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2015年12月31日木曜日

三つの系列-『若者のすべて』20[志村正彦LN118]

 『若者のすべて』についての「批評的エッセイ」の連載も今回で20回目を迎える。関連した回を含めると25回を数える。

 三年前、2012年12月末、富士吉田で『若者のすべて』のチャイムを聴いたことが契機となり、翌年3月にこの歌について書き始めた。6月からは、「ー『若者のすべて』1」というように付番しながらシリーズとして展開していった。2013年は12回まで終えた。
 夏になるとこの歌が話題となる。だから、夏に書き出し、秋や冬の始まりの頃までに書き終わるというのが習慣のようになってしまった。昨年は13回から15回まで、今年は16回から今回の20回まで書くことになった。

 冒頭で記したように、筆者としては「批評的エッセイ」の試みとして書いてきた。歌詞の語りの分析や資料に基づく考察を書く「批評的」側面と、「私」あるいは「僕」という聴き手を通した経験、風景や出来事から触発された想いを述べる「エッセイ」的側面。その二つを追求しようとした。その意図が実現しているかどうかは心もとないが、何か新しいことを試みることがこの連載を続けるモチベーションになっている。

 2015年、今年は、柴崎コウのカバーの話題から始まった。初の女性ボーカルによるカバー。この歌が女性によって歌われることで、この歌の新しい風景が描かれた。 
 10月10日には、フジテレビ『MUSIC FAIR』で、柴咲コウと現在のフジファブリックがコラボレーションしてこの曲を演奏した。柴崎から、現在のボーカル山内総一郎へとリレーしていった。キーが変わる演出には少し驚いた。伊東真一(HINTO、堕落モーションFOLK2)がギターのサポートをしていたのは嬉しかった。彼は「大好きな曲をまたみんなと演奏させてもらえて幸せでした。」とtwitterで呟いていた。

 この日最も印象に残っているのは、柴咲コウの帽子姿。グレー色のハットを被り、綺麗な声で歌っていた。すぐに、志村正彦の帽子姿が浮かんできた。
 彼は、2006年12月の渋谷公会堂のステージでハットをたまたま被り出したそうだ。それ以来、ライブ映像でもアーティスト写真でも帽子姿が多くなる。「晩年」という言葉をあえて使うが、晩年の志村正彦と帽子、その印象は不思議なほど結びついている。記憶に強く残る。

 まだ数日前のことだ。25日クリスマスの夜、テレビをつけて、BSチャンネルをupさせていくと突然、「街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ」という声と字幕が耳と目に飛び込んできた。『若者のすべて』だ。槇原敬之が歌っていた。データを見ると、BS-TBSの『槇原敬之 Listen To The Music The Live ~うたのお☆も☆て☆な☆し』という番組だった。この放送のことは全く知らなかった。途中からなのが少し残念だったが、たまたま見られたことを喜んだ。

 内容は昨年発売された同名のDVDの映像と同じようだが、BSとはいえ、テレビというメディアで放送されことは嬉しい。より多くの人がこの歌を知るきっかけともなるからだ。ネットで調べるとこの日が初放送らしい。志村正彦の命日の12月24日の翌日の放送というのは単なる偶然だろうが、この偶然にも感謝したい。ファンにとっては思いがけない贈り物となった。
 槇原敬之はやはり上手い。言葉を丁寧に扱う。彼の歌う『若者のすべて』は、少し情けないところもある男のブルースのようにも聞こえる。

 2015年の現在、『若者のすべて』は柴咲コウや槇原敬之という時代を代表する歌手にカバーされ、テレビで放送されるなど、高く評価されている。最近、フジファブリックと同世代のバンド、THE BACK HORNもライブでカバーしたそうだ。
 すでに若者の歌、夏の歌の「定番」ソングのようにして親しまれている。しかし、発表当時はそうではなかった。
 「Talking Rock!」2008年2月号のインタビュー(文・吉川尚宏氏)を連載の前回部分と一部重複するが引用したい。志村はこう語っている。


ある意味、諦めの気持ちから入るサビというのは、今の子供たちの世代、あるいは僕らの世代もそう、今の社会的にそうと言えるかもしれないんだけど、非常にマッチしているんじゃないかなと思って“○○だぜ! オレはオレだぜ!”みたいなことを言うと、今の時代は、微妙だと思うんですよ。だけど、“ないかな/ないよな”という言葉から膨らませると、この曲は化けるかもしれない! そう思って制作を再スタートさせて、精魂込めて作った曲なんだけど………なんていうか……こう……自分の中で、達成感もあるし、ターニングポイントであることには間違いないんです。すべてに気持ちを込めたし、だから、よし!と思ってリリースしたんだけど、結果として、意外と伝わってないというか……正直、その現状に、悔しいものがあるというか…


 「精魂込めて作った」「達成感もある」「ターニングポイントである」「すべてに気持ちを込めた」というような過剰な表現を、志村はインタビューであまり使ったことがない。それほどこの作品は彼にとって重要なものだった。皮肉なことに、「意外と伝わってないというか……」の「ないというか……」にはこの歌のモチーフでもあった「諦めの気持ち」に近いものも読みとれる。悔しさ、やるせなさのようなものが素直に述べられていて、痛々しい感じさえする。

 確かに、シングル『若者のすべて』やアルバム『『TEENAGER』のレビューをいくつか読んでみても、この作品は少なくとも現在ほどの評価は得ていなかった。良い作ではあっても、フジファブリックらしくないというような声があったようだ。歌詞にしろ楽曲にしろそれまでの作風とは幾分か異なっていたので、ファンもどう受け取っていいのか分からなかった可能性もある。
 なぜ『若者のすべて』が、志村が込めた「すべて」の想いほどには、受け入れられなかったのか。この問いに対しては、事実がそうであった、という現実を確認することしか今のところはできない。(これについてはいつか考察してみたいが)

 しかし繰り返すが、今日、この歌はたくさんの聴き手を得ている。若者だけでなく、多くの世代から支持されている。結果として、この歌が人々に届くまでには「時」が必要だった。
 安部コウセイは 『MUSIC FAIR』放送後のtwitterで「若者のすべては時代を越えていく曲ですね」と呟いた(10月10日@kouseiabe)。
 来年になればまた新たな聴き手そして歌い手を、この歌は獲得していくにちがいない。「時」が必要だった分だけ、それ以上に、はるかに、「時」を超えて、この歌は生き続けていく。
 今回は20回目という区切りになるので、公式サイトからミュージックビデオをこのblog上では初めとなるが紹介したい。




 歌の解釈や分析は、論者の設定するモチーフや系列、分析の枠組によって変化していく。この論は、あたりまえのことであるが、私自身による試論であり私論にすぎない。誰もが多様に自ら読みとることができる。
 歌は開かれている。歌は自由だ。

 今年は戦後70年を迎えた。若者たちによって新しい運動も起きた。社会の現実に向き合うことは私たちの権利であり、それ以上に義務である。義務であるからこそ、時間をかけて、対話する必要がある。多様な視点から深く考えることが、社会や世界の方から私たちに向けて要請されている。

 先の引用にあるように、『若者のすべて』の「ないかな ないよな」には世代や社会に対する問いかけも含まれていた。そうであれば、「世界の約束を知って それなりになって また戻って」という歌詞の一節もより広い文脈や背景の中で捉え直すことができる。「世界の約束」という言葉の重みも増してくるだろう。「運命」や「途切れた夢」という表現も別様の解釈が生まれる余地もあるかもしれない。
 
 私は、第1回から12回まで、「すりむいたまま 僕はそっと歩き出して」に収束される、歌の主体「僕」という一人称単数で指し示される「一人」「単独者」の歩行の系列と、「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」に集約される、「僕ら」という一人称複数で示される「二人」の再会、その背景にある「花火」を巡る系列という、二つの系列という枠組でこの歌を分析してきた。

 今年の考察ではその二つに加えて、「世代」「社会」という第三の系列を見いだすことができた。資料の読み直しによるものだが、現実からの触発もあった。
 志村正彦は、「僕」と「僕ら」を超えてそれを包含するものとしての「世代」、それが直面する「社会」という視点をある程度までこの歌に込めたと言える。

  「僕」、「僕ら」、「世代」という三つの系列が『若者のすべて』の「すべて」を構成している。20回目の今回、そのような考えにたどりついた。
 この歌になぜ「若者」「の」「すべて」という題が付けられたのか、その問いに対する一つの答えが少しだけ見えてきたのかもしれない。

2015年12月27日日曜日

佐々木健太郎、「世界は幻」から「世界の果て」へ。

 富士吉田での佐々木健太郎&下岡晃の弾き語りライブの話に戻りたい。

 下岡が十曲ほど歌った後、佐々木健太郎のステージが始まった。「Almost A Rainbow スウェット」を着て登場。立って弾き語りをするので姿がよく見える。
 今年は8月のハーパーズミル、10月の桜座、そして12月のリトルロボットと、三度目の佐々木健太郎だ。四ヶ月の間だが、季節は夏、秋、冬と移り変わった。季節や場所、人の組み合わせによって、歌の感触も異なる。

 最初は『Tired』。最新作『Almost A Rainbow』の曲だ。美しいがややかげりのある声で歌われる。

  Ah 世界の果てで眠っていたいな
  LaLaLa
  Ah 世界の果ての扉を閉めて
  LaLaLa


 このライブに先立ち、Analogfishと佐々木健太郎の作品を繰り返し聴いた。特に歌詞を初期から現在まで読みこんだ。「世界」は、佐々木が反復するモチーフだ。前回紹介した『クリスマス・イヴ』にも「傷だらけの世界」という表現がある。
 「世界」という語彙は日本語ロックやJポップでよく使われているが、そのほとんどはクリシェだ。十年以上前に流行した所謂「セカイ系」の影響かもしれない。安易な濫用が目立つが、佐々木の場合は異なる。「世界の果て」は彼の持続するモチーフから生みだされた言葉だ。

 ソロアルバム『佐々木健太郎』中の『STAY GOLD』には、「思春期にさまよった世界の扉は閉ざされ続けたまま」という一節がある。この「世界の扉」は世界への入口の扉を指すのだろうが、「世界の果ての扉」は世界の果てへの入口の扉、ある意味では世界からの出口の扉というように読める気がする。歌の主体はその扉を閉める。その上でその場所で「眠っていたいな」と想う。
 例えば『おとぎ話』(『佐々木健太郎』収録)にも、「おとぎ話を子供の頃に聞かせてもらう前に/見てしまった扉のむこう/サンタクロースや氷の魔女が脱ぎ散らかした衣装目を瞑って扉をしめた」という扉の開閉というモチーフがある。彼の記憶に関わる重要なモチーフなのだろう。

 2曲目『Alternative Girlfriend』の途中からハプニングがあった。ステージでは佐々木一人が歌っているのだが、どこからどもなくコーラスが聞こえてくる。佐々木の声ともう一人の「天の声」がハーモニーをつくる。客は驚いて辺りを見回す。実は、見えない通路の方で下岡がマイクを取っていたのだ。この曲は下岡の作。そのこともあったのか、佐々木ヴォーカル+下岡コーラスという形になった。この後も佐々木・下岡ユニットのスタイルが続いた。

 3曲目は『Good bye Girlfriend』。他に『ガールフレンド』(『ROCK IS HARMONY』収録)という曲もあるので、「Girlfriend」もの三部作ということになるだろうか。佐々木の歌には「Girlfriend」やそのような関係にある「彼女」という言葉がよく現れる。歌の主体からからして、恋する女性あるいは愛する女性が、「彼女」「Girlfriend」というように三人称的な位置にあるときに、彼独自の世界が開けてくる。それらの言葉がメロディの高揚感と溶けあうときに非常に魅力ある歌となる。ある種の屈折が込められてはいるが、それ以上に、華やぎと輝きがもたらされる。(今回はライブについて書いているので、彼の詩の世界については別の機会に譲りたい)

 新曲二つが披露され、『tonight』『will』と続き、『fine』で終わった。とても情熱的なパフォーマンスで、今年見た三回の中では最も素晴らしかった。
 途中のMCで、富士吉田の街を見て僕らの育った飯田市に似ていて、志村君はこういうところに育ったのだと思って、志村君のことがもっと分かるような気がした、という意味のことを語ってくれた。彼の想いが十分すぎるほど聴き手に伝わった。

 各々のステージの終了後、佐々木・下岡の二人がステージに立った。不思議な「天の声」についてのやりとりから始まった。Analogfish誕生期の話。佐々木健太郎が高校卒業後の一年間、長野の喬木村の山奥の家で「ニート」のように引きこもって宅録をしていた。その頃オーストラリアから帰国した下岡がその場に加わった。佐々木が楽器を何でも演奏できたのに対して、下岡が初めはギターを3コードしか弾けなかった。山奥なので大きな音も鳴らせたが、同居していたお祖父ちゃんに迷惑をかけたこと。彼らの小学校には「お祖父ちゃんお祖母ちゃん授業参加日」があったなど、ほのぼのとした話に会場のみんなが和んでいた。他にも、小学校、中学校の時の話、先生の話など色々な話が聞けた。

 話を総合すると、Analogfish(の原型)は佐々木健太郎の一人バンドだったようだ。そこに下岡が加わった。作品も佐々木が中心となって作っていた。やがて「下山」して東京へ。そして斉藤州一郎が加わり、今のバンドになった。聞き書きなので正確であるか分からないが、おおむね、それが真実らしい。それにしても、長野の山奥で、志と才能のある二人、それも資質の異なる二人が出会いバンドを始めたこと自体が奇跡のような気がする。それから十六年の間、きわめて優れた音楽を作り続けている。そんなことをあの場で考えていた。

 二人の歌では、『Nightfever』が忘れがたい。「10年前もそんな事言っていた気がする/20年前もそんな事言っていた気がする」の節回しで、下岡が佐々木のことを「健ちゃんカッコイイ気がする」「カッコワルイと思ったときもあったけど、カッコイイ気がする」「顔立ちはカッコイイと思っていたけど、でもカッコワルイと思ったときもあったけど、カッコイイ気がする」という風に(おおよそ?)続いてループしていく。とても愉快な替え歌に変わるにつれて、会場も和やかな笑いに包まれ、まさしく「ナイト」「フィーバー」した(古い言葉だね)。会場のペレットストーブも身体を暖かくさせた。何よりも、佐々木と下岡、二人の関係のあり方が熱源となって、心がすごく暖かくなった。こんなにも暖かいものに包まれたライブの経験は他にない。

 最後の最後のアンコールでは、二人の唯一の共作と紹介されて、『世界は幻』が佐々木によって歌われた。

  小生 男としても 「地下室の手記」的思想
  べつだん 何不自由も無い
  すりガラスごしに見る 世界が幻だ


 高揚した気分が、良い意味で少しクールダウンし、現実に戻されていった。
 佐々木はドストエフスキーを愛読しているようだ。山奥の宅録の場も一種の「地下室」だったのだろう。地下室から「すりガラスごし」に見えるかもしれないのが「世界」だ。「世界は幻」から『Tired』の「世界の果て」へ、佐々木健太郎は世界から世界へと横断していく。


 今回のライブについて、この場を借りてあらためて、主催者の勝俣氏に感謝を申し上げます。(この「偶景web」のこともツイートしていただき、重ねてありがとうございました)

 佐々木、下岡の両氏からは、次はAnalogfishの三人で来たいねという言葉もありました。富士吉田の街が、現在の優れた日本語ロックが歌い奏でられる場になる。その夢がかなえられることを祈ります。

2015年12月23日水曜日

佐々木健太郎『クリスマス・イヴ』

 12月の初めの土曜日、ある約束を果たすために札幌に行ってきた。

 夜、街を歩く。時折、雪が舞い降りてくる。昼はビルの間で窮屈そうな時計台が、雪の光をあびて、清らかに輝いていた。斜め左側から写真を撮った。




 佐々木健太郎のソロデビューシングル『クリスマス・イヴ』。
  2013年12月、北海道ではCMソングにもなったようだ。そうすると、二年前の札幌ではこの歌が流されていたのだな、そんなことを想う。
 Official Music Videoがあるので紹介させていただく。(うかつにも今日まで、映像中のサンタクロースが下岡晃らしいことに気づかなかった。そういえば歌の中の「サンタクロース」と「パパ」は友達だった)



 
 歌詞の一節を引きたい。

   傷だらけの世界が
   今夜だけは癒されていくみたいに街が華やいでいく
   
               (佐々木健太郎『クリスマス・イヴ』)

 歌も、世界の傷を癒す華やぎのようなものを私たちに与えてくれる。12月24日、クリスマス・イヴの日には特に。

 

2015年12月19日土曜日

継がれていく『茜色の夕日』[志村正彦LN117]

 今日12月19日から27日まで、富士吉田の夕方5時のチャイムが、志村正彦・フジファブリックの『茜色の夕日』に変わる。彼がこの歌を作るために音楽家になったという作品のメロディが故郷で奏でられる。

 富士吉田市役所によって2011年12月から始まり、もう八度目になる。行政の試みとしては特筆すべきものだ。これからの地域と音楽との関わり方の具体例のひとつを示している。当然、市民の中には、志村への想いがある人もいれば、彼のことを全く知らない人もいるのだろうが、そのことを離れてみても、この楽曲の調べそのものが美しく、どこか郷愁を誘う。冬の吉田の空と冷たい外気によく合う。
 
 前回は、13日、下吉田のリトルロボットで下岡晃が歌った『茜色の夕日』について書いた。佐々木健太郎も二年前の12月に歌ったことがあるそうだ。
 「TOTE(トート)」という音楽サイトに掲載された記事「2013.12.15 三重・四日市 カリー河 佐々木健太郎(アナログフィッシュ) 弾き語りソロライブ REPORT」[2014.01.14](文/撮影:山岡圭) を引用させていただく。

「一昨日、GO FOR THE SUNというイベントを、フジファブリックとHINTOとで8年ぶりにやりました。楽しかったけど、志村くんがいたらもっと楽しかった。だから今日はフジの曲をやります」と言って、『茜色の夕日』。2009年に急逝したフジファブリック・志村正彦の歌を、言葉をしっかり掴み取るように丁寧に歌い込む。歌はこうやって彼を想う仲間によって継がれ、いつまでも鮮やかな色を放つ。そしてそれを聴ける幸せを噛み締めた。

 筆者の山岡氏が言うように、『茜色の夕日』は歌い継がれ、語り継がれ、吉田ではチャイムとなって、今もおそらくこれからも人々の記憶に残り続ける。

 佐々木健太郎が言及している「GO FOR THE SUN」のイベントは、2005年、アナログフィッシュ、フジファブリック、SPARTA LOCALS(作風は異なるが実質的な後継バンドがHINTOになる)の三つのバンドの合同企画によって行われた。2005年11月23日、恵比寿のLIQUIDROOMで開かれたファイナルのアンコールでは、あの『今夜はブギーバック』(スチャダラパー+小沢健二)が歌われた。その映像がyoutubeにあり、すでに二十二万回を超える再生回数となっている。志村ファンにとってはもうなじみの映像であろうが、この機会にここでもリンクさせていただく。



 
 小沢健二のパートを志村正彦と佐々木健太郎が歌い、スチャダラパーのパートを下岡晃と安部コウセイ(SPARTA LOCALS、現在はHINTO・堕落モーションFOLK2)が語っている。3バンドのボーカル4人の共演。貴重な動画だ。佐々木、下岡晃、安部が堂々としているのに対して、志村はステージの端の方にいて、終始、真中の方を斜め目線で見ながら控えめに歌っている。途中で工藤静香の「L字」の振り付けらしきものを披露する。なんだかヘンテコで、フロントマンらしからぬ振る舞い。「ここにあらず」という風情が彼らしいといえば彼らしい。とても愉快な映像なのだが、見るたびに哀しくなるところもある。

 2005年11月のライブなのでちょうど十年になる。アナログフィッシュとHINTOの作品は、その言葉も楽曲も、あの頃よりさらに深化している。

 志村正彦は同時代のバンドとしてアナログフィッシュを高く評価していた。
 LOFT PROJECT"Rooftop"掲載の「メレンゲ×フジファブリック:ヴォーカリスト対談 クボケンジ(メレンゲ)×志村正彦(フジファブリック)ー新宿ロフトで出会い、共に“SONG-CRUX”卒業生の2人が語る内なる“ロック”的なもの-」[2004.11.15]でこう述べている。

志村 学生の頃は冴えなくて、引きの感じなんですよ。いろんな人に憧れてばかりで。でも、僕はバンドをやり始めて、曲を作っていく上で“いい”って言ってくれる人がいて、プラス思考になって。それで、音楽は辞められないなって思った。自分のなかでそういったことを感じられたことがロックだなって。音楽人生、みたいな
 (中略)
志村 ステージに立った瞬間に何か“ボン”と出るものがあって。いつもは出ない何かが出るものがあって。観る人はそういった人に興味ありますね
──最近、同世代でそこまでの凄さを持ったロックの人って思えば少ないよね。
クボ 突出したものは少ないのかな? って思うことはあるよね
志村 同世代だとアナログフィッシュとか
クボ そうだね、凄いものを感じる

