今日は12月1日。今年も最後の月となった。
最近、甲府盆地から見る富士の山は、言葉で形容するのが空しくなるくらい、気高く、美しい。甲府のほぼ南方面に富士山は位置している。だから、富士の西側と東側が視界の中に入る。夕方、西側から陽に照らされ、積雪の白い面が茜色に凝縮される。反対に、東側の面は青黒くなる。茜色と青黒色は次第に闇へと沈んでいく。そのしばらくの時の間、富士と対話する。
甲府盆地は、東西南北を高峰で囲まれている。南に富士山と御坂の山々、北西に八ヶ岳、北東に奥秩父、西に南アルプス。飯田龍太はこの風景を次のように詠んだ。
水澄みて四方に関ある甲斐の国
「水澄みて」とあるような、風景の透明感。眺めるこちらの心まで澄んでいくように作用する。反面、「関所」に囲まれているような空間の感触は、閉じられてあることの安定をもたらすと共に、ある種の窮屈さや鬱陶しさを与える。その「関」を越えると、どのような風景が広がっているのか。甲斐の国に住む人々は、他国以上にその想いが強い。だから歴史的に、この地を超えて、他の地へと旅だつ者が多かった。また、貧しい山国ゆえに、他所へ働きや商いに行かざるをえない者も多かった。
志村正彦が生まれ育った富士吉田は、甲府盆地からすると、南側の御坂山系の「関」を越えたところにある。甲府と異なり、富士山と小さな山々の「関」に囲まれているが、甲斐の国という共通項はある。彼も、生まれた地を越えて、東京へと旅に出かけた若者の一人だ。
アナログフィッシュの下岡晃と佐々木健太郎は、長野県下伊那の出身らしい。甲府から見ると、西側の南アルプスの「関」を越える方角に、二人の出身地がある。彼らも山国の「関」を越えて、東京へと向かった若者なのだろう。
志村正彦そして下岡晃も佐々木健太郎も、山国という自然の景観の中で、感受性を育て上げていった。自然と共に在るという感性。その表現の仕方は異なっているが、彼らの共通の原点とは言えるだろう。
前回に引き続き、アナログフィッシュ&モールスの桜座ライブについて書きたい。アナログフィッシュの1曲目は『PHASE』だ。激しいリズムに聴き手の手拍子も加わり、桜座の空間が熱気を帯びる。下岡晃は力強く歌い始める。
失う用意はある?
それとも放っておく勇気はあるのかい
何を「失う」のかという具体性は省かれ、その「用意はある?」とだけ問いかけられる。「失う」何かとは「放っておく勇気」を向ける対象と対比されていることだけが確かだ。何を失う用意があるのか、私たちが自らに問いかけ、そして自ら応答するように、言葉は仕掛けられている。
この歌詞は2011年3月11日の地震に起因する福島原発事故「前」に書かれていたようだが、この歌詞を予言的なもの、あるいは警告的なものと捉えるのは、3.11の原発事故「中」の現実、非常に過酷な状況に対して、あまり適切ではないだろう。原発事故は終息してはいない。私たちはまだその最「中」にいて、事故「後」にいるわけではない。「予言」や「警告」は、歴史の眼差しの中にある言葉であり、私たちが向かうべきなのは「現在」という、時間のただ「中」の課題であり、そのことを考え抜く言葉だ。
下岡は「システムとルール」に覆われている「真実」を求めている。
システムとルールをくぐり抜け
真実に会いに行くんだよ
福島原発事故が私たちに突きつけたのは、私たちの持つ命と健康、私たちの住む地と自然が絶対に奪われてはならない、という真実だ。これは絶対的な真実だが、怠惰な私たちは時にそのことを忘れてしまう。起こりえないような、しかし、現実に起こってしまった過酷さによって、忘却しがちの真実の目が覚めた。
そしてまた、私たちは、命と自然というかけがえのないもの、決して元には戻らないこと以外のものごとについては、それが本当に必要なものなのか、という疑問を抱くようになった。
奪われてならないものは奪われてはならない。無根拠で理不尽で狡猾な力によって奪われてはいけない。しかし、失っていいものは、むしろ、失ってもいいのではないのか。
何かを作り、得ること。手に入れたものを蓄積していくこと。この時代の産業と技術は得ることを中心に回っている。得ることへの強迫観念によって人々を支配している。そのことにより、かえって何かが奪われている。得ることが奪われることにつながるのなら、得ることを求めないこと、むしろ、はじめから失っているように生きていくことの方が倫理的ではないだろうか。
命と自然のように絶対に奪われてはならないもの。相対的に失ってもいいもの。この二つの選別が差し迫った課題となる時代が訪れつつある。
下岡は『PHASE』を次のように締めくくる。
僕たちのペースで この次のフェーズへ
君だけのフレーズで その次のフェーズへ
今、私たちは、「失う」ことへの「用意」を求められている。私たちは何をどのように失っていくのか。私たちが失うことでどのような世界が始まるのか。私たちは自らの「フレーズ」を口ずさみ、その次の「フェーズ」、世界の来るべき「フェーズ」へと移行しなくてはならない。
下岡晃の聡明な言葉は、この時代に焦点を当てて、私たちの現在に鋭く突きささる。
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