Ⅰ
小説を「読む」とはどのような行為なのか。そして、「小説」を学ぶ、教えるという行為はどの方向に向かうべきなのか。
この問いを抱えながら、授業の準備を行い、教室に向かう。小説教材の最初の授業のとき、小説を読む充分な時間を生徒に与えるように心がけている。小説を読むのには固有の時間があり、読書の主体としての生徒には一人ひとり別の時間が流れている。教科書に印刷されている小説作品は文字の記号としてそこにあるが、読書主体としての生徒の読む行為を通じて、その存在を獲得し始める。
教室ではまず始めに、時間は充分にあるので各自のペースで読んでいくことを指示する。
その際「教材」ではなく、「作品」という意識で読むことを重視している。生徒がページをめくり始める。直ぐに小説世界に入っていく者。煩わしそうに読む者。各々の読む時間が進行する。時に愉悦を感じ、時に困惑を感じる時間。静かな時間が流れ、時々、ページをめくる音が聞こえてくる。
もう一つの指示は、読んで考えたことを自由に書くこと、所謂「初読の感想文」を書くことだ。勤務校では一〇〇分授業(五〇分二コマ連続)を行っているので、前半の五〇分間を読む時間に、後半の五〇分間を書く時間に、だいたい設定している。
生徒の観点からすると、教室という場でいきなり新しい教材、文学作品に出会うことになる。通常の読書とは異なり、選択することなく、それは与えられる。受け身の行為なのだが、そのような作品との出会いが幸福な遭遇をもたらすことも多い。教室では、生徒は「贈り物」としての作品に出会う。日々、至るところの教室で、文学作品という贈り物が贈与されている。生徒の書いた文を読むと、小川洋子の『バックストローク』は今まで遭遇したことのないような、贈り物のような作品であることが伝わる。
ある女子生徒の文章を紹介したい。
この小説を読んで、わたしはとても不思議な感覚を覚えた。読んでいるときは、どこかへ沈んでいくように思えたし、読み終わってからは、自分が水の底にいるようだった。胸が締め付けられる息苦しさを感じたのに、同じくらい、穏やかさも感じられた。水中で息ができないのと同様に、わたしにはこの小説を読んで感じたことを言葉にすることができない。
どこかへ沈み、水の底にいるような「不思議な感覚」。そこでは「息苦しさ」と「穏やかさ」の相反するものが感じられる。この女子生徒は、『バックストローク』の読みの経験そのものを伝えようとしている。意味や主題ではなく、感覚の軌跡のようなものに向き合おうとしている。ある作品に対して「言葉にすることができない」想いを抱いたのなら、無理に言葉にする必要はない。無理に解釈したり、了解したりすることは、作品の読みを損ない、極端な場合は作品に対する暴力にもなる。
一つの小説を読み進めていくうちに、私たちは小説の言葉の群れから放たれた波動のようなものを受け取る。意味に分節されたり、主題に結晶化されたりすることなく、波のような運動が私たちに作用する。話者の声や作中人物の声は波動となり、場面や場面の転換もリズムとしての波の動きに通じる。読む者は自身に生起している波動の微かな響きに耳を傾けている。波動が私たちに作用し、言葉にならないなにものかを伝える。
『バックストローク』は作用する小説としての力を持つ。作品は読者の記憶の中のある層の呼吸し続ける。時に水面下に潜り、時に浮上し、読者に作用する。そして、時間の流れの中で、時の経過と共に、作用は変化する。初読、再読、数年後経た後の読書、その時々で読書そのものが変化する。作中人物のあの言葉、あの場面、あの風景の語りかける意味が、時間の中で変化して、読者に作用する。作品から贈り物のようにして与えられる波動は、幸福な場合、一生の間持続するのだろう。
もう一人、男子生徒の言葉を引用したい。
私は小説を読むのは好きではないし、読んだとしても途中で読むのを止めてしまうが、でもこの小説だけは違った。小説の世界へと入ったような気分になった。小説の中は、色々なことが自分の目の前で起こっているのか、または、動画を見ているようであった。小説の力は無限のように感じた。
