2016年1月31日日曜日

ベルリンの富士山

 ベルリンには富士山がある。

 前回、ポツダム広場について書いて、そのことを想いだした。広場の中心地にある「ソニー・センター」の屋根が「富士山」の姿に似ていることが知られている。

 2000年の秋。ベルリン三日目の朝、僕と妻の二人はクーダム近くのホテルを出て、Uバーン(地下鉄)に乗り、ポツダム広場駅に向かった。駅から地上に上がると、まだまだ再開発中のモダンな街の光景が広がる。見渡すと、高層ビルの隙間からわずかに「富士山」に似た稜線が現れる。しかし近すぎて、全貌が見えない。たどり着いて下から眺めると、巨大な円錐形のテントで覆われているようにしか見えない。

 センターに入ると、映画館(ベルリン映画祭の会場にもなっている)やレストランなどの商業施設が並んでいる。当時は懐かしの「AIBO」ロボットや最新の「PlayStation 2」が展示されていた。ここにはソニーのヨーロッパ本社もあった。(ソニーの苦境により、すでにこのセンターは売却されてしまったそうだが)

 見るべきものは特にないので外へ出て、すぐ近くにある文化フォーラム内の絵画館の方へ歩いていく。その広場から振り返ると、ポツダム広場中心のビル街の合間から、本物の富士山でたとえると五合目くらいまでの富士山の形が綺麗に見えた。
 ベルリンの富士山にやっと出会うことができた。

 写真も撮ったのだが、鮮明ではない。ネットで探してみると、旅行会社JTBのサイトに、美しくライトアップされた画像があった。JTBの旅行情報の引用として、ここに添付させていただきたい。


JTBのHP(http://www.jtb.co.jp)から


 もう一つ、音楽との関わりで印象深い出来事があった。
 ポツダム広場近くの文化フォーラムはもとの西ベルリン地域にあり、ベルリンフィルハーモニーの拠点である不思議な形をした黄色の大きな建物、「カラヤン・サーカス」がある。ぶらぶら歩いているとホールの入り口が見えた。まだ午前中で辺りは閑散としていたが、ドアは開いているように見えた。思い切って入ることにした。もしかしたらホールだけでも見学できればと期待したからだ。

 中に入るとチケット売り場があった。その上の表示板を見ると、今日のコンサートに「満員」の表示が出ていないことに気づいた。おそるおそる、ドイツ語に英語が混じった訳の分からない言葉で尋ねてみると、1人ずつの別の席なら用意できるとのこと。演目は、マリス・ヤンソンス指揮のバルトーク『ヴァイオリン協奏曲第2番』、客演はギル・シャハム。僕はクラシック音楽はあまり聴かないのだが、ベルリンフィルを本拠地で聴ける機会はなかなかないので、購入することにした。

 チケットは真ん中の11列目とやや左側の3列目という素晴らしい席、しかも95マルク(4500円程度)と非常に安い。会員席のようなチケットがキャンセルとなり売り出されたのかもしれない。街を歩き回ると、時々、このような幸運に恵まれることもある。
 その後、さらに西の方に歩いて下り、バウハウス展示館を見ていったんホテルに帰り、ちょっと良い服に着替えてホールに再び向かった。

 僕にはバルトークの曲やベルリンフィルについて語る知識も能力もない。音楽そのものとホールの音響に圧倒されたと記すことができるだけだ。
 建物の五角形の形に合わせてアリーナ形式の座席が広がる。その中心にステージがある。これまで経験したことのない音の反射、残響だった。大げさでなく、四方八方から音の重厚な響きに包まれた。クラシック音楽の場合でも、音楽はそれが演奏される「場」と切り離せないということを痛感した。

 もう一つ音楽そのものからは離れるが、忘れられない光景があった。幕間の休憩時間、ホワイエに聴衆がたくさん集まってきた。「ベルリンのエスタブリッシュメント」という感じの中年の紳士淑女が綺麗に正装して、シャンパンを飲み歓談していた。映画の1シーンのようだった。僕たち二人の日本人はいかにも場違いな雰囲気だった。彼らと僕たちのとの間には「見えない壁」のようなものがあった。考えすぎなのかもしれないが。

 欧州では今でも(少なくともオーケストラの本拠地のホールでは)、クラシック音楽はある種の「階級」が支えているという実感を持った。そのことは日本ではあまり可視化されない。
 このような経験も旅のもたらす貴重な出来事だろう。

2016年1月24日日曜日

we could be heroes

 今朝の朝日新聞「世界はうたう:アンコール」は、デビッド・ボウイ「ヒーローズ」を取り上げていた。(2016年1月24日05時00分、デジタル版)

 1987年6月6日、ベルリンの壁近くにある国会議事堂前の広場で、ボウイの野外コンサートが開催された。単なる事実としてしか知らなかったこの日の様子を、この記事で初めて知ることができた。

 当日、スピーカーが壁の向こう側にも向けて設置され、東ベルリンの大勢の若者も壁の近くに集まってきたそうだ。その一人が「あの時、壁越しにデビッド・ボウイの歌声をはっきり聞いた」と語っていた。ベルリンの壁の西と東で、聴衆が壁と向き合うように立っていたことになる。ベルリンの壁崩壊の二年半ほど前の出来事だ。

 「ヒーローズ」自体は1977年にリリースされた。



 
 ベルリンと関わりのある部分の歌詞を引く。

   I, I can remember
   Standing, by the wall
   And the guns, shot above our heads
   And we kissed, as though nothing could fall
   And the shame, was on the other side
   Oh, we can beat them, forever and ever
   Then we could be heroes, just for one day

 引用したブロックの4行目まではおおまかに覚えていた。「the wall」「the guns」「kissed」、喚起力の強い言葉が並んでいる。この「we」は、プロデューサーのトニー・ヴィスコンティと当時の恋人であったドイツ女性の二人から着想を得ているそうだ。二人の逢瀬と「ベルリンの壁」がモチーフとなっている。

 5行目の「the shame, was on the other side」という一節は全く抜けていた。この「the other side」という言葉と、今朝の新聞記事が伝えた壁崩壊前の状況とが何となく結びついてしまう。「the other side」は何を指し示しているのか。具体的な状況としては、やはり、壁の向こう側と捉えることができるのか。あるいは違う背景があるのか。そもそも、「the shame」の意味が難しい。

