今夜、仕事を終え、帰り道を歩き出した。
昨日からの激しい雨は少し小降りになっていたが、まだ視界は雨の空気に覆われていた。
歩き出すと、雨の匂いがする。ほのかに水の香りを感じる。霧雨のようでもある。鼻腔だけではなく、皮膚の周りにも、雨の水滴の感触のようなものが少しばかりまとわりつく。
さらに歩き出す。
やや広い空き地に踏みだしたとき、かすかに甘い香りがした。何かはわからない。花の香りであるようだが、水の香りと混じり合っていてすぐに識別できない。
金木犀の香りが漂いだしたのだ、と気づいたのは、今が九月下旬であることが頭に浮かんできてからだ。九月の下旬という時節が、金木犀の季節を告げていた。
ただし、雨と水の香りと溶けあっているようで、金木犀の香りは実に仄かだ。仄かではあるのだが、いや、仄かであるがゆえにだろうか、それは記憶を呼び覚ます。
昨年のことを思い出した。確か、昼間、風に乗ってそれは訪れた。今年は、雨に運ばれるようにして訪れた。
昨年も今年も、樹は見えない。「赤黄色」の花も見えない。見えないからこそ、香りだけが漂う。あたりが、少しずつ、金木犀に染め上げられる。
赤黄色の金木犀の香りがして
たまらなくなって
何故か無駄に胸が
騒いでしまう帰り道 ( 『赤黄色の金木犀』志村正彦 )
年齢を重ねるということには絶対に抗しがたい何かがある。なすすべもなく、抗しがたく、感受性もうすまっていく。
年を積み重ねることの遙か前の年月、むしろ時が進まないような、時が止まってしまうような年月にしか、(それを若さの時といえばそうなのだろうが)「何故か無駄に胸が騒いでしまう」という類の感受性と身体の感覚に包まれることはない。
感受するとは、自分の身体の感覚を、心がくりかえし受けとることであるのなら、年を重ねると、感受性は自然にうすれていく。
「何故か無駄に胸が騒いでしまう帰り道」、そのような帰り道を、志村正彦も、ある年齢を過ぎれば、歩むことはなかったのかもしれない。それが失われてしまっても、別の帰り道が待っていたかもしれない。
そんなことをなぜか考えてしまった。
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