 2010年7月の「フジフジ富士Q」以来、同世代の仲間の音楽家が志村の故郷で彼の作品を演奏したことはなかったように思う。下岡晃は『夕暮れ』から『茜色の夕日』へと何かをリレーするように歌った。ことさらに言葉として発言するのではなく、その人の歌を歌うというのは音楽家にしかできない行為だ。ひとつの追悼のあり方だろう。

 先ほど、今日のチャイムの映像がkazz3776さんによってyoutubeにUPされていることを知った。僕のように行けなかった人にとってはとても有り難い。




 富士急行線から下吉田駅そして富士山へとカメラがパンしていく。電車や車の音も入っているが、逆に土地の生活の匂いがして良い。深い青の空に富士の稜線が綺麗に浮かんでいる。最後に月も写っている。今日、山梨は快晴だった。天気にも恵まれ、この映像は今までのチャイム映像の中でも最良のものだろう。

 今回は、下岡晃、佐々木健太郎、各々の『茜色の夕日』と、今日の夕方5時の『茜色の夕日』のチャイムに触発されて書いた。ことごとしく書くのは下岡氏と佐々木氏の「志」に反しているかもしれないが、山梨での志村正彦に関わる出来事はできるだけ「記録」として書き残していくのが、このblogの役割だとも考えているので、ここに記させていただいた。

2015年12月17日木曜日

下岡晃(Analogfish)、『夕暮れ』から『茜色の夕日』へ。

 外から夕方5時のチャイムが聞こえてくるとまもなく、下岡晃の登場。椅子に座り、アコースティックギターを奏でる。

 カバー曲だろうか、知らない歌から始まった。続いて『GOLD RUSH』。「シャッターばかりが異様に目立つ駅前通りをゆっくり流す」と歌い出される。彼の故郷近くの飯田市と富士吉田市の街並みが似ているというMC。今はシャッター通りという共通性もあるのだろう。
 数曲を経て、「胸骨と胸骨のすき間に 真ん丸い大きな穴が あいたので」という無気味な言葉が抑揚のない語りのように歌わる。『夕暮れ』だ。

  「夕暮れです 夕暮れです 夕暮れ」って サイレンが サイレンが鳴る
  夕暮れ 死者数名。

  夕暮れのオレンジの粒子が 蒸発して
  反射して 光ってる様が好きなんだ。

 「夕暮れ」は、視覚というよりも聴覚を刺激する音として表されている。サイレンが鳴り、「死者数名」と告げる。サイレンの音とオレンジの光が乱反射して、生と死の境界が踏み越えられる。生きる場が「グラグラ」と揺らいでいる都市生活者の静かな悲鳴のように「夕暮れ」が連呼される。つかの間、すぐに次の歌が始まった。

  茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すことがありました

 『茜色の夕日』だった。突然、「志村正彦」という名も『茜色の夕日』という名も触れずに歌い出された。予想外の展開に、どこか緊張感のようなものが生まれた。この歌が、他ならぬ富士吉田でそして下岡によって歌われたという驚き、喜び、そして哀しみを伴う複雑な感情と共に。

 引用でそのまま記したように、下岡は意識的にか無意識的にかあるいは単なる錯誤か分からぬが、「思い出すこと」と歌った。志村は「思い出すもの」と書いた。「もの」か「こと」か、その差異が気になり、歌を追うことが少し遅れてしまう。(このことは機会を改めて書いてみたい)僕の位置からは彼の表情はうかがえない。なんとなく直視できないような気持ちもあり、耳を澄まして聴くことに集中した。
 次第に、声に力が込められていく。

  僕じゃきっとできないな できないな
  本音を言うこともできないな
  無責任でいいな ラララ
  そんなことを思ってしまった

 記憶の中の聴き取りを言葉にしてみた。「無責任でいいな ラララ」はひときわ大きく、高く、強く歌い上げられた。『茜色の夕日』が下岡晃の声と息によって命を吹き込まれたように感じた。歌い終わると、ぼそっと「いい歌だね」と呟いた。そこで終わった。
 結局、志村の名も曲名も何も言われなかった。沈黙のままに、沈黙のままだからこそ、伝わるものがある。そのことが歌い手と聴き手の間に共有されていた。


 歌だけが存在していた。だからこそ、不在の志村正彦が存在していた。


 下岡のライブは、現在の状況と対峙する『抱きしめて』でひとまず閉じられた。淡々とした歌い方が続いたが、クールな熱情とでもいうべきものが強く感じられた。
 下岡晃・アナログフィッシュの『夕暮れ』と志村正彦・フジファブリックの『茜色の夕日』。オレンジ色の風景と茜色の風景。
 人工的な「オレンジ色」は、都市生活者の憂鬱や悲哀が熱をおびて発光しているかのようだ。それに対して「茜色」は、「子供の頃のさびしさが無い」「短い夏」、「見えないこともない」「東京の空の星」という季節や風景、迂回された形で描かれる自然を想起させる。下岡と志村の資質や世界は異なるが、きわめて優れた「都市の歌」の作り手、歌い手としての同時代性がある。

 2015年12月、富士吉田のリトルロボット。
 下岡晃は『夕暮れ』から『茜色の夕日』へと、大切なものをリレーして走り続ける走者のようだった。

   (この項続く)

2015年12月14日月曜日

佐々木健太郎&下岡晃(Analogfish)ツアー、富士吉田・リトルロボット。

 昨夜、12月13日、富士吉田のリトルロボットで開かれた佐々木健太郎&下岡晃の「真夜中の発明品ツアー ~虹のない人生なんて~山梨編ツアーファイナル!!~」に行ってきた。
 
 小雨が降るあいにくの天気の中、甲府から御坂峠を抜けると、そこに見えるはずの富士山はやはりない。山梨県民の僕らはまあよいのだが、県外から来られた方は残念なことだろう。新トンネルのおかげで今日も1時間ほどで吉田に着く。新倉山浅間神社近くの「しんたく」で吉田うどんをいただく。いつもは何も入っていないかけうどんだが、天ぷらうどんにした。寒い時期はこってりした野菜天ぷらが美味しい。身体もほかほかしてくる。

 開演時間まで間があるので、春にリニューアルオープンした「ふじさんミュージアム(富士吉田市歴史民俗博物館)に寄る。駐車場から博物館までの並木のある道沿いに富士講信者の宿坊「御師の家」が移築されている。霧雨が煙る中、この道が博物館へのアプローチになっている。江戸時代に時をさかのぼるような気分になる。

 博物館の展示は、最新の映像技術を駆使して、親しみやすく分かりやすいものになるように工夫されていた。「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」という視点で世界文化遺産になったためか、歴史民俗の博物館の性格を強めているのだろう。初めて知ることも多く勉強になった。
 甲府で暮らしているが、であるがゆえにか、にもかかわらずと言うべきだろうか、富士山や吉田はやはり少し遠い存在であり、まだ知らないことの多い場であることを再認識できた。富士吉田に行かれる方はぜひ見学されることを勧める。

  博物館を出て北口本宮冨士浅間神社の前を通り、右折。富士道、本町通を、上吉田から下吉田へと下っていく。先ほどの展示室の地図にあった御師の家跡が左右にところどころある。江戸時代のにぎわいを想像する。吉田という街並みそのものに江戸の文化が染み通っているのかもしれない。
 前回書いたことだが、浜野サトル氏はblog『毎日黄昏』で志村正彦の歌を「都会の少年の詩」だと読みとっている(「響き合い」)。通りを下りながらその指摘が浮かんできた。確かに、彼の詩には「街」や「路地裏」の雰囲気が漂う。
 吉田と江戸。富士講や登山のつながりによる歴史的な関係。近代に入ると、絹織物の産業による東京や横浜との交易。その記憶や残像のようなものがどこかで志村少年に作用していたのかもしれない。

 金鳥居を過ぎ、下吉田の街へ。シャッター街と化してしまった通りの中で「リトルロボット」を見つける。月江寺近くのこの地域にはまだ少し活気がある。通りを少し下って「TORAYA」に寄り、ショートケーキを二つだけ買う。近くに駐車して会場に入った。
 「リトルロボット」はこの通りの空き店舗を改装して造られたコミュニティカフェで、ペレットストーブの展示販売もしているそうだ。様々なイベントの場となることも目指していて、今回、「どうしておなかがすくのかな企画」の勝俣さんが佐々木健太郎・下岡晃の両氏に呼びかけてこの企画が実現した。彼は甲府の桜座やハーパーズミルでも素晴らしいライブを主催している。仕事を持ちながら、山梨で音楽を聴く場を広げようとしている「志」のある方だ。以前から富士吉田でこのような企画を考えていたようで、ようやく実現することになり、とても喜ばしい。
 会場は気持ちのいい空間だった。ペレットストーブも焚かれていて、あたたかい。座席は四十ほどで満員だった。このライブが告知されるとすぐに売りきれとなったそうだ。

 今年は8月にハーパーズミルで佐々木健太郎と岩崎慧(セカイイチ)、10月に桜座でanalogfish(佐々木健太郎・下岡晃・斉藤州一郎)とmools、そしてこの12月にこの場所で佐々木健太郎と下岡晃を聴くことになった。
 いろいろと感じ、考えることも多かったので、二人の歌については次回以降具体的に書くことにしたい。それでも全体の印象を簡潔に書くとすると、とてもとても素晴らしい歌の会であり、一日経った今も、その余韻が残り続けている。
 佐々木健太郎と下岡晃という現在の「日本語の歌」の歌い手、作り手として最高の水準にある二人が各々そしてコンビとして歌うのを間近で聴くという贅沢な時間を過ごすことができた。上手に形容できないのだが、これまでの僕のライブ経験の中で最も、とてもあたたかいものが心にしみこんでくる「歌の会」だったと言える。

 そして、下吉田という場で開かれたこのライブには、ことさらに言われるのではなく、その名の宣伝という形もとられずに、それでもみんなの想いとしてひそかに共有されているものとして、志村正彦という不在の存在があった。

   (この項続く)

2015年12月11日金曜日

「志村正彦はどんな人物だったのだろう?」(『毎日黄昏』)

 毎朝、onedaywalk氏のblog『毎日黄昏』を読むことが日課となっている。「黄昏」の語源は「誰そ彼」だそうだが、人や街や音楽についての深い問いかけがあり、様々なことを教えられる。

 ここでは、onedaywalk氏とは音楽批評家浜野サトル氏のことだと書いてもいいだろうか。
 今年の7月まで、氏自身の運営していたHP内の日録『毎日黄昏』では筆名が「浜野智」氏であったが、サーバーを整理して、新たに開設されたlivedoor上のblog『毎日黄昏』では「onedaywalk」氏になっていた。筆名が変更されたのはある意図があってのことだろうが、内容から容易に筆者が浜野サトル氏であることは分かり(例えば「エリス」「エリス2」の回)、ここではすでに「浜野サトル」として氏の初期の仕事について書いているので、拙論の連続性の観点からしても、やはり、浜野サトル氏あるいはonedaywalk(浜野サトル)氏のblogとして、『毎日黄昏』を紹介させていただく。

 以前書いたように、私にとって浜野サトル氏は、音楽の経験を語ることを学んだ「師」のような存在である。もちろん、雑誌やネットの文章を読むことを通じて、勝手に「私淑」しているにすぎないが、氏が「偶景web」に出会った経緯を知ったときはとても嬉しく、励みにもなった。その浜野氏が最近志村正彦について書かれたので、その文を紹介させていただきたい。(「週酒」、「響き合い」)

 「響き合い」というエッセイは「今現在と言っていい時期に作られたものの中に過去を発見することがある」と始まり、アルバム『フジファブリック』からレッド・ツェッペリンを感じたとされる。そして、「それにしても、志村正彦はどんな人物だったのだろう?」と問われる。一年以上前にたまたま『茜色の夕日』を聴く機会があり、その後何も調べないできたが、志村正彦のことが「いま気になる」と記される。

 『陽炎』や『追ってけ 追ってけ』の歌詞が引用され、詩人岡田隆彦に通じる「都会の少年の詩」であるとされ、『花』の「七五調に近い」韻律や「かばん」という言葉に触発されて、歌人笹井宏之を連想したと書かれている。
 志村正彦と笹井宏之に関して、「ロックと短歌とは遠いが、二人の歌には響き合うものがあると感じる」という非常に興味深いことが指摘されている。最後は次の一文で閉じられる。

 彼らが遺した作品は、何事かを追いかけ追いかけしているうちに道に迷い、ふともらした吐息のように感じられてならない。

 この言葉は私たち志村正彦の聴き手にとって、切なく哀しく響く。

 その後、『夜汽車』に触れたエッセイも掲載された(「夜汽車」)。
 確かに、不思議なほどに、志村正彦の歌は私たちの過去の記憶を想起させる。そしてまた、過去から現在までの優れた表現者たちの言葉と、浜野氏の言葉を使わせていただくなら、「響き合う」何かを感じさせる。

2015年12月4日金曜日

早川義夫、桜座カフェ。

 11月28日、甲府の桜座で早川義夫を聴いた。「悲しみと官能の音楽」と題する、早川義夫(vocal,piano)・熊坂るつこ(accordion)・坂本弘道(cello)の三人のコラボレーションだ。

 前回ここで聴いたのは2010年10月のこと、「早川義夫・佐久間正英」ライブだった。確か山梨初のライブだったせいか、客もたくさんいて、通常のホールが会場だった。早川と佐久間のユニットのみが構築できる音で桜座が満たされていたことを想い出す。今回はホール手前の小さなカフェのスペースで開かれた。客も三十数人ほどと少し寂しい入りだった。もう冬の季節。カフェの土間から冷気が上がる。

 ライブが始まる。
 カフェのフロアから少しだけ高い位置に座り、ピアノを弾きながら彼は歌う。こちらもフロアで椅子に腰掛けて聴く。歌い手と聴き手との間の距離は数メートルあるが、座る位置、高さがそんなに変わらないせいか、耳に音がリアルに飛び込んでくる。早川義夫の身体の動き、声や息のうねりがダイレクトに届く。熊坂るつこがアコーディオンを、坂本弘道がチェロを奏でる動きも生々しく伝わってくる。
 桜座の通常の会場、ホールでは床面に座るのだが、それとは聴く位置、音の響きも異なり、新たな発見があった。

 歌とは、言葉である前に、声や息であり、声や息を運ぶ身体そのものの振動である。そんなことが自然に浮かぶ。
 そもそも、彼の歌は「意味」として捉えられることを拒んでいるところがある。あるいは、「意味」とは異なる次元に歌を築いていると言うべきだろうか。

  ここで、「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」という小林秀雄の言葉(『無常といふ事』)を想起するのは、あまりにおあつらえむきの展開だろうか。
 それでも、この言葉の枠組で語らせてもらうのなら、早川義夫のソロの歌、1994年の復帰後の歌は、いわゆる「歌の解釈」というものに対する「プロテスト」だ。歌を「意味」とは異なる次元へ解き放つ試みと言ってもいい。どこへ解き放たれていくのか。言葉にするのは難しい。これもまた言葉を拒んでいる。

 この試みはジャックス時代と異なる。そして、それゆえ、復帰後の彼の聴き手は、以前ほどの広がりを得ることができない。彼の歌を愛するものの一人として、それはきわめて残念なことだが、必然であり不可避でもあると考えるしかない。

 それだけ早川義夫の歌は孤絶している。
 そのような歌がこの時代に存在する。そのかけがえなさに、現代の聴き手は気づいてない。

2015年11月29日日曜日

フォークソング同好会の『銀河』

 私が勤めている高校にはフォークソング同好会があり、昨年からその顧問をしている。(顧問といっても、何もしない、何もできない「駄目」顧問なのだが)
 「フォークソング」という名を冠しているが、実質的には「軽音楽」「ロック」の同好会だ。最近の軽音楽部はどこも女子部員が多いそうだが、我が校も同じだ。30人くらい所属しているが、その大半が女子。実際に活動しているのは10人ほどで、3年生を中心とするバンドがメイン。構成は男子2人(ギター)女子4人(ギター、ベース、ボーカル)。ドラムやキーボードは不足していて、その都度組み合わせたり、助っ人を呼んだりしている。7月の学園祭でのライブが活動の中心だが、今年度から11月に、近くにある特別支援学校との音楽交流会に参加することになった。十数年続いている会だが、今年度から新しい企画にするということで、生徒会の方からフォークソング同好会に声がかかった。

 特別支援学校は、身体に障碍を持つなど、教育上特別の支援を必要とする児童・生徒のための学校である。勤務校では授業や課外活動を通じて近くの支援学校、盲学校との交流を進めている。教室で授業を一緒に受け、実際に交流することによって、生徒は大切なことを学び、社会のあり方について考えを深めていく。
 今回の音楽交流会も重要な会なのだが、この時期は、3年生の部員にとって就職試験や進学の推薦試験がようやく終わる頃で、なかなか練習する時間が取れない。一ヶ月ほどの短い期間で準備することになったが、部長から提出された曲目リストは、BUMP OF CHICKEN『ダンデライオン』、 KANA-BOON『ないものねだり』、そして何と!フジファブリック『銀河』だった。びっくりしたのだが、それ以上に、うれしかったのが正直なところだ。

 顧問が志村正彦・フジファブリックのファンなのは部員たちはいちおう知っている。年度の初めに、フジファブリックの曲をアコースティックギターでやってみないかと言ったことはあったが、そのことも忘れていた。それにしてもあの『銀河』?、リードギターのパートもリズムギターのパートもテンポが速くて大変そう。大丈夫かと心配になったが、3年生と2年生のギター弾きの男子がチャレンジすると聞いて納得した。この二人はけっこう技術があるからだ。
 練習場所に行って聞いてみると、やや不安なところがあるものの、リズムはキープできている。ソロのところも何とかなるかな。なるよな。それにしても難しい曲だ。二つのギターの絡み合いを間近で見て聞いて、フジファブリックの一ファンとして「なるほど」と勉強にもなった。『桜の季節』の節回しで「感動している!」と呟きたくなった。

 先週、支援学校との音楽交流会の日を迎えた。会場は支援学校の体育館。合唱部の美しいハーモニー、応援委員会による高等部3年生に向けての心あたたまるエールに続き、フォークソング同好会が登場した。2,3年生によるバンドと1年生バンドの演奏。やはり準備不足のせいで満足できるレベルにはなく、支援学校の生徒には申し訳ない気持ちでいっぱいになった。結局、『銀河』はリードギター・リズムギターの男子二人、ベースの女子によるギターアンサンブルになった。ミスもあったが、リズムはしっかりとしていたのが良かった。彼ら自身にとってよい経験となっただろう。

 支援学校からの要望があり、最後は『ちびまる子ちゃん』テーマ曲、B.B.クィーンズの『おどるポンポコリン』。支援学校の生徒たちは今年この曲をテーマソングにしてきたそうだ。フォークソング同好会三人の演奏をバックに、支援学校の生徒二人がサンタクロースの格好や動物の着ぐるみを着て踊る。うちの生徒一人が前に出てヒップホップダンスのようなものを始め、ぐるぐる回る。やがて、みんなで歌ったり踊ったりするようになった。笑顔があふれて、とても楽しい時を過ごすことができた。終わりがたいように、曲を三回繰り返した。音楽には人と人とをつなげる素晴らしい力がある。

 今回、このブログではほとんど触れたことのない学校や部活動に関わる話題を書いたのは、志村正彦が高校時代、「富士ファブリック」の原型となった同級生バンドで、富士吉田や近隣にある福祉施設や支援施設の場に出かけて演奏していたと聞いたことがあるからだ。これはバンドの自発的な活動だったようだ。彼の心にどのような理由があったのかは分からないが、高校時代の彼の「志」を読みとることができる。

 我がフォークソング同好会は機会を得て演奏したに過ぎないが、彼らなりの想いはあったにちがいない。志村正彦の「志」とは比べられないが、それでも、この冬の季節、彼の作詞作曲した『銀河』を支援学校で演奏した、そのことをここに記しておきたいと考えた。この歌の一節を引いてこの文を終えたい。


  U.F.Oの軌道に沿って流れるメロディーと
  夜空の果てまで向かおう                             (『銀河』)


2015年11月24日火曜日

ヴァンフォーレ甲府vs清水エスパルス「富士山ダービー」

 一昨日、11月22日、山梨中銀スタジアムに出かけた。Jリーグ2ndステージの最終節、ヴァンフォーレ甲府vs清水エスパルスの試合だった。
 
 バックスタンド自由席に座ると、色分けされた応援シートが配られていた。いつもは甲府のチーム色の赤と青だけなのだが、この日は黄や白がある。色で何かを表示するのだろうが、全く思いつかない。キックオフの時にやっと分かったのだが、その時にアウェイ側の背後にある大型スクリーンの映像を急いで撮った。   



