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2026年9月7日月曜日

レアの夢・二つの世界・〈現実的なもの〉-五十嵐哲也『環の国にて』2

 今回は、黒板当番・五十嵐哲也氏の『環の国にて』第二部トコロボの重要なシーンに焦点を当てたい。四回ほど続いた五十嵐氏の作品についての批評的エッセイのフィナーレとなる。(できるだけ「ネタバレ」を避けたいですが、論の展開上、重要な箇所に言及することをあらかじめご了承ください)


 『環の国にて』の主人公、若い女性のレアは土星の衛星の氷の中にある〈宝物〉を探すための調査に出かける。

 あるとき、土星の惑星エンケドラスの内部海の大きな氷塊の割れ目から、手の平くらいの大きさのU字型の物体を見つける。おもちゃのロボットのようなものだった。

 レアはその物体を〈トコロボ〉と名づけ、手話による対話を始める。


レアとトコロボ


 ある日レアは夢を見る。第二部SCENE 30「夢の中で」の該当箇所を引用する。

 夢のなかで、自分はレアではなく、暗い海のなかでさまよういきものになっている。人の形はしているけれど、人間ではないなにか。冷たい水の底でひとりぼっちでいると、いつも自分を見つけてくれる小さな〈ともだち〉がいた。


 その〈ともだち〉はレアを〈目的地〉に連れて行こうとする。けれども、その目的地にはたどりつけない。夢はいつもその手前で終わってしまうからだ。これは我々の見る夢の特質である。しかし、この日だけは特別だった。レアは目的地の〈海の底の平原〉に行くことができたのだ。

 レアが上を見上げると、明るい光を投げかける生き物たちがたくさん浮かんで、あたりを照らしていた。自分たちの光を浴びて、彼らの姿は、まるで小さな白い花が空にたくさん散らばっているみたいだった。夜空の星のような、舞い散る雪のような、たくさんの花。


 海の底ではたくさんの生き物が明るい光を浴びて、小さな白い花のように光っている。レアはその美しい光景を見てある洞察に至る。

 レアは気付いた。そうだ、ここはトコロボの故郷なんだ。私はいま、トコロボの住む性界にいて、このともだちは、トコロボの本当の姿なんだ。私はいつも夢のなかで、この海のなかでもトコロボに会っていた。そしていつもトコロボに助けてもらつていたんだ。


 レアが夢の中でたどりつこうとした目的地はトコロボの故郷だった。そして、その世界で暮らす小さな生き物がトコロボの本当の姿であった。レアはすでにある予感を持っていた。第1部SCENE 2「千億の宝石の河」の場面で、レアがふと何かを感じて、〈誰かが、この環のどこかにいるような気がした〉とあったが、この〈誰か〉とはトコロボのことだった。レアは夢から覚めた後でも夢で見たことをはっきりと覚えていて、〈この夢は、ただの夢。それとも、自分が見たのは、どこかにある現実の場所なのだろうか?〉と考える。


 第二部SCENE 31「二つの世界」では、レアの世界とトコロボの世界という二つの世界の関係についてある重要なことが示される。


 レアは海の底で別の生き物になる。ヒトの目では決して見えない暗い海底の光や色彩を見ること、ヒトの可聴域をはるかに超えて響く音や声を聞くことができた。自分とはまったく違った身体になり、トコロボの本当の姿である生き物に遭遇する。

 レアが自分の見た夢を語り終え、デルス先生たちのミーティングに参加すると、次の仮説が生まれる。

 それは、トコロボはロボットではなく、どこか別の世界に棲む生物がリモートで動かしている仮の身体なのだ。そしてレアも同じように、夢の中でその海底にある別の肉体にアクセスし、お互いが別の身体で相手の世界を訪れているのではないか。


 つまり、仮の身体のトコロボと別の肉体のレアが互いに夢の中で相手の本体と交流している。レアはこの海が衛星エンケラドスの内部海だと推測する。レアが描いた夢の中の海底の風景はエンケラドス生命圏の想像図だった。

 さらに、異星人〈氷売り〉が九万四千年前にここを訪れ、互いが別の身体で相手の世界を訪れる技術を残したいう仮説も生まれる。〈氷売り〉は、地球の生命とエンケラドスの生命が互いの生態系を脅かさずに相互交流できる方法として、トコロボを残していった。 レアは最終的にある結論に至る。

 トコロボは〈氷売り)が作った一種の受信機のようなもので、トコロボの本当の姿は、環の国のすぐ近くをめぐる衛星エンケラドスの海の中で、仲間たちと一緒に暮らす〈トコトコ族)のひとりなのかもしれない。


 衛星エンケラドスの海の中の生物〈トコトコ族〉がトコロボの本当の姿だった。


 この〈トコトコ族〉は前作『トコトコとスペースシャットルの宇宙のハタオリトラベル』に登場している。この作品では、トコトコはその名のとおリトコトコと歩き回る生き物で、珍しいものを探して旅をするのが大好きだった。『環の国にて』では、本体の生き物〈トコトコ〉とリモートで動かされる仮の身体〈トコロボ〉の二つに分化しているのだろう。レアは〈トコトコのひとりがレアの世界ではトコロボだった。レアは環の国とエンケドラスの海の底という二つの世界のあいだでトコロボと対話しているのだった〉と考えた。


 五十嵐哲也『環の国にて』はレアの見る夢が鍵となる作品である。

 筆者は芥川龍之介や志賀直哉の夢をモチーフとする作品を精神分析家ジャック・ラカンの理論に依拠して分析した論文を書いてきたが、この作品についても同様の試みをしたい。


 ラカンはセミネール第11巻『精神分析の四基本概念』(Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse 1963-1964、『 精神分析の四基本概念(上)  小出 浩之・新宮 一成・鈴木 國文・小川 豊昭 訳  岩波文庫 2020)の「無意識と反復」で、フロイトを参照して、人間という主体と夢との関係について次のように述べている。


 フロイトは主体に次のことを言うために主体に語りかけた、と言いたいのです。つまり、「この夢という領野、そこでこそあなたは我が家に居るのです。Wo es war, soll Ich werden.(それがあったところに、私はあらねばならない)」、と。


 さらに、ラカン理論の核となる〈現実的なもの〉を導入して次のように説いている。


 主体自身はそこに、つまり「それがあったところ」に――先取りして言うと、現実的なものに――自身を再び見出すために、そこに居るのです。〔……〕そしてそこに居ることを知るには、たった一つしか方法はありません。それは網目に目印をつけることです。では、網目はどうやって目印をつけられるのでしょう。それは、戻ることによって、帰ることによって、道を横切ることによってです。つまり何かがつねに同じ仕方で重なることによってです。


