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2026年1月11日日曜日

「短く 鮮やかに 土橋芳次回顧展」南アルプス市立美術館


 画家土橋芳次(1908~38年)の回顧展「短く 鮮やかに 土橋芳次回顧展」が、南アルプス市立美術館で開催中である。

  1908年、土橋芳次は甲府市富竹で生まれた。県立農林学校を卒業後、独学で洋画を描き始め、34年に上京して本格的に洋画を学んだ。36年、甲府市内で第1回個展を開き、同年の文展で初入選して、山梨県内の洋画家として頭角を現した。37年に山梨美術協会の創立会員となり、第2回個展が開催された。しかし、1938年病気により29歳という若さで亡くなった。この回顧展のテーマが「短く 鮮やかに」となったゆえんであろう。


 土橋の絵を初めて見たのは、昨年2024年、山梨県立美術館で開催された「山梨モダン 1912~1945大正・昭和前期に華ひらいた山梨美術」展の時だった。1937年の作品「美ヶ森」に魅了された。「美ヶ森」は八ヶ岳の尾根にある標高1500mほどの小高い丘。その丘に洋装のモダンガールが二人佇んでいる。咲き乱れる花々。向こう側に広がる高原。遠方には山脈の連なりが見える。山梨の壮大な風景とモダンで繊細な感覚が見事に融合した美しい優れた絵画だった。

 実はこの展覧会の時に、私のゼミで「Kポップと韓国社会」というテーマで研究をしていた女子学生が土橋の曾孫であることを知った。もともと、この女子学生の母(土橋の孫)が県立文学館で私の同僚であったという縁もあって、私のゼミに入ることになった。そういう関係も手伝って、私はこの画家に非常に興味を持った。


 南アルプス市立美術館の回顧展では、土橋家から寄贈された作品を中心に約60点の絵画や資料が展示されている。代表作の「お花畑」(1937年から1960年頃まで旧甲府駅舎の壁に掲げられていた。戦中は「出征兵士を送る絵」とも呼ばれていた)と「美ヶ森」の他に、山岳や高原を描いた風景画、コラージュ作品を載せたスケッチブック、新聞の連載記事や挿絵などが展示されていた。(同館のHPからフライヤーの表の画像を添付させていただきます)




 「お花畑」も「美ヶ森」と同様に、二人の女性、花、高原、連山が描かれている。高原と洋装の女性という不思議な取り合わせがモダンな雰囲気を醸し出している。モデルとなった女性によると、一週間ほど美ヶ森に出かけて描かれたそうである。美ヶ森は八ヶ岳の尾根にある標高1500mほどの小高い丘。レンゲツツジの群生や南アルプスの山々の眺望で知られている。

 「お花畑」や「美ヶ森」は、この山梨という場の中で、近景に〈花〉、近景から中継にかけて〈女性〉、中景から遠景にかけて〈高原と山〉という三つのモチーフから成り立っている。その三つの要素が写実的に遠近法的に描かれるのではなく、コラージュ的な組合せによって構成され、一つの空間の図として表現されている。時代的な制約を超えた独自性のある構図と描法である。


 この展覧会にはすでに二回ほど訪れたのだが、二回目は私の義母も一緒だった。義母は甲府駅に飾られていた「お花畑」のことを鮮明に覚えていて、再会することを楽しみにしていた。会場でおよそ60年ぶりに見た画と記憶の中にある画は完全に一致したそうだ。この「お花畑」には人々の記憶に何かを刻み込む力があるのだろう。

 2月8日(日)まで開催されているので、機会があったらぜひご覧になっていただきたい。


2017年1月10日火曜日

音楽、憂鬱、天使たちークラーナハ展

 土曜日、国立西洋美術館の「クラーナハ展-500年後の誘惑」を見てきた。
 東京の美術館に出かけることもほぼなくなってしまったが、この展覧会にはれはどうしても行きたかった。終了まであと一週間の時点で何とか見ることができた。予想よりはるかに充実した展示で、二時間以上かけてルカス・クラーナ(父、Lucas Cranach der Ältere、1472年-1553年)の作品を堪能した。
 (東京では15日、今週の日曜日までの開催。大阪・国立国際美術館で1月28日~ 4月16日開催。おすすめです)

