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2018年4月15日日曜日

『エイプリル』[志村正彦LN176]

 英和大に務めて二週間経った。この大学に進んだ卒業生ともばったり出会ったが、やはり僕がここにいることがのみこめない様子。自分自身もまだ「ここはどこわたしはだれ」状態。少しだけ経緯を説明し、再会を喜んだ。言葉はあまり交わさなかったが、互いに微笑んだ。

 授業も始まった。僕には教える学識が少ないので、学生と対話する中で、彼らが自らの課題に向き合う力を伸ばしていきたい。彼らの「思考」や「表現」の形成を支援する存在でありたい。以前書いたこともある、ジョゼフ・ジャコトとジャック・ランシエールの唱える『無知な教師』の実践でもある。(偶景web:ジャック・ランシエール『無知な教師 知性の解放について』

 これまでの日々で印象深かったのは、入学式だ。学長、理事長が聖書を引用し新入生を歓迎した。聖歌隊のコーラスの清らかさ、ハンドベルの演奏の美しさ、そしてパイプオルガンの重厚な響き。これほど音楽とともにある入学式は初めてだった。

 僕はクリスチャンではないが、キリスト教には関心を抱いてきた。西欧の哲学と神学は分かちがたく結びついている。その理解に努めてきた。簡潔に書いてみたい。日本の社会や文化にとって、キリスト教は「他なるもの」である。「他なるもの」は「他なるもの」ゆえに私たちにとって貴重な存在であり、そのことだけにおいても(それ以上にという意味合いも含めて)尊重されなければならない。(齢を重ねて僕にとっては「他なるもの」ではなくなりつつあるのだが。そのことはゆっくりと考えていきたい。)

 パイプオルガンの音が広がっていくと、『茜色の夕日』のイントロのオルガンの音色が浮かんできた。オルガンの音は私たちを深い眠りから覚醒させるように作用する。一日の時の経過でいうと、「朝」の響きだ。朝の光の波がそのまま音の波と化して私たちの心と身を揺るがすように。

  『茜色の夕日』は、題名通りの「夕日」の時から「東京の空の星」の夜にかけての時間が背景となっているのだろうが、その音楽自体は、歌詞の一節にも「晴れた心の日曜日の朝」とあるように、夕方や夜というよりも「朝」の時間を想起させる。あのオルガンの音色と旋律は、志村正彦が何かから目覚め、新しい世界へ歩み始めることを伝えるているように聞こえてくる。

 四月ということもあり、フジファブリック『エイプリル』を久しぶりに聴いた。予兆と変化を告げるような旋律に乗って、歌の主体「僕」の素直な思いが繰り広げられる。テンポは速いが、志村の声はとても繊細だ。歌詞のすべてを引用する。


  どうせこの僕なんかにと ひねくれがちなのです
  そんな事無いよなんて 誰か教えてくれないかな

  神様は親切だから 僕らを出会わせて
  神様は意地悪だから 僕らの道を別々の方へ

  振り返らずに歩いていった その時 僕は泣きそうになってしまったよ
  それぞれ違う方に向かった 振り返らずに歩いていった

  何かを始めるのには 何かを捨てなきゃな
  割り切れない事ばかりです 僕らは今を必死にもがいて

  振り返らずに歩いていった その時 僕は泣きそうになってしまったよ
  それぞれ違う方に向かった 振り返らずに歩いていった

  また春が来るよ そしたのならまた
  違う景色が もう見えてるのかな

  振り返らずに歩いていった その時 僕は泣きそうになってしまったよ
  それぞれ違う方に向かった 振り返らずに歩いていった
    ( 詞・曲 : 志村正彦 )


 歌詞を写しているうちに、「神様」という言葉に立ち止まった。今まであまり意識したことがなかった。志村は「神様」のことをどう考えていたのだろうか。この歌詞での神様は「エイプリル」、四月の神様なのかもしれないが。

 「何かを始めるのには 何かを捨てなきゃな/割り切れない事ばかりです 僕らは今を必死にもがいて」という一節は心にしみるものがあった。歌詞はやはり聴き手と共に生きていく。そうなることによって歌い手に返されていく。春になると「違う景色」が見えてくるように、生きることの歩みとともに歌の「違う景色」も見えてくる。


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