前回書いたHINTOの新曲『なつかしい人』について、安部コウセイが、『skream』というネットメディアでこう述べている。(インタビュアー:石角友香)
歌モノでありながら演奏もちゃんとかっこいい、歌を抜いて演奏だけ聴いてもかっこいい。「なつかしい人」は、そういうことを突き詰めてやりたかったんです。そういう気持ちは突然湧いた思いなわけでもなくて、もともとそういうものの方がいいはずだよなと思ってました。ヴォーカルが入ることでそれがひとつの説明だったり、感情の方向性だったりをわかりやすくするっていう役割として、ヴォーカルを楽器だと思ってるんですけど、その音が抜けたときに"あれ? 全然かっこよくないな"ってなるのだけは僕はやだなと思って。
確かに、『なつかしい人』は歌と演奏の突き詰め方がロック音楽という枠組の中では究極的なところまで進んでいる。歌と演奏、声と楽器の音色が複雑に絡み合い、非常に高い水準で融合している。日本語ロックの新しい次元を切り開いているといっても過言ではない。
youtubeの公式映像は公開以来3週間という短い期間ですでに5万4千回を超えている。特筆すべきなのは海外からの賛辞が寄せられていることだ。歌詞が分からなくても、声が意味と分離していても、意味を超えた何かが作用するのだろう。安部の目指したように、ヴォーカルが楽器として響いているのかもしれない。それでも海外のコメントを読むと、歌詞を知りたいという声も多い。公式サイトには『エネミー』の英訳が掲載されているので、『なつかしい人』の翻訳が待たれる。
HINTOの「日本語ロック」は「日本」という閉域を超えて評価されている。これは驚くべき出来事ではないだろうか。
新作『WC』収録の『花をかう』という作品も繰り返し聴いている。歌詞を引用しても歌が聞こえてくるわけではないが、歌詞カードから詩の後半を写してみる。
俺は今日も変わらない為の理由を
探しながら 町を歩いて いるよ
ガラにもなく花屋で立ち止まった
赤 白 黄色 どれも似てんな
花をかう トゥユー 天気のせいさ 自由
花をかう トゥユー サプライズのよう どお?
花をかう トゥユー 天気のせいさ 自由
花をかう トゥユー 枯れないでよ
ラブユー
突然、花を買いたくなることがある。僕のようなおじさんが花屋に行くなんて気恥ずかしいし、近くに花屋もない。だから現実に花を買うことはほぼない。花を買う想像はほとんど妄想のようなものになる。そう言えば、志村正彦・フジファブリックの『花屋の娘』も妄想が膨らむ話だった。
前半、「君」と「俺」との「甘い」「疼く」小さな出来事が語られる。やや、ややこしい物語が、「そうさ2人は子供だった」というように人物は幾分か三人称化されて語られている。後半、「俺」は「ユー」に語りかける。心の中での二人称への呼びかけのスタイルになる。安部コウセイの描く物語は、この三人称と二人称の語り口の転換が冴えている。ひねくれた突き放した悲哀と真摯さがぐるぐると駆け巡っている。
歌の主体「俺」は「変わらない為の理由」を探しながら町を歩き、「ガラにもなく」花屋で立ち止まる。男が花屋で佇む。妄想のようにもリアルな情景のようにも受けとれる。
歌の最後、「花をかう」「トゥユー」「枯れないでよ」「ラブ」「ユー」の言葉とメロディ・リズムの「間」の取り方、声と演奏の織り交ぜ方、グルーブ感が素晴らしい。最後の最後の「ユー」の響きは美しい。「枯れないでよ」が小さな祈りのように聞えてくる。
この「ユー」は「君」であり「花」でもあるのだろう。そうして「ラブ」そのものでもある。
「枯れないでよ」と呼びかけられた花の物語はこれから始まる。
2016年10月10日月曜日
2016年10月5日水曜日
『なつかしい人』HINTO
HINTOのニューアルバム『WC』が届いた。『なつかしい人』そして『花をかう』に強く惹かれた。歌詞カードも読んだ。言葉、楽曲、歌、演奏、すべてが高度な次元でしかも複雑なテクストのように融合している。あえて批評家気取りの物言いをするが、このアルバムが正当に評価されないようでは「日本語ロック」のメディア(そんなものがあるとして、だが)の存在意義はない。
「HINTOofficial」にある『なつかしい人』のミュージック・ビデオ(岡田文章監督)を添付させていただく。
後半の歌詞を引用したい。
100年まえ
「鳴らない」「いらない」「知らない」の「ない」の反復が「100年まえ」の光景を美しく描いている。あったこと、あること、あるであろうことを語り続けている。
「100年まえ」とあるが、その時は、現在を起点に過去に遡る「100年まえ」ではなく、「100年あと」の未来の地点からこの現在へと遡る地平に現れる。時の翼がいったん未来へと飛び、そこから時が逆転して「100年まえ」にたどりつく。そんな気がする。何の根拠もなくただそう感じるだけなのだが。
そうすると、「100年まえ」は、今ここ、を指す。この歌詞で歌われる出来事は、今ここにあることになる。
この作品は作用する。
聴き手に、何か意味を超えたものを贈り、届ける。
「なつかしい人 いつか聴いたろ/遠く咲く花火の 次の音が鳴らない」と歌う安部コウセイの「声」。その声が遠ざかるとともに、「音」を鳴らし続ける伊東真一のギター、敲き刻み続ける菱谷昌弘のドラムスと安部光広のベースが、声の不在をうめようとする。映像も、絵画のフレームを境界に二つの空間に分割される。
「遠く咲く花火」が、僕たちにとって大切な大切なあの花火の歌とこだまするかのように。しかし、「次の音」は永遠に鳴らない。
「HINTOofficial」にある『なつかしい人』のミュージック・ビデオ(岡田文章監督)を添付させていただく。
後半の歌詞を引用したい。
なつかしい人 いつか聴こえたろ
遠く咲く花火の 次の音が鳴らない
なつかしい人 いつか眺めたろ
夏の日の夕焼け 思い出はいらない
なつかしい人 いつか出会う時
初めての顔して 名前など知らない
100年まえ
「鳴らない」「いらない」「知らない」の「ない」の反復が「100年まえ」の光景を美しく描いている。あったこと、あること、あるであろうことを語り続けている。
「100年まえ」とあるが、その時は、現在を起点に過去に遡る「100年まえ」ではなく、「100年あと」の未来の地点からこの現在へと遡る地平に現れる。時の翼がいったん未来へと飛び、そこから時が逆転して「100年まえ」にたどりつく。そんな気がする。何の根拠もなくただそう感じるだけなのだが。
そうすると、「100年まえ」は、今ここ、を指す。この歌詞で歌われる出来事は、今ここにあることになる。
この作品は作用する。
聴き手に、何か意味を超えたものを贈り、届ける。
「なつかしい人 いつか聴いたろ/遠く咲く花火の 次の音が鳴らない」と歌う安部コウセイの「声」。その声が遠ざかるとともに、「音」を鳴らし続ける伊東真一のギター、敲き刻み続ける菱谷昌弘のドラムスと安部光広のベースが、声の不在をうめようとする。映像も、絵画のフレームを境界に二つの空間に分割される。
「遠く咲く花火」が、僕たちにとって大切な大切なあの花火の歌とこだまするかのように。しかし、「次の音」は永遠に鳴らない。
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安部コウセイ・HINTO・堕落モーションFOLK2,
音楽
2016年9月30日金曜日
11月27日、Analogfish & mooolsが桜座に来る。
秋の風物詩、Analogfish & mooolsの甲府桜座でのLIVEが今年も11月27日に開催される。
ツアー名は『Analogfish & mooolsと捲く、芋ケンピ空中散布ツアー2016 ~空中サンプ~、ドローンに詰めるだけ詰め込んで、、秋。』、いつも通りの不思議に長い謎の名だ。さて、どんな雰囲気なのか。幸い、昨年の映像がyoutubeで見ることができる。
映像を見ると昨年のことを思い出す。
「Analogfish+moools」の合体バンドは、ツインドラムス、ツインベース、トリプルギター、キーボードの8人編成。最後はボーカル4人が「僕の腕の先のギザギザと 君の腕の先のギザギザを合わせよう」と、mooolsの『分水嶺』をリレーして歌っていった。すべての声と音がよく鳴っている。これはロック、これがロックだ。
ロックはやはり「場」の音楽だ。桜座は小さな場ではあるが、声と音が凝縮され、エネルギーが蓄えられ、徐々に時に突然、放出される。ここでは聴き手は座敷に座る。座ると音に集中できる。そしてお腹の真ん中あたりで音を受けとめる。場と共振するかのように、音と身体が広がっていく。
せっかくの機会なのだが、昨年も一昨年も山梨のお客さんが少ない気がした。県内の老若男女のロックファンに集ってほしい。
一言、もったいない、です。
主催はいつも通り「どうしておなかがすくのかな企画」。この二つのバンドがこの地で聴けるのも主催者の勝俣さんと桜座という場のおかげで、とても有り難い。
詳細は「どうしておなかがすくのかな企画」のHPにあります。まだ二か月後だけど、待ち遠しい。
ツアー名は『Analogfish & mooolsと捲く、芋ケンピ空中散布ツアー2016 ~空中サンプ~、ドローンに詰めるだけ詰め込んで、、秋。』、いつも通りの不思議に長い謎の名だ。さて、どんな雰囲気なのか。幸い、昨年の映像がyoutubeで見ることができる。
映像を見ると昨年のことを思い出す。