この生徒にとって、「小説の世界」へと入るという経験は稀なものであったらしい。「動画」を見ているようであるという言葉は、携帯電話やPCなどを通じて画面上の動画を見る機会の多いこの時代の若者らしい感想だ。読む行為の中で「動画」を再現するのは、ネット上の動画を受動的に見る経験とは大きく異なる。また、「映画」でなく「動画」という言葉を使ったのも興味深い。「動画」にはより短いもの、それらの映像の集積のような感じがある。確かに『バックストローク』には様々な場面の集積のような作品であり、多層的な時間が入れ子型に組合わされている。一つひとつが短い動画のような趣もある。
小川洋子は前掲の『物語の役割』で、「私の場合は、映像が頭の中に浮かぶ時には、すでにそれが小説になるというサインなのです。」と述べている。続けて「言葉になる以前の段階のものが、まず浮かんでこなくてはならないのです。言葉は常に後から遅れてやってくるという感触です。」と語っている。
引用した二人の生徒の言葉は、短いものであり、充分に考えが練られているものではないかもしれないが、小川洋子の小説の本質に触れる鋭さがある。出来合の言葉で解釈するよりも、テクストそのものに向かい合う純粋な読書がこのような言葉をもたらしたのだ。
Ⅱ
小川洋子は講演録『物語の役割』の中で、『バックストローク』と同じように短編集『めまい』に収録されている『リンデンバウム通りの双子』を素材に、「小説の第一歩を踏み出す」ためには「重層的な映像が必要不可欠なのです」と述べている。また「テーマなどというものは最初から存在していない」「主題が何か、について私は一切考えていないのです」と断言している。『リンデンバウム通りの双子』を例に取り、「家族の悲しみ」「人間の孤独」「家族の絆」というような「非常にわかりやすい一行で書けてしまう主題を最初に意識してしまったら、それは小説にならないのです」として、「言葉で一行で表現できてしまうならば、別に小説にする必要はない」「言葉にできないものを書いているのが小説ではないか」と語っている。そして、「テーマは後から読んだ人が勝手にそれぞれ感じたり、文芸評論家の方が論じてくださるもの」だと、若干の皮肉を込めて書いている。
小説を書く作者の観点からすると、小川洋子の言葉は肯定されるだろう。作者が紡ぎ出すのは言葉そのものであり、意味や主題は事後的に生まれるというのは、虚構作品を書く者が経験する真実の一つだからだ。しかし、作者も事後的に読者となる。作者自身、小説を書き終えた時点から、というよりも本質的には、一つひとつの言葉を書いた瞬間から、読者として自分の言葉に向き合う。作者が主題を考えずに小説を書いたとしても、小説の完成後、一人の読者として自身の小説の主題に向き合うことになる。話者として言葉を語り終わった瞬間から、読者としてその言葉を読むというのが、言語をめぐる普遍的な真理だと思われる。
読者に作用する言葉の群れ、その波動を、生のある一点で受け止め、その意味を考え、作品の主題を考えることもまた、私たち読者が自然に行う行為だ。連続して続く波動の形を形として定めること。とりあえずの形であっても、そのことが解釈の立脚点になり、授業の成立の根底を築く。
『バックストローク』を読み進めていく中で、私たちが立ち止まってしまう箇所は、やはり、弟の左腕が突然挙がったままになってしまった出来事であろう。読者はこの出来事を受け止め、その意味や原因を考えてしまう。読者がこの出来事について問いかける欲望を持つのは自然であろう。小説作品は波動のように読者にある作用をもたらす。その作用の中の何かが私たちにある種の問いをもたらす。問いは読者の欲望を生起させる。特に、了解不可能な不可思議な出来事ほど、読者の欲望を刺激する。この左腕の出来事については、何人かの生徒が感想を寄せた。生徒の書いた文の一部を四つほど引用したい。
主人公の弟は母親の過剰な圧力や期待により、言いしれぬ不安や苦しみを胸に抱えていたのだろうと感じた。腕に異変が起きたのもそれが原因なのだろうと感じた。「水泳をやっていない自分」を見てほしくて、彼は無理に腕を壊してしまおうと考えたのだと思う。
この生徒は「無理に腕を壊してしまおう」とする意志によるものだと解釈する。「母親の過剰な圧力や期待」に対する「言いしれぬ不安や苦しみ」が原因となって、ある行動を起こす。このような解釈は、この「左腕の出来事」に対する標準的なものだとも言える。
