2021年8月22日日曜日

フルートのトリル、鳥の囀る声。―「浮雲」3[志村正彦LN287]

 前回書いた「浮雲」のフルート音について、少し補足してみたい。歌詞を再度引用する。


 1A  登ろう いつもの丘に 満ちる欠ける月
 1B  僕は浮き雲の様 揺れる草の香り
 1C  何処ぞを目指そう 犬が遠くで鳴いていた
 1D  雨で濡れたその顔に涙など要らないだろう

 2A  歌いながら歩こう 人の気配は無い
 2B  止めてくれる人などいるはずも無いだろう
 2C  いずれ着くだろう 犬は何処かに消えていた
 2D  雨で濡れたその顔に涙など要らないだろう

   3C  消えてしまう儚さに愛しくもあるとしても
   3D  独りで行くと決めたのだろう
 3D  独りで行くと決めたのだろう


 1D、2Dと繰り返される〈雨で濡れたその顔に涙など要らないだろう〉。〈雨で〉そして〈濡れた〉の旋律を追いかけるようにフルートの音が入る。〈涙など要らないだろう〉にはフルート音が絡まり、志村の声と対話するかのように響いていく。3C〈消えてしまう儚さに愛しくもあるとしても〉も同様の入り方をする。特に〈愛しくもあるとしても〉以降、フルートの音はほぼ持続的に奏でられる。

 3D〈独りで行くと決めたのだろう〉のところでは、フルートのトリルの音が美しく重なっていく。ギターを激しく鳴らす音は〈独りで行くと決めたのだろう〉という〈僕〉の決意を促す。高く澄み切った音色は〈僕〉の孤独や不安を奏でている。それと対照的に、鳥の囀りのようなフルートのトリルは、〈独りで行くと決めたのだろう〉という〈僕〉をそっと見まもるかのように響く。やわらかくやさしい音であり、ある種の〈儚さ〉も感じる。〈いつもの丘〉で囀る鳥の音を再現している旋律でありアレンジであるかのように、筆者には聞こえてきた。また、この音はやはりフルート奏者が奏でている本物のフルートの音だろう。人間の息の感触がそのまま音に溢れ出ている。意識的か無意識的かは分からないが、志村正彦は「浮雲」にそのような音を必要としたのではないだろうか。ロックの楽曲の中にある種の《自然》を求めたと言えるかもしれない。そのような試みの到達点が「セレナーデ」であろう。

 2004年2月リリースの3rdミニアルバム『アラモルト』で「浮雲」のリメイクが収録されているが、フルートの音は入っていない(フルートに近い音は少しあるのだが、シンセサイザー音源だろう)。『アラカルト』ヴァージョンの演奏時間が5分15秒に対して、『アラモルト』ヴァージョンは6分13秒とテンポも遅くなっているなど、かなり違いがある。「浮雲」に関しては『アラカルト』ヴァージョンの方が格段に優れている。


 山に囲まれている土地のゆえか、山梨では住宅地であっても、いろいろな鳥の囀りが聞こえてくる。早朝、鳥の声で目を覚ますことも時にある。自然の中に在るという感触につつまれる。

 〈いつもの丘〉の林の中では、どのような鳥の声が聞こえてくるのか。囀る音はどのように響くのか。志村正彦も鳥の囀る声を聞いていたに違いない。そのような光景が浮かんできた。


2021年8月18日水曜日

フルート音の叙情性-「浮雲」2 [志村正彦LN286]

 志村正彦・渡辺隆之・田所幸子の3人のメンバーは「浮雲」について、新宿ロフトrooftopの〈【復刻インタビュー】フジファブリック(2002年10月号)-歌心を大切にした注目のバンドがついに単独作をリリース!〉で次のように語っている。(text:mai kouno/coa graphics)


──なるほど。『浮雲』で特に感じたのですが、言葉ののせ方や選び方がとても独特で面白いですね。
志村:あぁ、すごい嬉しいです。演奏の雰囲気が大体決まってから、イメージにそった歌詞を考えているんですが、リズムにのった歌詞を作ろうと心がけています。例えばすごく静かな所では、小さい「つ」を使わないでわりと平べったく聴かせようとか。「浮雲」は曲が昔っぽいイメージだったので、想像していたら自然に古風な言葉が湧き出てきた感じですね。
──全体の曲の雰囲気も、今現在にはなかなかない感じだと思ったのですが。
渡辺:意図はしていないですよ(笑)。
田所:やっぱりみんな、昔の音楽が好きだったりするから、それが自然と音に出ているんじゃないかなぁ。
志村:昔の音が好きというか、今の音楽を知らないだけで(笑)。

 

 志村は、 「浮雲」は〈昔っぽいイメージ〉の曲に〈古風な言葉〉が自然に湧き出てきたと述べている。この楽曲にはフルート(のような)音が入っているが、クレジットにはその演奏者が記されていない。キーボード奏者によるシンセサイザー音源かもしれない。間奏からエンディングに向けて、志村の声とギターの音とフルートの音が複雑に絡み合うところが非常に印象的である。息を吹き込んで空気を振動させて出すフルートの音は人の声との親和性が高い。そして、フルートの音には独特の叙情性がある。「浮雲」の孤独な詩的情緒をフルートの持つ叙情的な音がやわらかく響かせている。

 一般的にはフルートの入ったロックというと、イアン・アンダーソンIan Anderson のジェスロ・タル  Jethro Tull が挙げられるだろうが、プログレッシヴ・ロックの中では、ピーター・ゲイブリエル在籍時のジェネシスGenesis がまず思い浮かぶ。洋楽の中での僕の最愛のバンドである。ピーター・ゲイブリエルはフルートを使って、独創的な楽曲を創っていた。

  youtubeで、ピーター・ゲイブリエルがフルートを演奏している映像を探したところ、次の貴重な映像が見つかった。1972年3月、ベルギーのテレビ番組「Pop Shop」の収録。この時期の編成は次の五人。

ピーター・ゲイブリエル Peter Gabriel   (leadvocals/flute/tambourine)
マイク・ラザフォード Mike Rutherford  (keyboards and rhythm guitar)
トニー・バンクス Tony Banks   (Keyboards)
スティーヴ・ハケットSteve Hackett    (lead guitar)
フィル・コリンズ Phil Collins    (drums and backing vocals)

 演奏曲は「The Fountain Of Salmacis」「Twilight Alehouse」「The Musical Box」「The Return Of The Giant Hogweed」。3曲目「The Musical Box」の15:25あたりから1分間ほど、ピーターのフルート演奏がある。「The Musical Box」では、老人の仮面や狐の仮面を被ることが多いのだが、この映像では素顔のピーター・ゲイブリエルを見ることができるのが貴重である。「The Musical Box」の歌詞は多層的な意味合いを持つ。ピーター・ゲイブリエルはイギリスの孤高のロックの詩人でもある。



 志村正彦がピーター・ゲイブリエルの直接的な影響を受けているのではないだろうが、フルートを効果的に使ったプログレッシヴ・ロックという大きな枠組の中ではその影響の範囲内にいるとも考えられる。

 先の引用箇所でキーボードの田所は、〈やっぱりみんな、昔の音楽が好きだったりするから、それが自然と音に出ているんじゃないかなぁ〉と述べている。所謂第2期(2001年9月~2002年12月)のフジファブリック、Vo.Gt.志村正彦、Key.田所幸子、Dr.Cho.渡辺隆之の3人が、〈昔の音楽〉ロックの古典を研究したことが、「浮雲」をはじめとする1stミニアルバム 『アラカルト』の独創的な作品として結実していると言えるだろう。

2021年8月8日日曜日

独りで行くと決めたのだろう-「浮雲」1 [志村正彦LN285]

 「お月様のっぺらぼう」「午前3時」と、月をモチーフとする作品を続けて取り上げたが、1stミニアルバム 『アラカルト』には〈満ちる欠ける月〉を歌った「浮雲」という曲がある。この曲も「フジファブリック Official Channel」で公開されている。

