ジャズは断片的にしか聴いてこなかった。ほんの時々、話題になった音源に接したり地元のジャズ・フェスティバルに出かけたりという関わり方だった。ジャズのアルバムもわずかしか持っていない。そのような関わりの中で、セシル・テイラーという固有名詞は記憶の中に留まり続けていた。今日はそのことを書いてみたい。
1973年のことだ。僕は中学3年生だった。その頃すでに英米のロックや日本のロックやフォークを熱心に聴いていた。『ニューミュージック・マガジン』などの音楽雑誌を読んだり、FM放送を聞いてテープに録音したりという日々だった。レコードは高価なものなので、小遣いをためてほんとうにたまにしか買えなかった。今のように情報はあふれていなかったので、雑誌のレビューが購入の参考になることも多かった。
その年の冬の季節だったろうか、セシル・テイラーというピアニストのユニットのライブ盤が発売されたことを知った。『アキサキラ(Akisakila)』という奇妙な題名だった(スワヒリ語で「沸騰」を意味するそうだ)。その年に東京の会場で録音された作品で、どの雑誌かは覚えていないが、レビューで絶賛されていた。「フリージャズ」というジャンルらしいが、田舎の中学生にとっては謎の音楽だった。なんとなく知的で芸術的なものへの関心、好奇心があった。中学生らしい背伸びしたい心もあった。ジャケットの写真にもロックとは異なる雰囲気があり、なんだか惹かれた。
当時の甲府に「サンリン」というレコード屋さんがあった。新しくて明るい雰囲気の店だった。音楽にとても詳しいご兄弟の店員がいて、品揃えがよかったので時々立ち寄った。LPレコードを包む布製の袋がお洒落だった。あの頃の甲府の若者はそのサンリンの袋を抱えることが、音楽ファンとしてのちょっとしたステイタスでもあった。
『アキサキラ』は2枚組のLPだったのでとても高価だった。かなり迷ったのだと思う。でも、フリージャズというものを知らなければならない、そう自分に言い聞かせて意を決してサンリンに出かけた。棚からレコードを探してレジに出すと店員のお兄さんから「中学生がセシル・テーラーねえ?」と言われたことをよく覚えている。僕が初めて買ったジャズのアルバムになった。(数年前にサンリンは惜しまれつつ閉店した)
家に帰り早速聞いてみたのだが、セシル・テイラーとジミー・ライオンズ(asx)、アンドリュー・シリル(ds)の三人による音の洪水だった。(確かに「沸騰」のようだ)正直言って心が動かされるような音楽ではなかった。身体が動かされたということもなかった。理屈として知的に理解することももちろんできなかった。フリージャズというのはこういう世界なのだなと受けとめることしかできなかった。音楽には何らかの形や型があるのだが、そういうものを超えているのだなということだけは何となく分かった。それが「フリー」というなのだろうか。その理解もおぼろげなものだった。むしろ、何か理解を超えたものがあるのだなということだけは分かったような気がした。
その後、セシル・テーラーの良い聴き手となることはなかった。フリージャズ、広くジャズの世界に深く入り込んでいくこともなかった。セシル・テーラーのことも忘れていった。
時は移り、1992年の夏。山梨県の白州町でセシル・テイラーの生演奏を初めて聴くことができた。1988年から1998年まで、田中泯主催の「白州アートキャンプ」が開かれていた。僕はほぼ毎年通い、マルセ太郎やデレク・ベイリー等の素晴らしいパフォーマンスを経験することができた。今思えば、非常に貴重で特別に贅沢な時と場であった。
舞台は巨麻神社。甲府から北西方面に車で1時間ほどの所だ。鬱蒼とした古びた境内にセシル・テーラーという組み合わせがそれらしかった。田中泯とのコラボレーション、富樫雅彦・一噌幸弘とのユニットで二日間行われた。かなりの年月が経ち、その印象をここに書くことは記憶の面でも能力の面でも不可能だ。セシル・テーラーのピアノの音がひたすら美しかったということのみ記しておきたい。混沌の中で綺麗に立ち上がっていった。後にも先にもフリージャス系のピアノの音で純粋に構築的で美しいと感じたことはこの時だけだろう。
youtubeで映像や音源を探してみた。残念ながら白州関連やその時代のものは見つからなかった。検索していくうちに晩年のセシル・テーラーはどうだったのか気になった。2004年収録の「Master Class: Cecil Taylor - Poetry and Performance」という詩の朗読とピアノ演奏があった。七五歳の衰えることのないパフォーマンスに驚くばかりだ。
数日前、相倉久人の『されどスウィング―相倉久人自選集』(青土社2015/7/7)に「白州の山にこだまするセシル・テーラー・サウンド」が掲載されていることを知り、取り寄せて読んでみた。細やかな感覚と鋭い論理が融合した文体で、白州の経験を「聴覚の転換=耳のフェスティバル」だったと書いている。
相倉久人の優れた批評的エッセイによって、忘れていたいくつかのことを想い出すことができた。あの日の美しい音の断片も少し回帰してきた。
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