開始時、アウェイ側ゴール裏。清水サポーターと大型スクリーン。


 かすかに映っていて不鮮明だが、色と形が分かるだろうか。
 中央にあるのは、そう、富士山だ。白い雪と青い地肌で描かれている。富士を挟んで黄色の字で甲府とある。

 そもそも、清水エスパルスは甲府にとって縁の深いチームだ。
 2000年代の初頭、VF甲府は成績低迷、少ない観客、累積赤字により存続が危ぶまれていた。その存続危機の頃、清水は「業務提携」という形で甲府を様々な面で支援し、選手や監督を派遣してくれた。特に2002年、清水のコーチ兼サテライト監督だった大木武氏(清水市出身でもある)が甲府の監督に就任したことは、現在までの甲府の歴史にとって最大の転機だった。3年連続最下位のチームを7位まで上げた。一度清水に戻り、2005年再就任。この年、J2の3位となり、柏との入れ替え戦に勝利し、J1への昇格を果たしたが、大木監督でなければ達成できなかっただろう。(志村正彦は日記に「甲府がJ1に上がった日は嬉しくて乾杯したな、そういやあ。」と記している。このことは、志村正彦LN60(http://guukei.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html)で書いた)
 
 2006年のJ1参入後、甲府対清水の試合は、「富士山ダービー」と呼ばれるようになった。このダービー名は、富士山の「本拠地」同士という間柄からの命名だが、両チームの歴史や経緯も関係している。
 過去6年間、リーグ戦では甲府は一度も清水に勝てなかったが、今年の1stステージで初勝利。この結果が象徴しているように、清水は不調が続き、ついにJ2への降格が決まってしまった。

 この日は、「ホームタウン富士吉田市・富士河口湖町サンクスデー」だったので、両チームに『吉田のうどんセット』が贈られるなど、富士山ゆかりのイベントが多かったが、この日いったんJ1から去る「富士山」仲間の清水エスパルスへの激励の意味を込めて、あのような演出になったのかもしれない。ついでに願望というか妄想のようなことを書かせてもらうなら、試合前のBGMに、志村正彦・フジファブリックの曲を流してもらえたら最高なのだが。何がよいか。知名度なら『若者のすべて』か。グッと来すぎるかもしれないな。週末の試合だから『虹』もいい。曲調が軽快でテンポも速く盛りあがりそう。「響け!世界が揺れる!」「まわる!世界が笑う!」なんて歌詞もサッカーにぴったりだ。

終了後、ホーム側ゴール裏。甲府サポーターと選手・スタッフたち


 甲府の一サポーターとして、清水には「友愛」と共に今でも「恩義」を感じている。来年、清水がJ1復帰を決め、再び「富士山ダービー」が行われることを願う。

 今年の甲府についても振り返りたい。開幕後すぐに最下位に落ち、佐久間悟ゼネラルマネージャーがそのまま監督に就任することになった。佐久間監督は見事にチームを立て直し、J1残留を果たした。(勤め先の学校で、佐久間さんには何度か「山梨とサッカー、地域の活性化」というテーマで講演していただいている。氏は東京出身であるが、ヴァンフォーレ甲府を通じた山梨という「場」の活性化に対する情熱は本物だ。とかく「閉鎖的」と言われがちな山梨県民であるが、確かにそのような傾向がある。プロスポーツによる地域の活性化について、氏の「開明的」で真摯な姿勢から学ぶことは多い)

 甲府はJ1中で最も予算が少ないチームだ。人件費も低く、J1とJ2の中間の「J1.5」レベルの選手が多いのが正直なところだ。サッカー選手の年俸には資本主義と市場価値の論理が徹底している。しかし、そのような選手と監督やスタッフが懸命に努力し、苦しく厳しい闘いの中でここ三年、J1残留を果たしている。
たかがサッカーではあるが、このチームが大好きだ。 

2015年11月19日木曜日

Ryo Hamamoto - the fairest of the seasons、甲府・桜座。

 ここ数日、毎朝、桜の紅葉の変化を眺めていた。

 今朝は昨夜からの雨が上がり、近づく冬の清澄な光があふれていた。あの桜紅葉の樹は、ついにと言うべきなのだろうか、その葉をおおかた地面に落としていた。幾日か続いた冷たい雨に打たれて、葉としての命が尽きた。
 この場所、この桜の樹の下から、富士が望める。盆地のはるか向こう側ではあるが、降雪した白色の部分が増してきた。

 10月に甲府の桜座で開催された「Analogfish & mooolsと行く、巨大丸太転がしツアー2015 甲府 〜MARUTA FES!〜 巨大丸太がやって来た。ゴロ!ゴロ!ゴロ!」。
 三番目に登場したRyo Hamamoto(浜本亮)の映像がyoutubeにupされていることを最近知った。曲は『The Fairest Of The Seasons』。本人が許可した公開とあるので、ここでも紹介させていただく。  

            Ryo Hamamoto - the fairest of the seasons                             

 当日の雰囲気がよく再現されている。youtube音源という制約はあるが、桜座の独特の響きも何となく伝わってくる。MCにあるように、この曲はイントロからやり直した。最後もあんな風に終わり、小さな喝采をあびていた。
 Ryo Hamamotoの声やギターの音色はとても繊細で、透明な広がりがある。5歳から11歳までアメリカで暮らしていたそうで、発音も綺麗。しかし、ステージに上ることへの一種の衒いなのか、どこかもてあましているような感じもして、その対照が愉快だった。

 『The Fairest Of The Seasons』は、Nicoの歌で知られている。The Velvet Undergroundを離れてリリースしたソロ1stの『Chelsea Girl』に収録。ネットで調べると、「Written by Jackson Browne & Greg Copeland」とあった。あのJackson Browneの作とは全く知らなかった(Greg Copelandは彼の高校時代の友人で何曲か共作しているようだ)。70年代のアメリカやカナダのシンガーソングライターはリアルタイムで聴いていた世代なので、Jackson Browneにも親しんでいた。

 Nicoは3rdアルバム『The End...』を学生の頃よく聴いていた。うっすらとした記憶だが、西新宿の輸入レコード屋で手に入れた。ジャケット写真を気に入り、部屋の壁に立て掛けておいた。沈鬱そのものが結晶したようなNicoの声は、出口の見えないような状況にいた二十代前半の日々の感覚にとけこんでいた。

 映像に戻ろう。
 どこか聴き手を、そして歌う自分自身をも突き放しているような印象のあるNicoとは異なり、Ryo Hamamotoの歌はやわらかく聴衆を包み込む。アコースティックギターの美しい音色に、桜座という「箱」も共鳴していた。
 歌詞はこう終わる。

  It's now I know do I stay or do I go
  And it is finally I decide
  That I'll be leaving
  In the fairest of the seasons

 「In the fairest of the seasons」とは「季節の最も美しい時に」あるいは「最も美しい季節に」という意味なのか。それとも別の意味なのか、分からないが、この歌を聴きながら、朝の桜紅葉の光景を想い出した。
 あの桜にとって、季節の最も美しい時とはどのような瞬間だったのか、そんなことを考えた。

2015年11月11日水曜日

桜紅葉の頃 [志村正彦LN116]

  今朝、ある場所で桜の葉が紅葉している光景にしばし見とれていた。

 朝の光を浴び、その逆光を透過するようにして、赤と黄色の綴れ織りのような色彩が晴れた空に照り映えている。数本の並木なのだが、個体差があるのか、微妙に色が異なる。赤色に振れるもの、黄色に振れるもの。あざやかなもの、少しくすんでいるもの。「金木犀」の花の色とは随分違うが、これはこれで葉の色、「赤黄色の桜の葉」の風景をなしていた。
 秋から冬にかけての季節の澱のようなものが葉に沈むのか、幾分か、葉に黒い影がある。美しいが寂しげでもある。

 季語では「桜紅葉、さくらもみじ」と呼ぶそうだ。今は桜紅葉の頃なのか、そんな言葉と共に、あの歌を想い出していた。


  その町に くりだしてみるのもいい
  桜が枯れた頃 桜が枯れた頃        ( 志村正彦 『桜の季節』 )


 この桜紅葉の光景が消え去ると、「桜が枯れた頃」に移り変わるのだろうか。そんなことをぼんやりと考えていた。

 この赤黄色の色彩が落葉と共に失われると、桜の葉が枯れた時が到来するのか。それとも、この季節の循環を数十年くりかえした後に、桜が枯れて死んだ時を迎えるのか。桜にどのような時が訪れたのか。
 志村正彦の眼差しの果てには、どのような光景が広がっていたのか。なぜ、「桜が枯れた頃」になると、「その町に くりだしてみるのもいい」のか。

 今朝の偶景が、いつものなぜをくりかえし問いかけていた。
 

2015年11月7日土曜日

「没後100年 五姓田義松-最後の天才-」展

 今日は、横浜まで「没後100年 五姓田義松-最後の天才-」(神奈川県立歴史博物館)を見にいってきた。昨年夏の圏央道開通後、土日祝日等に限り、甲府から横浜までの直通バスが始まった。渋滞があったので2時間半ほどかかったが、以前よりずいぶん近くなった感じだ。乗り換えがなく、運賃も安いので助かる。

 この画家のことは、10月に放送されたNHK日曜美術館「忘れられた天才 明治の洋画家・五姓田義松」で初めて知った。テレビ画面を通してだが、その異様なまでのリアリズムと技術の高さに驚嘆した。どうしても行きたくなり、何とか都合をつけて特別展へ。十数年ぶりの横浜というお上りさん状態だったが、この街の賑わいと華やかさはさらに増していた。

 美術については素人ゆえに、見当違いの感想かもしれないが、彼のリアリズムは何か通常のリアリズムを超えている。リアリズムの過剰さと美しさが高い次元で結びついている。その過剰さが何に由来して、その美がどこにつながっていったのか。そんなことを展示室で考えた。
 十代できわめて高い評価を受け、二十代で渡仏し、帰国後の三十代以降は肖像画家として一定の成功を収めたようだが、本来の恐るべき能力からすると不遇に終わったともいえる生涯だった。美術史の中でも正当な評価を受けたとは言えない。この特別展を契機に、「忘れられた天才」「最後の天才」という派手なフレーズが一人歩きしそうだが、その言葉は素直にそして十分にうなずけるように思われた。
 (明日、11月8日まで開催)

 これは私自身のオブセッションのようなものだが、このような評価の歴史を歩んだ芸術家を知ると、どうしても志村正彦のことを考えてしまう。「没後100年」という時の経過の中で、五姓田は本来のあるべき場所に帰還しつつあるのだろう。志村の場合はどのような歩みになるのだろうか。

 先ほど、ネットを通じて気づいたのだが、今日は『若者のすべて』が私たちの歌の歴史に登場した日だった。
 2007年11月7日リリース。8年の年月を越えて、今、この歌はとても沢山の聴き手を獲得しているが、この歌の受容をめぐって、考察しなければならないこともある。

2015年11月5日木曜日

『Baby Soda Pop』Analogfish

 桜座でのライブの後、Analogfishの新アルバム『Almost A Rainbow』をよく聴いている。
 1曲目『Baby Soda Pop』(作詞・佐々木健太郎、作曲・Analogfish)の素晴らしさ。山下達郎や10CC(『I'm Not in Love』)を想起したのだが、もっと心地よいではないか。
  「felicity」レーベルのOfficial Music Videoを紹介したい。



「Soda Pop」、サイダーのような飲み物を指すのだろうか。
声の粒々が、調和のとれたハーモニーに乗って、やわらかくはじけている。歌詞がまた素晴らしい。

  街が奏でた 流行りのラブソングに
  彼は呟く
  「そんな言葉で事足りるのが愛なら?」
  彼は続ける
  「僕は恋を知らないBoy」
  「そうさ、今も何も知らないBoy」

 佐々木健太郎は一人の話者になって、「彼」を通じて、物語のある場面を語る。登場する「Boy」「Girl」そして無数の「Boys & Girls」たちの背後にそっと身を隠している。「今も何も知らない」ことを愛しんでいる。

  だけど今、確かに
       
  Tululu 目と目が合った Boys & Girls
  Tululu 言葉も出ない Boys & Girls


 この「今、確かに」の瞬間が《Boy Meets Girl》の物語を転換させた。「Tululu」のコーラスが祝福する。「若者」である時を超えた二人が時をさかのぼっていく。
 熟練した作者と歌い手がここにいる。

2015年11月2日月曜日

今の子供たちの世代、僕らの世代。-『若者のすべて』19[志村正彦LN115]

 LN114で紹介した『若者のすべて』についてのインタビュー(「Talking Rock!」2008年2月号、文・吉川尚宏氏)で、志村正彦は作詞の過程で、「“ないかな/ないよな”という言葉」が出てきたという貴重な証言をしている。まずは無意識的なものとして現れてきたのだろうが、社会的な「意味」という意識的なモチーフとしても手応えを感じたことが想像される。再び、彼の言葉を引用する。

しかも同時に“ないかな/ないよな”という言葉が出てきて。ある意味、諦めの気持ちから入るサビというのは、今の子供たちの世代、あるいは僕らの世代もそう、今の社会的にそうと言えるかもしれないんだけど、非常にマッチしているんじゃないかなと思って“○○だぜ! オレはオレだぜ!”みたいなことを言うと、今の時代は、微妙だと思うんですよ。だけど、“ないかな/ない よな”という言葉から膨らませると、この曲は化けるかもしれない!

 志村は、「“ないかな/ないよな”という言葉」を「諦めの気持ちから入るサビ」として捉えている。その「諦め」は、「今の子供たちの世代」そして「僕らの世代」に 「非常にマッチしている」と考えたようだ。「今の社会的にそうと言えるかもしれない」とあるのは、若者や子供たちを中心に、ある種の「諦め」が、「今」という時代の社会的な「気分」として共有されていることを伝えている。

  「“○○だぜ! オレはオレだぜ!”」のように言うことが、「今の時代は、微妙だと思うんですよ」という発言は、そのような言い回しを歌詞から排除した志村らしい物言いだ。もちろん、「微妙だ」と思う方が多数だろうから、取り上げなくてもよい発言かもしれないが、少し理屈をつけて考えてみたい。
  「オレはオレ」「オレは○○だ」という言葉は、ゆるぎない自信や自己同一性に支えられている。自己を疑うことなく、あるいはその疑いを突きつめる ことなく、自己を肯定している。少なくとも、そのような姿勢を築こうとしている。あるいは、そのような自己を一つの像にして聴き手に伝えようとしている。

 言うまでもなく、志村正彦は異なる。「“○○だぜ! オレはオレだぜ!”」という言い方と対比すれば、「ない」という否定による「オレはオレでない」「オレは○○でない」というある種の自己否定、あるいは、「ない」という無化の作用による「オレはオレを奪われている」「オレは○○を失っている」という自己喪失が、彼自身の生涯を貫くモチーフであった。

 そのような否定と喪失のどちらにしろ、その両方であるにせよ、志村の場合、自己は根底からゆらいでいる。そのゆらぎによる不安が、彼の歌詞の基盤にある。物語や自然の景物の描写の背後には、それを見つめている志村のゆらぎや不安が時に露わになったり時に隠されたりしている。「 “ないかな/ないよな”という言葉」が意識に浮上するに従って、そのような言い方でしか表せない、自己のあり方、物語の行方、時代の輪郭が明らかになってきた。
 このような表現の過程は、志村正彦のきわめて個人的な「資質」からもたらされたものだろうが、優れた表現者は、意識的にも無意識的にも社会や時代の「症候」と共振し、それを歌詞のモチーフにすることがある。

 志村の言う「諦めの気持ち」に戻ろう。この「諦め」はどのようなものだろうか。「諦め」とは複雑な感情であり、複雑な過程である。ある現実を受け入れることができるのかどうか。受け入れようとする過程、その時間を過ごすことすらできずに、なすすべもなく、その現実の中に自らを位置づけること。ある種の「諦念」と共に、その現実を生きること。そのように捉えることができるだろうか。
 志村にとっての「諦め」の対象となった「現実」とは何か。それを見きわめたい。

 志村正彦は1980年に生まれた。90年代の初頭、ちょうど彼の十代最初の頃、「バブル経済」が崩壊し、日本の「失われた20年」(この年数は時間が経つにつれて、10年15年20年と増えていったようだが)が始まった。彼の亡くなる前年の2008年には、「百年に一度」と言われた世界的な金融危機が発生した。日本でも世界でも、経済的な停滞や混乱が次々と起こった時代である。彼の実人生も音楽家としての人生もこの「失われた時代」の影響を受けていることは確かだろう。

 2014年7月13日開催の「ロックの詩人 志村正彦展」のフォーラムでは、志村と同世代のファンである倉辺洋介氏の「志村正彦とLOST DECADES」という優れた発表があった。1stアルバム発表時 にフジファブリックに出会い、その作品に励まされてきた倉辺氏は、志村と同じ時代を生きた聴き手としての観点から、時代と歌詞との関係を考察した。氏のフォーラムでの発言の要旨を引用させていただく。(http://msforexh.blogspot.jp/2014/10/blog-post.html

志村君はバブル崩壊後に少年期を過ごし、高校卒業後上京した頃には音楽シーンは縮小する傾向にあり、メジャーデビューの頃には景気は少し持ち直したものの、決して右肩上がりではない、明日が今日よりいいとは限らない時代を生きてきました。そんな中、不安を抱き、ある種割り切った感覚を持ちながらも、悟ってしまっているのでもあきらめきっているのではなく、もがいている。そういう世代で共有する感覚があるという仮説のもとに志村君の歌詞を見ていこうというのがこの発表の試みです。

 この後、倉辺氏は作品に基づいて歌詞を具体的に引用しながら論を展開し、次のように結んでいる。

18歳で一人で上京し不安を抱き、下積みの苦労をしながらも、あきらめず、進もうとして紡いできた志村君の歌詞には、不安や焦燥を抱えながらもストイックに前向きにもがいているという特徴があり、だからこそ僕らは励まされたり背中を押されたり意志の強さを感じたりするのだと思います。

 倉辺氏は「世代で共有する感覚があるという仮説」を提示しているが、確かに「感覚」については、その世代の人間にしか分かりえないものがある。私のような世代の者にとってその感覚は想像するしかないが、おそらく、あの頃のフジファブリックを愛する若者たちは、失われた時代において、志村の「意志」の強さを、歌い手と聴き手との壁を越えて「共有」することによって、かけがえのない「場」を形成していったのだろう。

 志村正彦が表現者として生きた時代は「失われた時代」にそのまま重なる。
 「“ないかな/ない よな”という言葉」を「失われた時代」に投げ返し、反響させるようにして、『若者のすべて』の世界は創り上げられている。              

 
       (この項続く)       *11/3 題名変更

2015年10月29日木曜日

10月25日、桜座、「Analogfish & moools」の夢の中で。

 日曜日、前回予告したとおり、甲府の中心街にある桜座へ出かけた。「MARUTA FES!」、昨年一昨年よりずいぶんversion upされた、Analogfishとmooolsのツアーだ。

 日曜日なのに仕事をぎりぎりまでやって何とか桜座にたどり着いた。開演時間が過ぎていたので急いで入ろうとすると、ホットドッグ?をじゅうじゅうと焼いている男性がホールにいた。美味しそう。でも昼食が遅かったので食べれられないな。なんて心で呟いてその男性を見ると、Analogfishの下岡晃さんだった。一瞬立ち止まった私の変な挙動を見て、にこにこと微笑んでいる。クールな印象があるのだが、とてもなごやかな笑顔だった。今日は充実したフェス!になるとその時確信した。

 最初は、佐々木健太郎。8月の甲府ハーパーズミルの時に比べて、会場が縦にも横にも余裕があるので、声がより伸びやかに伝わってくる。場が異なると、声そのものも異なるように聞こえてくる。PAも強力になり、「弾き語りロック」のような感触が濃くなり、魅了される。

 次は、人形劇団、擬人座。「話らしい話のない人形劇」とでも形容される、予想通りのアヴァンギャルドぶり。丸太がころぶ「ゴロゴロゴロ、ゴロゴロゴロ、ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ」の反復のサウンドが頭にこびりつく。

 三番目はRyo Hamamoto(浜本亮)の弾き語り。mooolsの一員としての彼のギターにはここ二年ほど接しているが、ソロとしての彼の歌を聴くのは音源を含めてこれが初めて。声にもギターの音にも透明な広がりがあり、美しい。プロフィールを見ると、5歳から11歳までアメリカで暮らしていたそうだ。その事実に妙に納得した。日本の歌がまとう「湿度」のようなものが低く、音の感触がさわやかだ。

 佐々木健太郎、擬人座、Ryo Hamamotoと続き、ついにAnalogfishの登場。
  新作『Almost A Rainbow』から、下岡晃が『夢の中で』を歌い出す。このアルバムで最も気になっていた曲だった。

   誰かの夢の中で暮らしてるような気分
       そんな気分
 
       誰かの夢の中で
       乾いた夢の中で
       悪い夢の中で
       あなたの夢の中で
       いつかの夢の中で
       まるで夢の中で      (作詞・下岡晃)

 続いて、ボーカルが佐々木健太郎に変わり、彼の詞による『Will』。美しいメロデイで物語の断面のような状況が歌われる。

      突如晴れ渡る空さ
        雨上がりアスファルトが輝いていく
        光る窓を開いて
        「ホント、ノイローゼみたいな天気だね」って笑ってる君と
        二人、外へ駆け出すんだ ta ta ta...
        水たまりをスキップで飛び越えた彼女は
 
        like a fish!
        I will touch!        (作詞・佐々木健太郎)

 下岡の「誰かの夢の中で暮らしてるような気分」も、佐々木の「『ホント、ノイローゼみたいな天気だね』って笑ってる君」も、この時代の気分や症状を現している。時代の感受性であるとともに、きわめて個人的な感受性でもあるのだろうが、彼らの言葉が「今、歌わなければならない何か」に触手を伸ばし、それを形あるものにしていることは確かだろう。これらの歌を含めて、『Almost A Rainbow』の作品については、回を改めて書いてみたい。

 最後は、moools。酒井泰明、有泉充浩、内野正登、浜本亮にカフカ先生が加わっての五人編成。このバンドの音は重厚そのもの。70年前後のロックがその時代とともに持ち合わせていたある種の「重さ」の記憶が刻印されている。酒井泰明の歌詞は、その重さを受け止め、その重さに耐えつつ、どこかに逃走していく、軽やかに飛躍していく欲望に貫かれている。彼の言葉を解析するのはなかなか難しいのだが、いつかそのことにも挑みたい。

 Analogfishの最後の2曲『はなさない』『PHASE』はmooolsとの合同で、mooolsの最後も、『最近のぼくら』(Analogfish)と『分水嶺』(moools)が二つのバンド合同で演奏された。どれも熱いパフォーマンスだったのだが、一つあげるとするなら、やはり『PHASE』だ。主に酒井泰明が歌ったのだが、「失う用意はある?それとも放っておく勇気はあるのかい」という言葉がリアルにこちら側に突き刺さる。

 歌も演奏も素晴らしかったのだが、Analogfishやmooolsのメンバーが本当に楽しそうにしている表情と姿が印象的だった。この時、この場に、聴き手と共に、「皆」で存在していることを大いに肯定している。そのことが十分に伝わってきた。

 おそらく私たちは、午後4時から9時近くまでの5時間近くの間、「MARUTA FES!」という夢の中で暮らしていたのだろう。

2015年10月24日土曜日

日曜日、甲府桜座でAnalogfishとmooolsの「MARUTA FES!」が開かれます。

 2013年11月、2014年10月と甲府の桜座で行われたAnalogfishとmooolsのツアー。現在の日本語ロックの最高峰にいるこの二つの独創的なバンドと、きわめて魅力的な桜座という空間との出逢いは、以前書いたように(http://guukei.blogspot.jp/2013/11/ln-58.html)、非常に貴重な経験をもたらした。
 甲府で暮らしているロックファンとして、この秋の桜座のAnalogfishとmooolsのライブをとても楽しみにしている。

 今年は、この二つのバンドを中心に、mooolsのRyo HamamotoとAnalogfishの佐々木健太郎の弾き語り、「擬人座」という謎の人形劇団?のパフォーマンスを交えて、「Analogfish & mooolsと行く、巨大丸太転がしツアー2015 甲府 〜MARUTA FES!〜 巨大丸太がやって来た。ゴロ!ゴロ!ゴロ!」というコンセプトで、日曜日(10月25日)午後4時から始まる。(ついにフェスになってしまった!)

