「戦後70年」とことさらに言われると、「戦後」という捉え方が自明なものであるのかどうか、あらためて問いかけてみたくもなる。
「戦」の「後」という時の区分は、「戦」の「前」「中」と言う時との対比としてある。戦争が起きる「以前」、戦争が行われている「最中」という時の状況はある程度明確である。しかし、「戦後」とは定義上、戦争が終わった「後」の時を示す。そうであればすぐに、戦争が終わったのかどうか、ということが問われる。
もちろん、戦闘としての戦争は、私たちの国の場合、1945年8月15日に終結している。しかし、戦争が終わるということが、戦争に関わるあらゆることが本当の意味で終わるということであれば、未だに戦争は終わっていないと考えられる。沖縄の現実を見れば明らかであり、現在の社会の動きもそのことを示している。
先週の土曜日、Analogfishの佐々木健太郎のライブに出かけたこともあり、ここ数日、Analogfishの「社会派三部作」と言われる、『荒野 / On the Wild Side』(2011年)、『NEWCLEAR』(2013年)、『最近のぼくら』(2014年)の三枚のアルバムを聴いた。Analogfishには下岡晃、佐々木健太郎という二人のボーカル、ソングライターがいるが、下岡はあるインタビューで「僕はレベル・ミュージックを作りたいと思ってるんですよ」と語っている。(http://chubu.pia.co.jp/interview/music/2014-11/analogfish.html)
確かに「社会派三部作」には、この時代に向き合うレベル・ミュージックが数多く収められていて、しかも定型的なものはなく、自由で多様な作品が展開している。中でも、第1作『荒野 / On the Wild Side』収録の『戦争がおきた』(作詞:下岡晃、作曲:アナログフィッシュ)は、その題名の直接性が際立っている。「朝目が覚めて」と冒頭にあるように、朝のまどろみを想起させる美しいメロディを持つが、歌詞そのものの読みとりは難しい。歌詞の全てを引用する。
朝目が覚めてテレビをつけて
チャンネル変えたらニュースキャスターが
戦争がおきたって言っていた
街へ出かけて彼女と飲んで
家へと向かう電車で誰かが
戦争がおきたって言っていた
借りてきた映画を見て その後で愛し合って
戦争がおきた
ずっと昔に夕飯時に
手伝いしてたら近所の誰かが
戦争がおきたって言っていた
料理が並び家族がそろい
食事をしてたらまばゆい光が
暗闇の中を不確かな国の
確かな家族へ飛んでった
世界が終わるんだって 勝手に思い込んで
眠れずに朝になった そんな事思い出して
少しだけビール飲んで 昼まで眠りこけた
戦争がおきた
朝目が覚めて彼女も起きて
昨夜の行為の続きの後で
戦争がおきたって言っていた
何かが変わるといいね
戦争がおきた
この歌には、「戦争がおきたって言っていた」という表現と「戦争がおきた」という表現の二つがある。この二つの間にはどのような差異があるのだろうか。
歌の現在時(他の解釈もあるだろうが、ここではいちおうそのように捉える)、「テレビ」の「ニュースキャスター」が、街から家へと向かう電車で「誰か」が「戦争がおきたって言っていた」。その後、「ずっと昔」と時が遡り、その「夕飯時」の出来事として、「近所の誰か」が「戦争がおきたって言っていた」。もう一度現在時に戻り、「朝」「彼女も起きて」、「昨夜の行為の続きの後で」「戦争がおきたって言っていた」と歌われる。誰が言ったのかは明示されていないが、文脈上は「彼女」の発話だとするのが自然だろう。
「戦争がおきたって言っていた」の実際の歌唱では、「戦争がおきた 戦争がおきた 戦争がおきた って言っていた」と歌われている。「戦争がおきた」は三回反復された後、「って言っていた」という他者の発話として、他者を通じて、その事態が歌の主体に伝えられる。
第5連にある、「まばゆい光が/暗闇の中を不確かな国の/確かな家族へ飛んでった」は、この歌で描かれる「戦争」の像の中心にある。「国」と「家族」とが、「不確かさ」と「確かさ」とで対比されている。「レベル・ミュージック」の批評性がこのフレーズには現れている。しかし、この歌は、「国」のあり方を批判する方向には進まずに、「戦争」をめぐるある現実の露出に向かおうとしている。
「戦争がおきたって言っていた」という他者の発話を聴く経験ではなく、歌の主体の経験、少なくとも他者を介在させることのない間接的ではない経験として、「戦争がおきた」と歌われるのは三度ある。
最初は、「借りてきた映画を見て その後で愛し合って」という「行為」の後で「戦争がおきた」と歌われる。その行為と「戦争がおきた」という出来事との文脈上のつながりは特にない。行為と出来事とは乖離している。次は、「少しだけビール飲んで 昼まで眠りこけた」に続けて「戦争がおきた」と歌われる。この場合も、「眠り」とその覚醒と「戦争がおきた」という出来事との間にはつながりはない。「眠り」は意識の断絶としてある。「愛し合って」という行為も一種の断絶だとするなら、断絶を経ての覚醒の後、「戦争がおきた」という出来事が起きる、という流れを読みとることができるかもしれない。そして、「何かが変わるといいね」という願望が唐突に歌詞の中に織り込まれた上で、「戦争がおきた」と最後に歌われて、この作品は閉じられる。
最後の「戦争がおきた」には、とても静かに、それゆえ突然に、「戦争」という現実が露出したような響きがある。
『戦争がおきた』という歌は、「戦争がおきた」という出来事と、「戦争がおきた」ことを主体が把握する出来事との二重の出来事を伝えようとしている。意味というよりも、出来事そのものが現れ出るように言葉が配置されている。(まだ私はそれを解析できないのだが、その端緒としてこの文を記そうと考えた)
下岡晃、Analogfishは今、全く新しいレベル・ミュージックを創りつつある。
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