 副題には「500年後の誘惑」とあるが、クラーナハの絵画、特に女性の眼差しに「誘惑」を感じることはなかった。もちろん、「誘惑」の眼差しは女性のものではなく、それを見ている男の欲望の眼差しの反転したもの、つまり男性の所有するものだ。クラーナハの女性はどこも見つめていない。どこかを見つめているのなら、その見つめられている場所に男が位置することで、その場から男が女を眼差す「欲望」が生まれる。しかし、あの女たちの眼差しは空洞のようなもので、男たちが「欲望」を感じる場が存在しない。男の眼差しは空を切ってしまう。

 クラーナハは大きな工房を設けて絵画の大量生産を行ったそうだ。現代で言うなら、アンディ・ウォーホルのファクトリーになぞらえる論もあるようだ。近年修復された代表作の色彩は五百年という時を超えてしまったかのように鮮やかだった。同一のモチーフの反復。装飾品的な味わい。不思議なのだが、ポップアートのような感触もある。そのことがこの画家の革新性なのかもしれない。

 影響を受けた画家や関連作品の展示もあった。レイラ・パズーキというイラン人アーティストの「ルカス・クラーナハ『正義の寓意』1537年による絵画コンペティション」という作品が特に面白かった。クラーナハの『正義の寓意』を中国の複製画制作者に模写させたもので、90枚の複製画が壁面に並んでいた。まるでウォーホルのキャンベルスープやマリリン・モンローの世界。本物とのずれ具合がとてつもなくポップだった。

 あまり目立たない作品だが、『メランコリー』という絵が印象に残った。

クラーナハ『メランコリー』部分

 十五人の天使を中心に、謎めいた女性が右側に、夢魔が上側に描かれている。笛を吹く天使と太鼓を叩く天使。踊る天使と眠る天使。「音楽にはメランコリーを癒す力がある」と信じられていたというキャプションが添えられていた。当時のドイツでそのように信じられていたのか、美術史や文化史に疎いので、その説明の根拠についての知識はない。音楽が憂鬱を癒す。経験としては誰にも覚えのあることだろうが。
 『メランコリー』の図像は複雑であり、何を示しているのかは分からないが、五百年前のドイツ人がこの絵画を愛しみ、愉しんだことは伝わってくる。
 

2015年11月7日土曜日

「没後100年 五姓田義松-最後の天才-」展

 今日は、横浜まで「没後100年 五姓田義松-最後の天才-」(神奈川県立歴史博物館)を見にいってきた。昨年夏の圏央道開通後、土日祝日等に限り、甲府から横浜までの直通バスが始まった。渋滞があったので2時間半ほどかかったが、以前よりずいぶん近くなった感じだ。乗り換えがなく、運賃も安いので助かる。

 この画家のことは、10月に放送されたNHK日曜美術館「忘れられた天才 明治の洋画家・五姓田義松」で初めて知った。テレビ画面を通してだが、その異様なまでのリアリズムと技術の高さに驚嘆した。どうしても行きたくなり、何とか都合をつけて特別展へ。十数年ぶりの横浜というお上りさん状態だったが、この街の賑わいと華やかさはさらに増していた。

 美術については素人ゆえに、見当違いの感想かもしれないが、彼のリアリズムは何か通常のリアリズムを超えている。リアリズムの過剰さと美しさが高い次元で結びついている。その過剰さが何に由来して、その美がどこにつながっていったのか。そんなことを展示室で考えた。
 十代できわめて高い評価を受け、二十代で渡仏し、帰国後の三十代以降は肖像画家として一定の成功を収めたようだが、本来の恐るべき能力からすると不遇に終わったともいえる生涯だった。美術史の中でも正当な評価を受けたとは言えない。この特別展を契機に、「忘れられた天才」「最後の天才」という派手なフレーズが一人歩きしそうだが、その言葉は素直にそして十分にうなずけるように思われた。
 (明日、11月8日まで開催)

 これは私自身のオブセッションのようなものだが、このような評価の歴史を歩んだ芸術家を知ると、どうしても志村正彦のことを考えてしまう。「没後100年」という時の経過の中で、五姓田は本来のあるべき場所に帰還しつつあるのだろう。志村の場合はどのような歩みになるのだろうか。

 先ほど、ネットを通じて気づいたのだが、今日は『若者のすべて』が私たちの歌の歴史に登場した日だった。
 2007年11月7日リリース。8年の年月を越えて、今、この歌はとても沢山の聴き手を獲得しているが、この歌の受容をめぐって、考察しなければならないこともある。

