志村正彦は、『FAB BOOK』の「若者のすべて」について触れた箇所で、歌詞について非常に印象深いことを述べている。
歌詞は自分を映す鏡でもあると思うし、予言書みたいなものでもあると思うし、謎なんですよ
作品というものは、LN6で書いたように、「歌を創造した作者にとっても、歌が完成した時点で、その歌はある意味では作者から離れ、一つの作品として自立していく」。歌詞を始め、言葉で表現された作品は、自分の内部にあった言葉が、声や文字として外部に現れ、形あるものとして定着されていく。表現後は、録音された声や印刷された文字は、作者から独立した作品となり、それを聴いたり読むことを通して、作品の方が逆に、作者自身に語りかけるようになる。内部から外部へという動きが逆転し、外部から内部へという動きが生まれる。それは、鏡面という外部にある自分の像がそれを見る自身に送り返される「鏡」というものに喩えられる働きであろう。志村正彦が言うように、歌詞そのものが「自分を映す鏡」となる。鏡に反射される自分の像との対話を重ねることで、新たな言葉や歌が創り出される。
「予言書みたいなもの」という言葉は、すでに彼の生涯を知っている現在という時点では、彼の歌を愛する人々に、深い悲しみとある種の驚きをもたらすであろう。彼の死という厳然たる事実から、彼の詩の言葉をすべて意味づけるような行為については慎重にならなければならない。だがそれでも、彼の言葉から、志村正彦の生涯の軌跡とまではいかないまでも、その道筋の断片のようなものが、あらかじめ歌われているような、不思議な想いが起きることが私にはある。中原中也を始めとする夭折した詩人の優れた作品から同様のことを感じる。
この言葉の解明など、もちろん不可能なのだが、ただ一つ言えることは、例えば『桜の季節』で、「桜の季節過ぎたら」「桜のように舞い散ってしまうのならば」というように、未来のある時点を設定したり、仮定したりして、物語を述べることが彼の歌の特徴の一つになっているということだ。未来の出来事やその仮定から始まり、逆に現在や過去の方へと遡っていくような、逆向きの時間の通路が敷かれている。そのような不思議な時間の感覚が存在していることが、「予言書みたないもの」という発言とどこかつながるのではないだろうか。そのような仮定ができるだけである。
志村正彦が「予言書みたいなもの」と思った理由や経緯は、彼自身にしか分からない、というか、彼にとっても分からない「謎」であったのだろう。そのことは私たちにとっても、「問い」として存在し続けている。「自分を映す鏡」から始まり、「予言書みたいなもの」そして「謎」で締め括られる言葉の連なりから、彼が歌詞についてどのような思考を回らしていたのか、その輪郭が浮かび上がってくる。
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