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2013年12月19日木曜日

連想のように (志村正彦LN 64)

 メジャー1stCD『フジファブリック』は、ビートルズのスタジオとして有名なアビーロード・スタジオのスティーヴ・ルークによってマスタリングが行われた。今回は、そのことから発して、幾つかの文章を引用しながらつなげていきたい。
 アビーロードが選ばれたその経緯は、プロデューサー片寄明人氏によって詳しく記されている。(「フジファブリック 5 」https://www.facebook.com/katayose.akito/notes )志村正彦は初め、その提案に懐疑的だったようだが、「1stアルバムに志村くんが書いた楽曲が持つ、繊細でどこか湿った空気感」に合うという片寄氏の直感を信じて、その案を受け入れたようだ。ただし予算の関係で、メンバーの代表志村、プロデューサーの片寄氏そしてディレクターの今村圭介氏(彼は『FABBOX』まで、EMIのディレクターとして制作の中心にいた。「2002年9月27日」というEMIスタッフブログの記事[http://fuji-emistaff.jugem.jp/?eid=6]等を読むと、志村正彦との深い関わりがうかがえる)の3人だけがロンドンに行くことになった。志村日記を読むと、2004年9月9日から12日までの短い滞在だったようだ。片寄氏はスタジオ作業の様子を次のように描写している。

 「いいっすね! あ、今のギターの音、ビートルズみたいな音に聴こえます!」
 志村くんは自分の創った音がイギリス人の手で生き生きと躍動しはじめるのを目の当たりにしてテンションも上がってきたのか、かなり嬉しそうな顔を見せ始めた。
 スティーヴも志村くんの曲に「この曲すごくいいね。」とか「これは日本以外の国では発売しないの?」とか、1曲作業が終わるごとに一言感想をはさみながら、ご機嫌に作業を進めてくれた。


 スティーヴから「昨日はここでポール・マッカートニーが作業していたんだよ」と聞いたり、ビートルズが使用していたスタジオに潜り込んだりして、すっかりビートルズの余韻にひたったようだ。片寄氏の言葉がいきいきと伝えている。

 「これってもしかするとポールが弾いてたピアノと同じじゃないですかね」志村くんはそういって年代物のピアノに腰掛けると、蓋を開けてピアノをポロポロと弾き出した。まるで夢のような時間だった。

 アルバム『フジファブリック』が、アビーロード・スタジオのマスタリング、サウンド・デザインの系譜の一つに位置づけられるのは、志村正彦にとっても私たち聴き手にとっても、幸福なことだった。『フジファブリック』には、ブリティッシュ・ロックと日本のロックの高度な融合があるのだから。
 ポール・マッカートニーと言えば、11月に11年ぶりに来日し、"Out There"ツアーをしたことがかなり話題となった。メディアにも様々に取り上げられたが、12月11日の「朝日新聞」夕刊文化欄の「甲乙閑話」というコラムで、村山正司編集委員が書いた『宗教性帯びたポール』という記事が興味深かった。

 ポール・マッカートニーのライブを、先月18日に東京で見た。11年前の来日公演と比べて、印象深かったことがある。死者が身近になっているのだ。
 「この曲はジョンのために」「ジョージのために」「リンダのために」。先に亡くなったビートルズのメンバーや先妻に捧げられた曲が、次々に演奏されていく。そして、「イエスタデイ」は福島の被災者のために。


 村山氏はポールのクラシック作品『心の翼』の第二楽章「神の恩恵」の歌詞の一節「悲嘆しきった顔に/神の恵みを受けた/痕跡を見ることができるかもしれない」について、「この歌詞を宗教的といって誤りはないだろう。旋律も天上的に美しい」と述べ、次のように考察している。

 ライブでポールは1曲終わると、しばしばバイオリンベースの底を持って天に突き上げた。観客は少し戸惑っているようだった。彼は死者にメッセージを送っていたのではなかったか。

 ツアーのタイトル、"Out There"には多様な意味があるようだが、調べてみると、「今ここではない場」「どこか彼方」という解釈もできるようだ。そのように捉えるならば、ポールは、今ここではないどこか彼方に向けて歌っていたとも考えられる。死者は今ここではないどこか彼方にいる。私たちもいつかはその彼方に向かう。ポールの所作やツアーの題名には、そのような意味が込められているのかもしれない。
 村山氏が指摘している観客の戸惑い。私はコンサートには行っていないが、何となくその晩の雰囲気を感じることができる。
 社会学者の橋爪大三郎は、『ビートルズが現役だった頃』(『ビートルズの社会学』朝日新聞社、1996年)でこう書いている。

 JOHN、PAULら四人組と聞けば、西欧世界の人々ならきっと聖書を思い出す。
 JOHNはヨハネ、PAULは聖パウロのことだからだ。そういえば福音書も、四篇あるではないか。
  一人でも二人でもなくて四人組。するとその中心に、何となくイエスの姿が視えてくる。宗教的なアウラが立ちのぼってくる。のちにジョン・レノンが”自分たちはイエスより有名になった”と言った言わないで物議をかもしたのも、ファンの側に何となくそのような同一視が隠れていたことの露われかもしれない。


 ポール・マッカートニーの信仰や宗教がどのようなものであるのか、私には分からないが、『心の翼』の歌詞の一節を読む限り、キリスト教的な思想が根本にあることが確かだろう。
 欧米の社会と文化の根底には、キリスト教がある。欧米の文化の産物であるロック音楽、特にその歌詞の世界の理解に、キリスト教の理解が不可欠であることは自明だ。しかし、私たち日本人にはその理解が難しい。(私の敬愛するピーター・ガブリエルPeter Gabriel在籍時のジェネシスGenesisの歌詞には、聖書からの引用が非常に多い。1st「創世記From Genesis To Revelation 」から6th「眩惑のブロードウェイ The Lamb Lies Down On Broadway 」まで、多様なモチーフが使われている。もともと、Genesisは旧約聖書の「創世記」のことであり、宗教的なものとの対話が根底にある。Gabrielが三大天使の名であることも欧米の聴き手にとっては前提であろう。)
 したがって、日本のロック・ジャーナリズムではそのような文脈はあまり顧みられない。欧米のロックの受容が表面的で、そのことが批評の言葉の貧しさの原因ともなっている。

 今回は、優れた書き手の言葉を引用させていただきながら、とりとめない連想のようなものを書いてしまった。夜のローカルニュースは、富士北麓地域には雪が降っていると伝えていた。今、甲府でも少しだけ積もってきた。
 もう日が変わってしまったので、明日20日から26日まで、富士吉田の夕方5時のチャイムが『茜色の夕日』に再び変わる。白い雪景の吉田と『茜色の夕日』。志村正彦のメロディが遠い彼方から静かに降ってくる。
 最後に、『CHRONICLE』の静謐な美しさを持つ名曲『Stockholm』の歌詞を引いて、この稿を閉じたい。


  静かな街角
  辺りは真っ白


  雪が積もる 街で今日も
  君の事を想う


 

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