『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号に戻ろう。
雑誌をめくると、48頁から53頁まで6頁にわたり、浜野サトルの『ポールサイモン パッケージされた少年時代』が掲載されている。
その後、この批評は彼の二冊目の著書『ディランにはじまる』(1978年3月10日、晶文社)に収録されている。(書籍の方は古書を検索すれば見つかるかもしれない。また、大きな図書館なら所蔵されているかもしれない)
『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号、48頁 |
この魅力的で優れた批評は次のように語り出される。
べつだんフジクロームでも他の何であってもいっこうにかまわないのだが、とりあえずはコダクロームにしておくとして、このひとまきのスライド用カラーフィルムという、あきらかに工業文明の申し子である、考えてみればとても奇妙な物体から、人はどのような実感をくみとりう るだろうか。
浜野サトルの批評は、ある具体的な「問いかけ」から始まる。
直接、ポール・サイモンと『僕のコダクローム』に向き合う前に、歌のモチーフとなった「カラーフィルム」という「奇妙な物体」からくみとる「実感」を自らに問いかける。
続く箇所では、「まず、ぼくの場合なら」とことわり、「黄色の小箱があたりにただよわせている、一種独特の感触」にひかれると述べる。その上で、「中身のフィルムがひらきうるファンタスティックな虚構の世界」と「消費のための産物」である現実的な商品という二つの世界を対比させる。
ここまでの分析であれば、虚構世界と商品世界という二重性の指摘で終わる。しかし彼はさらに論を進め、「ひとまきのコダクロームは、またそれ以上の何ごとかを、伝達してくれているようだ」と語る。カメラという近代のメカニズムによる表現を通して「人は、何か抽象的なことではなく、この世に存在する具体的なものへの関心を新たにしうるのだ」ということが漠然と伝わる、と述べている。
第二章の冒頭で初めて『僕のコダクローム』の歌詞四行が引用され、サウンドについても言及される。
だが、サウンドの魅力に強くひかれたからには、何がうたわれているのかぐらいは、ぜひとも知っておきたい。そこでは、歌としての高い完成度のなかで、サウンドのもつ抽象化されたメッセージと言葉のもつより具体性を帯びたメッセージとがたがいに拮抗し合っているにちがいないのだから。
ここでは、ポール・サイモンの聴き手や『ニューミュージック・マガジン』の読者に(つまりあの当時の私たちに)に、説得力ある言葉でさりげなく、「何がうたわれているのか」を知ることを諭しているようでもある。サウンドの抽象性と歌詞の言葉の具体性の関係という問題意識は、浜野の「歌」についての批評に通底するものであった。
序章から続く「コダクローム」をモチーフとする「問いかけ」は、次のような「応答」を生み出す。(新たな「問いかけ」でもあるのだが)
全体的な明るさのなかに、いや明るいからこそ、いまこの時代に自分の言葉というものはどこにもなく、だからこそコダクロームのようなものがとりあえずどこにもない言葉の代用でありうるのだという、いくぶんかはペシミスティックな意思が聴きとれるのではないか。
浜野の批評は単なる感想や解釈では終わらない。表現主体とその客体、表現者と受容者およびその場の問題というように、「歌」をめぐる関係性を分析し、立体的に描くところに特色がある。
この『ポールサイモン パッケージされた少年時代』では、まずはじめに、表現主体と写真による表現をより一般的な観点で考察し、それから個別的な『僕のコダクローム』という歌について、具体的な「言葉」を引用し、表現主体、歌の主体であるポール・サイモンと、表現の客体、歌のモチーフでもある「コダクローム」の関係の分析へ進んでいく。そのような過程を経て、「コダクローム」という表現の媒体が、この時代に「どこにもない言葉」の「代用」でありうるという認識に至っている。さらにこの歌から、幾分か「ペシミスティックな意思」を奏でるような音調も聴きとっている。
もちろん、ポール・サイモンの『僕のコダクローム』は、まぎれもなく「言葉」で描かれ、「歌」で歌われている。受容者・聴き手である浜野サトルもまた「言葉」で論じている。
表現者・歌い手の歌う意志、言葉への欲望。受容者・聴き手の聴く意志、言葉への欲望。その二つが中心となり、楕円をなす場に、この時代の「歌」が成立している。
浜野サトルの批評にはたえず、この時代の「歌」、「言葉」とはどのようなものであるのか、ありうるのか、あるべきなのか、という「問いかけ」がある。このような真摯な「問いかけ」は、しかも彼のような言葉と論理の水準で語られることは、当時のロック批評には無かった。
(この項続く)
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