 浮雲 · FUJIFABRIC
 アラカルト ℗ 2002 Song-Crux Released on: 2002-10-21
 Lyricist: Masahiko Shimura Composer: Masahiko Shimura

 演奏は、Vo.Gt. 志村正彦、Key.田所幸子、Dr.Cho.渡辺隆之、サポートメンバーGt.萩原彰人、Ba.Cho.加藤雄一の五人。



 以前にも紹介したが、荒川洋治は〈詩の基本的なかたち〉について、起承転結を示すABCDの記号を使って、〈Aを承けて、B。Cでは別のものを出し場面を転換。景色をひろげる。大きな景色に包まれたあとに、Dを出し、しめくくる。たいていの詩はこの順序で書かれる。あるいはこの順序の組み合わせ。はじまりと終わりをもつ表現はこの順序だと、読者はのみこみやすい〉と述べている。(『詩とことば』岩波書店2004)


 「浮雲」にも、この起承転結のかたちがある。ABCDの記号を付けた上で引用したい。


    浮雲 (作詞・作曲:志村正彦)

 1A  登ろう いつもの丘に 満ちる欠ける月
 1B  僕は浮き雲の様 揺れる草の香り
 1C  何処ぞを目指そう 犬が遠くで鳴いていた
 1D  雨で濡れたその顔に涙など要らないだろう

 2A  歌いながら歩こう 人の気配は無い
 2B  止めてくれる人などいるはずも無いだろう
 2C  いずれ着くだろう 犬は何処かに消えていた
 2D  雨で濡れたその顔に涙など要らないだろう

 3AB
   3C  消えてしまう儚さに愛しくもあるとしても
   3D  独りで行くと決めたのだろう
 3D  独りで行くと決めたのだろう


 1ABと2ABは、《起》と《承》の部分である。歌の主体〈僕〉が〈登ろう〉とする〈いつもの丘〉は、志村正彦が子供の頃から親しんでいた新倉山浅間神社・公園のある丘である。いわずとしれた、桜の名所でもある。〈僕〉は〈満ちる欠ける月〉の光景のもとで、〈浮き雲〉のように漂い、彷徨うにして、〈揺れる草の香り〉に導かれて、丘を登る。〈僕〉は〈歌いながら歩こう〉とする。〈人の気配は無い〉〈止めてくれる人などいるはずも無いだろう〉というように、この丘には誰もいない。〈僕〉の歌が誰かに聞こえることはない。

 今でこそ、この新倉山浅間神社・公園は観光名所になっているが、十年ほど前までは地元の人にとっての場であった。「浮雲」の〈いつもの丘〉は静かな丘であり、夜ともなれば寂しい場所でもあった。

 1Cと2Cには、〈犬〉が登場する。〈何処ぞを目指そう〉から〈いずれ着くだろう〉という〈僕〉が歩く時間の経過と共に、〈犬〉も〈遠くで鳴いていた〉から〈何処かに消えていた〉というように、その姿を消していく。犬の吠え声が《転》、歌の転換点となり、1Dと2Dの〈雨で濡れたその顔に涙など要らないだろう〉という《結》の表現が現れる。

 〈いつもの丘〉に雨が降る。雨雲が漂い、その切れ間で〈月〉は〈満ちる欠ける〉。月光のかすかな明かりと暗がりが交錯する情景。〈雨〉に濡れる〈僕〉の〈顔〉。〈涙など要らないだろう〉というのは、〈涙〉が無いことを示しているのではない。〈いつもの丘〉の陰影の濃い情景を背景に、〈僕〉の心の中で陰影のある〈涙〉が静かにこぼれる。

 1のABCDと2のABCDは同一の構造であり、起承転結の物語を作っている。志村正彦の作品には、「茜色の夕日」の〈晴れた心の日曜日の朝/誰もいない道 歩いたこと〉、「若者のすべて」の〈すりむいたまま 僕はそっと歩き出して〉を始めとして、《歩行》のシーン、モチーフが多い。その《歩行》の原点となる場が、この〈いつもの丘〉ではないだろうか。この丘の近くで志村正彦は生まれ育っている。この丘の近くを散歩し、時にこの丘を登ったようだ。

 3のABは言葉としては表れていないが、1ABCDと2ABCDの物語が含意されていると考えたい。それを受けて、3Cの〈消えてしまう儚さに愛しくもあるとしても〉が登場する。〈消えてしまう儚さ〉という表現は、漂い、移ろい、どこかに消えていく〈浮雲〉のイメージから導かれたのだろう。おそらく〈僕〉は故郷を離れようとしている。離れようとする故郷の〈いつもの丘〉の光景を、儚きもの、愛しきものとして受けとめている。そしていくぶんかは、自分自身を儚きものとして感じとっているのだろう。〈僕は浮き雲の様〉であるのだから。

 3Cによる《転》によって、3Dの〈独りで行くと決めたのだろう〉という問いが生じる。この3Dの言葉が「浮雲」全体の《結》となる。これは〈僕〉の〈僕〉自身に対する問いかけである。故郷から独りで出て行く、そう決めたことを繰り返し問いかけたのではないだろうか。その問いかけには、自分を納得させようとする、自分に言い聞かせようとする響きもある。ためらいや後ろ髪を引かれる思いがあったのかもしれない。そうであっても、〈僕〉はやはり〈独りで行く〉ことに決めたのだ。

 そう〈あるとしても〉、こう〈決めた〉の〈だろう〉という語り口は、きわめて志村らしい。この仮定と帰結、それについての自らの問いかけという話法を、志村は繰り返し用いた。たとえば、「桜の季節」では〈桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい?〉という別離についての仮定と帰結、その問いかけが歌われている。そして〈ならば愛をこめて/手紙をしたためよう〉と、この歌にも〈愛〉が表現されている。また、「桜の季節」の舞台も「浮雲」の〈いつもの丘〉だと考えることもできる。「浮雲」と「桜の季節」という作品は、その物語も風景も異なるが、志村正彦の出郷、故郷を離れて他の地へ出て行くことを表した二つの歌だと言えるかもしれない。 


 「浮雲」を聴くといつも感じることがある。志村正彦の〈独りで行くと決めたのだろう〉という声のただならぬ寂寥感だ。それは痛ましいほど痛切に孤独に響く。「浮雲」の歌詞を追っていっても、この表現を了解することは難しい。この歌の核心にはたどりつけない。そんな思いにとらわれる。


2021年8月1日日曜日

今宵満月 夢見たく無くて-「午前3時」[志村正彦LN284]

 「お月様のっぺらぼう」の世界では、〈俺〉の〈一人旅〉は、夢を見ることによって、〈月〉の〈夜〉から〈虹〉の〈空〉へと出かける。そしてその〈一人旅〉は、〈虹〉の〈空〉から〈月〉の〈夜〉へと帰還する。言葉と楽曲それぞれのループ、言葉と楽曲の間のループによって、〈一人旅〉の往還を歌った。

 この「お月様のっぺらぼう」と対照的な作品がある。「午前3時」だ。2002年10月リリースの1枚目ミニアルバム 『アラカルト』の三曲目に収録された。この曲も「フジファブリック Official Channel」で公開されている。

       午前3時 · FUJIFABRIC
  アラカルト  2002 Song-Crux Released on: 2002-10-21
  Lyricist: Masahiko Shimura Composer: Masahiko Shimura

 演奏は、Vo.Gt. 志村正彦、Key.田所幸子、Dr.Cho.渡辺隆之、サポートメンバーGt.萩原彰人、Ba.Cho.加藤雄一、武本俊一(担当楽器の記載なし)の六人である。



    

 歌詞をすべて引用しよう。行番号も付けたい。


午前3時(作詞・作曲:志村正彦)