 さらに、このブロックでは「we could be heroes」と歌われていることに、迂闊にも初めて気づいた。この歌ではすべて「we can be heroes」と繰り返されていると思いこんでいた。僕の拙い英語力でも、「can」と「could」ではニュアンスが異なることくらいは分かる。一般的には「could」の方が実現の可能性は低くなるだろう。(ここで明確に説明できる能力はないが)

 全体を通じて、「ベルリンの壁」という当時の現実、そしてその後起きた「ベルリンの壁」崩壊という(当時からすると未来の)出来事から遡行して考えてみると、「heroes」の意味が多義性をおびる。ある種の予言性すら感じとれる。

 この記事で、ドイツ外務省がツイッターに次のメッセージを出したことも知った。

Good-bye, David Bowie. You are now among Heroes. Thank you for helping to bring down the wall.
 「さよなら、デビッド・ボウイ。今やあなたは『ヒーローズ』の仲間入りだ。壁の崩壊に力を貸してくれてありがとう」

 「we could be heroes」が本当の現実となり、ボウイが「we」の一人になったということだろうか。それにしても、政府が公式ツイッターで言及するのには驚く。欧米の社会でロック音楽の持つ影響力にも。

 ルー・リードの『ベルリン』(1973年)やボウイのベルリン三部作に影響され、若い頃から、ベルリンは最も訪れてみたい外国の街だった。

 2000年、20世紀の終わりの年に初めてベルリンに行った。
 わずか三日間だったが、街を歩き回った。ベルリン三部作の拠点ハンザ・スタジオはポツダム広場近くにある。戦後、この広場は廃墟と化していたが、東西ドイツ統一後、ベルリンが再び首都になり、この地帯は新開発の中心地となった。
 すでに新築のモダンな高層ビルが林立していたが、広大な空地にはまだ巨大な建築クレーンがたくさん並んでいた。その光景をよく覚えている。


 2009年に再び訪れることができた。
 ポツダム広場周辺の開発はすでに終わり、街は完成していた。そのあたりは未来都市のような風貌に変わり、ベルリンの壁の痕跡など消えてしまっているかのようだった。

2016年1月12日火曜日

1978年、NHKホール、David Bowie。

 1978年12月12日夜、渋谷の公園通りは、David Bowieの通りと化していた。

 その夜、NHKホールで「Low and Heroes World Tour」が開かれた。日本ツアーの最終日だった。終了後、コンサートでBowieが被ったのと同じ帽子姿の女の子がたくさん公演通りを歩いていた。華やいだ高揚した気分にあの日の聴衆は満たされていた。何かこれまでとは次元の違う経験をしたという悦びが渦巻いていた。

 37年前のことだ。さすがに記憶が薄れている。ネットで調べると、当日のセットリストを記している方がいた。さらに、NHKが「ヤングミュージックショー」で放送した短縮版の1時間番組がyoutubeに「David Bowie - Tokyo 12-12-1978」として upされていることを知った。有り難い。(著作権の問題はあろうが、貴重な音楽の記録として皆に共有されるのは意義がある)
 あの日のライブの感触が少しよみがえってきた。

 僕は確か二階席後方の右側にいたはずだ。奥行きのあるホールゆえ、かなり前にステージがある。後方に蛍光管のようなものが縦に数十本置かれている。重厚で陰鬱なシンセサイザーの音がホールの地を這うように広がっていく。『Warszawa』。それまで経験したことのない音と演出に聴衆は静まりかえっていた。次は『Heroes』。歌物が始まり、聴衆も少しずつ日常的な感覚、ある種の落ち着きを取り戻してきた。 「we can be heroes, just for one day」の言葉が強く迫る。youtubeの映像を見ると、記憶よりテンポがゆったりしている。当日は見ることが当然不可能だったBowieのupの表情からはある種の風格すら感じる。その後、ラストに至るまでの展開はほとんど思い出せない。アンコールになると、白い水平帽に似た帽子をつけて登場。背後の蛍光管がフルに点灯し、眩い光に包まれたことを除いては。
 未だに、あれだけの高揚感を得たコンサートはない。大方は忘れてしまっても、その感触というか残像は我が身に残っている。
                                                  
  このツアーはその名が示すとおり、アルバム『Low』『Heroes』を中心としていた。その後リリースされた『Lodger』を含め、この三つはベルリン三部作と呼ばれ、Tony Visconti とBrian Eno の協力のもとに制作された。


 彼の創造の絶頂期に位置するこの三部作に関して、彼自身はどのように捉えていたのか。ネットで検索して、次のインタビューを見つけた。
Uncut Interviews David Bowie & Tony Visconti On Berlin,  March 2001)

  ベルリン三部作が「post-punk/ambient/electronica/world music」の礎石になったという問いかけに対して、David Bowieはこの三作品の重要性を認識した上で、次のように語っている。

 Tony, Brian and I created a powerful, anguished, sometimes euphoric language of sounds.

 一連の表現を「力強い、苦悶に満ちた、時には陶酔をもたらす音の言語」とでも訳せばよいのだろうか。単なる「sounds」ではなく「language of sounds」とあるので、「language」に力点があるのだろう。ある種の「言葉」であり、「様式」「方法」という意味合いもあるのかもしれない。この表現は、1978年12月12日、渋谷NHKホールで聴いた音と声の記憶にそのまま重なる。
 確かに、それは強力にうねり、広がる音だった。彼の声は、時には沈鬱さと高揚感を、苦悶と陶酔を、闇と光を、聴衆に与えていた。

 志村正彦作詞作曲、フジファブリック『茜色の夕日』がBowieの楽曲の雰囲気に通じると指摘された、と彼の日記にある。コードの一箇所が同じということだ(具体的には分からないが)。これは単なる部分的なものだろうが、志村正彦がDavid Bowieをどのように受けとめていたのかは関心がある。

 世界の、日本の、いわゆる「オルタナティヴ・ロック」の大きな源流が、Bowieの作品、特に『Low』『Heroes』『Lodger』というベルリン三部作にあることは間違いない。
 David Bowieがその69歳の生涯を閉じた。「ロック」はかなり前からだが、今、「オルタナティヴ・ロック」も、その輝きを失いつつある。
 

2016年1月10日日曜日

鈴木慶一「45周年記念ライブ」、年末の一日。

 昨年12月20日、東京メルパルクホールまで、鈴木慶一の「ミュージシャン生活45周年記念ライブ」を聴きにいった。

 午後五時過ぎ、地下鉄の芝公園駅から上ると、目の前に東京タワーが現れた。やわらかくて眩い光。綺麗だった。冬の夜の冷たい空気のせいか、逆に光があたたかくゆれているように見えた。こんなに間近で見るのは初めて。ここは東京のど真ん中。ライダーズには『東京一は日本一』という名のベスト盤があったな。少し華やいだ気分になって、会場のメルパルクホールに到着した。

