より深く積もるくらいの感じだ。20年ぶりの大雪で、昨日今日と、私たちの家と各々の実家の雪かきに大わらわだった。しかしながら、雪景色の故郷を眺められるのも、時の過ごし方としては贅沢な気がする。

 今回は「志村正彦LN」に戻り、LN63以来中断していた1stCD『フジファブリック』についての論の続きを書きたい。

 アルバム『フジファブリック』は、『桜の季節』から始まる。「東京vs.自分」の変奏として、「東京VS故郷、富士吉田」というような主題が潜在している。四季盤の春夏秋冬の最初となる春の曲だから、CDの第1曲目となったのだろうが、この曲は最初を飾るにふさわしい独特の世界を持つ。
 『桜の季節』には、《桜》という季節に特有の、「遠くの町に行く」「別れを告げる」という《出郷》と《別離》という主題が表されている、とひとまず言えるだろう。そして、《出郷》や《別離》の状況にある人と人とを結びつける《手紙》というモチーフが現れてくる。

 志村正彦は、故郷の実家に甘えていては駄目だと考え、特にメジャデビュー後はあまり帰省しなかったようだ。本当は時には帰りたかったのだろうが、その気持ちを厳しく律していた彼にとって、故郷と結びつく手紙や電話は大切なものだった。

 『音楽と人』2004年5月号に、上野三樹氏が志村正彦にインタビューしてまとめた、とても参考になる文が掲載されている。(取材日2004.3.15)このことについて『志村日記』に「今回の取材でも、様々な事を再認識した」と言及されている。メジャーデビューし、色々な取材を通じて、自らの歌詞の世界や音楽について振り返る機会が多くなったのだろう。

 -今作の「桜の季節」は手紙がモチーフですが。手紙って、よく書かれますか。

「ほとんどないです。今って、メールがあるから、みんな手紙って書かないですよね。だから誰かが時折、手紙をくれたりすると驚くじゃないですか。家の母親とかよく送ってくるんですけど。そういうハッとする感じを出したかったんです。」

 -お母さんに返事書かなきゃ。

「書かないです!恥ずかしい。(後略)」

 男性が母親からの手紙に対して、恥ずかしくて返事が書けないと言うのは、我が身を振り返ってもよく分かる。もう少し年を重ねれば違ってくるかもしれないが、20歳代の息子は母親に対して、手紙という形ではなかなか向き合えない気がする。
 志村正彦は手紙をとても大切にしていた。『志村日記』にそういう記述がある。実際に、彼は、家族、友人やファンからの手紙を全て保管していたようだ。

 上野氏は『桜の季節』の「手紙」の役割について的確な指摘もしている。

 -しかも結局書いたけど出してないでしょ、この曲。

「そうです。手紙を書いて、そこで終了している曲です。」

 -そこでまたひとりになると。

「そうですね。」

 作者自身が「手紙を書き、そこで終了している曲」だと述べている。言葉が発せられるが、その言葉は他者に届かない。繰りかえされるモチーフが、この歌では「投函されない手紙」に託されている。『桜の季節』の該当する箇所を引用してみる。

  桜の季節過ぎたら   遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って しまうのならばやるせない

  ならば愛を込めて   手紙をしたためよう
  作り話に花を咲かせ  僕は読み返しては感動している!
 
 『桜の季節』を聴く度にいつもある問いが頭にもたげてくる。
 「桜の季節過ぎたら 遠くの町に行くのかい? 桜のように舞い散って しまうのならばやるせない」という一節は、誰が誰に向かって発話したものなのかという問いだ。

 普通、歌の主体「僕」がある他者に向かって話しかけていると捉えられるが、この歌の場合、その逆、ある他者が「僕」に向けて語った言葉を、手紙のような形で引用しているとも考えられる。
 歌の主体「僕」は、この一節の言葉の送り手なのか、あるいは受け手なのか。そのどちらとも取ることができるのは、手紙のやりとりという相互性の効果かもしれない。

 この一節を受ける「ならば」という一語はとても解釈が難しい。「ならば」という仮定の対象が複雑だからだ。(これについては『桜の季節』論でいつか展開したい)
 とにかく、歌の主体は「ならば」と仮定して、その帰結、「愛を込めて 手紙をしたためよう」を語り出す。志村正彦は「愛」という言葉を歌詞の中でほとんど使わなかった。この「愛」も手紙に込められる愛、文面に込められる想いであり、直接、人に向けられる愛、名指しをされる愛ではない。

