フジファブリック『ムーンライト』は、『蜃気楼』と共に6thシングル『茜色の夕日』のカップリング曲としてリリースされた。アルバムでは『シングルB面集 2004-2009』に収録されている。このところこのCDをよくかけるのだが、『蜃気楼』の次が『ムーンライト』という曲順なので、この二曲を続けて聴くことになる。
『ムーンライト』(詞・曲:志村正彦)の歌詞を引用してみよう。
今日はなんか不思議な気分さ
大きなテーマを考えたいのさ
そう例えば 人類の夢とか
想像は果てなく続く
ムーンライトが照らした
いつの日かクレーターに潜ってみたり
惑星を眺めつつ花を植えたい
さあ行こうか 大空
ワープですり抜けて 飛び出して行こう
ムーンライトが照らした
いつの日かクレーターに潜ってみたり
惑星を眺めつつ花を植えたい
いかにも不安で下降していく音調の『蜃気楼』が終わり、明るく軽快に上昇していくかのような『ムーンライト』のイントロが奏でられると、曲が流れる部屋の雰囲気が一変する。
「今日はなんか不思議な気分さ/大きなテーマを考えたいのさ」「そう例えば 人類の夢とか/想像は果てなく続く」という志村の声に促されるように、こちらもおおらかな気持ちになっいく。そうか、「夢」とか「想像」を自由に広げていけばよいのだ。のびやかなメロディやリズムに乗って、想像のスクリーンにいろいろなものを浮かべて。聴き手にそのような遊びを与えるのはこの歌の素晴らしさだ。
志村のスクリーンには「ムーンライトが照らした」世界が登場した。この歌の主体は「ワープですり抜けて」「大空」に飛び出して行く。宇宙飛行や宇宙遊泳という夢の世界が背景となっているが、歌詞の舞台はあくまで「ムーンライト」、「月」という場に限定されている。「月」は彼が繰り返し表現したモチーフだが、志村は「月」や「月の光」の情感を何よりも愛した。月の海の「クレーター」に潜ってみたり、「惑星」を、これは月から見た地球のことだろうが、眺めてみたり、月面での遊泳は、重力から解き放されたように、軽やかに戯れることができる。そしてここで「花を植えたい」という表現が現れ出る。
「花」という言葉の反復。「僕は読み返しては感動している」、『桜の季節』の歌詞に倣ってそのように記してもよいだろうか。
「志村正彦の花」とでも名付けたい花々がある。部屋の窓ごしの花、野に咲く花、路地裏の花。その花々に、『蜃気楼』では「おぼろげに見える彼方」に咲く「鮮やかな花」が、さらに『ムーンライト』では月面か宇宙のどこかに植えたい「花」が加わる。部屋の窓や路地裏という身近な小さな場所から空の彼方、月や宇宙へと、花の咲く空間が広がっていく。花に対する想像力が自由に羽ばたいていく。これはこれで花についての「大きなテーマ」になるのかもしれない。
人間の織りなす世界から遠く隔てられているからこそ花は美しい。人間にとって他なるものであるからこそ花には恵みがある。微少なものかもしれないが恩寵がある。志村は花を慈しみ、花を歌い続けた。
2018年6月18日月曜日
2018年6月9日土曜日
もう一つの短編映画-『蜃気楼』10[志村正彦LN181]
フジファブリック『蜃気楼』について断続的に書いてきたが、今回でひとまずの区切りにしたい。これまでの考察と重複するところもあるが、完結編として記述してみたい。
『スクラップ・ヘブン』パンフレット(オフィス・シロウズ、2005/10/8)掲載の「DIALOGUE 李相日×志村正彦(フジファブリック)」という対談の冒頭の部分には、この曲の依頼の経緯についての重要なコメントがある。
李 最初に、エンディングに劇中音楽を流した状態で見てもらったんですよね。
志村 エンディングテーマを作るというのが初めてだったんで、まずは映画を見てから返事をさせてくださいって言って。映画は……素人っぽい感想なんですけど、見ていてすごいハラハラしました。
李 (笑)
志村 僕自身、「こうなったらいいな」とか「こうならなくてよかったな」とか思うことが、実際の生活の中でも夢の中でもよくあるんですけど、そのふたつって紙一重だと思うんですよね。どっちに踏み出すかによって結果が変わってくるんだけど、『スクラップ・ヘブン』にはその両方が描かれているというか。ヒーローになりたい気持ちがありながら、逆の方向に転んでしまったり。そういう紙一重なところが、普段僕が考えていることと通じる気がしました。
李 最初の打ち合わせの時、ふたりきりなら志村さんも素直に感想を言えたんだろうけど、まわりに人がいっぱいいたからお互いあんまり話せなくて、「後はこっそりメールで」ってことにして。
志村 メールでやりとりできたのがよかったですね。
李 具体的に何を書いたのか覚えていないけど、「この映画って、見終わってはてなマークが出る人が大勢いるだろうから、そこを曲でカバーしてください」みたいなお願いのしかたでしたよね、確か。エンディングの画が終わったら、そこから先は別ものっていう考え方の監督もいるけど、僕はエンディングテーマもひっくるめて一本の映画というふうにしたくて。エンドロールって、映画の余韻を味わったり振り返ったりするコーヒータイムみたいなものだと思うんです。
志村 読後感っていうんですか、そういう「映画を見終わった感」が出せればいいなと思って、同時に曲単体でもいいものを作りたかった。結果的にはその両方ができてよかったなと。
李監督が最初に流した劇中音楽は、映画DVDに六曲のサウンドトラックとして収録されている。音楽監督の會田茂一による80年代のインダストリアル・ロック調の曲で、會田茂一、中村達也、佐藤研二、生江匠、二杉昌夫が演奏している。映画の鬱屈した雰囲気とテンポを巧みに表しているが、すべてインストルメンタルで歌詞もない。エンディングのテーマ曲にはふつう歌詞があるので、この劇中音楽をそのまま使うことはできなかったのだろう。
李監督が「見終わってはてなマークが出る人が大勢いるだろうから」と述べているのは、志村正彦が繰り返し言及している言葉によれば、「絶望」と「希望」あるいはそのどちらともいえない状況、その「紙一重」の状況があるからだ。映画のエンディングをどのように受けとめるのか。その意味合いをどう解釈したらよいのか。どちらともいえない、いいきれないような「決定不能」のところがある。それゆえに監督は「そこを曲でカバーしてください」と志村に依頼した。テーマ曲にゆだねようとした。そういうわけで、エンディングの映像とテーマ曲を複合させ、ある種の補填や相乗の効果によって映画『スクラップ・ヘブン』を完結させる、そのような重大な使命が志村に課せられた。彼自身この映画を相当に気に入ったようで、その使命を受け制作する決断をした。
「こうなったらいいな」「こうならなくてよかったな」というような紙一重の状況。実際の生活の中でも夢の中でも、そのような紙一重の状況に遭遇すると答えているのが興味深い。志村の作品には、二つの状況や系列、テーマやモチーフが同時に進行して、ある時に重なりある時に離れていくという展開がしばしば見られるが、このような展開は、この彼自身の「紙一重」という感性の在り方に影響されている。
志村は制作の過程で『スクラップ・ヘブン』の世界、受け入れがたい今日の世界の在り方をまずはじめに自らの鬱屈した声と不気味な楽曲の音色で描いていった。その次の段階で、声と楽曲の陰鬱な調子と歌詞による言葉の世界を分離させていき、「こうなったらいいな」という希望の物語を紡ぎ出していった。
もう一度、 フジファブリック『蜃気楼』のCD収録のオリジナル音源(以下「CD版」と記す)と映画のエンディング使用音源(以下「映画版」と記す)の二つの歌詞の色分けして引用したい。CD版のみにあって映画版にはない部分を赤字で示す。
三叉路でウララ 右往左往
果てなく続く摩天楼
喉はカラカラ ほんとは
月を眺めていると
この素晴らしき世界に降り注ぐ雨が止み
新たな息吹上げるものたちが顔を出している
おぼろげに見える彼方まで
鮮やかな花を咲かせよう
蜃気楼… 蜃気楼…
この素晴らしき世界に僕は踊らされている
消えてくものも 生まれてくるものもみな踊ってる
おぼろげに見える彼方まで
鮮やかな花を咲かせよう
蜃気楼… 蜃気楼…
CD版と映画版の差異は、第2連から5連までの赤字の部分の有無である。映画版にはない部分は「この素晴らしき世界」に降り注ぐ「雨」が止むという情景が鍵となる。『陽炎』や『虹』もそうであるように、志村正彦は雨上がりの世界をよく歌った。雨が降りやむと新しい風景や出来事が現れる。『蜃気楼』の場合、「新たな息吹上げるものたち」が顔を出す。この息吹、命あるものは歌詞の展開上、「鮮やかな花」であろう。
初期の作品『花』には「つぼみ開こうか迷う花 見ていた」という一節がある。花の開花する過程、その時間を見つめている。『蜃気楼』にも「息吹上げる」という過程への眼差しがある。花の生育の過程を志村は愛おしく感じていたのだろう。
「おぼろげに見える彼方」には、楽曲の風景の核にある「蜃気楼」というイメージが投影されている。蜃気楼には色彩感があまり感じられない。空の薄暗い灰色やかすかな青色が混じり合ったような世界、どちらかというと色のないモノクロームの風景のような気がする。その彼方に登場する「鮮やかな花」は、色彩感のあまりない蜃気楼の風景の中でひときわ鮮やかに輝く。花の鮮やかな彩りが蜃気楼の世界に新たな命を吹き込むかのように。そして、映画のエンディングの欠落したシーンを補填するかのように。
映画版の歌詞にはこの赤字の部分が省略されているのでこのプロセスがつかみにくいが、CD版の歌詞を補うことで「鮮やかな花」の出現する意味合いをたどることができる。
『スクラップ・ヘブン』には「世界の消滅」というテーマがある。登場人物の三人、偶然出会ったテツ、シンゴ、サキはおのおの「世界を一瞬で消す」欲望のために行動する。世界の消滅への欲望は反転すると、自己自身に回帰してくる。この物語も停滞したり遅延したりしていく。見いだしたものが失われていく。失われたものが再び見いだされる。混乱し錯綜していく。
映画のラストシーン。シンゴは意を決したかのように、サキが製造した「世界を一瞬で消す」小瓶を空に放り投げる。その小瓶はたまたま通りがかった廃品回収のトラックにそのまま落下する。ゴミがクッションになって破裂することはなかった。「世界の消滅への欲望」はそのようにして終わる。呆気なく、まるで憑き物が落ちたかのように。テーマの中心がずらされていく。何が一体起こったのだろうか。何がこれから起こるのだろうか。
このラストシーンからは、「世界の消滅への欲望」から「消滅」という項目が脱落してしまったとも考えられる。そうすると不思議なことに、「世界の消滅への欲望」が「世界への欲望」へとゆるやかに反転していく。シンゴは新たに「世界への欲望」へと歩み始めねばならない。そのような未来の方向も読み取れるかもしれない。映画の観客も一人ひとり、その方向を想像していくように促されている。
志村正彦は上記の対談で「エンディング曲」と共に「曲単体」としても良い作品であることを求めたと述べている。「結果的にはその両方ができてよかったなと」と発言しているが、確かに、というか志村の評価以上に、『蜃気楼』はその二つの目的が高い次元で達成されている。
志村自身は新たな「世界への欲望」を「鮮やかな花を咲かせよう」という欲望として描いた。自らの想像力によって、映画の結末の彼方に「蜃気楼」と「花」を出現させた。
だから実質的には、『スクラップ・ヘブン』という2時間の映画の本編終了後に、『蜃気楼』という作品、もう一つの『スクラップ・ヘブン』、あり得るかもしれない数分の短編映画を創り上げたとも考えられる。
『スクラップ・ヘブン』パンフレット(オフィス・シロウズ、2005/10/8)掲載の「DIALOGUE 李相日×志村正彦(フジファブリック)」という対談の冒頭の部分には、この曲の依頼の経緯についての重要なコメントがある。
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| 『スクラップ・ヘブン』パンフレット表紙 |
李 最初に、エンディングに劇中音楽を流した状態で見てもらったんですよね。
志村 エンディングテーマを作るというのが初めてだったんで、まずは映画を見てから返事をさせてくださいって言って。映画は……素人っぽい感想なんですけど、見ていてすごいハラハラしました。
李 (笑)
志村 僕自身、「こうなったらいいな」とか「こうならなくてよかったな」とか思うことが、実際の生活の中でも夢の中でもよくあるんですけど、そのふたつって紙一重だと思うんですよね。どっちに踏み出すかによって結果が変わってくるんだけど、『スクラップ・ヘブン』にはその両方が描かれているというか。ヒーローになりたい気持ちがありながら、逆の方向に転んでしまったり。そういう紙一重なところが、普段僕が考えていることと通じる気がしました。
李 最初の打ち合わせの時、ふたりきりなら志村さんも素直に感想を言えたんだろうけど、まわりに人がいっぱいいたからお互いあんまり話せなくて、「後はこっそりメールで」ってことにして。
志村 メールでやりとりできたのがよかったですね。
