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2018年6月9日土曜日

もう一つの短編映画-『蜃気楼』10[志村正彦LN181]

 フジファブリック『蜃気楼』について断続的に書いてきたが、今回でひとまずの区切りにしたい。これまでの考察と重複するところもあるが、完結編として記述してみたい。

 『スクラップ・ヘブン』パンフレット(オフィス・シロウズ、2005/10/8)掲載の「DIALOGUE  李相日×志村正彦(フジファブリック)」という対談の冒頭の部分には、この曲の依頼の経緯についての重要なコメントがある。


『スクラップ・ヘブン』パンフレット表紙


李  最初に、エンディングに劇中音楽を流した状態で見てもらったんですよね。

志村 エンディングテーマを作るというのが初めてだったんで、まずは映画を見てから返事をさせてくださいって言って。映画は……素人っぽい感想なんですけど、見ていてすごいハラハラしました。

李  (笑)

志村 僕自身、「こうなったらいいな」とか「こうならなくてよかったな」とか思うことが、実際の生活の中でも夢の中でもよくあるんですけど、そのふたつって紙一重だと思うんですよね。どっちに踏み出すかによって結果が変わってくるんだけど、『スクラップ・ヘブン』にはその両方が描かれているというか。ヒーローになりたい気持ちがありながら、逆の方向に転んでしまったり。そういう紙一重なところが、普段僕が考えていることと通じる気がしました。

李  最初の打ち合わせの時、ふたりきりなら志村さんも素直に感想を言えたんだろうけど、まわりに人がいっぱいいたからお互いあんまり話せなくて、「後はこっそりメールで」ってことにして。

志村 メールでやりとりできたのがよかったですね。

李  具体的に何を書いたのか覚えていないけど、「この映画って、見終わってはてなマークが出る人が大勢いるだろうから、そこを曲でカバーしてください」みたいなお願いのしかたでしたよね、確か。エンディングの画が終わったら、そこから先は別ものっていう考え方の監督もいるけど、僕はエンディングテーマもひっくるめて一本の映画というふうにしたくて。エンドロールって、映画の余韻を味わったり振り返ったりするコーヒータイムみたいなものだと思うんです。

志村 読後感っていうんですか、そういう「映画を見終わった感」が出せればいいなと思って、同時に曲単体でもいいものを作りたかった。結果的にはその両方ができてよかったなと。


 李監督が最初に流した劇中音楽は、映画DVDに六曲のサウンドトラックとして収録されている。音楽監督の會田茂一による80年代のインダストリアル・ロック調の曲で、會田茂一、中村達也、佐藤研二、生江匠、二杉昌夫が演奏している。映画の鬱屈した雰囲気とテンポを巧みに表しているが、すべてインストルメンタルで歌詞もない。エンディングのテーマ曲にはふつう歌詞があるので、この劇中音楽をそのまま使うことはできなかったのだろう。

 李監督が「見終わってはてなマークが出る人が大勢いるだろうから」と述べているのは、志村正彦が繰り返し言及している言葉によれば、「絶望」と「希望」あるいはそのどちらともいえない状況、その「紙一重」の状況があるからだ。映画のエンディングをどのように受けとめるのか。その意味合いをどう解釈したらよいのか。どちらともいえない、いいきれないような「決定不能」のところがある。それゆえに監督は「そこを曲でカバーしてください」と志村に依頼した。テーマ曲にゆだねようとした。そういうわけで、エンディングの映像とテーマ曲を複合させ、ある種の補填や相乗の効果によって映画『スクラップ・ヘブン』を完結させる、そのような重大な使命が志村に課せられた。彼自身この映画を相当に気に入ったようで、その使命を受け制作する決断をした。

 「こうなったらいいな」「こうならなくてよかったな」というような紙一重の状況。実際の生活の中でも夢の中でも、そのような紙一重の状況に遭遇すると答えているのが興味深い。志村の作品には、二つの状況や系列、テーマやモチーフが同時に進行して、ある時に重なりある時に離れていくという展開がしばしば見られるが、このような展開は、この彼自身の「紙一重」という感性の在り方に影響されている。

 志村は制作の過程で『スクラップ・ヘブン』の世界、受け入れがたい今日の世界の在り方をまずはじめに自らの鬱屈した声と不気味な楽曲の音色で描いていった。その次の段階で、声と楽曲の陰鬱な調子と歌詞による言葉の世界を分離させていき、「こうなったらいいな」という希望の物語を紡ぎ出していった。

