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2018年5月7日月曜日

菅田将暉『5年後の茜色の夕日』(志村正彦LN177)

 門司には一度だけ行ったことがある。
 博多駅から小倉駅へ、それから鹿児島本線に乗り換える。しばらくすると、車窓から関門海峡の海、その向こう側に下関側が見えてくる。十五分ほどで門司港駅に到着。駅舎は「レトロ」な雰囲気で有名だ。門司港の方へ降りていくと、関門橋が近づいてくる。本州と九州の境界の橋。この眺望は感慨をもたらした。

 俳優の菅田将暉はデビュー・アルバム『PLAY』(3月21日リリース)で、志村正彦作詞作曲のフジファブリック『茜色の夕日』をカバーした。その初回生産限定盤には、『5年後の茜色の夕日~北九州小旅行ドキュメント映像~』(監督・島田大介)という特典DVDが付いている。
 2012年撮影、2013年公開の映画『共喰い』(監督・青山真治)のロケ地、北九州市門司を5年振りに訪れるというドキュメント映像だ。この撮影時に、フジファブリックの『茜色の夕日』(作詞作曲・志村正彦)を繰り返し聴いたことが歌い手となる契機になったそうだ。音楽活動の原点を再訪する映像を制作するのは珍しい。

 映画の原作である田中慎弥の小説『共喰い』は、芥川賞受賞時に読んだ。中上健次を思い起こさせる作風だった。ただ中上と異なり、神話や歴史にこだまする大きな物語はどこにもなく、山口県下関市の川辺の街の小さな物語、極小の家族の物語が浮かび上がってきた。これは時代の必然のような気もした。

 映画『共喰い』の方はWOWOW放映時に見た。撮影場所は関門海峡の反対側、門司で行われたことを知った。ロケ地の景観の問題だったようだが、監督の青山真治が北九州市出身だということも関係しているかもしれない。ちなみに青山のデビュー作『Helpless』も北九州市で撮影されている。主人公の高校生「健次」(浅野忠信)は中上健次の名から取られているように、中上作品へのオマージュの色が濃い映画だ。
 脚本は荒井晴彦。荒井には『赫い髪の女』(監督・神代辰巳)という優れた作品があるが、中上健次の『赫髪』が元になっている。小説から映画まで、原作者、監督、脚本家と、中上健次という固有名を想起させた。

 映画では菅田将暉が17歳の高校生「遠馬」を演じる。昭和63年。昭和という時代の最後の夏の季節がこの物語の背景となっている。菅田はリアルな演技を披露している。演技というよりも切実な何か、透明な鬱屈のようなものを感じさせる。小説原作の映画には駄作が多いが、『共喰い』は原作に対して優れた水準を維持している。

 『5年後の茜色の夕日』に移ろう。
 菅田はある通り(映画では「通学路」という設定の通り)を歩きながら『茜色の夕日』に触れている。(須田の語りの中でこの歌に言及しているのはこの箇所だけである)


こうやって俺らが都会から来るとすごい心地いいけど、ここにいる人間からしたら、もうちょっと毎日見てるからうんざりだみたいな、(抜け出したくなる…*スタッフの声)そうそうその感じも茜色の夕日なんすよね、それはもうなんか上京組としてすごくわかるっていうか、通学路が急にさめて見える瞬間っていう


 映像だけでは、この界隈の風景が『茜色の夕日』の感じだということが今ひとつ伝わらないことが残念である。この映像よりも映画『共喰い』で撮影された風景の方がそれらしい感触を持っているだろう。言葉にすると紋切り型の表現になってしまうが、昭和の路地裏の風景だと書いておきたい。

 最後に水路沿いに腰掛けて、菅田がアコースティックギターを奏でながら『茜色の夕日』を歌う。菅田の歌い方は誰かに伝えるためというよりも、自分自身に伝えるためのものだという印象を持った。五年後の菅田将暉が五年前の菅田将暉に歌いかける。そのように完結させていることはむしろ、この歌に対する誠実さの表れなのだろう。この映像はだから極めて私的な映像である。私的なものの徹底が原動力となって、須田の歌を支えている。『茜色の夕日』に対する尊重の在り方の一つかもしれない。そのことは評価できる。

 映像の本編が終わり、タイトルバックに移った。監督やスタッフの名が示された後で、菅田による追伸の手紙のような言葉が流されていった。記録のために文字に起こしておく。


10代最後の夏
この街で面白い出会いがありました
それは自分にとって 菅田将暉にとって大切な出会いになりました
俳優部という部署の在り方 人と人が触れ合った時にしかない温かさ
そして、音楽
大袈裟なことを言うと この一曲で人生が変わったのかもしれません
それまで僕の携帯に音楽は一曲も入ってませんでした
一曲も
というか
人生で何がしたいのか 一つもわかりませんでした
あれからしばらく経ち なんと今人前で歌ったりしています
何が起こるかわからないものですね
なので
ふと訪れてみよう
ということになり 足を運んだ次第でございます
相も変わらす声が響く街でした
新しいものと残されたものが共存していて
とてもお気に入りの場所です
幸せな出会いに、感謝
                                                  菅田将暉


 「この一曲で人生が変わったのかもしれません」という素直な吐露には共感できる。映画撮影時に須田は19歳だったという。志村正彦がこの歌を作ったのも同じ頃の年だった。よく知られているように、志村の人生もこの曲で変わった。
 『茜色の夕日』には十代最後という時間そのものが込められている。これまでの時とこれからの時、これまでの場とこれからの場。これまでの僕とこれからの君。これまでの君とこれからの僕。そこで佇むこととそこから歩み始めること。その狭間に起きる事柄と想いを志村正彦は描いた。

 DVDはこの菅田将暉の言葉で終了するのだが、ある違和感が残った。『5年後の茜色の夕日』の映像中に、『茜色の夕日』の作詞作曲者である志村正彦の名、そしてフジファブリックの名もまったく記されていないのだ。何故なのか。疑問が湧き上がってきた。

 本編映像の中でインポーズする必要はない。この歌の説明をする必要もない。しかし、タイトルバックの記載事項として、作詞作曲者の志村正彦という固有名(フジファブリックという名も)を明示することは、絶対的に必要な事柄である。付言すれば、「著作権」や「著作者人格権」の観点からも問題がある。そもそも『5年後の茜色の夕日』という題名にも疑問がある。茜色の夕日は作品名であるから、『』あるいは「」という引用符は不可欠である。

 このことを制作者側はどのように判断したのだろうか。
 僕はかつてこのblogで『若者のすべて』のカバー曲の広がりについて、「作者の名を知らない、ある意味では和歌の『詠み人知らず』のよう に、歌そのものの魅力によって人々に愛されていく。これもまた、曲の運命としては光栄なことに違いない」と書いたことがある。この見解は今も変わらない。ただしこの「詠み人知らず」という視点はあくまで聴き手側のものである。制作者側がカバー曲の音源や関連映像を公的に発表する場合は、オリジナル作品の作詞作曲者(必要に応じて演奏者も)の固有名を記すことは、絶対にそして永遠に守らなければならない。

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