李 具体的に何を書いたのか覚えていないけど、「この映画って、見終わってはてなマークが出る人が大勢いるだろうから、そこを曲でカバーしてください」みたいなお願いのしかたでしたよね、確か。エンディングの画が終わったら、そこから先は別ものっていう考え方の監督もいるけど、僕はエンディングテーマもひっくるめて一本の映画というふうにしたくて。エンドロールって、映画の余韻を味わったり振り返ったりするコーヒータイムみたいなものだと思うんです。
志村 読後感っていうんですか、そういう「映画を見終わった感」が出せればいいなと思って、同時に曲単体でもいいものを作りたかった。結果的にはその両方ができてよかったなと。
李監督が最初に流した劇中音楽は、映画DVDに六曲のサウンドトラックとして収録されている。音楽監督の會田茂一による80年代のインダストリアル・ロック調の曲で、會田茂一、中村達也、佐藤研二、生江匠、二杉昌夫が演奏している。映画の鬱屈した雰囲気とテンポを巧みに表しているが、すべてインストルメンタルで歌詞もない。エンディングのテーマ曲にはふつう歌詞があるので、この劇中音楽をそのまま使うことはできなかったのだろう。
李監督が「見終わってはてなマークが出る人が大勢いるだろうから」と述べているのは、志村正彦が繰り返し言及している言葉によれば、「絶望」と「希望」あるいはそのどちらともいえない状況、その「紙一重」の状況があるからだ。映画のエンディングをどのように受けとめるのか。その意味合いをどう解釈したらよいのか。どちらともいえない、いいきれないような「決定不能」のところがある。それゆえに監督は「そこを曲でカバーしてください」と志村に依頼した。テーマ曲にゆだねようとした。そういうわけで、エンディングの映像とテーマ曲を複合させ、ある種の補填や相乗の効果によって映画『スクラップ・ヘブン』を完結させる、そのような重大な使命が志村に課せられた。彼自身この映画を相当に気に入ったようで、その使命を受け制作する決断をした。
「こうなったらいいな」「こうならなくてよかったな」というような紙一重の状況。実際の生活の中でも夢の中でも、そのような紙一重の状況に遭遇すると答えているのが興味深い。志村の作品には、二つの状況や系列、テーマやモチーフが同時に進行して、ある時に重なりある時に離れていくという展開がしばしば見られるが、このような展開は、この彼自身の「紙一重」という感性の在り方に影響されている。
志村は制作の過程で『スクラップ・ヘブン』の世界、受け入れがたい今日の世界の在り方をまずはじめに自らの鬱屈した声と不気味な楽曲の音色で描いていった。その次の段階で、声と楽曲の陰鬱な調子と歌詞による言葉の世界を分離させていき、「こうなったらいいな」という希望の物語を紡ぎ出していった。
もう一度、 フジファブリック『蜃気楼』のCD収録のオリジナル音源(以下「CD版」と記す)と映画のエンディング使用音源(以下「映画版」と記す)の二つの歌詞の色分けして引用したい。CD版のみにあって映画版にはない部分を赤字で示す。
三叉路でウララ 右往左往
果てなく続く摩天楼
喉はカラカラ ほんとは
月を眺めていると
この素晴らしき世界に降り注ぐ雨が止み
新たな息吹上げるものたちが顔を出している
おぼろげに見える彼方まで
鮮やかな花を咲かせよう
蜃気楼… 蜃気楼…
この素晴らしき世界に僕は踊らされている
消えてくものも 生まれてくるものもみな踊ってる
おぼろげに見える彼方まで
鮮やかな花を咲かせよう
蜃気楼… 蜃気楼…
CD版と映画版の差異は、第2連から5連までの赤字の部分の有無である。映画版にはない部分は「この素晴らしき世界」に降り注ぐ「雨」が止むという情景が鍵となる。『陽炎』や『虹』もそうであるように、志村正彦は雨上がりの世界をよく歌った。雨が降りやむと新しい風景や出来事が現れる。『蜃気楼』の場合、「新たな息吹上げるものたち」が顔を出す。この息吹、命あるものは歌詞の展開上、「鮮やかな花」であろう。
初期の作品『花』には「つぼみ開こうか迷う花 見ていた」という一節がある。花の開花する過程、その時間を見つめている。『蜃気楼』にも「息吹上げる」という過程への眼差しがある。花の生育の過程を志村は愛おしく感じていたのだろう。
「おぼろげに見える彼方」には、楽曲の風景の核にある「蜃気楼」というイメージが投影されている。蜃気楼には色彩感があまり感じられない。空の薄暗い灰色やかすかな青色が混じり合ったような世界、どちらかというと色のないモノクロームの風景のような気がする。その彼方に登場する「鮮やかな花」は、色彩感のあまりない蜃気楼の風景の中でひときわ鮮やかに輝く。花の鮮やかな彩りが蜃気楼の世界に新たな命を吹き込むかのように。そして、映画のエンディングの欠落したシーンを補填するかのように。
映画版の歌詞にはこの赤字の部分が省略されているのでこのプロセスがつかみにくいが、CD版の歌詞を補うことで「鮮やかな花」の出現する意味合いをたどることができる。
『スクラップ・ヘブン』には「世界の消滅」というテーマがある。登場人物の三人、偶然出会ったテツ、シンゴ、サキはおのおの「世界を一瞬で消す」欲望のために行動する。世界の消滅への欲望は反転すると、自己自身に回帰してくる。この物語も停滞したり遅延したりしていく。見いだしたものが失われていく。失われたものが再び見いだされる。混乱し錯綜していく。
映画のラストシーン。シンゴは意を決したかのように、サキが製造した「世界を一瞬で消す」小瓶を空に放り投げる。その小瓶はたまたま通りがかった廃品回収のトラックにそのまま落下する。ゴミがクッションになって破裂することはなかった。「世界の消滅への欲望」はそのようにして終わる。呆気なく、まるで憑き物が落ちたかのように。テーマの中心がずらされていく。何が一体起こったのだろうか。何がこれから起こるのだろうか。
このラストシーンからは、「世界の消滅への欲望」から「消滅」という項目が脱落してしまったとも考えられる。そうすると不思議なことに、「世界の消滅への欲望」が「世界への欲望」へとゆるやかに反転していく。シンゴは新たに「世界への欲望」へと歩み始めねばならない。そのような未来の方向も読み取れるかもしれない。映画の観客も一人ひとり、その方向を想像していくように促されている。
志村正彦は上記の対談で「エンディング曲」と共に「曲単体」としても良い作品であることを求めたと述べている。「結果的にはその両方ができてよかったなと」と発言しているが、確かに、というか志村の評価以上に、『蜃気楼』はその二つの目的が高い次元で達成されている。
志村自身は新たな「世界への欲望」を「鮮やかな花を咲かせよう」という欲望として描いた。自らの想像力によって、映画の結末の彼方に「蜃気楼」と「花」を出現させた。
だから実質的には、『スクラップ・ヘブン』という2時間の映画の本編終了後に、『蜃気楼』という作品、もう一つの『スクラップ・ヘブン』、あり得るかもしれない数分の短編映画を創り上げたとも考えられる。
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映画・シアターセントラルBe館,
志村正彦ライナーノーツ(LN)
2018年5月31日木曜日
2008年5月31日。[志村正彦LN180]
2008年5月31日、十年前の今日。フジファブリックは富士吉田市民会館でコンサートを開いた。僕はこのライブに行ってない。そもそも、その頃はまだフジファブリックという存在を知らなかった。おぼろげではあるが、山梨日日新聞の紙面で二三度「フジファブリック」という固有名を見た記憶があるにはある。おそらく「フジ」という名に反応したのだろう。しかしそのまま通り過ぎてしまった。実際に音源を聴くことはなかった。
2000年代、同時代のロックに対する興味をほぼ失っていた。日本語ロックは終わってしまった。歴史の中に生き続けるしかない。そんな白けた気分があった。そういう個人的な背景があったから、フジファブリックに出会い損ねてしまったのかもしれない。今からすると何か偶然でもあったらとつぶやいてみたりする。結局、自分の不明を恥じる。こんなことを書き連ねても堂々巡りだが。
今日は時間があったので、フジファブリック『live at 富士五湖文化センター』を通しで見た。2時間の間、様々なことを想った。ライブの映像ゆえに情報量が多い。以前は気がつかなかったことが見えてくる。実際には行ってないライブについて書くというのも「記念日」便乗のようで抵抗がなくはないが、この日付が終わらないうちに書いておきたいことがある。
1曲目は『ペダル』。「TEENAGER FANCLUB TOUR」なのでアルバム『TEENAGER』の冒頭曲になったのだろうが、『ペダル』がオープニング曲ということは素晴らしい。「ペダル」を漕ぎ出すようにして声と音が動き出す。観客の声援が湧き上がる。
だいだい色 そしてピンク 咲いている花が
まぶしいと感じるなんて しょうがないのかい?
平凡な日々にもちょっと好感を持って
毎回の景色にだって 愛着が湧いた
あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ
志村正彦が終生愛した「花」の描写から故郷の凱旋公演が始まる。あの時志村の視線の向こう側には、富士吉田の「だいだい色 そしてピンク 咲いている花」がまぶしく輝いていたのかもしれない。「花」のモチーフが『ペダル』の基底にある。「平凡な日々」の「毎回の景色」、「好感」や「愛着」の対象も「花」。「あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ」と呼びかけられるものも「花」。「花」の風景の中を「ペダル」が漕いでいく。そんなことを強く感じた。
2曲目の『記念写真』。「消えてしまう前に 心に詰め込んだ」という一節が迫ってきた。『ペダル』の「消えないでよ」と『記念写真』の「消えてしまう前に」。この二つの曲に「消える」というモチーフが貫かれている。そのことに気づいた。志村には「消える」というモチーフの歌が非常に多い。ライブで連続して歌われるとこの二つの曲のモチーフが響き合う。曲順やその展開によって言葉や音像が交錯し、思いがけない連想がもたらされることがある。消える、消えない。消えないで、消えてしまう前に。「TEENAGER」の声が聞こえ、消えていく。
志村のMC。メンバーの紹介。観客の表情。会場の雰囲気。記録として残されたことが貴重であり、DVDとしてリリースされたのは喜ぶべきことだ。
アンコールの二曲、『茜色の夕日』と『陽炎』。この二つの歌を聴くと心が静かに動かされる。揺さぶられ、そして整われていく。
勤務先では週に三日の「チャペルアワー」で教職員、学生、牧師の講話がある。今年の年間聖句は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」『新約聖書』「ローマの信徒への手紙」12章15節、パウロによる言葉である。クリスチャンではない僕にとって理解するのは難しいが、伝わってくるものはある。講話によって自然にこの言葉と対話することになった。「喜ぶ人」「泣く人」、何よりも「人」に焦点が当てられている。
あの日志村正彦は故郷に帰還した。「喜ぶ人」となり「泣く人」ともなった。とりたててキリスト教の文脈で語る意図はないが、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」という言葉が今日は自然に浮かんできた。「人と共に」いう言葉に立ち止まってしまった。この文の書き手である僕は彼を知らなかった、いや未だに知らない。僕のような存在は、志村正彦という「人」と「共に」ということはできないだろう。安易に「人と共に」と考えてしまうとかえって「人」から遠ざかってしまう。「人と共に」ではない位置があるのか。あるのだとしたらどういう位置なのだろうか。そんなことを自分に問いかけた。
自問自答が続いた。単純ではあるが、「作品」を聴く、見るという基本の位置に思い至った。「人と共に」は不可能であっても、「作品と共に」は可能であるだろう。
作品と共に喜び、作品と共に泣く。『茜色の夕日』と共に喜び、『茜色の夕日』と共に泣く。『陽炎』と共に喜び、『陽炎』と共に泣く。そのように喜び、泣く。その経験を書くことはできるだろう。
2000年代、同時代のロックに対する興味をほぼ失っていた。日本語ロックは終わってしまった。歴史の中に生き続けるしかない。そんな白けた気分があった。そういう個人的な背景があったから、フジファブリックに出会い損ねてしまったのかもしれない。今からすると何か偶然でもあったらとつぶやいてみたりする。結局、自分の不明を恥じる。こんなことを書き連ねても堂々巡りだが。
今日は時間があったので、フジファブリック『live at 富士五湖文化センター』を通しで見た。2時間の間、様々なことを想った。ライブの映像ゆえに情報量が多い。以前は気がつかなかったことが見えてくる。実際には行ってないライブについて書くというのも「記念日」便乗のようで抵抗がなくはないが、この日付が終わらないうちに書いておきたいことがある。
1曲目は『ペダル』。「TEENAGER FANCLUB TOUR」なのでアルバム『TEENAGER』の冒頭曲になったのだろうが、『ペダル』がオープニング曲ということは素晴らしい。「ペダル」を漕ぎ出すようにして声と音が動き出す。観客の声援が湧き上がる。
だいだい色 そしてピンク 咲いている花が
まぶしいと感じるなんて しょうがないのかい?
