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2015年12月4日金曜日

早川義夫、桜座カフェ。

 11月28日、甲府の桜座で早川義夫を聴いた。「悲しみと官能の音楽」と題する、早川義夫(vocal,piano)・熊坂るつこ(accordion)・坂本弘道(cello)の三人のコラボレーションだ。

 前回ここで聴いたのは2010年10月のこと、「早川義夫・佐久間正英」ライブだった。確か山梨初のライブだったせいか、客もたくさんいて、通常のホールが会場だった。早川と佐久間のユニットのみが構築できる音で桜座が満たされていたことを想い出す。今回はホール手前の小さなカフェのスペースで開かれた。客も三十数人ほどと少し寂しい入りだった。もう冬の季節。カフェの土間から冷気が上がる。

 ライブが始まる。
 カフェのフロアから少しだけ高い位置に座り、ピアノを弾きながら彼は歌う。こちらもフロアで椅子に腰掛けて聴く。歌い手と聴き手との間の距離は数メートルあるが、座る位置、高さがそんなに変わらないせいか、耳に音がリアルに飛び込んでくる。早川義夫の身体の動き、声や息のうねりがダイレクトに届く。熊坂るつこがアコーディオンを、坂本弘道がチェロを奏でる動きも生々しく伝わってくる。
 桜座の通常の会場、ホールでは床面に座るのだが、それとは聴く位置、音の響きも異なり、新たな発見があった。

 歌とは、言葉である前に、声や息であり、声や息を運ぶ身体そのものの振動である。そんなことが自然に浮かぶ。
 そもそも、彼の歌は「意味」として捉えられることを拒んでいるところがある。あるいは、「意味」とは異なる次元に歌を築いていると言うべきだろうか。

  ここで、「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」という小林秀雄の言葉(『無常といふ事』)を想起するのは、あまりにおあつらえむきの展開だろうか。
 それでも、この言葉の枠組で語らせてもらうのなら、早川義夫のソロの歌、1994年の復帰後の歌は、いわゆる「歌の解釈」というものに対する「プロテスト」だ。歌を「意味」とは異なる次元へ解き放つ試みと言ってもいい。どこへ解き放たれていくのか。言葉にするのは難しい。これもまた言葉を拒んでいる。

 この試みはジャックス時代と異なる。そして、それゆえ、復帰後の彼の聴き手は、以前ほどの広がりを得ることができない。彼の歌を愛するものの一人として、それはきわめて残念なことだが、必然であり不可避でもあると考えるしかない。

 それだけ早川義夫の歌は孤絶している。
 そのような歌がこの時代に存在する。そのかけがえなさに、現代の聴き手は気づいてない。

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