2013年も今日で終了となります。一昨日、この《偶景web》のページビューが40,000を超えました。このブログ自体は昨年12月末の開設ですが、実質的に始まったのは3月からなので、10ヶ月で4万ビューという数になります。数字に少しこだわりがある理由は、この数が、志村正彦の歌への関心を示す数値の一端になるかもしれないからです。
毎日、ツイッターやブログで彼についての語らいが書き込まれています。そのたくさんの語らいの中で、私たちの《偶景web》もわずかばかりの「位置」を獲得することを目標に書き続けてきました。
形式はチームブログですが、週に1,2回発行のネット上の「志村正彦リトルマガジン」(デジタル大辞泉によれば、「リトルマガジン」は「少数の読者を対象として、主に実験的、前衛的な作品を載せる非営利的な文芸・評論雑誌」を指します。実質がまだ伴っていませんが、目標となるコンセプトです)を目指しています。特に、「志村正彦ライナーノーツ(LN)」は、1回の分量が多く、表現力の限界ゆえに、分かりにくい文も入り込んでいるので、それにも拘わらず、読んでいただいている方には本当に感謝を申し上げます。
この一年、私の「志村正彦LN」が66回、藤谷怜子の「ここはどこ?-物語を読む」が6回、「《偶景web》について」が今回を含め4回、計76回、5日に1回のペースでの掲載となりました。書きたいことはたくさんありますが、現状ではこのペースで精一杯です。持続することが肝心なので、それを果たすことは何とかできているでしょうか。
ただし、取り上げた歌は、私の方が『若者のすべて』『ペダル』『夜明けのBEAT』の3曲、藤谷の方が『Surfer King』『Strawbarry Shortcakes』『打ち上げ花火』『ないものねだり』の4曲ということで、合わせても7曲にしかなりません(テーマ的にあるいは間接的に言及した曲は他にもありましたが)。「志村正彦LN」では彼に関わるイベントや番組、ゆかりの深い音楽家のライブや作品についても積極的に書いてきたので、この曲数となりましたが、それにしても遅々たる歩みではあります。彼の曲数には限りがあるという現実からすると、ゆっくりとしっかりと味わうように考えるように歩き続ける方がいいのだと自分に言い聞かせてはいますが。
最後に、今年の現実の出来事を振り返りたいと思います。
なんと言っても、この夏が「志村正彦の夏」だったことが一番の思い出となります。7月の『茜色の夕日』チャイムのイベント、NHK甲府の特集ニュース、山梨日日新聞の記事、『サマーヌード』を始めとする様々な番組での楽曲使用。夏の名曲が多い彼にふさわしいこの夏の盛り上がりでした。
私たちも、志村正彦と親しい方々との出会いがあり、絆が深まったことに何よりも感謝しています。全く知らないところでも、人と人とは、その想いと想いとは、深くつながっているのだということを認識できた一年でもありました。
来年は、フジファブリックのメジャデビュー10周年という記念すべき年になります。
「志村正彦の夏」を越えて「志村正彦の春夏秋冬」になればいいな、などと勝手に願っていますが、私たちがなすべきことはこの《偶景web》を継続していくことだと考えております。
本年はどうもありがとうございました。
2013年12月31日火曜日
2013年12月24日火曜日
変わらない愛-安部コウセイ『夢の中の夢』(志村正彦LN 66)
この「志村正彦LN」では、昨年から今年にかけてリリースされた、志村正彦との深い絆を想起させる歌、片寄明人[GREAT3]の『彼岸』やクボケンジ[メレンゲ]の『ビスケット』について書いてきた。志村の時間は閉じられてしまったが、彼の友人や仲間の音楽家たちの時間、その音楽の可能性は今も開かれている。そのことも、このLNでは追っていきたい。
今日は12月24日。すでにご存じの方も多いと思うが、安部コウセイと伊東真一によるアコースティックユニット、堕落モーションFOLK2 の『夢の中の夢』について触れたい。[http://www.youtube.com/watch?v=5OaWl1VKXjM、私の拙文を読んでいただく前に、まずこの歌を聴いていただきたい]
『夢の中の夢』について、安部は「志村に捧げた曲」だとツイートしたことがある。しかし、そのことをあまり告げてはいない。志村追悼という枠組の中で取り上げられることを拒んでいるかのようだ。ステージでの様子とは異なり、彼は慎み深く内省的だ。(その慎みを尊重するなら、「私音楽」とも名付けられているこの歌について語らない方がいいのかもしれないが、この《偶景web》は言葉の場、少しだけ触れてみることを許していただきたい)
歌の主体は、富士急行線であろうか、電車に乗り、「君の生まれた町」に行く。「見慣れない景色」が過ぎてゆく。そして、「最低だ なんでだ どうやったらそうなんのさ」という憤りを投げかける。友の死という現実を受け入れたくない確固たる意志と「大体は忘れて のらりくらり 生きている/僕はまだ少しも 悲しくない 悲しくない」という複合的な感情をありのままに歌う。
東京から富士吉田へという旅の途中で、歌の主体は自分自身を見つめ直す。そして、歌の主題である「友達」志村正彦の「夢の中の夢」の姿を描き出す。
友達は今日も夢の中の夢で
終わらない音楽 鳴らし続けてる
友達は今日も夢の中の夢で
始まらない 恋を 嘆き続けてる
変わらない 愛を 祈り続けてる
「夢の中の夢」の世界に、その世界にだけ、「友達」は存在している。「夢の中」という枠組の中のもうひとつの「夢」という枠組の中で、「終わらない音楽」「始まらない恋」を追い続けている。そして最後の「変わらない 愛を 祈り続けてる」という一節は、志村正彦の生と歌を凝縮したような言葉だ。詩の中の詩のように的確で、切なく、美しい。
ここ数日の間、ネットでは彼を追悼する言葉が行き交っている。彼は愛されている、とよく言われる。人を損なうような言動に満ちた、荒涼とした時代だからこそ、彼に対する尽きない想いが語られ続けている。
志村正彦は愛され続けている。しかし、別の角度から見れば、安部コウセイの歌うように、志村正彦自身が、彼の家族や友人そして私たち聴き手に対して、「変わらない 愛を 祈り続けてる」のだ。
彼は「愛」などという言葉を安易にあるいは率直に使うことはなかった。季節や花を描く言葉、一風変わった言葉やオノマトペに隠し、迂回した。余白のような場にそれを置いて、歌い続けてきた。
彼が私たちに愛されているというより、彼が私たちを愛している。
志村正彦の遺した歌から、究極的には、そのことが伝わってくる。
今日は12月24日。すでにご存じの方も多いと思うが、安部コウセイと伊東真一によるアコースティックユニット、堕落モーションFOLK2 の『夢の中の夢』について触れたい。[http://www.youtube.com/watch?v=5OaWl1VKXjM、私の拙文を読んでいただく前に、まずこの歌を聴いていただきたい]
『夢の中の夢』について、安部は「志村に捧げた曲」だとツイートしたことがある。しかし、そのことをあまり告げてはいない。志村追悼という枠組の中で取り上げられることを拒んでいるかのようだ。ステージでの様子とは異なり、彼は慎み深く内省的だ。(その慎みを尊重するなら、「私音楽」とも名付けられているこの歌について語らない方がいいのかもしれないが、この《偶景web》は言葉の場、少しだけ触れてみることを許していただきたい)
歌の主体は、富士急行線であろうか、電車に乗り、「君の生まれた町」に行く。「見慣れない景色」が過ぎてゆく。そして、「最低だ なんでだ どうやったらそうなんのさ」という憤りを投げかける。友の死という現実を受け入れたくない確固たる意志と「大体は忘れて のらりくらり 生きている/僕はまだ少しも 悲しくない 悲しくない」という複合的な感情をありのままに歌う。
東京から富士吉田へという旅の途中で、歌の主体は自分自身を見つめ直す。そして、歌の主題である「友達」志村正彦の「夢の中の夢」の姿を描き出す。
友達は今日も夢の中の夢で
終わらない音楽 鳴らし続けてる
友達は今日も夢の中の夢で
始まらない 恋を 嘆き続けてる
変わらない 愛を 祈り続けてる
「夢の中の夢」の世界に、その世界にだけ、「友達」は存在している。「夢の中」という枠組の中のもうひとつの「夢」という枠組の中で、「終わらない音楽」「始まらない恋」を追い続けている。そして最後の「変わらない 愛を 祈り続けてる」という一節は、志村正彦の生と歌を凝縮したような言葉だ。詩の中の詩のように的確で、切なく、美しい。
ここ数日の間、ネットでは彼を追悼する言葉が行き交っている。彼は愛されている、とよく言われる。人を損なうような言動に満ちた、荒涼とした時代だからこそ、彼に対する尽きない想いが語られ続けている。
志村正彦は愛され続けている。しかし、別の角度から見れば、安部コウセイの歌うように、志村正彦自身が、彼の家族や友人そして私たち聴き手に対して、「変わらない 愛を 祈り続けてる」のだ。
彼は「愛」などという言葉を安易にあるいは率直に使うことはなかった。季節や花を描く言葉、一風変わった言葉やオノマトペに隠し、迂回した。余白のような場にそれを置いて、歌い続けてきた。
彼が私たちに愛されているというより、彼が私たちを愛している。
志村正彦の遺した歌から、究極的には、そのことが伝わってくる。
2013年12月21日土曜日
『茜色の夕日』のチャイム (志村正彦LN 65)
今日は午前中に甲府を出発し、富士吉田に出かけた。
御坂トンネルを抜けてすぐに、雪景色の雄大な富士山が広がる。山梨在住で富士を眺めることが多い私にとっても、この峻厳な美を抱く富士になれてしまうことはない。いつも、その姿に圧倒されてしまう。
吉田の街は、ここ数日の雪や雨模様から脱し、日差しも穏やかで温かい。この週末の三連休から24日にかけて、この地を訪れる志村正彦ファンは多いだろう。この天気が迎え入れてくれるようで、感謝する。
午後、志村正彦の菩提寺にお参りする。
彼のお墓には、遠方から来られたのであろう、キャリーバッグを引いたファンと思われる方がお線香をあげられていた。(声をおかけすることはできなかったが、ありがたい気持ちに包まれる)
しばらく待ち、花を手向ける。伝えたいことを一つだけ伝える。後にも待っている方、帰り道でも同じ目的だと思われる方にお会いする。沢山の方がお墓参りにいらっしゃっている。
亡くなって4年たつが、彼は人々の心の中でずっと生き続けている。
夕方5時、菩提寺の近くで、『茜色の夕日』のチャイムを聴く。
冬のひきしまった空気の感触に、チャイムの音がしみこむ。夏も聴いたのだが、冬の方がこの音色には合うような気がする。
メロディの純粋な旋律が、空に静かに響く。空気が呼応して澄んでくる。何かを想う。
『茜色の夕日』のチャイム、単音の旋律は、歌詞の言葉さえ要らないかのように、そこに確かにあり、そこで確かに響いていた。
御坂トンネルを抜けてすぐに、雪景色の雄大な富士山が広がる。山梨在住で富士を眺めることが多い私にとっても、この峻厳な美を抱く富士になれてしまうことはない。いつも、その姿に圧倒されてしまう。
吉田の街は、ここ数日の雪や雨模様から脱し、日差しも穏やかで温かい。この週末の三連休から24日にかけて、この地を訪れる志村正彦ファンは多いだろう。この天気が迎え入れてくれるようで、感謝する。
午後、志村正彦の菩提寺にお参りする。
彼のお墓には、遠方から来られたのであろう、キャリーバッグを引いたファンと思われる方がお線香をあげられていた。(声をおかけすることはできなかったが、ありがたい気持ちに包まれる)
しばらく待ち、花を手向ける。伝えたいことを一つだけ伝える。後にも待っている方、帰り道でも同じ目的だと思われる方にお会いする。沢山の方がお墓参りにいらっしゃっている。
亡くなって4年たつが、彼は人々の心の中でずっと生き続けている。
夕方5時、菩提寺の近くで、『茜色の夕日』のチャイムを聴く。
冬のひきしまった空気の感触に、チャイムの音がしみこむ。夏も聴いたのだが、冬の方がこの音色には合うような気がする。
メロディの純粋な旋律が、空に静かに響く。空気が呼応して澄んでくる。何かを想う。
『茜色の夕日』のチャイム、単音の旋律は、歌詞の言葉さえ要らないかのように、そこに確かにあり、そこで確かに響いていた。
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志村正彦ライナーノーツ(LN)
2013年12月19日木曜日
連想のように (志村正彦LN 64)
メジャー1stCD『フジファブリック』は、ビートルズのスタジオとして有名なアビーロード・スタジオのスティーヴ・ルークによってマスタリングが行われた。今回は、そのことから発して、幾つかの文章を引用しながらつなげていきたい。
アビーロードが選ばれたその経緯は、プロデューサー片寄明人氏によって詳しく記されている。(「フジファブリック 5 」https://www.facebook.com/katayose.akito/notes )志村正彦は初め、その提案に懐疑的だったようだが、「1stアルバムに志村くんが書いた楽曲が持つ、繊細でどこか湿った空気感」に合うという片寄氏の直感を信じて、その案を受け入れたようだ。ただし予算の関係で、メンバーの代表志村、プロデューサーの片寄氏そしてディレクターの今村圭介氏(彼は『FABBOX』まで、EMIのディレクターとして制作の中心にいた。「2002年9月27日」というEMIスタッフブログの記事[http://fuji-emistaff.jugem.jp/?eid=6]等を読むと、志村正彦との深い関わりがうかがえる)の3人だけがロンドンに行くことになった。志村日記を読むと、2004年9月9日から12日までの短い滞在だったようだ。片寄氏はスタジオ作業の様子を次のように描写している。