 桜座はもともと工場だったために、天井がとても高い。その不思議な空間に、Analogfish下岡晃・佐々木健太郎やmoools酒井泰明の言葉が垂直に立ち上がる。音が響き減衰していくのとシンクロナイズするように、声と言葉が広がり、聴く者に届き、そして消えていく。そのあわいがなんだかとてもリアルなのだ。

 主催者のポンセ・カツマタさん(いつも感謝しております)によると、まだ席はあるようです。(http://doushiteonakagasukunokana.com/contact  ) ポンセさんによる「moools桜座関連まとめ」(http://togetter.com/li/890108)もあります。ほんと、面白いです。

 山梨在住の方、近隣に在住の方、日曜日の甲府桜座「MARUTA FES!」、いかかでしょうか。甲府盆地から見える富士山も雪化粧を始めて、とても綺麗です。

2015年10月18日日曜日

「同時に“ないかな/ないよな”という言葉が出てきて」-『若者のすべて』18[志村正彦LN114]

 志村正彦は、「Talking Rock!」2008年2月号のインタビュー(文・吉川尚宏氏)で、『若者のすべて』について重要な証言をしている。「Talking Rock!」誌の代表、吉川尚宏氏という優れた理解者を相手に、創作の過程についても率直に語っている。その箇所を引用する。


最初は曲の構成が、サビ始まりだったんです。サビから始まってA→B→サビみたいな感じで、それがなんか、不自然だなあと思って。例えば、どんな物語にしてもそう、男女がいきなり“好きだー!”と言って始まるわけではなく、何かきっかけがあるから、物語が始まるわけで、同じクラスになったから、あの子と目が合うようになり、話せるようになって、やがて付き合えるようになった……みたいなね。でも、実は他に好きな子がいて……とか(笑)、そういう物語があるはずなのに、いきなりサビでドラマチックに始まるのが、リアルじゃなくてピンと来なかったんですよ。だからボツにしていたんだけど、しばらくして曲を見直したときに、サビをきちんとサビの位置に置いてA→B→サビで組んでみると、実はこれが非常にいいと。


 『若者のすべて』の歌詞と楽曲の構成の変更については、この「志村正彦lN」ですでに論じている。(ファブリックとしての『若者のすべて』-『若者のすべて』1 (志村正彦LN 34)2013年6月23日、http://guukei.blogspot.jp/2013/06/ln-34_5714.html 等)
 その際に使用した資料は、『FAB BOOK』(角川マガジンズ、2010/06)だった。ここでその説明を振り返ってみよう。

 『FAB BOOK』の筆者は、『若者のすべて』の「Aメロとサビはもともとは別の曲としてあったもので、曲作りの試行錯誤の中でその2つが自然と合体していったそうだ」と伝え、「最終段階までサビから始まる形になっていた構成を志村の意向で変更したもの。その変更の理由を「この曲には”物語”が必要だと思った」と、志村は解説する」と記している。そして、「ちゃんと筋道を立てないと感動しないなって気づいたんですよね。いきなりサビにいってしまうことにセンチメンタルはないんです。僕はセンチメンタルになりたくて、この曲を作ったんですから。」という志村の言葉を紹介している。まとめると、「センチメンタル」な感情を導くための「物語」が必要で、そのための「筋道」を立てていく過程で、「サビ」の位置が変更され、完成作の構成になったことになる。

 冒頭で引用した「Talking Rock!」2008年2月号のインタビューにもほぼ同様の発言がある。物語が「不自然」であったり、「リアル」でなかったりすることを避けようと試行錯誤する中で、「サビをきちんとサビの位置に置いてA→B→サビで組んでみると、実はこれが非常にいい」という発見に至ったようだ。『FAB BOOK』では「Aメロとサビ」だけに触れているのに対して、「Talking Rock!」では「A→B→サビ」とBメロについても触れているところが違いといえば違いである。

 「何かきっかけがあるから、物語が始まる」と志村は言う。《A→B→サビ》の展開であれば、「物語」の端緒、発展、終息が自然にリアルに語られる。引用箇所には「物語」という言葉が三回も出てくる。『若者のすべて』の物語をどう描き、どう伝えていくのかが作者の最大の関心事だったようだ

 冒頭の引用に続く箇所には、『若者のすべて』の成立について非常に興味深いことが述べられている。


しかも同時に“ないかな/ないよな”という言葉が出てきて。ある意味、諦めの気持ちから入るサビというのは、今の子供たちの世代、あるいは僕らの世代もそう、今の社会的にそうと言えるかもしれないんだけど、非常にマッチしているんじゃないかなと思って“○○だぜ! オレはオレだぜ!”みたいなことを言うと、今の時代は、微妙だと思うんですよ。だけど、“ないかな/ないよな”という言葉から膨らませると、この曲は化けるかもしれない!


 《A→B→サビ》で再構成していくのと「同時に」、(この「同時に」という証言が大切だが)「ないかな/ないよな」という表現が浮上してくる。
 おそらく、「最後の花火に今年もなったな/何年経っても思い出してしまうな」というのが当初のサビの中心モチーフであった。そのサビをABパートの終わりに位置させることに伴って、そのサビを最終的に補う言葉とモチーフとして、「ないかな/ないよな」が追加されたというような過程が浮かんでくる。この過程から次のような歌詞の段階を想定して、対比してみたい。


【完成前の形態(仮定)】
  最後の花火に今年もなったな
  何年経っても思い出してしまうな
  会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

【完成型】
  最後の花火に今年もなったな
  何年経っても思い出してしまうな
  ないかな ないよな きっとね いないよな
  会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ


 あくまで仮定上の対比ではあるが、完成型の方が格段に優れていると言える。多くの聴き手はそう感じるだろう。
 「ないかな ないよな きっとね いないよな」という一節に含まれる、「ない」「ない」「(い)ない」のモチーフ、「かな」「よな」「ね」「よな」の末尾表現、「な」音の繰り返し、があるからこそ、『若者のすべて』の魅力ある世界が構築されたのではないだろうか。

 「な」「い」のシニフィアン(言葉そのもの)の綴れ織りは、志村正彦でしか成しえないようなテクスト(言葉の織物)であろう。凡庸な日本語ロックやJポップとの差異がここにある。「ないかな/ないよな」のモチーフを、志村の言葉で言うならまさに「膨らませる」ことによって、『若者のすべて』の多様なモチーフは複合的に絡み合い、響きあう。

 作詞の過程では、多分に無意識的なものとして「ないかな/ないよな」は現れてきたのだろうが、この言葉には、時代や世代、社会的な「意味」が込められていることも言及されている。次回はこのことについて論じたい。

        (この項続く)

2015年10月12日月曜日

「最強の敗者」ラグビーWC日本代表

 今朝、ラグビー・ワールドカップ、日本対アメリカ戦の放送を見た。印象深い光景があったので、今回はそのことを記したい。

 日本代表は3勝1敗という素晴らしい成果を残したが、決勝トーナメントには進めなかった。南アだけでなく、サモア、アメリカに対してもすべて紙一重の差で勝利した。ラグビーは実力差がそのまま結果に出るスポーツではあるが、重要な局面での攻防、一瞬の判断が勝敗の流れの分かれ目になることもよくあるからだ。勝利への糸をたぐり寄せた意志と身体の力はたぐいまれなものだった。

 もともと、早稲田のラグビーのファンだった。一番の思い出は2001年12月の早明戦。いつもはテレビ観戦だが、あの年は運良くチケットを入手でき、妻と亡き父と三人で国立競技場へ向かった。山梨の日川高校出身の武川正敏がロスタイムに逆転ゴールを決め、14年ぶりの全勝優勝を果たして、伝説の試合となった。父が笑顔で臙脂色のフラッグを振っている姿を思い出す。代表の中でも、早大出身の選手、五郎丸歩や畠山健介をどうしても贔屓してしまう。

 今日の五郎丸のインタビュー。二度目のマン・オブ・ザ・マッチ(MOM)を受けてのものだった。「このマン・オブ・ザ・マッチはほんとうにチームの…」と言いかけた後、言葉が出てこない。涙ぐむ。見ているこちら側もぐっとくる。どういう気持ちですか今、と問われ、「われわれの目標は…」と再び言葉をふりしぼろうとする。小声で中継ではほとんど聞き取れなかったが、準々決勝(あるいは準決勝)へ出ることでした、と言っているように聞こえた。
 五郎丸の男泣きは、チームのみんなへの想いとともに、決勝Tに進出できなかった無念さからのものだ。しかし、後ろ向きではなく、前向きの涙なのだろう。ラグビーの未来に向けての、近くでは2019年のラグビーWC日本大会を見据えての。

 インタビューは切り上げられ、「canterbury」のジャージを着た可愛らしい少年が登場。五郎丸の方を少し見上げ、MOMの記念カップをわたす。五郎丸も少しにこやかになり、二人でカメラの方に向いてツーショット。晴れやかな舞台でうれしそうに微笑む少年と、まだ涙をこらえながらほんの少しはにかむようにしている大男。
 「小さな男の子」と「大きな男の子」のような二人が並ぶ瞬間の光景、偶景が心に残った。

 報道によると、予選3勝して決勝Tに進出できなかったのは史上初で、それゆえ、日本代表チームは「最強の敗者」と呼ばれているそうだ。
 「最強の敗者」、ラグビーらしい含蓄のある、強くてたくましい言葉だ。彼らの軌跡とこの言葉にとても勇気づけられる。

2015年9月25日金曜日

雨と水と金木犀 [志村正彦LN113]

 今夜、仕事を終え、帰り道を歩き出した。
 昨日からの激しい雨は少し小降りになっていたが、まだ視界は雨の空気に覆われていた。
 歩き出すと、雨の匂いがする。ほのかに水の香りを感じる。霧雨のようでもある。鼻腔だけではなく、皮膚の周りにも、雨の水滴の感触のようなものが少しばかりまとわりつく。

 さらに歩き出す。
 やや広い空き地に踏みだしたとき、かすかに甘い香りがした。何かはわからない。花の香りであるようだが、水の香りと混じり合っていてすぐに識別できない。
 金木犀の香りが漂いだしたのだ、と気づいたのは、今が九月下旬であることが頭に浮かんできてからだ。九月の下旬という時節が、金木犀の季節を告げていた。

 ただし、雨と水の香りと溶けあっているようで、金木犀の香りは実に仄かだ。仄かではあるのだが、いや、仄かであるがゆえにだろうか、それは記憶を呼び覚ます。

 昨年のことを思い出した。確か、昼間、風に乗ってそれは訪れた。今年は、雨に運ばれるようにして訪れた。
 昨年も今年も、樹は見えない。「赤黄色」の花も見えない。見えないからこそ、香りだけが漂う。あたりが、少しずつ、金木犀に染め上げられる。


         赤黄色の金木犀の香りがして
    たまらなくなって
    何故か無駄に胸が
    騒いでしまう帰り道         ( 『赤黄色の金木犀』志村正彦 )



 年齢を重ねるということには絶対に抗しがたい何かがある。なすすべもなく、抗しがたく、感受性もうすまっていく。
 年を積み重ねることの遙か前の年月、むしろ時が進まないような、時が止まってしまうような年月にしか、(それを若さの時といえばそうなのだろうが)「何故か無駄に胸が騒いでしまう」という類の感受性と身体の感覚に包まれることはない。

 感受するとは、自分の身体の感覚を、心がくりかえし受けとることであるのなら、年を重ねると、感受性は自然にうすれていく。

 「何故か無駄に胸が騒いでしまう帰り道」、そのような帰り道を、志村正彦も、ある年齢を過ぎれば、歩むことはなかったのかもしれない。それが失われてしまっても、別の帰り道が待っていたかもしれない。

 そんなことをなぜか考えてしまった。

2015年9月22日火曜日

柴咲コウ、山梨・韮崎文化ホールで。

 9月19日、土曜日の夜、柴咲コウ『Ko Shibasaki Live Tour 2015 “こううたう”』の山梨公演に行ってきた。
 会場は韮崎市の「東京エレクトロン韮崎文化ホール」。大都市を回る全国ツアーにもかかわらず、なぜ山梨県のそれも韮崎市かと不思議に思っていたのだが、このホールを運営している「武田の里文化振興協会」の主催と聞いた。地域の文化振興の一つとして企画されているようだ。

 会場まで甲府から三十分ほどで到着。駐車場には、八王子、松本、静岡などの近県のナンバーの車も少なくない。チケットも比較的取りやすく、近県であれば日帰りも可能なので、山梨は穴場なのだろうか。
 以前ここで、奥田民生のライブを聴いたことを思い出す。調べると、2008年2月5日、「okuda tamio FANTASTIC TOUR 08」の時だった。アルバム『Fantastic OT9』は、私にとって奥田民生に「再会」した作品。渋さとしたたかさと優しさが溶けあう歌の世界。このホールは1000席ほどのキャパなので、客席との一体感があり、とても愉しめたことを覚えている。

 事前に4枚ほどCDを聴いて予習。アップテンポのポップな曲とバラード系の曲がほどよくミックスされているが、やはり、バラードの方が柴咲コウの声が活きる。ことのほか自作の歌詞が多く、言葉に向き合う姿勢が聴き手に伝わる。本当に歌が好きなのだという感触。女優の副業ではない。音楽家としての柴咲コウはなかなかの存在感を持つ。

 ライブのオープニング。いくつもの細長い垂れ幕のようなスクリーンが降りてくる。照明があたり、色が様々に変わる。薄いベールのようでもあり、時々、平仮名の文字が浮かび上がる。斬新で美しい。とてもコストのかかった演出で、通常よりはるかに高い水準だ。
 演奏メンバーの5人が奏で、ダンサーの2人が踊るうちに、赤色を主とする豪華な平安時代風の着物姿に、輝きのある白というか白銀の髪の毛をまとって、柴咲コウが登場。「月」の映像が背後のスクリーンに浮かび上がる。高貴な趣の女性と月。『竹取物語』の「かぐや姫」からの着想かもしれないととっさに思う。(ライブの最後に本人が『竹取物語』のモチーフで演出したと述べていたので、この想像は当たっていたのだが)

 ステージの進行とともに、何度も「お色直し」のように衣装を変えていく。(このようなスタイルに慣れていないので、とても感心してしまった)『こううたう』からも数曲が披露されたが、福山雅治『桜坂』が最も素晴らしかった。
 『若者のすべて』は残念ながら歌われなかった。期待していたのだが、CD音源になっただけでも満足すべきなのだろう。

 たっぷりと2時間、柴咲コウの多様なパフォーマンスを堪能できた。『こううたう』がリリースされなかったら、出かけることはなかったライブだが、時にはこのようなコンサートの経験も大切なのだと実感した。聴く音楽の領域を広げることは、独りよがりに陥ることをふせぐ。

 ライブが終わりホールに出ると、ちょうど『若者のすべて』が静かに流れていた。送り出しの曲として、『こううたう』の最初の曲からかけていたのだろうが、その偶然のタイミングが有り難かった。「街灯の明かりがまた一つ点いて帰りを急ぐよ/途切れた夢の続きをとり戻したくなって」という一節が心に響く。この歌は夜の帰路に合う。

 この日とても嬉しかったのは、入り口で『こううたう』カバー曲の選曲について述べたあの限定リーフレットが配られたこと。発売時のみの特定店舗での配布や予約特典だったので、入手をあきらめていたものだ。思いがけなく手に入れることができて、運営側の心配りに感謝した。
 表面は、初のカバーアルバムについて語った“こうはなす”、選曲について述べた“こうえらぶ”、最近読んだ本を紹介する“こうまなぶ”などが掲載され、裏面は柴咲コウの巨大ポスターという、A4サイズ8面の大きくて充実したリーフレット。座席に着いて早速読んだが、色々な想いが浮かんできた。
 未見の人がほとんどだと思われるので、『若者のすべて』の選曲理由のすべてを引用させていただく。


 NO1  若者のすべて  フジファブリック

意外性が欲しいなと思ったのもあるけれども、「ただ好きな曲だから」っていうのが、選曲した大きな理由。焦りや虚しさを感じながらも、それでも生きていくんだっていう男性の人生観を女性がさわやかに歌ったらどうなるかな?という興味もありました。「鎌倉の海岸沿いをドライブするのが好きなので、それに合うアレンジがいいなと思って。実際に、そこで花火を見たことがあるから、自分の人生とも完全にリンクしますね」


 「意外性」というねらいもあったことを素直に記しているが、それよりも「好きな曲」だというの最大の理由だったことがよく理解できる。志村正彦・フジファブリックの描いた物語を「焦りや虚しさを感じながらも、それでも生きていくんだっていう男性の人生観」と的確にとらえた上で、「女性がさわやかに歌ったらどうなるかな?」という視点で歌い方やアレンジを工夫していく。この作品を丁寧に歌うことへの意志と共に自分自身の声に対する自信や手応えも伝わってくる。
 「自分の人生とも完全にリンクしますね」という実感を持たせるのは、あらゆる歌にとっての願いでもある。「リンクする」力は、その歌が世に広がり、時を超えて伝わっていくために不可欠なものだろう。

 さらに “こうはなす”では、「私にとっていちばん大事だったのは、歌詞に共感できるかどうかっていうこと」であり、「カバーするにあたって、原曲のアーティストの方々に失礼があってはならないという思いもあったので、それぞれの曲に込められた思いや感覚的なものを大切にしつつ、自分の気持ちと声がマッチするように集中できたと思います」とも述べられている。

 柴咲コウが『若者のすべて』の言葉に深く共感し、志村正彦の世界と自分の世界との距離を測定した上で、自分自身の「声」によって、この歌に対する想いを注いでいった過程が伺える。あの透明な声とさわやかな歌い方には、このような背景と構築の方法があったのだ。
 

2015年9月14日月曜日

「逆らう」ジャケット写真-『若者のすべて』17 [志村正彦LN112]

  前回の問い、志村正彦がこの社会についてどのように考え、対峙していたのかという問いに進むにあたり、『若者のすべて』が収録されたアルバム『TEENAGER』(EMIミュージックジャパン、2008/1/23リリース)のCDジャケットについて言及した箇所から歩み始めたい。