 もう一度、 フジファブリック『蜃気楼』のCD収録のオリジナル音源(以下「CD版」と記す)と映画のエンディング使用音源(以下「映画版」と記す)の二つの歌詞の色分けして引用したい。CD版のみにあって映画版にはない部分を赤字で示す。


   三叉路でウララ 右往左往
   果てなく続く摩天楼

   喉はカラカラ ほんとは
   月を眺めていると

   この素晴らしき世界に降り注ぐ雨が止み
   新たな息吹上げるものたちが顔を出している

   おぼろげに見える彼方まで
   鮮やかな花を咲かせよう

   蜃気楼… 蜃気楼…

   この素晴らしき世界に僕は踊らされている
   消えてくものも 生まれてくるものもみな踊ってる

   おぼろげに見える彼方まで
   鮮やかな花を咲かせよう

   蜃気楼… 蜃気楼…


 CD版と映画版の差異は、第2連から5連までの赤字の部分の有無である。映画版にはない部分は「この素晴らしき世界」に降り注ぐ「雨」が止むという情景が鍵となる。『陽炎』や『虹』もそうであるように、志村正彦は雨上がりの世界をよく歌った。雨が降りやむと新しい風景や出来事が現れる。『蜃気楼』の場合、「新たな息吹上げるものたち」が顔を出す。この息吹、命あるものは歌詞の展開上、「鮮やかな花」であろう。
 初期の作品『花』には「つぼみ開こうか迷う花 見ていた」という一節がある。花の開花する過程、その時間を見つめている。『蜃気楼』にも「息吹上げる」という過程への眼差しがある。花の生育の過程を志村は愛おしく感じていたのだろう。

 「おぼろげに見える彼方」には、楽曲の風景の核にある「蜃気楼」というイメージが投影されている。蜃気楼には色彩感があまり感じられない。空の薄暗い灰色やかすかな青色が混じり合ったような世界、どちらかというと色のないモノクロームの風景のような気がする。その彼方に登場する「鮮やかな花」は、色彩感のあまりない蜃気楼の風景の中でひときわ鮮やかに輝く。花の鮮やかな彩りが蜃気楼の世界に新たな命を吹き込むかのように。そして、映画のエンディングの欠落したシーンを補填するかのように。
 映画版の歌詞にはこの赤字の部分が省略されているのでこのプロセスがつかみにくいが、CD版の歌詞を補うことで「鮮やかな花」の出現する意味合いをたどることができる。

 『スクラップ・ヘブン』には「世界の消滅」というテーマがある。登場人物の三人、偶然出会ったテツ、シンゴ、サキはおのおの「世界を一瞬で消す」欲望のために行動する。世界の消滅への欲望は反転すると、自己自身に回帰してくる。この物語も停滞したり遅延したりしていく。見いだしたものが失われていく。失われたものが再び見いだされる。混乱し錯綜していく。

 映画のラストシーン。シンゴは意を決したかのように、サキが製造した「世界を一瞬で消す」小瓶を空に放り投げる。その小瓶はたまたま通りがかった廃品回収のトラックにそのまま落下する。ゴミがクッションになって破裂することはなかった。「世界の消滅への欲望」はそのようにして終わる。呆気なく、まるで憑き物が落ちたかのように。テーマの中心がずらされていく。何が一体起こったのだろうか。何がこれから起こるのだろうか。
 このラストシーンからは、「世界の消滅への欲望」から「消滅」という項目が脱落してしまったとも考えられる。そうすると不思議なことに、「世界の消滅への欲望」が「世界への欲望」へとゆるやかに反転していく。シンゴは新たに「世界への欲望」へと歩み始めねばならない。そのような未来の方向も読み取れるかもしれない。映画の観客も一人ひとり、その方向を想像していくように促されている。

 志村正彦は上記の対談で「エンディング曲」と共に「曲単体」としても良い作品であることを求めたと述べている。「結果的にはその両方ができてよかったなと」と発言しているが、確かに、というか志村の評価以上に、『蜃気楼』はその二つの目的が高い次元で達成されている。
 志村自身は新たな「世界への欲望」を「鮮やかな花を咲かせよう」という欲望として描いた。自らの想像力によって、映画の結末の彼方に「蜃気楼」と「花」を出現させた。
 だから実質的には、『スクラップ・ヘブン』という2時間の映画の本編終了後に、『蜃気楼』という作品、もう一つの『スクラップ・ヘブン』、あり得るかもしれない数分の短編映画を創り上げたとも考えられる。

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