「いいっすね! あ、今のギターの音、ビートルズみたいな音に聴こえます!」
志村くんは自分の創った音がイギリス人の手で生き生きと躍動しはじめるのを目の当たりにしてテンションも上がってきたのか、かなり嬉しそうな顔を見せ始めた。
スティーヴも志村くんの曲に「この曲すごくいいね。」とか「これは日本以外の国では発売しないの?」とか、1曲作業が終わるごとに一言感想をはさみながら、ご機嫌に作業を進めてくれた。
スティーヴから「昨日はここでポール・マッカートニーが作業していたんだよ」と聞いたり、ビートルズが使用していたスタジオに潜り込んだりして、すっかりビートルズの余韻にひたったようだ。片寄氏の言葉がいきいきと伝えている。
「これってもしかするとポールが弾いてたピアノと同じじゃないですかね」志村くんはそういって年代物のピアノに腰掛けると、蓋を開けてピアノをポロポロと弾き出した。まるで夢のような時間だった。
アルバム『フジファブリック』が、アビーロード・スタジオのマスタリング、サウンド・デザインの系譜の一つに位置づけられるのは、志村正彦にとっても私たち聴き手にとっても、幸福なことだった。『フジファブリック』には、ブリティッシュ・ロックと日本のロックの高度な融合があるのだから。
ポール・マッカートニーと言えば、11月に11年ぶりに来日し、"Out There"ツアーをしたことがかなり話題となった。メディアにも様々に取り上げられたが、12月11日の「朝日新聞」夕刊文化欄の「甲乙閑話」というコラムで、村山正司編集委員が書いた『宗教性帯びたポール』という記事が興味深かった。
ポール・マッカートニーのライブを、先月18日に東京で見た。11年前の来日公演と比べて、印象深かったことがある。死者が身近になっているのだ。
「この曲はジョンのために」「ジョージのために」「リンダのために」。先に亡くなったビートルズのメンバーや先妻に捧げられた曲が、次々に演奏されていく。そして、「イエスタデイ」は福島の被災者のために。
村山氏はポールのクラシック作品『心の翼』の第二楽章「神の恩恵」の歌詞の一節「悲嘆しきった顔に/神の恵みを受けた/痕跡を見ることができるかもしれない」について、「この歌詞を宗教的といって誤りはないだろう。旋律も天上的に美しい」と述べ、次のように考察している。
ライブでポールは1曲終わると、しばしばバイオリンベースの底を持って天に突き上げた。観客は少し戸惑っているようだった。彼は死者にメッセージを送っていたのではなかったか。
ツアーのタイトル、"Out There"には多様な意味があるようだが、調べてみると、「今ここではない場」「どこか彼方」という解釈もできるようだ。そのように捉えるならば、ポールは、今ここではないどこか彼方に向けて歌っていたとも考えられる。死者は今ここではないどこか彼方にいる。私たちもいつかはその彼方に向かう。ポールの所作やツアーの題名には、そのような意味が込められているのかもしれない。
村山氏が指摘している観客の戸惑い。私はコンサートには行っていないが、何となくその晩の雰囲気を感じることができる。
社会学者の橋爪大三郎は、『ビートルズが現役だった頃』(『ビートルズの社会学』朝日新聞社、1996年)でこう書いている。
JOHN、PAULら四人組と聞けば、西欧世界の人々ならきっと聖書を思い出す。
JOHNはヨハネ、PAULは聖パウロのことだからだ。そういえば福音書も、四篇あるではないか。
一人でも二人でもなくて四人組。するとその中心に、何となくイエスの姿が視えてくる。宗教的なアウラが立ちのぼってくる。のちにジョン・レノンが”自分たちはイエスより有名になった”と言った言わないで物議をかもしたのも、ファンの側に何となくそのような同一視が隠れていたことの露われかもしれない。
ポール・マッカートニーの信仰や宗教がどのようなものであるのか、私には分からないが、『心の翼』の歌詞の一節を読む限り、キリスト教的な思想が根本にあることが確かだろう。
欧米の社会と文化の根底には、キリスト教がある。欧米の文化の産物であるロック音楽、特にその歌詞の世界の理解に、キリスト教の理解が不可欠であることは自明だ。しかし、私たち日本人にはその理解が難しい。(私の敬愛するピーター・ガブリエルPeter Gabriel在籍時のジェネシスGenesisの歌詞には、聖書からの引用が非常に多い。1st「創世記From Genesis To Revelation 」から6th「眩惑のブロードウェイ The Lamb Lies Down On Broadway 」まで、多様なモチーフが使われている。もともと、Genesisは旧約聖書の「創世記」のことであり、宗教的なものとの対話が根底にある。Gabrielが三大天使の名であることも欧米の聴き手にとっては前提であろう。)
したがって、日本のロック・ジャーナリズムではそのような文脈はあまり顧みられない。欧米のロックの受容が表面的で、そのことが批評の言葉の貧しさの原因ともなっている。
今回は、優れた書き手の言葉を引用させていただきながら、とりとめない連想のようなものを書いてしまった。夜のローカルニュースは、富士北麓地域には雪が降っていると伝えていた。今、甲府でも少しだけ積もってきた。
もう日が変わってしまったので、明日20日から26日まで、富士吉田の夕方5時のチャイムが『茜色の夕日』に再び変わる。白い雪景の吉田と『茜色の夕日』。志村正彦のメロディが遠い彼方から静かに降ってくる。
最後に、『CHRONICLE』の静謐な美しさを持つ名曲『Stockholm』の歌詞を引いて、この稿を閉じたい。
静かな街角
辺りは真っ白
雪が積もる 街で今日も
君の事を想う
アビーロードが選ばれたその経緯は、プロデューサー片寄明人氏によって詳しく記されている。(「フジファブリック 5 」https://www.facebook.com/katayose.akito/notes )志村正彦は初め、その提案に懐疑的だったようだが、「1stアルバムに志村くんが書いた楽曲が持つ、繊細でどこか湿った空気感」に合うという片寄氏の直感を信じて、その案を受け入れたようだ。ただし予算の関係で、メンバーの代表志村、プロデューサーの片寄氏そしてディレクターの今村圭介氏(彼は『FABBOX』まで、EMIのディレクターとして制作の中心にいた。「2002年9月27日」というEMIスタッフブログの記事[http://fuji-emistaff.jugem.jp/?eid=6]等を読むと、志村正彦との深い関わりがうかがえる)の3人だけがロンドンに行くことになった。志村日記を読むと、2004年9月9日から12日までの短い滞在だったようだ。片寄氏はスタジオ作業の様子を次のように描写している。
「いいっすね! あ、今のギターの音、ビートルズみたいな音に聴こえます!」
志村くんは自分の創った音がイギリス人の手で生き生きと躍動しはじめるのを目の当たりにしてテンションも上がってきたのか、かなり嬉しそうな顔を見せ始めた。
スティーヴも志村くんの曲に「この曲すごくいいね。」とか「これは日本以外の国では発売しないの?」とか、1曲作業が終わるごとに一言感想をはさみながら、ご機嫌に作業を進めてくれた。
スティーヴから「昨日はここでポール・マッカートニーが作業していたんだよ」と聞いたり、ビートルズが使用していたスタジオに潜り込んだりして、すっかりビートルズの余韻にひたったようだ。片寄氏の言葉がいきいきと伝えている。
「これってもしかするとポールが弾いてたピアノと同じじゃないですかね」志村くんはそういって年代物のピアノに腰掛けると、蓋を開けてピアノをポロポロと弾き出した。まるで夢のような時間だった。
アルバム『フジファブリック』が、アビーロード・スタジオのマスタリング、サウンド・デザインの系譜の一つに位置づけられるのは、志村正彦にとっても私たち聴き手にとっても、幸福なことだった。『フジファブリック』には、ブリティッシュ・ロックと日本のロックの高度な融合があるのだから。
ポール・マッカートニーと言えば、11月に11年ぶりに来日し、"Out There"ツアーをしたことがかなり話題となった。メディアにも様々に取り上げられたが、12月11日の「朝日新聞」夕刊文化欄の「甲乙閑話」というコラムで、村山正司編集委員が書いた『宗教性帯びたポール』という記事が興味深かった。
ポール・マッカートニーのライブを、先月18日に東京で見た。11年前の来日公演と比べて、印象深かったことがある。死者が身近になっているのだ。
「この曲はジョンのために」「ジョージのために」「リンダのために」。先に亡くなったビートルズのメンバーや先妻に捧げられた曲が、次々に演奏されていく。そして、「イエスタデイ」は福島の被災者のために。
村山氏はポールのクラシック作品『心の翼』の第二楽章「神の恩恵」の歌詞の一節「悲嘆しきった顔に/神の恵みを受けた/痕跡を見ることができるかもしれない」について、「この歌詞を宗教的といって誤りはないだろう。旋律も天上的に美しい」と述べ、次のように考察している。
ライブでポールは1曲終わると、しばしばバイオリンベースの底を持って天に突き上げた。観客は少し戸惑っているようだった。彼は死者にメッセージを送っていたのではなかったか。
ツアーのタイトル、"Out There"には多様な意味があるようだが、調べてみると、「今ここではない場」「どこか彼方」という解釈もできるようだ。そのように捉えるならば、ポールは、今ここではないどこか彼方に向けて歌っていたとも考えられる。死者は今ここではないどこか彼方にいる。私たちもいつかはその彼方に向かう。ポールの所作やツアーの題名には、そのような意味が込められているのかもしれない。
村山氏が指摘している観客の戸惑い。私はコンサートには行っていないが、何となくその晩の雰囲気を感じることができる。
社会学者の橋爪大三郎は、『ビートルズが現役だった頃』(『ビートルズの社会学』朝日新聞社、1996年)でこう書いている。
JOHN、PAULら四人組と聞けば、西欧世界の人々ならきっと聖書を思い出す。
JOHNはヨハネ、PAULは聖パウロのことだからだ。そういえば福音書も、四篇あるではないか。
一人でも二人でもなくて四人組。するとその中心に、何となくイエスの姿が視えてくる。宗教的なアウラが立ちのぼってくる。のちにジョン・レノンが”自分たちはイエスより有名になった”と言った言わないで物議をかもしたのも、ファンの側に何となくそのような同一視が隠れていたことの露われかもしれない。
ポール・マッカートニーの信仰や宗教がどのようなものであるのか、私には分からないが、『心の翼』の歌詞の一節を読む限り、キリスト教的な思想が根本にあることが確かだろう。
欧米の社会と文化の根底には、キリスト教がある。欧米の文化の産物であるロック音楽、特にその歌詞の世界の理解に、キリスト教の理解が不可欠であることは自明だ。しかし、私たち日本人にはその理解が難しい。(私の敬愛するピーター・ガブリエルPeter Gabriel在籍時のジェネシスGenesisの歌詞には、聖書からの引用が非常に多い。1st「創世記From Genesis To Revelation 」から6th「眩惑のブロードウェイ The Lamb Lies Down On Broadway 」まで、多様なモチーフが使われている。もともと、Genesisは旧約聖書の「創世記」のことであり、宗教的なものとの対話が根底にある。Gabrielが三大天使の名であることも欧米の聴き手にとっては前提であろう。)
したがって、日本のロック・ジャーナリズムではそのような文脈はあまり顧みられない。欧米のロックの受容が表面的で、そのことが批評の言葉の貧しさの原因ともなっている。
今回は、優れた書き手の言葉を引用させていただきながら、とりとめない連想のようなものを書いてしまった。夜のローカルニュースは、富士北麓地域には雪が降っていると伝えていた。今、甲府でも少しだけ積もってきた。
もう日が変わってしまったので、明日20日から26日まで、富士吉田の夕方5時のチャイムが『茜色の夕日』に再び変わる。白い雪景の吉田と『茜色の夕日』。志村正彦のメロディが遠い彼方から静かに降ってくる。
最後に、『CHRONICLE』の静謐な美しさを持つ名曲『Stockholm』の歌詞を引いて、この稿を閉じたい。
静かな街角
辺りは真っ白
雪が積もる 街で今日も
君の事を想う
2013年12月14日土曜日
「聴いた人がいろんな風に受け取れるもの」-CD『フジファブリック』4 (志村正彦 LN63)
志村正彦は1999年に山梨から東京へ上京した。この時点から、1stCD『フジファブリック』の「東京vs.自分」という主題が動きだす。2002年のインディーズCDリリースを経て、2004年のメジャーデビューまでに、5年の月日が流れた。
彼自身はもっと前にデビューすることを想定していたようだが、懸命な努力によって、質のきわめて高い楽曲が揃ったことを考えると、この間の蓄積はむしろ必要なものだった。