弟はなぜ急に左腕をおろすことができなくなったのだろうか。それはやはり弟の強い気持ちが作り出した結果の現象だったのであろう。
この生徒も弟の「強い気持ち」を読みとろうとしている。ただし、「意志」によるというよりも、「強い気持ち」の作り出す「結果の現象」という読みは、微妙な意味を含んでいる。「現象」として起こったということには意志から少し離れた考えもあるからだ。
「なぜかいろいろな物が壊れた一日だった。」この表現から、何か大きな変化が訪れるのだという予感を感じた。そして、ついに彼は壊れてしまったのだ。
この読みは、弟が「壊れた」という枠組みでの解釈である。この場面では色々なものが壊れる。その結果、機械が壊れるように、弟の左腕が壊れる。「壊れた」という表現は、弟の意志による行為ではなく、突然の出来事としての異変の意味合いが強い。
ストレスのはけ口がなくなったことにより、体が限界を通り越して拒否反応を起こし、その結果左腕が動かなくなってしまったのだ。
「ストレス」による心身の「拒否反応」としての腕の異変。この解釈はより心理学的な解釈だと言えよう。現在の高校生の中には心理学的な知識を持つ者も多い。この生徒も「ストレス」という流布された言葉ではあるが、臨床心理学的な知識で出来事を読みとろうとしている。
生徒の感想は大きく、この出来事が弟の意志による故意の行為だと捉えるものと、意志によらない病変だと捉えるもの二つに分けられる。また、『バックストローク』に言及した評言の幾つかを読んでみても、意志によるものと病理によるものの二つに分かれている。
異変から五年経ったあるとき、弟は姉に「変に思う?」と聞き、「みんなを、がっかりさせてしまった。」とも述べる。この箇所によって、弟は左腕の出来事について自覚的であったという読みがなされることがある。しかし、意志によらない病理としての異変であっても、結果的に「がっかりさせてしまった」と思うことはあり、その異変について「変に思う」と問いかけることもあるので、このことだけで、弟の意志による行為だと解釈することは無理である。左腕の出来事については、厳密で精密な読解が必要とされるだろう。
この場面は、「事の始まりは、弟の十五歳の誕生日だった。」と語り出される。その日は「なぜかいろいろな物が壊れた一日」で、弟の左腕に異変が起きる。その出来事を語る一節を引用する。
次の朝目覚めた時から、弟は左腕を挙げたきり、下へ降ろさなくなってしまったのだ。
最初弟が階段を降りてきた時は、肩の調子が悪いのか、フォームのイメージトレーニングでもしているのだろうと、さほど気にしなかった。しかし洗面所から出てきても、食卓についても、彼はそのままの姿勢を崩さなかった。
「どうかしたの。」
いちばんに母が口を開いた。
「どうして手なんか挙げてるの?」
わたしも尋ねた。尋ねないではいられなかった。彼は何も答えなかった。
小川洋子の小説では、「言葉になる以前の段階」の「映像」が先行する。この「映像」は、物語になる以前、主題化される以前のある種の出来事であろう。映像としての出来事が起こり、その後に言葉が出来事を捕まえようとする。言葉は出来事に対して遅延して到達する。話者は出来事の解釈者の位置に立つ。小川洋子は、そのようにして浮上した出来事に対して、どのような話者を創りあげるのかに腐心していると語っている。
話者や作中人物の感覚・思考より、出来事が先行しているのは、『バックストローク』の場合も当てはまるのではないか。まず始めに左腕の異変という映像が誕生し、その後で『バックストローク』の構想が具現化したというのが私の推測である。その場合、この出来事・映像について、話者や作中人物はどのように捉えるのかが問題となる。
引用部分では、話者であり作中人物の姉である「わたし」の視点から、弟は「降ろさなくなってしまった」「そのままの姿勢を崩さなかった」と語られていることに注意したい。左腕の「出来事」に遭遇した現在時を考えてみると、この時点では出来事の了解は当然不可能だ。しかし、「わたし」の述べる「降ろさなくなってしまった」「崩さなかった」という言葉には、この出来事には弟の意志が介在していることが判断されている。
