フジファブリック『スクラップ・ヘブン』という題名でリード文に「自分のリズムが狂ったら、僕の場合はやっぱり音楽。曲を作るのが一番いい。(志村)」とある。文章1頁、写真1頁(別に2頁の写真も)の構成で、「取材+文・山下薫」とある。この取材には志村正彦と加藤慎一の二人が参加している。珍しい組み合わせで、加藤氏の発言がそれらしくて愉快だ。志村が『蜃気楼』に直接言及している部分を引用してみよう。
―本作のエンディング曲「蜃気楼」を作る上で、監督と何を話しました?
志村「具体的な話ではなく、映画の中で描かれている希望やどうしようもできないもどかしさとか、映画の世界観を確認した感じです」
―シンゴとテツは、まさに新しい自分になりたくて進み始めてはみたものの、道の途中から迷いはじめた自分たちのリズムは取り戻せず”どうしようもないもどかしさ”に陥ってしまったのだと思います。お二人は気持ちのリズムやバランスが乱れたとき、自分なりの整え方はありますか。
志村「僕の場合は曲を作るというのがやっぱり一番いいんですよ。曲を作るって自分の中にあるモノをたくさん出して、いろいろ考えるわけです。出来た曲に浸ったりもできるし」
―でも上手く曲ができないと、余計にハマってしまいそうですが…。
志村「その繰り返しなんですよ。音楽作るって、たぶん。曲を作り始めたのは15,6歳のときで、その頃、心の中に何かわだかまりがあって、何か動き出したい…と思っていた。とにかく飛び出したい、新しい自分に出会いたい、でも一体自分とは何なのかとか考えている時に、その表現方法がやっと見つかったんですよ」
―それが、音楽だったわけですね。
志村「そうです。そこからいろいろな曲を作ってきて、今は自分が唯一できることだと思っています」
志村は「映画の中で描かれている希望やどうしようもできないもどかしさ」と述べているが、以前紹介した『プラスアクト』2005年vol.06所収の「希望もあるんだけど、でも迷って、思いもよらない方向に物事が転がっていく、そのもがいて進んでいく感じ」とほぼ同じである。二つの雑誌取材に対して同一の見解を示していることで、この捉え方が志村の中では確固たるものになっていたことがわかる。この映画を見た者は誰しも、志村の指摘した「どうしようもできないもどかしさ」「もがいて進んでいく感じ」を受けとめるだろう。混乱や混迷、一種の無秩序のようなものがこの映画を支配している。
一方、「希望」の方はなかなか見いだすことはできないのではないか。希望の反対が「絶望」だとしたら、確かに、ラストシーンの意外な終わり方は少なくとも「絶望」的ではない。だが「絶望」を反転する「希望」にたどりついているかといえば、かなり微妙であり、むしろ懐疑的にならざるをえない。おそらく李相日監督自身が、希望とも絶望とも捉えることのできない、あるいはそのどちらにも捉えることもできる、エンディングを選択したのだと考えられる。観客の想像力にゆだねたともいえる。実際、この映画の宣伝のキーワードに「想像力の足りない」世界というものがあった。この映画自体が観客の自由な「想像力」をかなりの程度で求めている。
志村は「DIALOGUE 李相日×志村正彦(フジファブリック)」という対談(『スクラップ・ヘブン』パンフレット、オフィス・シロウズ、2005/10/8)では、「絶望だけで終わりたくない、かといって希望が満ちあふれた感じでもないなと思って」、その「揺れている感じ」を「蜃気楼」というモチーフに象徴させたと語っている。
実像と虚像、近景と遠景が入れ替わるような「蜃気楼」の現象に、希望と絶望とが分離したり合流したりして交錯ていく「流れ」を見いだした。それが志村の「想像力」だった。その絶望と希望の流れを楽曲と言葉に変換して、作品『蜃気楼』を作り出していった。そのような過程を想像することができるだろう。
取材者の「気持ちのリズムやバランスが乱れたとき、自分なりの整え方」という質問に対する返答が興味深い。志村は、「曲を作るって自分の中にあるモノをたくさん出して、いろいろ考えるわけです」「曲を作り始めたのは15,6歳のときで、その頃、心の中に何かわだかまりがあって、何か動き出したい…と思っていた。とにかく飛び出したい、新しい自分に出会いたい」と振り返っている。
『スクラップ・ヘブン』取材中の発言なので、作中の「シンゴとテツ」を重ね合わせているとも捉えられる。「シンゴとテツ」の脱出は行き詰まりに終わったとひとまずはいえる。志村の場合、曲作りによって「新しい自分」に出会った。音楽表現という「希望」を想い描いた。
(この項続く)
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