 人間主体にとって夢は〈我が家〉である。夢は、〈現実的なもの〉とラカンによって名づけられたもの、〈それがあったところ〉である。人間主体は〈現実的なもの〉に自身を再び見出そうとする。「再び」とされるのは、主体はかつてその〈現実的なもの〉の場に居たことを暗に示している。

  〈現実的なもの〉はフランス語の〈Le Réel〉の訳語だが、この語は〈現実界〉とも訳されている。ラカンの唱える〈現実的なもの〉は、私たちが生きている通常の〈現実〉とは異なる。〈現実的なもの〉は、本質的に、言語によって語ることもイメージによって描くこともできない。表象することが不可能なものである。その不可能なものを説明することは難しいのだが、引用したラカンの文脈では、〈現実的なもの〉は、人間が元々あったところ、人間が本来あるべきところ、人間が最終的に帰還すべき場所だとひとまず考えることができる。その帰還は夢の中で可能となることがある。夢の中で人間の無意識が開かれると、一瞬の幻のように〈現実的なもの〉が現れることがある。しかし、あくまでも夢の中での出来事であり、現実の中では不可能である。言語やイメージなどの意識的行為によって〈現実的なもの〉を示すことは不可能だが、無意識の活動によって〈現実的なもの〉が浮かび上がることはありえる。〈現実的なもの〉は意識によって閉じられるが、無意識によって開かれるとも言えるだろう。

 主体が夢の中で〈現実的なもの〉を見出すための方法として、夢の中の〈網目〉に目印をつけることが挙げられる。ここで織物の編目という比喩が使われていることに注目したい。ラカンは夢を構成する一つ一つの要素をシニフィアンと名付けている。私たちの喜怒哀楽の経験はシニフィアンとして無意識の中に記憶され、やがて、その記憶と何らかの関係を持つような出来事との遭遇によって、シニフィアンが多様に連鎖し、イメージを形成し、夢を構築していく。


 人間主体は夢を見る。そしてその夢の中で、シニフィアンの網目に目印をつけようとする。網目に目印をつけることは自らの記憶やそれに関わる出来事を想起することでもある。夢の網目の中で、進む、戻る、帰る、横切るなどの反復行為によって、〈現実的なもの〉を見出そうとする。人間が本来あるべきところに帰還しようとする。

 「環の国にて」という作品の場合、レアは〈スライディング〉の技術を使って、土星の環の空間を自在に飛び回る。レアは土星の惑星の編み目をたどるようにして、上昇したり下降したり、横切ったり時に戻ったりして、空間を移動していく。夢の中では、海の底に入り、風景を眺め、生物と遭遇する。その行路は、ラカンの言う〈現実的なもの〉を見出すための軌跡に類似している。

 レアは夢の中で〈目的地〉を目指して進んでいく。レアの夢の中の〈目的地〉、気配として感じた〈誰か〉がいる場所は、レアにとっての〈現実的なもの〉の場だと捉えられる。レアは本来あるべき場、自らが帰るべき場所を意識的無意識的に目的地にして、探索の旅を続けたのではないだろうか。『環の国にて』の物語の枠組はSF小説のものだが、レアの物語は内面の旅、無意識の次元の旅でもあるだろう。


 レアの夢のシーン、二つの世界という仮説提示の後も、物語は進んでいく。地球、富士山、故郷、スペースシャットル、手紙という重要なモチーフが展開していく。ぜひこの作品を読んでいただきたい。


 最後に五十嵐氏の作品の全体を振り返りたい。




 2018年の『トコトコとスペースシャットルの宇宙のハタオリトラベル』で、山梨の織物工場で使われていた〈シャットル〉が宇宙を旅する〈スペースシャットル〉となり、土星の衛星エンケラドスの氷の下の海に住む小さな生き物たち〈トコトコ〉に出会う物語を作り、2025年の『環の国にて』では、〈レア〉という女性が〈トコロボ〉という小型ロボットを発見し、夢の中でエンケラドスの〈トコトコ〉と遭遇する物語に発展させていった。

 ハタオリとシャットル=スペースシャットルを基軸にして、地球・山梨・富士北麓と土星・環の国・エンケドラスという宇宙の空間、人間レアと未知の存在トコロボ=トコトコの遭遇と交流という要素を織り込んで、宇宙空間を舞台とするSF小説として『環の国にて』を編み出すことに五十嵐氏のモチーフがあったと言えるだろうが、筆者はレアの夢の中の出来事を語ることも重要なモチーフであったと考えている。レアの夢のシーンは非常に魅力的だ。


 リモートで動かされる仮の身体のトコロボと別の肉体にアクセスしたレアが、夢の中で互いに相手の本体と交流する。夢もまた人間主体が見る仮想の世界である。夢という仮想の世界で二つの仮想の存在が遭遇するというアイディアが秀逸である。

 さらに踏み込んで言うと、五十嵐氏はレアの夢を通じて、レアにとっての〈現実的なもの〉、レアが本来あるべきところ、レアが最終的に帰還するところを黒板画のイメージとして描き、物語のテクストとして語ろうとしたのではないだろうか。これは五十嵐氏の無意識な次元での創造であるかもしれないが。筆者はそのような想いにとらわれた。

 黒板画というイメージ、SFのストーリーというテクストを編物・ファブリックのように織り込んで、地球・富士北麓と土星の環の国・エンケラドス、〈レア〉と〈トコロボ=トコトコ〉という二つの空間と存在を描き、語った。ラカンの理論に依拠した筆者の観点からすると、〈現実〉と〈現実的なもの〉という二つの世界を構築していった。


 五十嵐哲也『環の国にて』(Life in the Rings of Saturn)は、秀麗なイメージと秀逸なテクストを融合させた真に独創的な作品である。


2026年8月29日土曜日

レアの感覚と想起-五十嵐哲也『環の国にて』1

  黒板当番・五十嵐哲也氏の『環の国にて』(Life in the Rings of Saturn)は、2025年10月18日、ハタオリマチフェスティバルの初日に刊行された。

 僕もこの日に「黒板当番」ブースで五十嵐氏から直接購入した。黒を基本とした色調とマットな手触りの紙質が洒落ていた。A5判のコンパクトな判型の全96頁に、見開きの右側の半分ほどに落ち着いた色調の黒板画の画像、左側に細やかなフォントで濃密な文章が配置されている。この書物自体が「作品」としての質感を有していた。

 発行所はMOKUHON PRESS。山梨県韮崎市の本屋YOMUの出版レーベルで、BEEK DESIGNの土屋誠氏が主宰している。印刷所は個性的な本作りで知られる長野県松本市の藤原印刷。MOKUHON PRESSのサイトなどから購入できる。おそらく今年のハタフェスでも販売されることだろう。