例えば、「弟は左腕を挙げたきり、下へ降ろせなくなってしまった」であれば、病気の可能性が残る。 あるいは「弟の左腕は挙がったままだった。」では、より解釈を差し挟むことのない、判断保留の描写になる。
さらに、母の「どうかしたの」、姉の「どうして手なんか挙げているの」という問いのの繰り返しは、弟を無言へと追いやる。母も姉も理由を問い続けたのだが、そのこと自体が、弟を「もっと隅へ、もっと隅へとひきこもる」ようにさせた可能性すらある。
姉は「だれも見ていない時は降ろしているのだろう」と考え、弟の部屋をこっそり盗み見ることまでした。姉は弟の理解者の位置に立つのではなく、むしろ母の位置に、母の眼差しに近づいている。
私たち読者が、母や姉の眼差しからの解釈から離れて、一人の観察者として弟の出来事に向き合えば、どのような解釈が可能なのだろうか。生徒の感想の中に、一つ注目すべき意見がある。
なぜ腕が上がらなくなったのかは、よくわからないけど、それが弟の願いならいいと思う。自分の意志でそうなってしまったのではなくても、その後、弟は生き続けていけたのだから、それは少しでも弟が望んだことであったのだと思う。
この生徒は左腕の異変について「自分の意志」でなくでも「願い」「望んだこと」であったと読む。この生徒の感想はあくまで感覚的なもので、論として確立されたものではない。しかし、微妙ではあるが、この生徒の読みは、意志によるものと病理によるものという二項対立の解釈とは異なる解釈の可能性を示す。この生徒は意志と病理の間に、より潜在的な弟の願望を読みとっている。
私は、『バックストローク』の虚構世界を現実世界に転移させて考えてみたい。その場合の有効な解釈装置が、ジークムント・フロイトが創始した精神分析の理論である。唐突に精神分析を持ち出すことに違和を覚える方もいるだろうが、小川洋子の作品世界と精神分析理論との親和性は高いと思われる。
小説の具体的のチーフとしても、短編集『めまい』所収の『飛行機で眠るのは難しい』では、作中人物の老女の布地屋がウィーンのフロイト博物館の裏にあり、話者「僕」がそこを訪ねるという設定があり、先に触れた『リンデンバウム通りの双子』の舞台もウィーンであることからも分かるように、少なくとも短編集『めまい』の場合、ウィーンという地名、フロイトという固有名詞のつながりがある。また、フロイト自身の姉妹四人が『バックストローク』の重要なモチーフであるユダヤ人強制収容所で殺されている事実もあり、ウィーンという都市自体がナチス・ドイツとの関わりが深い場所でもある。『めまい』所収の優れた三つの作品『バックストローク』『飛行機で眠るのは難しい』『リンデンバウム通りの双子』に共通しているのは、日本人の話者がウィーンやナチス・ドイツ収容所跡を訪れるという設定であり、小川洋子のこのモチーフへの偏愛ぶりが伺える。
Ⅲ
弟の左腕の異変の原因を精神分析の理論から考察すると、第一に転換ヒステリーの可能性を指摘することができる。転換ヒステリーは、精神分析の創始者ジークムント・フロイトが定義した神経症の一つであり、無意識的な衝動や願望の表象内容が抑圧され、その表象が転換される機構によって、様々な身体的症状(運動麻痺、身体硬直、感覚障害、腹痛・頭痛等の軽微な症状他)が現れてくるものである。
転換ヒステリーでは、身体が不自然な形に硬直したまま動かなくなることがあるので、弟の左腕の硬直したかのような異変も転換ヒステリーの症状であると考察することができる。転換ヒステリーで症状化している部位は、抑圧された衝動の表象自体に関わる部位だとされている。つまり、不自然な形に硬直した左腕は、主体の抑圧したい場所そのものでもある。
転換ヒステリーの原因には主体の無意識の欲望が存在している。先ほどの生徒の言葉を再び引用してみるならば、「それは少しでも弟が望んだことであったのだ」と言える。精神分析の文脈に置き換えていえば、「それ」は無意識の欲望である。
