柴咲コウと言えば、やはり、女優という印象が強い。プロフィールを確認すると、廣木隆一監督の『東京ゴミ女』が映画初出演のようだ。この映画は2000年製作、かなり前の作品だが、廣木監督作が好きだったので衛星放送で見たことがある。柴咲コウ演じる役の記憶はほとんどなく、新感覚の女性映画だという印象だけが残っている。その後、柴咲コウは人気女優の地位を築いていくのだが、もともとは歌手志望だったようだ。
その柴咲コウが志村正彦作詞作曲の『若者のすべて』を歌った。6月発売のカバーアルバム『こううたう』に収録されている。
このCDは、期間限定で一部のショップで特製のリーフレットが添付され、その中に本人が選曲について語った「こうえらぶ」が掲載されていたようだが、私はそのエディションを購入できなかったので、残念ながら未読である。『若者のすべて』を選んだ理由は分からないのだが、どのような理由であっても、この曲が選ばれたことは素直にうれしい。
歌そのものを繰り返し聴いてみる。
志村の《声》の持つ、ある種のやるせなさ、よるべなさのようなものが脱色され、淡い色調の《声》を柴咲はまとう。志村の『若者のすべて』の複雑な陰影に満ちた言葉の世界に対して、言葉そのものは同一ではあるが、柴咲の歌う世界は、女性の男性に対する想いを述べているようにも聞こえてくる。この歌の主体は、歌詞の中の人称としては「僕」であるのだが、柴咲が歌うと、歌の主体が女性であると解釈してもそんなに違和感がない。そのように言葉がたどれる。
女性が男性主体の歌詞を歌うという、日本のポピュラー音楽にしばしばある、いわゆる「CGP(Cross-Gendered
Performance)」、「歌手と歌詞の主体とのジェンダー上の交差(女性歌手が歌う「男うた」等)」ではなく、女性が女性主体の歌詞を歌う、つまり歌詞の主体が女性に変換されている(実際に「僕」という言葉が換えられているわけではないが)ように、私には聞こえてきた。
特に、「ないかな ないよな きっとね いないよな」の「な」音の響きは、むしろ女性の《声》に合うような気もする。ただし、志村の《声》の響きに比べて、幾分か単調ではあるのだが。
志村の歌い方は、やはり、「語り」の要素が強いことも再発見する。語りによって、風景がスクリーンに投影され、外へと広がっていく。そのような流れは柴咲の歌にはない。むしろ、言葉は内に向かい、女性の想いという一点に集約されていく。それはそれで、美しく結晶されていて、この曲の数あるカバーの中でも、柴咲コウの『若者のすべて』は聴く価値のある作品となっている。
以前書いたことだが、志村の歌う『若者のすべて』の季節は、なぜか「冬」のように感じられる。凍てつく風景に「冬の花火」の最後の光が上る。それに対して、柴咲の歌う『若者のすべて』は、当然かもしれないが、「夏」の季節感にあふれている。明るい光にあふれる空と雲の中を、《声》がゆるやかに漂う。そんな情景が浮かぶ。
カバーされた全15曲中の第1曲目という重要な位置付けであり、「amazon」などのレビューを読むと、このアルバムで『若者のすべて』という歌を知った人も多いようだ。柴咲コウがこの曲を私たちに贈り届けてくれたことはとても有り難い。
なお、 『若者のすべて』(フジファブリック)のカバー、あるいはフジファブリック『若者のすべて』のカバーというように音楽サイト等で紹介されているが、限定版同封の「こうつづる」というブックレットには、「作詞・作曲:志村正彦 編曲:関口シンゴ」というクレジットが記載されていた。これを見て大いに肯いた。
フジファブリックの作品であることはもちろんだが、カバーされる場合は、「こうつづる」に記されているように、あくまで、志村正彦作詞作曲の『若者のすべて』のカバー、というように書いてほしい。少なくともそのように作詞作曲者名を補ってほしい。志村作品を愛する者の一人として、これは譲れない。
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