平凡な日々にもちょっと好感を持って
毎回の景色にだって 愛着が湧いた
あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ
志村正彦が終生愛した「花」の描写から故郷の凱旋公演が始まる。あの時志村の視線の向こう側には、富士吉田の「だいだい色 そしてピンク 咲いている花」がまぶしく輝いていたのかもしれない。「花」のモチーフが『ペダル』の基底にある。「平凡な日々」の「毎回の景色」、「好感」や「愛着」の対象も「花」。「あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ」と呼びかけられるものも「花」。「花」の風景の中を「ペダル」が漕いでいく。そんなことを強く感じた。
2曲目の『記念写真』。「消えてしまう前に 心に詰め込んだ」という一節が迫ってきた。『ペダル』の「消えないでよ」と『記念写真』の「消えてしまう前に」。この二つの曲に「消える」というモチーフが貫かれている。そのことに気づいた。志村には「消える」というモチーフの歌が非常に多い。ライブで連続して歌われるとこの二つの曲のモチーフが響き合う。曲順やその展開によって言葉や音像が交錯し、思いがけない連想がもたらされることがある。消える、消えない。消えないで、消えてしまう前に。「TEENAGER」の声が聞こえ、消えていく。
志村のMC。メンバーの紹介。観客の表情。会場の雰囲気。記録として残されたことが貴重であり、DVDとしてリリースされたのは喜ぶべきことだ。
アンコールの二曲、『茜色の夕日』と『陽炎』。この二つの歌を聴くと心が静かに動かされる。揺さぶられ、そして整われていく。
勤務先では週に三日の「チャペルアワー」で教職員、学生、牧師の講話がある。今年の年間聖句は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」『新約聖書』「ローマの信徒への手紙」12章15節、パウロによる言葉である。クリスチャンではない僕にとって理解するのは難しいが、伝わってくるものはある。講話によって自然にこの言葉と対話することになった。「喜ぶ人」「泣く人」、何よりも「人」に焦点が当てられている。
あの日志村正彦は故郷に帰還した。「喜ぶ人」となり「泣く人」ともなった。とりたててキリスト教の文脈で語る意図はないが、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」という言葉が今日は自然に浮かんできた。「人と共に」いう言葉に立ち止まってしまった。この文の書き手である僕は彼を知らなかった、いや未だに知らない。僕のような存在は、志村正彦という「人」と「共に」ということはできないだろう。安易に「人と共に」と考えてしまうとかえって「人」から遠ざかってしまう。「人と共に」ではない位置があるのか。あるのだとしたらどういう位置なのだろうか。そんなことを自分に問いかけた。
自問自答が続いた。単純ではあるが、「作品」を聴く、見るという基本の位置に思い至った。「人と共に」は不可能であっても、「作品と共に」は可能であるだろう。
作品と共に喜び、作品と共に泣く。『茜色の夕日』と共に喜び、『茜色の夕日』と共に泣く。『陽炎』と共に喜び、『陽炎』と共に泣く。そのように喜び、泣く。その経験を書くことはできるだろう。
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志村正彦ライナーノーツ(LN)
2018年5月28日月曜日
絶望と希望と-『蜃気楼』9[志村正彦LN179]
『蜃気楼』について最後に書いたのは昨年の12月だ。半年ぶりの再開となる。この間にも資料を探したのだが、『QRANK』(クランク)という雑誌(もう廃刊となったようだ)の記事を見つけることができた。(『QRANK』vol.11 2005 AUTUMN 、2005年9月10日発行 K.B.PLANNING INTERNATIONAL)
フジファブリック『スクラップ・ヘブン』という題名でリード文に「自分のリズムが狂ったら、僕の場合はやっぱり音楽。曲を作るのが一番いい。(志村)」とある。文章1頁、写真1頁(別に2頁の写真も)の構成で、「取材+文・山下薫」とある。この取材には志村正彦と加藤慎一の二人が参加している。珍しい組み合わせで、加藤氏の発言がそれらしくて愉快だ。志村が『蜃気楼』に直接言及している部分を引用してみよう。
―本作のエンディング曲「蜃気楼」を作る上で、監督と何を話しました?
志村「具体的な話ではなく、映画の中で描かれている希望やどうしようもできないもどかしさとか、映画の世界観を確認した感じです」
―シンゴとテツは、まさに新しい自分になりたくて進み始めてはみたものの、道の途中から迷いはじめた自分たちのリズムは取り戻せず”どうしようもないもどかしさ”に陥ってしまったのだと思います。お二人は気持ちのリズムやバランスが乱れたとき、自分なりの整え方はありますか。
志村「僕の場合は曲を作るというのがやっぱり一番いいんですよ。曲を作るって自分の中にあるモノをたくさん出して、いろいろ考えるわけです。出来た曲に浸ったりもできるし」
―でも上手く曲ができないと、余計にハマってしまいそうですが…。
志村「その繰り返しなんですよ。音楽作るって、たぶん。曲を作り始めたのは15,6歳のときで、その頃、心の中に何かわだかまりがあって、何か動き出したい…と思っていた。とにかく飛び出したい、新しい自分に出会いたい、でも一体自分とは何なのかとか考えている時に、その表現方法がやっと見つかったんですよ」
―それが、音楽だったわけですね。
志村「そうです。そこからいろいろな曲を作ってきて、今は自分が唯一できることだと思っています」
志村は「映画の中で描かれている希望やどうしようもできないもどかしさ」と述べているが、以前紹介した『プラスアクト』2005年vol.06所収の「希望もあるんだけど、でも迷って、思いもよらない方向に物事が転がっていく、そのもがいて進んでいく感じ」とほぼ同じである。二つの雑誌取材に対して同一の見解を示していることで、この捉え方が志村の中では確固たるものになっていたことがわかる。この映画を見た者は誰しも、志村の指摘した「どうしようもできないもどかしさ」「もがいて進んでいく感じ」を受けとめるだろう。混乱や混迷、一種の無秩序のようなものがこの映画を支配している。
一方、「希望」の方はなかなか見いだすことはできないのではないか。希望の反対が「絶望」だとしたら、確かに、ラストシーンの意外な終わり方は少なくとも「絶望」的ではない。だが「絶望」を反転する「希望」にたどりついているかといえば、かなり微妙であり、むしろ懐疑的にならざるをえない。おそらく李相日監督自身が、希望とも絶望とも捉えることのできない、あるいはそのどちらにも捉えることもできる、エンディングを選択したのだと考えられる。観客の想像力にゆだねたともいえる。実際、この映画の宣伝のキーワードに「想像力の足りない」世界というものがあった。この映画自体が観客の自由な「想像力」をかなりの程度で求めている。
志村は「DIALOGUE 李相日×志村正彦(フジファブリック)」という対談(『スクラップ・ヘブン』パンフレット、オフィス・シロウズ、2005/10/8)では、「絶望だけで終わりたくない、かといって希望が満ちあふれた感じでもないなと思って」、その「揺れている感じ」を「蜃気楼」というモチーフに象徴させたと語っている。
実像と虚像、近景と遠景が入れ替わるような「蜃気楼」の現象に、希望と絶望とが分離したり合流したりして交錯ていく「流れ」を見いだした。それが志村の「想像力」だった。その絶望と希望の流れを楽曲と言葉に変換して、作品『蜃気楼』を作り出していった。そのような過程を想像することができるだろう。
取材者の「気持ちのリズムやバランスが乱れたとき、自分なりの整え方」という質問に対する返答が興味深い。志村は、「曲を作るって自分の中にあるモノをたくさん出して、いろいろ考えるわけです」「曲を作り始めたのは15,6歳のときで、その頃、心の中に何かわだかまりがあって、何か動き出したい…と思っていた。とにかく飛び出したい、新しい自分に出会いたい」と振り返っている。
『スクラップ・ヘブン』取材中の発言なので、作中の「シンゴとテツ」を重ね合わせているとも捉えられる。「シンゴとテツ」の脱出は行き詰まりに終わったとひとまずはいえる。志村の場合、曲作りによって「新しい自分」に出会った。音楽表現という「希望」を想い描いた。
(この項続く)
フジファブリック『スクラップ・ヘブン』という題名でリード文に「自分のリズムが狂ったら、僕の場合はやっぱり音楽。曲を作るのが一番いい。(志村)」とある。文章1頁、写真1頁(別に2頁の写真も)の構成で、「取材+文・山下薫」とある。この取材には志村正彦と加藤慎一の二人が参加している。珍しい組み合わせで、加藤氏の発言がそれらしくて愉快だ。志村が『蜃気楼』に直接言及している部分を引用してみよう。
―本作のエンディング曲「蜃気楼」を作る上で、監督と何を話しました?