「Analogfish+moools」の合体バンドは、ツインドラムス、ツインベース、トリプルギター、キーボードの8人編成。最後はボーカル4人が「僕の腕の先のギザギザと 君の腕の先のギザギザを合わせよう」と、mooolsの『分水嶺』をリレーして歌っていった。すべての声と音がよく鳴っている。これはロック、これがロックだ。
ロックはやはり「場」の音楽だ。桜座は小さな場ではあるが、声と音が凝縮され、エネルギーが蓄えられ、徐々に時に突然、放出される。ここでは聴き手は座敷に座る。座ると音に集中できる。そしてお腹の真ん中あたりで音を受けとめる。場と共振するかのように、音と身体が広がっていく。
せっかくの機会なのだが、昨年も一昨年も山梨のお客さんが少ない気がした。県内の老若男女のロックファンに集ってほしい。
一言、もったいない、です。
主催はいつも通り「どうしておなかがすくのかな企画」。この二つのバンドがこの地で聴けるのも主催者の勝俣さんと桜座という場のおかげで、とても有り難い。
詳細は「どうしておなかがすくのかな企画」のHPにあります。まだ二か月後だけど、待ち遠しい。
Labels:
Analogfish ・下岡晃・佐々木健太郎,
moools,
音楽
2016年9月26日月曜日
ある問いかけ [志村正彦LN141]
一昨日、富士の山頂に初雪が降ったそうだ。今朝、勤め先のいつもの位置から遠くの富士を眺めたが、甲府からではやはり分からない。
今夜、駐車場に向かう途中、あの香りが微かな風に乗って鼻腔に届いた。金木犀だ。昨年も今頃だった。家に帰り、フジファブリック『赤黄色の金木犀』をかける。毎年の恒例だが、歌は不思議なもので、不意にある言葉が迫ってくる。
いつの間にか地面に映った
影が伸びて解らなくなった (作詞・志村正彦)
彼岸が過ぎて、日に日に昼が短くなっていく。陽は傾き、影が長く伸びるようになる。陽が弱くなり、影がうすく、その輪郭もぼんやりとしてくる。この歌詞の一節は、この季節に特有の「影」を描いている。影が季節の影となる。そんなことをふと思った。
HINTOの新作『WC』がリリースされた。注文したが売れ行きがよく在庫がないようでまだ届かない。新曲『なつかしい人』のミュージックビデオを見たが、言葉、楽曲、演奏、映像、すべてが極めて高い次元で融合している。アルバム全体を聴くのが待ち遠しい。
ネットを検索すると、HINTOのドラムス菱谷昌弘氏のtwitter(ひしたにビッツまさひろ https://twitter.com/hishitanese 9月21日) にこういう呟きがあった。
作り手がその作品を作るにあたって、どんな想いで、どれだけ頭ひねって、どれだけ苦労して作りあげたのか、ちゃんと批評する人たちには今一度その事を考えてみて欲しい モノを作る人なら尚更
率直であるがゆえの深い問いかけだ。僕は批評家でも作家でもないこのblogの単なる書き手だが、この菱谷氏の言葉は肝に銘じたい。
数分ほどのロックの歌。それらが集まった数十分のアルバム。
その作品に、どれだけの「想い」と「頭」と「苦労」が込められているのか、どれだけの時間が凝縮されているのか、どれだけの闘いの痕跡があるのか。そのことを丁寧に測量するのがこの「偶景web」の仕事だと考えている。あえて「仕事」と書いたのは、自己表現や趣味ではないという実感があるからだ。「しごと」の本来の意味、「すること」というのか「すべきこと」というのか。すべきことであるから、する。続ける。
昨日、ページビューが十五万を超えた。拙文を読んでいただき、感謝を申し上げます。
今夜、駐車場に向かう途中、あの香りが微かな風に乗って鼻腔に届いた。金木犀だ。昨年も今頃だった。家に帰り、フジファブリック『赤黄色の金木犀』をかける。毎年の恒例だが、歌は不思議なもので、不意にある言葉が迫ってくる。
いつの間にか地面に映った
影が伸びて解らなくなった (作詞・志村正彦)
彼岸が過ぎて、日に日に昼が短くなっていく。陽は傾き、影が長く伸びるようになる。陽が弱くなり、影がうすく、その輪郭もぼんやりとしてくる。この歌詞の一節は、この季節に特有の「影」を描いている。影が季節の影となる。そんなことをふと思った。
HINTOの新作『WC』がリリースされた。注文したが売れ行きがよく在庫がないようでまだ届かない。新曲『なつかしい人』のミュージックビデオを見たが、言葉、楽曲、演奏、映像、すべてが極めて高い次元で融合している。アルバム全体を聴くのが待ち遠しい。
ネットを検索すると、HINTOのドラムス菱谷昌弘氏のtwitter(ひしたにビッツまさひろ https://twitter.com/hishitanese 9月21日) にこういう呟きがあった。
作り手がその作品を作るにあたって、どんな想いで、どれだけ頭ひねって、どれだけ苦労して作りあげたのか、ちゃんと批評する人たちには今一度その事を考えてみて欲しい モノを作る人なら尚更
率直であるがゆえの深い問いかけだ。僕は批評家でも作家でもないこのblogの単なる書き手だが、この菱谷氏の言葉は肝に銘じたい。
数分ほどのロックの歌。それらが集まった数十分のアルバム。
その作品に、どれだけの「想い」と「頭」と「苦労」が込められているのか、どれだけの時間が凝縮されているのか、どれだけの闘いの痕跡があるのか。そのことを丁寧に測量するのがこの「偶景web」の仕事だと考えている。あえて「仕事」と書いたのは、自己表現や趣味ではないという実感があるからだ。「しごと」の本来の意味、「すること」というのか「すべきこと」というのか。すべきことであるから、する。続ける。
昨日、ページビューが十五万を超えた。拙文を読んでいただき、感謝を申し上げます。
2016年9月21日水曜日
歌の伝わり方-『若者のすべて』[志村正彦LN140]
台風が過ぎた。いつも見ている桜の樹の葉がもう半分近く散っている。夏が過ぎ去り、秋への歩みが速くなる。この狭間の季節、ある授業でフジファブリック『若者のすべて』を三十人ほどの生徒に聴かせた。
CDをかける前に『若者のすべて』を聴いたことがあるかと尋ねた。手を挙げたのは五人ほどだった。この数は多いのか少ないのか。そんなことを思いながらCDをスタートさせた。教室という場で皆が一緒にこの曲を聴く。その雰囲気には独特のものがある。窓外の風景を眺めながら、曲が終わるまでの時間を過ごした。その後でもう一度この曲を以前聴いたことがあるかと尋ねると、二十人近くの生徒が挙手した。要するにこの曲を聴いたことはあるのだ。記憶にも残っている。つまり、志村正彦、フジファブリック、『若者のすべて』という固有名は知らなくても、この曲自体はかなり若者の間に浸透していることになる。
『若者のすべて』についてはすでに三〇回ほど断続的に書いている。この歌そのものへの深い関心と共に、この歌がどう受容されていくかについても興味があり、時々ネットを検索してきた。最近、今年になってさらに夏の定番の歌としてテレビやラジオで流されることが多くなったという呟きを見つけた。確かなことは分からないが、肯ける気がする。
僕は見逃してしまったが、テレビ朝日の番組『長島三奈が見た甲子園 野球が僕にくれたもの』のエンディングでも流されたそうだ。三年前、高校野球決勝中継のダイジェスト映像のBGMにもなっていた。anderlustによるカバーが使われたアニメ『バッテリー』も野球物である。志村正彦が野球少年だったことは知られているが、『若者のすべて』と野球という取り合わせは不思議なほど調和している。
また最近、この曲を好きだったが誰の曲か知らなかった、やっとそれが分かった、というtweetを読んだ。『若者のすべて』が広まることで、志村正彦、フジファブリックの存在を知る。これはファンとしては嬉しい。逆に、誰が歌っているのか、誰が作ったのか分からないまま、この曲をずっと好きでいる。作者の名を知らない、ある意味では和歌の「詠み人知らず」のよう に、歌そのものの魅力によって人々に愛されていく。これもまた、曲の運命としては光栄なことに違いない。
この作品が誕生してすでに九年近くになる。この間、草野正宗、櫻井和寿(Bank Band)、藤井フミヤ、柴咲コウ、槇原敬之と、名のある歌い手がカバーしている。志村正彦と交流のあった人にとっては追悼の意味合いも当然あったように思うが、近年のこの歌の広がりはその言葉と楽曲の力による。若手アーティストの場合は、志村正彦という存在へのリスペクトも込められている。プロを目指している若者たちが歌うことも多いようだ。聴き手がふと口ずさむこともあるだろう。
2016年の夏はanderlustによる音源がリリースされた。ライブで歌われることも多い。五月のことになるが、UNISON SQUARE GARDENの斎藤宏介が「VIVA LA ROCK」というロックフェスで歌ったそうだ。その際「もしこの曲を初めて聴く人がいたら、その人にもちゃんと伝わるように歌います」と話したというレポートがあった。三月、クボケンジが歌ったことは以前このblogで書いた。
先日、WOWOWの番組「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2016 DAY-3後編」で、フジファブリックの『虹』『若者のすべて』が放送された。山内総一郎が力を込めて歌っていた。山梨の山中湖で開催された「SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER 2016」でも演奏されたそうだ。夏のフェスのエンディングにふさわしい曲だろう。