2009年12月に亡くなるまでの東京生活は10年という歳月だった。メジャーデビューまでが5年、メジャーでの活動が5年、ちょうど半々になる。メジャーでの音楽活動があまりにも短い。時の残酷さを感じてしまう。
この間の生活は、著書『東京、音楽、ロックンロール』によると、「必死になってバイトして、空き時間みて曲作りしたりギターの練習したり」というものだった。上京した音楽家志望の若者のありふれた物語だろうが、彼は生活と音楽を両立させていた。
志村正彦は、感受性という資質には恵まれていたが、「若き芸術家」の早熟な才能や天分というものを持ち合わせていたわけではないと私は考えている。彼のことが「天才」と評されることもあるが、そのような過剰な修辞は、彼の本質を見誤る。彼はごく普通の若者であった。自らの感受性を一輪の花のように育て、都市生活の時間との闘いの中で、言葉と曲を、少しずつ少しずつ、探りあてていった。時間に耐えられるものだけが、資質を開花させることができる。普通、苦しい時間あるいは逆に緩い時間に耐えられなくなって、断念してしまう。
彼はメジャーデビューまでの年月を「正直言うと、頑張ったなあと思います。よく諦めなかったと思って、あの状況の中」と振り返っている。彼は「諦めない」という志を貫いた点において「英雄」ではあった。『陽炎』では「英雄気取った 路地裏の僕」と歌っている。少年時代の「英雄気取り」は、青年時代になると、歌への純粋な欲望を譲らないで生きぬいた、本物の「英雄」となった。(精神分析家ジャック・ラカンの教えによれば、欲望を譲らないで己の道を突き進む者は「英雄」である。ラカンは、「われわれひとりひとりの内に英雄への道は描かれている。そしてまさに普通の人間としてわれわれはそれを遂行するのだ」と述べている)。
2004年11月10日、1st CD『フジファブリック』がリリースされた。メディアからも高い評価を受けたようで、BARKSのインタビュー記事[http://www.barks.jp/feature/?id=1000003876]のリード文には、「バンド名をそのままタイトルに据えた、1stにして最高傑作であり、まぎれもない自信作の登場だ」とある。2000年代、「ゼロ年代」の有望な新人として、フジファブリックは日本のロック界に迎えられた。
志村正彦はこのインタビューで、「自身が納得のいく作品を作るには、制作過程でいろんな苦しみがあったと思うんですけど』という問いかけに対して、こう答えている。
一曲一曲に想いを込めて書いているので、表向きのところでも深いところでも、あまり同じようなことを言いたくないっていうのがあったんですね。それは音楽をやる以前に自分の考えがしっかりしてないとできないと思うんです。
あとは、フジファブリックの曲は、自分の意見を押しつけるというよりも、聴いた人がいろんな風に受け取れるものでありたいんですね。例えば、日常の中の一場面を切り取ったようなものだったり、その時その時に自分が感じた想いを描いたり。それは意識してというより自然にやっているところなんですが…。
歌詞や曲作りの根本に、「一曲一曲に想いを込めて」書き、「あまり同じようなこと」を言いたくないというスタンスがあった。彼が作りあげた八十数曲は、確かに、どれも異なり、様々な「想い」が込められている。そのような姿勢を貫くために、「音楽をやる以前」の「自分の考え」を重んじていた。音楽以前の人生が音楽を作る、そのような信念を持っていた。
彼が自らの作品を「自分の意見を押しつける」より、「聴いた人がいろんな風に受け取れるものでありたい」と言い切っているのが、特に注目される。「自分の意見を押しつける」種類の歌が多い中で、聴き手が多様に感じ取れる歌を、彼は志向していた。このことは決定的に重要だ。このような姿勢を徹底させたことが、結果的に、彼の歌を非常に独創的なものとした。このことはすでに、「聴き手中心の歌」(志村正彦LN22)」でも書いたが、もう少し考えを深めてみたい。
彼はそのような自分のあり方を「意識」というより「自然」にやっていると述べている。「日常の中の一場面」「その時その時に自分が感じた想い」を描く感受性。家族の愛や仲間との絆、富士吉田の自然が、彼の資質を育んでいった。このような作品作りが「自然」にできることが、彼の感受性の資質を物語っている。
彼の歌は、いわゆる「自己表現」ではない。彼の歌を聴きこみ、読み込んでいくと、織物のように複雑な色合いで編み込まれている言葉や楽曲の中に、「志村正彦」が浮かび上がってくる。もとから、「志村正彦」という図柄がはっきりと刻印されているわけではない。
このことを的確に言葉で表すことができなければ、批評とは言えない。現在の私はまだ漠然とつかんでいるだけだ。これを追うことが、「志村正彦LN」の主要な主題となるだろう。
(この項続く)
付記
私自身が、志村正彦、フジファブリックと出会ったのは、2010年初夏のことだ。(その出会いの契機と経緯については、稿を改めていつか書きたい。)だから生前の彼については全く知らない。私にとっては「作品」としての志村正彦、フジファブリックが全てある。必然的に、この「志村正彦LN」も「作品」についての思考が中心となる。
現在、私が偶々山梨に生まれ住んで、地元でのつながりを通して、富士吉田でのイベントにも関わるようになり、間接的ではあるが、志村正彦の生の軌跡について知ることとなった。そのような縁に恵まれ、「作品」を作りだした「人」としての彼についての理解が少しずつ深まるようになった。 しかし、いくつかの事柄を除いて、そのことを直接書かないようにはしている。偶々にすぎない「つながり」を特権化したくないからだ。これまで知られていない彼の生の軌跡、評伝的事実は、いつの日か、適切な形で公刊されるべきだ。
「人」としての彼を理解することが、「志村正彦LN」を書いていくことを一方で支えているのは確かだ。そのことには深く感謝している。直接表されなくても、文の行間や余白に、彼の生が刻まれるように書いていきたい。偶然を必然に転換することが書くことの意義だと考える。
私が日本と欧米のロックシーンをある程度まで追いかけてきたのは、90年代半ば、年齢にして三十歳半ばくらいまでだ。よくある話しだが、持続的に聴きたいアーティストが固定されてくると、やはり、シーン全体への関心は薄らいできてしまう。だから90年代後半からゼロ年代にデビューした音楽家については、少数の例外を除いて知らない。フジファブリックについても、『山梨日日新聞』の記事でその名は知っていたが、結局、聴いてみることはなかった。自らの不明を恥じている。
だから今、90年代後半からゼロ年代のロックを集中的に聴いている。それまでの日本語ロックにはない、新しい表現を模索するアーティストがいて、驚くこともある。
ここ十数年のロックに「遅れてきた中年」としての私は、最近やっと、この時代の音楽に出会いつつある。
彼自身はもっと前にデビューすることを想定していたようだが、懸命な努力によって、質のきわめて高い楽曲が揃ったことを考えると、この間の蓄積はむしろ必要なものだった。
2009年12月に亡くなるまでの東京生活は10年という歳月だった。メジャーデビューまでが5年、メジャーでの活動が5年、ちょうど半々になる。メジャーでの音楽活動があまりにも短い。時の残酷さを感じてしまう。
この間の生活は、著書『東京、音楽、ロックンロール』によると、「必死になってバイトして、空き時間みて曲作りしたりギターの練習したり」というものだった。上京した音楽家志望の若者のありふれた物語だろうが、彼は生活と音楽を両立させていた。
志村正彦は、感受性という資質には恵まれていたが、「若き芸術家」の早熟な才能や天分というものを持ち合わせていたわけではないと私は考えている。彼のことが「天才」と評されることもあるが、そのような過剰な修辞は、彼の本質を見誤る。彼はごく普通の若者であった。自らの感受性を一輪の花のように育て、都市生活の時間との闘いの中で、言葉と曲を、少しずつ少しずつ、探りあてていった。時間に耐えられるものだけが、資質を開花させることができる。普通、苦しい時間あるいは逆に緩い時間に耐えられなくなって、断念してしまう。
彼はメジャーデビューまでの年月を「正直言うと、頑張ったなあと思います。よく諦めなかったと思って、あの状況の中」と振り返っている。彼は「諦めない」という志を貫いた点において「英雄」ではあった。『陽炎』では「英雄気取った 路地裏の僕」と歌っている。少年時代の「英雄気取り」は、青年時代になると、歌への純粋な欲望を譲らないで生きぬいた、本物の「英雄」となった。(精神分析家ジャック・ラカンの教えによれば、欲望を譲らないで己の道を突き進む者は「英雄」である。ラカンは、「われわれひとりひとりの内に英雄への道は描かれている。そしてまさに普通の人間としてわれわれはそれを遂行するのだ」と述べている)。
2004年11月10日、1st CD『フジファブリック』がリリースされた。メディアからも高い評価を受けたようで、BARKSのインタビュー記事[http://www.barks.jp/feature/?id=1000003876]のリード文には、「バンド名をそのままタイトルに据えた、1stにして最高傑作であり、まぎれもない自信作の登場だ」とある。2000年代、「ゼロ年代」の有望な新人として、フジファブリックは日本のロック界に迎えられた。
志村正彦はこのインタビューで、「自身が納得のいく作品を作るには、制作過程でいろんな苦しみがあったと思うんですけど』という問いかけに対して、こう答えている。
一曲一曲に想いを込めて書いているので、表向きのところでも深いところでも、あまり同じようなことを言いたくないっていうのがあったんですね。それは音楽をやる以前に自分の考えがしっかりしてないとできないと思うんです。
あとは、フジファブリックの曲は、自分の意見を押しつけるというよりも、聴いた人がいろんな風に受け取れるものでありたいんですね。例えば、日常の中の一場面を切り取ったようなものだったり、その時その時に自分が感じた想いを描いたり。それは意識してというより自然にやっているところなんですが…。
歌詞や曲作りの根本に、「一曲一曲に想いを込めて」書き、「あまり同じようなこと」を言いたくないというスタンスがあった。彼が作りあげた八十数曲は、確かに、どれも異なり、様々な「想い」が込められている。そのような姿勢を貫くために、「音楽をやる以前」の「自分の考え」を重んじていた。音楽以前の人生が音楽を作る、そのような信念を持っていた。
彼が自らの作品を「自分の意見を押しつける」より、「聴いた人がいろんな風に受け取れるものでありたい」と言い切っているのが、特に注目される。「自分の意見を押しつける」種類の歌が多い中で、聴き手が多様に感じ取れる歌を、彼は志向していた。このことは決定的に重要だ。このような姿勢を徹底させたことが、結果的に、彼の歌を非常に独創的なものとした。このことはすでに、「聴き手中心の歌」(志村正彦LN22)」でも書いたが、もう少し考えを深めてみたい。
彼はそのような自分のあり方を「意識」というより「自然」にやっていると述べている。「日常の中の一場面」「その時その時に自分が感じた想い」を描く感受性。家族の愛や仲間との絆、富士吉田の自然が、彼の資質を育んでいった。このような作品作りが「自然」にできることが、彼の感受性の資質を物語っている。
彼の歌は、いわゆる「自己表現」ではない。彼の歌を聴きこみ、読み込んでいくと、織物のように複雑な色合いで編み込まれている言葉や楽曲の中に、「志村正彦」が浮かび上がってくる。もとから、「志村正彦」という図柄がはっきりと刻印されているわけではない。
このことを的確に言葉で表すことができなければ、批評とは言えない。現在の私はまだ漠然とつかんでいるだけだ。これを追うことが、「志村正彦LN」の主要な主題となるだろう。
(この項続く)
付記
私自身が、志村正彦、フジファブリックと出会ったのは、2010年初夏のことだ。(その出会いの契機と経緯については、稿を改めていつか書きたい。)だから生前の彼については全く知らない。私にとっては「作品」としての志村正彦、フジファブリックが全てある。必然的に、この「志村正彦LN」も「作品」についての思考が中心となる。
現在、私が偶々山梨に生まれ住んで、地元でのつながりを通して、富士吉田でのイベントにも関わるようになり、間接的ではあるが、志村正彦の生の軌跡について知ることとなった。そのような縁に恵まれ、「作品」を作りだした「人」としての彼についての理解が少しずつ深まるようになった。 しかし、いくつかの事柄を除いて、そのことを直接書かないようにはしている。偶々にすぎない「つながり」を特権化したくないからだ。これまで知られていない彼の生の軌跡、評伝的事実は、いつの日か、適切な形で公刊されるべきだ。
「人」としての彼を理解することが、「志村正彦LN」を書いていくことを一方で支えているのは確かだ。そのことには深く感謝している。直接表されなくても、文の行間や余白に、彼の生が刻まれるように書いていきたい。偶然を必然に転換することが書くことの意義だと考える。
私が日本と欧米のロックシーンをある程度まで追いかけてきたのは、90年代半ば、年齢にして三十歳半ばくらいまでだ。よくある話しだが、持続的に聴きたいアーティストが固定されてくると、やはり、シーン全体への関心は薄らいできてしまう。だから90年代後半からゼロ年代にデビューした音楽家については、少数の例外を除いて知らない。フジファブリックについても、『山梨日日新聞』の記事でその名は知っていたが、結局、聴いてみることはなかった。自らの不明を恥じている。