 志村は『東京、音楽、ロックンロール』(志村日記)の「ジャケ深読み」(2008.01.25)で次のように書いている。

 今回のジャケットは上から逆さまに女の子をぶら下げています。実際に撮影現場にも、立ち会いましたが、かなりキツそうでした。頑張ってくれました。お疲れさまです。



『TEENAGER』ジャケット(表面)


 フジファブリックのCDジャケットをふりかえってみよう。
 1st『フジファブリック』は柴宮夏希が描くメンバー5人の画で、輪郭線が溶け出していくような不思議な作だ。2nd『FAB FOX』は題名の「FOX」をモチーフにした写真で、メンバー5人の顔が「FOX」になっている。(これを初めて見たときはGenesisの傑作アルバム『Foxtrot』の絵を思い浮かべた)4th『CHRONICLE』は、子犬が志村正彦の顔に被さるという風変わりな取り合わせの写真が使われている。

 1st,2nd,4thのジャケットは、絵や写真という媒体は異なるが、「顔」の「表情」を隠していることが共通している。志村は写真を撮られるのが嫌いだったそうだが、アルバムのデザインを見る限り、それは確かに肯ける。自分があからさまに被写体となることは避けているかのようだ。「顔」の「正面」を押し出す写真に対して、ある意味では、逆らっている。(この「志村正彦と写真」というテーマは別途論じたい)。

 注目すべきなのは、1st,2nd,4thの三作はメンバー5人にせよ志村1人にせよ、フジファブリックのメンバーを対象としているが、3rd『TEENAGER』は「逆さま」の「女の子」の写真を使っているところだ。この作品は結果として、「TEENAGER」や「若者」を主題とするコンセプトアルバムの性格を帯びたので、ジャケット写真もそれまでとは違うアプローチをしたのだろう。
 「女の子」の「逆さま」の像は、続く「ロック」の定義についての考察の鍵となっている。志村はこう語る。

 で、話は変わり、「ロック」とは何でしょう。まあ、「ロック」という定義の解釈については、奥深さ故、人それぞれ持っているものがあると思います。その解釈はその人にそのまま大切に持っておいて頂きたいと思います。ここではあくまで「僕の主観」による解釈のうちの、ごく一部を書きます。
 「ロック」…何それ。知らない。どーでもいい。から、しょうもないことをつらつら書きます。「ロック」とは、何かを打ち破ろうとする反骨精神、逆らうべきところは逆らうという精神じゃねえのかな~。でもこれ、さんざんみんな言ってるね。だから…分かりやすく例えるならば、PUNKSが頭を逆立てるのはロックなのであり、PUNKなのであります。なぜなら地球の重力に逆らっているから。

 「PUNKS」に続けて、「THE WHO」「DEVO」「ジョン・レノン」「富士山」「東京タワーを造った大工さん」を逆らう「ロック」の例として挙げている。この列挙の仕方がそもそも「ロック」的だ。特に、「富士山もロックだ」という言葉は、ロック的なあまりにロック的な発言だ。富士山についての紋切り型の表現に逆らっている。はるか昔のことになるが、富士山は御坂の山系や箱根の山系に逆らって、垂直に飛び跳ね、空に向かって突き進んだのか。そのようにして今の富士山が出来たのなら、確かにとてつもなく「ロック」だ。
 もう一つ付言するなら、DEVO(ディーヴォ)は、80年前後に活躍したアメリカのバンド。停滞していたロックを突き破ろうとする感覚と可笑しさがあり、当時はよく聴いていた。「DEVO」は「de-evolution」(退化)の意味で、「進化」に対する懐疑や「逆らう」姿勢を見せていた。志村と親交のあった「POLYSICS」の「原点」でもある。

 一連の列挙の最後に「いつかタイムマシンを作った人が現れたら、その人はスーパーロックンローラーだと思う。なんてったって、未だかつて誰も逆らえない時の流れに逆らうんですからねえ」としている。「時の流れ」が出てくるのは志村らしい。「時の流れ」に逆らうのが究極の「ロック」なあり方かもしれない。この後、ジャケット写真の話題に戻り、「逆らっている」姿が再び強調される。

 それをふまえ、今回のジャケットを見てください。中面も見てください。逆らっているでしょう。

 志村正彦は、「逆らうべきところは逆らう」ロックの精神をふまえて、このジャケットを見ることを勧めている。ジャケットの表と裏の写真の違いについても言及し、人間が「表の顔」と「裏の顔」の両方を持ち 、しかも「表裏一体」であることの「リアル」を描いたという意図を伝えている。
 この日の志村日記はとても饒舌で、彼の語り口はとても愉快だ。とにもかくにも、『TEENAGER』のジャケット写真は「逆らう」イメージを具現化したもののようだ。
 

 志村の主張に促されるようにして、「逆らう」というイメージに基づいて、『TEENAGER』の楽曲を聴いてみる。たとえば、作品『若者のすべて』の「世界の約束を知って それなりになって また戻って」という歌詞の一節の「戻って」という言葉については様々な解釈があるのだろうが、「世界の約束」に対して時に「戻って」、「逆らう」若者の日常を歌っていると読みとることもできる。

 「逆らうべきところは逆らう」は、若者のすべての行動の中の一つの重要な行為であるのだから。


 

2015年9月6日日曜日

2015年の夏-『若者のすべて』16 [志村正彦LN111]

  九月に入ると、夏という季節が急速に遠ざかる。

 「真夏のピーク」が去る頃から八月の下旬までの二三週間の時節、夏の終わりの季節に、このところ毎年のように、フジファブリック『若者のすべて』がラジオで放送されたり、ネットで語られたりしている。最近のことだが、山梨県庁の公式Twitter(広聴広報課の公式アカウント)が志村ファンの間で話題となった。

 山梨県庁 ‏@yamanashipref  · 8月26日 
先週の石和温泉花火大会。今年の主な花火は最後となります。
最後の花火に今年も・・・と綴られているフジファブリックというバンドの曲「若者のすべて」の歌詞のような状況ですね。同バンドの元ボーカル志村正彦さん(故人)は富士吉田市出身。(J)


 広聴広報課とは、その名の通り主に「広報」を担当する課。(県関係のテレビ番組の企画もしていて、昔、山梨ゆかりの作家のドキュメンタリー番組を一緒に制作したことがある) 所属の担当者の個人的つぶやきなのだろうが、どのような経緯にしろ、志村正彦の名と『若者のすべて』という名曲が県の広報という形で世に伝わっていくのは素直にうれしい。

 山梨の夏の花火で大きな規模のものは、一日から五日までの「富士五湖の花火」(山中湖・西湖・本栖湖・精進湖そして河口湖と続く)から始まり、第一週終わりの市川三郷町「神明の花火」(この地は昔から花火の生産地として有名)、八月下旬の笛吹市「石和の花火」だろう。知人の話では、今年の石和の会場では『若者のすべて』が流れていたそうだ。確か一昨年、地元局テレビ山梨の「神明の花火」特集番組のタイトルBGMでも『若者のすべて』が使われていた。ようやくこの山梨で、「花火」と「志村正彦」が自然につながるようになったのかもしれない。

 去りゆく今年の夏も、甲斐市立竜王図書館「ROCKな言葉~山梨の風景を編んだ詩人たち~」展、「路地裏の僕たち」主催の『フジファブリック Live at 富士五湖文化センター』上映会(会場・富士吉田市立下吉田第一小学校)などが開催された。志村正彦を偲び、彼の作品を伝えていく試みが継続されている。

 夏の始まりの六月、柴咲コウが歌う『若者のすべて』が私たちに届けられた。柴咲の『若者のすべて』は夏の朝の時間によく合う。さわやかな朝、その透明な歌声が心地よい。暑さがゆるやかに下降する夕方になると、志村正彦の歌う『若者のすべて』がしっくりとくる。彼の声が、それでもまだざわめいているような周囲の空気に溶けこむ。

 2015年の夏はそういうわけで、朝と夕、CDを入れ換えて、『若者のすべて』のオリジナルとカバーを何度も聴いた。声もアレンジも異なるが、それを超えて、『若者のすべて』の言葉そのものは尽きない魅力を持つ。そして、この歌は聴く者の心に言いあらわせない何かを与える。声の波動のようなものとして作用し続ける。

 『若者のすべて』についての単独の論は十五回ほど書いた。前回から一年ぶりになるが、この歌をめぐって再び書きたい。

 前々回、下岡晃・アナログフィッシュの『戦争がおきた』について書いたが、下岡は
「CINRA」掲載の「失う用意はある? アナログフィッシュ インタビュー」[2011/09/05、文:金子厚武  http://www.cinra.net/interview/2011/09/05/000001.php?page=2]で、プロテストソングについて問われ、「俺が聴いてきた洋楽って、R.E.M.でもなんでも、昔からロックって言われるものは社会のことを自然に歌ってるんですよね。」「だから特別なこととは思わないんですけど、日本で音楽をやってると、そういう曲の行き場所ってあんまりないんです。」と述べている。確かに「洋楽」と「邦楽」の間には、そのような距離、乖離がいまだにあることを否めない。

 志村正彦には、プロテストソング、レベル・ミュージックとして明確に位置づけられる作品はない、ととりあえず考えてよいだろうが、それでも、「ロック」音楽家としての彼はこの社会についてどのように考えていたのだろうか。歌い手としてどのように対峙していたのであろうか。

      (この項続く)

2015年8月31日月曜日

雨宮弘哲、甲府ハーパーズミルで。

 先週の日曜日、甲府のハーパーズミルで開催の『雨宮弘哲レコ発「沼」ツアー2015夏・ファイナル』に行ってきた。出演は、雨宮弘哲・中西ヒロキ・よよよゐの三人。山梨出身あるいは在住のフォークシンガーだ。この日は所用があって、会場に着いたのは午後八時半頃、中西ヒロキさんの終わり近くだった。のびやかな明るい声の歌い手だった。
 まもなくすると、雨宮弘哲(弘哲は「ひろあき」と読む)さんの登場。でも「さん」を付けて呼ぶのはやはりしっくりこない。「弘哲君」と呼ぶのが自然だからそう書くことにしよう。というのも彼は、私が以前勤めていた高校で知り合った生徒だったからだ。

 もう二十年ほど前のことになる。弘哲君は高校2年生でたしか十七歳、私も三十代半ばの頃で今からするとまだ充分に若かった。早熟だった彼は、あの当時や昔のフォークソングをいろいろと聴きこんでいて、少しずつ自分の作品を作り、歌いはじめていた。ハーパーズミルで友部正人のライブを一緒に聴いたこともあった。あの頃の彼の自作の歌詞には、自分の言葉をつかもうとする意欲が感じられた。歌う力はまだまだだったが、ギターの演奏は上手かった。私は私なりに彼の成長を楽しみにしていた。

 卒業後、彼は山梨から東京に行った。学生時代を過ごし、バイト生活をしながらフォークを歌う道を選んだ。2003年、「あめあめ」というユニットでMIDI Creativeレーベルから『和同開珎』をリリース、その後は中央線沿線を主な活動場所にして、自主製作CDを発表したり、企画ライブを主催したりして、各地を旅して歌い続けている。(「雨宮弘哲 ホームページ」参照)
 数年に一度は山梨に帰り、ハーパーズミルで歌った。そのほとんどに行ったはずだが、前回は都合で行けなかったので、この日は久しぶりに彼の歌を聴くことになった。今年4月発表の新アルバム『沼』収録曲のお披露目。三十七歳になった彼の現在が刻まれた作品の数々。彼の日々のつぶやきが聞こえてきた。

 歌が上手いとは言えない、と率直に書こう。歌い方、特に言葉の強弱、末尾の発声が相変わらず不安定なのだが、その歌声が「ゆらぎ」のようなものを伴い、ある意味では、彼の心そのものの「ゆらぎ」を伝えているようでもある。
 そのような歌い方は聴き手を限定してしまうという弱さを持つと同時に、彼の「個」を際立たせる、ある種の強さにもなっている。彼の歌が聴き手に受け止められるかどうかの壁がここにあるが、この壁を乗り越えてしまえば、雨宮弘哲の歌の世界に入ることができるのだろう。



 アルバム最後の歌『小舟』は、彼の今までの旅の航路が歌われている。

  ぼくの小舟は  波に揺れない
  うねりの風も 笑いとばして
  すすむだろう 光へ向けた矛先
  手製の帆を張って 金の夕空
    
 日々の暮らしの中で、その航路を遮るもの。問いも答えもなく、立ちはだかるもの。それを前にして、時に折れ曲がり、時にいじけてしまう主体。しかし、「笑いとばして」進むしかない。
 彼は自らの声と言葉の「ゆらぎ」で、そのようなものたちに「ゆらぎ」を与えようとしているのかもしれない。

 しかし、アルバム『沼』の全体を通してみれば、もっともっと、言葉に「ゆらぎ」をもたせたらどうだろうかという考えが浮かんでくる。ゆらぎはじめている言葉もあるが、まだまだありふれた言葉もある。
 「小舟」が、「言葉」そのものの「うねりの風」を「手製の帆」で受けとめて進んでみたら、どのような風景が広がるのだろうか。そのような風景を聴いてみたい気がした。

 終了後、弘哲君と少しの間言葉を交わした。つい最近、このハーパーズミルで佐々木健太郎のライブを聴いたことを話すと、Analogfishがまだ下岡晃と佐々木健太郎の二人で活動していた頃に、下北沢で共演したことがあったそうだ。前野健太もいたようだ。その頃の下岡・佐々木の印象はエレファントカシマシのようだったらしい。2000年代初めの頃の話だ。

 もう一つ、興味深い話があった。弘哲君は、インディーズ時代のフジファブリック(いわゆる第2期の時代)のベーシストとバイト先のパスタ屋が一緒だった縁で、『茜色の夕日』等が収録されたカセット音源を2種類もらって聴いていた。志村正彦もそのパスタ屋に食べに来たこともあったが、会ったことはなかったそうだ。(弘哲君は志村正彦と同世代。山梨出身の二人が何かのきっかけでもし出会っていたらという想像をしてしまった)。彼が第2期のベーシストを通じて、当時のフジファブリックの様子を知っていたことには驚いたが、ある時代に新宿や高円寺という中央線沿線の場所で、フォークとロックという違いはあれ、インディーズシーンで活動をしていたのだから、どこかに接点があっても不思議ではない。

 1980年前後に生まれた世代には新しい感覚を持った歌い手がたくさんいる。彼らも三十歳代の後半に入りつつある。
 歌い手としてのポジションは様々だが、今もなお歌い続けている存在がいる。

2015年8月15日土曜日

『戦争がおきた』 Analogfish

 「戦後70年」とことさらに言われると、「戦後」という捉え方が自明なものであるのかどうか、あらためて問いかけてみたくもなる。
 「戦」の「後」という時の区分は、「戦」の「前」「中」と言う時との対比としてある。戦争が起きる「以前」、戦争が行われている「最中」という時の状況はある程度明確である。しかし、「戦後」とは定義上、戦争が終わった「後」の時を示す。そうであればすぐに、戦争が終わったのかどうか、ということが問われる。
 もちろん、戦闘としての戦争は、私たちの国の場合、1945年8月15日に終結している。しかし、戦争が終わるということが、戦争に関わるあらゆることが本当の意味で終わるということであれば、未だに戦争は終わっていないと考えられる。沖縄の現実を見れば明らかであり、現在の社会の動きもそのことを示している。
 

 先週の土曜日、Analogfishの佐々木健太郎のライブに出かけたこともあり、ここ数日、Analogfishの「社会派三部作」と言われる、『荒野 / On the Wild Side』(2011年)、『NEWCLEAR』(2013年)、『最近のぼくら』(2014年)の三枚のアルバムを聴いた。Analogfishには下岡晃、佐々木健太郎という二人のボーカル、ソングライターがいるが、下岡はあるインタビューで「僕はレベル・ミュージックを作りたいと思ってるんですよ」と語っている。(http://chubu.pia.co.jp/interview/music/2014-11/analogfish.html

 確かに「社会派三部作」には、この時代に向き合うレベル・ミュージックが数多く収められていて、しかも定型的なものはなく、自由で多様な作品が展開している。中でも、第1作『荒野 / On the Wild Side』収録の『戦争がおきた』(作詞:下岡晃、作曲:アナログフィッシュ)は、その題名の直接性が際立っている。「朝目が覚めて」と冒頭にあるように、朝のまどろみを想起させる美しいメロディを持つが、歌詞そのものの読みとりは難しい。歌詞の全てを引用する。


  朝目が覚めてテレビをつけて
  チャンネル変えたらニュースキャスターが
  戦争がおきたって言っていた


  街へ出かけて彼女と飲んで
  家へと向かう電車で誰かが
  戦争がおきたって言っていた


     借りてきた映画を見て その後で愛し合って
  戦争がおきた


  ずっと昔に夕飯時に
  手伝いしてたら近所の誰かが
  戦争がおきたって言っていた


  料理が並び家族がそろい
  食事をしてたらまばゆい光が
  暗闇の中を不確かな国の
  確かな家族へ飛んでった


  世界が終わるんだって 勝手に思い込んで
  眠れずに朝になった そんな事思い出して
  少しだけビール飲んで 昼まで眠りこけた


  戦争がおきた

  朝目が覚めて彼女も起きて
  昨夜の行為の続きの後で
  戦争がおきたって言っていた


  何かが変わるといいね

  戦争がおきた


 この歌には、「戦争がおきたって言っていた」という表現と「戦争がおきた」という表現の二つがある。この二つの間にはどのような差異があるのだろうか。

 歌の現在時(他の解釈もあるだろうが、ここではいちおうそのように捉える)、「テレビ」の「ニュースキャスター」が、街から家へと向かう電車で「誰か」が「戦争がおきたって言っていた」。その後、「ずっと昔」と時が遡り、その「夕飯時」の出来事として、「近所の誰か」が「戦争がおきたって言っていた」。もう一度現在時に戻り、「朝」「彼女も起きて」、「昨夜の行為の続きの後で」「戦争がおきたって言っていた」と歌われる。誰が言ったのかは明示されていないが、文脈上は「彼女」の発話だとするのが自然だろう。
  「戦争がおきたって言っていた」の実際の歌唱では、「戦争がおきた 戦争がおきた 戦争がおきた って言っていた」と歌われている。「戦争がおきた」は三回反復された後、「って言っていた」という他者の発話として、他者を通じて、その事態が歌の主体に伝えられる。

 第5連にある、「まばゆい光が/暗闇の中を不確かな国の/確かな家族へ飛んでった」は、この歌で描かれる「戦争」の像の中心にある。「国」と「家族」とが、「不確かさ」と「確かさ」とで対比されている。「レベル・ミュージック」の批評性がこのフレーズには現れている。しかし、この歌は、「国」のあり方を批判する方向には進まずに、「戦争」をめぐるある現実の露出に向かおうとしている。

 「戦争がおきたって言っていた」という他者の発話を聴く経験ではなく、歌の主体の経験、少なくとも他者を介在させることのない間接的ではない経験として、「戦争がおきた」と歌われるのは三度ある。                                                                      
 最初は、「借りてきた映画を見て その後で愛し合って」という「行為」の後で「戦争がおきた」と歌われる。その行為と「戦争がおきた」という出来事との文脈上のつながりは特にない。行為と出来事とは乖離している。次は、「少しだけビール飲んで 昼まで眠りこけた」に続けて「戦争がおきた」と歌われる。この場合も、「眠り」とその覚醒と「戦争がおきた」という出来事との間にはつながりはない。「眠り」は意識の断絶としてある。「愛し合って」という行為も一種の断絶だとするなら、断絶を経ての覚醒の後、「戦争がおきた」という出来事が起きる、という流れを読みとることができるかもしれない。そして、「何かが変わるといいね」という願望が唐突に歌詞の中に織り込まれた上で、「戦争がおきた」と最後に歌われて、この作品は閉じられる。
  最後の「戦争がおきた」には、とても静かに、それゆえ突然に、「戦争」という現実が露出したような響きがある。


 『戦争がおきた』という歌は、「戦争がおきた」という出来事と、「戦争がおきた」ことを主体が把握する出来事との二重の出来事を伝えようとしている。意味というよりも、出来事そのものが現れ出るように言葉が配置されている。(まだ私はそれを解析できないのだが、その端緒としてこの文を記そうと考えた)


 下岡晃、Analogfishは今、全く新しいレベル・ミュージックを創りつつある。

2015年8月9日日曜日

佐々木健太郎・岩崎慧、甲府ハーパーズミルで。

 昨夜8月8日、甲府のハーパーズミルで、「トットコサマーで王さまツアー!2015」佐々木健太郎(アナログフィッシュ)と岩崎慧(セカイイチ)のライブを聴いてきた。

 岩崎慧の歌を聴くのは初めてだった。のびやかな声を持つ歌い手で、プロとしての十数年のキャリアが伝わってくる。
 最後に歌われた『バンドマン』。「夢はもうないのかい/夜になったまま朝がこないのかい」という最初のフレーズには少しどきりとした。「狭い狭い枠の椅子とりゲーム」という繰り返される言葉からはバンド業界で生きる者の悲哀が漂う。
 このライブのみの印象だが、洋楽を始め様々な音楽を消化できる器用な人なのだろうが、もっと削ぎ落とすことで、彼の「地」のようなものを表した方が聴き手により届くのではないだろうか。歌の力は感じられるのだから。