2000年代以降に作られたロックやポップソングでこれほどカバーされているものは他にない。志村正彦はリリース後にこの曲が「意外と伝わってないというか……正直、その現状に、悔しいものがあるというか…」と述べていたことは繰り返し記しておくべきだろう。
時と共に、この曲は確実に伝わってきた。当時、このような歌の伝わり方を想像できた者はいないだろう。
先週の土曜日、下岡晃(Analogfish)と堕落モーションFOLK2(安部コウセイ×伊東真一)が「m社会議Vol.2」というライブで共演し、そのアンコールで安部と下岡が『若者のすべて』を歌ったそうだ。
聴いてみたかった。音源や映像はないかな。そう欲してしまう。だが、その時その場で歌われ、そして消えていくからこそ、歌は美しくあるのだろう。
夏の終わりの季節にこの歌は人々に愛され、そして、その儚げな季節は閉じられていく。それでもまた来年その季節を迎える。年々、この歌は季節の循環のような時を生きていく。そのことを「運命なんで便利なもの」で語ってみたいのだが、どうだろうか。
CDをかける前に『若者のすべて』を聴いたことがあるかと尋ねた。手を挙げたのは五人ほどだった。この数は多いのか少ないのか。そんなことを思いながらCDをスタートさせた。教室という場で皆が一緒にこの曲を聴く。その雰囲気には独特のものがある。窓外の風景を眺めながら、曲が終わるまでの時間を過ごした。その後でもう一度この曲を以前聴いたことがあるかと尋ねると、二十人近くの生徒が挙手した。要するにこの曲を聴いたことはあるのだ。記憶にも残っている。つまり、志村正彦、フジファブリック、『若者のすべて』という固有名は知らなくても、この曲自体はかなり若者の間に浸透していることになる。
『若者のすべて』についてはすでに三〇回ほど断続的に書いている。この歌そのものへの深い関心と共に、この歌がどう受容されていくかについても興味があり、時々ネットを検索してきた。最近、今年になってさらに夏の定番の歌としてテレビやラジオで流されることが多くなったという呟きを見つけた。確かなことは分からないが、肯ける気がする。
僕は見逃してしまったが、テレビ朝日の番組『長島三奈が見た甲子園 野球が僕にくれたもの』のエンディングでも流されたそうだ。三年前、高校野球決勝中継のダイジェスト映像のBGMにもなっていた。anderlustによるカバーが使われたアニメ『バッテリー』も野球物である。志村正彦が野球少年だったことは知られているが、『若者のすべて』と野球という取り合わせは不思議なほど調和している。
また最近、この曲を好きだったが誰の曲か知らなかった、やっとそれが分かった、というtweetを読んだ。『若者のすべて』が広まることで、志村正彦、フジファブリックの存在を知る。これはファンとしては嬉しい。逆に、誰が歌っているのか、誰が作ったのか分からないまま、この曲をずっと好きでいる。作者の名を知らない、ある意味では和歌の「詠み人知らず」のよう に、歌そのものの魅力によって人々に愛されていく。これもまた、曲の運命としては光栄なことに違いない。
この作品が誕生してすでに九年近くになる。この間、草野正宗、櫻井和寿(Bank Band)、藤井フミヤ、柴咲コウ、槇原敬之と、名のある歌い手がカバーしている。志村正彦と交流のあった人にとっては追悼の意味合いも当然あったように思うが、近年のこの歌の広がりはその言葉と楽曲の力による。若手アーティストの場合は、志村正彦という存在へのリスペクトも込められている。プロを目指している若者たちが歌うことも多いようだ。聴き手がふと口ずさむこともあるだろう。
2016年の夏はanderlustによる音源がリリースされた。ライブで歌われることも多い。五月のことになるが、UNISON SQUARE GARDENの斎藤宏介が「VIVA LA ROCK」というロックフェスで歌ったそうだ。その際「もしこの曲を初めて聴く人がいたら、その人にもちゃんと伝わるように歌います」と話したというレポートがあった。三月、クボケンジが歌ったことは以前このblogで書いた。
先日、WOWOWの番組「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2016 DAY-3後編」で、フジファブリックの『虹』『若者のすべて』が放送された。山内総一郎が力を込めて歌っていた。山梨の山中湖で開催された「SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER 2016」でも演奏されたそうだ。夏のフェスのエンディングにふさわしい曲だろう。
2000年代以降に作られたロックやポップソングでこれほどカバーされているものは他にない。志村正彦はリリース後にこの曲が「意外と伝わってないというか……正直、その現状に、悔しいものがあるというか…」と述べていたことは繰り返し記しておくべきだろう。
時と共に、この曲は確実に伝わってきた。当時、このような歌の伝わり方を想像できた者はいないだろう。
先週の土曜日、下岡晃(Analogfish)と堕落モーションFOLK2(安部コウセイ×伊東真一)が「m社会議Vol.2」というライブで共演し、そのアンコールで安部と下岡が『若者のすべて』を歌ったそうだ。
聴いてみたかった。音源や映像はないかな。そう欲してしまう。だが、その時その場で歌われ、そして消えていくからこそ、歌は美しくあるのだろう。
夏の終わりの季節にこの歌は人々に愛され、そして、その儚げな季節は閉じられていく。それでもまた来年その季節を迎える。年々、この歌は季節の循環のような時を生きていく。そのことを「運命なんで便利なもの」で語ってみたいのだが、どうだろうか。
Labels:
『若者のすべて』,
志村正彦ライナーノーツ(LN)
2016年9月14日水曜日
吹田スタジアムの音と光
先週末、大阪の万博公園にある吹田サッカースタジアムに行ってきた。ヴァンフォーレ甲府vsガンバ大阪の応援のためだ。関西に行くのは十年ぶり、前回も甲府の応援だった。
スタジアムという場そのものに興味がある。2006年、甲府はJ1に初挑戦した。それから十年の間、二回降格したが、2013年の三回目の昇格以降四年間J1になんとかとどまり続けている。この間、関東圏を中心にJ1の主なスタジアムにはひととおり出かけた。今年2月、ガンバ大阪の新たなホームとなる吹田スタジアムがオープンした。凄い臨場感だという評判を聞いて、予定が合えば行こうと決めていた。
甲府から身延線、新幹線と乗り継いで新大阪に着いた。茨木駅まで戻り、万博公園に向かった。しかしアクセスが分かりにくく、道に迷ってしまった。到着したのはキックオフ二十分ほど前。甲府側の席はほぼ満員。やっと空席を見つけて座ることができた。
スクエアな形が基本だが囲まれ感がある。LED照明のせいか、芝生の緑もあざやかで眩しい。サッカー専用のためピッチが違く、スタンドの傾斜も適度で見やすい。評判通り、いやそれ以上に素晴らしい。華やかさではなく、機能的な美を追究している。
しばらくして前方を見ると、会場のLED照明が消されて、無数の青い光が視界に浮上する。サポーターがLEDブレスレットやサイリウムを点灯している。ガンバ大阪のナイトゲームで評判となっている演出だ。黒色の闇の中に青色の光。青と黒はガンバのテーマカラーでもある。
声や音もクリアに響き渡る。ガンバのゴール裏のコールがかなりの音圧で会場に広がっていく。ゴール裏側のスタンドの上中下層の三層が一体となり、全体が大きな面となって、スピーカーの反響板のようなっている。設計段階から音響効果を綿密に計算しているのだろう。スポンサー企業のパナソニックの技術が入っているのかもしれない。
コールの声に合わせて青い光が綺麗にゆれる。スタジアムが幻想的で非日常的な場となり、サッカー場というよりロック・コンサートの会場にいるような気分になる。アウェイサポを含めて一体感が醸し出され、これから始まるゲームへの期待感が高まる。この雰囲気を含めて国内最高のスタジアムであることは間違いない。
午後7時キックオフ。開始5分で甲府が先制。甲府のサポーターが歓喜に包まれる。だがすぐに失点。前半はほぼ互角の闘い。後半に入るとガンバの猛攻に遭う。80分までは持ちこたえたのだが、ミスがらみで失点。結局1:2で敗れた。J1残留のために引き分けの勝ち点1でも持ち帰りたかったのだが、叶わなかった。ガンバ大阪はやはり強い。
サポーターの歌やコール、その存在は古代ギリシア劇の合唱隊「コロス」(コーラス)に擬えられることがある。東本貢司氏は「劇場としてのスタジアム思想」というエッセイで次のように述べている。(『イングランド―母なる国のフットボール』日本放送出版協会 2002/04 所収)
イングランドのスタジアムは《劇場》そのものと言えるかもしれない。それも、舞台(ピッチ)に上がった俳優(プレーヤー)の演技(プレー)を観客が観て感動し拍手を贈るといった彼我の関係ではなく、観客そのものもプロットの中で重要な脇役を担う、スタジアムの中のすべての人々が一体となった”フットボール劇”が演じられる劇場である。ミクロな比喩に喩えれば、古代ギリシャ悲劇のメインキャストとコーラスの関係のようなものだ。