 僕は鈴木慶一、ムーンライダーズのかなりのファンだった。「だった」と過去形で記したのはここ十数年ほとんどフォローしていなかったからだが、時々、BSで放送されたライブ映像などは見ていたので「だ」という現在形でもいいだろうか。生で聴くのは1996年の渋谷公会堂以来だった。あの年はムーンライダーズ20周年記念の年。すでにマニアックなファンが集まる「同窓会」のような雰囲気で、それはそれで楽しかった。

 出会いは1978年の『NOUVELLES VAGUES』だった。70年代末という時代において、古くさい言い方だが、洋楽(特に英国ニューウェイブ)の水準に達している日本語ロックとして、ムーンライダーズは抜きんでていた。LPジャケットの写真も気に入っていた。そのアルバムをCDで久しぶりに聴いてみた。懐かしすぎる。鈴木慶一の声も音も、記憶していたものよりずいぶんと明るく、さわやかでさえある。40年近く前の音源だが、あまり古びてはいない。サウンドに限定すれば、現在のフジファブリックのスタイルの源流の一つのように位置づけることもできる。

  『NOUVELLES VAGUES』には、その名が示すように、クロード・シャブロル『いとこ同志』を始めとする、仏ヌーヴェルヴァーグ映画などの多様な作品をモチーフとする楽曲が多かった。当時流行の「現代思想」(これも懐かしい言葉)の「記号論」の影響もあったのか、「引用」という手法を日本語ロックの世界に取り入れた先駆者だった。(その後、日本のオルタナティヴ・ロックでこの手法が安易に使われることもあったが。)
 独特の屈折のある歌詞。知的で洒落ているが、どこか外しているところ。憂いや翳りをおびたユーモア。高度な演奏力とアレンジ技術。それらの混合、時には混沌がムーンライダーズの魅力だった。

 座席に着き、辺りを見回すと、五十代六十代の男性が多い。鈴木慶一の音楽を聴き続けた同世代か少し上の世代の男たち。同じ時代を生き、僕と同様、同じようにくたびれてきた者たちが集う場だった。
 公演は、現在のバンド「Controversial Spark」、最新作録音のためのバンド「マージナル・タウン・クライヤーズ」、高橋幸宏とのユニット「THE BEATNIKS」、「ムーンライダーズ」、「はちみつぱい」と、45年の時をさかのぼる構成だった。途中でゲストの斉藤哲夫、PANTAも迎えた。

 ムーンライダーズの舞台。鈴木博文、白井良明、岡田徹のオリジナルメンバーの登場。かしぶち哲朗はもういない。武川雅寛も療養中でいない。でも、驚いたことに3曲目に「くじらさん」がステージに。この日のために準備してくれたのだろう。会場からは大喝采、「おかえり」という声も上がる。5人のライダーズとサポートドラムの矢部浩志によるすばらしい力演だった。
 ゲストのPANTAが『くれない埠頭』を歌った。ムーンライダーズの代表曲だが、慶一の弟、鈴木博文の作品。弟の作品をPANTAに歌わせたのは鈴木のオーガナイザー的資質を示している。

              吹きっさらしの 夕陽のドックに
              海はつながれて 風をみている

              行くあてもない 土曜のドライヴァー
              夢をみた日から きょうまで走った

         
              残したものも 残ったものも
              なにもないはずだ 夏は終った    (鈴木博文『くれない埠頭』)

   
 はちみつぱいの生演奏を聴いたのは初めてだった。オリジナルメンバーが全員集まったようだ。最初の曲の前奏なのか、インプロビゼーション風のサウンドは、70年代初頭の「ニューロック」の匂いが濃厚だった。メロディもリズムも音色ものびやかで、かなりサイケデリックなのは意外だった。
 『塀の上で』と『煙草路地』が嬉しかった。この二つの歌が聴けただけでも来た甲斐があった。

            誘導灯が秋波くれて
              広告塔も空に投げキッス
              羽田から飛行機でロンドンへ
              ぼくの嘆きを持ってお嫁に行くんだね 今日は

  
              塀の上で 塀の上で
              ぼくは雨に流れみてただけさ     (鈴木慶一『塀の上で』)

    
 鈴木慶一の出身地は東京大田区の下町。鈴木兄弟は羽田近くの湾岸地域で育ったそうだ。「羽田」という地名。「塀の上」、「夕陽のドック」という風景。鈴木自身が「東京ディープサウス」と呼ぶ場が『塀の上で』『くれない埠頭』の舞台だ。京浜工業地帯の臨海部の吹き溜まりの感じが歌詞には濃厚にある。

 ライブの前、橋口亮輔監督の七年ぶりの新作『恋人たち』を見た。
 橋口亮輔は最も敬愛する監督だ。新作を映画館で必ず見たいという気にさせる監督は他にない。たまたまキネカ大森で上映中だったので、大森まで出かけた。
 映画を見ている最中に気づいたのだが、主人公アツシが住み、働く場所は、大森や蒲田近くの街という設定だった。ついさっき大森駅近くで見たのと似た風景がスクリーンでいきなり映し出されたのには驚いた。予期しない偶然だった。

 アツシの仕事は湾岸地域の河川の橋梁を検査すること。ハンマーで打音して、その音に耳を澄まし、水郷都市でもある東京の土台の「ひび割れ」を探知している。戦後の東京の老朽化、そのような時代性を橋口監督は映画に織り込む。
  『恋人たち』は今各地で上映中なので、内容を語ることはやめよう。それでも一言印象を記すとしたら、ドキュメンタリー的手法を使ったフィクション映画というように括られるのだろうが、この作品は、「ドキュメンタリー」と「フィクション」、「事実」と「虚構」という二項対立を超えた「リアルなもの」、私たちの生の「真実」と名づけられるものを描いている。必見の映画だ。この作品については稿を改めて書いてみたい。

 帰りに京浜東北線に乗り、車窓から外を眺めていた。ある景色が呼び覚まされた。
 僕の伯父さんは山梨から上京し、大田区で小さな洋品店を営んでいた。蒲田から数駅向こうの下町の商店街だ。ほんとうに小さな頃だが、あの界隈の風景、商店街や路地や小さなビルの姿がほんのかすかに記憶にうずくまっている。
 昭和30年代の終わりか40年代の始めのことだろう。何かの用事で親に連れられていった。僕が東京に行った初めての記憶かもしれない。