 『環の国にて』は、第1部「レア」20章、第2部「トコロボ」25章の全45章のストーリーから構成されている。それぞれのシーンが、五十嵐氏が描いて富士山駅のヤマナシハタオリトラベル mill shop で展示した黒板画に基づいている。どのようにしてこの作品を創造していったのか。彼自身による説明をここで紹介したい。


ひとつのSCENEの中では、まず黒板画を描き、完成させ、保存用に一眼レフで撮影し、照明の影響などによる明るさのムラを Photoshopでなくす画像修正作業を行います。それが完成するまでは、一文字も書くことはありません。画像の一連の作業が終わってから、はじめて文章を一気呵成に書き上げます。黒板画を描き、画像処理まで終わらせるあいだに書くべき言葉が頭の中で熟成されるのか、言葉を紡ぐ作業にそれほど多くの時間はかかりませんでした。絵を描くことに没頭することで脳のモードが変わるような感覚もあり、絵が完成してからでなければこれは書けなかっただろう、と何度も思った記憶があります。


 〈絵を描くことに没頭することで脳のモードが変わる〉〈絵が完成してからでなければこれは書けなかった〉という文言が興味深い。これが創作の秘訣なのだろう。黒板画のイメージが物語のテクストを生み出していく。このプロセスによって、五十嵐氏は黒板画と文章、イメージとテクストを複合して相互に関係づける独創的なスタイルを編み出した。


 2018年の『トコトコとスペースシャットルの宇宙のハタオリトラベル』は、山梨の織物工場で使われていた〈シャットル〉が、宇宙を旅する〈スペースシャットル〉となり、土星の衛星エンケラドスの氷の下の海に住む小さな生き物たち〈トコトコ〉に出会う物語だった。この物語には人は存在しなかった。2025年の『環の国にて』は、〈レア〉という若い女性を登場させ、〈トコロボ〉という不思議なロボットを発見することによって、エンケラドスの〈トコトコ〉と遭遇させる物語である。

 地球・山梨と土星・エンケドラスという空間、ハタオリの技術という現実の要素。スペースシャットルの旅とトコトコとの遭遇、人間のレアとロボットのトコロボの交流という空想の要素。現実と空想の二つの要素を織り込んで創られたのが、五十嵐氏のこの二つの物語、「シャットル・サーガ」とでも呼べるシリーズ物語である。


 『環の国にて』は、『トコトコとスペースシャットルの宇宙のハタオリトラベル』にレアとトコロボという魅力的な人物・キャラクターを加えることによって、SF的な小説へと発展させていった。ストーリー自体はシンプルなのだが、ところどころに多様なモチーフを包み込むことによって、彩りのある豊かな作品になっている。詳細を語ることはネタバレになってしまうので、このブログでは印象深い二つのシーンに限定して二回に分けて述べてみたい。


 今回は第1部レアのSCENE 2「千億の宝石の河」の場面である。

 主人公のレアは若い女性。地球から遠く離れた土星の環の氷で作られた小さな街の世界〈環の国〉で生まれ育った。学校卒業後は環のフィールド調査チームに参加する予定だが、その前に氷塊を乗りこなす〈スライディング〉の技を使って旅に出る。レアは土星の輪をいろいろな角度から眺めているときに、ある不思議な感覚にとらわれる。この箇所の本文を引用したい。


 そこでレアはふと、何かを感じて顔を上げた。誰かが、この環のどこかにいるような気がした。ほんの一瞬だったけれど、気配の残像のような感触が耳元にまとわりついていた。誰もいるはずがないのに、と冴しむよりも、懐かしい、という気持ちが湧き上がってきた。そう、この感覚は久しぶりだ。


 レアは何かを感じとる。土星の環のどこかに誰かがいる。その気配だ。その残像の感触はある懐かしさを感じさせる。レアはあることを想起する。


 小さなころに好きだった絵本の、環のなかに住む妖精の話。
 旅人をびっくりさせたり、助けたりする気まぐれな氷の妖精が、環の氷のなかに身を潜め、誰かが来るのを待っている。そこへそっと気付かれないように通りかかり、こっちが先に妖精を見つけてあげる。そうすると妖精にかけられた魔法が解けて、二人はともだちになるのだ。


 レアは小さい頃に環のなかに住む妖精の話の絵本が好きだった。氷の妖精と出会い、二人は友達になる。この絵本のモチーフが『環の国にて』全体の伏線ともなっている。入れ子型の構造でもある。

 レアの土星の環の探索は、レアの記憶のなかの世界、無意識の世界への探究でもある。レアは自らの無意識を探るようにして、土星の環、エンケドラスの氷の世界の秘密を明らかにしていく。この冒険の物語が黒板画の繊細な画像と緻密なテクストによって綴られていく。

                          (この項続く)


2026年8月17日月曜日

黒板当番・五十嵐哲也氏の『トコトコとスペースシャットルの宇宙のハタオリトラベル』

 黒板当番・五十嵐哲也氏の『トコトコとスペースシャットルの宇宙のハタオリトラベル』は、2018年12月、富士吉田織物協同組合から刊行されたZine風の本である。

 五十嵐氏が2016年6月から2017年3月まで、富士急行線富士山駅のヤマナシハタオリトラベル mill shop で展示した黒板画とそのストーリーを記した日本語と英語のテクストが見開き頁尾の左右に配置されている。001頁の「はじめに」と002-003頁から042-043頁までの21のシーンがある。

 刊行の経緯については、ハタオリマチのハタ印プロジェクトの「ヤマナシハタオリトラベル mill shopの「黒板当番」のグッズを制作しました!」に詳しい。(今でもこの本は常時ヤマナシハタオリトラベルmill shopで、ハタフェスの歳には黒板当番ブースで購入可能ですので、関心のある方はぜひご覧になることをおすすめします。)


 当初から、黒板画とストーリーが一緒に展示されていたのかなど、この作品の成立過程について知りたかったので、五十嵐氏に伺ってみたところ、いくつかの点についてご教示いただいた。

 この物語の全体について語るのはネタバレになってしまうので、五十嵐氏のご教示に言及しながら、「はじめに」と最初の三つのシーンに限定して紹介していきたい。


 001頁の「はじめに」をまず引用したい。

これはヤマナシの織物工場で使われていたシャットルが、宇宙を旅するお話です。スペースシャットルが、なぜ宇宙を旅するようになったのかは分かりません。あるとき、スペースシャットルは土星の衛星エンケラドスの氷の下の海にすむ小さな生き物たち、トコトコ族に出会いました。そして、スペースシャットルとトコトコたちのお話が始まります。

