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2013年12月14日土曜日

「聴いた人がいろんな風に受け取れるもの」-CD『フジファブリック』4 (志村正彦 LN63)

 志村正彦は1999年に山梨から東京へ上京した。この時点から、1stCD『フジファブリック』の「東京vs.自分」という主題が動きだす。2002年のインディーズCDリリースを経て、2004年のメジャーデビューまでに、5年の月日が流れた。
 彼自身はもっと前にデビューすることを想定していたようだが、懸命な努力によって、質のきわめて高い楽曲が揃ったことを考えると、この間の蓄積はむしろ必要なものだった。
 2009年12月に亡くなるまでの東京生活は10年という歳月だった。メジャーデビューまでが5年、メジャーでの活動が5年、ちょうど半々になる。メジャーでの音楽活動があまりにも短い。時の残酷さを感じてしまう。

 この間の生活は、著書『東京、音楽、ロックンロール』によると、「必死になってバイトして、空き時間みて曲作りしたりギターの練習したり」というものだった。上京した音楽家志望の若者のありふれた物語だろうが、彼は生活と音楽を両立させていた。
 志村正彦は、感受性という資質には恵まれていたが、「若き芸術家」の早熟な才能や天分というものを持ち合わせていたわけではないと私は考えている。彼のことが「天才」と評されることもあるが、そのような過剰な修辞は、彼の本質を見誤る。彼はごく普通の若者であった。自らの感受性を一輪の花のように育て、都市生活の時間との闘いの中で、言葉と曲を、少しずつ少しずつ、探りあてていった。時間に耐えられるものだけが、資質を開花させることができる。普通、苦しい時間あるいは逆に緩い時間に耐えられなくなって、断念してしまう。

 彼はメジャーデビューまでの年月を「正直言うと、頑張ったなあと思います。よく諦めなかったと思って、あの状況の中」と振り返っている。彼は「諦めない」という志を貫いた点において「英雄」ではあった。『陽炎』では「英雄気取った 路地裏の僕」と歌っている。少年時代の「英雄気取り」は、青年時代になると、歌への純粋な欲望を譲らないで生きぬいた、本物の「英雄」となった。(精神分析家ジャック・ラカンの教えによれば、欲望を譲らないで己の道を突き進む者は「英雄」である。ラカンは、「われわれひとりひとりの内に英雄への道は描かれている。そしてまさに普通の人間としてわれわれはそれを遂行するのだ」と述べている)。

 2004年11月10日、1st CD『フジファブリック』がリリースされた。メディアからも高い評価を受けたようで、BARKSのインタビュー記事[http://www.barks.jp/feature/?id=1000003876]のリード文には、「バンド名をそのままタイトルに据えた、1stにして最高傑作であり、まぎれもない自信作の登場だ」とある。2000年代、「ゼロ年代」の有望な新人として、フジファブリックは日本のロック界に迎えられた。
 志村正彦はこのインタビューで、「自身が納得のいく作品を作るには、制作過程でいろんな苦しみがあったと思うんですけど』という問いかけに対して、こう答えている。

 一曲一曲に想いを込めて書いているので、表向きのところでも深いところでも、あまり同じようなことを言いたくないっていうのがあったんですね。それは音楽をやる以前に自分の考えがしっかりしてないとできないと思うんです。
 あとは、フジファブリックの曲は、自分の意見を押しつけるというよりも、聴いた人がいろんな風に受け取れるものでありたいんですね。例えば、日常の中の一場面を切り取ったようなものだったり、その時その時に自分が感じた想いを描いたり。それは意識してというより自然にやっているところなんですが…。

 歌詞や曲作りの根本に、「一曲一曲に想いを込めて」書き、「あまり同じようなこと」を言いたくないというスタンスがあった。彼が作りあげた八十数曲は、確かに、どれも異なり、様々な「想い」が込められている。そのような姿勢を貫くために、「音楽をやる以前」の「自分の考え」を重んじていた。音楽以前の人生が音楽を作る、そのような信念を持っていた。

 彼が自らの作品を「自分の意見を押しつける」より、「聴いた人がいろんな風に受け取れるものでありたい」と言い切っているのが、特に注目される。「自分の意見を押しつける」種類の歌が多い中で、聴き手が多様に感じ取れる歌を、彼は志向していた。このことは決定的に重要だ。このような姿勢を徹底させたことが、結果的に、彼の歌を非常に独創的なものとした。このことはすでに、「聴き手中心の歌」(志村正彦LN22)」でも書いたが、もう少し考えを深めてみたい。

 彼はそのような自分のあり方を「意識」というより「自然」にやっていると述べている。「日常の中の一場面」「その時その時に自分が感じた想い」を描く感受性。家族の愛や仲間との絆、富士吉田の自然が、彼の資質を育んでいった。このような作品作りが「自然」にできることが、彼の感受性の資質を物語っている。
 彼の歌は、いわゆる「自己表現」ではない。彼の歌を聴きこみ、読み込んでいくと、織物のように複雑な色合いで編み込まれている言葉や楽曲の中に、「志村正彦」が浮かび上がってくる。もとから、「志村正彦」という図柄がはっきりと刻印されているわけではない。
 このことを的確に言葉で表すことができなければ、批評とは言えない。現在の私はまだ漠然とつかんでいるだけだ。これを追うことが、「志村正彦LN」の主要な主題となるだろう。
  (この項続く)


付記

 私自身が、志村正彦、フジファブリックと出会ったのは、2010年初夏のことだ。(その出会いの契機と経緯については、稿を改めていつか書きたい。)だから生前の彼については全く知らない。私にとっては「作品」としての志村正彦、フジファブリックが全てある。必然的に、この「志村正彦LN」も「作品」についての思考が中心となる。

 現在、私が偶々山梨に生まれ住んで、地元でのつながりを通して、富士吉田でのイベントにも関わるようになり、間接的ではあるが、志村正彦の生の軌跡について知ることとなった。そのような縁に恵まれ、「作品」を作りだした「人」としての彼についての理解が少しずつ深まるようになった。 しかし、いくつかの事柄を除いて、そのことを直接書かないようにはしている。偶々にすぎない「つながり」を特権化したくないからだ。これまで知られていない彼の生の軌跡、評伝的事実は、いつの日か、適切な形で公刊されるべきだ。
 「人」としての彼を理解することが、「志村正彦LN」を書いていくことを一方で支えているのは確かだ。そのことには深く感謝している。直接表されなくても、文の行間や余白に、彼の生が刻まれるように書いていきたい。偶然を必然に転換することが書くことの意義だと考える。

 私が日本と欧米のロックシーンをある程度まで追いかけてきたのは、90年代半ば、年齢にして三十歳半ばくらいまでだ。よくある話しだが、持続的に聴きたいアーティストが固定されてくると、やはり、シーン全体への関心は薄らいできてしまう。だから90年代後半からゼロ年代にデビューした音楽家については、少数の例外を除いて知らない。フジファブリックについても、『山梨日日新聞』の記事でその名は知っていたが、結局、聴いてみることはなかった。自らの不明を恥じている。
 だから今、90年代後半からゼロ年代のロックを集中的に聴いている。それまでの日本語ロックにはない、新しい表現を模索するアーティストがいて、驚くこともある。
 ここ十数年のロックに「遅れてきた中年」としての私は、最近やっと、この時代の音楽に出会いつつある。

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