 はちみつぱい『塀の上で』、ムーンライダーズ『くれない埠頭』。橋口亮輔『恋人たち』の舞台の街。伯父さんの店、商店街のかすかな残像。『NOUVELLES VAGUES』のLPジャケット、よく聴いた学生の頃の部屋。入場前の東京タワーの光、会場の同世代の聴衆。過去、現在、風景がゆるやかに旋回する。

 鈴木慶一の「45周年記念ライブ」は、僕という一人の聴き手にとっても、時をさかのぼる一日、年末の一日だった。

2016年1月8日金曜日

ライブハウスの原点の「場」を作った男の自伝

 今は地方都市でも、ライブハウスや時にライブを行うカフェなどがあり、音楽の実演を聴く「場」が日常の延長上にある。

 僕が上京して学生生活を始めた1977年にはすでに、東京のような大都市では各スポットごとに何軒かのライブハウスがあった。現在に比べればその数はとても少なかったが、情報誌の『ぴあ』や『シティロード』のライブ情報をチェックして、興味のあるバンドのライブに行くというスタイルが広がり始めた。音楽好きの「お上りさん」青年の一人である僕も、記憶をたどると、渋谷の屋根裏、新宿ルイード、吉祥寺の曼荼羅などに出かけた日々が思い浮かぶ。
 中でも強く印象に残っている場はやはり新宿ロフト。1980年前後の「東京ロッカーズ」の拠点でもあった。中でも「フリクション」のギグ(当時はそんな風に呼んでいた)。その音は、こちらの具合が悪くなるほど強烈だった。「場」と音楽の記憶は切り離せない。

 70年代前半、日本語ロックの創世記を代表するバンド、はっぴいえんど、はちみつぱいの拠点の「場」として、渋谷BYGがあった。
 僕が東京にいた頃にはすでにライブの公演はなかったので、その存在すら知らなかった。かなり後になってから、日本語ロックの重要な場であったことを知識として受けとったにすぎない。このblogで何度も言及や引用させていただいている音楽評論家の浜野サトル氏がレコード係として勤め、ジャズのライブの企画もしていたことも書籍を通じて知った。

 どのような場であったのか。これはやはり浜野氏自身の言葉を引いてみたい。「二五年目の聴き手へ」(浜野サトル『新都市音楽ノート』)という文に次の記述ある。

 『風街ろまん』が世に出た七一年は、はっぴいえんどのマネージャーであった石浦信三を中心につくられたマネージメント集団「風都市」が、東京・渋谷にできた店BYG(ビグ)を拠点に新しい活動を始めた年でもあった。喫茶店であると同時に玄米食のレストランでもあったBYGは地下にライブ・スペースをもっていて、彼らはそこで当時のおもだったフォーク&ロックのミュージシャンたちを総ざらいしたといっていいプログラムを組み、連日、ライブを提供しはじめたのである。
 BYGをライブハウスの先駆けにしたこの活動は、大きな影響力をもった。閑古鳥の鳴く日もないではなかったから、出演して得られる金銭はミュージシャンたちの生活の基盤にはとてもならなかっただろう。しかし、ある出演者の音楽の魅力が噂で広まると、その客席にはレコード産業を中心とした音楽関係者がずらり顔を並べた。やがて、そこから一人また一人とシンガー、ミュージシャンがピックアップされ、レコード・デビューを飾っていく。BYGの地下は、発足まもなくして音楽産業に新しいタレントを供給する装置となっていったのである。


 渋谷BYGが日本語ロックの始まりの場の一つであるとと共に、若者の「都市音楽」を「音楽産業」という新しいビジネスへ供給する場と化していくことの貴重な証言にもなっている。ここで触れられている「風都市」については、氏が編集に加わった『風都市伝説 1970年代の街とロックの記憶から』 (CDジャーナルムック、音楽出版社 、2004/4/9)に詳しく紹介されている。

 しかし、この書籍やネットで読める資料を読んでも、渋谷BYGそのものの歴史、特にそのライブスペースがどのように生まれ、どのような経緯で日本語ロックの重要な場となり、短い時間で終わりを迎えたのかはよく分からなかった。
 渋谷BYGは一種の謎のような場だったのだが、その謎が解けるblog『人生の心の引き出し ―サヨナラを残して―』が最近誕生した。(浜野氏の文「人生の心の引き出し」にその経緯が記されている)

 blogの説明に「新宿ピットイン、渋谷BYGを作った男、酒井五郎が遺した手記を公開していきます」とあるように、この手記の書き手であり主人公である一人称「おれ」は「酒井五郎」。入力者の浜野氏によって毎日更新されているが、彼の自伝、歴史物語はまだ始まったばかりだ。
 内容も文体もまさしく「ハードボイルド」調。連載小説を読むように、面白く痛快だ。(と書いたが、小説ではなくあくまで実話、自伝なのだが)
 そしてすでに、現実の軋みや時代の苦さのようなものも伝わってくる。

 日本のジャズそしてロックのライブハウスの原点にある「場」が、新宿ピットインと渋谷BYGだ。その二つの場を作った男の物語を読むのが日々の愉しみとなっている。
             

2016年1月5日火曜日

桜座という「場」

 志村正彦の歌を中心とするblogを設けているにも関わらず、正直に言うと、僕は日常の中でいつも音楽に接しているタイプの人間ではない。音楽、特に歌を聴く時間はそのことに集中したい。だから、生活の中の一部の時間を切り取り、音楽に向き合うことになる。それゆえ、ほとんど聴かない日が続くこともある。しかし、ライブについては、その場その時という「一回性」があるので、関心の高い音楽家については、できるかぎり時間を作って出かけるようにしている。山梨開催のものは特に。

 昨年の暮れ12月は、13日富士吉田リトルロボットでの佐々木健太郎&下岡晃、20日東京メルパルクホールでの鈴木慶一(45周年記念ライブ)、26日甲府CONVICTIONでのTRICERATOPS(“SHOUT TO THE STARLIGHT TOUR”追加公演)、29日甲府桜座での三上寛(「深沢七郎の世界観」ライブ)と半月ほどの間に、色々な場所に行った。中高年世代ゆえにけっこうきついものがあるが、「一回性」を逃したくないとこのような次第になる。(我ながら少しあきれてしまうが、行けるうちは行かなきゃね)いずれも様々なことを感じ、そして考えさせられた。(鈴木慶一、和田唱・TRICERATOPS、三上寛のことは後日書いてみたい)