志村「具体的な話ではなく、映画の中で描かれている希望やどうしようもできないもどかしさとか、映画の世界観を確認した感じです」
―シンゴとテツは、まさに新しい自分になりたくて進み始めてはみたものの、道の途中から迷いはじめた自分たちのリズムは取り戻せず”どうしようもないもどかしさ”に陥ってしまったのだと思います。お二人は気持ちのリズムやバランスが乱れたとき、自分なりの整え方はありますか。
志村「僕の場合は曲を作るというのがやっぱり一番いいんですよ。曲を作るって自分の中にあるモノをたくさん出して、いろいろ考えるわけです。出来た曲に浸ったりもできるし」
―でも上手く曲ができないと、余計にハマってしまいそうですが…。
志村「その繰り返しなんですよ。音楽作るって、たぶん。曲を作り始めたのは15,6歳のときで、その頃、心の中に何かわだかまりがあって、何か動き出したい…と思っていた。とにかく飛び出したい、新しい自分に出会いたい、でも一体自分とは何なのかとか考えている時に、その表現方法がやっと見つかったんですよ」
―それが、音楽だったわけですね。
志村「そうです。そこからいろいろな曲を作ってきて、今は自分が唯一できることだと思っています」
志村は「映画の中で描かれている希望やどうしようもできないもどかしさ」と述べているが、以前紹介した『プラスアクト』2005年vol.06所収の「希望もあるんだけど、でも迷って、思いもよらない方向に物事が転がっていく、そのもがいて進んでいく感じ」とほぼ同じである。二つの雑誌取材に対して同一の見解を示していることで、この捉え方が志村の中では確固たるものになっていたことがわかる。この映画を見た者は誰しも、志村の指摘した「どうしようもできないもどかしさ」「もがいて進んでいく感じ」を受けとめるだろう。混乱や混迷、一種の無秩序のようなものがこの映画を支配している。
一方、「希望」の方はなかなか見いだすことはできないのではないか。希望の反対が「絶望」だとしたら、確かに、ラストシーンの意外な終わり方は少なくとも「絶望」的ではない。だが「絶望」を反転する「希望」にたどりついているかといえば、かなり微妙であり、むしろ懐疑的にならざるをえない。おそらく李相日監督自身が、希望とも絶望とも捉えることのできない、あるいはそのどちらにも捉えることもできる、エンディングを選択したのだと考えられる。観客の想像力にゆだねたともいえる。実際、この映画の宣伝のキーワードに「想像力の足りない」世界というものがあった。この映画自体が観客の自由な「想像力」をかなりの程度で求めている。
志村は「DIALOGUE 李相日×志村正彦(フジファブリック)」という対談(『スクラップ・ヘブン』パンフレット、オフィス・シロウズ、2005/10/8)では、「絶望だけで終わりたくない、かといって希望が満ちあふれた感じでもないなと思って」、その「揺れている感じ」を「蜃気楼」というモチーフに象徴させたと語っている。
実像と虚像、近景と遠景が入れ替わるような「蜃気楼」の現象に、希望と絶望とが分離したり合流したりして交錯ていく「流れ」を見いだした。それが志村の「想像力」だった。その絶望と希望の流れを楽曲と言葉に変換して、作品『蜃気楼』を作り出していった。そのような過程を想像することができるだろう。
取材者の「気持ちのリズムやバランスが乱れたとき、自分なりの整え方」という質問に対する返答が興味深い。志村は、「曲を作るって自分の中にあるモノをたくさん出して、いろいろ考えるわけです」「曲を作り始めたのは15,6歳のときで、その頃、心の中に何かわだかまりがあって、何か動き出したい…と思っていた。とにかく飛び出したい、新しい自分に出会いたい」と振り返っている。
『スクラップ・ヘブン』取材中の発言なので、作中の「シンゴとテツ」を重ね合わせているとも捉えられる。「シンゴとテツ」の脱出は行き詰まりに終わったとひとまずはいえる。志村の場合、曲作りによって「新しい自分」に出会った。音楽表現という「希望」を想い描いた。
(この項続く)
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『蜃気楼』,
志村正彦ライナーノーツ(LN)
2018年5月13日日曜日
聴き手そして読み手[志村正彦LN178]
昨日、ページビューが20万に達した。このblogが実質的に始まった2013年3月から5年以上が経ち、記事数は300を超えた。
拙文を読んでいただいている方々には深く感謝を申し上げます。
志村正彦はかつて、自分が聴きたいと思う曲を他ならぬ自分が作り出すことが作詞作曲の原点だったと述べていた。『茜色の夕日』についての貴重な証言でもある。「志村正彦LN21」(2013/4/27)で一度引用したことがあるが、再度ここで紹介したい。
色々なアーティストの感動する曲があって
そういう曲ってすばらしいなあと思いつつも
あの、ちょっと自分じゃないような感じがするんすよね。
100パーセント自分が聴きたい曲ってないかなと
ずっと探っていたんですよ。てっ時にもうなくて。
自分が作るしかないってことに、行きついたんですね。
『茜色の夕日』って曲を作ってかけてみたんですよ、ステレオに。
そうしたらすごい、あっこれこれ、この感じって感動して、自分で。
で、そういうのを毎回求めて作ってしまうんです、曲を。
(2004年 タワーレコード渋谷店でのインタビュー )
何かの想いや衝動にかられて自分で曲を作ることと、自分が聴いてみたい曲を誰か他者ではなく自分で作り出すこととは決定的に異なる。人が表現者になる際には、やむにやまれぬ表現への欲求が原動力となることが多い。しかし志村正彦の場合、そのような意味での表現への欲望や衝動はあまり強くはなかったのではないだろうか。それよりも作品そのものに対する欲望や感受性が深まっていった。聴き手、作品の享受者としての審美眼や選択眼が磨かれていった。作品についての関係の在り方が能動的というよりも受動的であったとも言えよう。これはあくまで断片的に残されている資料からの推測であるが。
特に私的な経験を素材とする作品の場合、単純な自己表出に終わってしまえば、作り手側の自己が現れてきてもそこで止まってしまう。聴き手側に届いてこない。音源を聴いても作り手は向こう側にてこちら側に近づいてこない。聴き手は置き去りにされている。そのような経験はないだろうか。
現在、日本語のロックやフォークが衰退しているのは、この種のあまりに閉じられた歌が多いことにある。その反面で「きずな」や「つながり」を聴き手側に届けようとする作品も、それらのキーワードが具体性や状況を欠いていて、あまりに紋切り型で現実感がない。前者と同様に後者も閉じられている。
志村が述べる「聴き手」とは自分自身であり、一般的な聴き手、現実の聴衆ということではない。聴き手としての自分が作り手としての自分を作り出す。そこに対話が生まれる。逆に、作り手としての自分が聴き手としての自分に問いかける。その繰り返しによって作品が練り上げられていく。楽曲の質が高まり、言葉が深まる。
自分の内部に優れた聴き手がいなければ優れた作品は成立しない。しかし、この過程は悦びであると同時に苦しみでもあるだろう。彼が曲作りに苦心したのは、聴き手として満足できる水準について妥協することがなかったからだろう。当然それは高度な次元のものだった。作品への欲望について譲歩することはなかった。彼にはそれに応える自恃や自負があった。2000年代の音楽状況で次第に熱心な聴き手は増えていった。しかし、一部の優れた音楽批評家やジャーナリストを除いて、彼の作品の独創性が正当に評価されたとは言えない。それでも彼はそのような状況に対して孤独に闘っていた。
紹介した発言を再び引用したのは、この言葉がこのblogを続けてきた僕にずっと作用し続けていたからだ。彼の発言に倣って今回は率直に記したい。志村の作品と比べようもないが、僕の拙い文も、志村正彦やフジファブリックについて自分が一人の読者として読んでみたいモチーフや問いが原動力となった。読み手としての自分が書き手としての自分を促してきた。これからも自分が読んでみたいことを探しながら書いていきたい。
拙文を読んでいただいている方々には深く感謝を申し上げます。
志村正彦はかつて、自分が聴きたいと思う曲を他ならぬ自分が作り出すことが作詞作曲の原点だったと述べていた。『茜色の夕日』についての貴重な証言でもある。「志村正彦LN21」(2013/4/27)で一度引用したことがあるが、再度ここで紹介したい。
色々なアーティストの感動する曲があって
そういう曲ってすばらしいなあと思いつつも
あの、ちょっと自分じゃないような感じがするんすよね。
100パーセント自分が聴きたい曲ってないかなと
ずっと探っていたんですよ。てっ時にもうなくて。
自分が作るしかないってことに、行きついたんですね。
『茜色の夕日』って曲を作ってかけてみたんですよ、ステレオに。
そうしたらすごい、あっこれこれ、この感じって感動して、自分で。
で、そういうのを毎回求めて作ってしまうんです、曲を。
(2004年 タワーレコード渋谷店でのインタビュー )
何かの想いや衝動にかられて自分で曲を作ることと、自分が聴いてみたい曲を誰か他者ではなく自分で作り出すこととは決定的に異なる。人が表現者になる際には、やむにやまれぬ表現への欲求が原動力となることが多い。しかし志村正彦の場合、そのような意味での表現への欲望や衝動はあまり強くはなかったのではないだろうか。それよりも作品そのものに対する欲望や感受性が深まっていった。聴き手、作品の享受者としての審美眼や選択眼が磨かれていった。作品についての関係の在り方が能動的というよりも受動的であったとも言えよう。これはあくまで断片的に残されている資料からの推測であるが。
特に私的な経験を素材とする作品の場合、単純な自己表出に終わってしまえば、作り手側の自己が現れてきてもそこで止まってしまう。聴き手側に届いてこない。音源を聴いても作り手は向こう側にてこちら側に近づいてこない。聴き手は置き去りにされている。そのような経験はないだろうか。
現在、日本語のロックやフォークが衰退しているのは、この種のあまりに閉じられた歌が多いことにある。その反面で「きずな」や「つながり」を聴き手側に届けようとする作品も、それらのキーワードが具体性や状況を欠いていて、あまりに紋切り型で現実感がない。前者と同様に後者も閉じられている。
志村が述べる「聴き手」とは自分自身であり、一般的な聴き手、現実の聴衆ということではない。聴き手としての自分が作り手としての自分を作り出す。そこに対話が生まれる。逆に、作り手としての自分が聴き手としての自分に問いかける。その繰り返しによって作品が練り上げられていく。楽曲の質が高まり、言葉が深まる。
自分の内部に優れた聴き手がいなければ優れた作品は成立しない。しかし、この過程は悦びであると同時に苦しみでもあるだろう。彼が曲作りに苦心したのは、聴き手として満足できる水準について妥協することがなかったからだろう。当然それは高度な次元のものだった。作品への欲望について譲歩することはなかった。彼にはそれに応える自恃や自負があった。2000年代の音楽状況で次第に熱心な聴き手は増えていった。しかし、一部の優れた音楽批評家やジャーナリストを除いて、彼の作品の独創性が正当に評価されたとは言えない。それでも彼はそのような状況に対して孤独に闘っていた。
紹介した発言を再び引用したのは、この言葉がこのblogを続けてきた僕にずっと作用し続けていたからだ。彼の発言に倣って今回は率直に記したい。志村の作品と比べようもないが、僕の拙い文も、志村正彦やフジファブリックについて自分が一人の読者として読んでみたいモチーフや問いが原動力となった。読み手としての自分が書き手としての自分を促してきた。これからも自分が読んでみたいことを探しながら書いていきたい。
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『茜色の夕日』,
志村正彦ライナーノーツ(LN)
2018年5月7日月曜日
菅田将暉『5年後の茜色の夕日』(志村正彦LN177)
門司には一度だけ行ったことがある。
博多駅から小倉駅へ、それから鹿児島本線に乗り換える。しばらくすると、車窓から関門海峡の海、その向こう側に下関側が見えてくる。十五分ほどで門司港駅に到着。駅舎は「レトロ」な雰囲気で有名だ。門司港の方へ降りていくと、関門橋が近づいてくる。本州と九州の境界の橋。この眺望は感慨をもたらした。
俳優の菅田将暉はデビュー・アルバム『PLAY』(3月21日リリース)で、志村正彦作詞作曲のフジファブリック『茜色の夕日』をカバーした。その初回生産限定盤には、『5年後の茜色の夕日~北九州小旅行ドキュメント映像~』(監督・島田大介)という特典DVDが付いている。
2012年撮影、2013年公開の映画『共喰い』(監督・青山真治)のロケ地、北九州市門司を5年振りに訪れるというドキュメント映像だ。この撮影時に、フジファブリックの『茜色の夕日』(作詞作曲・志村正彦)を繰り返し聴いたことが歌い手となる契機になったそうだ。音楽活動の原点を再訪する映像を制作するのは珍しい。