1  赤くなった君の髪が僕をちょっと孤独にさせた
2  もやがかった街が僕を笑ってる様

3  鏡に映る自分を見ていた
4  自分に酔ってる様でやめた

5  夜が明けるまで起きていようか
6  今宵満月 ああ

7  こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた

8  短かった髪がかなり長くなっていたから
9  時が経っていた事に気付いたんだろう

10  夜な夜なひとり行くとこも無い
11  今宵満月 ああ

12  こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた

13  赤くなった君の髪が僕をちょっと孤独にさせた
14  もやがかった街が僕を笑ってる様

15  こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた
16  こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた


 70年代前半のイギリスのプログレッシヴ・ロックの曲調に乗せて、言葉が編み出されている。歌詞を一行ごとに追っていきたい。

 第1行〈赤くなった君の髪が僕をちょっと孤独にさせた〉。冒頭にいきなり〈赤くなった君の髪〉という描写があり、〈君〉という二人称が登場する。文字通りに〈赤くなった〉を髪の色の変化と捉えて、〈僕をちょっと孤独にさせた〉という〈僕〉の受け止め方を考え合わせると、この〈君〉は女性であり、〈僕〉と〈君〉ととの間には、恋愛か何か特別な関係があるのだろう。あるいは、〈赤くなった君の髪〉は、赤色を帯びた満月の描写という可能性もある。赤くなった〈今宵満月〉の光景が〈僕〉を孤独にさせる。

 この〈孤独〉という直接的な表現が使われたのは、全歌詞の中でこの「午前3時」と『CHRONICLE』収録の「Clock」だけである。志村はこの言葉の定型性、説明的なニュアンスを回避したかったのだろう。「Clock」(作詞・作曲:志村正彦)の該当箇所を引用する。

今日も眠れずに 眠れずに
時計の音を数えてる
いつも気がつけば 気がつけば
孤独という名の 一人きり

 〈今日も眠れずに〉〈時計の音〉〈孤独という名の 一人きり〉という表現に、「午前3時」との関連が見いだせる。

 「午前3時」に戻ろう。第2行〈もやがかった街が僕を笑ってる様〉。この歌の現在時は〈午前三時〉という深夜。夜中の雲が満月の光を反射して、〈街〉が〈もやがかった〉ように見えるのだろうか。満月の夜の靄がかった微妙な暗部の光景が、〈僕〉を突き放すように〈笑ってる様〉と感受している。

 第3行〈鏡に映る自分を見ていた〉、第4行〈自分に酔ってる様でやめた〉。歌の主体〈僕〉は〈鏡に映る自分〉を見る。〈僕〉という〈自分〉が〈自分〉の鏡像を見つめることは、ナルシスの神話を想わせる。ナルシスは水面という鏡に映った自分自身の像に恋をしてその鏡像から離れることができなくなるが、「午前3時」の〈僕〉は〈自分に酔ってる様でやめた〉というように、自己の鏡像から離れようとする。自己という閉域、閉じられた世界から遠ざかろうとするのだ。〈鏡〉という言葉は志村の全歌詞の中でこの歌にしか使われていないことにも留意したい。(「東京炎上」に〈目と目が合った君は万華鏡〉という言葉はあるが)また、この箇所は、曲調が変化し、声も抑制するようにして、独特の歌い方をしている。

 第5行〈夜が明けるまで起きていようか〉、第6行〈今宵満月 ああ〉。〈満月〉の夜、夜明けまで起きていようかという覚醒の持続への意志は、第7行〈こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた〉につながっていく。

 前回論じた「お月様のっぺらぼう」では、〈俺、とうとう横になって ウトウトして/俺、今夜も一人旅をする!/あー ルナルナ お月様のっぺらぼう〉というように、月夜の〈一人旅〉は夢を見ることへの旅であった。それと正反対に「午前3時」では、同じ月夜ではあっても、〈夢見たく無くて〉〈ひとり外を見ていた〉と歌われている。(〈夢見たく無くて〉の〈夢〉は睡眠中の夢ではなくて、実現させたい事柄という意味での夢の可能性もあるが)夢を見ることと夢を見ないこと、睡眠と覚醒の持続。この二つの作品の対比の関係は明らかである。「午前3時」では、夢を見たくないから一人外を見ていたという解釈も成り立つ。第3・4行にある、〈僕〉が自己の鏡像から離れて、自己愛の閉域から遠ざかろうとすることが、この〈ひとり外を見ていた〉に接続していくのかもしれない。自己の外部、〈外〉、外の世界を見ることは、自己の内部に目を向けることからの回避につながる。

 第8行〈短かった髪がかなり長くなっていたから〉の〈髪〉は、〈君〉のものなのか〈僕〉のものなのかは分からない。どちらにしろ、第9行〈時が経っていた事に気付いたんだろう〉という時の経過に気づく。あるいは、満月の様子の変化による時間の進行を描いているのかもしれない。

 第10行〈夜な夜なひとり行くとこも無い〉は、通常の意味で、〈夜な夜な〉特に〈午前三時〉頃に〈ひとり行く〉場所はないだろう。あるいは、この〈ひとり行く〉は「お月様のっぺらぼう」の〈今夜も一人旅をする〉との関連があるのかもしれない。「午前3時」では〈一人旅〉ではなく〈ひとり外を見ていた〉のだから。

 第11行から16行までは反復であり、〈こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた〉に収斂される。志村の歌い方は、〈夢〉〈見たく〉〈無くて〉というように分節されて、〈無くて〉が強調されているようにも感じられる。〈なくて〉ではなく〈無くて〉と、〈無〉という漢字が使われたこともその印象を強める。

 この「午前3時」の音源はその後リテイクされていない。また、ライブ映像にも残されていない。初期作品の中では実験的な習作の意味合いが強いことがその理由かもしれない。しかし、「午前3時」と「お月様のっぺらぼう」という《月夜》をモチーフとする対照的な作品を試みているところに、インディーズ時代の志村正彦の実験が刻印されている。やがてその言葉と楽曲の実験は作品の成果として結実していくだろう。

2021年7月25日日曜日

言葉のループ 「お月様のっぺらぼう」2 [志村正彦LN283]

  志村正彦・フジファブリック「お月様のっぺらぼう」の音源は、2019年12月23日から、「フジファブリック Official Channel」で公開されている。これはありがたい。

  お月様のっぺらぼう · FUJIFABRIC
  アラモード 2003 Song-Crux Released on: 2003-06-21
  Lyricist: Masahiko Shimura Composer: Masahiko Shimura


 

 歌詞をすべて引用しよう。行の番号と同一の歌詞はa~iのアルファベットを付ける。


 お月様のっぺらぼう  作詞・作曲: 志村正彦  

  1  a  眠気覚ましにと 飴一つ
  2  b  その場しのぎかな…いまひとつ
  3  c  俺、とうとう横になって ウトウトして
  4  d  俺、今夜も一人旅をする!

  5  e  あー ルナルナ お月様のっぺらぼう

  6  f  嵐がやって来そうな空模様
  7  g  雨の匂いかな…流れ込む
  8  h  俺、相当恐くなって窓を閉める
  9  d  俺、今夜も一人旅をする!

 10  i  あの空を見た 遠くの空には 虹がさした
 11  i  あの空を見た 遠くの空には 虹がさした

 12  a  眠気覚ましにと 飴一つ
 13  b  その場しのぎかな…いまひとつ
 14  c  俺、とうとう横になって ウトウトして
 15  d  俺、今夜も一人旅をする!