 音楽を生で聴く場合、当然のことだが、それを聴く「場」が重要になる。
 甲府で暮らしている僕にとって、現在最も身近で大切な場が「桜座」だ。その桜座は2005年6月にオープンしたので、昨年、創立十周年を迎えた。

桜座・入口(2015年5月末撮影)

 桜座という場の魅力についてはこのblogで何度も触れてきた。オーナーの丹沢良治氏は、山梨の地場産業である貴金属業を営み、甲府で新しい街作りも進め、最近は甲府駅北口に「甲州夢小路」を展開している。
 桜座の企画や運営を担当しているのは事務局長の龍野治徳氏。地元のメディアで取り上げられたこともあったので、「新宿ピットイン」のマネージャーだったことはおぼろげに知っていたが、実際の経歴については知らなかった。ところが、昨年11月、浜野智氏のblog『毎日黄昏』(昨年末から休止中だがアーカイブを読むことはできる)の「桜座の怪物くん」を読んで、新宿というジャズの場における龍野氏の経歴や人柄の一端を知ることができた。浜野氏との交流の場面も愉快だ。

 ネットで調べてみた。90年代後半、富士見高原(長野にあるが、山梨との県境に近い)で夏に「八ヶ岳PARTY PARTY」というジャズフェスティバルが開催されていた。僕も二度ほど行った。富士見高原というあまり観光地化していない「場」であることがよかった。緑につつまれた清々しい場に、これまた商業主義的な感じがあまりない運営という組み合わせが、くつろげる雰囲気をかもしだしていた。

 好みの音楽家が多く出演し、特に森山威男(山梨の勝沼町生まれ、甲府で高校時代を過ごす)やDavid Murrayの演奏が印象深かった。(僕はDavid Murrayのサックスのファンだった。通り道を歩いていたら彼が佇んでいたので、握手してもらった。にこやかな顔、やわらかい手の感触をよく覚えている)その企画や運営を担当していたのも龍野氏のようだ。その頃から山梨に縁があったのだろうか。このジャズ・フェスティバルは確か99年を最後に(記憶が違っているかもしれないが)終わってしまい、すごく残念だった。

 この十年間で、桜座が甲府にもたらしたものはHPの「過去の公演」の記録を見ると一目瞭然だ。龍野治徳氏の力によるところが大きいのだろう。
 しかし残念なのは、地元の聴き手が少ないという現実だ。東京に近いということもあった関東圏からの客が多い。そのことはそのことでむしろ歓迎すべきなのだが、それに加えて山梨の方がたくさん来場するようになれば、より理想的な場となるだろう。

 今年は桜座でどんな出会いがあるのだろうか。

2015年12月31日木曜日

三つの系列-『若者のすべて』20[志村正彦LN118]

 『若者のすべて』についての「批評的エッセイ」の連載も今回で20回目を迎える。関連した回を含めると25回を数える。

 三年前、2012年12月末、富士吉田で『若者のすべて』のチャイムを聴いたことが契機となり、翌年3月にこの歌について書き始めた。6月からは、「ー『若者のすべて』1」というように付番しながらシリーズとして展開していった。2013年は12回まで終えた。
 夏になるとこの歌が話題となる。だから、夏に書き出し、秋や冬の始まりの頃までに書き終わるというのが習慣のようになってしまった。昨年は13回から15回まで、今年は16回から今回の20回まで書くことになった。

 冒頭で記したように、筆者としては「批評的エッセイ」の試みとして書いてきた。歌詞の語りの分析や資料に基づく考察を書く「批評的」側面と、「私」あるいは「僕」という聴き手を通した経験、風景や出来事から触発された想いを述べる「エッセイ」的側面。その二つを追求しようとした。その意図が実現しているかどうかは心もとないが、何か新しいことを試みることがこの連載を続けるモチベーションになっている。

 2015年、今年は、柴崎コウのカバーの話題から始まった。初の女性ボーカルによるカバー。この歌が女性によって歌われることで、この歌の新しい風景が描かれた。 
 10月10日には、フジテレビ『MUSIC FAIR』で、柴咲コウと現在のフジファブリックがコラボレーションしてこの曲を演奏した。柴崎から、現在のボーカル山内総一郎へとリレーしていった。キーが変わる演出には少し驚いた。伊東真一(HINTO、堕落モーションFOLK2)がギターのサポートをしていたのは嬉しかった。彼は「大好きな曲をまたみんなと演奏させてもらえて幸せでした。」とtwitterで呟いていた。

 この日最も印象に残っているのは、柴咲コウの帽子姿。グレー色のハットを被り、綺麗な声で歌っていた。すぐに、志村正彦の帽子姿が浮かんできた。
 彼は、2006年12月の渋谷公会堂のステージでハットをたまたま被り出したそうだ。それ以来、ライブ映像でもアーティスト写真でも帽子姿が多くなる。「晩年」という言葉をあえて使うが、晩年の志村正彦と帽子、その印象は不思議なほど結びついている。記憶に強く残る。

 まだ数日前のことだ。25日クリスマスの夜、テレビをつけて、BSチャンネルをupさせていくと突然、「街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ」という声と字幕が耳と目に飛び込んできた。『若者のすべて』だ。槇原敬之が歌っていた。データを見ると、BS-TBSの『槇原敬之 Listen To The Music The Live ~うたのお☆も☆て☆な☆し』という番組だった。この放送のことは全く知らなかった。途中からなのが少し残念だったが、たまたま見られたことを喜んだ。

 内容は昨年発売された同名のDVDの映像と同じようだが、BSとはいえ、テレビというメディアで放送されことは嬉しい。より多くの人がこの歌を知るきっかけともなるからだ。ネットで調べるとこの日が初放送らしい。志村正彦の命日の12月24日の翌日の放送というのは単なる偶然だろうが、この偶然にも感謝したい。ファンにとっては思いがけない贈り物となった。
 槇原敬之はやはり上手い。言葉を丁寧に扱う。彼の歌う『若者のすべて』は、少し情けないところもある男のブルースのようにも聞こえる。