映画の原作である田中慎弥の小説『共喰い』は、芥川賞受賞時に読んだ。中上健次を思い起こさせる作風だった。ただ中上と異なり、神話や歴史にこだまする大きな物語はどこにもなく、山口県下関市の川辺の街の小さな物語、極小の家族の物語が浮かび上がってきた。これは時代の必然のような気もした。
映画『共喰い』の方はWOWOW放映時に見た。撮影場所は関門海峡の反対側、門司で行われたことを知った。ロケ地の景観の問題だったようだが、監督の青山真治が北九州市出身だということも関係しているかもしれない。ちなみに青山のデビュー作『Helpless』も北九州市で撮影されている。主人公の高校生「健次」(浅野忠信)は中上健次の名から取られているように、中上作品へのオマージュの色が濃い映画だ。
脚本は荒井晴彦。荒井には『赫い髪の女』(監督・神代辰巳)という優れた作品があるが、中上健次の『赫髪』が元になっている。小説から映画まで、原作者、監督、脚本家と、中上健次という固有名を想起させた。
映画では菅田将暉が17歳の高校生「遠馬」を演じる。昭和63年。昭和という時代の最後の夏の季節がこの物語の背景となっている。菅田はリアルな演技を披露している。演技というよりも切実な何か、透明な鬱屈のようなものを感じさせる。小説原作の映画には駄作が多いが、『共喰い』は原作に対して優れた水準を維持している。
『5年後の茜色の夕日』に移ろう。
菅田はある通り(映画では「通学路」という設定の通り)を歩きながら『茜色の夕日』に触れている。(須田の語りの中でこの歌に言及しているのはこの箇所だけである)
こうやって俺らが都会から来るとすごい心地いいけど、ここにいる人間からしたら、もうちょっと毎日見てるからうんざりだみたいな、(抜け出したくなる…*スタッフの声)そうそうその感じも茜色の夕日なんすよね、それはもうなんか上京組としてすごくわかるっていうか、通学路が急にさめて見える瞬間っていう
映像だけでは、この界隈の風景が『茜色の夕日』の感じだということが今ひとつ伝わらないことが残念である。この映像よりも映画『共喰い』で撮影された風景の方がそれらしい感触を持っているだろう。言葉にすると紋切り型の表現になってしまうが、昭和の路地裏の風景だと書いておきたい。
最後に水路沿いに腰掛けて、菅田がアコースティックギターを奏でながら『茜色の夕日』を歌う。菅田の歌い方は誰かに伝えるためというよりも、自分自身に伝えるためのものだという印象を持った。五年後の菅田将暉が五年前の菅田将暉に歌いかける。そのように完結させていることはむしろ、この歌に対する誠実さの表れなのだろう。この映像はだから極めて私的な映像である。私的なものの徹底が原動力となって、須田の歌を支えている。『茜色の夕日』に対する尊重の在り方の一つかもしれない。そのことは評価できる。
映像の本編が終わり、タイトルバックに移った。監督やスタッフの名が示された後で、菅田による追伸の手紙のような言葉が流されていった。記録のために文字に起こしておく。
「この一曲で人生が変わったのかもしれません」という素直な吐露には共感できる。映画撮影時に須田は19歳だったという。志村正彦がこの歌を作ったのも同じ頃の年だった。よく知られているように、志村の人生もこの曲で変わった。
『茜色の夕日』には十代最後という時間そのものが込められている。これまでの時とこれからの時、これまでの場とこれからの場。これまでの僕とこれからの君。これまでの君とこれからの僕。そこで佇むこととそこから歩み始めること。その狭間に起きる事柄と想いを志村正彦は描いた。
DVDはこの菅田将暉の言葉で終了するのだが、ある違和感が残った。『5年後の茜色の夕日』の映像中に、『茜色の夕日』の作詞作曲者である志村正彦の名、そしてフジファブリックの名もまったく記されていないのだ。何故なのか。疑問が湧き上がってきた。
本編映像の中でインポーズする必要はない。この歌の説明をする必要もない。しかし、タイトルバックの記載事項として、作詞作曲者の志村正彦という固有名(フジファブリックという名も)を明示することは、絶対的に必要な事柄である。付言すれば、「著作権」や「著作者人格権」の観点からも問題がある。そもそも『5年後の茜色の夕日』という題名にも疑問がある。茜色の夕日は作品名であるから、『』あるいは「」という引用符は不可欠である。
このことを制作者側はどのように判断したのだろうか。
僕はかつてこのblogで『若者のすべて』のカバー曲の広がりについて、「作者の名を知らない、ある意味では和歌の『詠み人知らず』のよう に、歌そのものの魅力によって人々に愛されていく。これもまた、曲の運命としては光栄なことに違いない」と書いたことがある。この見解は今も変わらない。ただしこの「詠み人知らず」という視点はあくまで聴き手側のものである。制作者側がカバー曲の音源や関連映像を公的に発表する場合は、オリジナル作品の作詞作曲者(必要に応じて演奏者も)の固有名を記すことは、絶対にそして永遠に守らなければならない。
博多駅から小倉駅へ、それから鹿児島本線に乗り換える。しばらくすると、車窓から関門海峡の海、その向こう側に下関側が見えてくる。十五分ほどで門司港駅に到着。駅舎は「レトロ」な雰囲気で有名だ。門司港の方へ降りていくと、関門橋が近づいてくる。本州と九州の境界の橋。この眺望は感慨をもたらした。
俳優の菅田将暉はデビュー・アルバム『PLAY』(3月21日リリース)で、志村正彦作詞作曲のフジファブリック『茜色の夕日』をカバーした。その初回生産限定盤には、『5年後の茜色の夕日~北九州小旅行ドキュメント映像~』(監督・島田大介)という特典DVDが付いている。
2012年撮影、2013年公開の映画『共喰い』(監督・青山真治)のロケ地、北九州市門司を5年振りに訪れるというドキュメント映像だ。この撮影時に、フジファブリックの『茜色の夕日』(作詞作曲・志村正彦)を繰り返し聴いたことが歌い手となる契機になったそうだ。音楽活動の原点を再訪する映像を制作するのは珍しい。
映画の原作である田中慎弥の小説『共喰い』は、芥川賞受賞時に読んだ。中上健次を思い起こさせる作風だった。ただ中上と異なり、神話や歴史にこだまする大きな物語はどこにもなく、山口県下関市の川辺の街の小さな物語、極小の家族の物語が浮かび上がってきた。これは時代の必然のような気もした。
映画『共喰い』の方はWOWOW放映時に見た。撮影場所は関門海峡の反対側、門司で行われたことを知った。ロケ地の景観の問題だったようだが、監督の青山真治が北九州市出身だということも関係しているかもしれない。ちなみに青山のデビュー作『Helpless』も北九州市で撮影されている。主人公の高校生「健次」(浅野忠信)は中上健次の名から取られているように、中上作品へのオマージュの色が濃い映画だ。
脚本は荒井晴彦。荒井には『赫い髪の女』(監督・神代辰巳)という優れた作品があるが、中上健次の『赫髪』が元になっている。小説から映画まで、原作者、監督、脚本家と、中上健次という固有名を想起させた。
映画では菅田将暉が17歳の高校生「遠馬」を演じる。昭和63年。昭和という時代の最後の夏の季節がこの物語の背景となっている。菅田はリアルな演技を披露している。演技というよりも切実な何か、透明な鬱屈のようなものを感じさせる。小説原作の映画には駄作が多いが、『共喰い』は原作に対して優れた水準を維持している。
『5年後の茜色の夕日』に移ろう。
菅田はある通り(映画では「通学路」という設定の通り)を歩きながら『茜色の夕日』に触れている。(須田の語りの中でこの歌に言及しているのはこの箇所だけである)
こうやって俺らが都会から来るとすごい心地いいけど、ここにいる人間からしたら、もうちょっと毎日見てるからうんざりだみたいな、(抜け出したくなる…*スタッフの声)そうそうその感じも茜色の夕日なんすよね、それはもうなんか上京組としてすごくわかるっていうか、通学路が急にさめて見える瞬間っていう
映像だけでは、この界隈の風景が『茜色の夕日』の感じだということが今ひとつ伝わらないことが残念である。この映像よりも映画『共喰い』で撮影された風景の方がそれらしい感触を持っているだろう。言葉にすると紋切り型の表現になってしまうが、昭和の路地裏の風景だと書いておきたい。
最後に水路沿いに腰掛けて、菅田がアコースティックギターを奏でながら『茜色の夕日』を歌う。菅田の歌い方は誰かに伝えるためというよりも、自分自身に伝えるためのものだという印象を持った。五年後の菅田将暉が五年前の菅田将暉に歌いかける。そのように完結させていることはむしろ、この歌に対する誠実さの表れなのだろう。この映像はだから極めて私的な映像である。私的なものの徹底が原動力となって、須田の歌を支えている。『茜色の夕日』に対する尊重の在り方の一つかもしれない。そのことは評価できる。
映像の本編が終わり、タイトルバックに移った。監督やスタッフの名が示された後で、菅田による追伸の手紙のような言葉が流されていった。記録のために文字に起こしておく。
10代最後の夏
この街で面白い出会いがありました
それは自分にとって 菅田将暉にとって大切な出会いになりました
俳優部という部署の在り方 人と人が触れ合った時にしかない温かさ
そして、音楽
大袈裟なことを言うと この一曲で人生が変わったのかもしれません
それまで僕の携帯に音楽は一曲も入ってませんでした
一曲も
というか
人生で何がしたいのか 一つもわかりませんでした
あれからしばらく経ち なんと今人前で歌ったりしています
何が起こるかわからないものですね
なので
ふと訪れてみよう
ということになり 足を運んだ次第でございます
相も変わらす声が響く街でした
新しいものと残されたものが共存していて
とてもお気に入りの場所です
幸せな出会いに、感謝
菅田将暉
「この一曲で人生が変わったのかもしれません」という素直な吐露には共感できる。映画撮影時に須田は19歳だったという。志村正彦がこの歌を作ったのも同じ頃の年だった。よく知られているように、志村の人生もこの曲で変わった。
『茜色の夕日』には十代最後という時間そのものが込められている。これまでの時とこれからの時、これまでの場とこれからの場。これまでの僕とこれからの君。これまでの君とこれからの僕。そこで佇むこととそこから歩み始めること。その狭間に起きる事柄と想いを志村正彦は描いた。
DVDはこの菅田将暉の言葉で終了するのだが、ある違和感が残った。『5年後の茜色の夕日』の映像中に、『茜色の夕日』の作詞作曲者である志村正彦の名、そしてフジファブリックの名もまったく記されていないのだ。何故なのか。疑問が湧き上がってきた。
本編映像の中でインポーズする必要はない。この歌の説明をする必要もない。しかし、タイトルバックの記載事項として、作詞作曲者の志村正彦という固有名(フジファブリックという名も)を明示することは、絶対的に必要な事柄である。付言すれば、「著作権」や「著作者人格権」の観点からも問題がある。そもそも『5年後の茜色の夕日』という題名にも疑問がある。茜色の夕日は作品名であるから、『』あるいは「」という引用符は不可欠である。
このことを制作者側はどのように判断したのだろうか。
僕はかつてこのblogで『若者のすべて』のカバー曲の広がりについて、「作者の名を知らない、ある意味では和歌の『詠み人知らず』のよう に、歌そのものの魅力によって人々に愛されていく。これもまた、曲の運命としては光栄なことに違いない」と書いたことがある。この見解は今も変わらない。ただしこの「詠み人知らず」という視点はあくまで聴き手側のものである。制作者側がカバー曲の音源や関連映像を公的に発表する場合は、オリジナル作品の作詞作曲者(必要に応じて演奏者も)の固有名を記すことは、絶対にそして永遠に守らなければならない。
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2018年4月28日土曜日
セシル・テイラー(Cecil Taylor)、『アキサキラ』・白州
セシル・テイラー(Cecil Taylor)の死をネットの記事で知った。4月5日、ニューヨーク市ブルックリンの自宅で亡くなった。享年89歳。
ジャズは断片的にしか聴いてこなかった。ほんの時々、話題になった音源に接したり地元のジャズ・フェスティバルに出かけたりという関わり方だった。ジャズのアルバムもわずかしか持っていない。そのような関わりの中で、セシル・テイラーという固有名詞は記憶の中に留まり続けていた。今日はそのことを書いてみたい。
1973年のことだ。僕は中学3年生だった。その頃すでに英米のロックや日本のロックやフォークを熱心に聴いていた。『ニューミュージック・マガジン』などの音楽雑誌を読んだり、FM放送を聞いてテープに録音したりという日々だった。レコードは高価なものなので、小遣いをためてほんとうにたまにしか買えなかった。今のように情報はあふれていなかったので、雑誌のレビューが購入の参考になることも多かった。
