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2015年6月6日土曜日

『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号-浜野サトル1

 
 音楽との出会いが記されることはあっても、音楽を語る言葉との出会いが書き記されることは少ない。
 この場合の「音楽を語る言葉」とは身近な誰かの言葉でも、音楽家の言葉であってもいいのだが、私がこれから書こうとするのは、ある批評家の言葉との出会いである。

 『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号。
 高校に入る年の春だった。甲府の老舗の本屋でこの号を手に入れて愛読した。デジカメで撮影するために書棚から久しぶりに取り出すと、それなりに日を浴びて、紙質も劣化していた。四十年を超える時が積み重なっている。


『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号 表紙画・矢吹申彦


  表紙はポール・サイモン。濃いグレーの背景から少し浮き上がる彼の肖像画。彼の左眼の直ぐ下から鼻や口を覆うようにして、コダクロームの黄色いパッケージが佇んでいる。ポール・サイモンからコダクロームが浮き上がってくるようにも、コダクロームがポール・サイモンを促して、ある風景を描こうとしているようにも見える。

 この表紙はもちろん、ポール・サイモンの1973年のヒット曲『僕のコダクローム』(原題Kodachrome)をモチーフにしている。描いたのは矢吹申彦。『ニューミュージック・マガジン』の69年4月の創刊号から76年3月号の表紙絵・ADを担当していた。

 矢吹の描いたコダクロームは独特の存在感を漂わせている。(この雑誌には「表紙のメモ」の頁があり、コダクロームについて「リアルに!!」、ポール・サイモンについて「今回は髭アリ」などという愉快な言葉が添えられている。)
 「人」と「物」、人とフィルムという記録媒体。この二つの間の静かな「対話」の跡が漂ってくる。しかし、「人」と「物」の重なり合いの構図から、この二つの間の微妙な断層、一種の距離のようなものが描かれているようにも感じられる。

 表紙をめくると、キョードー東京の広告。ポール・サイモン《初来日》、4月9,10日の日本武道館でのコンサートの文字。(「売り切れ近し」の字もある)70年代の前半、ポール・サイモンの人気は日本でも高かった。(それでも、サイモン&ガーファンクルには及ばなかったが)来日に合わせてこの表紙が企画されたのだろう。

 この号に、浜野サトルの『ポールサイモン パッケージされた少年時代』という批評が掲載されている。矢吹申彦の素晴らしい表紙画と浜野サトルの優れた言葉が合奏し、奥行きのあるハーモニーを奏でている。
 『ニューミュージック・マガジン』この音楽誌が輝いていたのはやはり、この時代、69年から70年代半ばの頃だ。矢吹による音楽家の肖像画が表紙を飾り、浜野による批評が誌面に時々掲載された時代に重なる。

 すでに中学生の頃から洋楽のロックを中心に聴いていた。誰もがそうするように、気に入った音楽を友達に語ったり、ラジオ番組のリクエスト葉書を書いたりしていた。未熟なものだったが、音楽だけでなく音楽を語ることにも、楽しさと面白さがあるように感じていた。そのような時を経て、浜野サトルの文章に出会った。彼の批評は、その頃から少しずつ読み始めていた文学や思想の本と同じ水準にあると思われた。ロック音楽を語ることの地平が大きく開かれていくように感じた。

 私と同世代以上のロックやジャズファン、特に『ニューミュージック・マガジン』の読者であった人の中には、彼の名を記憶している方も多いだろう。『都市音楽ノート』(1973年12月10日、而立書房)、『ディランにはじまる』(1978年3月10日、晶文社)の著書2冊がある。(ミステリー小説の翻訳や音楽書の編集でも知られる)しかし、およそ80年代以降、音楽メディアの表の場に登場することが少なくなったこともあり、若い音楽ファンにはあまり知られていない存在だろう。

 彼の仕事については私のような一読者より、著名な音楽評論家である北中正和の言葉を紹介したい。(「追憶・松平維秋-4インターネットの窓から」http://www.geocities.co.jp/Bookend/3201/M_SITE/TSUITO/KITANAKA.html ここでは「浜野智」と記されているが、おそらく彼の本名なのだろう。最近はこの「浜野智」名で書いているようだ)


浜野さんはぼくと同世代で、1960年代末からジャズやロックの評論に筆をふるっていて、そのころポピュラー音楽について彼ほど切れ味鋭い評論を書いている人は誰もいなかった。


 あの時代、浜野サトルの「切れ味鋭い評論」は、彼の愛用した語を使うのなら、「単独者」の批評=危機の意識から発せられた「問いかけ」だった。
 彼の批評は、ひとつの「問いかけ」から始まり、もうひとつの「問いかけ」で終わろうとする。「問いかけ」へのとりあえずの「応答」が果たされることもあるが、その「問いかけ」は読者に働きかけ続ける。

 次回は、『ポールサイモン パッケージされた少年時代』の言葉そのものを読み返してみたい。
 

   (この項続く)

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