 「シャットル」(shuttle)は織物を織るときに、経糸の間に緯糸を通すのに使われる道具。現在では「シャトル」というカタカナ表記が一般的だが、織物産業などでは「シャットル」が今も使われているようだ。

 この言葉が語源となって往復を繰り返すものをシャトルと呼ぶことがある。アメリカ航空宇宙局(NASA)が1981年から2011年にかけて打ち上げた有人宇宙船の名前は「スペースシャトル」(Space Shuttle)だった。地球と宇宙空間を往復して再利用することからこのような名が付けられた。五十嵐氏もこれに倣って宇宙を旅するシャットルを「スペースシャットル」と命名したのだろう。

 山梨の織物工場のスペースシャットルが、NASAのスペースシャトルのように宇宙へ旅発つという愉快で可愛らしい設定の話である。


 002-003頁から物語が始まる。左側の黒板画と右側の日本語テクストを掲載する。




宇宙を旅するスペースシャットルが、何かに誘われて土星の近くまでやってきました。土星をとりまいているリングの近くでは、太陽の光を受けて輝く氷のつぶやかたまりが、はるか彼方までびっしりと浮かび、とても美しい光景が広がっていました。けれども、スペースシャットルの目的地は、ここではないようです。

 左側の黒板画は、五十嵐氏によると、2016年6月に描いた最初の絵であり、トコトコの物語として描いたものではなく、あとから舞台の説明に使えると思って序章に挿入したそうである。確かに、この画では左上に「スペースシャットル」、中央に土星とそのリングの氷の粒や塊が描かれている。モノトーンの黒と白の対比が宇宙空間をくっきりと描いている。ここにはまだ生物の感触はない。


 004-005頁で「トコトコ」が登場する。左側の黒板画と右側の日本語テクストを引用する。




ここは土星の衛星のひとつ、エンケラドス。表面を覆う厚い氷の下には、広大な海が広がっています。その深い海の底、熱水が湧き上がる海底火山のまわりには、トコトコたちが住んでいました。トコトコは、その名のとおリトコトコと歩き回る生き物で、珍しいものを探して旅をするのが大好きでした。

 物語の舞台になるのは、土星の衛星のエンケラドスの氷の下の広大な海の底。登場する生物はトコトコ。右側の画の一番下に、深海の底で不安げに周りを見つめているトコトコが描かれている。この黒板画は『トコトコとスペースシャットルの宇宙のハタオリトラベル』の表紙絵にもなっている。


 006-007頁ではトコトコが不思議なもの(スペースシャットル)と出逢う。この黒板画は五十嵐氏によると2016年8月に描かれた。ちょうど今から十年前になる。

 富士山駅のmill shopで展示した当時の写真を五十嵐氏から送っていただいた。直接チョークで板に解説文の文字を書いていたそうである。その画像を添付したい。




 当時の画の解説文にはこうある。

土星まで旅をしたスペースシャットルは衛星のエンケラドスの地底海でトコトコ族に発見されるのだった。

 完成版の本の日本語テクストにはこうある。

ある日、1人のトコトコが歩いていると、不思議なものを見つけました。「これはいったい何だろう?」


 この二つのテクストを比較すると、「スペースシャットル」が「トコトコ族」に発見された、から、「トコトコ」が「不思議なもの」を見つけた、に修正されている。「トコトコ」に焦点を当てた表現に変化した。さらにこの場面ではまだ「不思議なもの」の発見であり、「スペースシャットル」という名も示されていない。次頁以降で宇宙人のマルベリーとグリッパーが地球でハタオリに使う道具であることを教えてくれる。


 トコトコとスペースシャットルという未知との遭遇によって物語は進んでいく。
 五十嵐氏はこの作品の成立についてこう述べている。

最初に描いたときには、物語を描くつもりはなく、独立した一つのシーンの絵として描きました。描き終わってから、これの続きを描いてみよう、と思い立ってストーリーを考えました。
   
 002-003頁のスペースシャットル、004-005頁のエンケラドスとトコトコ、006-007頁のトコトコとスペースシャットル、というように最初の三つのシーンで主要な物、舞台、生物が登場して物語が展開していく。

 五十嵐哲也氏は、まず黒板画のシーンを描いてから想像力を膨らませて次第に物語を紡いでいった。彼自身の手がシャットルのように動いて、黒板画のシーンという経糸の間に物語テクストの緯糸を通すことによって、『トコトコとスペースシャットルの宇宙のハタオリトラベル』という織物の作品を創造していった。織物の研究や開発という本職と黒板チョークアートという活動のファブリックでもある。


 二つのものが美しく織り込まれるときに新たなものが生まれてくる。

 織物、ファブリックの魔法である。


 なお、五十嵐氏が本職の関連で運営している「シケンジョテキ」というサイトの「2021年8月16日テキスタイルの生態系/織物工場を植物に例えてみる」などに、この物語を理解する上で参考になることが書かれていることを付言したい。

2026年8月12日水曜日

黒板当番・五十嵐哲也氏の黒板チョークアート

  黒板当番さんが志村正彦を描いた黒板画は志村ファンの間で有名である。このブログでも何度か言及したことがある。

 志村の黒板画は、毎年7月、富士吉田市の防災無線のチャイムが「若者のすべて」に、12月に「茜色の夕日」に替わるときに下吉田駅の広場で披露されたり、ときどき富士急ターミナルビル「Q-STA」内のショップで展示されたりしてきた。また、10月のハタオリマチフェスティバルでも黒板画のミニギャラリーやワークショップが開かれてきた。

 この黒板当番さんの活動が、7月29日に地元局のテレビ山梨UTYの「スゴろくニュース」で「地場産業活性化にも貢献 繊細な技!黒板チョークアート」と題して特集として放送された。取材やインタビューはUTYの西垣友香アナウンサー。黒板当番さんは本名の五十嵐哲也として登場。この番組でも紹介されたが、五十嵐氏は山梨県産業技術センターの富士技術支援センターに勤めていて、山梨の織物の研究や技術開発や支援を行っている。

 僕が山梨英和大学で担当している山梨学Ⅱでは、毎年、富士吉田のハタオリマチフェスティバルを見学しているが、2019年から毎年、その事前学習の講義を五十嵐氏に依頼してきた。「山梨ハタオリ産地の歴史とブランディング活動」と題する講義は、富士吉田市や西桂町の伝統的産業である機織産業の歴史と最近のブランディング活動についての理解を深め、山梨県の地場産業の現状と課題、その可能性について考えるものだった。百枚に及ぶ美しいデザインのSLIDEと手製の機織器具も使った講義は学生から非常に好評であった。