 佐々木健太郎は、昨年1月にもこの場所で聴いた。(http://guukei.blogspot.jp/2014/01/blog-post.html
 今回は『希望』から始まった。この歌の世界はありふれたようでありふれていない。彼の歌う力と言葉の力がほどよく結晶されている。今のところ最も好きな作品で、収録アルバムのアナログフィッシュ『NEWCLEAR』を時々聴いている。
 ただし、昨年とは何かが違う。歌のパフォーマンスのあり方だろうか。例えば、「希望 希望 希望」と口ずさむ時に目線が彼方を眺めるように動いていく。単独ライブではなく、二人によるライブツアーという背景があり、歌い方を変えているのかもしれないが、昨年の飾り気のない木訥としたスタイルの方が好きだ。

 岩崎、佐々木の順で歌い、二人による歌とアンコールでしめくくられた。最後はアナログフィッシュの名曲『LOW』。岩崎によると、二人の出会いのきっかけとなった曲。「How are you? 気分はどうだい/僕は限りなく ゼロに近い LOW LOW/胸焦がして 胸焦がして 頭かかえて 胸焦がして」と、佐々木と岩崎が激しく声と身体を使う。この日こちら側に最も迫ってきた歌だ。

 「限りなくゼロに近いLOW」は、村上龍『限りなく透明に近いブルー』へのオマージュだろうか。90年代からゼロ年代にかけてのロック青年は、60年代から70年代にかけてのロック青年の持つ「透明な浮遊や高揚」からはほど遠い日常を生きる。下降や逡巡を繰り返す焦燥感が吐き出される。それは「透明」たりえない。
 『LOW』は佐々木の初期の作。「ゼロに近いLOW」いう表現は時代を鏡のように反射していて、ある種の社会性や批評性を帯びている。この頃の佐々木の歌には、アナログフィッシュの盟友、下岡晃の世界との共通項が多い気がする。

 この日の聴衆は三十人弱。半分以上は他県からの客か。少人数の、そして静かな客を前に熱演し盛り上げようとして二人のパフォーマンス。一人の聴き手としてはこれ以上求めるものはないのだが、正直に書くと、その盛り上げ方に入り込めないような感じが残った。私の捉え方の問題かもしれないが、佐々木健太郎は逆にやや疲れているようにも見えた。

 佐々木と岩崎も三十歳代の後半を迎えている。
 歌い続けること。そのことの意味は、歌うことには無縁である私のような聴き手にとっては計りがたい。勝手に想像したり了解したりすることは慎むべき、少なくとも丁寧で慎重であるべきだらう。
 それでも今こうして書いている最中にも、そのことが頭の中で回り続けている。
                                                             

2015年7月28日火曜日

柴咲コウ『若者のすべて』 [志村正彦LN110]

 柴咲コウと言えば、やはり、女優という印象が強い。プロフィールを確認すると、廣木隆一監督の『東京ゴミ女』が映画初出演のようだ。この映画は2000年製作、かなり前の作品だが、廣木監督作が好きだったので衛星放送で見たことがある。柴咲コウ演じる役の記憶はほとんどなく、新感覚の女性映画だという印象だけが残っている。その後、柴咲コウは人気女優の地位を築いていくのだが、もともとは歌手志望だったようだ。

 その柴咲コウが志村正彦作詞作曲の『若者のすべて』を歌った。6月発売のカバーアルバム『こううたう』に収録されている。
 このCDは、期間限定で一部のショップで特製のリーフレットが添付され、その中に本人が選曲について語った「こうえらぶ」が掲載されていたようだが、私はそのエディションを購入できなかったので、残念ながら未読である。『若者のすべて』を選んだ理由は分からないのだが、どのような理由であっても、この曲が選ばれたことは素直にうれしい。

 歌そのものを繰り返し聴いてみる。
 志村の《声》の持つ、ある種のやるせなさ、よるべなさのようなものが脱色され、淡い色調の《声》を柴咲はまとう。志村の『若者のすべて』の複雑な陰影に満ちた言葉の世界に対して、言葉そのものは同一ではあるが、柴咲の歌う世界は、女性の男性に対する想いを述べているようにも聞こえてくる。この歌の主体は、歌詞の中の人称としては「僕」であるのだが、柴咲が歌うと、歌の主体が女性であると解釈してもそんなに違和感がない。そのように言葉がたどれる。
 女性が男性主体の歌詞を歌うという、日本のポピュラー音楽にしばしばある、いわゆる「CGP(Cross-Gendered Performance)」、「歌手と歌詞の主体とのジェンダー上の交差(女性歌手が歌う「男うた」等)」ではなく、女性が女性主体の歌詞を歌う、つまり歌詞の主体が女性に変換されている(実際に「僕」という言葉が換えられているわけではないが)ように、私には聞こえてきた。

 特に、「ないかな ないよな きっとね いないよな」の「な」音の響きは、むしろ女性の《声》に合うような気もする。ただし、志村の《声》の響きに比べて、幾分か単調ではあるのだが。
 志村の歌い方は、やはり、「語り」の要素が強いことも再発見する。語りによって、風景がスクリーンに投影され、外へと広がっていく。そのような流れは柴咲の歌にはない。むしろ、言葉は内に向かい、女性の想いという一点に集約されていく。それはそれで、美しく結晶されていて、この曲の数あるカバーの中でも、柴咲コウの『若者のすべて』は聴く価値のある作品となっている。

 以前書いたことだが、志村の歌う『若者のすべて』の季節は、なぜか「冬」のように感じられる。凍てつく風景に「冬の花火」の最後の光が上る。それに対して、柴咲の歌う『若者のすべて』は、当然かもしれないが、「夏」の季節感にあふれている。明るい光にあふれる空と雲の中を、《声》がゆるやかに漂う。そんな情景が浮かぶ。

  カバーされた全15曲中の第1曲目という重要な位置付けであり、「amazon」などのレビューを読むと、このアルバムで『若者のすべて』という歌を知った人も多いようだ。柴咲コウがこの曲を私たちに贈り届けてくれたことはとても有り難い。

 なお、 『若者のすべて』(フジファブリック)のカバー、あるいはフジファブリック『若者のすべて』のカバーというように音楽サイト等で紹介されているが、限定版同封の「こうつづる」というブックレットには、「作詞・作曲:志村正彦 編曲:関口シンゴ」というクレジットが記載されていた。これを見て大いに肯いた。
 フジファブリックの作品であることはもちろんだが、カバーされる場合は、「こうつづる」に記されているように、あくまで、志村正彦作詞作曲の『若者のすべて』のカバー、というように書いてほしい。少なくともそのように作詞作曲者名を補ってほしい。志村作品を愛する者の一人として、これは譲れない。

2015年7月23日木曜日

『ROCKな言葉~山梨の風景を編んだ詩人たち~』 [志村正彦LN109] 

 昨日、甲斐市立竜王図書館で開催中の展示「ROCKな言葉~山梨の風景を編んだ詩人たち~」を見てきた。甲斐市は十数年前に合併して誕生した市。甲府市の西側に位置する。竜王図書館は私の家からは車で10分ほどのところにあるが、今回初めて訪れた。開架式のスペースが広く、オープンな雰囲気の図書館だった。

 階段を上がり2階の展示ホールへ。宮沢和史・藤巻亮太・志村正彦のプロフィールと写真のパネル、歌詞のパネルが壁面に飾られている。CDを数枚ずつ入れた展示ケースが二つ。中央の机上に『宮沢和史全歌詞集』『志村正彦詩集』等の著書。感想を記す用紙が置かれていたが、志村正彦についてはメッセージを記入できる特別なノートも用意されていた。
  
 宮沢・藤巻・志村の「歌詞」を紹介する今回の展示は、「歌い手」というよりも「詩人」としての三人に焦点を当てている。図書館らしい視点だが、そのことによって、来館者に彼らの音楽との新たな出会いをつくりだす可能性がある。
 山梨では宮沢和史・THE BOOM、藤巻亮太・レミオロメンの知名度が高く、彼らの代表曲を聴いたことがある人は多いだろうが、彼らの「言葉」をあらためてたどり直すことは「再発見」の経験ともなる。志村正彦・フジファブリックについては、残念なことだが宮沢・藤巻ほどは知られていないので、そのまま「発見」の契機となるだろう。
 そのような展示を甲斐市立竜王図書館が主催したことは大いに評価される。現実の場において何かをなすことはとても大切なことだから。

 ただし、課題もある。歌詞パネルの数が宮沢2点、藤巻3点、志村10点というようにアンバランスなことだ。テーマから考えると、三人の扱いは均等であるべきだろう。(私は志村のファンであるからこそ、なおさらそのように感じた)また、彼らの詩から読みとれる「山梨の風景」について何らかの解説があれば、一般の来館者の関心をより高めることができると思う。甲府の宮沢、御坂の藤巻、吉田の志村という出身地の対比があれば、親しみもわく。

 どのようなイベントにも成果と課題がある。課題については次の機会、あるいは別の機会で向き合えばよい。そのことよりも、一人のロックの聴き手として、今回の試みに踏み出した図書館のスタッフの情熱と勇気をたたえたい。

2015年7月13日月曜日

『路地裏の僕たち上映会』 [志村正彦LN108]

 一昨日の土曜日、7月11日、以前から予定が入っていて、甲府を出発できたのは午後4時を回っていた。「路地裏の僕たち」主催の『フジファブリック Live at 富士五湖文化センター』上映会が富士吉田で行われている。その最後に何とか間に合いたいと車を走らせた。

 夏の観光シーズンを迎えるこの季節、県外ナンバーも多くなり、山梨の幹線道路は混雑する。甲府バイパスから御坂へ進み、河口湖の手前で左折し、3月末開通の「新倉河口湖トンネル」を初めて通る。照明が明るく、道もほぼ直線で、とても通行しやすい。全長2.5キロの長いトンネルだが、少し経つと吉田側の光がかすかに見えてきた。抜けると見覚えのある風景が広がる。志村正彦の生まれ育った場の近くだった。       

 これまでは、甲府から吉田までは必ず河口湖周辺を経由しなくてはならなかったが、今後は、御坂トンネルから下ってそのまま四つほどトンネルを過ぎると吉田にたどりつく。御坂から吉田まで「直結」したような感じだ。甲府と吉田との距離よりがさらに近くなり、時間帯によっては20分ほど短縮されたのではないだろうか。

 新トンネルのおかげで、午後5時過ぎに会場の下吉田第一小学校に到着。茜色の「路地裏の僕たち」Tシャツを着ている方々が忙しそうに動き回っていた。「志村商店」をはじめとする臨時の出店があると知ったので楽しみにしていたのだが、もう店じまいだった。遅く来たのでこれは仕方がない。

 入口には今回制作されたポスターやフライヤーが並んでいた。フジファブリックのCDデザインを数多く担当された柴宮夏希さんの協力があり、「路地裏」らしい雰囲気で味わい深い。グラフィックという点でも、これまでのイベントからさらに進化している。

 体育館に入ると、かなりの人数の熱気があふれる。映像と音響の設備も本格派だ。後方に写真やギターや機材がおぼろげに見える。「飛び箱」や用具らしきものもあったので、ここが小学校の体育館だということを実感した。

 アンコールが始まった。永遠に聴かれ、語り継がれることになるであろう『茜色の夕日』とそのMC。最後の『陽炎』。この二曲に間に合うことができた。

 『陽炎』が今回は特に胸に迫ってきた。
 志村少年が「路地裏の僕」として駆け回った「場」。
 陽炎がそこらじゅうに立つような夏の「時」。

 そのような「場」と「時」を得て、「路地裏の僕たち」の方々そして会場の人々の熱気、迫力のある映像と音響、フジファブリック・メンバーの熱演、志村正彦の「声」、それら全てが溶け合い、下吉田一小の『陽炎』は静かに熱く揺れていた。
 (エンディング近くでギターを激しくかき鳴らす彼。そのシーンが終わると、哀しみにおそわれるのはいつものことなのだが。)

 上映会の終了後、展示コーナーを見た。文字通り、飾りっ気のない展示がこの場にはふさわしい。ゼロ年代を代表するロック音楽家というよりも、「路地裏」の「英雄」としての彼が母校の小学校に還ってきた。この感覚を「路地裏の僕たち」は大事にしているのだろう。

 体育館を出ると、掲示板にクボケンジや片寄明人をはじめとする志村正彦の友人知人のコメントが掲げられていた。2011年の志村展の際に、私の勤務校の生徒たちが授業を通じて書いた文章も再び掲示されていた。
 以前、生徒の文が良かったという感想をよせてくれた地元の方がいらっしゃって、今回も展示することに決めたそうだ。生徒の文が志村正彦ゆかりの人々の文と並んで飾られているのは場違いのような気がして、当事者でもある私は大変恐縮したのだが、このように大切にされているのはとても有り難い。(あの生徒たちも卒業して三年になる。その内の一人は国文科に進み、今年母校に教育実習生として戻ってきた。教職に就くのはなかなか難しい時代だが、彼女が教壇に立ち、いつの日か自らの視点で志村正彦の詩について語ることがあるかもしれないと、勝手に思い描いている。)

 出口付近でチャイムを待っていると、久しぶりにお会いできた大切な方々、昨年の甲府での志村展やフォーラムでお世話になった方々と再会することができた。挨拶の言葉しかかわすことはできなかったけれども、このような機会があるからこそ再び会うことができてとても嬉しかった。

 午後6時、『若者のすべて』のチャイムが鳴りはじめる。小学校横の防災無線スピーカーを皆が見上げている。2012年の暮れ、冬の季節に市民会館前で聞いたときよりも、音が明るくかろやかに響く。この歌はある種の力強さも持っている。「すりむいたまま僕はそっと歩き出して」と歌詞にあるとおり、どのような状況であれ前に歩き出そうと伝えているようだ。夏の季節の始まり、私たちも歩き始めねばならない。       

 主催者と共催者の皆様の自発的な活動に対して敬意を表したい。私も経験者として、準備まで、そして当日の苦労はよく分かる。また、映写技師やプロ機材を使っているので経費もかなりかかったことと思う。彼らは「全国のファンへの恩返し」として企画したと述べているが、私たち各々が自分のやり方で志村正彦を聴き、語り続けることが、彼らへの恩返しとなるのではないか。私もその一人としてこのblogを書き続けていきたい。

 私個人として最も励まされたことを最後にひとつ書かせていただく。
 3回目の上映会の後で、志村正彦の子どもの頃から29歳までの写真の映写があった。その最後に映されたのが「ロックの詩人 志村正彦展」のフライヤー画像だった。事前には全く知らなかったので、とても驚いた。「路地裏の僕たち」の皆様から、昨年7月の甲府展へのエールが送られたような気持ちになった。
 深く、感謝を申し上げます。

2015年7月9日木曜日

去年の7月、今年の7月。 [志村正彦LN107]

 明日は志村正彦の誕生日。彼が元気であれば三十五歳を迎えた日だ。

 昨年7月12,13日開催の「ロックの詩人 志村正彦展」と「フォーラム」は、この時期に合わせて計画された。一年前の今頃は、最後の準備に追われていた。パネルの解説文を時間の許す限り推敲していた。

 思い返すと、私たちの試みがフジファブリックの所属事務所SMAやナタリーのサイトで紹介していただいたのは、全く予想外の出来事だった。そのことには非常に感謝したのだが、反響を呼ぶに従って、予想より大勢の人たちが来場される可能性が出てきた。正直に書くと、そのことがかなりのプレッシャーになった。二日間、私たちがこのイベントを無事コントロールできるのかという不安も生じた。精神的にも時間的にも余裕のない状態だったが、何とか展示の準備を完了することができた。会場での実務の仕事も、友人や協力者、そして会場の係の方に助けられた。無事終了することができた最大の要因は、何よりも来場者の御理解であったと思う。入場までの時間が非常に長くなっても辛抱強く待ち続けていただいた。ほんとうに有り難かった。

 すでに発表があったとおり、7月11日、土曜日に、志村正彦の母校、富士吉田市立下吉田第一小学校の体育館で、彼の同級生グループ「路地裏の僕たち」主催による『フジファブリック Live at 富士五湖文化センターDVD』の無料上映会が開かれる。ゆかりの品も一部展示され、あわせて、12日まで夕方6時のチャイムが「若者のすべて」のメロディに変更されるそうだ。

 「路地裏の僕たち」は、志村の故郷富士吉田で様々なイベントを推進してきた。これまでも、そしてこれからも、志村正彦に関する活動の中心を担う。ゆかりの場所での上映会という今回の企画は「路地裏の僕たち」ならではのアイディアだ。これまでの展示やチャイムに加えて、志村正彦・フジファブリックの音楽そのものを、故郷でのライブを、「映像」という形ではあるが「体験」してもらう会は、新しい試みとしてとても重要なものとなるだろう。

 また、30日まで甲斐市立竜王図書館で、志村正彦、宮沢和史、藤巻亮太の歌詞パネルを展示した「ROCKな言葉~山梨の風景を編んだ詩人たち~」が開催されている。まだ見に行ってないのだが、図書館という場所からして、志村正彦の詩集や著書を山梨の人々が知る、良い契機になると思っている。

 昨年の展示やフォーラム、今年の「路地裏の僕たち」主催の上映会や甲斐市立竜王図書館主催の展示。共通するのは、志村正彦の作品を現在の世界に広げ、未来の世界に伝えていくという目的であろう。そのためには、多様な視点や方法があってよいと考えている。
 以前も書いたことだが、富士山の登山ルートには昔のものを含め、幾つものルートがあり、それは全て富士山の頂上を目指している。そのことになぞらえれば、多様性を保ちながら、共通の目標を目指していくのが、志村正彦にふさわしい「歩み」のような気がする。

 去年は間際に台風が到来したが、会期の週末は天気になった。今年も梅雨の長雨が続いたが、今週末は雨もあがるようだ。天気予報士がテレビで良い天気となると言うように祈っている。
 夏の富士に祝福されて、『路地裏の僕たち上映会』は開催されることになるだろう。
 

    週末 雨上がって 街が生まれ変わってく
        紫外線 波になって 街に降り注いでいる
        不安になった僕は君の事を考えている
   
                               ( フジファブリック 『虹』 、 作詞作曲 ・ 志村正彦 )

2015年7月3日金曜日

志村正彦がつなげた偶然-浜野サトル5

 昨日、浜野智氏のサイト「毎日黄昏」(http://onedaywalk.sakura.ne.jp/one/index.html)の7月2日の記事にこう書かれてあった。前回で一休止し再び歩み始めたいと記したが、思いがけない出来事が起こったので、今回はこのことについて「5」として書きたい。現在の氏は「智」と署名されているので、この文では「サトル」ではなく「智」と記させていただく。

 志村正彦というシンガーについてちょっと調べたいことがあって「偶景web」というサイトにたどり着いたときはびっくりした。なぜかといえば、ここには意外にも僕の古い文章についてのあれこれが盛りだくさんに載っていたからだ。

 浜野氏が志村正彦について調べ、この「偶景web」にたどり着く。インターネット特有の遭遇に驚くと共に素直に喜んだ。志村正彦が媒介した「縁」のようなものをとても大切にしたい。

  念のために申し添えると、当然のことではあるが、私は浜野智氏とは一面識もなかった。私は一読者という立場で、彼の著書や、断続的ではあるが、ネットで発表された文を愛読してきた。このwebを始めてからずっと、いつか氏の批評について書きたいと考えていた。私にとって音楽を語る原点として氏の言葉をたどりなおしたかった。二年経ち、ようやくその端緒につくことができた。

 「偶景web」の拙い試みはともかくとして、氏が「志村正彦」を調べているという事実そのものに感激する。理由や経緯は分からないが、志村正彦について関心を持つ。私だけでなく、志村正彦の多くの聴き手にとっても、この出来事は重要なものとなるかもしれない。

 《「偶景web」サイトを見ていて、いろいろなことを思い出した。》と述べられていたが、その契機となったのであれば、今回の試みも意味を持つ。
  「終りなき終り」についての早川義夫の発言、『ボブ・ディラン論集』の件など、一つひとつの挿話が興味深い。早川は浜野に何を語ったのだろうか。70年代初頭、あの渋谷BYGのレコード係として、浜野氏は「はっぴいえんど」や「風都市」の志した日本語ロックの現場近くにいた。
 そして、《「バイオグラフィー=線」ではなく、「一瞬の沸騰=点」をめぐって書きたいと思っていた》という平凡社新書『ボブ・ディラン』の企画。氏にとって第三の批評書、最新のディラン論となるはずのこの書物は、やはり、幻の本になってしまうのだろうか。

 私は何よりも浜野智氏の文体に魅了された。
 「エッジの効いたリズム」のような鋭い硬質な論理、その背後に響くやわらかい感受性の音調。「論理」と「音調」の融合した文体は、「批評」の内部に「歌」(その歌は「歌われない歌」であるのだが)を響かせている。