 2015年の現在、『若者のすべて』は柴咲コウや槇原敬之という時代を代表する歌手にカバーされ、テレビで放送されるなど、高く評価されている。最近、フジファブリックと同世代のバンド、THE BACK HORNもライブでカバーしたそうだ。
 すでに若者の歌、夏の歌の「定番」ソングのようにして親しまれている。しかし、発表当時はそうではなかった。
 「Talking Rock!」2008年2月号のインタビュー(文・吉川尚宏氏)を連載の前回部分と一部重複するが引用したい。志村はこう語っている。


ある意味、諦めの気持ちから入るサビというのは、今の子供たちの世代、あるいは僕らの世代もそう、今の社会的にそうと言えるかもしれないんだけど、非常にマッチしているんじゃないかなと思って“○○だぜ! オレはオレだぜ!”みたいなことを言うと、今の時代は、微妙だと思うんですよ。だけど、“ないかな/ないよな”という言葉から膨らませると、この曲は化けるかもしれない! そう思って制作を再スタートさせて、精魂込めて作った曲なんだけど………なんていうか……こう……自分の中で、達成感もあるし、ターニングポイントであることには間違いないんです。すべてに気持ちを込めたし、だから、よし!と思ってリリースしたんだけど、結果として、意外と伝わってないというか……正直、その現状に、悔しいものがあるというか…


 「精魂込めて作った」「達成感もある」「ターニングポイントである」「すべてに気持ちを込めた」というような過剰な表現を、志村はインタビューであまり使ったことがない。それほどこの作品は彼にとって重要なものだった。皮肉なことに、「意外と伝わってないというか……」の「ないというか……」にはこの歌のモチーフでもあった「諦めの気持ち」に近いものも読みとれる。悔しさ、やるせなさのようなものが素直に述べられていて、痛々しい感じさえする。

 確かに、シングル『若者のすべて』やアルバム『『TEENAGER』のレビューをいくつか読んでみても、この作品は少なくとも現在ほどの評価は得ていなかった。良い作ではあっても、フジファブリックらしくないというような声があったようだ。歌詞にしろ楽曲にしろそれまでの作風とは幾分か異なっていたので、ファンもどう受け取っていいのか分からなかった可能性もある。
 なぜ『若者のすべて』が、志村が込めた「すべて」の想いほどには、受け入れられなかったのか。この問いに対しては、事実がそうであった、という現実を確認することしか今のところはできない。(これについてはいつか考察してみたいが)

 しかし繰り返すが、今日、この歌はたくさんの聴き手を得ている。若者だけでなく、多くの世代から支持されている。結果として、この歌が人々に届くまでには「時」が必要だった。
 安部コウセイは 『MUSIC FAIR』放送後のtwitterで「若者のすべては時代を越えていく曲ですね」と呟いた(10月10日@kouseiabe)。
 来年になればまた新たな聴き手そして歌い手を、この歌は獲得していくにちがいない。「時」が必要だった分だけ、それ以上に、はるかに、「時」を超えて、この歌は生き続けていく。
 今回は20回目という区切りになるので、公式サイトからミュージックビデオをこのblog上では初めとなるが紹介したい。




 歌の解釈や分析は、論者の設定するモチーフや系列、分析の枠組によって変化していく。この論は、あたりまえのことであるが、私自身による試論であり私論にすぎない。誰もが多様に自ら読みとることができる。
 歌は開かれている。歌は自由だ。

 今年は戦後70年を迎えた。若者たちによって新しい運動も起きた。社会の現実に向き合うことは私たちの権利であり、それ以上に義務である。義務であるからこそ、時間をかけて、対話する必要がある。多様な視点から深く考えることが、社会や世界の方から私たちに向けて要請されている。

 先の引用にあるように、『若者のすべて』の「ないかな ないよな」には世代や社会に対する問いかけも含まれていた。そうであれば、「世界の約束を知って それなりになって また戻って」という歌詞の一節もより広い文脈や背景の中で捉え直すことができる。「世界の約束」という言葉の重みも増してくるだろう。「運命」や「途切れた夢」という表現も別様の解釈が生まれる余地もあるかもしれない。
 
 私は、第1回から12回まで、「すりむいたまま 僕はそっと歩き出して」に収束される、歌の主体「僕」という一人称単数で指し示される「一人」「単独者」の歩行の系列と、「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」に集約される、「僕ら」という一人称複数で示される「二人」の再会、その背景にある「花火」を巡る系列という、二つの系列という枠組でこの歌を分析してきた。

 今年の考察ではその二つに加えて、「世代」「社会」という第三の系列を見いだすことができた。資料の読み直しによるものだが、現実からの触発もあった。
 志村正彦は、「僕」と「僕ら」を超えてそれを包含するものとしての「世代」、それが直面する「社会」という視点をある程度までこの歌に込めたと言える。

  「僕」、「僕ら」、「世代」という三つの系列が『若者のすべて』の「すべて」を構成している。20回目の今回、そのような考えにたどりついた。
 この歌になぜ「若者」「の」「すべて」という題が付けられたのか、その問いに対する一つの答えが少しだけ見えてきたのかもしれない。

2015年12月27日日曜日

佐々木健太郎、「世界は幻」から「世界の果て」へ。

 富士吉田での佐々木健太郎&下岡晃の弾き語りライブの話に戻りたい。

 下岡が十曲ほど歌った後、佐々木健太郎のステージが始まった。「Almost A Rainbow スウェット」を着て登場。立って弾き語りをするので姿がよく見える。
 今年は8月のハーパーズミル、10月の桜座、そして12月のリトルロボットと、三度目の佐々木健太郎だ。四ヶ月の間だが、季節は夏、秋、冬と移り変わった。季節や場所、人の組み合わせによって、歌の感触も異なる。

 最初は『Tired』。最新作『Almost A Rainbow』の曲だ。美しいがややかげりのある声で歌われる。

  Ah 世界の果てで眠っていたいな
  LaLaLa
  Ah 世界の果ての扉を閉めて
  LaLaLa


 このライブに先立ち、Analogfishと佐々木健太郎の作品を繰り返し聴いた。特に歌詞を初期から現在まで読みこんだ。「世界」は、佐々木が反復するモチーフだ。前回紹介した『クリスマス・イヴ』にも「傷だらけの世界」という表現がある。
 「世界」という語彙は日本語ロックやJポップでよく使われているが、そのほとんどはクリシェだ。十年以上前に流行した所謂「セカイ系」の影響かもしれない。安易な濫用が目立つが、佐々木の場合は異なる。「世界の果て」は彼の持続するモチーフから生みだされた言葉だ。