だから今、90年代後半からゼロ年代のロックを集中的に聴いている。それまでの日本語ロックにはない、新しい表現を模索するアーティストがいて、驚くこともある。
ここ十数年のロックに「遅れてきた中年」としての私は、最近やっと、この時代の音楽に出会いつつある。
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CD『フジファブリック』,
志村正彦ライナーノーツ(LN)
2013年12月10日火曜日
今朝、NHKのラジオで。(志村正彦LN 62)
今朝、同僚が「朝のNHKラジオで、フジファブリックの曲がかかってましたよ」と教えてくれた。(時々、そんな情報をいただくことがあり、感謝です。)
12月は、自然に志村正彦を想う時節になっているのだろう。
調べてみると、NHKラジオ第1 放送の「すっぴん!」(月~金・朝8:00~11:50)火曜担当の津田大介氏が『パッション・フルーツ』を選曲して放送してくれたらしい。
それにしても、朝+NHK+ラジオ第1+『パッション・フルーツ』という組合せは、シュールだ。
津田大介氏というと、若手の「論客」として知名度が高い人。なぜ彼がフジファブリック?と思い、検索してみると、次のツイート「津田大介@tsuda」[https://twitter.com/tsuda]の記録が見つかった。
12月25日 20:47:44
あまりに突然過ぎて……。今年は何かやっぱりおかしい。
フジファブリック志村正彦、12月24日に急逝 http://j.mp/8wLVgX
12月25日 20:51:50
「TEENAGER」と「CHRONICLE」は本当によく聴いたアルバムだったので、
いろいろ信じられない。
12月25日 20:55:03
毎年これくらい年の瀬になると「今年はたくさん亡くなったなー」と思うけど、
でも今年は特別な気がする。何なんだゼロ年代。
最初に言及されている、ナタリーの記事「フジファブリック志村正彦、12月24日に急逝」[http://j.mp/8wLVgX]は「2009年12月25日 20:44」に配信されているので、津田氏の投稿時刻「20:47:44,20:51:50,20:55:03」は、非常に即時的な反応であり、「あまりに突然過ぎて……。」という信じられない気持ちがリアルに伝わってくる。引用するのがためらわれるくらいに。
津田氏のような言論の人(彼にはネットと音楽関係の著作もあるので、音楽には詳しいのだろうが)が、「TEENAGER」と「CHRONICLE」を「本当によく聴いたアルバム」と発言していることに、少しばかりの驚きと共に、仲間を見いだしたような素直なうれしさも感じる。そして、「何なんだゼロ年代」という言葉には、この人らしい悲痛な想いと世代論的な捉え方が込められている。
もう少し探すと、「ここ数年はフジファブリックが好きでした。」[2010-11-13]、「日本のバンドではカーネーションとGREAT3、最近ではフジファブリックが好きでした。海外だとXTCとか。最近だとMEWが好きですね。」[2011-05-02]というツイートもあった。
津田大介氏のフジファブリック愛にあふれる言葉だ。
XTC好きであれば、『TEENAGER』と『CHRONICLE』好きであることも頷ける。(私は80年前後にリアルタイムでXTCに触れた世代であり、『Black Sea』や『English Settlement』をすごくよく聴いていた。翳りのあるポップでひねくれた「ニューウェイヴ」バンドの筆頭格だった。当時は「パワーポップ」という言葉はなかった。今振り返ると、XTCからフジファブリックへという大きな流れがあるようにも思う)
津田氏がつぶやいたように、「ゼロ年代」の音楽という視点から、志村正彦を、フジファブリックを捉えることも重要なのだろう。いつかそういう視点で考えてみたい。
12月は、自然に志村正彦を想う時節になっているのだろう。
調べてみると、NHKラジオ第1 放送の「すっぴん!」(月~金・朝8:00~11:50)火曜担当の津田大介氏が『パッション・フルーツ』を選曲して放送してくれたらしい。
それにしても、朝+NHK+ラジオ第1+『パッション・フルーツ』という組合せは、シュールだ。
津田大介氏というと、若手の「論客」として知名度が高い人。なぜ彼がフジファブリック?と思い、検索してみると、次のツイート「津田大介@tsuda」[https://twitter.com/tsuda]の記録が見つかった。
12月25日 20:47:44
あまりに突然過ぎて……。今年は何かやっぱりおかしい。
フジファブリック志村正彦、12月24日に急逝 http://j.mp/8wLVgX
12月25日 20:51:50
「TEENAGER」と「CHRONICLE」は本当によく聴いたアルバムだったので、
いろいろ信じられない。
12月25日 20:55:03
毎年これくらい年の瀬になると「今年はたくさん亡くなったなー」と思うけど、
でも今年は特別な気がする。何なんだゼロ年代。
最初に言及されている、ナタリーの記事「フジファブリック志村正彦、12月24日に急逝」[http://j.mp/8wLVgX]は「2009年12月25日 20:44」に配信されているので、津田氏の投稿時刻「20:47:44,20:51:50,20:55:03」は、非常に即時的な反応であり、「あまりに突然過ぎて……。」という信じられない気持ちがリアルに伝わってくる。引用するのがためらわれるくらいに。
津田氏のような言論の人(彼にはネットと音楽関係の著作もあるので、音楽には詳しいのだろうが)が、「TEENAGER」と「CHRONICLE」を「本当によく聴いたアルバム」と発言していることに、少しばかりの驚きと共に、仲間を見いだしたような素直なうれしさも感じる。そして、「何なんだゼロ年代」という言葉には、この人らしい悲痛な想いと世代論的な捉え方が込められている。
もう少し探すと、「ここ数年はフジファブリックが好きでした。」[2010-11-13]、「日本のバンドではカーネーションとGREAT3、最近ではフジファブリックが好きでした。海外だとXTCとか。最近だとMEWが好きですね。」[2011-05-02]というツイートもあった。
津田大介氏のフジファブリック愛にあふれる言葉だ。
XTC好きであれば、『TEENAGER』と『CHRONICLE』好きであることも頷ける。(私は80年前後にリアルタイムでXTCに触れた世代であり、『Black Sea』や『English Settlement』をすごくよく聴いていた。翳りのあるポップでひねくれた「ニューウェイヴ」バンドの筆頭格だった。当時は「パワーポップ」という言葉はなかった。今振り返ると、XTCからフジファブリックへという大きな流れがあるようにも思う)
津田氏がつぶやいたように、「ゼロ年代」の音楽という視点から、志村正彦を、フジファブリックを捉えることも重要なのだろう。いつかそういう視点で考えてみたい。
2013年12月8日日曜日
アルバムのテーマ-CD『フジファブリック』3 (志村正彦LN 61)
今回は、LN56・57に引き続き、2004年11月10日リリースの1st CD『フジファブリック』に焦点を当てて、アルバム全体のテーマ、その詩的世界について論述したいのだが、その前に、志村正彦、フジファブリックが作ったアルバム全体を振り返ってみたい。
志村正彦在籍時のフジファブリックのアルバムは、2枚のインディーズCD、1枚のプレデビューCD、4枚のメジャーCD(+1枚の遺作CD)の計7(8)枚になる。各々にCD全体を通じたコンセプトがある。彼は『CHRONICLE』発表時に次のように語っている(インタビュー・文 久保田泰平氏[http://musicshelf.jp/?mode=static&html=series_b100/index ]
ファースト・アルバムは東京vs.自分、セカンド・アルバムは当時の音楽シーンvs.フジファブリックっていうテーマがあって。で、前作の『TEENAGER』は東京vs.東京が好きになった自分、なんでもない日常だけど前向きに生きていればいいことあるさっていうテーマがあったんですけど、そこで思い描いていた自分のイメージにその後の自分が届いてないように思えたんですね。だから、今回は音楽vs.自分みたいな、そのぐらいまで根詰めてやってましたね。
志村正彦がどれだけ自覚的にアルバムを作り、自分自身とフジファブリックの進む道を見いだそうとしていたことがよく分かる発言だ。テーマを作品名・発売日と共に挙げてみる。
1st 2004年11月10日 『フジファブリック』 東京vs.自分
2nd 2005年11月 9日 『FAB FOX』 当時の音楽シーンvs.フジファブリック
3rd 2008年1月23日 『TEENAGER』 東京vs.東京が好きになった自分
4th 2009年5月20日 『CHRONICLE』 音楽vs.自分
4枚のアルバム各々が、「自分」あるいは「フジファブリック」を定点にして、それと対峙するテーマを決めていった。最初からそのようなテーマとその展開があったというよりも、試行錯誤の果てに掴んでいったものだろう。この四つのテーマは作者側からの《自注》だから、当然といえば当然なのだが、志村正彦の言葉は非常に的確で、アルバムを捉える視点を聴き手に与えてくれる。
志村正彦を中心として、フジファブリックの歴史を振り返るのなら、インディーズ[SONG-CRUX ]の2枚+プレデビューCDが《初期》、メジャー[EMIミュージック・ジャパン]1st・2ndが《前期》、3rd・4thが《中期》、と位置づけられるのではないのか。私の試みの区分である。
1st 『フジファブリック』のテーマは「東京vs.自分」であるが、「東京vs.自分」の変奏として「東京VS故郷」、「東京VS富士吉田、山梨」というようなテーマもある。「四季盤」の春夏秋冬の楽曲も、「東京VS故郷」の季節感の対比が、意識的にも無意識的にも、発想の根底にあるだろう。花・植物の歌もそのような系譜にある。そして何よりも、「東京vs.自分」という立ち位置から来る「不安」な感覚がどの曲にも潜在している。そして2nd『FAB FOX』になると、1stで早くも確立したフジファブリックの音楽の可能性を「当時の音楽シーン」の中でより多様に展開していく。
1st・2ndをリリースして、志村正彦は自分自身とフジファブリックを、きわめて独創的な「日本語ロック」の作り手とバンドとして確立した。これが《前期》の達成点であり、彼の資質の全面的な開花があった。
3rd 『TEENAGER』の「東京vs.東京が好きになった自分」、「なんでもない日常だけど前向きに生きていればいいことあるさっていうテーマ」という言葉はまさしく、このアルバムを代表する『若者のすべて』の注釈として受けとめることができる。1stの「東京vs.自分」の「自分」は東京との葛藤を抱えている自分であるのに対して、3rdには確かに、「東京」に溶けこみつつある「自分」の「日常」が描かれている。『若者のすべて』の歩行の系列の風景も東京である。
4th『CHRONICLE』について、3rdで「思い描いていた自分のイメージにその後の自分が届いてない」ように思え、「音楽vs.自分」というテーマを「根詰めて」やったという発言は、彼らしい真摯な追究の仕方だ。「音楽vs.自分」は「自分vs.自分」にまで深まり、年代記らしく「タイムマシーン」にも乗って、自分の過去と現在に向きあった。三十代を目前とした彼の眼差しには深さと豊かさが加わり、《中期》の豊穣ともう一度原点に戻ったかのような純粋さを併せ持っていた。
彼自身は、先ほどのインタビューの続きで「28歳」という年齢に関連してこう述べている。
まあ、28歳って考えますよね、今後の人生を。果たして音楽を続けていけるのか……とか。今回は、そのぐらいの意志を込めてアルバムを作って、全作詞作曲をして吐き出した感はありますね。
あれだけの仕事を成し遂げたにも関わらす、「果たして音楽を続けていけるのか」という発言には、私のような単なる聴き手には想像できないような厳しさがリアルに響いている。『CHRONICLE』が転機となる作品だったことは間違いない。
これからは区分を超えた私の勝手な推測だが、志村正彦の《フジファブリック》というバンド・コンセプトは、存在することができなかった5th(当然、現『MUSIC』とは異なるもの)、そして6thか7th あたりで、一つの完結を見たのではないだろうか(完結ではなく、一つの大きな区切りと考えてもいいが)。幻となった5th・6th・7th等がリリースされたとしたら、それが《後期》のフジファブリック作品となったことだろう。
多くのロックアーティストは、十代の感性を起点として初期作品を作り、二十代に代表作を作り、二十代後半から三十代前半までに最初の円熟を迎える。それ以降も優れた作品を作り続けるアーティストもいるが、バンドを解散したり休止したりしてソロアーティストになったり、解散しないまでもソロ活動や別のバンドを作ったりすることが多い。
志村正彦は、三十代・四十代になっても五十代・六十代になっても、素晴らしい作品を作り続けたことだろう。そしてその作品は、今私たちが聴いている歌とはかなり異なる作風になったような気もする。