その年の冬の季節だったろうか、セシル・テイラーというピアニストのユニットのライブ盤が発売されたことを知った。『アキサキラ(Akisakila)』という奇妙な題名だった(スワヒリ語で「沸騰」を意味するそうだ)。その年に東京の会場で録音された作品で、どの雑誌かは覚えていないが、レビューで絶賛されていた。「フリージャズ」というジャンルらしいが、田舎の中学生にとっては謎の音楽だった。なんとなく知的で芸術的なものへの関心、好奇心があった。中学生らしい背伸びしたい心もあった。ジャケットの写真にもロックとは異なる雰囲気があり、なんだか惹かれた。
当時の甲府に「サンリン」というレコード屋さんがあった。新しくて明るい雰囲気の店だった。音楽にとても詳しいご兄弟の店員がいて、品揃えがよかったので時々立ち寄った。LPレコードを包む布製の袋がお洒落だった。あの頃の甲府の若者はそのサンリンの袋を抱えることが、音楽ファンとしてのちょっとしたステイタスでもあった。
『アキサキラ』は2枚組のLPだったのでとても高価だった。かなり迷ったのだと思う。でも、フリージャズというものを知らなければならない、そう自分に言い聞かせて意を決してサンリンに出かけた。棚からレコードを探してレジに出すと店員のお兄さんから「中学生がセシル・テーラーねえ?」と言われたことをよく覚えている。僕が初めて買ったジャズのアルバムになった。(数年前にサンリンは惜しまれつつ閉店した)
家に帰り早速聞いてみたのだが、セシル・テイラーとジミー・ライオンズ(asx)、アンドリュー・シリル(ds)の三人による音の洪水だった。(確かに「沸騰」のようだ)正直言って心が動かされるような音楽ではなかった。身体が動かされたということもなかった。理屈として知的に理解することももちろんできなかった。フリージャズというのはこういう世界なのだなと受けとめることしかできなかった。音楽には何らかの形や型があるのだが、そういうものを超えているのだなということだけは何となく分かった。それが「フリー」というなのだろうか。その理解もおぼろげなものだった。むしろ、何か理解を超えたものがあるのだなということだけは分かったような気がした。
その後、セシル・テーラーの良い聴き手となることはなかった。フリージャズ、広くジャズの世界に深く入り込んでいくこともなかった。セシル・テーラーのことも忘れていった。
時は移り、1992年の夏。山梨県の白州町でセシル・テイラーの生演奏を初めて聴くことができた。1988年から1998年まで、田中泯主催の「白州アートキャンプ」が開かれていた。僕はほぼ毎年通い、マルセ太郎やデレク・ベイリー等の素晴らしいパフォーマンスを経験することができた。今思えば、非常に貴重で特別に贅沢な時と場であった。
舞台は巨麻神社。甲府から北西方面に車で1時間ほどの所だ。鬱蒼とした古びた境内にセシル・テーラーという組み合わせがそれらしかった。田中泯とのコラボレーション、富樫雅彦・一噌幸弘とのユニットで二日間行われた。かなりの年月が経ち、その印象をここに書くことは記憶の面でも能力の面でも不可能だ。セシル・テーラーのピアノの音がひたすら美しかったということのみ記しておきたい。混沌の中で綺麗に立ち上がっていった。後にも先にもフリージャス系のピアノの音で純粋に構築的で美しいと感じたことはこの時だけだろう。
youtubeで映像や音源を探してみた。残念ながら白州関連やその時代のものは見つからなかった。検索していくうちに晩年のセシル・テーラーはどうだったのか気になった。2004年収録の「Master Class: Cecil Taylor - Poetry and Performance」という詩の朗読とピアノ演奏があった。七五歳の衰えることのないパフォーマンスに驚くばかりだ。
数日前、相倉久人の『されどスウィング―相倉久人自選集』(青土社2015/7/7)に「白州の山にこだまするセシル・テーラー・サウンド」が掲載されていることを知り、取り寄せて読んでみた。細やかな感覚と鋭い論理が融合した文体で、白州の経験を「聴覚の転換=耳のフェスティバル」だったと書いている。
相倉久人の優れた批評的エッセイによって、忘れていたいくつかのことを想い出すことができた。あの日の美しい音の断片も少し回帰してきた。
ジャズは断片的にしか聴いてこなかった。ほんの時々、話題になった音源に接したり地元のジャズ・フェスティバルに出かけたりという関わり方だった。ジャズのアルバムもわずかしか持っていない。そのような関わりの中で、セシル・テイラーという固有名詞は記憶の中に留まり続けていた。今日はそのことを書いてみたい。
1973年のことだ。僕は中学3年生だった。その頃すでに英米のロックや日本のロックやフォークを熱心に聴いていた。『ニューミュージック・マガジン』などの音楽雑誌を読んだり、FM放送を聞いてテープに録音したりという日々だった。レコードは高価なものなので、小遣いをためてほんとうにたまにしか買えなかった。今のように情報はあふれていなかったので、雑誌のレビューが購入の参考になることも多かった。
その年の冬の季節だったろうか、セシル・テイラーというピアニストのユニットのライブ盤が発売されたことを知った。『アキサキラ(Akisakila)』という奇妙な題名だった(スワヒリ語で「沸騰」を意味するそうだ)。その年に東京の会場で録音された作品で、どの雑誌かは覚えていないが、レビューで絶賛されていた。「フリージャズ」というジャンルらしいが、田舎の中学生にとっては謎の音楽だった。なんとなく知的で芸術的なものへの関心、好奇心があった。中学生らしい背伸びしたい心もあった。ジャケットの写真にもロックとは異なる雰囲気があり、なんだか惹かれた。
当時の甲府に「サンリン」というレコード屋さんがあった。新しくて明るい雰囲気の店だった。音楽にとても詳しいご兄弟の店員がいて、品揃えがよかったので時々立ち寄った。LPレコードを包む布製の袋がお洒落だった。あの頃の甲府の若者はそのサンリンの袋を抱えることが、音楽ファンとしてのちょっとしたステイタスでもあった。
『アキサキラ』は2枚組のLPだったのでとても高価だった。かなり迷ったのだと思う。でも、フリージャズというものを知らなければならない、そう自分に言い聞かせて意を決してサンリンに出かけた。棚からレコードを探してレジに出すと店員のお兄さんから「中学生がセシル・テーラーねえ?」と言われたことをよく覚えている。僕が初めて買ったジャズのアルバムになった。(数年前にサンリンは惜しまれつつ閉店した)
家に帰り早速聞いてみたのだが、セシル・テイラーとジミー・ライオンズ(asx)、アンドリュー・シリル(ds)の三人による音の洪水だった。(確かに「沸騰」のようだ)正直言って心が動かされるような音楽ではなかった。身体が動かされたということもなかった。理屈として知的に理解することももちろんできなかった。フリージャズというのはこういう世界なのだなと受けとめることしかできなかった。音楽には何らかの形や型があるのだが、そういうものを超えているのだなということだけは何となく分かった。それが「フリー」というなのだろうか。その理解もおぼろげなものだった。むしろ、何か理解を超えたものがあるのだなということだけは分かったような気がした。
その後、セシル・テーラーの良い聴き手となることはなかった。フリージャズ、広くジャズの世界に深く入り込んでいくこともなかった。セシル・テーラーのことも忘れていった。
時は移り、1992年の夏。山梨県の白州町でセシル・テイラーの生演奏を初めて聴くことができた。1988年から1998年まで、田中泯主催の「白州アートキャンプ」が開かれていた。僕はほぼ毎年通い、マルセ太郎やデレク・ベイリー等の素晴らしいパフォーマンスを経験することができた。今思えば、非常に貴重で特別に贅沢な時と場であった。
舞台は巨麻神社。甲府から北西方面に車で1時間ほどの所だ。鬱蒼とした古びた境内にセシル・テーラーという組み合わせがそれらしかった。田中泯とのコラボレーション、富樫雅彦・一噌幸弘とのユニットで二日間行われた。かなりの年月が経ち、その印象をここに書くことは記憶の面でも能力の面でも不可能だ。セシル・テーラーのピアノの音がひたすら美しかったということのみ記しておきたい。混沌の中で綺麗に立ち上がっていった。後にも先にもフリージャス系のピアノの音で純粋に構築的で美しいと感じたことはこの時だけだろう。
youtubeで映像や音源を探してみた。残念ながら白州関連やその時代のものは見つからなかった。検索していくうちに晩年のセシル・テーラーはどうだったのか気になった。2004年収録の「Master Class: Cecil Taylor - Poetry and Performance」という詩の朗読とピアノ演奏があった。七五歳の衰えることのないパフォーマンスに驚くばかりだ。
数日前、相倉久人の『されどスウィング―相倉久人自選集』(青土社2015/7/7)に「白州の山にこだまするセシル・テーラー・サウンド」が掲載されていることを知り、取り寄せて読んでみた。細やかな感覚と鋭い論理が融合した文体で、白州の経験を「聴覚の転換=耳のフェスティバル」だったと書いている。
相倉久人の優れた批評的エッセイによって、忘れていたいくつかのことを想い出すことができた。あの日の美しい音の断片も少し回帰してきた。
2018年4月21日土曜日
前野健太 at 桜座、『100年後』。
二週間前になる。桜座で前野健太を聴いた。「どうして おなかが すくのかな 企画」による『前野健太 ニューアルバム「サクラ」発売直前ワンマン~早咲き桜 at 桜座』と題するライブ。僕は前野健太のアルバムは『ロマンスカー』くらいしか持っていなかったが、独特な歌詞の世界に関心はあった。桜座も久しぶりだった。昨年は一度も行けなかった。この日の甲府は、「信玄公祭り」という甲斐国の英雄、戦国武将の武田信玄のお祭りがあり、街にはいつもはない賑わいがあった。甲州軍団の出陣のパレードがあり、桜座近くの街路でその行進を見てから会場に向かった。桜の季節はもう過ぎ去っていた。(志村正彦には『武田の心』という未発見の音源があることを書き添える)
ライブは『100年後』から始まった。『ロマンスカー』の冒頭曲。一度聴くと忘れられなくなる素晴らしい歌だ。
100年後 君と待ち合わせ
100年後 君と待ち合わせ
あの角の2階にある 喫茶店で待ち合わせ
100年後 君と待ち合わせ
君は相変わらず とてもかわいいよ
その洋服どこで買ったの ねぇ
「100年後」という遠いはるかな時間と「喫茶店」の「君」という身近な距離、空間のの感覚の組み合わせが不思議に作用していく。ジャンルの分類はつまらないものかもしれないが、あえて言うのであれば、フォークの範疇に入るだろう。前野健太は1979年生まれ。80年前後に生まれた世代には優れた歌詞の創作者が少なくないが、前野もその一員であろう。「100年後」という日常を超えた時間の設定が日常的な風景に溶け込んでいる歌詞は、日本語フォークの叙情に新しい感覚をもたらしている。
youtubeには「100年後 みんな死んでるよね」と歌い終わるヴァージョンもある。現在の時も百年後の時も、現在の場も百年後の場も、その時間と空間のどちらに対しても、自分に対しても「君」に対しても、ある種の距離を置いて眺めているような視線が感じられる。どこか投げやりのようでそれでいて真摯でもあるような、まどろみにいるようで目覚めているようでもある眼差しとでも言うのだろうか。
『100年後』の映像を探してみた。「DAX -Space Shower Digital Archives X」に『前野健太+ラキタ - 100年後 @ WWW』があった。前野の声が細やかで美しい。
この日の前野健太バンドは、石橋英子、ジム・オルーク、伊賀航、POP鈴木という構成。熟達のメンバーによるグルーブの厚みに前野の言葉が乗っていくと、「フォークロック」の世界が広がっていく。とても心地よく、奥行きのあるサウンドだ。
途中で主催者の勝俣さんをステージに呼んで、二人で『鴨川』を歌った。なごやかなひとときだった。MCも秀逸で面白い。アンコールになって、アコギを携え歌い出すと「フォーク」の世界が覆う。会場からのリクエストにも応える。前野は舞台の左右に回ったり階段を上がったりして、パフォーマーとして力強くそして繊細に歌っていた。
歌が歌に、言葉が言葉に集中していく。前野健太のライブにすっかり魅了された。
ライブは『100年後』から始まった。『ロマンスカー』の冒頭曲。一度聴くと忘れられなくなる素晴らしい歌だ。
100年後 君と待ち合わせ
100年後 君と待ち合わせ
あの角の2階にある 喫茶店で待ち合わせ
100年後 君と待ち合わせ
君は相変わらず とてもかわいいよ
その洋服どこで買ったの ねぇ