 16  e  あー ルナルナ お月様のっぺらぼう
 17  e  あー ルナルナ お月様のっぺらぼう


 「お月様のっぺらぼう」のサウンドは、イントロのフレーズがミニマル的にループしていく。歌詞の言葉もそのサウンドに乗って、ループのように連接していく。言葉の輪が循環していく。

 第1行と第2行の末尾の〈飴一つ〉と〈いまひとつ〉。〈hitotsu〉の反復が、この歌詞の言葉のループの基調になっている。さらにこの〈hitotu〉は、第4行の〈今夜も一人旅をする〉の〈hitori〉に連接し、モチーフとしての《一人》を形成していく。

 第3行の〈とうとう〉と〈ウトウト〉。〈toutou〉〈utouto〉の音の反転のような遊び。この音の戯れが催眠効果のようになって、歌の主体〈俺〉は〈今夜も一人旅をする〉。この夜の〈一人旅〉は睡眠中に見る《夢》のことであろう。〈も〉という助詞が使われているのは、この夜の〈一人旅〉が、毎夜、反復されていることを示す。

  また、第3,4行と二度繰り返される〈俺〉と〈俺〉の〈ore〉〈ore〉も、音の響きが独特である。くぐもっているというのか抑制的というのか、一人称代名詞の機能を果たすというよりも、つなぎの音として使われた気もする。

 第5行の〈ルナルナ〉。〈luna luna〉の繰り返し。〈お月様のっぺらぼう〉も〈おo〉〈のno〉〈ぼbo〉という〈o〉音がアクセントになっている。この言葉は、月の視覚的イメージを表すというよりも、音の戯れの感覚そのものを伝えるために選択されたのかもしれない。

 第7行の〈雨〉〈ame〉は第1行の〈飴〉〈ame〉と、アクセントは異なるが、音の反復がある。第8,9行の〈俺〉〈俺〉は、第3,4行の〈俺〉〈俺〉と同等の効果を持つ。

 第10,11行〈あの空を見た 遠くの空には 虹がさした〉はどう捉えたらよいだろうか。二つの可能性がある。ひとつは、〈俺〉が目覚めた後で日中の光景として〈あの空〉〈遠くの空〉〈虹〉を見た、というもの。もう一つは、〈俺〉が見た夢の中の光景であるというもの。

 第1~4行のa.b.c.dの展開には、起承転結的な構造があり、第6~9行のf.g.h.dの展開も同様である。それぞれの起承転結を受ける、第5行〈あー ルナルナ お月様のっぺらぼう〉と第10,11行〈あの空を見た 遠くの空には 虹がさした〉は、対比的な関係を持つ。


第1~4行 a.b.c.d  → 第5行      あー ルナルナ お様のっぺらぼう

第6~9行 f.g.h.d  → 第10,11行  あのを見た 遠くのには がさした


 この対比的な構造からすると、〈あー ルナルナ お月様のっぺらぼう〉の〈月〉は〈夜〉の〈一人旅〉の象徴であり、〈あの空を見た 遠くの空には 虹がさした〉の〈空〉の〈虹〉は、夢の中で見られた光景であるという解釈の方を取りたい。

 〈俺〉の〈夜〉の〈一人旅〉は、夢の中で〈空〉の〈虹〉へと向かっていく。サウンドが転調され、コーラスも加わって、音が重厚になる。ライブでは照明の演出も転換される。言葉と音のループがここで重層化される。志村正彦、加藤慎一、金澤ダイスケ、渡辺隆之の四人のユニットの演奏が素晴らしい。

 〈月〉と〈虹〉。太陽の光が月面で反射された月の光。太陽の光が大気の水滴の内部で反射された虹の光。光のイメージとしては対照的だが、太陽の光が反射されたものという共通項がある。〈虹〉のモチーフはやがて、2005年6月リリースのフジファブリック5枚目のジングル「虹」へと発展していく。

 〈俺〉の〈一人旅〉は、〈夜〉から日中の〈空〉へ、〈月〉から〈虹〉へと向かう。そして、昼の〈空〉か〈夜〉からへ、〈虹〉から〈月〉へと戻っていくのだろう。そのようにして、ループが、循環していく。〈俺〉の〈一人旅〉は、毎夜、反復される。

 志村正彦は、言葉の音としての戯れを使って歌詞を作った。言葉と音それぞれのループ、そして言葉と音の間のループによって、〈俺〉の物語を歌った。「お月様のっぺらぼう」は、インディーズ時代のきわめて独創的な作品である。


2021年7月18日日曜日

音のループ 「お月様のっぺらぼう」1 [志村正彦LN282]

 前回論じた「Anthem」は、「三日月さんが 逆さになってしまった」という月夜の情景のもとで「気がつけば 僕は一人だ」と、〈月〉と〈一人〉が組み合わされて歌われている。志村正彦の特に初期作品には、この〈月〉と〈一人〉の取り合わせが多い。

 「午前3時」の〈夜が明けるまで起きていようか/今宵満月 ああ/こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた〉、「浮雲」の〈登ろう いつもの丘に 満ちる欠ける月/僕は浮き雲の様 揺れる草の香り/独りで行くと決めたのだろう〉、そして「お月様のっぺらぼう」の〈俺、とうとう横になって ウトウトして/俺、今夜も一人旅をする!/あー ルナルナ お月様のっぺらぼう〉とある。月は〈満月〉〈満ちる欠ける月〉〈お月様のっぺらぼう〉、一人の方は〈ひとり外を見ていた〉〈独りで行く〉〈一人旅〉という違いがある。志村正彦にとって、〈月〉は〈一人〉であることと強く結びつく原光景である。

 今回は「お月様のっぺらぼう」を取り上げたい。2003年6月21日発売のフジファブリック2ndミニアルバム『アラモード』(Song-Crux)収録曲である。メンバーは、Vo.Gt. 志村正彦、Ba.Cho. 加藤慎一、Key.Cho. 金澤ダイスケ、Dr.Cho.渡辺隆之の四人。当時の貴重なインタビュー〈現時点で最高の音が詰まった2ndミニ・アルバム『アラモード』、遂にリリース!〉がロフトのサイトに残されている。「お月様のっぺらぼう」に言及した部分を抜き出す。


──では面白かったこと、楽しかったことは?
金沢 あ、初日に俺、熱を出したんだ。39度くらい。その朦朧とした中で録ったのが「お月様 のっぺらぼう」で、直ってから入れ替えようと思ったんですけど、どうやってもこの感じが出せなかったんで。
──今回の曲はいつ頃の?
志村 元々ある曲もあるけど、レコーディングがありますってことで…アレンジし直してアルバム用にしたいなと思ったのは「お月様 のっぺらぼう」ですね。コレは今回用に急ピッチで(笑)。
渡辺 これはどんどん変わっていきましたね。
──一言ずつ曲のコメントをお願いします。
■お月様 のっぺらぼう
加藤 これは割とスペーシーな。ループな感じなんですけど。生ループが醍醐味です。
志村 あと、これはコーラスを頑張りましたね。


 愉快なコメントだ。「お月様 のっぺらぼう」は〈アレンジし直してアルバム用に〉〈急ピッチで〉(志村)作られて、〈どんどん変わって〉(渡辺)いったそうである。〈スペーシーな。ループな感じ〉(加藤)のサウンドを39度の発熱による〈朦朧とした中で録った〉(金沢)テイクが素晴らしい出来映えだったようだ。確かに、コンピュータではない〈生〉の楽器演奏による独特のループ感とグルーブ感がある。

 「お月様 のっぺらぼう」は、歌詞、楽曲、演奏、どれも水準が高い。インディーズ時代の『アラカルト』『アラモード』のなかでも最も独創的な作品であろう。特に、志村の作曲家としての才能を感じさせる。類似したサウンドが思い浮かばないのだが、記憶をたどってあえて書くのであれば、イギリスのソフト・マシーン(Soft Machine)を想起した。ジャズ・ロック、サイケデリック・ロック、ミニマル・ミュージックというようなノンジャンル的な楽曲の雰囲気である。ミニマルなフレーズが反復され拡大されていくソフト・マシーンのサウンドを繰り返し聴いていた時期がある。1973年の『7』(Seven)が僕の愛聴盤だった。