この日の吹田サッカースタジアムはまさしく「劇場」そのものであった。甲府サポーターも千人はいた。関西在住のサポーターや山梨出身者も駆けつけていたそうだ。応援のために大きな声を張り上げていた。ガンバ大阪のサポーターも甲府のサポーターも共に劇場の合唱隊「コーラス」として、「フットボール劇」の一員となっていた。
山梨では今、ヴァンフォーレ甲府の新しいスタジアム建設の動きがある。まだ検討段階だが、実現の道を歩み始めることを願っている。吹田スタジアムの建設費は140億円。3万2千席の規模の割にはかなりのローコストであり、練りに練った設計を試みたようだ。また、費用のすべてが法人や個人の寄付で賄われたそうだ。吹田スタジアムの建築のありかたはこれからのモデルとなる。
甲府の新スタジアムは2万席の規模で、リニア新幹線の新甲府駅近くが候補地だと言われている。財政を圧迫しないためにも、建築費・維持管理費を含めて可能な限りローコストなスタジアムを目指してもらいたい。吹田のように寄付を募ることも必要だ。質素でありながらも、山梨という場にふさわしいデザインを工夫する。一サポーターとしての長年の夢である。
付記
今回は妻と母(現役甲府サポである)と一緒に出かけた。母は足にやや痛みがあり杖を突いていったのだが、会場のボランティアの方がわざわざこちらまで駆け寄り、エレベーターまで案内していただいた。3階まで上がると、エレベーター近くに車椅子席があった。コンコース沿いのかなり広いエリアであり、ピッチも見やすそうだ。バリアフリーが徹底されている点でもこの設計は優れている。
係員に案内されて、私たちはビジター自由席に向かった。ホームアウェイに関係なく親切でホスピタリティが高かったことを記しておきたい。ありがとうございました。
スタジアムという場そのものに興味がある。2006年、甲府はJ1に初挑戦した。それから十年の間、二回降格したが、2013年の三回目の昇格以降四年間J1になんとかとどまり続けている。この間、関東圏を中心にJ1の主なスタジアムにはひととおり出かけた。今年2月、ガンバ大阪の新たなホームとなる吹田スタジアムがオープンした。凄い臨場感だという評判を聞いて、予定が合えば行こうと決めていた。
甲府から身延線、新幹線と乗り継いで新大阪に着いた。茨木駅まで戻り、万博公園に向かった。しかしアクセスが分かりにくく、道に迷ってしまった。到着したのはキックオフ二十分ほど前。甲府側の席はほぼ満員。やっと空席を見つけて座ることができた。
スクエアな形が基本だが囲まれ感がある。LED照明のせいか、芝生の緑もあざやかで眩しい。サッカー専用のためピッチが違く、スタンドの傾斜も適度で見やすい。評判通り、いやそれ以上に素晴らしい。華やかさではなく、機能的な美を追究している。
| 甲府アウェイ側から見たホーム側 |
しばらくして前方を見ると、会場のLED照明が消されて、無数の青い光が視界に浮上する。サポーターがLEDブレスレットやサイリウムを点灯している。ガンバ大阪のナイトゲームで評判となっている演出だ。黒色の闇の中に青色の光。青と黒はガンバのテーマカラーでもある。
声や音もクリアに響き渡る。ガンバのゴール裏のコールがかなりの音圧で会場に広がっていく。ゴール裏側のスタンドの上中下層の三層が一体となり、全体が大きな面となって、スピーカーの反響板のようなっている。設計段階から音響効果を綿密に計算しているのだろう。スポンサー企業のパナソニックの技術が入っているのかもしれない。
コールの声に合わせて青い光が綺麗にゆれる。スタジアムが幻想的で非日常的な場となり、サッカー場というよりロック・コンサートの会場にいるような気分になる。アウェイサポを含めて一体感が醸し出され、これから始まるゲームへの期待感が高まる。この雰囲気を含めて国内最高のスタジアムであることは間違いない。
午後7時キックオフ。開始5分で甲府が先制。甲府のサポーターが歓喜に包まれる。だがすぐに失点。前半はほぼ互角の闘い。後半に入るとガンバの猛攻に遭う。80分までは持ちこたえたのだが、ミスがらみで失点。結局1:2で敗れた。J1残留のために引き分けの勝ち点1でも持ち帰りたかったのだが、叶わなかった。ガンバ大阪はやはり強い。
サポーターの歌やコール、その存在は古代ギリシア劇の合唱隊「コロス」(コーラス)に擬えられることがある。東本貢司氏は「劇場としてのスタジアム思想」というエッセイで次のように述べている。(『イングランド―母なる国のフットボール』日本放送出版協会 2002/04 所収)
イングランドのスタジアムは《劇場》そのものと言えるかもしれない。それも、舞台(ピッチ)に上がった俳優(プレーヤー)の演技(プレー)を観客が観て感動し拍手を贈るといった彼我の関係ではなく、観客そのものもプロットの中で重要な脇役を担う、スタジアムの中のすべての人々が一体となった”フットボール劇”が演じられる劇場である。ミクロな比喩に喩えれば、古代ギリシャ悲劇のメインキャストとコーラスの関係のようなものだ。
この日の吹田サッカースタジアムはまさしく「劇場」そのものであった。甲府サポーターも千人はいた。関西在住のサポーターや山梨出身者も駆けつけていたそうだ。応援のために大きな声を張り上げていた。ガンバ大阪のサポーターも甲府のサポーターも共に劇場の合唱隊「コーラス」として、「フットボール劇」の一員となっていた。
山梨では今、ヴァンフォーレ甲府の新しいスタジアム建設の動きがある。まだ検討段階だが、実現の道を歩み始めることを願っている。吹田スタジアムの建設費は140億円。3万2千席の規模の割にはかなりのローコストであり、練りに練った設計を試みたようだ。また、費用のすべてが法人や個人の寄付で賄われたそうだ。吹田スタジアムの建築のありかたはこれからのモデルとなる。
甲府の新スタジアムは2万席の規模で、リニア新幹線の新甲府駅近くが候補地だと言われている。財政を圧迫しないためにも、建築費・維持管理費を含めて可能な限りローコストなスタジアムを目指してもらいたい。吹田のように寄付を募ることも必要だ。質素でありながらも、山梨という場にふさわしいデザインを工夫する。一サポーターとしての長年の夢である。
付記
今回は妻と母(現役甲府サポである)と一緒に出かけた。母は足にやや痛みがあり杖を突いていったのだが、会場のボランティアの方がわざわざこちらまで駆け寄り、エレベーターまで案内していただいた。3階まで上がると、エレベーター近くに車椅子席があった。コンコース沿いのかなり広いエリアであり、ピッチも見やすそうだ。バリアフリーが徹底されている点でもこの設計は優れている。
係員に案内されて、私たちはビジター自由席に向かった。ホームアウェイに関係なく親切でホスピタリティが高かったことを記しておきたい。ありがとうございました。
2016年9月6日火曜日
歌詞のイメージ、声の響き[志村正彦LN139]
前回、anderlust越野アンナの声を「わずかばかりだが夾雑物が混じっているような感触の声」「硬い金属的な感触」と形容した。そのことに関連する本人のインタビューをネットで見つけた。 【インタビュー】anderlust、「いつかの自分」にこめた2つの意味と、カバーにこめた“自らの色”(取材・文◎村上孝之)である。
越野は『若者のすべて』カバーについて「自分の声をお寺とかにある鐘に見立てて歌った」と注目すべき発言をしている。「声の響き」に重点を置き、Bメロを「ビブラートを掛けずに、体内に響かせるように」したとも述べている。なぜそう歌ったのかという問いに対してこう答えている。
越野:歌詞に引っ張られて、そういう歌い方をしようと思ったんです。Bメロに出てくる“夕方5時のチャイムが”という文節もそうですけど、全体的に幻想とか、フラッシュバックを思わせるような歌詞だなと思って。そこで、なぜかお寺の鐘とか、ハンドベルといったイメージが浮かんできたんです。
「硬い金属的な感触」と感じた「声」はどうやら意図的に作り上げたもののようだ。僕には「お寺の鐘」や「ハンドベル」のようには聞こえなかった。少し硬質で独特の共鳴が含まれる声であったが、綺麗に響く声でもあった。そのように発声した意図がそもそも『若者のすべて』の歌詞にあるというのが面白い。「全体的に幻想とか、フラッシュバックを思わせるような歌詞」という指摘は肯けるが、「夕方5時のチャイム」が「鐘」の響きであるかどうかは歌い手の解釈の自由の領域にある。志村正彦自身が想い描いた「夕方5時のチャイム」はもっとやわらかい響きの音のような気がするが、これも聴き手一人ひとりの自由に属する。
それにしても、越野アンナの話、歌詞のイメージからカバー曲の「声」の響きを構築したという試みはとても興味深い。
アニメ「バッテリー」ティザーPV3という映像がyoutubeの公式チャンネルにあり、30秒を過ぎたあたりから、anderlust「若者のすべて」が流される。歌詞の第1ブロック「夕方5時のチャイムが」から「まぶた閉じて浮かべているよ」までの部分だ。
CDと同じ音源なのだろうが、どこか印象が異なる。ティザー映像ということもあり、細かい部分で調整されているのだろうか。声の響きの特徴があまり出ていないようだが、この方が映像のBGMとしては聞きやすいかもしれない。
アニメ『バッテリー』(フジテレビ"ノイタミナ")そのものは、先日放送された第8回を見ることができた。エンディングでは、「真夏のピークが去った」から「まぶた閉じて浮かべているよ」までの第1ブロックのすべてが使われていた。1分30秒程の時間だ。途中で、「作詞 志村正彦/作曲 志村正彦/編曲 小林武史」というクレジットが映し出される。