「100年後」という遠いはるかな時間と「喫茶店」の「君」という身近な距離、空間のの感覚の組み合わせが不思議に作用していく。ジャンルの分類はつまらないものかもしれないが、あえて言うのであれば、フォークの範疇に入るだろう。前野健太は1979年生まれ。80年前後に生まれた世代には優れた歌詞の創作者が少なくないが、前野もその一員であろう。「100年後」という日常を超えた時間の設定が日常的な風景に溶け込んでいる歌詞は、日本語フォークの叙情に新しい感覚をもたらしている。
youtubeには「100年後 みんな死んでるよね」と歌い終わるヴァージョンもある。現在の時も百年後の時も、現在の場も百年後の場も、その時間と空間のどちらに対しても、自分に対しても「君」に対しても、ある種の距離を置いて眺めているような視線が感じられる。どこか投げやりのようでそれでいて真摯でもあるような、まどろみにいるようで目覚めているようでもある眼差しとでも言うのだろうか。
『100年後』の映像を探してみた。「DAX -Space Shower Digital Archives X」に『前野健太+ラキタ - 100年後 @ WWW』があった。前野の声が細やかで美しい。
この日の前野健太バンドは、石橋英子、ジム・オルーク、伊賀航、POP鈴木という構成。熟達のメンバーによるグルーブの厚みに前野の言葉が乗っていくと、「フォークロック」の世界が広がっていく。とても心地よく、奥行きのあるサウンドだ。
途中で主催者の勝俣さんをステージに呼んで、二人で『鴨川』を歌った。なごやかなひとときだった。MCも秀逸で面白い。アンコールになって、アコギを携え歌い出すと「フォーク」の世界が覆う。会場からのリクエストにも応える。前野は舞台の左右に回ったり階段を上がったりして、パフォーマーとして力強くそして繊細に歌っていた。
歌が歌に、言葉が言葉に集中していく。前野健太のライブにすっかり魅了された。
2018年4月15日日曜日
『エイプリル』[志村正彦LN176]
英和大に務めて二週間経った。この大学に進んだ卒業生ともばったり出会ったが、やはり僕がここにいることがのみこめない様子。自分自身もまだ「ここはどこわたしはだれ」状態。少しだけ経緯を説明し、再会を喜んだ。言葉はあまり交わさなかったが、互いに微笑んだ。
授業も始まった。僕には教える学識が少ないので、学生と対話する中で、彼らが自らの課題に向き合う力を伸ばしていきたい。彼らの「思考」や「表現」の形成を支援する存在でありたい。以前書いたこともある、ジョゼフ・ジャコトとジャック・ランシエールの唱える『無知な教師』の実践でもある。(偶景web:ジャック・ランシエール『無知な教師 知性の解放について』)
これまでの日々で印象深かったのは、入学式だ。学長、理事長が聖書を引用し新入生を歓迎した。聖歌隊のコーラスの清らかさ、ハンドベルの演奏の美しさ、そしてパイプオルガンの重厚な響き。これほど音楽とともにある入学式は初めてだった。
僕はクリスチャンではないが、キリスト教には関心を抱いてきた。西欧の哲学と神学は分かちがたく結びついている。その理解に努めてきた。簡潔に書いてみたい。日本の社会や文化にとって、キリスト教は「他なるもの」である。「他なるもの」は「他なるもの」ゆえに私たちにとって貴重な存在であり、そのことだけにおいても(それ以上にという意味合いも含めて)尊重されなければならない。(齢を重ねて僕にとっては「他なるもの」ではなくなりつつあるのだが。そのことはゆっくりと考えていきたい。)
パイプオルガンの音が広がっていくと、『茜色の夕日』のイントロのオルガンの音色が浮かんできた。オルガンの音は私たちを深い眠りから覚醒させるように作用する。一日の時の経過でいうと、「朝」の響きだ。朝の光の波がそのまま音の波と化して私たちの心と身を揺るがすように。
『茜色の夕日』は、題名通りの「夕日」の時から「東京の空の星」の夜にかけての時間が背景となっているのだろうが、その音楽自体は、歌詞の一節にも「晴れた心の日曜日の朝」とあるように、夕方や夜というよりも「朝」の時間を想起させる。あのオルガンの音色と旋律は、志村正彦が何かから目覚め、新しい世界へ歩み始めることを伝えるているように聞こえてくる。
四月ということもあり、フジファブリック『エイプリル』を久しぶりに聴いた。予兆と変化を告げるような旋律に乗って、歌の主体「僕」の素直な思いが繰り広げられる。テンポは速いが、志村の声はとても繊細だ。歌詞のすべてを引用する。
どうせこの僕なんかにと ひねくれがちなのです
そんな事無いよなんて 誰か教えてくれないかな
神様は親切だから 僕らを出会わせて
神様は意地悪だから 僕らの道を別々の方へ
振り返らずに歩いていった その時 僕は泣きそうになってしまったよ
それぞれ違う方に向かった 振り返らずに歩いていった
何かを始めるのには 何かを捨てなきゃな
割り切れない事ばかりです 僕らは今を必死にもがいて
振り返らずに歩いていった その時 僕は泣きそうになってしまったよ
それぞれ違う方に向かった 振り返らずに歩いていった
また春が来るよ そしたのならまた
違う景色が もう見えてるのかな
振り返らずに歩いていった その時 僕は泣きそうになってしまったよ
それぞれ違う方に向かった 振り返らずに歩いていった
授業も始まった。僕には教える学識が少ないので、学生と対話する中で、彼らが自らの課題に向き合う力を伸ばしていきたい。彼らの「思考」や「表現」の形成を支援する存在でありたい。以前書いたこともある、ジョゼフ・ジャコトとジャック・ランシエールの唱える『無知な教師』の実践でもある。(偶景web:ジャック・ランシエール『無知な教師 知性の解放について』)
これまでの日々で印象深かったのは、入学式だ。学長、理事長が聖書を引用し新入生を歓迎した。聖歌隊のコーラスの清らかさ、ハンドベルの演奏の美しさ、そしてパイプオルガンの重厚な響き。これほど音楽とともにある入学式は初めてだった。
僕はクリスチャンではないが、キリスト教には関心を抱いてきた。西欧の哲学と神学は分かちがたく結びついている。その理解に努めてきた。簡潔に書いてみたい。日本の社会や文化にとって、キリスト教は「他なるもの」である。「他なるもの」は「他なるもの」ゆえに私たちにとって貴重な存在であり、そのことだけにおいても(それ以上にという意味合いも含めて)尊重されなければならない。(齢を重ねて僕にとっては「他なるもの」ではなくなりつつあるのだが。そのことはゆっくりと考えていきたい。)
パイプオルガンの音が広がっていくと、『茜色の夕日』のイントロのオルガンの音色が浮かんできた。オルガンの音は私たちを深い眠りから覚醒させるように作用する。一日の時の経過でいうと、「朝」の響きだ。朝の光の波がそのまま音の波と化して私たちの心と身を揺るがすように。
『茜色の夕日』は、題名通りの「夕日」の時から「東京の空の星」の夜にかけての時間が背景となっているのだろうが、その音楽自体は、歌詞の一節にも「晴れた心の日曜日の朝」とあるように、夕方や夜というよりも「朝」の時間を想起させる。あのオルガンの音色と旋律は、志村正彦が何かから目覚め、新しい世界へ歩み始めることを伝えるているように聞こえてくる。
四月ということもあり、フジファブリック『エイプリル』を久しぶりに聴いた。予兆と変化を告げるような旋律に乗って、歌の主体「僕」の素直な思いが繰り広げられる。テンポは速いが、志村の声はとても繊細だ。歌詞のすべてを引用する。
どうせこの僕なんかにと ひねくれがちなのです
そんな事無いよなんて 誰か教えてくれないかな
神様は親切だから 僕らを出会わせて
神様は意地悪だから 僕らの道を別々の方へ
振り返らずに歩いていった その時 僕は泣きそうになってしまったよ
それぞれ違う方に向かった 振り返らずに歩いていった
何かを始めるのには 何かを捨てなきゃな
割り切れない事ばかりです 僕らは今を必死にもがいて
振り返らずに歩いていった その時 僕は泣きそうになってしまったよ
それぞれ違う方に向かった 振り返らずに歩いていった
また春が来るよ そしたのならまた
違う景色が もう見えてるのかな
振り返らずに歩いていった その時 僕は泣きそうになってしまったよ
それぞれ違う方に向かった 振り返らずに歩いていった
( 詞・曲 : 志村正彦 )
歌詞を写しているうちに、「神様」という言葉に立ち止まった。今まであまり意識したことがなかった。志村は「神様」のことをどう考えていたのだろうか。この歌詞での神様は「エイプリル」、四月の神様なのかもしれないが。
「何かを始めるのには 何かを捨てなきゃな/割り切れない事ばかりです 僕らは今を必死にもがいて」という一節は心にしみるものがあった。歌詞はやはり聴き手と共に生きていく。そうなることによって歌い手に返されていく。春になると「違う景色」が見えてくるように、生きることの歩みとともに歌の「違う景色」も見えてくる。
歌詞を写しているうちに、「神様」という言葉に立ち止まった。今まであまり意識したことがなかった。志村は「神様」のことをどう考えていたのだろうか。この歌詞での神様は「エイプリル」、四月の神様なのかもしれないが。
「何かを始めるのには 何かを捨てなきゃな/割り切れない事ばかりです 僕らは今を必死にもがいて」という一節は心にしみるものがあった。歌詞はやはり聴き手と共に生きていく。そうなることによって歌い手に返されていく。春になると「違う景色」が見えてくるように、生きることの歩みとともに歌の「違う景色」も見えてくる。
2018年4月6日金曜日
今年の桜の季節に
この一週間は、退職から再就職へという日々を過ごした。
一週間前の3月30日、退職の辞令交付式へ向かった。午後一時半過ぎに甲府駅前にある会場に着いた瞬間、ラジオから聴きなれたメロディ。『桜の季節』だ。周波数を見るとFM FUJIだった。この時期この局がよく放送していることをすぐに想いだしたが。(WEBの「FM FUJI ONAIR SONGS」という検索機能で確認すると、2018年03月30日 (金)13:45に放送されたことがわかる。最近のこういう機能は便利でありがたい)
桜の季節過ぎたら
遠くの町に行くのかい?
長い間務めてき仕事から去ろうとするまさにその時に、『桜の季節』が流れてきた。「遠くの町に行くのかい?」という問いかけが身にせまってきた。遠くの町ではないが、これまでの親しみ深い場から離れ、異なる場で働くことになっていたからだ。
4月2日、新しい職場で辞令交付式があった。山梨英和大学 (Yamanashi Eiwa College)で専任の講師として勤務させていただくことになった。甲府市北東の郊外にあり、人間文化学部人間文化学科(学士)と人間文化研究科臨床心理学専攻(修士)から成る小規模のミッション系の大学だが、法人としては130年近くの伝統を持ち、この山梨の地に根を下ろしている。1989年、母体の山梨英和女学校がカナダ・メソジスト教会によって設立された。L・M・モンゴメリ『赤毛のアン』シリーズの翻訳家・児童文学者の村岡花子(甲府市出身、甲府教会で洗礼を受けた。NHKの連続テレビ小説『花子とアン』のモデル)が英語の教師をしていたこともある。
人間文化学科のグローバル・スタディーズ領域に所属し、主に国語教育や文学講読を担当するが、いつかの日か、「日本語ロック」の歌詞の文化論の講義ができればと考えている。言うまでもないが、その中心に志村正彦がいる。大学生が彼の言葉と音楽をどう受けとめるのか。何を触発されるのか。ロックの歌詞と例えば中原中也の近代詩がどのように関わっているのか。この講義や演習の夢が叶うかどうかは分からないが、そのための努力や研究を重ねていきたい。(四年前になるが、この大学の「山梨学」という外部講師を招く授業で、「志村正彦『若者のすべて』を読む」という講義をしたこともある)
僕は大月市で生まれて、甲府市で育った山梨県人。就職してから、山梨県立文学館で「芥川龍之介と山梨」、県立高校で山梨に関わる作品を取り上げてきた。この「偶景web」では志村正彦・フジファブリックの詩を分析してきた。ふりかえれば、山梨出身やゆかりの作家や作品をずっと探究してきたとも言える。その延長上で、この春から新しいチャレンジをすることにした。
一昨日、英和大のキャンパスにある桜の樹を撮った。まだ一部に花が残っているものの、葉桜となってしまった桜。過ぎ去っていくものとしての桜の風景。この一週間の桜の変化は激しい。
今年の桜の季節は格別なものとなった。
ならば愛をこめて
手紙をしたためよう
( 志村正彦『桜の季節』)
一週間前の3月30日、退職の辞令交付式へ向かった。午後一時半過ぎに甲府駅前にある会場に着いた瞬間、ラジオから聴きなれたメロディ。『桜の季節』だ。周波数を見るとFM FUJIだった。この時期この局がよく放送していることをすぐに想いだしたが。(WEBの「FM FUJI ONAIR SONGS」という検索機能で確認すると、2018年03月30日 (金)13:45に放送されたことがわかる。最近のこういう機能は便利でありがたい)
桜の季節過ぎたら
遠くの町に行くのかい?
