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2021年7月11日日曜日

「Anthem」の〈一人〉[志村正彦LN281]

 昨日7月10日は、志村正彦の誕生日。祝福するtweetが数多く寄せられていた。富士吉田では「若者のすべて」のチャイムが流され、それを報道するニュースや記事があった。母校の吉田高校でも合唱曲にするプロジェクトが進んでいるようだ。さまざまな人々がそれぞれの場所で活動している。これもまた祝福すべきだろう。

 僕の場所はこの偶景web。もうひとつ、文学の教育と研究の場もある。〈志村正彦ライナーノーツLN〉の開始時には300回をひとつの目標にした。あと20回ほどでその回数に達するが、これまで取り上げた曲を数えるとまだ31曲。今後はこれまで書いたことのない作品についてできるだけ試みていきたい。

 今日は「Anthem」。2009年5月20日、フジファブリック4枚目のアルバム『CHRONICLE』に収録され発表された。2019年、『FAB LIST 1』の投票で15位となり、同名のアルバムに収められた。アンセムは祈りの歌、祝いの歌である。誕生日の祝福tweetを見て、なんとなくこの曲にしようと思った。『FAB LIST 1』の音源を聴いたのだが、リマスタリング音源となり、想像以上に楽器の音像はクリアになっている。まず全歌詞を引用したい。


 Anthem 
       作詞・作曲:志村正彦

三日月さんが 逆さになってしまった
季節変わって 街の香りが変わった
気もしない ない ない ない ない ない ない ないか
まだ ない ない ない ない ない ない ない ないか

闇の夜は 君を想う
それら ありったけを 描くんだ

鳴り響け 君の街まで
闇を裂く このアンセムが

何年間で遠く離れてしまった
いつでも君は 僕の味方でいたんだ
でも いない いない いない いない いない いない いない いないや
もう いない いない いない いない いない いない いない いないや

行かないで もう遅いかい?
鳴り止まぬ何かが 僕を襲う

轟いた 雷の音
気がつけば 僕は一人だ

このメロディーを君に捧ぐ
このメロディーを君に捧ぐ

鳴り響け 君の街まで
闇を裂く このアンセムが

轟いた 雷の音
気がつけば 僕は一人だ


 フレーズごとにたどっていこう。〈三日月さんが 逆さになってしまった〉は、三日月からその逆さの二十六夜月への変化の時間を伝えているのだろうか。そうであれば、二十数日が経っていることになる。また、二十六夜月は夜中の1時から3時の間に上るので、この歌の舞台が深夜であることを示しているのかもしれない。〈季節変わって 街の香りが変わった〉とあるので、この月の満ち欠けの三十日ほどの間に季節が変わったのだろう。

 しかし、歌の主体〈僕〉は〈気もしない ない ない ない ない ない ない ないか〉〈まだ ない ない ない ない ない ない ない ないか〉と呟く。何に対して〈気もしない〉と言うのか。三日月や季節の変化はおそらく確かなことだろうから、直前の〈街の香りが変わった〉を指していると考えるのが妥当だろう。そうすると、〈街の香りが変わった〉〈気もしない〉〈ないか〉〈まだ〉〈ないか〉というようにつながる。〈街の香りが変わった〉気がする、気がしない、そして、気がしないか、まだ気がしないか。その逡巡が〈僕〉に訪れている。それぞれのフレーズで、〈ない〉が八回繰り返されている。この〈ない〉の反復は、歌の主体〈僕〉の自分自身の感覚に対する疑いやとまどいを示すものなのか。解釈が難しい。

 〈闇の夜〉という深夜、〈僕〉は〈君を想う〉。君への想いを〈ありったけを 描くんだ〉と自分に言い聞かせる。その想いを託した〈アンセム〉が、深夜の〈闇を裂く〉ようにして、〈君の街〉まで〈鳴り響け〉と叫んでいる。

 〈何年間で遠く離れてしまった〉〈いつでも君は 僕の味方でいたんだ〉というのが、歌の主体〈僕〉の想いの中心にある。〈でも いない いない いない いない いない いない いない いないや〉〈もう いない いない いない いない いない いない いない いないや〉と、〈でも〉〈いないや〉と〈もう〉〈いないや〉というように〈君〉の喪失が歌われている。ここでも、それぞれのフレーズで〈ない〉が八回繰り返されている。この〈ない〉の連続は、「若者のすべて」の〈ないかな ないよな きっとね いないよな〉の数度の反復を想起させる。志村正彦の「Anthem」は〈ない〉ことのアンセムのように響く。

 〈行かないで もう遅いかい?〉〈鳴り止まぬ何かが 僕を襲う〉という直截な表現は、〈轟いた 雷の音〉の強烈な音に促されたのだろうか。雷鳴の音に突き動かさるようにして、〈僕〉は君のいる場所に飛び立っていきたいのだが、そこには〈君〉は〈もう〉〈いない〉。雷鳴が過ぎ去った後で、〈気がつけば 僕は一人だ〉という静けさのなかに歌の主体〈僕〉は取り残される。


 「Anthem」とは対照的な静かで穏やかな曲調の「セレナーデ」が浮かんできた。「セレナーデ」では〈木の葉揺らす風〉の音が〈セレナーデ〉になっていた。〈明日は君にとって 幸せでありますように/そしてそれを僕に 分けてくれ〉という祈りが、〈そろそろ 行かなきゃな お別れのセレナーデ/消えても 元通りになるだけなんだよ〉という別れの言葉と共に歌われていた。「Anthem」では〈轟いた 雷の音〉が〈アンセム〉に変わる。〈気がつけば 僕は一人だ〉が〈このメロディーを君に捧ぐ〉と歌われる。

 志村正彦の歌の主体〈僕〉は、つねにすでに、〈一人〉でいる。〈一人〉でいることが、 〈メロディー〉を「セレナーデ」や「Anthem」の言葉を〈君〉へと送り届ける条件、前提であるかのように、志村は歌を作っている。

 アンセムは祈りの歌、祝いの歌。この「Anthem」も〈君〉への祈り、祝福の歌であろう。しかし、〈気がつけば 僕は一人だ〉という一節をどう受けとめていいのか、考えあぐねた。ここには深い孤独が描かれている。アンセムとどう関わるのか。

 作者志村自身が伝えたいことから離れてしまうのだろうが、〈僕は一人だ〉としても〈僕は一人だ〉ということをあえて祝う、という考えが浮かんできた。〈僕は一人だ〉ということを祝福するというのは誤解されかねない解釈だが、今ここで〈一人〉でいることが現実であるのならば、その現実をそのまま受けとめる、ある意味では肯定する、というように捉えてみるのはどうだろうか。喪失を喪失として、〈一人〉でいることを〈一人〉でいることとして、ありのままを受けいれること。志村正彦の「Anthem」にはそのような強さも感じるのだ。雷鳴のように轟く烈しいもの。〈一人〉ではあるがその〈一人〉であることをそのまま受容する強い意志。冒頭の一節「三日月さんが 逆さになってしまった」のように、何かを逆さにする方向性がこの「Anthem」には貫かれていないだろうか。そもそも、〈闇の夜〉という設定自体が通常のアンセムの背景となる時間帯を逆転させている。そう考えるならば、この「Anthem」は〈君〉へのアンセムであると同時に、〈一人〉でいることへのアンセムにもなる。


 志村正彦の多くの歌からは、〈一人〉でいることの寂寥感が伝わってくる。しかし、その寂寥感を超えていくものも歌われている。そのような、気もしない、だろうか。


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