 そもそもこの講義で会った際には、僕は五十嵐氏が黒板当番であり、五十嵐氏も僕が偶景webの主催者であることを知らなかった。(当時はまだ黒板当番というペンネームで発表されていた)。それまで互いに志村正彦の黒板画と志村正彦ライナーノーツの存在を知っていたが、二人とも講義が終わった後でたまたま互いが誰であるかに気づいた。「あなたがあの……」と驚くことになった。その出来事を今は懐かしく想い出す。


 UTYの「スゴろくニュース」の映像は一昨日からYouTubeのUTYテレビ山梨公式チャンネルに〈「仕事帰りにプライベートで描き続けていたら、だんだん面白く」黒板チョークアート作家の男性 地元の織物産業の活性化にも一役 山梨〉というタイトルでアップされているので、ぜひご覧いただきたい。また、ニュース記事の方はTBS NEWS DIGで掲載されている。




 YouTube映像から、大切な箇所を文字化して記録しておきたい。

(ナレーション)今月7日、富士吉田市内に流れる夕方6時のチャイムの音が、地元出身のミュージシャン故志村正彦さんが作曲した「若者のすべて」に切り替わりました。「黒板当番」の名前で活動する五十嵐哲也さんは、毎年行われるこのイベントに合わせ、志村さんの黒板チョークアートを描いています。五十嵐さんの作品は一部のファンにすっかりお馴染みで、記念写真を撮っていく人もいます。〔……〕富士急ターミナルビル「Q-STA」内にあるショップは、五十嵐さんの黒板チョークアートが生まれた場所でもあります。実は五十嵐さんは県技術センターの職員で、1999年から富士北麓地域の織物業の支援に携わり、今も継続する様々なプロジェクトの立ち上げに関わってきました。

(西垣友香アナウンサー)そもそもなぜここに黒板チョークアートがあるんでしょうか?
(五十嵐哲也氏)織物工場の方々がここでグループでお店を作るというオープニングの時にお手伝いをしていまして、その時に「こういう黒板でチョークで看板があれば人のぬくもりが感じられてとてもいいんじゃないか」と提案をさせていただいて。ま、私が仕事帰りにプライベートで書き続けようとやっていたんですが、だんだん書く方が面白くなっていったので、むしろ自分の趣味をここでさせていただいているような感じになってきました。

(ナレーション)五十嵐さんは去年、自身の黒板チョークアートにオリジナルの物語を組み合わせた『環の国にて』を出版しました。未来の宇宙が舞台で、地球の女の子と他の星の生き物を富士北麓の産業である織物が結ぶ物語です。〔……〕そしてもう1つ、五十嵐さんの宇宙をテーマにした作品が、富士山の美術館として知られる「フジヤマミュージアム」に展示されています。

(西垣友香アナウンサー)今後どのような活動をしていきたいと思いますか?
(五十嵐哲也氏)私は本業で織物の産業の支援をさせていただいているんですが、黒板を通して織物のことを知ってくださったという人がいたり、黒板とチョークという非常にシンプルな画材の中には今後もまだまだ可能性があると思いますので、それを探っていきながら、地元の隠された魅力、まだ伝わっていない魅力を伝える一助になればなと思っています。


 五十嵐氏が黒板チョークアートを始めた経緯やその後の展開がよく分かるインタビューだ。プライベートな作品(work)が次第にパブリックな活動(action)に発展している。志村正彦を描く黒板画を愉しみにしているファンは多いだろう。僕はこのブログの文章を通じて志村の歌について語ってきたのだが、黒板アートと文章テクストという媒体の違いはあるが、志村正彦を描いたり語ったりするという表現行為とそれによる活動をしているという点において、僕は五十嵐氏を勝手に「同志」だと思っている。


 黒板画の志村正彦はその表情がとても魅力的だ。五十嵐哲也氏の想像力によって、チョークの繊細な点描の技法を通して、多彩で豊かな志村の姿が自在に表現されている。生き生きとしている。黒板画を飛び出して志村が歌い出すかのように感じる。

  7月10日に下吉田駅で展示された黒板画の志村正彦は少し微笑んでいて柔らかい眼差しをしている。二十歳前後の志村のイメージだろうか。私たちが知らない志村の表情がその場に現れてくる。

 五十嵐氏は、志村正彦の他にも自ら創造したキャラクターを黒板画で描いている。その作品は富士北麓のハタオリともコラボレーションしていく。この地域のハタオリという産業や文化を振り返り、その現在の姿を明らかにし、未来の可能性を探究していく試みでもある。


 番組でも触れられていたが、五十嵐氏は昨年2025年10月『環の国にて』という本を MOKUHON PRESSから出版した。土星の〈環の国〉で育った〈レア〉が小さなロボットの〈トコロボ〉を見つけたことを契機に世界の隠された秘密を探索していくSF小説。その物語に〈シャトル〉と富士山の麓の街やハタオリが織り込まれていく。普遍性と地域性の二つを融合した優れた作品である。見開きの二頁に文章テクストと黒板アートを配置したページデザインも秀逸だ。

 この『環の国にて』の姉妹作がある。2018年12月刊行の『トコトコとスペースシャットルの宇宙のハタオリトラベル』だ。こちらには〈トコトコ〉と〈スペースシャットル〉が登場する。

 次回以降、黒板当番・五十嵐哲也氏の『トコトコとスペースシャットルの宇宙のハタオリトラベル』と『環の国にて』についてこのブログに書いていきたい。


2026年1月11日日曜日

「短く 鮮やかに 土橋芳次回顧展」南アルプス市立美術館


 画家土橋芳次(1908~38年)の回顧展「短く 鮮やかに 土橋芳次回顧展」が、南アルプス市立美術館で開催中である。

  1908年、土橋芳次は甲府市富竹で生まれた。県立農林学校を卒業後、独学で洋画を描き始め、34年に上京して本格的に洋画を学んだ。36年、甲府市内で第1回個展を開き、同年の文展で初入選して、山梨県内の洋画家として頭角を現した。37年に山梨美術協会の創立会員となり、第2回個展が開催された。しかし、1938年病気により29歳という若さで亡くなった。この回顧展のテーマが「短く 鮮やかに」となったゆえんであろう。


 土橋の絵を初めて見たのは、昨年2024年、山梨県立美術館で開催された「山梨モダン 1912~1945大正・昭和前期に華ひらいた山梨美術」展の時だった。1937年の作品「美ヶ森」に魅了された。「美ヶ森」は八ヶ岳の尾根にある標高1500mほどの小高い丘。その丘に洋装のモダンガールが二人佇んでいる。咲き乱れる花々。向こう側に広がる高原。遠方には山脈の連なりが見える。山梨の壮大な風景とモダンで繊細な感覚が見事に融合した美しい優れた絵画だった。