アニメのエンディングは次回のオープニングにつながっていく。
anderlust『若者のすべて』は、「夏の終わり」というよりも、「夏の終わり」を遙か彼方に予感しながら「夏の始まり」を歌っているように聞こえてくる。
越野は『若者のすべて』カバーについて「自分の声をお寺とかにある鐘に見立てて歌った」と注目すべき発言をしている。「声の響き」に重点を置き、Bメロを「ビブラートを掛けずに、体内に響かせるように」したとも述べている。なぜそう歌ったのかという問いに対してこう答えている。
越野:歌詞に引っ張られて、そういう歌い方をしようと思ったんです。Bメロに出てくる“夕方5時のチャイムが”という文節もそうですけど、全体的に幻想とか、フラッシュバックを思わせるような歌詞だなと思って。そこで、なぜかお寺の鐘とか、ハンドベルといったイメージが浮かんできたんです。
「硬い金属的な感触」と感じた「声」はどうやら意図的に作り上げたもののようだ。僕には「お寺の鐘」や「ハンドベル」のようには聞こえなかった。少し硬質で独特の共鳴が含まれる声であったが、綺麗に響く声でもあった。そのように発声した意図がそもそも『若者のすべて』の歌詞にあるというのが面白い。「全体的に幻想とか、フラッシュバックを思わせるような歌詞」という指摘は肯けるが、「夕方5時のチャイム」が「鐘」の響きであるかどうかは歌い手の解釈の自由の領域にある。志村正彦自身が想い描いた「夕方5時のチャイム」はもっとやわらかい響きの音のような気がするが、これも聴き手一人ひとりの自由に属する。
それにしても、越野アンナの話、歌詞のイメージからカバー曲の「声」の響きを構築したという試みはとても興味深い。
アニメ「バッテリー」ティザーPV3という映像がyoutubeの公式チャンネルにあり、30秒を過ぎたあたりから、anderlust「若者のすべて」が流される。歌詞の第1ブロック「夕方5時のチャイムが」から「まぶた閉じて浮かべているよ」までの部分だ。
CDと同じ音源なのだろうが、どこか印象が異なる。ティザー映像ということもあり、細かい部分で調整されているのだろうか。声の響きの特徴があまり出ていないようだが、この方が映像のBGMとしては聞きやすいかもしれない。
アニメ『バッテリー』(フジテレビ"ノイタミナ")そのものは、先日放送された第8回を見ることができた。エンディングでは、「真夏のピークが去った」から「まぶた閉じて浮かべているよ」までの第1ブロックのすべてが使われていた。1分30秒程の時間だ。途中で、「作詞 志村正彦/作曲 志村正彦/編曲 小林武史」というクレジットが映し出される。
アニメのエンディングは次回のオープニングにつながっていく。
anderlust『若者のすべて』は、「夏の終わり」というよりも、「夏の終わり」を遙か彼方に予感しながら「夏の始まり」を歌っているように聞こえてくる。
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志村正彦ライナーノーツ(LN)
2016年8月31日水曜日
anderlust『若者のすべて』 [志村正彦LN138]
8月31日は夏の終わりの日なのだろう。翌日9月1日は一日しか違わないが、秋の始まりの日という気がする。まだ暑い日々は続くが、不思議なほどに、暦は季節を区切ってしまう。
今朝、定点観測している桜の樹を見た。緑色の葉の中にすでに黄色の葉がかなり混じっている。朝日の逆光をあびて、緑と黄の織り交ぜられた色が輝いていた。台風が去って日差しは眩しいものの風は涼しく心地よかった。午後になると、雲間から富士山が現れてきた。26日、吉田の火祭りがあり、富士も山じまいを迎えた。秋に向けてその姿も変容しつつあるのだろう。
夏の終わりというと、やはりフジファブリック『若者のすべて』だ。このところtwitterで、ラジオやテレビ、花火大会のBGMで流されているという報告が多い。すっかり夏の定番ソングとなったようだ。この歌が愛されているのはファンとして素直にうれしい。
少し前になるが、フジファブリックの最新情報として、「フジテレビ"ノイタミナ"アニメ『バッテリー』新エンディング・テーマとしanderlustが『若者のすべて』をカバーしています。この曲は、anderlustの2nd Single『いつかの自分』の期間限定生産盤、通常盤に収録されます。」というメールが来た。
anderlustは全く知らないし、アニメのことも詳しくない。でも『若者のすべて』のカバーであれば聴かないわけにはいかない。ネットで調べると、通常盤、期間限定生産盤、初回生産限定盤などのいくつかの盤がある。迷ったが結局、『いつかの自分(期間生産限定アニメ盤)(DVD付)』を購入した。「バッテリーノンクレジットエンディング映像2 (若者のすべて【6話ver.】)」のDVDが付いていたからだ。
anderlustは、越野アンナと西塚真吾による男女2人組のユニット。名は「抑えきれない旅への衝動」を意味する“Wanderlust”という言葉から、Wを抜いた造語とのこと。「lust」というのは強い欲望や欲動を意味する。大胆な名前だ。プロデューサーは小林武史。かなり力を入れて売り出している大型新人のようだ。
パッケージはアニメの1シーンから取ったものだろうか、表も裏も野球をモチーフとしている。微笑ましい絵だ。インナースリーブの『若者のすべて』の欄には「LYRICS:MASAHIKO SHIMURA COMPOSE:MASAHIKO SHIMURA」とある。志村正彦のローマ字表記のクレジットは珍しい。
続いて「ARRANGE&KEYBOARDS:TAKESHI KOBAYASHI」、GUITAR、DRUMの担当の名が記されている。VOCAL:越野とBASS:西塚と合わせて五人編成による録音のようだ。
CD音源をまず聞いてみる。小林武史によるイントロのキーボードのアレンジが、予兆を感じさせるように美しく響く。越野アンナの声は綺麗に高い音域まで伸びていく。しかし、透明な感じではなく、わずかばかりだが夾雑物が混じっているような感触の声だ。硬い金属的な感触とでも形容できるだろうか。否定的な意味合いではなく、ある種の味わいにもなっている。西塚真吾のベースもよく動き回る。
年齢の若いアーティストらしく、anderlustの『若者のすべて』は、彩りが鮮やかで力強い。「若者の現在」という感覚のサウンドデザインだ。この曲の数あるカバーの中でも最も現代的なポップソングになっている。
(この項続く)
今朝、定点観測している桜の樹を見た。緑色の葉の中にすでに黄色の葉がかなり混じっている。朝日の逆光をあびて、緑と黄の織り交ぜられた色が輝いていた。台風が去って日差しは眩しいものの風は涼しく心地よかった。午後になると、雲間から富士山が現れてきた。26日、吉田の火祭りがあり、富士も山じまいを迎えた。秋に向けてその姿も変容しつつあるのだろう。
夏の終わりというと、やはりフジファブリック『若者のすべて』だ。このところtwitterで、ラジオやテレビ、花火大会のBGMで流されているという報告が多い。すっかり夏の定番ソングとなったようだ。この歌が愛されているのはファンとして素直にうれしい。
少し前になるが、フジファブリックの最新情報として、「フジテレビ"ノイタミナ"アニメ『バッテリー』新エンディング・テーマとしanderlustが『若者のすべて』をカバーしています。この曲は、anderlustの2nd Single『いつかの自分』の期間限定生産盤、通常盤に収録されます。」というメールが来た。
anderlustは全く知らないし、アニメのことも詳しくない。でも『若者のすべて』のカバーであれば聴かないわけにはいかない。ネットで調べると、通常盤、期間限定生産盤、初回生産限定盤などのいくつかの盤がある。迷ったが結局、『いつかの自分(期間生産限定アニメ盤)(DVD付)』を購入した。「バッテリーノンクレジットエンディング映像2 (若者のすべて【6話ver.】)」のDVDが付いていたからだ。
anderlustは、越野アンナと西塚真吾による男女2人組のユニット。名は「抑えきれない旅への衝動」を意味する“Wanderlust”という言葉から、Wを抜いた造語とのこと。「lust」というのは強い欲望や欲動を意味する。大胆な名前だ。プロデューサーは小林武史。かなり力を入れて売り出している大型新人のようだ。
パッケージはアニメの1シーンから取ったものだろうか、表も裏も野球をモチーフとしている。微笑ましい絵だ。インナースリーブの『若者のすべて』の欄には「LYRICS:MASAHIKO SHIMURA COMPOSE:MASAHIKO SHIMURA」とある。志村正彦のローマ字表記のクレジットは珍しい。
続いて「ARRANGE&KEYBOARDS:TAKESHI KOBAYASHI」、GUITAR、DRUMの担当の名が記されている。VOCAL:越野とBASS:西塚と合わせて五人編成による録音のようだ。
CD音源をまず聞いてみる。小林武史によるイントロのキーボードのアレンジが、予兆を感じさせるように美しく響く。越野アンナの声は綺麗に高い音域まで伸びていく。しかし、透明な感じではなく、わずかばかりだが夾雑物が混じっているような感触の声だ。硬い金属的な感触とでも形容できるだろうか。否定的な意味合いではなく、ある種の味わいにもなっている。西塚真吾のベースもよく動き回る。
