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2021年8月8日日曜日

独りで行くと決めたのだろう-「浮雲」1 [志村正彦LN285]

 「お月様のっぺらぼう」「午前3時」と、月をモチーフとする作品を続けて取り上げたが、1stミニアルバム 『アラカルト』には〈満ちる欠ける月〉を歌った「浮雲」という曲がある。この曲も「フジファブリック Official Channel」で公開されている。

 浮雲 · FUJIFABRIC
 アラカルト ℗ 2002 Song-Crux Released on: 2002-10-21
 Lyricist: Masahiko Shimura Composer: Masahiko Shimura

 演奏は、Vo.Gt. 志村正彦、Key.田所幸子、Dr.Cho.渡辺隆之、サポートメンバーGt.萩原彰人、Ba.Cho.加藤雄一の五人。



 以前にも紹介したが、荒川洋治は〈詩の基本的なかたち〉について、起承転結を示すABCDの記号を使って、〈Aを承けて、B。Cでは別のものを出し場面を転換。景色をひろげる。大きな景色に包まれたあとに、Dを出し、しめくくる。たいていの詩はこの順序で書かれる。あるいはこの順序の組み合わせ。はじまりと終わりをもつ表現はこの順序だと、読者はのみこみやすい〉と述べている。(『詩とことば』岩波書店2004)


 「浮雲」にも、この起承転結のかたちがある。ABCDの記号を付けた上で引用したい。


    浮雲 (作詞・作曲:志村正彦)

 1A  登ろう いつもの丘に 満ちる欠ける月
 1B  僕は浮き雲の様 揺れる草の香り
 1C  何処ぞを目指そう 犬が遠くで鳴いていた
 1D  雨で濡れたその顔に涙など要らないだろう

 2A  歌いながら歩こう 人の気配は無い
 2B  止めてくれる人などいるはずも無いだろう
 2C  いずれ着くだろう 犬は何処かに消えていた
 2D  雨で濡れたその顔に涙など要らないだろう

 3AB
   3C  消えてしまう儚さに愛しくもあるとしても
   3D  独りで行くと決めたのだろう
 3D  独りで行くと決めたのだろう


 1ABと2ABは、《起》と《承》の部分である。歌の主体〈僕〉が〈登ろう〉とする〈いつもの丘〉は、志村正彦が子供の頃から親しんでいた新倉山浅間神社・公園のある丘である。いわずとしれた、桜の名所でもある。〈僕〉は〈満ちる欠ける月〉の光景のもとで、〈浮き雲〉のように漂い、彷徨うにして、〈揺れる草の香り〉に導かれて、丘を登る。〈僕〉は〈歌いながら歩こう〉とする。〈人の気配は無い〉〈止めてくれる人などいるはずも無いだろう〉というように、この丘には誰もいない。〈僕〉の歌が誰かに聞こえることはない。

 今でこそ、この新倉山浅間神社・公園は観光名所になっているが、十年ほど前までは地元の人にとっての場であった。「浮雲」の〈いつもの丘〉は静かな丘であり、夜ともなれば寂しい場所でもあった。

 1Cと2Cには、〈犬〉が登場する。〈何処ぞを目指そう〉から〈いずれ着くだろう〉という〈僕〉が歩く時間の経過と共に、〈犬〉も〈遠くで鳴いていた〉から〈何処かに消えていた〉というように、その姿を消していく。犬の吠え声が《転》、歌の転換点となり、1Dと2Dの〈雨で濡れたその顔に涙など要らないだろう〉という《結》の表現が現れる。

 〈いつもの丘〉に雨が降る。雨雲が漂い、その切れ間で〈月〉は〈満ちる欠ける〉。月光のかすかな明かりと暗がりが交錯する情景。〈雨〉に濡れる〈僕〉の〈顔〉。〈涙など要らないだろう〉というのは、〈涙〉が無いことを示しているのではない。〈いつもの丘〉の陰影の濃い情景を背景に、〈僕〉の心の中で陰影のある〈涙〉が静かにこぼれる。

 1のABCDと2のABCDは同一の構造であり、起承転結の物語を作っている。志村正彦の作品には、「茜色の夕日」の〈晴れた心の日曜日の朝/誰もいない道 歩いたこと〉、「若者のすべて」の〈すりむいたまま 僕はそっと歩き出して〉を始めとして、《歩行》のシーン、モチーフが多い。その《歩行》の原点となる場が、この〈いつもの丘〉ではないだろうか。この丘の近くで志村正彦は生まれ育っている。この丘の近くを散歩し、時にこの丘を登ったようだ。

 3のABは言葉としては表れていないが、1ABCDと2ABCDの物語が含意されていると考えたい。それを受けて、3Cの〈消えてしまう儚さに愛しくもあるとしても〉が登場する。〈消えてしまう儚さ〉という表現は、漂い、移ろい、どこかに消えていく〈浮雲〉のイメージから導かれたのだろう。おそらく〈僕〉は故郷を離れようとしている。離れようとする故郷の〈いつもの丘〉の光景を、儚きもの、愛しきものとして受けとめている。そしていくぶんかは、自分自身を儚きものとして感じとっているのだろう。〈僕は浮き雲の様〉であるのだから。

 3Cによる《転》によって、3Dの〈独りで行くと決めたのだろう〉という問いが生じる。この3Dの言葉が「浮雲」全体の《結》となる。これは〈僕〉の〈僕〉自身に対する問いかけである。故郷から独りで出て行く、そう決めたことを繰り返し問いかけたのではないだろうか。その問いかけには、自分を納得させようとする、自分に言い聞かせようとする響きもある。ためらいや後ろ髪を引かれる思いがあったのかもしれない。そうであっても、〈僕〉はやはり〈独りで行く〉ことに決めたのだ。

 そう〈あるとしても〉、こう〈決めた〉の〈だろう〉という語り口は、きわめて志村らしい。この仮定と帰結、それについての自らの問いかけという話法を、志村は繰り返し用いた。たとえば、「桜の季節」では〈桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい?〉という別離についての仮定と帰結、その問いかけが歌われている。そして〈ならば愛をこめて/手紙をしたためよう〉と、この歌にも〈愛〉が表現されている。また、「桜の季節」の舞台も「浮雲」の〈いつもの丘〉だと考えることもできる。「浮雲」と「桜の季節」という作品は、その物語も風景も異なるが、志村正彦の出郷、故郷を離れて他の地へ出て行くことを表した二つの歌だと言えるかもしれない。 


 「浮雲」を聴くといつも感じることがある。志村正彦の〈独りで行くと決めたのだろう〉という声のただならぬ寂寥感だ。それは痛ましいほど痛切に孤独に響く。「浮雲」の歌詞を追っていっても、この表現を了解することは難しい。この歌の核心にはたどりつけない。そんな思いにとらわれる。


2 件のコメント:

  1. 納得。今も尊敬する大好きな志村正彦君。生きてるときに逢いたかった。

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    1. 投稿、ありがとうございます。返信が遅くなりまして、すみません。
      僕も、彼のライブを一度でよいから聴いてみたかったです。「花」「夜汽車」「ルーティーン」などの静かな曲をアコースティックギターを奏でて歌う志村さんを見ることが、かなうことのない夢です。

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