長い間務めてき仕事から去ろうとするまさにその時に、『桜の季節』が流れてきた。「遠くの町に行くのかい?」という問いかけが身にせまってきた。遠くの町ではないが、これまでの親しみ深い場から離れ、異なる場で働くことになっていたからだ。
ラジオはメディアだから、音楽を「偶然」として「出来事」として経験することになる。そのような経緯で出会った音楽は忘れがたい。この日の『桜の季節』はそのような経験となった。
4月2日、新しい職場で辞令交付式があった。山梨英和大学 (Yamanashi Eiwa College)で専任の講師として勤務させていただくことになった。甲府市北東の郊外にあり、人間文化学部人間文化学科(学士)と人間文化研究科臨床心理学専攻(修士)から成る小規模のミッション系の大学だが、法人としては130年近くの伝統を持ち、この山梨の地に根を下ろしている。1989年、母体の山梨英和女学校がカナダ・メソジスト教会によって設立された。L・M・モンゴメリ『赤毛のアン』シリーズの翻訳家・児童文学者の村岡花子(甲府市出身、甲府教会で洗礼を受けた。NHKの連続テレビ小説『花子とアン』のモデル)が英語の教師をしていたこともある。
人間文化学科のグローバル・スタディーズ領域に所属し、主に国語教育や文学講読を担当するが、いつかの日か、「日本語ロック」の歌詞の文化論の講義ができればと考えている。言うまでもないが、その中心に志村正彦がいる。大学生が彼の言葉と音楽をどう受けとめるのか。何を触発されるのか。ロックの歌詞と例えば中原中也の近代詩がどのように関わっているのか。この講義や演習の夢が叶うかどうかは分からないが、そのための努力や研究を重ねていきたい。(四年前になるが、この大学の「山梨学」という外部講師を招く授業で、「志村正彦『若者のすべて』を読む」という講義をしたこともある)
僕は大月市で生まれて、甲府市で育った山梨県人。就職してから、山梨県立文学館で「芥川龍之介と山梨」、県立高校で山梨に関わる作品を取り上げてきた。この「偶景web」では志村正彦・フジファブリックの詩を分析してきた。ふりかえれば、山梨出身やゆかりの作家や作品をずっと探究してきたとも言える。その延長上で、この春から新しいチャレンジをすることにした。
一昨日、英和大のキャンパスにある桜の樹を撮った。まだ一部に花が残っているものの、葉桜となってしまった桜。過ぎ去っていくものとしての桜の風景。この一週間の桜の変化は激しい。
今年の桜の季節は格別なものとなった。
ならば愛をこめて
手紙をしたためよう
( 志村正彦『桜の季節』)
2018年4月1日日曜日
退職
今日は私事を報告させていただきます。
昨日3月31日をもって、定年一年前ではあるが退職した。32年間在職し、その半分の16年間を山梨県立甲府城西高等学校で勤務した。
校訓は「進取創造」である。自由で先進的な校風が僕にはとても合っていた。ここで勤めさせていただくことで、教師として成長することができたと思う。素直にそう書けるのは幸せなことなのだろう。
1997年設立の総合学科高校で、八つの系列があり開設科目が多い。教師が目標や内容を設定できる学校設定もあり、国語表現系統の科目を中心に、「志村正彦の歌を語り合う」授業を実践してきた。その一端はこのブログでも紹介してきた。
その経緯を記しておきたい。2010年の春、ある病気で入院手術し、3か月間自宅で療養した。何もすることができずただ回復を待っていたその時期に、志村正彦・フジファブリックを聴き始めた。彼の作品に魅了された。日本語ロックの最高の達成だという確信を持った。
もともと、宮沢和史(ザ・ブーム)の作品を教材にしていたこともあり、志村正彦の歌詞をテーマにした授業を試みるようになった。授業を取材していただいたり、生徒の作品を富士吉田の志村展で展示していただいたりした。それを契機に貴重な出会いがあった。この場を借りてあらためて感謝を申し上げたい。
校舎は甲府盆地のほぼ中央にあり、四方の山々がよく見える。北西に八ヶ岳、西に南アルプス、南に富士山。1号館最上階の六階には展望スペースもある。数日前に南側のバルコニーから富士山を撮影した。甲府からの富士山は御坂山系の背後からこのように姿を現す。この日は春霞の富士だった。
この富士山の風景とフジファブリックとは分かちがたく結びついている。志村正彦の授業をする際に、校舎から見える富士山と何度も対話してきた。
もう一つ、校舎近くにある満開の桜も撮った。この桜の樹を、春夏秋冬、一年の季節を通して定点観測するように眺めてきた。『桜の季節』にある「桜が枯れる頃」とはどのような風景のことなのか。想像をめぐらし、生徒とともに考えてきた。
この校舎から見える富士山やこの桜ともお別れである。2011年度から7年間続けた甲府城西高校という場での志村正彦・フジファブリックの授業も終了となる。生徒の皆へ、ほんとうにありがとう。すばらしい経験を分かち合うことができた。
四月からは新しい勤め先に行きます。「偶景web」はこのまま継続していきますので、よろしくお願いいたします。
昨日3月31日をもって、定年一年前ではあるが退職した。32年間在職し、その半分の16年間を山梨県立甲府城西高等学校で勤務した。
校訓は「進取創造」である。自由で先進的な校風が僕にはとても合っていた。ここで勤めさせていただくことで、教師として成長することができたと思う。素直にそう書けるのは幸せなことなのだろう。
1997年設立の総合学科高校で、八つの系列があり開設科目が多い。教師が目標や内容を設定できる学校設定もあり、国語表現系統の科目を中心に、「志村正彦の歌を語り合う」授業を実践してきた。その一端はこのブログでも紹介してきた。
その経緯を記しておきたい。2010年の春、ある病気で入院手術し、3か月間自宅で療養した。何もすることができずただ回復を待っていたその時期に、志村正彦・フジファブリックを聴き始めた。彼の作品に魅了された。日本語ロックの最高の達成だという確信を持った。
もともと、宮沢和史(ザ・ブーム)の作品を教材にしていたこともあり、志村正彦の歌詞をテーマにした授業を試みるようになった。授業を取材していただいたり、生徒の作品を富士吉田の志村展で展示していただいたりした。それを契機に貴重な出会いがあった。この場を借りてあらためて感謝を申し上げたい。
校舎は甲府盆地のほぼ中央にあり、四方の山々がよく見える。北西に八ヶ岳、西に南アルプス、南に富士山。1号館最上階の六階には展望スペースもある。数日前に南側のバルコニーから富士山を撮影した。甲府からの富士山は御坂山系の背後からこのように姿を現す。この日は春霞の富士だった。
この富士山の風景とフジファブリックとは分かちがたく結びついている。志村正彦の授業をする際に、校舎から見える富士山と何度も対話してきた。
もう一つ、校舎近くにある満開の桜も撮った。この桜の樹を、春夏秋冬、一年の季節を通して定点観測するように眺めてきた。『桜の季節』にある「桜が枯れる頃」とはどのような風景のことなのか。想像をめぐらし、生徒とともに考えてきた。
この校舎から見える富士山やこの桜ともお別れである。2011年度から7年間続けた甲府城西高校という場での志村正彦・フジファブリックの授業も終了となる。生徒の皆へ、ほんとうにありがとう。すばらしい経験を分かち合うことができた。
四月からは新しい勤め先に行きます。「偶景web」はこのまま継続していきますので、よろしくお願いいたします。
2018年3月17日土曜日
追憶の歩み[志村正彦LN175]
前回から一月が経ってしまった。仕事であわただしい時を過ごしている。すでにすっかり春めいてきた。東京では今日にも桜が開花しそうだという。
『茜色の夕日』は歩む歌、記憶への歩みの歌だと書いた。この歌にはスタジオ収録された四つの音源がある。聴き比べると、歌そのものの速度が次第にゆっくりしてきたと感じる。まるで想いそのものを深くかみしめていくかのように、志村正彦の声もゆっくりと響いていく。物理的な演奏時間も最終的に1分ほど長くなった。
個人的な経験がこの歌の原点にあると志村本人が述べている。
2001年の音源、カセットテープ版『茜色の夕日』では、歌い手はその個人的経験と時間的にも心理的にもまだそう離れていな地点にいる。そのように僕には聴こえる。おそらく、恋愛という出来事の余波の渦中にいるのだろう。歌はまだ初初しくそしてほんのりと生々しい。
しかし、時の経過とともに、作者はその経験を見つめなおしていく。四つのスタジオ音源やいくつものライブ音源がそのことを示している。2005年9月リリースの6thシングルのヴァージョンがその歩みの完成形なのだろうが、2008年5月31日、富士吉田市民会館でのライブ映像のMCでは、作者自身がこの歌の意味を問い直していることで、永遠に忘れられないものとなった(『Live at 富士五湖文化センター』EMI Records Japan、2014/04/16)。故郷で歌われた『茜色の夕日』は、作者の経験の歩みの証言となっている。
『茜色の夕日』は「経験」の歩みの歌である。詩人にとって、あるいは詩作にとって「経験」とはどのような存在なのだろう。考えあぐねて、いくつかの書物を探索した。経験についての思索ということでまず思い出したのは森有正だ。彼の著作をかなり久しぶりに読んだ。経験と時間に関する魅力ある言葉があふれていた。その探索の過程で、ライナー・マリア・リルケの小説『マルテの手記』の一節に遭遇した。
1910年、『マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記』(Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge、通称『マルテの手記』)は発表された。デンマーク出身の詩人マルテがパリでの孤独な生活の日々を断片的に書き連ねていくという設定の小説である。その中に次の一節がある。少し長くなるが引用しよう。(数ある翻訳の中で手元にあった生野幸吉訳にしたい)
詩は人が思うのとはちがって感情ではない(感情なら、いくら年少でも持てるだろう)、――詩とは体験なのだ。一行の詩のためにも、たくさんの都市を、さまざまな人や物を見なければならない。獣たちを知らねばならず、鳥の飛行の感情を悟らねばならず、夜明けにひらく小さな花の開花のそぶりをこころえねばならない。未知の地方の行路のこと、予期しなかった邂逅、遠くから迫るのを見つめていた別離のとき、それらを思い出せねばならぬ。解明されぬままになっている幼い日々。よろこびそうなものをもらったのに、それがわからなくて、つい気持ちをきずつけてしまった両親のこと。(ほかの子供ならよろこんで受けたのだが――)。(中略)
だがまた、追憶をもつだけではまだ十分とはいえぬ。追憶が多くなったら、それを忘れることができねばならぬ。追憶がもいちど返ってくるのを待つ大きな忍耐がいる。なぜなら、追憶そのものはまだ詩ではないのだから。追憶がぼくらの中で血となり、眼差しや愛情となり、名前をなくし、ぼくら自身と区別ができなくなったとき、はじめて、ある稀有なひとときに、一行の詩句の最初の言葉が、そんな追憶の中枢に立ちあがり、追憶の内部からあらわれてくる。そういう奇蹟が起るかもしれない。
『マルテの手記』の話者は、詩が「感情」ではなく「経験」だと語る。(生野訳では「体験」だが、ここでは「経験」という言葉に置き換えたい)それは、都市を歩み、人や物と出会う経験であり、さまざまなものを思い出す経験でもある。
経験は追憶と結びつく。しかし、単なる追憶では詩は生まれない。訳文には「追憶がもいちど返ってくるのを待つ大きな忍耐がいる」とある。それはまさしく「時間」の「忍耐」である。そして、「追憶がぼくらの中で血となり、眼差しや愛情となり、名前をなくし、ぼくら自身と区別ができなくなったとき」ともある。難しいが美しい言葉だ。
飛躍した物言いになるが、「追憶」が「眼差し」や「愛情」となると「一行の詩句の最初の言葉」が立ち上がるというのは、志村正彦・フジファブリックの『茜色の夕日』を考える上でとても参考になる。経験と追憶の歩みが、時間をかけた歩みが、『茜色の夕日』という稀有な作品にたどりついたのではないだろうか。
『茜色の夕日』は歩む歌、記憶への歩みの歌だと書いた。この歌にはスタジオ収録された四つの音源がある。聴き比べると、歌そのものの速度が次第にゆっくりしてきたと感じる。まるで想いそのものを深くかみしめていくかのように、志村正彦の声もゆっくりと響いていく。物理的な演奏時間も最終的に1分ほど長くなった。
個人的な経験がこの歌の原点にあると志村本人が述べている。
2001年の音源、カセットテープ版『茜色の夕日』では、歌い手はその個人的経験と時間的にも心理的にもまだそう離れていな地点にいる。そのように僕には聴こえる。おそらく、恋愛という出来事の余波の渦中にいるのだろう。歌はまだ初初しくそしてほんのりと生々しい。
しかし、時の経過とともに、作者はその経験を見つめなおしていく。四つのスタジオ音源やいくつものライブ音源がそのことを示している。2005年9月リリースの6thシングルのヴァージョンがその歩みの完成形なのだろうが、2008年5月31日、富士吉田市民会館でのライブ映像のMCでは、作者自身がこの歌の意味を問い直していることで、永遠に忘れられないものとなった(『Live at 富士五湖文化センター』EMI Records Japan、2014/04/16)。故郷で歌われた『茜色の夕日』は、作者の経験の歩みの証言となっている。
『茜色の夕日』は「経験」の歩みの歌である。詩人にとって、あるいは詩作にとって「経験」とはどのような存在なのだろう。考えあぐねて、いくつかの書物を探索した。経験についての思索ということでまず思い出したのは森有正だ。彼の著作をかなり久しぶりに読んだ。経験と時間に関する魅力ある言葉があふれていた。その探索の過程で、ライナー・マリア・リルケの小説『マルテの手記』の一節に遭遇した。
1910年、『マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記』(Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge、通称『マルテの手記』)は発表された。デンマーク出身の詩人マルテがパリでの孤独な生活の日々を断片的に書き連ねていくという設定の小説である。その中に次の一節がある。少し長くなるが引用しよう。(数ある翻訳の中で手元にあった生野幸吉訳にしたい)
詩は人が思うのとはちがって感情ではない(感情なら、いくら年少でも持てるだろう)、――詩とは体験なのだ。一行の詩のためにも、たくさんの都市を、さまざまな人や物を見なければならない。獣たちを知らねばならず、鳥の飛行の感情を悟らねばならず、夜明けにひらく小さな花の開花のそぶりをこころえねばならない。未知の地方の行路のこと、予期しなかった邂逅、遠くから迫るのを見つめていた別離のとき、それらを思い出せねばならぬ。解明されぬままになっている幼い日々。よろこびそうなものをもらったのに、それがわからなくて、つい気持ちをきずつけてしまった両親のこと。(ほかの子供ならよろこんで受けたのだが――)。(中略)
だがまた、追憶をもつだけではまだ十分とはいえぬ。追憶が多くなったら、それを忘れることができねばならぬ。追憶がもいちど返ってくるのを待つ大きな忍耐がいる。なぜなら、追憶そのものはまだ詩ではないのだから。追憶がぼくらの中で血となり、眼差しや愛情となり、名前をなくし、ぼくら自身と区別ができなくなったとき、はじめて、ある稀有なひとときに、一行の詩句の最初の言葉が、そんな追憶の中枢に立ちあがり、追憶の内部からあらわれてくる。そういう奇蹟が起るかもしれない。
『マルテの手記』の話者は、詩が「感情」ではなく「経験」だと語る。(生野訳では「体験」だが、ここでは「経験」という言葉に置き換えたい)それは、都市を歩み、人や物と出会う経験であり、さまざまなものを思い出す経験でもある。
経験は追憶と結びつく。しかし、単なる追憶では詩は生まれない。訳文には「追憶がもいちど返ってくるのを待つ大きな忍耐がいる」とある。それはまさしく「時間」の「忍耐」である。そして、「追憶がぼくらの中で血となり、眼差しや愛情となり、名前をなくし、ぼくら自身と区別ができなくなったとき」ともある。難しいが美しい言葉だ。
飛躍した物言いになるが、「追憶」が「眼差し」や「愛情」となると「一行の詩句の最初の言葉」が立ち上がるというのは、志村正彦・フジファブリックの『茜色の夕日』を考える上でとても参考になる。経験と追憶の歩みが、時間をかけた歩みが、『茜色の夕日』という稀有な作品にたどりついたのではないだろうか。
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