年齢の若いアーティストらしく、anderlustの『若者のすべて』は、彩りが鮮やかで力強い。「若者の現在」という感覚のサウンドデザインだ。この曲の数あるカバーの中でも最も現代的なポップソングになっている。
(この項続く)
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志村正彦ライナーノーツ(LN)
2016年8月28日日曜日
ペソアの言葉―『虹』2 [志村正彦LN137]
前回、志村正彦はおそらく実際に見たこと、感じたことを言葉にしていると書いた。「虹が空で曲がってる」は、現実であり実感である「実」の風景であろう。
五月から七月にかけて、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアを巡る旅のエッセイを十回にわたり書いた。志村正彦のことも念頭にあったからだ。
ここで詩人の在り方についてのペソアの言葉を引用したい。彼が遺したテクストの中でも最も有名なもので、ペソアに関するwebやbotでもよく引用されている。
一流の詩人は自分が実際に感じることを言い、二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は自分が感じねばならぬと思い込んでいることを言う。
(『偶然任せのノート』「南東」誌 1935年11月、訳・澤田直、『ペソア詩集』思潮社2008年8月)
「一流」「二流」「三流」という区分はともかくとして、詩人の感性とその表現に関するこれほど的確で辛辣な表現を他に知らない。「実際に感じること」ではなく「感じようと思ったこと」「感じねばならぬと思い込んでいること」を表現したものは、詩ではなく詩のようなものであるにすぎない。感じることがそのものではなく、それに対する願望や義務などの計らいと化してはならない。続く箇所にはこうある。
多くのひとはただ習慣に従って物事を感じるのであり、それは人間的誠実さという点からすれば全くもって誠実だ。しかし、彼らはいかなる度合においても知的誠実さをもって感じてはいない。ところが詩人において重要なのはこの知的誠実さなのだ。 (同上)
人間的な誠実さと知的な誠実さ。習慣化した見方は人間的には誠実であっても、詩人としては誠実ではない。詩人の知的誠実とは「自分が実際に感じること」を表現することにある。
このペソアの主張と接続させてみたい志村正彦の発言がある。『音楽とことば ~あの人はどうやって歌詞を書いているのか~』(企画編集・江森丈晃、ブルース・インターアクションズ2009年3月)で彼はこう述べている。
歌詞というのは、どんなものでも、何を書いてもいいものではあるんだけど、実は、なんでもよくはない。そこにリアルなもの、本当の気持ちが込められていなければ、誰の気持ちにも響いてくれないと思うんです。
「リアルなもの」「本当の気持ち」が歌詞に込められていなければ誰にも響かないという志村の言葉は、ペソアの「実際に感じること」に通底する。詩や歌詞を読んだり聴いたりしていて、そこで表現されている核心に「実」が感じられないことがある。作り物めいた感じ、借り物めいた感じと言えばいいだろうか。詩や歌詞を「作る」ことに性急で、志村の言う「リアルなもの」が伴っていない。詩人の「実」がない。文字通り、不実だ。そのような虚ろな歌が日本語ロックの世界にも多い。
志村の場合、作り物めいた不自然さを感じることはない。彼の言う通り、「リアルなもの」が彼の詩の核心にある。もちろん彼の表現が実際に感じたことに基づいているのかがどうかは確かめようもないが、言葉と言葉とのつながり方がとても自然であり、時には突飛なほどの飛躍や不自然とも感じられるような転換があるが、それを含めて、深い現実感がある。言葉の現れ方がリアルであり、言葉の配列にある種の動かしがたい必然性がある。
『虹』の冒頭「週末 雨上がって 虹が空で曲がってる」も、第二連の「週末 雨上がって 街が生まれ変わってく」も、詩人が実際に見たこと、リアルな風景を描いている。「リアルなもの」が彼の歌の源泉にある。彼の歌を「詩」に限りなく近づけている。
五月から七月にかけて、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアを巡る旅のエッセイを十回にわたり書いた。志村正彦のことも念頭にあったからだ。
ここで詩人の在り方についてのペソアの言葉を引用したい。彼が遺したテクストの中でも最も有名なもので、ペソアに関するwebやbotでもよく引用されている。
一流の詩人は自分が実際に感じることを言い、二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は自分が感じねばならぬと思い込んでいることを言う。
(『偶然任せのノート』「南東」誌 1935年11月、訳・澤田直、『ペソア詩集』思潮社2008年8月)
「一流」「二流」「三流」という区分はともかくとして、詩人の感性とその表現に関するこれほど的確で辛辣な表現を他に知らない。「実際に感じること」ではなく「感じようと思ったこと」「感じねばならぬと思い込んでいること」を表現したものは、詩ではなく詩のようなものであるにすぎない。感じることがそのものではなく、それに対する願望や義務などの計らいと化してはならない。続く箇所にはこうある。
多くのひとはただ習慣に従って物事を感じるのであり、それは人間的誠実さという点からすれば全くもって誠実だ。しかし、彼らはいかなる度合においても知的誠実さをもって感じてはいない。ところが詩人において重要なのはこの知的誠実さなのだ。 (同上)
人間的な誠実さと知的な誠実さ。習慣化した見方は人間的には誠実であっても、詩人としては誠実ではない。詩人の知的誠実とは「自分が実際に感じること」を表現することにある。
このペソアの主張と接続させてみたい志村正彦の発言がある。『音楽とことば ~あの人はどうやって歌詞を書いているのか~』(企画編集・江森丈晃、ブルース・インターアクションズ2009年3月)で彼はこう述べている。
歌詞というのは、どんなものでも、何を書いてもいいものではあるんだけど、実は、なんでもよくはない。そこにリアルなもの、本当の気持ちが込められていなければ、誰の気持ちにも響いてくれないと思うんです。
「リアルなもの」「本当の気持ち」が歌詞に込められていなければ誰にも響かないという志村の言葉は、ペソアの「実際に感じること」に通底する。詩や歌詞を読んだり聴いたりしていて、そこで表現されている核心に「実」が感じられないことがある。作り物めいた感じ、借り物めいた感じと言えばいいだろうか。詩や歌詞を「作る」ことに性急で、志村の言う「リアルなもの」が伴っていない。詩人の「実」がない。文字通り、不実だ。そのような虚ろな歌が日本語ロックの世界にも多い。
志村の場合、作り物めいた不自然さを感じることはない。彼の言う通り、「リアルなもの」が彼の詩の核心にある。もちろん彼の表現が実際に感じたことに基づいているのかがどうかは確かめようもないが、言葉と言葉とのつながり方がとても自然であり、時には突飛なほどの飛躍や不自然とも感じられるような転換があるが、それを含めて、深い現実感がある。言葉の現れ方がリアルであり、言葉の配列にある種の動かしがたい必然性がある。
『虹』の冒頭「週末 雨上がって 虹が空で曲がってる」も、第二連の「週末 雨上がって 街が生まれ変わってく」も、詩人が実際に見たこと、リアルな風景を描いている。「リアルなもの」が彼の歌の源泉にある。彼の歌を「詩」に限りなく近づけている。
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『虹』,
志村正彦ライナーノーツ(LN)
2016年8月16日火曜日
「虹が空で曲がってる」ー『虹』1 [志村正彦LN136]
甲府は盆地なので熱気が籠る。時には日本一暑いという記録の出る土地だ。ただし、山に囲まれた土地なので、夜になり風が吹くと気温が下がる。いい具合に夕立があると涼むこともできる。このところ、日中はまだ猛暑だが、朝晩は過ごしやすくなってきた。8月の後半に入り、真夏のピークが過ぎつつあることを実感する。
夏の野外の所謂「フェス」に行く年齢ではもうないので、この時期は、ROCK IN JAPAN FESTIVAL(RIJF)などwowowで放送される番組を家でぼんやりと見るのが恒例行事だったが、今年は生放送がなくなった。生放送とはいっても、何会場もあるライブをそのまま中継できるわけもなく、制作側が選んだものをただ受け身で見るだけだったが。アーティストによっては後に25分程度の総集編が放送される。フジファブリックもここ数年放送されている。夏の野外という場に特有の雰囲気、バンドとその聴衆との関係の様子が伝わってくる。
三年ほど前になるだろうか、金澤、加藤、山内の三氏が夏のRIJFと年末のCDJの映像を振り返る『フジファブリック フェス・ヒストリー・スペシャル』という番組が放送された。2005年の初登場の時に最初に演奏されたのは『虹』だった。(加藤氏の「虹事件」、ベースのチューニングが狂っていたが誰も気づかなかったという話もあった)記録を見るとそれ以来、RIJFには2010年と2015年を除いてずっと出演し、今年で通算10回となった。13日のステージは『虹』の後『若者の全て』で締めくくられたそうだ。
『虹』はフジファブリックの夏のフェスの代表曲となっている。歌詞の内容からしても、野外の空の下が似合う歌だ。 公式の映像を添付させていただく。