 実はこの展覧会の時に、私のゼミで「Kポップと韓国社会」というテーマで研究をしていた女子学生が土橋の曾孫であることを知った。もともと、この女子学生の母(土橋の孫)が県立文学館で私の同僚であったという縁もあって、私のゼミに入ることになった。そういう関係も手伝って、私はこの画家に非常に興味を持った。


 南アルプス市立美術館の回顧展では、土橋家から寄贈された作品を中心に約60点の絵画や資料が展示されている。代表作の「お花畑」(1937年から1960年頃まで旧甲府駅舎の壁に掲げられていた。戦中は「出征兵士を送る絵」とも呼ばれていた)と「美ヶ森」の他に、山岳や高原を描いた風景画、コラージュ作品を載せたスケッチブック、新聞の連載記事や挿絵などが展示されていた。(同館のHPからフライヤーの表の画像を添付させていただきます)




 「お花畑」も「美ヶ森」と同様に、二人の女性、花、高原、連山が描かれている。高原と洋装の女性という不思議な取り合わせがモダンな雰囲気を醸し出している。モデルとなった女性によると、一週間ほど美ヶ森に出かけて描かれたそうである。美ヶ森は八ヶ岳の尾根にある標高1500mほどの小高い丘。レンゲツツジの群生や南アルプスの山々の眺望で知られている。

 「お花畑」や「美ヶ森」は、この山梨という場の中で、近景に〈花〉、近景から中継にかけて〈女性〉、中景から遠景にかけて〈高原と山〉という三つのモチーフから成り立っている。その三つの要素が写実的に遠近法的に描かれるのではなく、コラージュ的な組合せによって構成され、一つの空間の図として表現されている。時代的な制約を超えた独自性のある構図と描法である。


 この展覧会にはすでに二回ほど訪れたのだが、二回目は私の義母も一緒だった。義母は甲府駅に飾られていた「お花畑」のことを鮮明に覚えていて、再会することを楽しみにしていた。会場でおよそ60年ぶりに見た画と記憶の中にある画は完全に一致したそうだ。この「お花畑」には人々の記憶に何かを刻み込む力があるのだろう。

 2月8日(日)まで開催されているので、機会があったらぜひご覧になっていただきたい。


2017年1月10日火曜日

音楽、憂鬱、天使たちークラーナハ展

 土曜日、国立西洋美術館の「クラーナハ展-500年後の誘惑」を見てきた。
 東京の美術館に出かけることもほぼなくなってしまったが、この展覧会にはれはどうしても行きたかった。終了まであと一週間の時点で何とか見ることができた。予想よりはるかに充実した展示で、二時間以上かけてルカス・クラーナ(父、Lucas Cranach der Ältere、1472年-1553年)の作品を堪能した。
 (東京では15日、今週の日曜日までの開催。大阪・国立国際美術館で1月28日~ 4月16日開催。おすすめです)

 副題には「500年後の誘惑」とあるが、クラーナハの絵画、特に女性の眼差しに「誘惑」を感じることはなかった。もちろん、「誘惑」の眼差しは女性のものではなく、それを見ている男の欲望の眼差しの反転したもの、つまり男性の所有するものだ。クラーナハの女性はどこも見つめていない。どこかを見つめているのなら、その見つめられている場所に男が位置することで、その場から男が女を眼差す「欲望」が生まれる。しかし、あの女たちの眼差しは空洞のようなもので、男たちが「欲望」を感じる場が存在しない。男の眼差しは空を切ってしまう。

 クラーナハは大きな工房を設けて絵画の大量生産を行ったそうだ。現代で言うなら、アンディ・ウォーホルのファクトリーになぞらえる論もあるようだ。近年修復された代表作の色彩は五百年という時を超えてしまったかのように鮮やかだった。同一のモチーフの反復。装飾品的な味わい。不思議なのだが、ポップアートのような感触もある。そのことがこの画家の革新性なのかもしれない。

 影響を受けた画家や関連作品の展示もあった。レイラ・パズーキというイラン人アーティストの「ルカス・クラーナハ『正義の寓意』1537年による絵画コンペティション」という作品が特に面白かった。クラーナハの『正義の寓意』を中国の複製画制作者に模写させたもので、90枚の複製画が壁面に並んでいた。まるでウォーホルのキャンベルスープやマリリン・モンローの世界。本物とのずれ具合がとてつもなくポップだった。

 あまり目立たない作品だが、『メランコリー』という絵が印象に残った。

クラーナハ『メランコリー』部分

 十五人の天使を中心に、謎めいた女性が右側に、夢魔が上側に描かれている。笛を吹く天使と太鼓を叩く天使。踊る天使と眠る天使。「音楽にはメランコリーを癒す力がある」と信じられていたというキャプションが添えられていた。当時のドイツでそのように信じられていたのか、美術史や文化史に疎いので、その説明の根拠についての知識はない。音楽が憂鬱を癒す。経験としては誰にも覚えのあることだろうが。
 『メランコリー』の図像は複雑であり、何を示しているのかは分からないが、五百年前のドイツ人がこの絵画を愛しみ、愉しんだことは伝わってくる。
 

2015年11月7日土曜日

「没後100年 五姓田義松-最後の天才-」展

 今日は、横浜まで「没後100年 五姓田義松-最後の天才-」(神奈川県立歴史博物館)を見にいってきた。昨年夏の圏央道開通後、土日祝日等に限り、甲府から横浜までの直通バスが始まった。渋滞があったので2時間半ほどかかったが、以前よりずいぶん近くなった感じだ。乗り換えがなく、運賃も安いので助かる。

 この画家のことは、10月に放送されたNHK日曜美術館「忘れられた天才 明治の洋画家・五姓田義松」で初めて知った。テレビ画面を通してだが、その異様なまでのリアリズムと技術の高さに驚嘆した。どうしても行きたくなり、何とか都合をつけて特別展へ。十数年ぶりの横浜というお上りさん状態だったが、この街の賑わいと華やかさはさらに増していた。

 美術については素人ゆえに、見当違いの感想かもしれないが、彼のリアリズムは何か通常のリアリズムを超えている。リアリズムの過剰さと美しさが高い次元で結びついている。その過剰さが何に由来して、その美がどこにつながっていったのか。そんなことを展示室で考えた。
 十代できわめて高い評価を受け、二十代で渡仏し、帰国後の三十代以降は肖像画家として一定の成功を収めたようだが、本来の恐るべき能力からすると不遇に終わったともいえる生涯だった。美術史の中でも正当な評価を受けたとは言えない。この特別展を契機に、「忘れられた天才」「最後の天才」という派手なフレーズが一人歩きしそうだが、その言葉は素直にそして十分にうなずけるように思われた。
 (明日、11月8日まで開催)

