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2015年9月22日火曜日

柴咲コウ、山梨・韮崎文化ホールで。

 9月19日、土曜日の夜、柴咲コウ『Ko Shibasaki Live Tour 2015 “こううたう”』の山梨公演に行ってきた。
 会場は韮崎市の「東京エレクトロン韮崎文化ホール」。大都市を回る全国ツアーにもかかわらず、なぜ山梨県のそれも韮崎市かと不思議に思っていたのだが、このホールを運営している「武田の里文化振興協会」の主催と聞いた。地域の文化振興の一つとして企画されているようだ。

 会場まで甲府から三十分ほどで到着。駐車場には、八王子、松本、静岡などの近県のナンバーの車も少なくない。チケットも比較的取りやすく、近県であれば日帰りも可能なので、山梨は穴場なのだろうか。
 以前ここで、奥田民生のライブを聴いたことを思い出す。調べると、2008年2月5日、「okuda tamio FANTASTIC TOUR 08」の時だった。アルバム『Fantastic OT9』は、私にとって奥田民生に「再会」した作品。渋さとしたたかさと優しさが溶けあう歌の世界。このホールは1000席ほどのキャパなので、客席との一体感があり、とても愉しめたことを覚えている。

 事前に4枚ほどCDを聴いて予習。アップテンポのポップな曲とバラード系の曲がほどよくミックスされているが、やはり、バラードの方が柴咲コウの声が活きる。ことのほか自作の歌詞が多く、言葉に向き合う姿勢が聴き手に伝わる。本当に歌が好きなのだという感触。女優の副業ではない。音楽家としての柴咲コウはなかなかの存在感を持つ。

 ライブのオープニング。いくつもの細長い垂れ幕のようなスクリーンが降りてくる。照明があたり、色が様々に変わる。薄いベールのようでもあり、時々、平仮名の文字が浮かび上がる。斬新で美しい。とてもコストのかかった演出で、通常よりはるかに高い水準だ。
 演奏メンバーの5人が奏で、ダンサーの2人が踊るうちに、赤色を主とする豪華な平安時代風の着物姿に、輝きのある白というか白銀の髪の毛をまとって、柴咲コウが登場。「月」の映像が背後のスクリーンに浮かび上がる。高貴な趣の女性と月。『竹取物語』の「かぐや姫」からの着想かもしれないととっさに思う。(ライブの最後に本人が『竹取物語』のモチーフで演出したと述べていたので、この想像は当たっていたのだが)

 ステージの進行とともに、何度も「お色直し」のように衣装を変えていく。(このようなスタイルに慣れていないので、とても感心してしまった)『こううたう』からも数曲が披露されたが、福山雅治『桜坂』が最も素晴らしかった。
 『若者のすべて』は残念ながら歌われなかった。期待していたのだが、CD音源になっただけでも満足すべきなのだろう。

 たっぷりと2時間、柴咲コウの多様なパフォーマンスを堪能できた。『こううたう』がリリースされなかったら、出かけることはなかったライブだが、時にはこのようなコンサートの経験も大切なのだと実感した。聴く音楽の領域を広げることは、独りよがりに陥ることをふせぐ。

 ライブが終わりホールに出ると、ちょうど『若者のすべて』が静かに流れていた。送り出しの曲として、『こううたう』の最初の曲からかけていたのだろうが、その偶然のタイミングが有り難かった。「街灯の明かりがまた一つ点いて帰りを急ぐよ/途切れた夢の続きをとり戻したくなって」という一節が心に響く。この歌は夜の帰路に合う。

 この日とても嬉しかったのは、入り口で『こううたう』カバー曲の選曲について述べたあの限定リーフレットが配られたこと。発売時のみの特定店舗での配布や予約特典だったので、入手をあきらめていたものだ。思いがけなく手に入れることができて、運営側の心配りに感謝した。
 表面は、初のカバーアルバムについて語った“こうはなす”、選曲について述べた“こうえらぶ”、最近読んだ本を紹介する“こうまなぶ”などが掲載され、裏面は柴咲コウの巨大ポスターという、A4サイズ8面の大きくて充実したリーフレット。座席に着いて早速読んだが、色々な想いが浮かんできた。
 未見の人がほとんどだと思われるので、『若者のすべて』の選曲理由のすべてを引用させていただく。


 NO1  若者のすべて  フジファブリック

意外性が欲しいなと思ったのもあるけれども、「ただ好きな曲だから」っていうのが、選曲した大きな理由。焦りや虚しさを感じながらも、それでも生きていくんだっていう男性の人生観を女性がさわやかに歌ったらどうなるかな?という興味もありました。「鎌倉の海岸沿いをドライブするのが好きなので、それに合うアレンジがいいなと思って。実際に、そこで花火を見たことがあるから、自分の人生とも完全にリンクしますね」


 「意外性」というねらいもあったことを素直に記しているが、それよりも「好きな曲」だというの最大の理由だったことがよく理解できる。志村正彦・フジファブリックの描いた物語を「焦りや虚しさを感じながらも、それでも生きていくんだっていう男性の人生観」と的確にとらえた上で、「女性がさわやかに歌ったらどうなるかな?」という視点で歌い方やアレンジを工夫していく。この作品を丁寧に歌うことへの意志と共に自分自身の声に対する自信や手応えも伝わってくる。
 「自分の人生とも完全にリンクしますね」という実感を持たせるのは、あらゆる歌にとっての願いでもある。「リンクする」力は、その歌が世に広がり、時を超えて伝わっていくために不可欠なものだろう。

 さらに “こうはなす”では、「私にとっていちばん大事だったのは、歌詞に共感できるかどうかっていうこと」であり、「カバーするにあたって、原曲のアーティストの方々に失礼があってはならないという思いもあったので、それぞれの曲に込められた思いや感覚的なものを大切にしつつ、自分の気持ちと声がマッチするように集中できたと思います」とも述べられている。

 柴咲コウが『若者のすべて』の言葉に深く共感し、志村正彦の世界と自分の世界との距離を測定した上で、自分自身の「声」によって、この歌に対する想いを注いでいった過程が伺える。あの透明な声とさわやかな歌い方には、このような背景と構築の方法があったのだ。
 

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