2015年6月29日月曜日

『ディランにはじまる』-浜野サトル4

 前回紹介した浜野サトル『終わりなき終わり ボブ・ディラン』(『都市音楽ノート』1973年12月10日、而立書房)の最後は、次のように閉じられている。

 だが、いずれわれわれはディランの彼方へと向かうことになるだろう。ボブ・ディランの時代は終わった。

 ディランの時代の終わりを告げるこの批評はそれ自体、あの時代、60年代から70年代前半までの時代において、表現者も受容者も共に抱えていたある共通の困難や苦悶を物語っている。「ディランの彼方」へ向かうとあるが、その彼方がどこにあるのかは、むろん分からない。一つの意志、一つの試みとして、それは述べられている。浜野のこの結語はやや性急な断言のようにも受けとめられるが、ディランに向かってというよりも、自分に向かって、自身に対して言い聞かせているようにも響く。
 
 しかし、『都市音楽ノート』から五年ほど後に刊行された著書『ディランにはじまる』(1978年3月10日、晶文社)の「あとがき」にはこうある。

 ぼくは、六十年代という時代がその後半にさしかかったころ、ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」との出会いを通して、この種の音楽の世界に入った。そして、次の時代のはじめに、ディランがアクチュアリティを失うと、ぼくは一度彼の音楽を離れ、それ以後、新たなシンボルを探し出そうとする試みを続けた。だがしかし、彼の歌や存在とぼくとの間には結局は絶つことのできないつながりがあり、ディランは今再び、ぼく自身が時代をながめ返すための、ひとつの水晶体になろうとしている。

 著書『都市音楽ノート』の刊行日付からすると五年、『終わりなき終わり ボブ・ディラン』の執筆時1970年10月から数えると七年。70年代初めから70年代後半までの年月の間に、浜野サトルのディランへの関心は再び高まってきた。彼の内部で再び「ディランの時代」が歩み始めた。何が起こったのか。これには、表現者としてのディラン自身の変化と共に受容者としての浜野サトルの変化の二つが関係している。
 

 最初にディランの歩みをふりかえりたい。

 60年代中頃がディランの第1のピークだとすると、1974年から76年にかけての時代は第2のピークだったと言える。1973年、アサイラム・レコードに移籍。ディランは重要な転機を迎える。1974年『プラネット・ウェイヴス』、1975年『血の轍』、1976年『欲望』と立て続けに素晴らしいスタジオ作品を発表。この間、ザ・バンドとの全米ツアーや「ローリング・サンダー・レヴュー」ツアーも行い、それらを収録したライブ盤、1974年『偉大なる復活』、1976年『激しい雨』もリリース。日本のディラン・ファンにとっては、1978年の初来日が大きな出来事となった。
 この第二のピークが、浜野サトルにディランを問い直す契機を与えたことは間違いない。(私自身のディラン体験をふりかえると、74年、『プラネット・ウェイヴス』で彼のアルバムに出会い、78年の武道館で彼の生の声を聴くことができた。だから今に至るまで、私にとって70年代のディランの存在が大きい。)
 あの時代のロック音楽の深化を同時人として経験している者からすれば、一年一年という時の歩み、一作一作という作品の歩みがほんとうに濃縮されたものだった。変化も激しいものだった。

 次に、この時期の浜野サトルの批評の軌跡をたどりたい。

 彼は『ディランにはじまる』の「あとがき」で「ぼくはぼくなりに、小さな実験を繰り返してきたようだ」と述べている。それは彼も触れているように、「文体」の変化にも伺える。具体的には、『都市音楽ノート』では「書き手」を示す一人称代名詞が「私」、一人称複数代名詞が「われわれ」だったのに対して、『ディランにはじまる』では各々「ぼく」「ぼくら」に変わった。

 文体に関わる方法の面でも変化が見られる。『都市音楽ノート』では、論理が論理を追究し掘り下げていくような硬質で切実な様式だったのが、『ディランにはじまる』では、「歌」に関する具体的な文脈や背景から語り始め、歌い手やその作品のテーマやモチーフを少しずつ解きほぐしていく、よりやわらかいスタイルへと発展していった。
 この文体や方法の実験は、対象である「歌」との対話や言葉の摺り合わせという地道な試みによって可能となったのだろう。

  『ディランにはじまる』冒頭には『ハイウェイ』というディラン論が収められている。(『ワンダーランド』1973年8月号で発表。初出時の題名は『ハイウェイ ディラン体験とヘンリーたち』。『ワンダーランド』(WonderLand)は植草甚一編集の音楽・サブカルチャー雑誌。3号目から誌名が「宝島」に変更された。その後、この雑誌や増刊号は日本のロックのメディアとしても活躍した。)


 この批評は、ロバート・マリガン監督『ハイウェイ』(1964年)の主人公ヘンリーの物語から始まる。駆け出しのミュージシャンであるヘンリーは、アメリカ中西部の田舎町に住み、ある事件を起こす。彼の「走り出し、挫折する」物語をひとつのアレゴリーのようにして描き出しながら、浜野は自らの都市生活者としての音楽への欲望とその享受のあり方についてふりかえる。歌のあり方への根源的な問いかけがあるこの批評の内容については別の機会に論じることにして、ここでは、浜野サトルがディランについてのスタンスを述べた箇所を引用したい。

 ディラン体験について、ぼくは語りたい。そのためには、聴衆の ひとりとしての自分をできるだけ裸にしてゆくようつとめなければならないだろう。というのも、体験はいうまでもなくつねに個人的な体験としてあるのだから。そして、それは個人的なコンテクストを通して自分をひらいてゆくことを意味しているにちがいない。

 73年という時点で「ディラン体験」があらためて、「ぼく」と人称代名詞によって語り出された。
 「個人的な体験」「個人的なコンテクスト」を通じて「自分をひらいてゆく」ことを媒介にして対象を語っていくのは、この時期の彼の姿勢であり方法である。それは、いわゆる「私語り」や個人的な挿話ではない。そこにある「個人」「自分」というのは、きわめて方法的な「場」である。この方法や文体の達成が、この『ハイウェイ』というディラン論であり、第1・2回で述べた『ポールサイモン パッケージされた少年時代』であろう。


[付記]

 四回続けた「浜野サトル」ノートもここで一休止し、次は彼の「うた」論に焦点をあてて再開したい。
 浜野サトルは現在も、「浜野智」という名で(彼が編集者という立場で記す名だと思われる)、「One Day I Walk」( http://onedaywalk.sakura.ne.jp/ )というサイトを開設している。
 その中の「青空文庫分室」には、「新都市音楽ノート」という旧作だが必読の批評が載せられている。最近は更新されていないが、音楽エッセイ中心の「蟹のあぶく」。
 そして、日々書き継がれている「毎日黄昏」からは、六十歳代後半となった彼の日常や文学作品への多様な関心と共に、「歌」の言葉やこの世界の現実への真摯な「問いかけ」が伝わってくる。

2015年6月21日日曜日

『終わりなき終わり ボブ・ディラン』-浜野サトル3

 二回続けて、浜野サトルの四十年前ほどの批評をこの《偶景web》で紹介したことは、やや唐突に感じられたかもしれない。
 これまで、「志村正彦ライナーノーツ」を中心に音楽やそれをめぐる出来事についてこのwebに書いてきた。音楽をどのように語ることも自由だ。インターネットという場では、日々、音楽についての語りが量産されている。メディアであれ、個人であれ、音楽を語る欲望は尽きることがない。しかし、「語る」というよりも「語らされる」、あるいは語りに語りを「重ねていく」、という状況ではないだろうか。

 ジャック・ラカンによれば、私たちの欲望は他者の欲望である。音楽を語る欲望も、その言葉も、根源的には他者から与えられる。今、志村正彦を語る自分自身の欲望をふりかえると、そこには浜野サトルという他者が存在している。単に影響を受けたという以上のものがあるような気がする。それが何か。年月が経ち、わかるところもあるのだが、まだわからないところも多い。わからないからこそ、今回このような文を書き、彼の批評を読み直し、自分の言葉を問い直している。彼の文を読んでいくと、当時は気づいていなかった論点が幾つか浮上してくる。過去に書かれたものであっても、現在進行形で読まれうる。鋭敏な批評の特徴にちがいない。
 また、欲望や言葉をめぐるラカンの教えに踏みこまずに一般論で言っても、すでに半世紀を超える蓄積のある日本語のロックの「歌」について語ることは、これまでそれがどのように語られてきたのかという歴史との対話が不可避である。

 浜野サトルの「歌」論の中心にある対象、根源にあるモチーフは、ボブ・ディランである。

 『終わりなき終わり ボブ・ディラン』という論が、彼の最初の著書『都市音楽ノート』(1973年12月10日、而立書房)に収録されている。執筆は70年10月、初出は『ニューミュージック・マガジン』1971年2月号。『終りなき終り-ボブ・ディラン・ノート』という題で掲載され、『都市音楽ノート』所収の本文とは若干の異同がある。もともとこの原稿は『ボブ・ディラン論集』という書籍に収録され発表される予定だったが、結局刊行されずに終わったそうである。
 (私は高校生の頃『都市音楽ノート』を読み、この論に出会った。しかしあの当時、ディランに対する理解が浅いこともあって、この論を正確に読むことはできなかった。)

 彼はこの論で、「ボブ・ディランの歌が深化してゆく過程の内在的な構造 」を少しずつ解き明かして、「単独者」としてのディランの歩みを語っていく。表現者としてのディランと受容者としての自分自身の関係を測定することを絶えず意識しながら、次の認識にたどりつく。

 フォーク・ロックと呼ばれたものは、二重の意図をもっていた。ひとつは、さまざまな楽器の導入によって、曲全体を補完し、肉づけしてゆくこと。そして、もうひとつ、これこそ重要な点だが、ロックのリズムを呼び込むことによって、歌詞とメロディの組織力を激化させることであった。いま「ライク・ア・ローリング・ストーン」のディランを聴くとき、そこではさまざまな未熟さが目につく。しかし、あたかも言葉それ自身が解き放たれようとするかのような この動きの感覚こそ、われわれの待望していたものだったのだ。

 彼は、60年代半ばフォーク・ロックに変化していったディランの音楽を、「歌詞とメロディの組織力」を強化する「ロックのリズム」という基本構造によって説明する。ディランの「歌」の可能性の中心が、言葉が自ら解き放たれる「動きの感覚」にあることを強調する。
 しかし、60年代後半のディランについては、言葉・歌詞とメロディ・リズムの間の「緊張関係」の停滞や退行があると指摘し、次のように述べている。

『ナッシュヴィル・スカイライン』の背後には、深い絶望ともいうべきものが存在している。そこに、われわれは、一個人のもつ可能性の限界と単独者の宿命的な挫折を見出すべきだろう。円環は、閉じられた。

 60年代から70年代初頭にかけてのディランの「変化」が、「円環は、閉じられた」という厳しい断言で締めくくられる。これはディランの歩みに対する批評ではあるが、それと同時にあるいはそれ以上に、受容者・聴き手としての自らの経験をふりかえる自己批評でもある。

 なお、この論は、湯浅学『ボブ・ディラン ロックの精霊』(岩波新書、2013年11月)で紹介されている(156頁)。湯浅は、浜野を「慧眼である」とし、先ほどの引用部分の一部について、「この原稿の三三年後に書かれるボブの『自伝』をすでに読んでいたのか、と思える指摘だ」とその先見性を高く評価している。浜野サトルの初期の仕事の「再評価」という気運があるのかもしれない。そうであれば、とてもうれしい。

 70年代、浜野サトルは他の誰よりも音楽批評の「単独者」であった。彼の歩みの軌跡をたどりなおすことは、音楽についての批評が衰弱しているこの時代にこそ必要とされるのではないだろうか。
 

   (この項続く)

2015年6月10日水曜日

『ポールサイモン パッケージされた少年時代』-浜野サトル2

 前回も今回も、画像は雑誌を机に載せて、そのまま小さなデジカメで撮った。すぐにデータをアップロードして本文に添付。ほんの数分間の作業だ。(昔、展示や図録の仕事のために書籍や雑誌を時々複写していた。専用の複写台と照明を使い、資料を無反射のガラスにはさんで撮影した。今はそのような器具がないので、歪んで不鮮明な画像になってしまった。お許しいただきたい。)

 『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号に戻ろう。
 雑誌をめくると、48頁から53頁まで6頁にわたり、浜野サトルの『ポールサイモン パッケージされた少年時代』が掲載されている。
 その後、この批評は彼の二冊目の著書『ディランにはじまる』(1978年3月10日、晶文社)に収録されている。(書籍の方は古書を検索すれば見つかるかもしれない。また、大きな図書館なら所蔵されているかもしれない)

『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号、48頁

 この魅力的で優れた批評は次のように語り出される。

 べつだんフジクロームでも他の何であってもいっこうにかまわないのだが、とりあえずはコダクロームにしておくとして、このひとまきのスライド用カラーフィルムという、あきらかに工業文明の申し子である、考えてみればとても奇妙な物体から、人はどのような実感をくみとりう るだろうか。

 浜野サトルの批評は、ある具体的な「問いかけ」から始まる。
 直接、ポール・サイモンと『僕のコダクローム』に向き合う前に、歌のモチーフとなった「カラーフィルム」という「奇妙な物体」からくみとる「実感」を自らに問いかける。
                                        
 続く箇所では、「まず、ぼくの場合なら」とことわり、「黄色の小箱があたりにただよわせている、一種独特の感触」にひかれると述べる。その上で、「中身のフィルムがひらきうるファンタスティックな虚構の世界」と「消費のための産物」である現実的な商品という二つの世界を対比させる。
 ここまでの分析であれば、虚構世界と商品世界という二重性の指摘で終わる。しかし彼はさらに論を進め、「ひとまきのコダクロームは、またそれ以上の何ごとかを、伝達してくれているようだ」と語る。カメラという近代のメカニズムによる表現を通して「人は、何か抽象的なことではなく、この世に存在する具体的なものへの関心を新たにしうるのだ」ということが漠然と伝わる、と述べている。

 第二章の冒頭で初めて『僕のコダクローム』の歌詞四行が引用され、サウンドについても言及される。

 だが、サウンドの魅力に強くひかれたからには、何がうたわれているのかぐらいは、ぜひとも知っておきたい。そこでは、歌としての高い完成度のなかで、サウンドのもつ抽象化されたメッセージと言葉のもつより具体性を帯びたメッセージとがたがいに拮抗し合っているにちがいないのだから。

 ここでは、ポール・サイモンの聴き手や『ニューミュージック・マガジン』の読者に(つまりあの当時の私たちに)に、説得力ある言葉でさりげなく、「何がうたわれているのか」を知ることを諭しているようでもある。サウンドの抽象性と歌詞の言葉の具体性の関係という問題意識は、浜野の「歌」についての批評に通底するものであった。

 序章から続く「コダクローム」をモチーフとする「問いかけ」は、次のような「応答」を生み出す。(新たな「問いかけ」でもあるのだが)

 全体的な明るさのなかに、いや明るいからこそ、いまこの時代に自分の言葉というものはどこにもなく、だからこそコダクロームのようなものがとりあえずどこにもない言葉の代用でありうるのだという、いくぶんかはペシミスティックな意思が聴きとれるのではないか。

 浜野の批評は単なる感想や解釈では終わらない。表現主体とその客体、表現者と受容者およびその場の問題というように、「歌」をめぐる関係性を分析し、立体的に描くところに特色がある。
 この『ポールサイモン パッケージされた少年時代』では、まずはじめに、表現主体と写真による表現をより一般的な観点で考察し、それから個別的な『僕のコダクローム』という歌について、具体的な「言葉」を引用し、表現主体、歌の主体であるポール・サイモンと、表現の客体、歌のモチーフでもある「コダクローム」の関係の分析へ進んでいく。そのような過程を経て、「コダクローム」という表現の媒体が、この時代に「どこにもない言葉」の「代用」でありうるという認識に至っている。さらにこの歌から、幾分か「ペシミスティックな意思」を奏でるような音調も聴きとっている。

 もちろん、ポール・サイモンの『僕のコダクローム』は、まぎれもなく「言葉」で描かれ、「歌」で歌われている。受容者・聴き手である浜野サトルもまた「言葉」で論じている。
 表現者・歌い手の歌う意志、言葉への欲望。受容者・聴き手の聴く意志、言葉への欲望。その二つが中心となり、楕円をなす場に、この時代の「歌」が成立している。

 浜野サトルの批評にはたえず、この時代の「歌」、「言葉」とはどのようなものであるのか、ありうるのか、あるべきなのか、という「問いかけ」がある。このような真摯な「問いかけ」は、しかも彼のような言葉と論理の水準で語られることは、当時のロック批評には無かった。

         (この項続く)

2015年6月6日土曜日

『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号-浜野サトル1

 
 音楽との出会いが記されることはあっても、音楽を語る言葉との出会いが書き記されることは少ない。
 この場合の「音楽を語る言葉」とは身近な誰かの言葉でも、音楽家の言葉であってもいいのだが、私がこれから書こうとするのは、ある批評家の言葉との出会いである。

 『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号。
 高校に入る年の春だった。甲府の老舗の本屋でこの号を手に入れて愛読した。デジカメで撮影するために書棚から久しぶりに取り出すと、それなりに日を浴びて、紙質も劣化していた。四十年を超える時が積み重なっている。


『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号 表紙画・矢吹申彦


  表紙はポール・サイモン。濃いグレーの背景から少し浮き上がる彼の肖像画。彼の左眼の直ぐ下から鼻や口を覆うようにして、コダクロームの黄色いパッケージが佇んでいる。ポール・サイモンからコダクロームが浮き上がってくるようにも、コダクロームがポール・サイモンを促して、ある風景を描こうとしているようにも見える。

 この表紙はもちろん、ポール・サイモンの1973年のヒット曲『僕のコダクローム』(原題Kodachrome)をモチーフにしている。描いたのは矢吹申彦。『ニューミュージック・マガジン』の69年4月の創刊号から76年3月号の表紙絵・ADを担当していた。

 矢吹の描いたコダクロームは独特の存在感を漂わせている。(この雑誌には「表紙のメモ」の頁があり、コダクロームについて「リアルに!!」、ポール・サイモンについて「今回は髭アリ」などという愉快な言葉が添えられている。)
 「人」と「物」、人とフィルムという記録媒体。この二つの間の静かな「対話」の跡が漂ってくる。しかし、「人」と「物」の重なり合いの構図から、この二つの間の微妙な断層、一種の距離のようなものが描かれているようにも感じられる。

 表紙をめくると、キョードー東京の広告。ポール・サイモン《初来日》、4月9,10日の日本武道館でのコンサートの文字。(「売り切れ近し」の字もある)70年代の前半、ポール・サイモンの人気は日本でも高かった。(それでも、サイモン&ガーファンクルには及ばなかったが)来日に合わせてこの表紙が企画されたのだろう。

 この号に、浜野サトルの『ポールサイモン パッケージされた少年時代』という批評が掲載されている。矢吹申彦の素晴らしい表紙画と浜野サトルの優れた言葉が合奏し、奥行きのあるハーモニーを奏でている。
 『ニューミュージック・マガジン』この音楽誌が輝いていたのはやはり、この時代、69年から70年代半ばの頃だ。矢吹による音楽家の肖像画が表紙を飾り、浜野による批評が誌面に時々掲載された時代に重なる。

 すでに中学生の頃から洋楽のロックを中心に聴いていた。誰もがそうするように、気に入った音楽を友達に語ったり、ラジオ番組のリクエスト葉書を書いたりしていた。未熟なものだったが、音楽だけでなく音楽を語ることにも、楽しさと面白さがあるように感じていた。そのような時を経て、浜野サトルの文章に出会った。彼の批評は、その頃から少しずつ読み始めていた文学や思想の本と同じ水準にあると思われた。ロック音楽を語ることの地平が大きく開かれていくように感じた。

 私と同世代以上のロックやジャズファン、特に『ニューミュージック・マガジン』の読者であった人の中には、彼の名を記憶している方も多いだろう。『都市音楽ノート』(1973年12月10日、而立書房)、『ディランにはじまる』(1978年3月10日、晶文社)の著書2冊がある。(ミステリー小説の翻訳や音楽書の編集でも知られる)しかし、およそ80年代以降、音楽メディアの表の場に登場することが少なくなったこともあり、若い音楽ファンにはあまり知られていない存在だろう。

 彼の仕事については私のような一読者より、著名な音楽評論家である北中正和の言葉を紹介したい。(「追憶・松平維秋-4インターネットの窓から」http://www.geocities.co.jp/Bookend/3201/M_SITE/TSUITO/KITANAKA.html ここでは「浜野智」と記されているが、おそらく彼の本名なのだろう。最近はこの「浜野智」名で書いているようだ)


浜野さんはぼくと同世代で、1960年代末からジャズやロックの評論に筆をふるっていて、そのころポピュラー音楽について彼ほど切れ味鋭い評論を書いている人は誰もいなかった。


 あの時代、浜野サトルの「切れ味鋭い評論」は、彼の愛用した語を使うのなら、「単独者」の批評=危機の意識から発せられた「問いかけ」だった。
 彼の批評は、ひとつの「問いかけ」から始まり、もうひとつの「問いかけ」で終わろうとする。「問いかけ」へのとりあえずの「応答」が果たされることもあるが、その「問いかけ」は読者に働きかけ続ける。