 その手紙は「作り話に花を咲かせ」でいる。その後、歌の主体「僕」が登場し、「読み返しては感動している!」と感嘆符で歌いだされる。
 「僕」は「作り話」を何度も読み返し、感動しているだけだ。「僕」の言葉が他者に向けられることはなく、閉じられた円環の中で反復される。
 言葉は自分自身に戻ってくる。言葉は純度を増し、「感動」するようなものに化す。同時に、そのような閉じられた行為に対する「照れくささ」や「恥ずかしさ」を「僕」は感じ始めているのかもしれない。

 あるいは、手紙に書きとめられた言葉は、現実の次元で、ある具体的な他者に向けられたものというより、何か別の次元の他者に向けられているようでもある。そう考えると、手紙自体が、言葉で表現される「歌」の比喩になる。その歌で語られる物語が「作り話」となる。
 さらに、作者としての志村正彦の次元へ接続してみると、彼の「歌」そのものが、彼を差出人、聴き手を宛先人とする「手紙」だと捉えられる。

 『桜の季節』は、志村正彦から私たち聴き手に送られた大切な手紙だ。
 そして、『フジファブリック』というバンド名を付された1stアルバムは、手紙をモチーフとする歌を巻頭にして、『夜汽車』まで続く、十を数える手紙の連作だと受けとめることができるだろう。
  (この項続く)

2014年2月5日水曜日

a flood of circle ・ 曽根巧、山梨のHangar Hallで。

 2月2日夜、a flood of circleのライブに初めて行った。
「Tour I'M FREE "AFOCの47都道府県制覇!形ないものを爆破しにいくツアー/行けばわかるさ編"」という長い題名のツアーが、山梨のHangar Hallであった。

 a flood of circleのサポートギターは、あの曽根巧だ。彼のツイッターでこのライブの情報を得た。a flood of circleの存在を初めて知ったが、録画しておいた「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2013」に映像があることに気づき、早速見てみた。
 曽根巧のギターが素晴らしい。ストレートにぐいぐいと観客を押してくるバンドのスタイルにも好感を持った。ただし、かなりの「爆音」が予想され、「おじさん」としては「参戦」にためらいがあったが、曽根巧、そしてa flood of circleの生演奏を地元で聴く機会など滅多にないだろうから、思い切って行くことにした。

 曽根巧は、クボケンジや志村正彦とのゆかりがある。2012年12月24日、富士吉田市民会館の前の駐車場に人々が自然に集まり、みんなで『若者のすべて』のチャイムを聴いた時も、クボケンジ、片寄明人・ショコラ夫妻と一緒に聞いていた。(「山梨日日新聞」13年1月8日付の記事参照) 私もあの場にいたので、何となく親しみを感じている。

 1月の佐々木健太郎に続き、このところ山梨で志村正彦と関わりのあった音楽家のライブが多い。(1月12日には桜座で、『共騒アパートメント』吉野寿(eastern youth)・向井秀徳(Zazen Boys)があった。興味深いライブだったので追って書いてみたい)山梨にもこのような企画が多くなって、いろいろと困難なこともあろうが、担当者に感謝している。
 私の中のライブ熱ともシンクロしているようで、とても有り難い。

 Hangar Hallには初めて出かける。甲府盆地の南の果てといった場所にあり、甲府の中心街からは車で30分以上かかる。このあたりは田園地帯だったが、最近は商業施設が多くなって、プチ市街地化しているので、ライブハウスの運営もできるのだろう。

 開演ぎりぎりの6時少し前に到着。暗がりの中に、円筒を半分切ったようなユニークな建物の光が浮かびあがる。中に入ると、カウンタースペースには水路があり、かなり洒落た雰囲気だ。
  ドリンクを取るまもなく、ライブが始まる。想像以上の爆音。圧倒される。ただし、爆音とは言っても、演奏の技術が高いので、耳障りではない。入り口近くの袖の場所で見ていたので、音圧も少しかわすことができた。客は百人ほど(山梨でこの数字は悪くはないだろう)。ほとんどが若者で、流行りのスタイルで弾けている。熱狂の渦から少し離れて眺めているのも悪くはない。

