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2021年6月20日日曜日

『桜の季節』と『Day Dripper』[志村正彦 LN278]

 前回、『桜の季節』のABCDという起承転結的な物語を新たに設定してみた。楽曲全体ではA→B→A→C→D→B→A→Aという展開になった。実際の歌では〈結・D〉の後に〈承・B〉が続いている。


D  坂の下 手を振り 別れを告げる/車は消えて行く
    そして追いかけていく/諦め立ち尽くす
    心に決めたよ

B  oh ならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう
   作り話に花を咲かせ/僕は読み返しては 感動している!


   「心に決めたよ 」「oh ならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう」という言葉の連接が生まれる。歌の主体「僕」は、諦め立ち尽くして心に決めた結果、「愛をこめて」「手紙をしたためよう」とする。そのようなストーリーが読みとれるだろうか。

 すでにこのブログに二度ほど引用したことがあるが、『桜の季節』の「手紙」について志村はこう語っている。(『音楽と人』2004年5月号、インタビュー:上野三樹)


 -しかも結局書いたけど出してないでしょ、この曲。

「そうです。手紙を書いて、そこで終了している曲です。」

 -そこでまたひとりになると。

「そうですね。」


 作者自身が「手紙を書いて、そこで終了している曲」だと述べている。手紙は投函されていない。「愛をこめて」手紙をしたためたのかもしれないが、結局、「手紙」は宛先人に届くことがない。つまり「愛」がそのまま言葉として伝わることはない。歌の主体は「そこでまたひとり」になる。

 『桜の季節』以外で「愛」という言葉が使われている歌詞は、『Day Dripper』と『Bye Bye』だけである。『桜の季節』の「愛をこめて」との関連からすると、 『Day Dripper』の次の一節が目にとまる。


  溢れ出してる 泉のように意味のない言葉
  それら全てにおいて 真実味はないぜ

  とらわれたように 愛を語ろう 粋なことを言おう
  だから立派な作家のように高い筆を買う


 この『Day Dripper』は志村が書いた歌詞の中でも難解なものである。いまだに意味はよくつかめないのだが、そのような場合、言葉そのものの動き方や作用の仕方を受けとめるしかない。題名からすると、ビートルズの『Day Tripper」(デイ・トリッパー)も連想される。『Day Dripper』もまるでトリップしたかような不思議な世界を歌っている。

 『Day Dripper』の「Dripper」「ドリッパー」から思いつくのは、やはり、コーヒードリッパーだろう。歌詞の中に「コーヒーにミルクが混ざる時みたいに」という一節もある。コーヒーを抽出させるという機器との関連からすると、「Day Dripper」は一日の出来事を抽出する働きをするものだろう。そう捉えると、「溢れ出してる 泉のように意味のない言葉」から、コーヒードリッパーから注ぐコーヒーが器から溢れ出していくというイメージが浮かんでくる。一日の終わりに、意味のない言葉が頭から溢れ出してくるのだろう。その言葉は「それら全てにおいて 真実味はないぜ」ということに帰結する。そうなると、「とらわれたように 愛を語ろう 粋なことを言おう/だから立派な作家のように高い筆を買う」もかなりアイロニーの響きを帯びてくる。「愛を語ろう」とするのも、おそらく、「意味」や「真実味」のない行為なのだ。


 志村正彦は『音楽とことば ~あの人はどうやって歌詞を書いているのか~』( SPACE SHOWER BOOks 2009/03/25 )で次のように語っていた。 (取材と文/青木優)


ただ、その「茜色の夕日」にしても、ストレートに「好きだ」と告白している歌ではないですよね。そこまでその娘に対する想いがリアルなのであれば、そうなってもいいはずなのに、志村くんには、まったくそういう曲がない。

 僕に「愛してる」とか「好きだ」みたいな歌詞がない理由というのは、自分でもわかってます。それは僕の中にある醒めた客観視、「んなこと言われても!」って考えのせいなんですね。だって、僕がそういう曲を聴いた際の感想というのは、「へえ―、そうですか、愛してるんですか」っていう程度のものでしかないんですけど、場合によっては、「え、好きだからなんなんですか?」「愛してるからなんなんですか?」「ちなみにその愛の内容は、どういうことを経験しての愛なんですか?」みたいな詮索がスタートしてしまう。で、結局最後は「だったら愛してればいいじゃん!満たされてんだったらなんで曲なんか作んの?」みたいなことになっちゃうんですよ。

 でも、それと同時に、僕が自分に対してまだ一流だと思えない理由というのも、そこにあったりするんです。愛してるってことが歌えないからこそ、一流になれないというか。だって、それを歌えるアーティスト、たとえばミスチルみたいなアーティストというのは、やっぱりそのぐらい自分に自信があるんでしょうし、いろんな愛を歌うことで、世間をハートマークだらけにしていく自信があるってことじゃないですか。でも、残念ながら、僕にはそれがない。そういう自信がないからこそ、「愛してる」が書けていないとも言えますね。寂しいことですけど。


 「愛してる」「好きだ」という言葉に対する〈醒めた客観視〉、そう歌うことについての〈自信がない〉という認識。そのような自己認識、醒めた客観視は、志村の歌詞から「愛」という言葉を遠ざけていった。仮に使われるとしても(三例しかないのだが)、『桜の季節』の「ならば愛をこめて」「手紙をしたためよう」も、『Day Dripper』の「とらわれたように 愛を語ろう」も、直接的な愛の表現ではなく、そもそも「よう」「う」という文末が示しているように、願望の表現にすぎない。志村は「愛」という言葉を自らに禁じているようにもみえる。

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