ページ

2015年12月27日日曜日

佐々木健太郎、「世界は幻」から「世界の果て」へ。

 富士吉田での佐々木健太郎&下岡晃の弾き語りライブの話に戻りたい。

 下岡が十曲ほど歌った後、佐々木健太郎のステージが始まった。「Almost A Rainbow スウェット」を着て登場。立って弾き語りをするので姿がよく見える。
 今年は8月のハーパーズミル、10月の桜座、そして12月のリトルロボットと、三度目の佐々木健太郎だ。四ヶ月の間だが、季節は夏、秋、冬と移り変わった。季節や場所、人の組み合わせによって、歌の感触も異なる。

 最初は『Tired』。最新作『Almost A Rainbow』の曲だ。美しいがややかげりのある声で歌われる。

  Ah 世界の果てで眠っていたいな
  LaLaLa
  Ah 世界の果ての扉を閉めて
  LaLaLa


 このライブに先立ち、Analogfishと佐々木健太郎の作品を繰り返し聴いた。特に歌詞を初期から現在まで読みこんだ。「世界」は、佐々木が反復するモチーフだ。前回紹介した『クリスマス・イヴ』にも「傷だらけの世界」という表現がある。
 「世界」という語彙は日本語ロックやJポップでよく使われているが、そのほとんどはクリシェだ。十年以上前に流行した所謂「セカイ系」の影響かもしれない。安易な濫用が目立つが、佐々木の場合は異なる。「世界の果て」は彼の持続するモチーフから生みだされた言葉だ。

 ソロアルバム『佐々木健太郎』中の『STAY GOLD』には、「思春期にさまよった世界の扉は閉ざされ続けたまま」という一節がある。この「世界の扉」は世界への入口の扉を指すのだろうが、「世界の果ての扉」は世界の果てへの入口の扉、ある意味では世界からの出口の扉というように読める気がする。歌の主体はその扉を閉める。その上でその場所で「眠っていたいな」と想う。
 例えば『おとぎ話』(『佐々木健太郎』収録)にも、「おとぎ話を子供の頃に聞かせてもらう前に/見てしまった扉のむこう/サンタクロースや氷の魔女が脱ぎ散らかした衣装目を瞑って扉をしめた」という扉の開閉というモチーフがある。彼の記憶に関わる重要なモチーフなのだろう。

 2曲目『Alternative Girlfriend』の途中からハプニングがあった。ステージでは佐々木一人が歌っているのだが、どこからどもなくコーラスが聞こえてくる。佐々木の声ともう一人の「天の声」がハーモニーをつくる。客は驚いて辺りを見回す。実は、見えない通路の方で下岡がマイクを取っていたのだ。この曲は下岡の作。そのこともあったのか、佐々木ヴォーカル+下岡コーラスという形になった。この後も佐々木・下岡ユニットのスタイルが続いた。

 3曲目は『Good bye Girlfriend』。他に『ガールフレンド』(『ROCK IS HARMONY』収録)という曲もあるので、「Girlfriend」もの三部作ということになるだろうか。佐々木の歌には「Girlfriend」やそのような関係にある「彼女」という言葉がよく現れる。歌の主体からからして、恋する女性あるいは愛する女性が、「彼女」「Girlfriend」というように三人称的な位置にあるときに、彼独自の世界が開けてくる。それらの言葉がメロディの高揚感と溶けあうときに非常に魅力ある歌となる。ある種の屈折が込められてはいるが、それ以上に、華やぎと輝きがもたらされる。(今回はライブについて書いているので、彼の詩の世界については別の機会に譲りたい)

 新曲二つが披露され、『tonight』『will』と続き、『fine』で終わった。とても情熱的なパフォーマンスで、今年見た三回の中では最も素晴らしかった。
 途中のMCで、富士吉田の街を見て僕らの育った飯田市に似ていて、志村君はこういうところに育ったのだと思って、志村君のことがもっと分かるような気がした、という意味のことを語ってくれた。彼の想いが十分すぎるほど聴き手に伝わった。

 各々のステージの終了後、佐々木・下岡の二人がステージに立った。不思議な「天の声」についてのやりとりから始まった。Analogfish誕生期の話。佐々木健太郎が高校卒業後の一年間、長野の喬木村の山奥の家で「ニート」のように引きこもって宅録をしていた。その頃オーストラリアから帰国した下岡がその場に加わった。佐々木が楽器を何でも演奏できたのに対して、下岡が初めはギターを3コードしか弾けなかった。山奥なので大きな音も鳴らせたが、同居していたお祖父ちゃんに迷惑をかけたこと。彼らの小学校には「お祖父ちゃんお祖母ちゃん授業参加日」があったなど、ほのぼのとした話に会場のみんなが和んでいた。他にも、小学校、中学校の時の話、先生の話など色々な話が聞けた。

 話を総合すると、Analogfish(の原型)は佐々木健太郎の一人バンドだったようだ。そこに下岡が加わった。作品も佐々木が中心となって作っていた。やがて「下山」して東京へ。そして斉藤州一郎が加わり、今のバンドになった。聞き書きなので正確であるか分からないが、おおむね、それが真実らしい。それにしても、長野の山奥で、志と才能のある二人、それも資質の異なる二人が出会いバンドを始めたこと自体が奇跡のような気がする。それから十六年の間、きわめて優れた音楽を作り続けている。そんなことをあの場で考えていた。

 二人の歌では、『Nightfever』が忘れがたい。「10年前もそんな事言っていた気がする/20年前もそんな事言っていた気がする」の節回しで、下岡が佐々木のことを「健ちゃんカッコイイ気がする」「カッコワルイと思ったときもあったけど、カッコイイ気がする」「顔立ちはカッコイイと思っていたけど、でもカッコワルイと思ったときもあったけど、カッコイイ気がする」という風に(おおよそ?)続いてループしていく。とても愉快な替え歌に変わるにつれて、会場も和やかな笑いに包まれ、まさしく「ナイト」「フィーバー」した(古い言葉だね)。会場のペレットストーブも身体を暖かくさせた。何よりも、佐々木と下岡、二人の関係のあり方が熱源となって、心がすごく暖かくなった。こんなにも暖かいものに包まれたライブの経験は他にない。

 最後の最後のアンコールでは、二人の唯一の共作と紹介されて、『世界は幻』が佐々木によって歌われた。

  小生 男としても 「地下室の手記」的思想
  べつだん 何不自由も無い
  すりガラスごしに見る 世界が幻だ


 高揚した気分が、良い意味で少しクールダウンし、現実に戻されていった。
 佐々木はドストエフスキーを愛読しているようだ。山奥の宅録の場も一種の「地下室」だったのだろう。地下室から「すりガラスごし」に見えるかもしれないのが「世界」だ。「世界は幻」から『Tired』の「世界の果て」へ、佐々木健太郎は世界から世界へと横断していく。


 今回のライブについて、この場を借りてあらためて、主催者の勝俣氏に感謝を申し上げます。(この「偶景web」のこともツイートしていただき、重ねてありがとうございました)

 佐々木、下岡の両氏からは、次はAnalogfishの三人で来たいねという言葉もありました。富士吉田の街が、現在の優れた日本語ロックが歌い奏でられる場になる。その夢がかなえられることを祈ります。

0 件のコメント:

コメントを投稿