 「お月様のっぺらぼう」は「午前3時」(『アラカルト』)「消えるな太陽」(『アラモード』)と共に、メジャーデビュー後に再録音されていない。初期の月をモチーフとする3曲中の2曲の音源のリテイクがない。ただし、「お月様のっぺらぼう」のライブ映像は、2003年12月31日新宿LOFT(『FAB MOVIES LIVE映像集』DVD『FAB BOX』)、2006年12月25日渋谷公会堂(『Live at 渋谷公会堂』DVD)、2009年9/29(火)~10/23(金)全10公演(『Official Bootleg Movies of "デビュー5周年ツアー GoGoGoGoGoooood!!!!!'』DVD)の三つのDVDに収録されている。5周年ツアーでは、志村が「じゃあ次もめったにやらない曲」と話してから、演奏が始まった。この3枚のDVDによって、ちょうど三年ごとの演奏の変化を知ることができる。     

      (この項続く)


2021年7月11日日曜日

「Anthem」の〈一人〉[志村正彦LN281]

 昨日7月10日は、志村正彦の誕生日。祝福するtweetが数多く寄せられていた。富士吉田では「若者のすべて」のチャイムが流され、それを報道するニュースや記事があった。母校の吉田高校でも合唱曲にするプロジェクトが進んでいるようだ。さまざまな人々がそれぞれの場所で活動している。これもまた祝福すべきだろう。

 僕の場所はこの偶景web。もうひとつ、文学の教育と研究の場もある。〈志村正彦ライナーノーツLN〉の開始時には300回をひとつの目標にした。あと20回ほどでその回数に達するが、これまで取り上げた曲を数えるとまだ31曲。今後はこれまで書いたことのない作品についてできるだけ試みていきたい。

 今日は「Anthem」。2009年5月20日、フジファブリック4枚目のアルバム『CHRONICLE』に収録され発表された。2019年、『FAB LIST 1』の投票で15位となり、同名のアルバムに収められた。アンセムは祈りの歌、祝いの歌である。誕生日の祝福tweetを見て、なんとなくこの曲にしようと思った。『FAB LIST 1』の音源を聴いたのだが、リマスタリング音源となり、想像以上に楽器の音像はクリアになっている。まず全歌詞を引用したい。


 Anthem 
       作詞・作曲:志村正彦

三日月さんが 逆さになってしまった
季節変わって 街の香りが変わった
気もしない ない ない ない ない ない ない ないか
まだ ない ない ない ない ない ない ない ないか

闇の夜は 君を想う
それら ありったけを 描くんだ

鳴り響け 君の街まで
闇を裂く このアンセムが

何年間で遠く離れてしまった
いつでも君は 僕の味方でいたんだ
でも いない いない いない いない いない いない いない いないや
もう いない いない いない いない いない いない いない いないや

行かないで もう遅いかい?
鳴り止まぬ何かが 僕を襲う

轟いた 雷の音
気がつけば 僕は一人だ

このメロディーを君に捧ぐ
このメロディーを君に捧ぐ

鳴り響け 君の街まで
闇を裂く このアンセムが

轟いた 雷の音
気がつけば 僕は一人だ


 フレーズごとにたどっていこう。〈三日月さんが 逆さになってしまった〉は、三日月からその逆さの二十六夜月への変化の時間を伝えているのだろうか。そうであれば、二十数日が経っていることになる。また、二十六夜月は夜中の1時から3時の間に上るので、この歌の舞台が深夜であることを示しているのかもしれない。〈季節変わって 街の香りが変わった〉とあるので、この月の満ち欠けの三十日ほどの間に季節が変わったのだろう。

 しかし、歌の主体〈僕〉は〈気もしない ない ない ない ない ない ない ないか〉〈まだ ない ない ない ない ない ない ない ないか〉と呟く。何に対して〈気もしない〉と言うのか。三日月や季節の変化はおそらく確かなことだろうから、直前の〈街の香りが変わった〉を指していると考えるのが妥当だろう。そうすると、〈街の香りが変わった〉〈気もしない〉〈ないか〉〈まだ〉〈ないか〉というようにつながる。〈街の香りが変わった〉気がする、気がしない、そして、気がしないか、まだ気がしないか。その逡巡が〈僕〉に訪れている。それぞれのフレーズで、〈ない〉が八回繰り返されている。この〈ない〉の反復は、歌の主体〈僕〉の自分自身の感覚に対する疑いやとまどいを示すものなのか。解釈が難しい。

 〈闇の夜〉という深夜、〈僕〉は〈君を想う〉。君への想いを〈ありったけを 描くんだ〉と自分に言い聞かせる。その想いを託した〈アンセム〉が、深夜の〈闇を裂く〉ようにして、〈君の街〉まで〈鳴り響け〉と叫んでいる。

 〈何年間で遠く離れてしまった〉〈いつでも君は 僕の味方でいたんだ〉というのが、歌の主体〈僕〉の想いの中心にある。〈でも いない いない いない いない いない いない いない いないや〉〈もう いない いない いない いない いない いない いない いないや〉と、〈でも〉〈いないや〉と〈もう〉〈いないや〉というように〈君〉の喪失が歌われている。ここでも、それぞれのフレーズで〈ない〉が八回繰り返されている。この〈ない〉の連続は、「若者のすべて」の〈ないかな ないよな きっとね いないよな〉の数度の反復を想起させる。志村正彦の「Anthem」は〈ない〉ことのアンセムのように響く。

 〈行かないで もう遅いかい?〉〈鳴り止まぬ何かが 僕を襲う〉という直截な表現は、〈轟いた 雷の音〉の強烈な音に促されたのだろうか。雷鳴の音に突き動かさるようにして、〈僕〉は君のいる場所に飛び立っていきたいのだが、そこには〈君〉は〈もう〉〈いない〉。雷鳴が過ぎ去った後で、〈気がつけば 僕は一人だ〉という静けさのなかに歌の主体〈僕〉は取り残される。


 「Anthem」とは対照的な静かで穏やかな曲調の「セレナーデ」が浮かんできた。「セレナーデ」では〈木の葉揺らす風〉の音が〈セレナーデ〉になっていた。〈明日は君にとって 幸せでありますように/そしてそれを僕に 分けてくれ〉という祈りが、〈そろそろ 行かなきゃな お別れのセレナーデ/消えても 元通りになるだけなんだよ〉という別れの言葉と共に歌われていた。「Anthem」では〈轟いた 雷の音〉が〈アンセム〉に変わる。〈気がつけば 僕は一人だ〉が〈このメロディーを君に捧ぐ〉と歌われる。

 志村正彦の歌の主体〈僕〉は、つねにすでに、〈一人〉でいる。〈一人〉でいることが、 〈メロディー〉を「セレナーデ」や「Anthem」の言葉を〈君〉へと送り届ける条件、前提であるかのように、志村は歌を作っている。

 アンセムは祈りの歌、祝いの歌。この「Anthem」も〈君〉への祈り、祝福の歌であろう。しかし、〈気がつけば 僕は一人だ〉という一節をどう受けとめていいのか、考えあぐねた。ここには深い孤独が描かれている。アンセムとどう関わるのか。

 作者志村自身が伝えたいことから離れてしまうのだろうが、〈僕は一人だ〉としても〈僕は一人だ〉ということをあえて祝う、という考えが浮かんできた。〈僕は一人だ〉ということを祝福するというのは誤解されかねない解釈だが、今ここで〈一人〉でいることが現実であるのならば、その現実をそのまま受けとめる、ある意味では肯定する、というように捉えてみるのはどうだろうか。喪失を喪失として、〈一人〉でいることを〈一人〉でいることとして、ありのままを受けいれること。志村正彦の「Anthem」にはそのような強さも感じるのだ。雷鳴のように轟く烈しいもの。〈一人〉ではあるがその〈一人〉であることをそのまま受容する強い意志。冒頭の一節「三日月さんが 逆さになってしまった」のように、何かを逆さにする方向性がこの「Anthem」には貫かれていないだろうか。そもそも、〈闇の夜〉という設定自体が通常のアンセムの背景となる時間帯を逆転させている。そう考えるならば、この「Anthem」は〈君〉へのアンセムであると同時に、〈一人〉でいることへのアンセムにもなる。