 これは私自身のオブセッションのようなものだが、このような評価の歴史を歩んだ芸術家を知ると、どうしても志村正彦のことを考えてしまう。「没後100年」という時の経過の中で、五姓田は本来のあるべき場所に帰還しつつあるのだろう。志村の場合はどのような歩みになるのだろうか。

 先ほど、ネットを通じて気づいたのだが、今日は『若者のすべて』が私たちの歌の歴史に登場した日だった。
 2007年11月7日リリース。8年の年月を越えて、今、この歌はとても沢山の聴き手を獲得しているが、この歌の受容をめぐって、考察しなければならないこともある。

2015年3月15日日曜日

『石田徹也展-ノート、夢のしるし展』、静岡県立美術館で。

 2月中旬、静岡県立美術館で『石田徹也展-ノート、夢のしるし展』[http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/exhibition/kikaku/2014/06.php ]を見てきた。
 
 行きは、高速乗合バス「甲府-静岡線」を初めて使った。高速といっても、中部横断道がまだ全線開通していないので、甲府近郊からわずかばかりの高速を経てからは国道52号線の一般道をひたすら南下していく。静岡との県境を越えてしばらくすると、新東名高速に入る。
 山沿いの道から時々海が見えると心が少したかぶる。海のない山梨県人は、海を見ることに慣れるということがおそらくない。途中休憩を挟んで3時間で静岡駅前に到着。車内はたまたまかもしれないが3列シートで広々、運賃が2,550円と安いことも助かる。(自分で車を運転すれば、2時間半程だろうか。新東名のおかげで以前より短くなった。数年後、清水までの中部横断道が開通すれば、1時間半ほどに短縮されるだろう。静岡が近くなることが待ち遠しい)

 静岡駅前から路線バスに乗り、昼前に美術館に到着。「日本平」の小高い丘にあるこの館には何度か来たことがあるのだが、相変わらず落ちついた佇まいだ。眺望も良い。
 観覧前、館内のレストラン「エスタ」で「石田徹也展特別料理」のランチをいただく。彼の「故郷、焼津や、ここ静岡の食材を、ふんだんに使用」と紹介されていたコース料理はとても美味しかった。食材が山梨よりも豊かでうらやましい。石田徹也の作風とこんなに美味しい料理の取り合わせにはかなりギャップがあるような気もしたのだが、静岡の食文化の作品として堪能することにした。

 午後、企画展室へ入る。

 彼の存在は、2013年9月放送のNHK日曜美術館『聖者のような芸術家になりたい ~夭折の画家・石田徹也~』を見て初めて知った。テレビ映像を通じてではあるが、その作品と彼の言葉に強く惹かれるものがあった。吉野寿(eastern youth / outside yoshino)が登場し、『地球の裏から風が吹く』のジャケット画が石田作品だということにも興味を持った。隣県の静岡に巡回展が来るのは2015年ということもその時に知った。一年半近く待ち、この日、ようやく彼の作品そのものと向き合うことができたのだった。

 石田徹也は1973年静岡の焼津で生まれ、武蔵野美大の視覚伝達デザイン学科に進む。卒業後はアルバイトで働きながら制作を続けるが、2005年事故で不帰の人となった。
 [「石田徹也の世界 飛べなくなった人」石田徹也公式ホームページhttp://www.tetsuyaishida.jp/  参照]

 三十一歳という短い生涯、それにも関わらず遺された作品の数と質。生前からその才能をある程度まで評価されていたが、没後評価が非常に高まったという点において、美術と音楽というジャンルは違えど、どこか、志村正彦の人生と作品の命運に重なるような感じが最初からしていたことも書きとめておきたい。

 会場での印象を簡潔に記したい。
 彼の作品、特に初期のものは、例えば、eastern youthのCDジャケットになったように、ある種のデザイン性、メッセージ性という観点で語られることが多いだろう。描かれている世界の独自性は言うまでもない。また、彼の作品への関心を広げたという点でも肯定されるべきだろう。



石田徹也「兵士」 【eastern youth 『地球の裏から風が吹く』CD】
 

 しかし、静岡の展示室で彼の絵画を直に見ると、描かれている世界と同等かそれ以上に、その入念で執拗ともいえるような描きこみの方に衝撃を受けた。描くことの時間の重なりそのものが、彼の絵画として具現化している。描線と絵具のリズム、その複合的な反復のようなものが彼の作品をきわめて独創的なものにしてる。痛ましい言い方になるが、特に晩年になるにつれて、そのことが際だってくる。

 この日は講堂で、彼の親友の映像作家、平林勇氏による「石田徹也の発想の源をさぐる」という講演を聴くこともできた。平林氏によると、石田のアトリエは6畳ほどで、長辺の方にキャンバスを置き、短辺の方に位置して描いていたそうだ。大きな作品が多かったので必然的に短い距離で、作品に向き合うことになる。あの入念な時間をかけた描き混みは、絵との至近距離からの対話がもたらした。しかも、ほとんどの作品は2週間程度で完成させたそうなので、その集中力と持続力は凄まじい。
 平林氏は、石田が飲み会が終わるとすぐに描くためにアパートに帰ってしまったという挿話も述べてくれた。(志村正彦にも同様の話がある。志村もまた一年のほぼ毎日、音楽を作り続けた。)

 会場の所々に掲げられた彼のノートの言葉で強く記憶に刻まれるものがあった。次の文言だ。

   わたしが不安感にこだわる理由は、現実を見えるようにするためです。

 作者自身の言葉でその作品を説明することは、あまりにあからさまであり、分からないことを分かったような気にもさせるだろう。そのことを戒めながらも、それでもやはり、この言葉は熟読に値する。

 現実は幾層も何かに覆われている。見えるもの、あるいは見るべきものを見えなくするための覆いや装置が完備されている。安心して生きていくためにはその覆いは不可欠である。
 しかし、不安感が先行するのか、見えるようにする意志が先行するのかは明らかでないが、現実を見えるようにするという行為が、ある種の表現者にとって、不可避になることがある。

 不安感と共に、表現という行為が切迫してくる。その行為に追いたてられるようにして、時間がせきたてられる。
 時間が作品の内部に凝縮され、やがて、時間が「現実を見えるようにする」のだろうか。

 石田徹也はどのように時を過ごしたのか。何を見えるようにしたのだろうか。
 とりとめもないことを考えながら、美術館を後にした。
 (3月25日まで開催しているので、近隣の未見の方にはご覧になることをおすすめしたい)

 帰りは、身延線の特急「ふじかわ」に乗った。
 日は没していたので、夕暮れ時までは姿が浮かぶはずの富士山も何も見えない。闇の深い山間を夜汽車に揺られ、甲府へと還っていった。

