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2015年12月11日金曜日

「志村正彦はどんな人物だったのだろう?」(『毎日黄昏』)

 毎朝、onedaywalk氏のblog『毎日黄昏』を読むことが日課となっている。「黄昏」の語源は「誰そ彼」だそうだが、人や街や音楽についての深い問いかけがあり、様々なことを教えられる。

 ここでは、onedaywalk氏とは音楽批評家浜野サトル氏のことだと書いてもいいだろうか。
 今年の7月まで、氏自身の運営していたHP内の日録『毎日黄昏』では筆名が「浜野智」氏であったが、サーバーを整理して、新たに開設されたlivedoor上のblog『毎日黄昏』では「onedaywalk」氏になっていた。筆名が変更されたのはある意図があってのことだろうが、内容から容易に筆者が浜野サトル氏であることは分かり(例えば「エリス」「エリス2」の回)、ここではすでに「浜野サトル」として氏の初期の仕事について書いているので、拙論の連続性の観点からしても、やはり、浜野サトル氏あるいはonedaywalk(浜野サトル)氏のblogとして、『毎日黄昏』を紹介させていただく。

 以前書いたように、私にとって浜野サトル氏は、音楽の経験を語ることを学んだ「師」のような存在である。もちろん、雑誌やネットの文章を読むことを通じて、勝手に「私淑」しているにすぎないが、氏が「偶景web」に出会った経緯を知ったときはとても嬉しく、励みにもなった。その浜野氏が最近志村正彦について書かれたので、その文を紹介させていただきたい。(「週酒」、「響き合い」)

 「響き合い」というエッセイは「今現在と言っていい時期に作られたものの中に過去を発見することがある」と始まり、アルバム『フジファブリック』からレッド・ツェッペリンを感じたとされる。そして、「それにしても、志村正彦はどんな人物だったのだろう?」と問われる。一年以上前にたまたま『茜色の夕日』を聴く機会があり、その後何も調べないできたが、志村正彦のことが「いま気になる」と記される。

 『陽炎』や『追ってけ 追ってけ』の歌詞が引用され、詩人岡田隆彦に通じる「都会の少年の詩」であるとされ、『花』の「七五調に近い」韻律や「かばん」という言葉に触発されて、歌人笹井宏之を連想したと書かれている。
 志村正彦と笹井宏之に関して、「ロックと短歌とは遠いが、二人の歌には響き合うものがあると感じる」という非常に興味深いことが指摘されている。最後は次の一文で閉じられる。

 彼らが遺した作品は、何事かを追いかけ追いかけしているうちに道に迷い、ふともらした吐息のように感じられてならない。

 この言葉は私たち志村正彦の聴き手にとって、切なく哀しく響く。

 その後、『夜汽車』に触れたエッセイも掲載された(「夜汽車」)。
 確かに、不思議なほどに、志村正彦の歌は私たちの過去の記憶を想起させる。そしてまた、過去から現在までの優れた表現者たちの言葉と、浜野氏の言葉を使わせていただくなら、「響き合う」何かを感じさせる。

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