 志村正彦の多くの歌からは、〈一人〉でいることの寂寥感が伝わってくる。しかし、その寂寥感を超えていくものも歌われている。そのような、気もしない、だろうか。


2021年7月3日土曜日

山梨の聖火リレー[志村正彦LN280]

 先週の土日、山梨県で東京オリンピックの聖火リレーがあった。二日目の終着点は富士吉田。最終ランナーは、グループランナー「やまなし大使」の四人、 宮沢和史、藤巻亮太、山梨出身の女優白須慶子、そして富士吉田出身のプロレスラー武藤敬司が富士山パーキングの入口まで走った。東京オリンピックそのものの問題点はひとまず置いて、今日はこの聖火リレーから想像したことを書きたい。

 

 僕はニュース映像を見だけだが、宮沢和史、藤巻亮太となると、どうしても志村正彦のことを思ってしまう。彼が健在であれば、宮沢和史、藤巻亮太と一緒に故郷の道を走っただろうか、と。やるせないような仮定だが、しばらくの間、想像の世界に入っていった。

 志村がグループランナー「やまなし大使」に選ばれた可能性は充分にあっただろう。しかし、その(内々の)オファーを受けて彼が受諾したかどうか。〈「ロック」とは、何かを打ち破ろうとする反骨精神、逆らうべきところは逆らうという精神じゃねえのかな~〉[ 『東京、音楽、ロックンロール』(志村日記)「ジャケ深読み」2008.01.25 ]と語っているので、〈聖火リレーなんてロックじゃねえ〉と一蹴したこともありえる。

 でも、どうだろうか。他ならぬ富士吉田で走るのであれば、案外、渋々にしろ、OKしたような気もする。そうなったとしても、一番隅っこで、いるのかいないのか分からないように走る。そんな像が浮かぶ。

 NHKの「聖火リレー」サイトに、大会組織委員会に提出された「志望動機」が掲載されている。


宮沢和史 Kazufumi Miyazawa

東京オリンピックの聖火ランナーとして、長距離走の選手だった学生時代を思い出しながら無心で走る私の姿を見ていただくことで、少しでも生まれ故郷に貢献できるのであれば嬉しい。

藤巻亮太 Ryota Fujimaki

東京オリンピックの聖火ランナーとして、歴史ある聖火を絶やさず、世界へ、そして次の世代へ向けてつないでいきたい。そして、世界中にふるさとの魅力を伝え、「YAMANSHI」ファンを増やしたい。


 宮沢の〈少しでも生まれ故郷に貢献できるのであれば嬉しい〉、藤巻の〈「YAMANSHI」ファンを増やしたい〉。二人とも故郷山梨への貢献を志望動機としている。この二人に劣らぬくらい(いや、それ以上に)故郷を大切にしていた志村のことだから、真面目でなおかつロック的な動機を書いたかもしれない。

 志村は先の日記で「富士山」もロックだと述べていた。理由は、富士山は火山活動で隆起し、〈地球の重力に逆らっているから〉らしい。だから、その富士山の裾野を聖火でリレーすることもロックだ、なんていう志望動機を考えたかもしれない。志村が聖火をリレーするなんて〈ないかな ないよな きっとね〉とも思うが、あるかな、あるよな、きっとね、とも想う。やるせない仮定の想像ではあるが、そのままここに記してみたかった。


 志村正彦が宮沢和史、藤巻亮太と一緒に富士吉田の道を走る。「聖火」をリレーする。その幻想は、宮沢和史、藤巻亮太、志村正彦と続いていく、山梨の「ロック」のリレーの光景でもある。


2021年6月27日日曜日

『桜の季節』ー「自分を映す鏡」から「やるせない」へ[志村正彦LN279]

 四月以降、『桜並木、二つの傘』、続けてNHKの番組新日本風土記「さくらの歌」で取り上げられたこともあり、『桜の季節』について書いてきた。すでに梅雨の日々、もうすぐ初夏の季節を迎えるので、今回でひとまず区切りたい。

 志村正彦は、アルバム『TEENAGER』に関連して次のように語っている。(『FAB BOOK』p89) 

歌詞は自分を映す鏡でもあると思うし、予言書みたいなものでもあると思うし、謎なんですよ。

 かなり前のことになるが、この発言について次のように書いた。[「鏡」「予言書」「謎」としての歌(志村正彦LN 9)]やや省略してまとめてみた。

歌詞を始め、言葉で表現された作品は、自分の内部にあった言葉が、声や文字として外部に現れ、形あるものとして定着されていく。表現後は、録音された声や印刷された文字は、作者から独立した作品となり、それを聴いたり読むことを通して、作品の方が逆に、作者自身に語りかけるようになる。内部から外部へという動きが逆転し、外部から内部へという動きが生まれる。それは、鏡面という外部にある自分の像がそれを見る自身に送り返される「鏡」というものに喩えられる働きであろう。志村正彦が言うように、歌詞そのものが「自分を映す鏡」となる。鏡に反射される自分の像との対話を重ねることで、新たな言葉や歌が創り出される。(中略)例えば『桜の季節』で、「桜の季節過ぎたら」「桜のように舞い散ってしまうのならば」というように、未来のある時点を設定したり、仮定したりして、物語を述べることが彼の歌の特徴の一つになっているということだ。未来の出来事やその仮定から始まり、逆に現在や過去の方へと遡っていくような、逆向きの時間の通路が敷かれている。そのような不思議な時間の感覚が存在していることが、「予言書みたないもの」という発言とどこかつながるのではないだろうか。

 「例えば」以下は、《志村正彦ライナーノーツ》で『桜の季節』の歌詞を引用して論じた初めての文章である。ここでは「自分を映す鏡」を〈鏡に反射される自分の像との対話を重ねることで、新たな言葉や歌が創り出される〉と捉えているが、『桜の季節』の〈不思議な時間の感覚〉が「予言書みたないもの」という発言につなげるところに論の中心がある。今回読み直してみて、〈鏡に反射される自分の像との対話を重ねる〉ということに立脚して、『桜の季節』をたどりなおしたらどうか、と考えた。


 「ohならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう/作り話に花を咲かせ/僕は読み返しては 感動している!」の「手紙」は投函されなかったが、「手紙」そのものは書かれた。つまり、自分が自分へと手紙を書いたのである。書き終わった時点で目的は達成される。手紙は自分のもとに留まる。その場合、手紙は「自分を映す鏡」のようなものになる。別の観点でいえば、手紙の書き手と読み手、差出人と宛先人は同一の人物、歌詞の中では「僕」という存在になる。『桜の季節』から〈鏡の中での手紙のやりとり〉という光景が浮かんでくるかもしれない。鏡に反射される自分の像との対話が重ねられる。さらに踏み込むのなら、「僕」という主体と「僕」の鏡像(分身として見てもよいかもしれない)との間で「手紙」が交換される、と考えられる。実際に有るものの交換ではなく、無いものの交換である。「作り話に花を咲かせ/僕は読み返しては 感動している!」というのは、そのような無いものの交換についての〈感動〉のような気がする。

 抽象的な考察になってしまったが、要は、『桜の季節』が、「僕」が「僕」に送った「手紙」の歌だということにある。その「手紙」そのものが「自分を映す鏡」となる。その鏡を前にして、「僕」は「作り話」に花を咲かせる。桜の季節の美しい花のように、鏡の中で言葉の花を咲かせる。歌詞の物語からはそういう解釈は成立しないだろうが、物語の解釈を超えた次元では、そのような隠された構造があるとも考えられる。志村正彦は意識的無意識的にそのような構造を創り上げた。そしてその構造についての一種の感情が、「やるせない」ではないだろうか。鏡像の中に自分が閉じこめられたとしたら、それはやるせない。

 「やるせない」は「遣る瀬無い」。なにかを「遣る」、どこかに行かせようとしても、その「瀬」、場所がない。心の中の想いを解き放とうとしてもその方法が見つからない。「瀬」は、流れが速く水深が浅い河川の場所を指すので、「遣瀬無い」という言葉自体から自然の光景が浮かび上がる。川の流れにまかせて解き放とうとしても、それが不可能なのだ。流れることなくいつまでもそこに滞留する。


 「桜のように舞い散って/しまうのならばやるせない」は四回繰り返される。「やるせない」の四度の反復は、合わせ鏡の像のように『桜の季節』の言葉の中で増殖していく。歌が終わった後でも、この「やるせない」のリフレインは続く。こころのなかでこだまする。志村正彦の感情、形容詞というべきものを抽出するとしたら、そのひとつはこの「やるせない」にたどりつくだろう。『桜の季節』はやるせない。


2021年6月20日日曜日

『桜の季節』と『Day Dripper』[志村正彦 LN278]

 前回、『桜の季節』のABCDという起承転結的な物語を新たに設定してみた。楽曲全体ではA→B→A→C→D→B→A→Aという展開になった。実際の歌では〈結・D〉の後に〈承・B〉が続いている。


D  坂の下 手を振り 別れを告げる/車は消えて行く
    そして追いかけていく/諦め立ち尽くす
    心に決めたよ

B  oh ならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう
   作り話に花を咲かせ/僕は読み返しては 感動している!