 ボーカル・ギターの佐々木亮介はしきりに「ヤマナシ!」と叫び、煽る。客も応える。a flood of circleは、聴き手とのコミュニケーションを大事にしている。MCを通じて伝わる佐々木亮介のキャラクター。あたたかみのある雰囲気だ。女性のベーシストHISAYO、ドラムス渡邊一丘も、激しいが柔らかさのあるリズムを打ち出す。

 曽根巧は写真で見るよりもたくましい感じ、年齢のせいか、良い意味での安定感がある。小さなライブハウスなので、各楽器の音が重なってしまい、音のクリアさが少し失われるのが残念だったが、それでも、曽根巧の鋭くて重いギターの音色を堪能できた。ギターリストの本質はその音色に現れる。時々、弟分?の佐々木を見つめていたが、その眼差しは優しかった。

 このようなスタイルのロックは、「aggressive」な音楽と捉えられるが、彼らは「攻撃的」「暴力的」というより、「活動的」「意欲的」な意味での「aggressive」さを持つ。
  英米の社会や文化の文脈では、ロックバンドの「aggressive」な在り方の対象は明確だが、日本ではそれが曖昧だ。形ばかりの「aggressive」を売り物にするバンドがあるのは滑稽だ。
 しかし、爆音の渦から時折聞こえてくる歌詞の断片から、a flood of circleは、自分たちの向かう対象を見定めながら歌を作っているような気がした。(彼らの作品を聴きこんでいないので、あくまで直感的感想だが)

 ニューアルバムの題名曲(このツアーの題名でもある)『I'M FREE』では、歌というより、詩の朗読のように、モノローグ風に言葉が語りだされる。

 I'M FREE I'M FREE I'M FREE I'M FREE
 I'M FREE 見りゃわかるだろ 俺に価値などないよ 生も死も俺のジャッジメント


 「FREE」は「自由」だと普通は解釈される。日本語の文脈では、「自由」はひたすら肯定的な価値を持つ言葉だ。脳天気に「自由」が謳歌される。しかし、佐々木(彼は外国育ちで、英語が堪能なようだ)は、「FREE」をこの言葉の原義に近い、「何ものからも離れている」というような意味合いでで使う。この「何ものか」には世間で言われる通常の「価値」も含まれている。だから、「価値からも離れている」という「FREE」の究極の意味として、「俺に価値などないよ」という言葉が立ち上がってくる。

 I'M FREE 成功だと?金の話か?ギャラか?印税か?ミュージックに価値はあるか?
 もともと価値なんかないもんだと言ったボブディランを信じる


 音楽にはもともと価値などないとディランは発言したそうだ。音楽に価値がないということは、佐々木の文脈では、音楽は価値からも離れていなければならない、ということになるのだろうか。それが、音楽自身の「I'M FREE」だ。
 「FREE」の本質は「運動」だ。いわゆる「自由」からも、「価値」からも、何ものからも離れて、転がる石が転がり続けるように、永遠に運動し続ける。

 a flood of circleのこのツアーは「47都道府県制覇』とあるように、全国を転がり続けるようだ。山梨の前夜は岩国、その前が静岡だったらしい。静岡→岩国→山梨、何という大移動!。並のバンドにできることではない。
 徹底して現場にこだわるのは、今までのライブの常識から離れた「FREE」の姿勢とも言える。地方では1会場100人位だとしても、大都市や日比谷野音もあるので、動員は7000人を超えるだろうか。音楽業界が厳しい状況にある中、このようなライブを貫くことも、ネットとは異なる形での、音楽を支える新しいスタイルになるだろう。

 冬にしては温度の高い日々が続いた。それにつられるように、Hangar Hallのホール内もかなりの熱気を帯びていた。終演後、外に出る。日没後の冷たい外気に包まれ、爆音と言葉で火照った頭と身体が冷やされる。「I'M FREE」、佐々木亮介の言葉と曽根巧のギターのリフがぐるぐる回り続けていた。

2014年2月1日土曜日

佐久間正英

 
 前回、佐久間正英氏の発言に触発されて、音楽遺産という観点で志村正彦について書いた。その翌日、佐久間氏の逝去が伝えられた。
 自らの限りある生を受けとめてから、機会を得て、氏はさらに沢山の重要なことを述べられた。結果として、音楽家と音楽業界への「遺作」のような言葉を遺された。
 LN69で触れた『佐久間正英からの提言(後編) ~これからの音楽家の活動 音楽産業のあり方~』[http://mutant-s.com/special-interview01_02/]には、次の発言がある。