週末 雨上がって 虹が空で曲がってる
グライダー乗って 飛んでみたいと考えている
調子に乗ってなんか 口笛を吹いたりしている
(『虹』 作詞作曲・志村正彦)
「週末 雨上がって」 雨上がりの風景に「虹」が登場する。週末に何かを期待する、その期待の地平のようなものに、虹が現れる。
「虹が空で曲がってる」条件が整えば、虹が空の中で大きく綺麗に半円を描くのが見えるようだが、なかなかそうはいかない。虹はすぐに消えてしまう。雲の合間に現れることも多い。くっきりとは見えないこともある。ふつうはその一部分、区切られたゆるやかな弧を描く虹が見えることの方が多いだろう。だから 、「虹が空で曲がってる」という歌詞を初めて聴いたとき、「曲がってる」という言葉に新鮮な驚きを感じた。虹が主語となり曲がるという述語で受けるその表現にも感心した。
志村正彦はなぜ「虹が空で曲がってる」と描いたのか。
現実にそのような景色を見たからだというのが、当たり前ではあるが、最も根拠のある答えだろう。しかし、虹が曲がる風景を見たとしても、それをそのまま言葉にするかどうかは、まさしくその表現者による。私たちは慣習化した言い回しを使いがちだ。何かを見出したとしても、その次の瞬間には、そのありのままの風景を忘れ、慣れきった言葉の世界に安住してしまう。
志村はおそらく実際に見たことを描いている。実際に感じたことを述べている。「虹が空で曲がってる」は「実」の風景なのだ。「実」はありのままの世界であり、ありのままの感覚を生きることだ。優れた詩人は「実」を描く。言葉に変換する。その表現がありきたりな表現を越えていく。
夏の野外の所謂「フェス」に行く年齢ではもうないので、この時期は、ROCK IN JAPAN FESTIVAL(RIJF)などwowowで放送される番組を家でぼんやりと見るのが恒例行事だったが、今年は生放送がなくなった。生放送とはいっても、何会場もあるライブをそのまま中継できるわけもなく、制作側が選んだものをただ受け身で見るだけだったが。アーティストによっては後に25分程度の総集編が放送される。フジファブリックもここ数年放送されている。夏の野外という場に特有の雰囲気、バンドとその聴衆との関係の様子が伝わってくる。
三年ほど前になるだろうか、金澤、加藤、山内の三氏が夏のRIJFと年末のCDJの映像を振り返る『フジファブリック フェス・ヒストリー・スペシャル』という番組が放送された。2005年の初登場の時に最初に演奏されたのは『虹』だった。(加藤氏の「虹事件」、ベースのチューニングが狂っていたが誰も気づかなかったという話もあった)記録を見るとそれ以来、RIJFには2010年と2015年を除いてずっと出演し、今年で通算10回となった。13日のステージは『虹』の後『若者の全て』で締めくくられたそうだ。
『虹』はフジファブリックの夏のフェスの代表曲となっている。歌詞の内容からしても、野外の空の下が似合う歌だ。 公式の映像を添付させていただく。
週末 雨上がって 虹が空で曲がってる
グライダー乗って 飛んでみたいと考えている
調子に乗ってなんか 口笛を吹いたりしている
(『虹』 作詞作曲・志村正彦)
「週末 雨上がって」 雨上がりの風景に「虹」が登場する。週末に何かを期待する、その期待の地平のようなものに、虹が現れる。
「虹が空で曲がってる」条件が整えば、虹が空の中で大きく綺麗に半円を描くのが見えるようだが、なかなかそうはいかない。虹はすぐに消えてしまう。雲の合間に現れることも多い。くっきりとは見えないこともある。ふつうはその一部分、区切られたゆるやかな弧を描く虹が見えることの方が多いだろう。だから 、「虹が空で曲がってる」という歌詞を初めて聴いたとき、「曲がってる」という言葉に新鮮な驚きを感じた。虹が主語となり曲がるという述語で受けるその表現にも感心した。
志村正彦はなぜ「虹が空で曲がってる」と描いたのか。
現実にそのような景色を見たからだというのが、当たり前ではあるが、最も根拠のある答えだろう。しかし、虹が曲がる風景を見たとしても、それをそのまま言葉にするかどうかは、まさしくその表現者による。私たちは慣習化した言い回しを使いがちだ。何かを見出したとしても、その次の瞬間には、そのありのままの風景を忘れ、慣れきった言葉の世界に安住してしまう。
志村はおそらく実際に見たことを描いている。実際に感じたことを述べている。「虹が空で曲がってる」は「実」の風景なのだ。「実」はありのままの世界であり、ありのままの感覚を生きることだ。優れた詩人は「実」を描く。言葉に変換する。その表現がありきたりな表現を越えていく。
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2016年8月7日日曜日
「黙って見ている落ちてく スーベニア」-『星降る夜になったら』2[志村正彦LN135]
『星降る夜になったら』の冒頭、「真夏の午後」の「うたれた通り雨」から「柔らかな日がさして」「雷鳴は遠くへ 何かが変わって」という展開は、例えば、『陽炎』の「やんでた雨に気付いて 慌てて家を飛び出して」、『虹』の「週末 雨上がって 虹が空で曲がってる こんな日にはちょっと 遠くまで行きたくなる」を思い出させる。
志村正彦は、雨が上がり、風景が変わっていく出来事を繰り返し作品にした。そして、『陽炎』の「家を飛び出して」、『虹』の「遠くまで行きたくなる」ように、『星降る夜になったら』でも、雨上がりの空が「星降る夜」に移り変わると、「街を出る」と歌う。
星降る夜になったら
バスに飛び乗って迎えにいくとするよ
いくつもの空くぐって
振り向かずに街を出るよ
「バスに飛び乗って迎えにいくとするよ」の「とするよ」は微妙な言葉使いだ。「星降る夜になったら」とあり、「夜」の到来を仮定しているからには、歌の主体「僕」はまだ「真夏の午後」にいる。「迎えにいく」ことも「街を出る」ことも、「僕」の願望のままに止まっている。しかし、後半になると次のように歌われている。
星降る夜を見ている
覚めた夢の続きに期待をしてる
輝く夜空の下で
言葉の先を待っている
夜が訪れた。歌の主体「僕」が「星降る夜を見ている」場面だ。この時、「星降る夜」を、一人で見ているのだろうか、それとも「迎えにいく」とされた誰かと共に見ているのだろうか。一人か二人かで、この歌の世界は変容する。
根拠はないのだが、この場面にいるのは「僕」ただ一人のような気がする。そうであるのなら、「覚めた夢の続き」への期待は期待のままであり、「言葉の先を待っている」は、「言葉の先」が何かは分からないままただ待ち続けていることになる。「僕」は「星降る夜」と孤独に対話している。
黙って見ている落ちてく スーベニア
フィルムのような 景色がめくれた
そして気づいたんだ 僕は駆け出したんだ
続く場面で、世界が転調する。「スーベニア」、思い出の記念品が落ちていく。スローモーションのような動きを「僕」は黙って見ている。すると、記憶の「フィルム」にある「景色」が動画のようにめくれていく。そして「僕」は何かに気づき「駆け出した」。
「スーベニア」は何かを想起させるもの。原語「souvenir」 はもとはフランス語で、意識の上に何かが到来する、という意味だ。その原義からすると、きわめて志村正彦的な物でありモチーフであろう。特別な記念品や記念写真でなくても、なにげない景色、花、雨、空、雲、月。風景がめくれるように動き始めると、「僕」も何かに気づいて、たまらなくなって、動き出す。
今日、久しぶりに、『Live at 富士五湖文化センター』DVDを取り出した。収録された『星降る夜になったら』の演奏を見たかったのだ。インナースリーブをあらためて読むと、開催日2008年5月31日が「雨のち曇り」という記述があった。わざわざ天候を記した配慮に微笑んだ。
志村の「最後の方に向けて駆け抜けたいと思います」というMCと共に『星降る夜になったら』が始まる。 メンバーの金澤ダイスケ、加藤慎一、山内 総一郎、サポートの城戸紘志。皆、全力で志村を支え、富士吉田という場を愛しみ、とても充実した様子で楽しそうに楽器を奏でている。
80年代のポップなプログレッシブロックのような明るい曲調は金澤ダイスケによるものだろう。軽快なドライブ感もあり、ファンの間で人気が高いのも頷ける。
金澤、加藤、山内の三人のコーラスによる「星降る夜になったら」という問いかけに応えるように志村が歌う。志村パートと三人のパートとの対話のように聞こえるのが素晴らしいアレンジとなっている。『星降る夜になったら』が終わるとそのまま『銀河』のイントロが始まる。夏の夜から冬の夜へのバトンタッチだっだ。
36度に昇る猛暑の日、弱い冷房をかけて窓を閉め切った部屋で、『Live at 富士五湖文化センター』DVDを音量を上げて再生した。はじめは『星降る夜になったら』だけのつもりだったが、結局、全てを通しで見てしまった。音と映像に引きこまれた。『線香花火』『若者のすべて』『星降る夜になったら』『Sufer King』『陽炎』と、夏にゆかりある作品が多い。激しいロックの音が響く。志村正彦は、喉の調子がよくないようで時折苦しげだが、懸命に歌いきっていた。
このDVDパッケージそのものが「スーベニア」になりつつある。
2008年のフジファブリックは、志村の言葉の深さ、楽曲の多様性、メンバーの卓越した演奏によって、日本語ロックの歴史の中でも最高のロックバンドだったと言える。だが、そのLIVEは永遠に失われてしまった。
