今朝、ある場所で桜の葉が紅葉している光景にしばし見とれていた。
朝の光を浴び、その逆光を透過するようにして、赤と黄色の綴れ織りのような色彩が晴れた空に照り映えている。数本の並木なのだが、個体差があるのか、微妙に色が異なる。赤色に振れるもの、黄色に振れるもの。あざやかなもの、少しくすんでいるもの。「金木犀」の花の色とは随分違うが、これはこれで葉の色、「赤黄色の桜の葉」の風景をなしていた。
秋から冬にかけての季節の澱のようなものが葉に沈むのか、幾分か、葉に黒い影がある。美しいが寂しげでもある。
季語では「桜紅葉、さくらもみじ」と呼ぶそうだ。今は桜紅葉の頃なのか、そんな言葉と共に、あの歌を想い出していた。
その町に くりだしてみるのもいい
桜が枯れた頃 桜が枯れた頃 ( 志村正彦 『桜の季節』 )
この桜紅葉の光景が消え去ると、「桜が枯れた頃」に移り変わるのだろうか。そんなことをぼんやりと考えていた。
この赤黄色の色彩が落葉と共に失われると、桜の葉が枯れた時が到来するのか。それとも、この季節の循環を数十年くりかえした後に、桜が枯れて死んだ時を迎えるのか。桜にどのような時が訪れたのか。
志村正彦の眼差しの果てには、どのような光景が広がっていたのか。なぜ、「桜が枯れた頃」になると、「その町に くりだしてみるのもいい」のか。
今朝の偶景が、いつものなぜをくりかえし問いかけていた。
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