   「心に決めたよ 」「oh ならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう」という言葉の連接が生まれる。歌の主体「僕」は、諦め立ち尽くして心に決めた結果、「愛をこめて」「手紙をしたためよう」とする。そのようなストーリーが読みとれるだろうか。

 すでにこのブログに二度ほど引用したことがあるが、『桜の季節』の「手紙」について志村はこう語っている。(『音楽と人』2004年5月号、インタビュー:上野三樹)


 -しかも結局書いたけど出してないでしょ、この曲。

「そうです。手紙を書いて、そこで終了している曲です。」

 -そこでまたひとりになると。

「そうですね。」


 作者自身が「手紙を書いて、そこで終了している曲」だと述べている。手紙は投函されていない。「愛をこめて」手紙をしたためたのかもしれないが、結局、「手紙」は宛先人に届くことがない。つまり「愛」がそのまま言葉として伝わることはない。歌の主体は「そこでまたひとり」になる。

 『桜の季節』以外で「愛」という言葉が使われている歌詞は、『Day Dripper』と『Bye Bye』だけである。『桜の季節』の「愛をこめて」との関連からすると、 『Day Dripper』の次の一節が目にとまる。


  溢れ出してる 泉のように意味のない言葉
  それら全てにおいて 真実味はないぜ

  とらわれたように 愛を語ろう 粋なことを言おう
  だから立派な作家のように高い筆を買う


 この『Day Dripper』は志村が書いた歌詞の中でも難解なものである。いまだに意味はよくつかめないのだが、そのような場合、言葉そのものの動き方や作用の仕方を受けとめるしかない。題名からすると、ビートルズの『Day Tripper」(デイ・トリッパー)も連想される。『Day Dripper』もまるでトリップしたかような不思議な世界を歌っている。

 『Day Dripper』の「Dripper」「ドリッパー」から思いつくのは、やはり、コーヒードリッパーだろう。歌詞の中に「コーヒーにミルクが混ざる時みたいに」という一節もある。コーヒーを抽出させるという機器との関連からすると、「Day Dripper」は一日の出来事を抽出する働きをするものだろう。そう捉えると、「溢れ出してる 泉のように意味のない言葉」から、コーヒードリッパーから注ぐコーヒーが器から溢れ出していくというイメージが浮かんでくる。一日の終わりに、意味のない言葉が頭から溢れ出してくるのだろう。その言葉は「それら全てにおいて 真実味はないぜ」ということに帰結する。そうなると、「とらわれたように 愛を語ろう 粋なことを言おう/だから立派な作家のように高い筆を買う」もかなりアイロニーの響きを帯びてくる。「愛を語ろう」とするのも、おそらく、「意味」や「真実味」のない行為なのだ。


 志村正彦は『音楽とことば ~あの人はどうやって歌詞を書いているのか~』( SPACE SHOWER BOOks 2009/03/25 )で次のように語っていた。 (取材と文/青木優)


ただ、その「茜色の夕日」にしても、ストレートに「好きだ」と告白している歌ではないですよね。そこまでその娘に対する想いがリアルなのであれば、そうなってもいいはずなのに、志村くんには、まったくそういう曲がない。

 僕に「愛してる」とか「好きだ」みたいな歌詞がない理由というのは、自分でもわかってます。それは僕の中にある醒めた客観視、「んなこと言われても!」って考えのせいなんですね。だって、僕がそういう曲を聴いた際の感想というのは、「へえ―、そうですか、愛してるんですか」っていう程度のものでしかないんですけど、場合によっては、「え、好きだからなんなんですか?」「愛してるからなんなんですか?」「ちなみにその愛の内容は、どういうことを経験しての愛なんですか?」みたいな詮索がスタートしてしまう。で、結局最後は「だったら愛してればいいじゃん!満たされてんだったらなんで曲なんか作んの?」みたいなことになっちゃうんですよ。

 でも、それと同時に、僕が自分に対してまだ一流だと思えない理由というのも、そこにあったりするんです。愛してるってことが歌えないからこそ、一流になれないというか。だって、それを歌えるアーティスト、たとえばミスチルみたいなアーティストというのは、やっぱりそのぐらい自分に自信があるんでしょうし、いろんな愛を歌うことで、世間をハートマークだらけにしていく自信があるってことじゃないですか。でも、残念ながら、僕にはそれがない。そういう自信がないからこそ、「愛してる」が書けていないとも言えますね。寂しいことですけど。


 「愛してる」「好きだ」という言葉に対する〈醒めた客観視〉、そう歌うことについての〈自信がない〉という認識。そのような自己認識、醒めた客観視は、志村の歌詞から「愛」という言葉を遠ざけていった。仮に使われるとしても(三例しかないのだが)、『桜の季節』の「ならば愛をこめて」「手紙をしたためよう」も、『Day Dripper』の「とらわれたように 愛を語ろう」も、直接的な愛の表現ではなく、そもそも「よう」「う」という文末が示しているように、願望の表現にすぎない。志村は「愛」という言葉を自らに禁じているようにもみえる。

2021年6月14日月曜日

「坂の下~心に決めたよ」の部分-『桜の季節』[志村正彦LN277]

  2019年7月の志村正彦没後10年『FAB BOX III 上映會』(『FAB BOX III 』)についての文(7月6日『FAB BOX III 上映會』[志村正彦LN224])で次のように書いたことがある。

5周年ツアー時の『桜の季節』は歌詞の一部(坂の下 手を振り 別れを告げる/車は消えて行く そして追いかけていく/諦め立ち尽くす 心に決めたよ)が歌われなかった。なぜだろうか。歌詞の流れからするとこの箇所は必要がないかもしれない。かねてからそう考えていたのでこの改変には納得できたのだが、どういう意図からそうしたのかという関心を持った。

 こう書いてそのままにしておいたのだが、確認のために『Official Bootleg Movies of “デビュー5周年ツアーGoGoGoGoGoooood!!!!!”』のDVDを見てみると、この「坂の下~心に決めたよ」の場面で、志村はマイクを観客席の方に向けている。つまり、この部分を観客に歌わせる意図があったようだ。広い画角の映像で確認は難しいのだが、志村の口元に注意すると、自分で歌詞を口ずさんでいるように見える。この場面の終わりになる頃にマイクを自分の方に回転させようとするのだが、「心に決めたよ」の時にもう一度マイクを観客側に向け直し、そして、最後に自分の方に向けている。観客側の声は最初は小さかったが、「心に決めたよ」のところでは大きなものとなっていた。

 全国8会場で10公演が開催されたデビュー5周年ツアーの最後の曲は、メジャーデビュー曲の『桜の季節』だったようだが、毎回、この「坂の下 手を振り~心に決めたよ」の箇所でマイクを観客に向けるパフォーマンスが行われたのかは確認できないが、おそらくそうだったのだろう。デビューから5周年、さらなる飛躍にむけて、「心に決めたよ」という意志を観客と共有したかったのだろうか。

 「oh その町に くりだしてみるのもいい/桜が枯れた頃 桜が枯れた頃」が『桜の季節』の起承転結〈A起・B承・C転・D結〉の〈D結〉にあるというのが僕の基本的な見方だった。この一節に、歌の主体そして志村正彦のパッション(情念・受苦)が最大限に込められているからだ。未来の出来事(そう想定されるかもしれない)ラストシーンである。しかし、別の捉え方もあるだろう。「坂の下~心に決めたよ」の別離の場面をラストシーンとする考えである。その場合、歌詞の展開順の通り、この部分が、〈A起・B承・C転・D結〉の〈D結〉となる。そうなると、以前書いた「歌詞の流れからするとこの箇所は必要がないかもしれない」という見方が修正されることになる。リフレインの部分を取り除いて、歌詞を整理してみよう。色分けした説明図も示したい。


A  桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい?
    桜のように舞い散って/しまうのならばやるせない

B  oh ならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう
   作り話に花を咲かせ/僕は読み返しては 感動している!