志村正彦は、雨が上がり、風景が変わっていく出来事を繰り返し作品にした。そして、『陽炎』の「家を飛び出して」、『虹』の「遠くまで行きたくなる」ように、『星降る夜になったら』でも、雨上がりの空が「星降る夜」に移り変わると、「街を出る」と歌う。
星降る夜になったら
バスに飛び乗って迎えにいくとするよ
いくつもの空くぐって
振り向かずに街を出るよ
「バスに飛び乗って迎えにいくとするよ」の「とするよ」は微妙な言葉使いだ。「星降る夜になったら」とあり、「夜」の到来を仮定しているからには、歌の主体「僕」はまだ「真夏の午後」にいる。「迎えにいく」ことも「街を出る」ことも、「僕」の願望のままに止まっている。しかし、後半になると次のように歌われている。
星降る夜を見ている
覚めた夢の続きに期待をしてる
輝く夜空の下で
言葉の先を待っている
夜が訪れた。歌の主体「僕」が「星降る夜を見ている」場面だ。この時、「星降る夜」を、一人で見ているのだろうか、それとも「迎えにいく」とされた誰かと共に見ているのだろうか。一人か二人かで、この歌の世界は変容する。
根拠はないのだが、この場面にいるのは「僕」ただ一人のような気がする。そうであるのなら、「覚めた夢の続き」への期待は期待のままであり、「言葉の先を待っている」は、「言葉の先」が何かは分からないままただ待ち続けていることになる。「僕」は「星降る夜」と孤独に対話している。
黙って見ている落ちてく スーベニア
フィルムのような 景色がめくれた
そして気づいたんだ 僕は駆け出したんだ
続く場面で、世界が転調する。「スーベニア」、思い出の記念品が落ちていく。スローモーションのような動きを「僕」は黙って見ている。すると、記憶の「フィルム」にある「景色」が動画のようにめくれていく。そして「僕」は何かに気づき「駆け出した」。
「スーベニア」は何かを想起させるもの。原語「souvenir」 はもとはフランス語で、意識の上に何かが到来する、という意味だ。その原義からすると、きわめて志村正彦的な物でありモチーフであろう。特別な記念品や記念写真でなくても、なにげない景色、花、雨、空、雲、月。風景がめくれるように動き始めると、「僕」も何かに気づいて、たまらなくなって、動き出す。
今日、久しぶりに、『Live at 富士五湖文化センター』DVDを取り出した。収録された『星降る夜になったら』の演奏を見たかったのだ。インナースリーブをあらためて読むと、開催日2008年5月31日が「雨のち曇り」という記述があった。わざわざ天候を記した配慮に微笑んだ。
志村の「最後の方に向けて駆け抜けたいと思います」というMCと共に『星降る夜になったら』が始まる。 メンバーの金澤ダイスケ、加藤慎一、山内 総一郎、サポートの城戸紘志。皆、全力で志村を支え、富士吉田という場を愛しみ、とても充実した様子で楽しそうに楽器を奏でている。
80年代のポップなプログレッシブロックのような明るい曲調は金澤ダイスケによるものだろう。軽快なドライブ感もあり、ファンの間で人気が高いのも頷ける。
金澤、加藤、山内の三人のコーラスによる「星降る夜になったら」という問いかけに応えるように志村が歌う。志村パートと三人のパートとの対話のように聞こえるのが素晴らしいアレンジとなっている。『星降る夜になったら』が終わるとそのまま『銀河』のイントロが始まる。夏の夜から冬の夜へのバトンタッチだっだ。
36度に昇る猛暑の日、弱い冷房をかけて窓を閉め切った部屋で、『Live at 富士五湖文化センター』DVDを音量を上げて再生した。はじめは『星降る夜になったら』だけのつもりだったが、結局、全てを通しで見てしまった。音と映像に引きこまれた。『線香花火』『若者のすべて』『星降る夜になったら』『Sufer King』『陽炎』と、夏にゆかりある作品が多い。激しいロックの音が響く。志村正彦は、喉の調子がよくないようで時折苦しげだが、懸命に歌いきっていた。
このDVDパッケージそのものが「スーベニア」になりつつある。
2008年のフジファブリックは、志村の言葉の深さ、楽曲の多様性、メンバーの卓越した演奏によって、日本語ロックの歴史の中でも最高のロックバンドだったと言える。だが、そのLIVEは永遠に失われてしまった。
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『星降る夜になったら』,
志村正彦ライナーノーツ(LN)
2016年8月1日月曜日
「雷鳴は遠くへ 何かが変わって」-『星降る夜になったら』1[志村正彦LN134]
今日、八月一日が「水の日」だということを初めて知った。この時期、水の使用量が多く、水について関心が高まるので記念日とされたそうだ。
昼過ぎから空の雲行きが変わり、ものすごい雨が降ってきた。雷鳴が響く。風も吹き荒れている。水の日に、大量の雨水が甲府盆地に注がれたことになる。
雨と雷鳴。「夏」が濃厚に迫る。はげしい雨のリズム。空気を切り裂く雷の響き。しばらくの間ぼんやりとしていた。そうこうするうちに、フジファブリック『星降る夜になったら』のイントロが頭の中で再生されはじめた。金澤ダイスケと志村正彦の作る軽快なリズムとメロディに乗って、志村の声が動き出す。
真夏の午後になって うたれた通り雨
どうでもよくなって どうでもよくなって
ホントか嘘かなんて ずぶぬれになってしまえば
たいしたことじゃないと 照れ笑いをしたんだ
「どうでもよくなって どうでもよくなって」が、どうにも、よい。
志村正彦は具体的な出来事を、いつも通り語らない。どういうことがどうでもいいのかはわからない。「ずぶぬれ」と「照れ笑い」の情景が互いを照らしあう。どうでもよくなる瞬間が訪れる。誰にでもそんな「真夏の午後」の記憶がある。そんな気がする。そんな出来事がこれからも起きる。
西から東へと 雲がドライブして
柔らかな日がさして 何もかも乾かして
昨日の夢がなんか 続いているみたいだ
その先がみたくなって ストーリーを描くんだ
雷鳴は遠くへ 何かが変わって
雨上がりの空。雲と日差し。世界が洗われる。そして乾いていく。いつのまにか、雷鳴も遠くへと過ぎ去った。
志村正彦は「夢」のモチーフを繰り返し歌に表現した。「昨日の夢」が続いているみたいと、この歌の主体は想う。この言葉は、『若者のすべて』の「途切れた夢の続きをとり戻したくなって」とも呼応する。ただしこの歌では、夢の「先」の「ストーリーを描く」と、前向きに言葉が繰り出される。「とり戻したくなって」と「その先がみたくなって」とでは、動きのベクトルの方向が異なる。『星降る夜になったら』は、先へ先へと、夢の歩みを加速させる。
真夏の午後の偶景。 「雷鳴」はアンセムのように轟く。アンセムが遠ざかり、静寂に包まれると、確かに、何かが変わる。何が変わるのかというつまらない解釈はやめよう。解釈できない言葉、声と音の連なりがいつまでも残響する。それでも一つだけ言えるのは、歌の主体にとって、「夢」に関わる何かかもしれないということだ。
昼過ぎから空の雲行きが変わり、ものすごい雨が降ってきた。雷鳴が響く。風も吹き荒れている。水の日に、大量の雨水が甲府盆地に注がれたことになる。
雨と雷鳴。「夏」が濃厚に迫る。はげしい雨のリズム。空気を切り裂く雷の響き。しばらくの間ぼんやりとしていた。そうこうするうちに、フジファブリック『星降る夜になったら』のイントロが頭の中で再生されはじめた。金澤ダイスケと志村正彦の作る軽快なリズムとメロディに乗って、志村の声が動き出す。
真夏の午後になって うたれた通り雨
どうでもよくなって どうでもよくなって
ホントか嘘かなんて ずぶぬれになってしまえば
たいしたことじゃないと 照れ笑いをしたんだ
「どうでもよくなって どうでもよくなって」が、どうにも、よい。
志村正彦は具体的な出来事を、いつも通り語らない。どういうことがどうでもいいのかはわからない。「ずぶぬれ」と「照れ笑い」の情景が互いを照らしあう。どうでもよくなる瞬間が訪れる。誰にでもそんな「真夏の午後」の記憶がある。そんな気がする。そんな出来事がこれからも起きる。
西から東へと 雲がドライブして
柔らかな日がさして 何もかも乾かして
昨日の夢がなんか 続いているみたいだ
その先がみたくなって ストーリーを描くんだ
雷鳴は遠くへ 何かが変わって
雨上がりの空。雲と日差し。世界が洗われる。そして乾いていく。いつのまにか、雷鳴も遠くへと過ぎ去った。
志村正彦は「夢」のモチーフを繰り返し歌に表現した。「昨日の夢」が続いているみたいと、この歌の主体は想う。この言葉は、『若者のすべて』の「途切れた夢の続きをとり戻したくなって」とも呼応する。ただしこの歌では、夢の「先」の「ストーリーを描く」と、前向きに言葉が繰り出される。「とり戻したくなって」と「その先がみたくなって」とでは、動きのベクトルの方向が異なる。『星降る夜になったら』は、先へ先へと、夢の歩みを加速させる。
真夏の午後の偶景。 「雷鳴」はアンセムのように轟く。アンセムが遠ざかり、静寂に包まれると、確かに、何かが変わる。何が変わるのかというつまらない解釈はやめよう。解釈できない言葉、声と音の連なりがいつまでも残響する。それでも一つだけ言えるのは、歌の主体にとって、「夢」に関わる何かかもしれないということだ。
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