2014年9月4日木曜日

エゴン・シーレの母の故郷

 プラハからウィーンへと戻る途中で、「チェスキー・クルムロフ」という世界遺産の街に寄った。この街については何も知らなかった。ヨーロッパの思想や文化については少しは知識があるが、歴史や地理については疎い。旅行前に調べると、13世紀に築かれた城を中心に18世紀まで発展した街で中世の美しい街並みが残されている、とあった。

 ガイドブックの頁をめくると、「エゴン・シーレ・アートセンター(EGON SCHIELE ART CENTRUM ČESKÝ KRUMLOV)」[http://www.schieleartcentrum.cz/]があることを知る。シーレの母親の出生地らしい。とうことは彼にとっては半ば故郷である場所。そこにあるアートセンター。自由時間がとれるならここに行きたいと漠然と考えていた。 

 エゴン・シーレは、1890年ウィーン近郊で生まれた。1910,11年頃、このチェスキー・クルムロフ(当時はドイツ風に「クルマウ」と呼ばれていた)に滞在して風景画を創作している。
 このエッセイで度々言及している今から百年前の1914年、彼は何をしていたのかというと、第一次世界大戦が勃発し、オーストリア=ハンガリー帝国軍に召集されていたそうだ。当時は24歳、その4年後の1918年、第一次世界大戦が終わったが、まもなくスペイン風邪で亡くなった。28歳の短い生涯だった。

 旧市街の小さな広場から少し路地に入ると、「エゴン・シーレ・アートセンター」が見つかる。壁には見覚えのあるシーレのモノクローム写真を使ったポスターが十数枚貼られている。ロックのビートのように訴えかけている。何かを凝視しているがどこか虚ろなあの眼差し、右手と左手の指を組み合わせた独特のポーズ。「表現主義」的とも評されていた写真だ。
 このシーレ像を見たのは久しぶりだったが、こうしてポスターになっているのを見ると、ポスターという媒体によく合う。(ある意味では「アーティスト写真」の原型のようでもある。ふと、「ロックの詩人 志村正彦展」のポスターを十数枚どこかの壁面に飾ったらどのような雰囲気になるのか想像してしまった)

エゴン・シーレ・アートセンター入口近くの壁面

 私のような70年代にロックを聴きはじめた世代にとって、デビッド・ボウイを通じてエゴン・シーレを知ったというのが共通経験ではなかっただろうか。
   『Low』で始まるボウイのベルリン3部作。ブライアン・イーノやロバート・フリップとのコラボレート。クラフトワークなどジャーマンロックの影響。1977年発表の第2作『Heroes』のジャケット写真は鋤田正義によるもので、当時、一世を風靡した。ボウイはシーレやその「表現主義」に影響を受けたと言われていた。

 1979年に池袋の西武美術館で開催の「エゴン・シーレ展」は日本初の本格的な企画展で、ロックファンもたくさん押しかけた。大学生だった私も、まさしく「ex-press」、身体の奥底にあるものが表に突き抜けて現れ出てくるような画風に圧倒されたことをよく覚えている。極東の島国の若者にとって、ロック音楽やサブカルチャーを通じて、欧米の美術や文化への関心が広がり、理解も深まっていくという時代だった。
 思い出話をひとつ。1978年12月12日、NHKホールで開催のデビッド・ボウイの「Low and Heroes World Tour」は、私がこれまで見た欧米アーティストのライブの中でも最も印象に残るものだった。あの日の渋谷の公園通りは、ファンの娘がボウイを真似た帽子を被って街を歩き、祝祭の空間と化していた。(36年前の出来事だ。どれだけ時が経ったのか。36という数字を記していると、眩暈を覚える)

『Heroes』ジャケット

  「エゴン・シーレ・アートセンター」に入る。ビール醸造所を改築した三階建で、天井が高い。同じように工場を改築してできた甲府の桜座を少し思い出した。
 1階は現在アートの展示スペース、2階には過去のシーレ展のポスター展示やエッチングなど、3階には彼の実物資料、アトリエで使った椅子や机。モデルが着ていた衣装とその絵の写真。シーレの絵画は高騰していて、残念ながら、このセンターには本物の油彩画はないそうだ。絵画のコレクションの場合、そのような難しさがある。

 しかし、チェスキー・クルムロフを描いた絵の写真とそれを描いた場所38点が地図がグラフィックパネルになって展示されていた。絵画を制作した場所とその視点を一つひとつ調査していく地道な作業に基づいている。実物の絵画がなくても、このような方法で「エゴン・シーレとチェスキー・クルムロフ」というテーマを掘り下げていくことは素晴らしい。(例えば志村正彦の場合も、同級生がゆかりの場所のマップを作り、とても好評だ。音楽と美術は根本的に異なるが、このアートセンターの方法、作品とゆかりの場所をリンクさせることも有意義かもしれない)

 シーレがこの街をどのように描いていったのか。「czechtourism」のサイトでは、次のように説明されている。 (http://www.czechtourism.com/tourists/cultural-heritage/stories/praha/related/cesky-krumlov/?chapter=2)

シーレは一人になって、新しいもの - 黒色の水、音を立ててしなる木々、厳かな教会などを目にし、湿った青緑色の谷間を見て心を洗い、新しいものを創造することを欲していました。チェスキー・クルムロフはしばしその隠れ家となり、彼の創作は新しいテーマを得たのです。シーレは旧市街の路地でモチーフを見出すと、これを周囲の丘、あるいは城の塔など、一風変わった視点から捉えて描きました。これらの作品のおかげで、私たちは現在も、彼が言うところの「青き川の町」の姿を、画家の目から眺めることができるのです。

 百年経った現在でも、シーレの目から母の故郷の風景を眺めることができる。百年後の志村正彦を考えている私たちにとっても示唆的な言葉だ。

チェスキー・クルムロフの旧市街

 帰国後調べると、シーレは百年前の20世紀初頭において、すでにこの町を「死の街」と形容していたそうだ。この街は、産業革命の波に取り残され、交通の便も悪く、19世紀になると没落していったようだ。第一次大戦、第2次大戦とナチス・ドイツ、その後の社会主義体制とドイツ系住民の追放など、歴史の荒波にもまれ、荒廃していった。1989年の「東欧民主化革命」以降、ようやく街は再生していった。

 百年を経て、様々な曲折を経て、「死の街」から「再生の街」「世界遺産の街」へと変容していったチェスキー・クルムロフ。私のように観光客として訪れた者の眼には、その時、限りなく美しい街の光景だけが刻まれたのだが、歴史の記憶もそこに重ね合わせなくてはならない。

    (この項続く)