2015年3月15日日曜日

『石田徹也展-ノート、夢のしるし展』、静岡県立美術館で。

 2月中旬、静岡県立美術館で『石田徹也展-ノート、夢のしるし展』[http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/exhibition/kikaku/2014/06.php ]を見てきた。
 
 行きは、高速乗合バス「甲府-静岡線」を初めて使った。高速といっても、中部横断道がまだ全線開通していないので、甲府近郊からわずかばかりの高速を経てからは国道52号線の一般道をひたすら南下していく。静岡との県境を越えてしばらくすると、新東名高速に入る。
 山沿いの道から時々海が見えると心が少したかぶる。海のない山梨県人は、海を見ることに慣れるということがおそらくない。途中休憩を挟んで3時間で静岡駅前に到着。車内はたまたまかもしれないが3列シートで広々、運賃が2,550円と安いことも助かる。(自分で車を運転すれば、2時間半程だろうか。新東名のおかげで以前より短くなった。数年後、清水までの中部横断道が開通すれば、1時間半ほどに短縮されるだろう。静岡が近くなることが待ち遠しい)

 静岡駅前から路線バスに乗り、昼前に美術館に到着。「日本平」の小高い丘にあるこの館には何度か来たことがあるのだが、相変わらず落ちついた佇まいだ。眺望も良い。
 観覧前、館内のレストラン「エスタ」で「石田徹也展特別料理」のランチをいただく。彼の「故郷、焼津や、ここ静岡の食材を、ふんだんに使用」と紹介されていたコース料理はとても美味しかった。食材が山梨よりも豊かでうらやましい。石田徹也の作風とこんなに美味しい料理の取り合わせにはかなりギャップがあるような気もしたのだが、静岡の食文化の作品として堪能することにした。

 午後、企画展室へ入る。

 彼の存在は、2013年9月放送のNHK日曜美術館『聖者のような芸術家になりたい ~夭折の画家・石田徹也~』を見て初めて知った。テレビ映像を通じてではあるが、その作品と彼の言葉に強く惹かれるものがあった。吉野寿(eastern youth / outside yoshino)が登場し、『地球の裏から風が吹く』のジャケット画が石田作品だということにも興味を持った。隣県の静岡に巡回展が来るのは2015年ということもその時に知った。一年半近く待ち、この日、ようやく彼の作品そのものと向き合うことができたのだった。

 石田徹也は1973年静岡の焼津で生まれ、武蔵野美大の視覚伝達デザイン学科に進む。卒業後はアルバイトで働きながら制作を続けるが、2005年事故で不帰の人となった。
 [「石田徹也の世界 飛べなくなった人」石田徹也公式ホームページhttp://www.tetsuyaishida.jp/  参照]

 三十一歳という短い生涯、それにも関わらず遺された作品の数と質。生前からその才能をある程度まで評価されていたが、没後評価が非常に高まったという点において、美術と音楽というジャンルは違えど、どこか、志村正彦の人生と作品の命運に重なるような感じが最初からしていたことも書きとめておきたい。

 会場での印象を簡潔に記したい。
 彼の作品、特に初期のものは、例えば、eastern youthのCDジャケットになったように、ある種のデザイン性、メッセージ性という観点で語られることが多いだろう。描かれている世界の独自性は言うまでもない。また、彼の作品への関心を広げたという点でも肯定されるべきだろう。



石田徹也「兵士」 【eastern youth 『地球の裏から風が吹く』CD】
 

 しかし、静岡の展示室で彼の絵画を直に見ると、描かれている世界と同等かそれ以上に、その入念で執拗ともいえるような描きこみの方に衝撃を受けた。描くことの時間の重なりそのものが、彼の絵画として具現化している。描線と絵具のリズム、その複合的な反復のようなものが彼の作品をきわめて独創的なものにしてる。痛ましい言い方になるが、特に晩年になるにつれて、そのことが際だってくる。