彼の命日が近い。
現実の彼は、《後期》作品も三十代以降の作品も作りだすことはできなかった。私たち聴き手の哀しみや嘆きは尽きることがないが、今ある八十数曲の作品が、志村正彦から私たちに届けられた、かけがえのない贈り物であることに、私たちは深く感謝すべきだろう。
二十代最後までという限られた時間の中で、これだけの数のきわめて高い質を持つ、あからさまではなく、そっと静かに聴き手の心に寄り添うことができるような、愛のある歌は、洋楽・邦楽のロックの歴史を通じて、他にはないのだから。
(この項続く)
志村正彦在籍時のフジファブリックのアルバムは、2枚のインディーズCD、1枚のプレデビューCD、4枚のメジャーCD(+1枚の遺作CD)の計7(8)枚になる。各々にCD全体を通じたコンセプトがある。彼は『CHRONICLE』発表時に次のように語っている(インタビュー・文 久保田泰平氏[http://musicshelf.jp/?mode=static&html=series_b100/index ]
ファースト・アルバムは東京vs.自分、セカンド・アルバムは当時の音楽シーンvs.フジファブリックっていうテーマがあって。で、前作の『TEENAGER』は東京vs.東京が好きになった自分、なんでもない日常だけど前向きに生きていればいいことあるさっていうテーマがあったんですけど、そこで思い描いていた自分のイメージにその後の自分が届いてないように思えたんですね。だから、今回は音楽vs.自分みたいな、そのぐらいまで根詰めてやってましたね。
志村正彦がどれだけ自覚的にアルバムを作り、自分自身とフジファブリックの進む道を見いだそうとしていたことがよく分かる発言だ。テーマを作品名・発売日と共に挙げてみる。
1st 2004年11月10日 『フジファブリック』 東京vs.自分
2nd 2005年11月 9日 『FAB FOX』 当時の音楽シーンvs.フジファブリック
3rd 2008年1月23日 『TEENAGER』 東京vs.東京が好きになった自分
4th 2009年5月20日 『CHRONICLE』 音楽vs.自分
4枚のアルバム各々が、「自分」あるいは「フジファブリック」を定点にして、それと対峙するテーマを決めていった。最初からそのようなテーマとその展開があったというよりも、試行錯誤の果てに掴んでいったものだろう。この四つのテーマは作者側からの《自注》だから、当然といえば当然なのだが、志村正彦の言葉は非常に的確で、アルバムを捉える視点を聴き手に与えてくれる。
志村正彦を中心として、フジファブリックの歴史を振り返るのなら、インディーズ[SONG-CRUX ]の2枚+プレデビューCDが《初期》、メジャー[EMIミュージック・ジャパン]1st・2ndが《前期》、3rd・4thが《中期》、と位置づけられるのではないのか。私の試みの区分である。
1st 『フジファブリック』のテーマは「東京vs.自分」であるが、「東京vs.自分」の変奏として「東京VS故郷」、「東京VS富士吉田、山梨」というようなテーマもある。「四季盤」の春夏秋冬の楽曲も、「東京VS故郷」の季節感の対比が、意識的にも無意識的にも、発想の根底にあるだろう。花・植物の歌もそのような系譜にある。そして何よりも、「東京vs.自分」という立ち位置から来る「不安」な感覚がどの曲にも潜在している。そして2nd『FAB FOX』になると、1stで早くも確立したフジファブリックの音楽の可能性を「当時の音楽シーン」の中でより多様に展開していく。
1st・2ndをリリースして、志村正彦は自分自身とフジファブリックを、きわめて独創的な「日本語ロック」の作り手とバンドとして確立した。これが《前期》の達成点であり、彼の資質の全面的な開花があった。
3rd 『TEENAGER』の「東京vs.東京が好きになった自分」、「なんでもない日常だけど前向きに生きていればいいことあるさっていうテーマ」という言葉はまさしく、このアルバムを代表する『若者のすべて』の注釈として受けとめることができる。1stの「東京vs.自分」の「自分」は東京との葛藤を抱えている自分であるのに対して、3rdには確かに、「東京」に溶けこみつつある「自分」の「日常」が描かれている。『若者のすべて』の歩行の系列の風景も東京である。
4th『CHRONICLE』について、3rdで「思い描いていた自分のイメージにその後の自分が届いてない」ように思え、「音楽vs.自分」というテーマを「根詰めて」やったという発言は、彼らしい真摯な追究の仕方だ。「音楽vs.自分」は「自分vs.自分」にまで深まり、年代記らしく「タイムマシーン」にも乗って、自分の過去と現在に向きあった。三十代を目前とした彼の眼差しには深さと豊かさが加わり、《中期》の豊穣ともう一度原点に戻ったかのような純粋さを併せ持っていた。
彼自身は、先ほどのインタビューの続きで「28歳」という年齢に関連してこう述べている。
まあ、28歳って考えますよね、今後の人生を。果たして音楽を続けていけるのか……とか。今回は、そのぐらいの意志を込めてアルバムを作って、全作詞作曲をして吐き出した感はありますね。
あれだけの仕事を成し遂げたにも関わらす、「果たして音楽を続けていけるのか」という発言には、私のような単なる聴き手には想像できないような厳しさがリアルに響いている。『CHRONICLE』が転機となる作品だったことは間違いない。
これからは区分を超えた私の勝手な推測だが、志村正彦の《フジファブリック》というバンド・コンセプトは、存在することができなかった5th(当然、現『MUSIC』とは異なるもの)、そして6thか7th あたりで、一つの完結を見たのではないだろうか(完結ではなく、一つの大きな区切りと考えてもいいが)。幻となった5th・6th・7th等がリリースされたとしたら、それが《後期》のフジファブリック作品となったことだろう。
多くのロックアーティストは、十代の感性を起点として初期作品を作り、二十代に代表作を作り、二十代後半から三十代前半までに最初の円熟を迎える。それ以降も優れた作品を作り続けるアーティストもいるが、バンドを解散したり休止したりしてソロアーティストになったり、解散しないまでもソロ活動や別のバンドを作ったりすることが多い。
志村正彦は、三十代・四十代になっても五十代・六十代になっても、素晴らしい作品を作り続けたことだろう。そしてその作品は、今私たちが聴いている歌とはかなり異なる作風になったような気もする。
彼の命日が近い。
現実の彼は、《後期》作品も三十代以降の作品も作りだすことはできなかった。私たち聴き手の哀しみや嘆きは尽きることがないが、今ある八十数曲の作品が、志村正彦から私たちに届けられた、かけがえのない贈り物であることに、私たちは深く感謝すべきだろう。
二十代最後までという限られた時間の中で、これだけの数のきわめて高い質を持つ、あからさまではなく、そっと静かに聴き手の心に寄り添うことができるような、愛のある歌は、洋楽・邦楽のロックの歴史を通じて、他にはないのだから。
(この項続く)
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志村正彦ライナーノーツ(LN)
2013年12月5日木曜日
志村日記2009年12月5日、ヴァンフォーレ甲府。(志村正彦LN 60)
折に触れて、「志村日記」(『東京、音楽、ロックンロール』)を読み返している。
音楽に直接関係ない話に引き込まれることがある。今日からちょうど4年前、2009年12月5日付の日記にはこうある。
京都前のり。民生さんと合流し、飲みに行く。
民生さんサッカーの話、超詳しい。俺、全然分からん。
今、甲府はどうなってるんだ?
甲府がJ1に上がった日は嬉しくて乾杯したな、そういやあ。
12月5日は、志村正彦の亡くなる二十日ほど前の日になる。
フジファブリックは、みやこ音楽祭'09出演のために京都に滞在していた。4日に奥田民生のライブがあり、その日の夜、飲み会があったようだ。彼らのマネージメント会社hit&run(現SMA=Sony Music Artists)の blogには、「昨夜は民生さんとフジファブリックでギオンに飲みに行き、すっかりサッカー話やらユニコーンの裏話なんかで盛り上がってたんです」とある。このblogには、5日のフジファブリックのライブの報告と写真も掲載されていて、『Merry-Go-Round』『マリアとアマゾネス』『地平線を越えて』『銀河』『Sugar!』の5曲が演奏されたことが分かる。
日記からは、いつもと変わらぬ音楽への姿勢や奥田民生との楽しい交流がうかがわれる。今読むと、そのことが悲しい。
奥田民生は「広島カープ」と「サンフレッチェ広島」の大ファンのようだ。志村正彦は「民生さんサッカーの話、超詳しい。俺、全然分からん。」と述べているので、その夜は、奥田民生のサッカー談義に終始圧倒されていたのだろう。しかし、「今、甲府はどうなってるんだ?甲府がJ1に上がった日は嬉しくて乾杯したな、そういやあ。」と書いてあり、奥田民生に負けじと、山梨のJリーグチーム、ヴァンフォーレ甲府のことを想いだしてくれたようだ。VF甲府のサッカーそのものにはあまり関心はなかったのだろうが、故郷山梨のJリーグチームということで、ひそかに応援してくれていたのだろう。
奥田民生の「広島愛」に対する、志村正彦の「山梨愛」が感じられる。
私事を書かせていただく。私は、VF甲府がJ2に参入した1999年の翌年からクラブサポーター会員となり、この十数年の間、ホームゲームのほぼ全ての試合に通っている。VF甲府のような地方都市を拠点とするチームの誕生に、地元愛がかなり刺激され、気がつくと、熱心なサポーターとなっていた。週末は家に引きこもり、読んだり書いたりすることの多かった私にとって、スタジアムに出かけることは、外で光や風を感じることのできる大切な時間になった。
2001年、チームが消滅するかもしれないという「存続問題」が起き、少しばかり存続のための活動をしたこともある。(「甲府愛にあふれる文」を書き続けることも存続の一助になるかもと考え、仲間のサイトの掲示板にほぼ毎日のように書いていたくらいだったが)その後、甲府は何とか存続でき、フロントと指導者に恵まれ、次第に力をつけてきた。
2005年12月10日、J1・J2入れ替え戦の第2戦。FWバレーのダブルハットトリックというミラクルもあり、6対2で勝利し、J1昇格を果たした。その日、私も千葉の柏サッカー場のゴール裏で声援を送っていた。消滅の危機から昇格まで、あの5年ほどの軌跡は「奇跡」と呼ぶにふさわしい。
あの日について、志村正彦が「甲府がJ1に上がった日は嬉しくて乾杯したな、そういやあ。」と書いてくれたのを、『東京、音楽、ロックンロール』の中に見つけた時は、志村ファンとしても甲府サポとしても、とても感激した。私たちサポーターも帰りの応援バスで祝杯をあげていたのを想い出した。
「志村日記」の2009年12月5日、彼が「今、甲府はどうなってるんだ?」と書いた日は、甲府サポにとって忘れることのできない、苦い苦い日となった。VF甲府は2007年J2に降格し、この日、もう一度J1に昇格できるかどうかが決まる重要な試合を闘っていた。
最終節時点での勝点が湘南ベルマーレ95、 ヴァンフォーレ甲府94。甲府が勝ち、湘南が引き分け以下になると、甲府はJ1に昇格する。結果は、甲府は勝ったが湘南も勝って(2点差を跳ね返した逆転勝利)、湘南が昇格を決めた。冬の寒い雨の煙る中、ホィッスルが鳴り、昇格が果たせなかったことが分かった瞬間、満員のサポーターやファンが失意と沈黙に沈んでいた。あんなに静まりかえった小瀬スタジアムを経験したことはない。もちろん、志村正彦がそんな状況を知るはすもないのだが、あの日の「今、甲府はどうなってるんだ?」という問いかけに対しては、ここまで書いたことがその応えとなるだろう。
その後甲府は、翌2010年に2度目のJ1昇格、2011年降格。そして2012年に3度目の昇格を果たし、今年度2013年はJ1に所属し、ついこの前、J1残留をぎりぎりで決めた。大きなスポンサーがいないので、甲府の予算は少なく、環境面でも恵まれない。J1とJ2の間を行ったり来たりだが、「プロビンチア(地方)」の志とたくましさを持って、Jリーグで闘っている。たかがサッカーにすぎないけど、私はVF甲府を誇りに思っている。
「志村日記」を読むと、その日付と関連のある出来事や思い出が浮かんでくることがある。
2009年12月5日の日付、そして2005年12月5日についての記述から、志村正彦ファンであり甲府サポーターでもある私の想いを込めて、今日は書かせていただきました。
付記
今年、ヴァンフォーレ甲府は天皇杯の準々決勝に勝ち進み、12月22日午後1時、サンフレッチェ広島と対戦します。「広島VS甲府」、まるで「奥田民生VS志村正彦」の闘いのようです(広島も好きなチームなので少し複雑ですが)。
NHKのBS1で生中継があるそうですので、志村ファンの皆さま、よろしかったらご観戦ください。もちろん(できることなら)、甲府を応援してくださいね。
音楽に直接関係ない話に引き込まれることがある。今日からちょうど4年前、2009年12月5日付の日記にはこうある。
京都前のり。民生さんと合流し、飲みに行く。
民生さんサッカーの話、超詳しい。俺、全然分からん。
今、甲府はどうなってるんだ?