 ソロアルバム『佐々木健太郎』中の『STAY GOLD』には、「思春期にさまよった世界の扉は閉ざされ続けたまま」という一節がある。この「世界の扉」は世界への入口の扉を指すのだろうが、「世界の果ての扉」は世界の果てへの入口の扉、ある意味では世界からの出口の扉というように読める気がする。歌の主体はその扉を閉める。その上でその場所で「眠っていたいな」と想う。
 例えば『おとぎ話』(『佐々木健太郎』収録)にも、「おとぎ話を子供の頃に聞かせてもらう前に/見てしまった扉のむこう/サンタクロースや氷の魔女が脱ぎ散らかした衣装目を瞑って扉をしめた」という扉の開閉というモチーフがある。彼の記憶に関わる重要なモチーフなのだろう。

 2曲目『Alternative Girlfriend』の途中からハプニングがあった。ステージでは佐々木一人が歌っているのだが、どこからどもなくコーラスが聞こえてくる。佐々木の声ともう一人の「天の声」がハーモニーをつくる。客は驚いて辺りを見回す。実は、見えない通路の方で下岡がマイクを取っていたのだ。この曲は下岡の作。そのこともあったのか、佐々木ヴォーカル+下岡コーラスという形になった。この後も佐々木・下岡ユニットのスタイルが続いた。

 3曲目は『Good bye Girlfriend』。他に『ガールフレンド』(『ROCK IS HARMONY』収録)という曲もあるので、「Girlfriend」もの三部作ということになるだろうか。佐々木の歌には「Girlfriend」やそのような関係にある「彼女」という言葉がよく現れる。歌の主体からからして、恋する女性あるいは愛する女性が、「彼女」「Girlfriend」というように三人称的な位置にあるときに、彼独自の世界が開けてくる。それらの言葉がメロディの高揚感と溶けあうときに非常に魅力ある歌となる。ある種の屈折が込められてはいるが、それ以上に、華やぎと輝きがもたらされる。(今回はライブについて書いているので、彼の詩の世界については別の機会に譲りたい)

 新曲二つが披露され、『tonight』『will』と続き、『fine』で終わった。とても情熱的なパフォーマンスで、今年見た三回の中では最も素晴らしかった。
 途中のMCで、富士吉田の街を見て僕らの育った飯田市に似ていて、志村君はこういうところに育ったのだと思って、志村君のことがもっと分かるような気がした、という意味のことを語ってくれた。彼の想いが十分すぎるほど聴き手に伝わった。

 各々のステージの終了後、佐々木・下岡の二人がステージに立った。不思議な「天の声」についてのやりとりから始まった。Analogfish誕生期の話。佐々木健太郎が高校卒業後の一年間、長野の喬木村の山奥の家で「ニート」のように引きこもって宅録をしていた。その頃オーストラリアから帰国した下岡がその場に加わった。佐々木が楽器を何でも演奏できたのに対して、下岡が初めはギターを3コードしか弾けなかった。山奥なので大きな音も鳴らせたが、同居していたお祖父ちゃんに迷惑をかけたこと。彼らの小学校には「お祖父ちゃんお祖母ちゃん授業参加日」があったなど、ほのぼのとした話に会場のみんなが和んでいた。他にも、小学校、中学校の時の話、先生の話など色々な話が聞けた。

 話を総合すると、Analogfish(の原型)は佐々木健太郎の一人バンドだったようだ。そこに下岡が加わった。作品も佐々木が中心となって作っていた。やがて「下山」して東京へ。そして斉藤州一郎が加わり、今のバンドになった。聞き書きなので正確であるか分からないが、おおむね、それが真実らしい。それにしても、長野の山奥で、志と才能のある二人、それも資質の異なる二人が出会いバンドを始めたこと自体が奇跡のような気がする。それから十六年の間、きわめて優れた音楽を作り続けている。そんなことをあの場で考えていた。

 二人の歌では、『Nightfever』が忘れがたい。「10年前もそんな事言っていた気がする/20年前もそんな事言っていた気がする」の節回しで、下岡が佐々木のことを「健ちゃんカッコイイ気がする」「カッコワルイと思ったときもあったけど、カッコイイ気がする」「顔立ちはカッコイイと思っていたけど、でもカッコワルイと思ったときもあったけど、カッコイイ気がする」という風に(おおよそ?)続いてループしていく。とても愉快な替え歌に変わるにつれて、会場も和やかな笑いに包まれ、まさしく「ナイト」「フィーバー」した(古い言葉だね)。会場のペレットストーブも身体を暖かくさせた。何よりも、佐々木と下岡、二人の関係のあり方が熱源となって、心がすごく暖かくなった。こんなにも暖かいものに包まれたライブの経験は他にない。

 最後の最後のアンコールでは、二人の唯一の共作と紹介されて、『世界は幻』が佐々木によって歌われた。

  小生 男としても 「地下室の手記」的思想
  べつだん 何不自由も無い
  すりガラスごしに見る 世界が幻だ


 高揚した気分が、良い意味で少しクールダウンし、現実に戻されていった。
 佐々木はドストエフスキーを愛読しているようだ。山奥の宅録の場も一種の「地下室」だったのだろう。地下室から「すりガラスごし」に見えるかもしれないのが「世界」だ。「世界は幻」から『Tired』の「世界の果て」へ、佐々木健太郎は世界から世界へと横断していく。


 今回のライブについて、この場を借りてあらためて、主催者の勝俣氏に感謝を申し上げます。(この「偶景web」のこともツイートしていただき、重ねてありがとうございました)

 佐々木、下岡の両氏からは、次はAnalogfishの三人で来たいねという言葉もありました。富士吉田の街が、現在の優れた日本語ロックが歌い奏でられる場になる。その夢がかなえられることを祈ります。

2015年12月23日水曜日

佐々木健太郎『クリスマス・イヴ』

 12月の初めの土曜日、ある約束を果たすために札幌に行ってきた。

 夜、街を歩く。時折、雪が舞い降りてくる。昼はビルの間で窮屈そうな時計台が、雪の光をあびて、清らかに輝いていた。斜め左側から写真を撮った。




 佐々木健太郎のソロデビューシングル『クリスマス・イヴ』。
  2013年12月、北海道ではCMソングにもなったようだ。そうすると、二年前の札幌ではこの歌が流されていたのだな、そんなことを想う。
 Official Music Videoがあるので紹介させていただく。(うかつにも今日まで、映像中のサンタクロースが下岡晃らしいことに気づかなかった。そういえば歌の中の「サンタクロース」と「パパ」は友達だった)