 この日は講堂で、彼の親友の映像作家、平林勇氏による「石田徹也の発想の源をさぐる」という講演を聴くこともできた。平林氏によると、石田のアトリエは6畳ほどで、長辺の方にキャンバスを置き、短辺の方に位置して描いていたそうだ。大きな作品が多かったので必然的に短い距離で、作品に向き合うことになる。あの入念な時間をかけた描き混みは、絵との至近距離からの対話がもたらした。しかも、ほとんどの作品は2週間程度で完成させたそうなので、その集中力と持続力は凄まじい。
 平林氏は、石田が飲み会が終わるとすぐに描くためにアパートに帰ってしまったという挿話も述べてくれた。(志村正彦にも同様の話がある。志村もまた一年のほぼ毎日、音楽を作り続けた。)

 会場の所々に掲げられた彼のノートの言葉で強く記憶に刻まれるものがあった。次の文言だ。

   わたしが不安感にこだわる理由は、現実を見えるようにするためです。

 作者自身の言葉でその作品を説明することは、あまりにあからさまであり、分からないことを分かったような気にもさせるだろう。そのことを戒めながらも、それでもやはり、この言葉は熟読に値する。

 現実は幾層も何かに覆われている。見えるもの、あるいは見るべきものを見えなくするための覆いや装置が完備されている。安心して生きていくためにはその覆いは不可欠である。
 しかし、不安感が先行するのか、見えるようにする意志が先行するのかは明らかでないが、現実を見えるようにするという行為が、ある種の表現者にとって、不可避になることがある。

 不安感と共に、表現という行為が切迫してくる。その行為に追いたてられるようにして、時間がせきたてられる。
 時間が作品の内部に凝縮され、やがて、時間が「現実を見えるようにする」のだろうか。

 石田徹也はどのように時を過ごしたのか。何を見えるようにしたのだろうか。
 とりとめもないことを考えながら、美術館を後にした。
 (3月25日まで開催しているので、近隣の未見の方にはご覧になることをおすすめしたい)

 帰りは、身延線の特急「ふじかわ」に乗った。
 日は没していたので、夕暮れ時までは姿が浮かぶはずの富士山も何も見えない。闇の深い山間を夜汽車に揺られ、甲府へと還っていった。

2014年9月4日木曜日

エゴン・シーレの母の故郷

 プラハからウィーンへと戻る途中で、「チェスキー・クルムロフ」という世界遺産の街に寄った。この街については何も知らなかった。ヨーロッパの思想や文化については少しは知識があるが、歴史や地理については疎い。旅行前に調べると、13世紀に築かれた城を中心に18世紀まで発展した街で中世の美しい街並みが残されている、とあった。

 ガイドブックの頁をめくると、「エゴン・シーレ・アートセンター(EGON SCHIELE ART CENTRUM ČESKÝ KRUMLOV)」[http://www.schieleartcentrum.cz/]があることを知る。シーレの母親の出生地らしい。とうことは彼にとっては半ば故郷である場所。そこにあるアートセンター。自由時間がとれるならここに行きたいと漠然と考えていた。 

 エゴン・シーレは、1890年ウィーン近郊で生まれた。1910,11年頃、このチェスキー・クルムロフ(当時はドイツ風に「クルマウ」と呼ばれていた)に滞在して風景画を創作している。
 このエッセイで度々言及している今から百年前の1914年、彼は何をしていたのかというと、第一次世界大戦が勃発し、オーストリア=ハンガリー帝国軍に召集されていたそうだ。当時は24歳、その4年後の1918年、第一次世界大戦が終わったが、まもなくスペイン風邪で亡くなった。28歳の短い生涯だった。

 旧市街の小さな広場から少し路地に入ると、「エゴン・シーレ・アートセンター」が見つかる。壁には見覚えのあるシーレのモノクローム写真を使ったポスターが十数枚貼られている。ロックのビートのように訴えかけている。何かを凝視しているがどこか虚ろなあの眼差し、右手と左手の指を組み合わせた独特のポーズ。「表現主義」的とも評されていた写真だ。
 このシーレ像を見たのは久しぶりだったが、こうしてポスターになっているのを見ると、ポスターという媒体によく合う。(ある意味では「アーティスト写真」の原型のようでもある。ふと、「ロックの詩人 志村正彦展」のポスターを十数枚どこかの壁面に飾ったらどのような雰囲気になるのか想像してしまった)