 次回は、『ポールサイモン パッケージされた少年時代』の言葉そのものを読み返してみたい。
 

   (この項続く)

2015年5月31日日曜日

キングサリの時間

 
 四月末のことになる。キングサリの花がようやく咲きはじめた。

 二年前の春、園芸店で探し、小さな苗木を見つけた。家人が鉢植えでしばらく育てたが、一度枯れそうになって、庭に植え替えた。一年すると枝は育っていったが、花を咲かせることはなかった。いつか咲くのか、それとも、一度枯れそうになってしまったので咲くことはないのか。待ち遠しいような、心配のような、幾分か諦めも混じる気持ちで、時折眺めていた。

 春の始まりの頃、葉に勢いがあるのに気づいた。今年はもしかするとと期待していると、四月の中旬頃から徐々に、蕾がふくらみはじめた。蕾そのものが花として開かれるのを待つ。それを眺めている私たちも待つ。

 一週間程経って、黄色い、可憐で小さい花々が咲きはじめた。
 蝶々のような形状の花弁。一つ一つは小さいが、それが集まり、たくさんの束となって黄色い鎖をつくる。朝の日差しをあびて、房のようにたわわになり、地面の方へ垂れさがる姿。視覚だけでなく、聴覚も刺激される。打楽器の小刻みなやわらかい音のように、黄色の花の粒々が戯れている。


朝のキングサリ


 亡き父が好きな花だった。庭木として植えられていたが、三年前、庭を作り直す必要に迫られた際、大きくなりすぎて植え替えるのも難しいゆえ、しかたなく伐採した。その代わりに、新しい苗木を植えて、時を待った。今年、キングサリの花に再会することができた。年を超える時の中で花を待つ、という初めての経験をした。

 調べると、キングサリの花言葉は「哀愁の美」、「儚い美」「淋しい美」、「哀調を持った美しさ」らしい。

 朝日をあびるキングサリの黄色は明るい華やかな美にあふれている。夕方になり、周囲の色合いが落ちついてくると、そこはかとなく、黄色が沈んでくる。花言葉のように、幾分か、儚いような淋しいような色調に見えてくる。夕方のキングサリは、自らの花の房の量感をもてあましながら、とりとめもなく、想いにふけっているようだ。朝と異なり、弦楽器の奏でるメロディ、「哀調」を帯びてはいるが、起伏の少ない抑制のとれた旋律がふさわしい。


   どうしたものか 部屋の窓ごしに

   つぼみ開こうか迷う花 見ていた     (志村正彦作詞作曲 『花』)

 
 志村正彦、フジファブリックの『花』をこのところ最もよく聴いている。

 「つぼみ開こうか迷う花 見ていた」。この眼差しが志村正彦そのものである。そして、「つぼみ開こうか迷う」というのは彼でしか成しえない表現であろう。

 彼がこのとき見ていた花が何の花か、路地の花か鉢植えの花か、何もかも分からない。彼の心のありかも分からない。
 しかし、彼が、「つぼみ開こうか迷う」花の時間、蕾から開花へと至る時間そのものを慈しんでいることだけは分かるような気がする。ほんとうは分かってはいけないのかもしれないが、分かりたいという心持ちになる。

2015年5月28日木曜日

「がんばる甲州人」のオープニング映像 [志村正彦LN106]

 二週間ほど前になるだろうか。NHK甲府、夜6時台のローカルニュース「まるごと山梨」を見ていた。偶々、火曜日だった。この曜日には時々、「がんばる甲州人」(一昨年の夏、志村正彦を取りあげたことがある)シリーズが放送される。そんなことをぼんやりと意識していたところ、オープニング映像が始まった。

 記憶にある以前のものとは違っていたので画面に視線が止まった。4月からキャスターも交代したので新しいものに変わったのだろうか。過去に取材した素材をつなぎ合わせたタイトルバックの映像がメロディと共に終わろうとする頃、一瞬、志村正彦が歌う映像が流れた。驚いた。彼の像が消えると共に、「がんばる甲州人」のタイトル文字が浮かび上がった。

 一昨日の火曜日、「がんばる甲州人」の放送が予告されていたので、確認するために録画しておいた。やはり、志村正彦の歌う姿がテレビ画面に一瞬(というか、一瞬にもう一瞬を重ねたくらいの間だったが)ではあるが映し出されていた。あの特徴あるシャツは、富士吉田ライブでのものだろう。

 フジファブリックの富士吉田市民会館のライブ素材を使ってオープニング映像が作成された。しかも、「がんばる甲州人」の代表としての扱いだ。事態がそのように了解できた。彼はもちろん、「甲州人」などという狭い枠組みに収まるはずもない存在なのだのが、それでも、こうして地元番組に繰り返し登場するのは、一人のファンとして、とても嬉しい。

 彼の名は示されてはいない。視聴者の大半は、この歌う若者が誰であるのかは知らないだろう。(残念ながら、山梨では彼の知名度はそう高くない。辛うじて名は知っていても、名と顔が結びつく人は少ないだろう)
 それでもいい。 「志村正彦」という固有名を離れても、彼の像がこのようにして茶の間の人々の「まなざし」に届いている。有り難い。
 その出来事、その偶景から、一瞬の、ほのかなものではあるが、何か力のようなものが与えられた。

 一昨日は偶然、『郡内織の傘にかける』というテーマ。郡内織というのは富士吉田や西桂町を中心とする郡内地域の織物を指す。その若き経営者、がんばる甲州人を取材した番組だった。地場の産業にとっては厳しい時代だが、郡内織の歴史が途絶えることのないように頑張っている方々がいる。心から声援を送りたい。(私も最近は、「ふじやま織」のロゴのネクタイ、赤と銀の格子模様、青色の縦線のグラデーション、その二本がとても気に入っている。色合と柄が微妙に和風で微妙にモダン、生地も軽やかなのがいい。)

 志村正彦の映像がいつまで使われるのかは分からない。このところは隔週で放送されているようだが、NHK甲府火曜日の「がんばる甲州人」をこれから注意して見てみたい。


[付記]
この記事は当初は[偶景]シリーズに分類しましたが、その内容から、[志村正彦LN106]に変更させていただきました。

2015年5月24日日曜日

二年の月日を超えて [諸記]

 
  「志村正彦ライナーノーツ[LN]」は、十回に及ぶ武道館ライブのエッセイの連載中に百回を超えた。2012年3月から今日までおよそ二年の間にこの回数となり、ページビューも十万回に達することができた。
 もともと志村正彦を巡る出来事、ある種の《偶景》を契機に書き始めることになった。出来事で区切るのなら、2012年12月の富士吉田での同級生による志村正彦展と『若者のすべて』チャイムから、2014年11月のフジファブリック武道館ライブまでの二年間となる。その間、2013年の夏の『茜色の夕日』チャイムやそれを巡るNHKの番組、2014年夏の甲府での志村正彦展もあった。
 この二年という時間は非常に濃縮されたものであり、それらの経験を通じて感じたこと考えたことがこのblogの原動力となった。
 そのような凝縮された「季節」もある転機を迎えているような気が今している。


 武道館ライブをめぐる批評、「声」から描きだされ、「月」で閉じられたエッセイの歩みは、志村正彦は彼の遺した音源の中に「作品」として存在している、という当然で自然であり、自明で明確な地平に辿りついた。だからこそ、今後は、音源の声と言葉にさらに焦点を当てて、読むこと、聴くことを深めていきたい。
 「志村正彦LN」は、 漠然とではあるが、少なくともあと二百回ほどは書くべきことがある予感がしている。その航路もほのかには見えている。時間との闘いになるが、これからも書き続けていきたい。

 最近は掲載の間隔が以前より空いてしまっている。納得のいくものとなるまで(とりあえずの納得ではあるのだが)、非才ゆえに時間がかかってしまう。武道館ライブについて断続的だが半年を要した。この間、少しだけでも記しておきたい他の事柄があったが、時機を逸してしまった。遡って書くこともできるのではあるが、逸してしまったものをどうするかという課題が浮上してきた。
 その解決策として、これからは、断片的なもの、相対的に短いものも、随時、書きとめていくようにしたい。「私」を一つの「まなざし」として設定し、その「私」の前で通り過ぎていくいくものを「声」として語る短い文となるだろう。《偶景》スタイルの短文エッセイ。ある意味では「twitter」に近いものかもしれないが、字数はより長いものとならざるをえない。

 このblogは今後、二つの様式のテクスト、「志村正彦LN」を中心とする批評的エッセイ(その全体としても部分としても「連載」となる)と、《偶景》風の短文エッセイとを、ファブリックのように織り交ぜて進んでいく。対象となる作品や出来事、テーマやモチーフもより多様なものとなるだろう。

2015年5月18日月曜日

月-フジファブリック武道館LIVE10 [志村正彦LN105]

 昨年11月末のフジファブリック武道館ライブから半年近く経つ。その翌日から書き始めたこのライブに関するエッセイも断続的に続いてきたが、今回で終了としたい。

 第1回目で、志村正彦の声の音源による『茜色の夕日』を聴いた経験を、彼が「《声》という純粋な存在になった」という言葉に集約させた。そして、「聴くという行為が続く限り、いつまでも、彼の《声》は今ここに現れてくる」と結んだが、その時にあらかじめ分かっていたわけではないが、その後、このエッセイは結局、志村正彦の《声》を巡る文となっていった。あの武道館の巨大な空間に満ちあふれたあの《声》に導かれるようにして、行きつ戻りつ巡回しながら、同じことを繰り返し、視点を少し ずつ変えながら書いていった。錯綜や矛盾があるかもしれないが、そのようにしか書き進められなかった。

 書いているうちに確かなものとなってきたモチーフもある。現在のフジファブリックをどう捉えるか、というものだ。このライナーノーツでいつか書こうと準備してはいたのだが、難しい主題ではあった。いまだに、現在のフジファブリックについての議論(消極的あるいは懐疑的な評価にせよ積極的な評価にせよ)が共存している状況下で、単純な否定論や肯定論を超えるような視座がないかと模索してきた。考えあぐねていたというのが正直なところだが、武道館での『卒業』の歌と映像によって、ある考えの枠組みが浮かんできた。それと共に言葉が動いていった。

 志村正彦の音源の《声》が自らの作品『茜色の夕日』を、山内総一郎の《声》が志村の作品『若者のすべて』を、続いて、山内が自作の『卒業』を歌う。この三曲の《声》の主体と歌の作者の組合せの変化が、このメジャデビューから十年という時を、象徴的にそしてある意味では儀式的に、表していた。『卒業』の歌詞の分析によって、現在のフジファブリックの「位置」、志村正彦との関わり方の「方位」を測定することができた。
 そのことと同時に、志村在籍時のフジファブリックに焦点を変えてみるのなら、現在のフジファブリックの歌と演奏から逆説的に、志村正彦の歌と楽曲、《言葉》と《声》のかけがえのなさ、独自性と創造性が、一つの「経験」として強く迫ってきた、ということに尽きる。

 武道館という「トポス」ゆえに、ロックの聴き手としての私の個人史も差しはさんだ。(トポスとはギリシア語で「場所」を意味し、転じて、特定の「場」に関係づけられるテーマやモチーフ、それらの表現を指す)
 武道館というトポスは、70年代以降の「来日」洋楽ロックや80年代以降の邦楽ロックに関わる様々な記憶と結びつく。1973年のマウンテンから2014年のフジファブリックまで、40年を超える年月が流れている。密度の濃淡はあっても、この間、欧米と日本のロックを聴き続けてきたわけだ。
 PA技術の進化によって、武道館の音が以 前に比べてはるかにクリアになったことに驚かされた。(昔は「悪い」という定評があったのだが、「良い」とは言えないにしても「悪くはない」水準にはなっている) 志村正彦の歌の音源とメンバーの楽器演奏によるリアルタイムの「合奏」も、この技術の進化によって実現したのだろう。収容人数からするとコンパクトな座席とその配置も一体感を醸し出していた。(昨日、5月17日付の朝日新聞「文化の扉」欄に偶然「はじめての武道館」と題する記事が掲載されていた。この「トポス」についてはいつか再び書いてみたい)
 また、一連の記事について何人かの方にTwitterで触れていただいた。感謝を申し上げます。


 あの日は、甲府への帰途につかねばならない都合があり、アンコ ールの途中で武道館を後にした。背後から大音量の演奏と観客の拍手の音が漏れてくるが、一歩一歩階段を下りると、音は少しずつ遠ざかっていく。
 外はすっかり夜の時を刻んでいる。十一月末の冷たい空気が、直前まで身にまとっていた熱気を冷ましてくれる。十周年を祝う祝祭の時と場に別れを告げると、奇妙に静かな風景が広がっていた。
 前方に広がる公園の樹木の陰、その暗がりの上方を見ると、三日月よりやや大きな月が現れている。雲間からこぼれるようにかすかな光が差しこむ。淡い穏やかな光だった。


 志村正彦の月。瞬間、その言葉が浮かんできた。

 彼の歌には「月」がしばしば登場する。

 2014年初冬の武道館。
 現在のフジファブリックと数千人の観客。
 その熱狂を静かに淡く照り返す月光。

 不在の志村正彦が月の光となり、私たちを見つめているかのようだった。

2015年5月4日月曜日

歌い手と言葉-フジファブリック武道館LIVE9[志村正彦LN104]

 『フジファブリック Live at 日本武道館』[DVD]のスリーブには、次のようなクレジットがある。

  vocal/guitar:山内総一郎
  keyboards:金澤ダイスケ
  bass:加藤慎一
  vocal:志村正彦

  guitar:名越由貴夫
  drums:BOBO

 この表記が意味することは、メンバーの四人、サポートメンバーの二人による演奏だったということだ。「vocal」として二人の歌い手、山内総一郎と志村正彦の名が記されたことになる。(志村については「voice」と表す選択肢があるかもしれないが)
 二人のvocal。志村の《声》が歌う『茜色の夕日』1曲と、山内の歌うそれ以外のすべての曲。十周年を記念するライブであり、その収録であるゆえの特別な表記となった。そのこと自体が記憶されるべき印となる。

 これから書くことは、あの日の武道館とこのライブDVDを通して感じた、そのままの想いだ。

 この武道館ライブのセットリストは、志村在籍時の作品群と、その後の山内・金澤・加藤による作品群とに分けることができる。
 あの日のパフォーマンスについて確実に言えることは、現在のフジファブリック、彼ら自身が作った作品を歌い奏でる方が、音楽としてのまとまりがあり、バンドとしての力も漲っていたということだ。彼らの持つ高度な演奏技術とアレンジ能力は高く評価されるべきだろう。そのことを第一に指摘しておきたい。
 何度も触れてきたが、特に『卒業』の言葉、その歌と演奏はこのバンドの力量と可能性を示している。ただし、彼らはまだ彼らならではの独自性を獲得しているとは言えない。志村正彦からの本当の意味での「卒業」(自分に厳しくあった志村であれば、それを彼らに促すのではないだろうか。彼ら自身の言葉と音楽を創り出すことを見守るのではないだろうか)はまだ果たせていない。今後のフジファブリックの活動に期待したい。

 さらに重要なことは、志村在籍時の作品群、山内の歌う志村作品については、やはり違う、という感覚がどこまでも残るということだろう。特に『桜の季節』『陽炎』『赤黄色の金木犀』の四季盤の春夏秋の三曲、志村正彦の繊細な感性があの独特な言葉を紡ぎ出した楽曲に顕著だった。
 歌と演奏の 「実演」としては成立しているが(それはそれで精一杯だったのかもしれないが)、歌の「言葉」が聴き手の側に充分に伝わってはこない。言葉が言葉として立ち上がってこない。
 厳しい書き方になったが、一人の聴き手としての率直な印象を記すべきだと考えた。


   あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
   英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ
       
   またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
   残像が胸を締めつける                                  (『陽炎』)


 「あの街並」の風景、胸を締めつける「残像」は、その言葉を紡ぎだして自ら歌う詩人の《声》とともに出現してくる。聴き手にとってそれは仮象にすぎないのかもしれないが、仮象が仮象として現れるのにも、《言葉》と《声》が不可欠だ。

 今記したことは当然ではないのか、と言われるかもしれない。カバーやコピーがオリジナルの力を持っていないのは当然だろう、と。
 しかし、そのような当たり前のことを書きたいのではない。一般論すぎることを表したいでもない。ないものねだりでもない。現在のフジファブリックが志村作品を歌い、奏でることについて異議を唱えたいわけでもない。あの日の武道館での志村作品の「再現」の努力についてはむしろ敬意を表したい。しかしどうしても、言葉の「実」が伴っていない感触がつきまとう。

 しかし、これは山内の歌い手としての問題ということでもないと考える。
 四季盤の三曲に比べると、『若者のすべて』『星降る夜になったら』『銀河』については、虚ろな感じはより少ない。虚構性や物語性が比較的高い作品であり、歌い手と歌われる世界との間にある種の余白がはさまれているからだろうか。
 すでに若者の夏の歌として定番化している『若者のすべて』は、桜井和寿、藤井フミヤ、槇原敬之たち「大物アーティスト」にカバーされているが、彼らに比べてみてもむしろ、山内の歌の方がこの作品に適しているように感じた。桜井、藤井、槇原の歌い方では、志村が描こうとした『若者のすべて』の風景を再現できないようなもどかしさがある。世代的な問題も影響しているのだろう。

 少し視野を広げてみたい。
 例えば、2010年の『フジフジ富士Q』ライブについてはどうだったか。
 志村の作った30曲がゲストアーティスト15組によって歌われたが、安部コウセイの『虹』、クボケンジの『バウムクーヘン 』、斉藤和義の『笑ってサヨナラ』などの例外を除くと、歌い方と歌われる世界との間の断層のようなものを感じてしまう。阿部の『虹』もクボの『バウムクーヘン』も斉藤の『笑ってサヨナラ』も、どこか彼らの持ち歌のようにも聞こえることが何かを示唆しているかもしれない。

 志村ならぬ歌い手が志村の言葉を歌う場合、その言葉を歌いこむことは非常に難しいのではないだろうか。歌いこむ、歌いきるというよりも、志村の言葉をたどることに終始してしまう。視点を変えれば、言葉にただ単に歌われてしまっている、とでも言えるだろうか。
 自ら作詞作曲する、他の歌い手に比べても、志村の作品の場合、そのことが際だっている。

 どうしてなのだろ う。

 志村正彦の《言葉》の描く世界は、志村正彦の《声》と不可分だということが一つの理由としてあげられるのだろうが、そのことを本当に解明するのには、より明晰で精密な分析が必要だろう。そのためにはもっと時間がかかる。このテーマについては、独立した「批評」のようなものとして書いてみたい気がする。

    (この項続く)

2015年4月21日火曜日

日曜日の昼の「ココロネコ」

 一昨日の日曜日。昼、県立図書館から甲府駅の北口へと歩いていた時のことだった。(この界隈に来ると、昨年の「ロックの詩人 志村正彦展」のことを想い出す)

 この日は、月一度の「甲府空中市ソライチ」の日。焼き菓子の店やいろいろな店が並んでいた。
 駅構内に入ると、ロック風のサウンドが聞こえてきた。音の方向には4人編成のバンド。アコースティック楽器を奏でている。CDを売っていた棚を見ると、「ココロネコ」とあった。

 ココロネコ?偶然の遭遇だった。

 地元メディアで紹介されていたので記憶にある名。確か、山梨県立大の学生が結成したバンドで、最近、インストアライブもやった。知っていることはそれだけだったが、ココロネコというありそうでなさそうな名は面白い。少しだけ時間があったので、2曲ほど聴いた。

 ヴォーカルとコーラスのハーモニーがなかなか美しい。声はやや線が細いが、のびやかに広がっていく。演奏にもインディーズレベルの確かな技術がある。
 声と音の透明な感触とその広がりがこのバンドの可能性を感じさせた。

 その場で『リフレイン』というミニアルバムを購入、帰宅後視聴した。
若者の内面を素直に吐露した歌詞は、変に言葉をこねくり回すこともなく、好感が持てる。かっこつけることもなく、ひねくれてもいないが、まだまだありふれた言葉が多い。しかし、次の一節には、作り手が自分の言葉を探りあてつつある予感がある。

  この街の夢も希望も明日も何もかも
  一つも君を裏切ること無く、そこにあってほしい
  それ以上はもういらないんだ      (『この街の』)

 「一つも君を裏切ること無く」と一度区切られ、「そこにあってほしい」と記された願望はみずみずしい。あえて言うなら、「この街の」というモチーフの中心にある、「この」の指し示す像を何らかの言葉で表すことができれば、この歌はもっと聴き手に届くのではないだろうか。
 [ ココロネコ / この街の MusicVideo ショートバージョン    https://www.youtube.com/watch?v=JYjn6F8Ts9A がネットにある ]

 卒業後もバンドを続けているようだが、引用した歌詞の一節をもじるならば、彼らの言葉が「そこにあってほしい」。ロックは言葉だと考えるからだ。
 

 偶々、街で、山梨発のロック、ココロネコに出会う。
 日曜日の昼の偶景のような出来事を記した。