甲府がJ1に上がった日は嬉しくて乾杯したな、そういやあ。
12月5日は、志村正彦の亡くなる二十日ほど前の日になる。
フジファブリックは、みやこ音楽祭'09出演のために京都に滞在していた。4日に奥田民生のライブがあり、その日の夜、飲み会があったようだ。彼らのマネージメント会社hit&run(現SMA=Sony Music Artists)の blogには、「昨夜は民生さんとフジファブリックでギオンに飲みに行き、すっかりサッカー話やらユニコーンの裏話なんかで盛り上がってたんです」とある。このblogには、5日のフジファブリックのライブの報告と写真も掲載されていて、『Merry-Go-Round』『マリアとアマゾネス』『地平線を越えて』『銀河』『Sugar!』の5曲が演奏されたことが分かる。
日記からは、いつもと変わらぬ音楽への姿勢や奥田民生との楽しい交流がうかがわれる。今読むと、そのことが悲しい。
奥田民生は「広島カープ」と「サンフレッチェ広島」の大ファンのようだ。志村正彦は「民生さんサッカーの話、超詳しい。俺、全然分からん。」と述べているので、その夜は、奥田民生のサッカー談義に終始圧倒されていたのだろう。しかし、「今、甲府はどうなってるんだ?甲府がJ1に上がった日は嬉しくて乾杯したな、そういやあ。」と書いてあり、奥田民生に負けじと、山梨のJリーグチーム、ヴァンフォーレ甲府のことを想いだしてくれたようだ。VF甲府のサッカーそのものにはあまり関心はなかったのだろうが、故郷山梨のJリーグチームということで、ひそかに応援してくれていたのだろう。
奥田民生の「広島愛」に対する、志村正彦の「山梨愛」が感じられる。
私事を書かせていただく。私は、VF甲府がJ2に参入した1999年の翌年からクラブサポーター会員となり、この十数年の間、ホームゲームのほぼ全ての試合に通っている。VF甲府のような地方都市を拠点とするチームの誕生に、地元愛がかなり刺激され、気がつくと、熱心なサポーターとなっていた。週末は家に引きこもり、読んだり書いたりすることの多かった私にとって、スタジアムに出かけることは、外で光や風を感じることのできる大切な時間になった。
2001年、チームが消滅するかもしれないという「存続問題」が起き、少しばかり存続のための活動をしたこともある。(「甲府愛にあふれる文」を書き続けることも存続の一助になるかもと考え、仲間のサイトの掲示板にほぼ毎日のように書いていたくらいだったが)その後、甲府は何とか存続でき、フロントと指導者に恵まれ、次第に力をつけてきた。
2005年12月10日、J1・J2入れ替え戦の第2戦。FWバレーのダブルハットトリックというミラクルもあり、6対2で勝利し、J1昇格を果たした。その日、私も千葉の柏サッカー場のゴール裏で声援を送っていた。消滅の危機から昇格まで、あの5年ほどの軌跡は「奇跡」と呼ぶにふさわしい。
あの日について、志村正彦が「甲府がJ1に上がった日は嬉しくて乾杯したな、そういやあ。」と書いてくれたのを、『東京、音楽、ロックンロール』の中に見つけた時は、志村ファンとしても甲府サポとしても、とても感激した。私たちサポーターも帰りの応援バスで祝杯をあげていたのを想い出した。
「志村日記」の2009年12月5日、彼が「今、甲府はどうなってるんだ?」と書いた日は、甲府サポにとって忘れることのできない、苦い苦い日となった。VF甲府は2007年J2に降格し、この日、もう一度J1に昇格できるかどうかが決まる重要な試合を闘っていた。
最終節時点での勝点が湘南ベルマーレ95、 ヴァンフォーレ甲府94。甲府が勝ち、湘南が引き分け以下になると、甲府はJ1に昇格する。結果は、甲府は勝ったが湘南も勝って(2点差を跳ね返した逆転勝利)、湘南が昇格を決めた。冬の寒い雨の煙る中、ホィッスルが鳴り、昇格が果たせなかったことが分かった瞬間、満員のサポーターやファンが失意と沈黙に沈んでいた。あんなに静まりかえった小瀬スタジアムを経験したことはない。もちろん、志村正彦がそんな状況を知るはすもないのだが、あの日の「今、甲府はどうなってるんだ?」という問いかけに対しては、ここまで書いたことがその応えとなるだろう。
その後甲府は、翌2010年に2度目のJ1昇格、2011年降格。そして2012年に3度目の昇格を果たし、今年度2013年はJ1に所属し、ついこの前、J1残留をぎりぎりで決めた。大きなスポンサーがいないので、甲府の予算は少なく、環境面でも恵まれない。J1とJ2の間を行ったり来たりだが、「プロビンチア(地方)」の志とたくましさを持って、Jリーグで闘っている。たかがサッカーにすぎないけど、私はVF甲府を誇りに思っている。
「志村日記」を読むと、その日付と関連のある出来事や思い出が浮かんでくることがある。
2009年12月5日の日付、そして2005年12月5日についての記述から、志村正彦ファンであり甲府サポーターでもある私の想いを込めて、今日は書かせていただきました。
付記
今年、ヴァンフォーレ甲府は天皇杯の準々決勝に勝ち進み、12月22日午後1時、サンフレッチェ広島と対戦します。「広島VS甲府」、まるで「奥田民生VS志村正彦」の闘いのようです(広島も好きなチームなので少し複雑ですが)。
NHKのBS1で生中継があるそうですので、志村ファンの皆さま、よろしかったらご観戦ください。もちろん(できることなら)、甲府を応援してくださいね。
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2013年12月1日日曜日
「失う用意はある?」アナログフィッシュ (志村正彦LN 59)
今日は12月1日。今年も最後の月となった。
最近、甲府盆地から見る富士の山は、言葉で形容するのが空しくなるくらい、気高く、美しい。甲府のほぼ南方面に富士山は位置している。だから、富士の西側と東側が視界の中に入る。夕方、西側から陽に照らされ、積雪の白い面が茜色に凝縮される。反対に、東側の面は青黒くなる。茜色と青黒色は次第に闇へと沈んでいく。そのしばらくの時の間、富士と対話する。
甲府盆地は、東西南北を高峰で囲まれている。南に富士山と御坂の山々、北西に八ヶ岳、北東に奥秩父、西に南アルプス。飯田龍太はこの風景を次のように詠んだ。
水澄みて四方に関ある甲斐の国
「水澄みて」とあるような、風景の透明感。眺めるこちらの心まで澄んでいくように作用する。反面、「関所」に囲まれているような空間の感触は、閉じられてあることの安定をもたらすと共に、ある種の窮屈さや鬱陶しさを与える。その「関」を越えると、どのような風景が広がっているのか。甲斐の国に住む人々は、他国以上にその想いが強い。だから歴史的に、この地を超えて、他の地へと旅だつ者が多かった。また、貧しい山国ゆえに、他所へ働きや商いに行かざるをえない者も多かった。
志村正彦が生まれ育った富士吉田は、甲府盆地からすると、南側の御坂山系の「関」を越えたところにある。甲府と異なり、富士山と小さな山々の「関」に囲まれているが、甲斐の国という共通項はある。彼も、生まれた地を越えて、東京へと旅に出かけた若者の一人だ。
アナログフィッシュの下岡晃と佐々木健太郎は、長野県下伊那の出身らしい。甲府から見ると、西側の南アルプスの「関」を越える方角に、二人の出身地がある。彼らも山国の「関」を越えて、東京へと向かった若者なのだろう。
志村正彦そして下岡晃も佐々木健太郎も、山国という自然の景観の中で、感受性を育て上げていった。自然と共に在るという感性。その表現の仕方は異なっているが、彼らの共通の原点とは言えるだろう。
前回に引き続き、アナログフィッシュ&モールスの桜座ライブについて書きたい。アナログフィッシュの1曲目は『PHASE』だ。激しいリズムに聴き手の手拍子も加わり、桜座の空間が熱気を帯びる。下岡晃は力強く歌い始める。
失う用意はある?
それとも放っておく勇気はあるのかい
何を「失う」のかという具体性は省かれ、その「用意はある?」とだけ問いかけられる。「失う」何かとは「放っておく勇気」を向ける対象と対比されていることだけが確かだ。何を失う用意があるのか、私たちが自らに問いかけ、そして自ら応答するように、言葉は仕掛けられている。
この歌詞は2011年3月11日の地震に起因する福島原発事故「前」に書かれていたようだが、この歌詞を予言的なもの、あるいは警告的なものと捉えるのは、3.11の原発事故「中」の現実、非常に過酷な状況に対して、あまり適切ではないだろう。原発事故は終息してはいない。私たちはまだその最「中」にいて、事故「後」にいるわけではない。「予言」や「警告」は、歴史の眼差しの中にある言葉であり、私たちが向かうべきなのは「現在」という、時間のただ「中」の課題であり、そのことを考え抜く言葉だ。
下岡は「システムとルール」に覆われている「真実」を求めている。
システムとルールをくぐり抜け
真実に会いに行くんだよ
福島原発事故が私たちに突きつけたのは、私たちの持つ命と健康、私たちの住む地と自然が絶対に奪われてはならない、という真実だ。これは絶対的な真実だが、怠惰な私たちは時にそのことを忘れてしまう。起こりえないような、しかし、現実に起こってしまった過酷さによって、忘却しがちの真実の目が覚めた。
そしてまた、私たちは、命と自然というかけがえのないもの、決して元には戻らないこと以外のものごとについては、それが本当に必要なものなのか、という疑問を抱くようになった。
奪われてならないものは奪われてはならない。無根拠で理不尽で狡猾な力によって奪われてはいけない。しかし、失っていいものは、むしろ、失ってもいいのではないのか。
何かを作り、得ること。手に入れたものを蓄積していくこと。この時代の産業と技術は得ることを中心に回っている。得ることへの強迫観念によって人々を支配している。そのことにより、かえって何かが奪われている。得ることが奪われることにつながるのなら、得ることを求めないこと、むしろ、はじめから失っているように生きていくことの方が倫理的ではないだろうか。
命と自然のように絶対に奪われてはならないもの。相対的に失ってもいいもの。この二つの選別が差し迫った課題となる時代が訪れつつある。
下岡は『PHASE』を次のように締めくくる。
僕たちのペースで この次のフェーズへ
君だけのフレーズで その次のフェーズへ
今、私たちは、「失う」ことへの「用意」を求められている。私たちは何をどのように失っていくのか。私たちが失うことでどのような世界が始まるのか。私たちは自らの「フレーズ」を口ずさみ、その次の「フェーズ」、世界の来るべき「フェーズ」へと移行しなくてはならない。
下岡晃の聡明な言葉は、この時代に焦点を当てて、私たちの現在に鋭く突きささる。
最近、甲府盆地から見る富士の山は、言葉で形容するのが空しくなるくらい、気高く、美しい。甲府のほぼ南方面に富士山は位置している。だから、富士の西側と東側が視界の中に入る。夕方、西側から陽に照らされ、積雪の白い面が茜色に凝縮される。反対に、東側の面は青黒くなる。茜色と青黒色は次第に闇へと沈んでいく。そのしばらくの時の間、富士と対話する。
甲府盆地は、東西南北を高峰で囲まれている。南に富士山と御坂の山々、北西に八ヶ岳、北東に奥秩父、西に南アルプス。飯田龍太はこの風景を次のように詠んだ。
水澄みて四方に関ある甲斐の国
「水澄みて」とあるような、風景の透明感。眺めるこちらの心まで澄んでいくように作用する。反面、「関所」に囲まれているような空間の感触は、閉じられてあることの安定をもたらすと共に、ある種の窮屈さや鬱陶しさを与える。その「関」を越えると、どのような風景が広がっているのか。甲斐の国に住む人々は、他国以上にその想いが強い。だから歴史的に、この地を超えて、他の地へと旅だつ者が多かった。また、貧しい山国ゆえに、他所へ働きや商いに行かざるをえない者も多かった。
志村正彦が生まれ育った富士吉田は、甲府盆地からすると、南側の御坂山系の「関」を越えたところにある。甲府と異なり、富士山と小さな山々の「関」に囲まれているが、甲斐の国という共通項はある。彼も、生まれた地を越えて、東京へと旅に出かけた若者の一人だ。
アナログフィッシュの下岡晃と佐々木健太郎は、長野県下伊那の出身らしい。甲府から見ると、西側の南アルプスの「関」を越える方角に、二人の出身地がある。彼らも山国の「関」を越えて、東京へと向かった若者なのだろう。
志村正彦そして下岡晃も佐々木健太郎も、山国という自然の景観の中で、感受性を育て上げていった。自然と共に在るという感性。その表現の仕方は異なっているが、彼らの共通の原点とは言えるだろう。
前回に引き続き、アナログフィッシュ&モールスの桜座ライブについて書きたい。アナログフィッシュの1曲目は『PHASE』だ。激しいリズムに聴き手の手拍子も加わり、桜座の空間が熱気を帯びる。下岡晃は力強く歌い始める。
失う用意はある?