エゴン・シーレ・アートセンター入口近くの壁面

 私のような70年代にロックを聴きはじめた世代にとって、デビッド・ボウイを通じてエゴン・シーレを知ったというのが共通経験ではなかっただろうか。
   『Low』で始まるボウイのベルリン3部作。ブライアン・イーノやロバート・フリップとのコラボレート。クラフトワークなどジャーマンロックの影響。1977年発表の第2作『Heroes』のジャケット写真は鋤田正義によるもので、当時、一世を風靡した。ボウイはシーレやその「表現主義」に影響を受けたと言われていた。

 1979年に池袋の西武美術館で開催の「エゴン・シーレ展」は日本初の本格的な企画展で、ロックファンもたくさん押しかけた。大学生だった私も、まさしく「ex-press」、身体の奥底にあるものが表に突き抜けて現れ出てくるような画風に圧倒されたことをよく覚えている。極東の島国の若者にとって、ロック音楽やサブカルチャーを通じて、欧米の美術や文化への関心が広がり、理解も深まっていくという時代だった。
 思い出話をひとつ。1978年12月12日、NHKホールで開催のデビッド・ボウイの「Low and Heroes World Tour」は、私がこれまで見た欧米アーティストのライブの中でも最も印象に残るものだった。あの日の渋谷の公園通りは、ファンの娘がボウイを真似た帽子を被って街を歩き、祝祭の空間と化していた。(36年前の出来事だ。どれだけ時が経ったのか。36という数字を記していると、眩暈を覚える)

『Heroes』ジャケット

  「エゴン・シーレ・アートセンター」に入る。ビール醸造所を改築した三階建で、天井が高い。同じように工場を改築してできた甲府の桜座を少し思い出した。
 1階は現在アートの展示スペース、2階には過去のシーレ展のポスター展示やエッチングなど、3階には彼の実物資料、アトリエで使った椅子や机。モデルが着ていた衣装とその絵の写真。シーレの絵画は高騰していて、残念ながら、このセンターには本物の油彩画はないそうだ。絵画のコレクションの場合、そのような難しさがある。

 しかし、チェスキー・クルムロフを描いた絵の写真とそれを描いた場所38点が地図がグラフィックパネルになって展示されていた。絵画を制作した場所とその視点を一つひとつ調査していく地道な作業に基づいている。実物の絵画がなくても、このような方法で「エゴン・シーレとチェスキー・クルムロフ」というテーマを掘り下げていくことは素晴らしい。(例えば志村正彦の場合も、同級生がゆかりの場所のマップを作り、とても好評だ。音楽と美術は根本的に異なるが、このアートセンターの方法、作品とゆかりの場所をリンクさせることも有意義かもしれない)

 シーレがこの街をどのように描いていったのか。「czechtourism」のサイトでは、次のように説明されている。 (http://www.czechtourism.com/tourists/cultural-heritage/stories/praha/related/cesky-krumlov/?chapter=2

シーレは一人になって、新しいもの - 黒色の水、音を立ててしなる木々、厳かな教会などを目にし、湿った青緑色の谷間を見て心を洗い、新しいものを創造することを欲していました。チェスキー・クルムロフはしばしその隠れ家となり、彼の創作は新しいテーマを得たのです。シーレは旧市街の路地でモチーフを見出すと、これを周囲の丘、あるいは城の塔など、一風変わった視点から捉えて描きました。これらの作品のおかげで、私たちは現在も、彼が言うところの「青き川の町」の姿を、画家の目から眺めることができるのです。

 百年経った現在でも、シーレの目から母の故郷の風景を眺めることができる。百年後の志村正彦を考えている私たちにとっても示唆的な言葉だ。

チェスキー・クルムロフの旧市街

 帰国後調べると、シーレは百年前の20世紀初頭において、すでにこの町を「死の街」と形容していたそうだ。この街は、産業革命の波に取り残され、交通の便も悪く、19世紀になると没落していったようだ。第一次大戦、第2次大戦とナチス・ドイツ、その後の社会主義体制とドイツ系住民の追放など、歴史の荒波にもまれ、荒廃していった。1989年の「東欧民主化革命」以降、ようやく街は再生していった。

 百年を経て、様々な曲折を経て、「死の街」から「再生の街」「世界遺産の街」へと変容していったチェスキー・クルムロフ。私のように観光客として訪れた者の眼には、その時、限りなく美しい街の光景だけが刻まれたのだが、歴史の記憶もそこに重ね合わせなくてはならない。

    (この項続く)