 音楽を演る、創る側にとってはとても楽な時代に向かっていく。そこは制約されることは無いから、形はどうであれ、いい方に動いていくきっかけにはなっていると思います。業界があって音楽が作られるのではなくて、音楽があってその周りが作られていくのだから、

 音楽があってその周りが作られていく、という見失われがちの原点を再確認させてくれる発言だ。そして、「その周り」という言葉を選んでいるように、音楽の後に作られてくる「周り」は、前回引用した発言の中では、「専門の新しい音楽をつくる組織や集合体」を想定している。
 既存の音楽出版社やレコード会社とは異なる「組織や集合体」とはどのようなものか。現在、クラウドファンディングによる制作費の捻出、独立系によるディストリビュート、ネット配信の多様な展開など、様々な試みがなされているようだが、まだ試行錯誤の段階だと思われる。

 しかし、音楽の「周辺」がどのように変化したとしても、ロック音楽を始めとする「複製芸術」の制作には、プロデューサーやディレクターという、作りと受け手とを結ぶつける「第3の人」が不可欠になる(セルフプロデュースの場合でも、機能としては分化している)。その存在は、作り手と受け手との「媒介」となり、各々の「他者」としての位置を貫く。新しい音楽制作の流れの中では、確固たる意志と優れた方法を持つプロデューサーやディレクターが、従来よりさらに重要とされるのではないだろか。佐久間氏は、このインタビューの最後近くで、「今まで以上に音楽をやる人間は自らの行動に自覚と責任を持つ事が大事ですね」と述べている。音楽家だけでなく、聴き手にとっても記憶すべき言葉だ。

 一人の音楽家の死について、何をどのように語ることができるのだろうか。書かれる客体と書く主体との関係を厳密に測定して、その間の「関係」あるいは「無関係」を関係づけながら、文は書かれるべきだ。しかし、そのことは容易でなく、沢山の丁寧な時間が必要となる。(「志村正彦ライナーノーツ」のアポリアでもある)
 ここ2週間近く、そのことを考えていたのだが、ここでは、一人の聴き手としての経験のみに限定して記しておきたい。

 四人囃子の『一触即発』は、私にとって、十代を通じて最も聴きこんだ日本語のロックアルバムだった。佐久間正英の名は、四人囃子の2代目ベーシストとして、刻まれていた。
 彼の演奏を初めて聴いたのは、1981年、中野サンプラザでのプラスチックスのライブだった。長身の彼はキーボードを奏で、全体の音のバランスを取っていた。トーキング・ヘッズの「前座」扱いだったが、前座というより日米の最先端音楽の「対バン」のようだった。プラスチックスは、当時の日本の「テクノポップ」の中でも、突き抜けたポップ感覚とある種の批評性を持っていた。

 「copy copy 全ては copy」「copy copy 東京copy town」(『copy』中西俊夫・作詞)と彼らは歌う。「copy & paste」全盛の今日なら、「全ては Copy」と言われても当たり前という感想しかないだろう。しかし、80年前後の当時は違った。「全てはcopy」という歌詞には、時代と文化に対する鋭い批評性が込められていた。佐久間氏が初めてプロデュースしたP-MODELの第1作にある『サンシャイン・シティー』(平沢裕一・作詞)の「サンシャイン・シティー ペテンの街で/サンシャイン・シティー 詩人は死んだ」も同様だ。80年当時の東京は、高度経済成長が終わると共に、成熟した世界都市になりつつあった。音楽でも世界同時性のような動きがあった。佐久間氏は、そのような動向に敏感でありつつ、東京の音楽や時代に対する批評意識を持っていた。

 その後は、プロデューサーとしての活動が主になっていった。同時代の音楽を追いかけることが少なくなった私が再び出会ったのは、早川義夫を支える相棒としてであった。
 1995年、五反田ゆうぽうとホールで早川義夫のコンサートがあり、久しぶりに、それもギターリストとしての氏の演奏を聴いた(LN54で触れた)。その後何度か、早川義夫とのユニットで、氏の透明で広がりのある美しい音色に接することができた。