それとも放っておく勇気はあるのかい
何を「失う」のかという具体性は省かれ、その「用意はある?」とだけ問いかけられる。「失う」何かとは「放っておく勇気」を向ける対象と対比されていることだけが確かだ。何を失う用意があるのか、私たちが自らに問いかけ、そして自ら応答するように、言葉は仕掛けられている。
この歌詞は2011年3月11日の地震に起因する福島原発事故「前」に書かれていたようだが、この歌詞を予言的なもの、あるいは警告的なものと捉えるのは、3.11の原発事故「中」の現実、非常に過酷な状況に対して、あまり適切ではないだろう。原発事故は終息してはいない。私たちはまだその最「中」にいて、事故「後」にいるわけではない。「予言」や「警告」は、歴史の眼差しの中にある言葉であり、私たちが向かうべきなのは「現在」という、時間のただ「中」の課題であり、そのことを考え抜く言葉だ。
下岡は「システムとルール」に覆われている「真実」を求めている。
システムとルールをくぐり抜け
真実に会いに行くんだよ
福島原発事故が私たちに突きつけたのは、私たちの持つ命と健康、私たちの住む地と自然が絶対に奪われてはならない、という真実だ。これは絶対的な真実だが、怠惰な私たちは時にそのことを忘れてしまう。起こりえないような、しかし、現実に起こってしまった過酷さによって、忘却しがちの真実の目が覚めた。
そしてまた、私たちは、命と自然というかけがえのないもの、決して元には戻らないこと以外のものごとについては、それが本当に必要なものなのか、という疑問を抱くようになった。
奪われてならないものは奪われてはならない。無根拠で理不尽で狡猾な力によって奪われてはいけない。しかし、失っていいものは、むしろ、失ってもいいのではないのか。
何かを作り、得ること。手に入れたものを蓄積していくこと。この時代の産業と技術は得ることを中心に回っている。得ることへの強迫観念によって人々を支配している。そのことにより、かえって何かが奪われている。得ることが奪われることにつながるのなら、得ることを求めないこと、むしろ、はじめから失っているように生きていくことの方が倫理的ではないだろうか。
命と自然のように絶対に奪われてはならないもの。相対的に失ってもいいもの。この二つの選別が差し迫った課題となる時代が訪れつつある。
下岡は『PHASE』を次のように締めくくる。
僕たちのペースで この次のフェーズへ
君だけのフレーズで その次のフェーズへ
今、私たちは、「失う」ことへの「用意」を求められている。私たちは何をどのように失っていくのか。私たちが失うことでどのような世界が始まるのか。私たちは自らの「フレーズ」を口ずさみ、その次の「フェーズ」、世界の来るべき「フェーズ」へと移行しなくてはならない。
下岡晃の聡明な言葉は、この時代に焦点を当てて、私たちの現在に鋭く突きささる。
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2013年11月23日土曜日
アナログフィッシュ&モールス、甲府の桜座で。(志村正彦LN 58)
17日夜、甲府の桜座で開催の『analogfish&mooolsと行く、冬の信州 甲府 皆神山 気脈巡りツアー2013』に出かけた。アナログフィッシュは、志村正彦、フジファブリックとゆかりの深いバンド。「志村日記」の2004年5月2日にはこうある。
新宿ロフトにアナログフィッシュを観に行く。
凄くグッと来た。なんか頭の中がドワーッとなる感じ。
連続するキメも気持ちよかった。
志村正彦が「凄くグッと来た」と書いたアナログフィッシュ。いったいどんな音楽なのだろうか。9月下旬、桜座でライブがあることを知るとすぐに予約を入れ、新譜の『NEWCLEAR』と旧譜の『ROCK IS HARMONY』と『KISS』を手に入れ、当日までに聞きこむことにした。youtubeの映像やネット上の記事も探した。
こんなにも質の高い独創的なスリーピースバンドがあったのだなという驚きが初めにもたらされた。ギター、ベース、ドラムの三つの楽器による複合的な厚みを持つリズム。それに乗って繰り広げられる二人の言葉と歌声、三人によるハーモニー。下岡晃の鋭さと深さ、佐々木健太郎の伸びやかさと陰影。二人を支える斉藤州一郎の抑制の効いた正確なビート。スリーピースであるという必然性を感じる音楽だ。そしてこの時代において、志村正彦とは異なる方法論で、言葉を、メッセージを、非常に大切にしているバンドだということが分かった。桜座ツアーへの期待が高まっていった。
私の自宅からは車で10分ほどで桜座に着く。甲府の中心街にある桜座は、いわゆる「ライブハウス」ではなく、不思議な「小屋」だと言うしかない場だ。もともと、明治から昭和初めまで、甲府の桜町に「櫻座」という芝居小屋があった。その伝統と記憶を復活させるために、名前を受け継ぎ、場所を少し移し、ガラス工場を改築して、2005年6月、新しい「桜座」が誕生した。
工場を直したため、天井がかなり高く、音が抜ける構造であり、いわゆる「デッド」な響きの音となる。聴き手は座布団に座り、すぐ前に演奏家がいるので、距離が近く、他の会場では味わえない雰囲気がある。桜座の独特な雰囲気と音の素晴らしさが音楽家にも好評で、最近は以前よりライブの回数が増えてきた。
江戸時代の甲府に遡る。甲府は幕府直轄領になり、甲府勤番が置かれた地だ。独自の「藩」文化が育たない代わりに、江戸の文化とは意外に直結していた。芝居小屋もたくさんあり、市川団十郎など江戸の歌舞伎がよく演じられていた。甲府で評判が良いと江戸でも必ずそうなると言われていたようだ。江戸の甲府の街には、それなりに人々が愉しむ場があったらしい。
今、甲府の中心街は、他の地方都市と同様にさびれてしまっている。東京には日帰りで遊びや買い物に行ける距離にあることが逆に災いとなって、若者が集うような街の文化が育たない。そのような状況で、「桜座」のプロジェクトが始まったのは歓迎すべきことだった。甲府の街の一つの拠点となる可能性があるからだ。これまで私も、早川義夫・佐久間正英のユニット、遠藤賢司、森山威男(山梨・勝沼生まれの最高のジャズドラマー)、梅津和時・こまっちゃクレズマなど、ここでしか聴くことのできない音楽に出会いに行った。今年は6月に、向井秀徳アコースティック&エレクトリックのライブを聴いた。
桜座に入る。客は百人くらいだが、おそらく半数以上いや3分の2以上が県外から来られた方だと推測される。アナログフィッシュとモールスの熱心なファンがほとんどだろうが、中には私たちのような志村正彦ファンも混じっているかもしれない。桜座の最近の動員はまずまずのようだが、県内の客が少ないのがとても残念だ。
ライブはアナログフィッシュの『PHASE』から始まった。斉藤州一郎と佐々木健太郎のリズムセクションは、「怜悧な熱狂」とでも言えるような凄みを持つ。そのリズムに巧みな脚韻と切れの良い歌詞が絡み合い、言葉と律動の独特な複合感が生まれる。このようなサウンドは洋楽を含めて他に類例がない。志村正彦が書いた、「凄くグッと」「頭の中がドワーッと」という形容、「連続するキメ」の気持ちよさとは、このような感触なのかもしれない。
スリーピースバンドにはロックの原型がある。必要でないものをそぎ落とした音ゆえに、逆に、三人の音や声が透きとおるように空間に広がっていく。桜座という素晴らしい環境を得て、アナログフィッシュの奏でる空間の感触に魅了された。 (この項続く)
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2013年11月17日日曜日
「レコード持って」-CD『フジファブリック』2 (志村正彦LN 57)
前回、メジャー第1作CD『フジファブリック』がアナログ盤LPレコードとして発売されたらという「ないものねだり」の夢想を語った。
とは言っても今、私自身、学生時代によく聴いていたLPレコードとプレーヤーは物置に置いてある。ほとんどCDで買い直してあるのだが、それでもやはり、LPを処分することはできない。いつだったか、20年ぶりくらいに、レコードを梱包した包みをほどいたことがあった。封印を解くかのように現れたLP盤、ジャケットのデザイン、絵や写真やロゴ、紙製であるゆえのやわらかい手触り、物質としてのレコードはとても強い記憶の喚起力を持っていて、私はすぐに学生の頃住んでいた東京のアパートの部屋にワープしていった。
おそらく今よりももっと切実に音楽を聴いていた日々があった。十代から二十代の感性でしか出会えないような音楽がある。切実に向き合うという意味で。ロックはそのような経験の代名詞だ。現在の私はその経験の残滓を言葉で補填して、このようなエッセイを書いているにすぎない。(もちろん、言うまでもなく、どのような年代にでも、音楽は開かれている。ただし、ロックの場合、ある種の若さ、未熟さのようなものが出会いの契機となり、聴くことを深めていく。それは若者の特権でもある)
『フジファブリック』収録曲に、『サボテンレコード』という、志村正彦でしか作りえないと断言できるような歌がある。彼の音楽的な素養が、狭義のロックを超えて、より豊かなものであったことを証明する楽曲だが、歌詞も、「ちょっとへんてこりんなのに、せつなく、いとしい」という、彼の独創的な歌の系譜に位置する作品だ。
歌の主体は、「ならば全てを捨てて あなたを連れて行こう」と決意する。
何も意味は無かったが ステレオのスウィッチ
入れて 30年遡り かけた音楽
それはボサノバだったり ジャズに変えては まったり
リズム チキチキドン チキチキドンドコ
音楽は時間を遡る。「何も意味は無かったが」、それはかけがえのないものだ。「チキチキドン チキチキドンドコ」のリズムにのって、人を大切な時へと瞬間移動させる「タイムマシーン」だ。
だから、「全てを捨てて」も音楽を捨て去ることはできない。「今夜 荷物まとめて」、「サボテン持って レコード持って」旅立つことになる。花を咲かせることのあるサボテン。アナログ盤にまちがいないレコード。志村正彦らしいアイテムだ。
今、アナログ盤をめぐる状況はどうか気になったので、ネットで調べてみた。RO69がNMEと提携しているニュース(2013.10.18)に、「英アナログ盤が過去10年で最大のセールスに」と題した記事が掲載されていた。(http://ro69.jp/news/detail/90762)
すでに昨年比100パーセント以上の売上増となり、アルバム全体のシェアでも0.8パーセントとなってるそうだ。イギリス・レコード産業協会(BPI)代表ジェフ・テイラー氏の言葉が紹介されている。
アナログ盤について私たちは今その復活を目撃しているわけで、もはやレトロ好きのものではなくなり、音楽ファンにとってますます一つの選択として注目されてきているのです。今もマーケット全体に占めるシェアは小さいものですが、大抵はMP3のダウンロード・コードも付録としてついてきているアナログ盤レコードの、特に12インチというサイズのジャケットに施されたアートワークやライナーノーツ、またその独特なサウンドの魅力を新しい世代のリスナーが発見していて、それに伴って売上は急速に伸びています。
やはり、ジャケットのアートワーク、ライナーノーツ、独特なサウンド、という三つの魅力が指摘されている。それに加えて大抵はMP3のダウンロード・コードが付いているのは初めて知ったが、こういうアイディアにはとても感心した。つまり、コレクションアイテム、愛蔵品としてはアナログ盤、デジタル音源としてはMP3、両者の良さを合わせ持った「ハイブリッド」的な商品作りをしている。その観点からすると、コンパクトディスクはデジタル音源の記録媒体としての意味合いしかなくなり、魅力のうすい中途半端なものとなるだろう。
このような商品の場合、コスト増は否めないが、パッケージメディアがこれからも商品として存続するためには、このような試みも必要だ。試行錯誤が今後も続くのだろう。
志村日記(『東京、音楽、ロックンロール 完全版』[ロッキング・オン])の2006年3月8日の記述「でかけた」にはこうある。
で、昨日は片寄さん夫婦宅にお邪魔しました。譲ってもらうレコードプレーヤーを取りにいったんですが、色んな話をしました。
ビートルズのオリジナル盤も聴かせてもらいました。PUNKでした。宝の山でした。片寄さんもオタクど真ん中です。俺も欲しい盤あるから気合い入れてレコード屋へ足を運ぼうかなと。
片寄明人・ショコラ夫妻にも感化されて、志村正彦のレコード愛も高まっていったようだ。彼が一番、フジファブリックのCDのアナログ盤を欲しがっていたのかもしれない。この日の日記を読んで、そんなことをしきりに想う。
(この項続く)
とは言っても今、私自身、学生時代によく聴いていたLPレコードとプレーヤーは物置に置いてある。ほとんどCDで買い直してあるのだが、それでもやはり、LPを処分することはできない。いつだったか、20年ぶりくらいに、レコードを梱包した包みをほどいたことがあった。封印を解くかのように現れたLP盤、ジャケットのデザイン、絵や写真やロゴ、紙製であるゆえのやわらかい手触り、物質としてのレコードはとても強い記憶の喚起力を持っていて、私はすぐに学生の頃住んでいた東京のアパートの部屋にワープしていった。
おそらく今よりももっと切実に音楽を聴いていた日々があった。十代から二十代の感性でしか出会えないような音楽がある。切実に向き合うという意味で。ロックはそのような経験の代名詞だ。現在の私はその経験の残滓を言葉で補填して、このようなエッセイを書いているにすぎない。(もちろん、言うまでもなく、どのような年代にでも、音楽は開かれている。ただし、ロックの場合、ある種の若さ、未熟さのようなものが出会いの契機となり、聴くことを深めていく。それは若者の特権でもある)
『フジファブリック』収録曲に、『サボテンレコード』という、志村正彦でしか作りえないと断言できるような歌がある。彼の音楽的な素養が、狭義のロックを超えて、より豊かなものであったことを証明する楽曲だが、歌詞も、「ちょっとへんてこりんなのに、せつなく、いとしい」という、彼の独創的な歌の系譜に位置する作品だ。
歌の主体は、「ならば全てを捨てて あなたを連れて行こう」と決意する。
何も意味は無かったが ステレオのスウィッチ
入れて 30年遡り かけた音楽
それはボサノバだったり ジャズに変えては まったり
リズム チキチキドン チキチキドンドコ
音楽は時間を遡る。「何も意味は無かったが」、それはかけがえのないものだ。「チキチキドン チキチキドンドコ」のリズムにのって、人を大切な時へと瞬間移動させる「タイムマシーン」だ。