哲学者スラヴォイ・ジジェクは、フロイトの真の後継者であるジャック・ラカンの影響のもとに、精神分析理論を使って現代文化について考察を重ねている。彼は著書『為すところを知らざればなり』で、ラカンを参照して「言語‐の‐存在としての人間の根本的な経験とは、彼の欲望が妨げられるということ、創設的に満たされないということである。人間は『自分が実際何を欲しているのか知らない』のである。」と述べている。そして、転換ヒステリーについて「ヒステリー患者の『転換』が成し遂げていることとは、紛れもなくこの妨害を転倒することなのだ。この転倒を介して妨げられた欲望は妨害への欲望に転換する。満たされぬ欲望は満たされぬことへの欲望に転換する。」と説いている。
ジャック・ラカンによれば、人間の欲望は他者の欲望である。弟はもともと、他者である母の欲望を、続けて姉の欲望を生きてきたと言ってよい。欲望の起源には他者が存在するのだが、そのことは無意識に沈み、人間は「自分が実際何を欲しているのか知らない」のである。
母と弟の様子については、視点人物である姉による次の描写がある。
二人はぶかっこうなダンスを踊っているように見えた。弟は母に体を任せ、されるがままになっていた。照れ臭そうにも、迷惑そうにもしなかった。ただ、どこか遠くを見つめていた。背泳ぎなんかよりもっと深刻な問題について、思索を巡らせているかのような瞳だった。
弟は母の欲望を「されるがままに」、文字通り生きている。弟の「どこか遠くを見つめ」「思索を巡らせている」かのような「瞳」は、「自分が実際何を欲しているのか知らない」欲望を見つめているかのようである。
弟の二三歳の誕生日に、弟が姉の求めに応じて自宅プールで再びおよく場面で、話者姉は次のように語る。
わずかに残った地面にしゃがみ、わたしはプールの中の弟を見つめた。端までくるとターンし、また泳いだ。何度も何度も繰り返しターンした。水音だけが二人の間を流れた。弟は背泳ぎするだけで、わたしの求めるものをなんでも差し出すことができた。
この場面でも、弟は姉の欲望を生きている。弟は姉の「求めるものをなんでも指し出す」ことができるのだ。その後、姉の欲望に応じてプールで再び泳ぐ際に、作品内の現実か幻想か分からないが、弟の左腕は欠損する。その後、弟は入院し、病院の小さなプールで泳ぐことを愉しみ、十年もの間一月に一度ほど、そのことを必ず手紙に書いて姉に送る。
弟は「自分が実際何を欲しているのか知らない」まま生きてきた。人間の欲望が他者の欲望である限り、人間の欲望は本源的に空虚なものである。主体が欲望を抱いていると感じていても、それは空虚な幻であり、その欲望が成就されることはない。これは、主体にとって欲望は絶えず妨げられているいうことのもう一つの姿である。また、弟の欲望が空虚なものであるからこそ、読者はそこに様々なものを読みとろうとしてきた。
転換ヒステリーの主体は、欲望が妨げられることそのものを転倒し、自らの欲望を妨害するようになる。弟の欲望も様々な意味で妨害され、成し遂げられないものとなっていた。弟は自身の身体の自由な動きを妨害し、そのことが泳ぐことの制止、左腕の硬直化をもたらしたのだ。これが弟の「満たされぬことへの欲望」である。
弟はそのようにして「満たされぬことへの欲望」そのものと化し、弟の物語が閉じられる。この弟の「左腕の出来事」は、虚構作品の枠組みを超えて、読者にそれに向き合うことを要請しているかのようだ。もちろんその解釈が固定されたものに収束する必要もないが、私自身は精神分析の枠組みで考察してきた。
ヒステリーは家族の間で転移する。家族の成員が各々ヒステリー化することもある。左腕の異変の後、母自体が「ヒステリー」になったという記述がある。また、最後の場面で、強制収容所の「処刑場へ行きましょう」と述べる姉もまた幾分かヒステリー化しているとも言える。『バックストローク』は弟中心の物語として普通は読まれているが、私には姉を中心とする「姉の物語」として読む欲望もある。稿を改め、「姉の物語としての『バックストローク』」を書くことにしたい。
*この論考「『バックストローク』を読む 1」 は、教育出版の「高校メルマガ」2009年6月号で配信されました。同社のHPで掲載されていましたが、HPのリニューアルによって現在は公開されていませんので、このブログに再掲載することにしました。