C  oh その町に くりだしてみるのもいい
    桜が枯れた頃 桜が枯れた頃

D  坂の下 手を振り 別れを告げる/車は消えて行く
    そして追いかけていく/諦め立ち尽くす
    心に決めたよ




 このABCDの構成で、起承転結的な物語を読むとしたら、どのようになるだろうか。ABCは、過去のある時点での未来の出来事の仮定による想像、Dが現在時点で、〈振り〉〈告げる〉〈消えて行く〉〈追いかけていく〉〈諦め立ち尽くす〉という現在形の動詞の連続が〈心に決めたよ〉という動詞の完了形で完結していく。〈心に決めたよ〉がこの歌の中心、起承転結の結であるのなら、何を心に決めたのか、という問いが当然浮かび上がるが、この歌詞の中でその答えを求めるのであれば、心に決めたものはABCの内容そのものだ、ということになるだろう。歌の展開としては、「諦め立ち尽くす/心に決めたよ」のすぐ後に「oh ならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう」と続き、この二つは繋がっているようにも聞こえる。つまり、「心に決めたよ」という歌詞内の世界での現在時のDの決意から、それ以前の過去の時点へと回帰するのだ。そうなると、「oh ならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう」、さらに「oh その町に くりだしてみるのもいい/桜が枯れた頃 桜が枯れた頃」という行為を〈心に決めたよ〉という解釈の流れが成立する。「oh」は決意の表明の叫びとも考えられる。実際の歌でも、DのあとでB→A→Aとリフレインされている。楽曲全体ではA→B→A→C→D→B→A→Aという展開になる。

 それにしてもここには、現在から過去へと遡るという時間のねじれのようなものがある。起点としての過去から現在へ、その現在から過去へと時間が遡り、その過去から再び未来へ。その過去の時点で、未来の〈手紙をしたためよう〉〈その町にくりだしてみるのもいい〉という行為を仮定し想像している。歌の主体「僕」は〈桜の季節〉につながる想いや行為のすべてを〈心に決めたよ〉と伝える。この「僕」は作者志村正彦の分身であろう。『桜の季節』には時間の循環のような謎めいた複雑な構造がある。

                          (この項続く)


2021年6月6日日曜日

『桜の季節』の眼差し[志村正彦LN276]

 前回は、BSプレミアムの新日本風土記スペシャル「さくらの歌」での志村正彦・フジファブリックの『桜の季節』の取り上げ方について問いを投げかけた。これは、『桜の季節』という歌がそもそも捉えにくいことにも起因しているかもしれない。この歌はこのブログで繰り返し語ってきた。『若者のすべて』もそうなのだが、歌の世界をたどりきれないようなもどかしさがある。だからこそ何度も書いてきたのだが、志村正彦の作った「桜の季節」の「迷宮」に迷い込んでいるようでもある。

 歌詞について再考してみたい。この歌詞は三つの部分に分けられる。青色、黄色、赤色、に分けて図示してみよう。図1は歌詞を三つの部分に色分けして並べたもの、図2は構造を簡潔に図示したもの。(Google スライドをPNG画像に変換して添付したので、鮮明さにかけることをお断りします。クリックすれば見やすくなります)

図1

図2


 青色の部分が主要なモチーフであり、分量的には歌詞の大半を占めている。『桜並木、二つの傘』分析の際に参照した荒川洋治の〈詩の基本的なかたち〉をここで再度紹介したい。

 詩は、基本的に、次のようなかたちをしている。
     こんなことがある       A
   そして、こんなこともある   B
   あんなこともある!      C
   そんな ことなのか      D

 いわゆる起承転結である。Aを承けて、B。Cでは別のものを出し場面を転換。景色をひろげる。大きな景色に包まれたあとに、Dを出し、しめくくる。たいていの詩はこの順序で書かれる。あるいはこの順序の組み合わせ。はじまりと終わりをもつ表現はこの順序だと、読者はのみこみやすい。

 このABCD(起承転結)による〈詩の基本的なかたち〉を『桜の季節』の青色の部分にあてはめてみよう。色々な分析の仕方があるだろうが、以下はあくまでも僕の観点によるものである。

A  桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい?
B  桜のように舞い散って/しまうのならばやるせない
C  oh ならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう
D  作り話に花を咲かせ/僕は読み返しては 感動している!

 この青色の部分には、ABCD、やや変則的であるが起承転結の展開がある。「桜の季節過ぎたら」という近い未来に時を設定し、歌の主体「僕」は誰とも分からない他者に対して、「遠くの町」に「行くのかい?」と問いかける。そして、「桜のように舞い散って/しまうのならば」という仮定のもとに「やるせない」いう感情を歌いあげる。その未来の想像の出来事を「oh ならば」とさらに仮定して受けとめた上で、「愛をこめて」「so 手紙をしたためよう」という意志を告げるのだが、その手紙では「作り話に花を咲かせ」ている。「僕は読み返しては 感動している!」という多分にアイロニカルな表現は、おそらく、この手紙が投函されないことを伝えている。「やるせない」という感情はあるのだが、その感情も桜についての伝統的な感性、桜の美学的なものからはかなり隔たっている。この「やるせない」はむしろ、「遠くの町」「手紙」というモチーフの方に強く関わるとも読める。この青色の部分で気になる表現は「愛をこめて」だろう。この「愛」については後述したい。

 黄色の部分はこうなるだろうか。

A  ( 桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい? )
B  ( 桜のように舞い散って/しまうのならばやるせない )
C oh その町に くりだしてみるのもいい
D 桜が枯れた頃 桜が枯れた頃

 ABの部分は(桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい?)(桜のように舞い散って/しまうのならばやるせない)が省かれ、CDの部分だけが言葉として語られていると考えてみたい。歌の主体「僕」の相手である他者が「行く」「遠くの町」が「その町」なのだろう。「くりだしてみるのもいい」とあるから、ここでも未来の時が設定されている。その未来の時点は「桜が枯れた頃」という季節だ。「桜が枯れた頃」という季節についてはすでに何度か考察してきた。

 赤色の部分は、歌の主体「僕」が経験した現在に近い過去の出来事を語っている。「坂の下」で「別れを告げる」という場面が描かれている。

A 坂の下 手を振り 別れを告げる
B 車は消えて行く/そして追いかけていく
C 諦め立ち尽くす
D 心に決めたよ

 「手を振り 別れを告げる」「追いかけていく」「諦め立ち尽くす」という現在形の動作の主体は「僕」であろう。「心に決めたよ」の「た」という過去の助動詞がこの一連の動作を完結させている。「諦め」が「僕」の想いの中心にある。この部分では、歌の主体「僕」は、場面の中にいる「僕」を対象化して眼差している。

 青色と秋色の部分には現在から近い未来へという方向の眼差しがあり、赤色の部分には近い過去から現在へと到る眼差しがある。

        (この項続く)