だから、「全てを捨てて」も音楽を捨て去ることはできない。「今夜 荷物まとめて」、「サボテン持って レコード持って」旅立つことになる。花を咲かせることのあるサボテン。アナログ盤にまちがいないレコード。志村正彦らしいアイテムだ。
今、アナログ盤をめぐる状況はどうか気になったので、ネットで調べてみた。RO69がNMEと提携しているニュース(2013.10.18)に、「英アナログ盤が過去10年で最大のセールスに」と題した記事が掲載されていた。(http://ro69.jp/news/detail/90762)
すでに昨年比100パーセント以上の売上増となり、アルバム全体のシェアでも0.8パーセントとなってるそうだ。イギリス・レコード産業協会(BPI)代表ジェフ・テイラー氏の言葉が紹介されている。
アナログ盤について私たちは今その復活を目撃しているわけで、もはやレトロ好きのものではなくなり、音楽ファンにとってますます一つの選択として注目されてきているのです。今もマーケット全体に占めるシェアは小さいものですが、大抵はMP3のダウンロード・コードも付録としてついてきているアナログ盤レコードの、特に12インチというサイズのジャケットに施されたアートワークやライナーノーツ、またその独特なサウンドの魅力を新しい世代のリスナーが発見していて、それに伴って売上は急速に伸びています。
やはり、ジャケットのアートワーク、ライナーノーツ、独特なサウンド、という三つの魅力が指摘されている。それに加えて大抵はMP3のダウンロード・コードが付いているのは初めて知ったが、こういうアイディアにはとても感心した。つまり、コレクションアイテム、愛蔵品としてはアナログ盤、デジタル音源としてはMP3、両者の良さを合わせ持った「ハイブリッド」的な商品作りをしている。その観点からすると、コンパクトディスクはデジタル音源の記録媒体としての意味合いしかなくなり、魅力のうすい中途半端なものとなるだろう。
このような商品の場合、コスト増は否めないが、パッケージメディアがこれからも商品として存続するためには、このような試みも必要だ。試行錯誤が今後も続くのだろう。
志村日記(『東京、音楽、ロックンロール 完全版』[ロッキング・オン])の2006年3月8日の記述「でかけた」にはこうある。
で、昨日は片寄さん夫婦宅にお邪魔しました。譲ってもらうレコードプレーヤーを取りにいったんですが、色んな話をしました。
ビートルズのオリジナル盤も聴かせてもらいました。PUNKでした。宝の山でした。片寄さんもオタクど真ん中です。俺も欲しい盤あるから気合い入れてレコード屋へ足を運ぼうかなと。
片寄明人・ショコラ夫妻にも感化されて、志村正彦のレコード愛も高まっていったようだ。彼が一番、フジファブリックのCDのアナログ盤を欲しがっていたのかもしれない。この日の日記を読んで、そんなことをしきりに想う。
(この項続く)
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2013年11月10日日曜日
ないものねだりの空想-CD『フジファブリック』1 (志村正彦LN 56)
9年前の今日、2004年11月10日に、フジファブリックのメジャーデビュー作『フジファブリック』がEMIジャパンから発売された。すでに、インディーズでの2枚のCD『アラカルト』『アラモード』、それらの楽曲を再録音したプレデビューCD『アラモルト』の3枚の「アラ~」アルバムが発表されていたが、この日は、メジャーという世界にアルバムデビューした記念すべき日だ。今朝から繰り返し聴き、思い浮かんできた様々なことを、数回に分けて書き連ねたい。
コンパクトディスクを手に取る。柴宮夏希さんと志村正彦自身によるジャケットのデザイン。フジファブリックのメンバー5人が溶け出すような不思議な絵と七色の虹のような線が独特の印象をもたらす。歌詞のブックレット、内側にスタジオでのメンバーの写真。その部屋のモチーフがデザインされ、CDの表面にモノクロでプリントされている。クレジットのSPECIAL THANK の冒頭には、オリジナルメンバーだった渡辺隆之の名。志村正彦の彼に対する想いが伝わる。
そのうち、このCDがLPレコードのアナログ盤として発売されていたらどうだったのか、というあるはずもない想像をして遊ぶことになった。「ないものねだり」の空想だ。
柴宮さんのイラストはもっと大きな面の方が栄える。虹色の7本のラインもすっと延びて、見開きの裏側には、全10曲の歌詞が並んで、志村正彦の詩的世界が広がる。こんなジャケットであれば、部屋の一角に立てかけておくか、フレームに入れて壁に飾るか、色々と工夫ができる。
私たちのような、70年代前半のLPレコードのジャケットの黄金時代に、ロックのアルバムを聴き始めた世代にとって、80年代以降のCDへのメディア変更による、30センチ四方の紙製ジャケットという「キャンパス」の喪失は何よりも残念なことであった。特に、70年代前半の英国ロックのジャケットは、極東の島国に住む若者たちにとって何よりも、ポップな「アート」を感じさせるものだった。(長い時間にわたるが、CDが売れなくなってきたのは、このようなアートが失われてしまったからだという気もしている)
いつもはPCに接続した小さなスピーカーで聴きながら原稿を書いているが、今日は「ステレオのスウィッチ入れて」、ヴォリュームを上げ、大音量で鳴らした。
ロックだ。あたりまえのことかもしれないが、ものすごく「ロック」を感じる。それも70年代前半の「ニューロック」(懐かしい言葉だ)と呼ばれていた時代の音の感触に近い。「ニューロック」をバンド名で象徴するのなら、レッド・ツェッペリンになるだろうか。歌詞と楽曲が、言葉とサウンドが、それ以前の時代の「ロック」や「ロックンロール」より、はるかに高度に美しく結びついたのが「ニューロック」だった。
音源そのものも、デジタルっぽくないというかアナログのような感じがする。加工しすぎていない、素のサウンド、素のうねりのようなリズムを活かしている。プロデューサーの片寄明人は「僕は少なくともこの1stアルバムまではメンバーの音だけで、しかもアナログな音で創り上げるべきだと強く思っていた」と書いている(『フジファブリック4』(片寄明人 公式Facebook、https://www.facebook.com/katayose.akito/notes)。 『FAB BOOK』にもメンバーによる同様の証言があるが、このねらいは充分に実現されている。ロンドンのアビーロードスタジオで、スティーヴ・ルークによるマスタリングが施されたことも大きいのだろう。
LPレコードであれば、当然、A面とB面という構成になる。全10曲だから5曲ずつになるだろう。
A面
1.桜の季節
2.TAIFU
3.陽炎
4.追ってけ追ってけ
5.打上げ花火
B面
1.TOKYO MIDNIGHT
2.花
3.サボテンレコード
4.赤黄色の金木犀
5.夜汽車
想像の世界で、LPをターンテーブルに置く。A面、表面は、『桜の季節』という「始まり」の季節、『陽炎』という「追憶」の季節、志村正彦にしか表現しえないような春・夏盤のモチーフ、「TAIFU」「追ってけ追ってけ」のユニークなリズムと言葉の感覚、「打上げ花火」のプログレッシブ・ロック風味の展開というように、「クラッシック・ロック」の王道を踏みしめると共に、「類い希な日本語ロック」の道を歩み始めている。
LPをひっくり返す。B面は、裏面らしく、「TOKYO MIDNIGHT」から「夜汽車」へと、A面最後の「打上げ花火」から続く「夜」の時間が底流にある。「花」「サボテンレコード」「赤黄色の金木犀」という流れ、花や植物という志村正彦の愛したモチーフが続く三つの作品。季節は秋へと移り、「夜汽車」で帰路につくように静かに終わっていく。A面の「動」と「昼」、B面の「静」と「夜」という対比も、仮想の聴き手は感じとるだろう。そして、この音源には黒いビニールのLPレコード盤がしっくりくるような気がしないだろうか。
ここまで書いてくると、『フジファブリック』のアナログLPを現実に欲しくなってくる。「ないものねだり」の欲望だと思われるかもしれないが、もうすぐbloodthirsty butchersの「kocorono」が限定1000セットで初のアナログLPになって発売される。5月に急逝した吉村秀樹(孤高の優れた歌い手であり詩人である。かつて志村正彦も一緒に小さなツアーをしたことがある)の長年の希望だったようだ。このような追悼の形は音楽家への敬意があふれている。
来年は、フジファブリックのメジャーデビュー10周年となる。志村正彦在籍時のフジファブリックを新たに見つめ直す良い契機となる。収録済みだが未発売のライブの音源・映像などがまだいくつかあると思われる。フジファブリックのファンはそのような音源・映像を今まで「ないものねだり」してきたのだが、少しでもいいから、「ないもの」が「あるもの」になりますようにと、願わずにはいられない。
(この項続く)
コンパクトディスクを手に取る。柴宮夏希さんと志村正彦自身によるジャケットのデザイン。フジファブリックのメンバー5人が溶け出すような不思議な絵と七色の虹のような線が独特の印象をもたらす。歌詞のブックレット、内側にスタジオでのメンバーの写真。その部屋のモチーフがデザインされ、CDの表面にモノクロでプリントされている。クレジットのSPECIAL THANK の冒頭には、オリジナルメンバーだった渡辺隆之の名。志村正彦の彼に対する想いが伝わる。
そのうち、このCDがLPレコードのアナログ盤として発売されていたらどうだったのか、というあるはずもない想像をして遊ぶことになった。「ないものねだり」の空想だ。
柴宮さんのイラストはもっと大きな面の方が栄える。虹色の7本のラインもすっと延びて、見開きの裏側には、全10曲の歌詞が並んで、志村正彦の詩的世界が広がる。こんなジャケットであれば、部屋の一角に立てかけておくか、フレームに入れて壁に飾るか、色々と工夫ができる。
私たちのような、70年代前半のLPレコードのジャケットの黄金時代に、ロックのアルバムを聴き始めた世代にとって、80年代以降のCDへのメディア変更による、30センチ四方の紙製ジャケットという「キャンパス」の喪失は何よりも残念なことであった。特に、70年代前半の英国ロックのジャケットは、極東の島国に住む若者たちにとって何よりも、ポップな「アート」を感じさせるものだった。(長い時間にわたるが、CDが売れなくなってきたのは、このようなアートが失われてしまったからだという気もしている)
いつもはPCに接続した小さなスピーカーで聴きながら原稿を書いているが、今日は「ステレオのスウィッチ入れて」、ヴォリュームを上げ、大音量で鳴らした。
ロックだ。あたりまえのことかもしれないが、ものすごく「ロック」を感じる。それも70年代前半の「ニューロック」(懐かしい言葉だ)と呼ばれていた時代の音の感触に近い。「ニューロック」をバンド名で象徴するのなら、レッド・ツェッペリンになるだろうか。歌詞と楽曲が、言葉とサウンドが、それ以前の時代の「ロック」や「ロックンロール」より、はるかに高度に美しく結びついたのが「ニューロック」だった。
音源そのものも、デジタルっぽくないというかアナログのような感じがする。加工しすぎていない、素のサウンド、素のうねりのようなリズムを活かしている。プロデューサーの片寄明人は「僕は少なくともこの1stアルバムまではメンバーの音だけで、しかもアナログな音で創り上げるべきだと強く思っていた」と書いている(『フジファブリック4』(片寄明人 公式Facebook、https://www.facebook.com/katayose.akito/notes)。 『FAB BOOK』にもメンバーによる同様の証言があるが、このねらいは充分に実現されている。ロンドンのアビーロードスタジオで、スティーヴ・ルークによるマスタリングが施されたことも大きいのだろう。
LPレコードであれば、当然、A面とB面という構成になる。全10曲だから5曲ずつになるだろう。
A面
1.桜の季節
2.TAIFU
3.陽炎
4.追ってけ追ってけ
5.打上げ花火
B面
1.TOKYO MIDNIGHT
2.花
3.サボテンレコード
4.赤黄色の金木犀
5.夜汽車
想像の世界で、LPをターンテーブルに置く。A面、表面は、『桜の季節』という「始まり」の季節、『陽炎』という「追憶」の季節、志村正彦にしか表現しえないような春・夏盤のモチーフ、「TAIFU」「追ってけ追ってけ」のユニークなリズムと言葉の感覚、「打上げ花火」のプログレッシブ・ロック風味の展開というように、「クラッシック・ロック」の王道を踏みしめると共に、「類い希な日本語ロック」の道を歩み始めている。
LPをひっくり返す。B面は、裏面らしく、「TOKYO MIDNIGHT」から「夜汽車」へと、A面最後の「打上げ花火」から続く「夜」の時間が底流にある。「花」「サボテンレコード」「赤黄色の金木犀」という流れ、花や植物という志村正彦の愛したモチーフが続く三つの作品。季節は秋へと移り、「夜汽車」で帰路につくように静かに終わっていく。A面の「動」と「昼」、B面の「静」と「夜」という対比も、仮想の聴き手は感じとるだろう。そして、この音源には黒いビニールのLPレコード盤がしっくりくるような気がしないだろうか。
ここまで書いてくると、『フジファブリック』のアナログLPを現実に欲しくなってくる。「ないものねだり」の欲望だと思われるかもしれないが、もうすぐbloodthirsty butchersの「kocorono」が限定1000セットで初のアナログLPになって発売される。5月に急逝した吉村秀樹(孤高の優れた歌い手であり詩人である。かつて志村正彦も一緒に小さなツアーをしたことがある)の長年の希望だったようだ。このような追悼の形は音楽家への敬意があふれている。
来年は、フジファブリックのメジャーデビュー10周年となる。志村正彦在籍時のフジファブリックを新たに見つめ直す良い契機となる。収録済みだが未発売のライブの音源・映像などがまだいくつかあると思われる。フジファブリックのファンはそのような音源・映像を今まで「ないものねだり」してきたのだが、少しでもいいから、「ないもの」が「あるもの」になりますようにと、願わずにはいられない。
(この項続く)
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