 四人囃子のベースプレーヤーとしての佐久間氏を初めて見たのは、2002年10月、新宿厚生年金会館での「ROCK LEGENDS Vol.2 四人囃子 VS 頭脳警察」コンサートの時だった。ずっと長い間待ち望んでいた機会が訪れた。四人囃子のライブをついに経験したのだ。新しさとか古さとか、そのような物差しでは計れない、日本語ロックの最高のパフォーマンスが繰り広げられていた。

 最後に聴いたのは、2010年10月15日、甲府の桜座での「早川義夫・佐久間正英」ライブだった。これについて触れている「on the road again」という題の佐久間氏のブログ記事がある。(October 16, 2010、http://masahidesakuma.net/2010/10/on-the-road-again-1.html)その時の桜座の舞台写真も載っている。

 そして間髪入れず昨日からまた早川義夫さんと On the road again!!
 初日は甲府。続いて長野、新潟と移動をして行く。

 四人囃子、PLASTICSとバンド人生が一段落した後はほとんどスタジオでの音楽制作がメインとなり、こんな頻繁にライブをやった事は無かった様に思う。
 ライブと言ってもGLAYのゲストで幕張20万人とかドーム・ツアーだとか日常とはかけ離れた規模の世界だった。あるいは数年毎の四人囃子再結成など。いずれもホールでの公演。


 それがここ数年だんだんとライブハウスで演奏をする機会が増えてきた。早川義夫さん、hachi、もちろん自分のバンドを組んでからは unsuspected monogramとして。(中略)
 ここ最近は平日スタジオに入り週末はライブとなる機会も多く、正しく”サンデー・ロッカーズ”状態。

  佐久間氏はこのころ、平日は「レコード・プロデューサー」、週末は「一介のバンドマン」という「サンデー・ロッカーズ」な日々に意義を見いだしていたのだろう。この「On the road again」によって、甲府で、早川義夫と佐久間正英の初コンサートが開かれることになった。我が街で敬愛する音楽家のライブを経験できるのはとても幸せなことだ。

  記憶の中の像を取り出してみる。
 桜座の上部に吹き抜けのある空間は音を吸い込む。早川義夫の言葉は、文字通り、屹立する。垂直に立ち上がってくる早川義夫の声。水平に広がっていく佐久間正英のギターの音。『身体と歌だけの関係』だったろうか。
 早川が「歌だけがのこる 歌だけがのこる ステキな僕らのステキな歌だけがそこにのこる」と歌い終わる。「歌だけがのこる」という言葉が消えていく。その消えゆく言葉の隙間を補うように、佐久間の透で浮遊する音が広がっていく。強度の高い早川の声の余白を、佐久間のギターがやわらかく包み込む。

 「自己表出」の人、早川義夫、と対比するなら、「他者」を支える「他者表出」の人、佐久間正英と、60年代後半風に名付けてもよいだろうか。(逆に、佐久間正英の「自己表出」と早川義夫の「他者表出」もあるのだろうが)

 
 この時には、「自分はこの人の歌のために音楽をやって来たのではないだろうか。この人と出会うためにギターを弾き続けて来たのではないだろうか」という想いを知る術もなかったが、演奏中も演奏後も、確かに「寄り添う」姿を感じとることができた。(この時は物販で早川氏の本を購入し、サインしていただいたのだが、その近くに佐久間氏がいたように思う)
 佐久間氏が四人囃子時代に作詞した楽曲のことなど、触れたいことはまだあるのだが、すでにかなりの字数に達してしまったので、別の機会に譲りたい。

 最後になってしまったが、2008年7月に、「四人囃子×フジファブリック」のライブがあったことも書き記しておきたい。四人囃子からの提案でこの企画は実現した。フジファブリックに対する評価や期待が高かったのだろう。アンコールでは、四人囃子の4人とフジの5人が一体となり、「九人囃子」として演奏したそうだ。(このライブの音源や映像が発掘されないだろうか)
 志村正彦、フジファブリックの楽曲に、系譜的に四人囃子につながるものがあるのは確かだ。

 3月には、作詞作曲した遺作“Last Days”も収録されたコンピレーションアルバム『SAKUMA DROPS』が発売されるそうだ。四人囃子、早川義夫。日本語ロックの最も優れた潮流を支えた才能と意志の人として、佐久間正英の作品はこれからも聴かれ続ける。