 
 歌詞の一節を引きたい。

   傷だらけの世界が
   今夜だけは癒されていくみたいに街が華やいでいく
   
               (佐々木健太郎『クリスマス・イヴ』)

 歌も、世界の傷を癒す華やぎのようなものを私たちに与えてくれる。12月24日、クリスマス・イヴの日には特に。

 

2015年12月19日土曜日

継がれていく『茜色の夕日』[志村正彦LN117]

 今日12月19日から27日まで、富士吉田の夕方5時のチャイムが、志村正彦・フジファブリックの『茜色の夕日』に変わる。彼がこの歌を作るために音楽家になったという作品のメロディが故郷で奏でられる。

 富士吉田市役所によって2011年12月から始まり、もう八度目になる。行政の試みとしては特筆すべきものだ。これからの地域と音楽との関わり方の具体例のひとつを示している。当然、市民の中には、志村への想いがある人もいれば、彼のことを全く知らない人もいるのだろうが、そのことを離れてみても、この楽曲の調べそのものが美しく、どこか郷愁を誘う。冬の吉田の空と冷たい外気によく合う。
 
 前回は、13日、下吉田のリトルロボットで下岡晃が歌った『茜色の夕日』について書いた。佐々木健太郎も二年前の12月に歌ったことがあるそうだ。
 「TOTE(トート)」という音楽サイトに掲載された記事「2013.12.15 三重・四日市 カリー河 佐々木健太郎(アナログフィッシュ) 弾き語りソロライブ REPORT」[2014.01.14](文/撮影:山岡圭) を引用させていただく。

「一昨日、GO FOR THE SUNというイベントを、フジファブリックとHINTOとで8年ぶりにやりました。楽しかったけど、志村くんがいたらもっと楽しかった。だから今日はフジの曲をやります」と言って、『茜色の夕日』。2009年に急逝したフジファブリック・志村正彦の歌を、言葉をしっかり掴み取るように丁寧に歌い込む。歌はこうやって彼を想う仲間によって継がれ、いつまでも鮮やかな色を放つ。そしてそれを聴ける幸せを噛み締めた。

 筆者の山岡氏が言うように、『茜色の夕日』は歌い継がれ、語り継がれ、吉田ではチャイムとなって、今もおそらくこれからも人々の記憶に残り続ける。

 佐々木健太郎が言及している「GO FOR THE SUN」のイベントは、2005年、アナログフィッシュ、フジファブリック、SPARTA LOCALS(作風は異なるが実質的な後継バンドがHINTOになる)の三つのバンドの合同企画によって行われた。2005年11月23日、恵比寿のLIQUIDROOMで開かれたファイナルのアンコールでは、あの『今夜はブギーバック』(スチャダラパー+小沢健二)が歌われた。その映像がyoutubeにあり、すでに二十二万回を超える再生回数となっている。志村ファンにとってはもうなじみの映像であろうが、この機会にここでもリンクさせていただく。



 
 小沢健二のパートを志村正彦と佐々木健太郎が歌い、スチャダラパーのパートを下岡晃と安部コウセイ(SPARTA LOCALS、現在はHINTO・堕落モーションFOLK2)が語っている。3バンドのボーカル4人の共演。貴重な動画だ。佐々木、下岡晃、安部が堂々としているのに対して、志村はステージの端の方にいて、終始、真中の方を斜め目線で見ながら控えめに歌っている。途中で工藤静香の「L字」の振り付けらしきものを披露する。なんだかヘンテコで、フロントマンらしからぬ振る舞い。「ここにあらず」という風情が彼らしいといえば彼らしい。とても愉快な映像なのだが、見るたびに哀しくなるところもある。

 2005年11月のライブなのでちょうど十年になる。アナログフィッシュとHINTOの作品は、その言葉も楽曲も、あの頃よりさらに深化している。

 志村正彦は同時代のバンドとしてアナログフィッシュを高く評価していた。
 LOFT PROJECT"Rooftop"掲載の「メレンゲ×フジファブリック:ヴォーカリスト対談 クボケンジ(メレンゲ)×志村正彦(フジファブリック)ー新宿ロフトで出会い、共に“SONG-CRUX”卒業生の2人が語る内なる“ロック”的なもの-」[2004.11.15]でこう述べている。

志村 学生の頃は冴えなくて、引きの感じなんですよ。いろんな人に憧れてばかりで。でも、僕はバンドをやり始めて、曲を作っていく上で“いい”って言ってくれる人がいて、プラス思考になって。それで、音楽は辞められないなって思った。自分のなかでそういったことを感じられたことがロックだなって。音楽人生、みたいな
 (中略)
志村 ステージに立った瞬間に何か“ボン”と出るものがあって。いつもは出ない何かが出るものがあって。観る人はそういった人に興味ありますね
──最近、同世代でそこまでの凄さを持ったロックの人って思えば少ないよね。
クボ 突出したものは少ないのかな? って思うことはあるよね
志村 同世代だとアナログフィッシュとか
クボ そうだね、凄いものを感じる

 2010年7月の「フジフジ富士Q」以来、同世代の仲間の音楽家が志村の故郷で彼の作品を演奏したことはなかったように思う。下岡晃は『夕暮れ』から『茜色の夕日』へと何かをリレーするように歌った。ことさらに言葉として発言するのではなく、その人の歌を歌うというのは音楽家にしかできない行為だ。ひとつの追悼のあり方だろう。

 先ほど、今日のチャイムの映像がkazz3776さんによってyoutubeにUPされていることを知った。僕のように行けなかった人にとってはとても有り難い。




 富士急行線から下吉田駅そして富士山へとカメラがパンしていく。電車や車の音も入っているが、逆に土地の生活の匂いがして良い。深い青の空に富士の稜線が綺麗に浮かんでいる。最後に月も写っている。今日、山梨は快晴だった。天気にも恵まれ、この映像は今までのチャイム映像の中でも最良のものだろう。

 今回は、下岡晃、佐々木健太郎、各々の『茜色の夕日』と、今日の夕方5時の『茜色の夕日』のチャイムに触発されて書いた。ことごとしく書くのは下岡氏と佐々木氏の「志」に反しているかもしれないが、山梨での志村正彦に関わる出来事はできるだけ「記録」として書き残していくのが、このblogの役割だとも考えているので、ここに記させていただいた。

2015年12月17日木曜日

下岡晃(Analogfish)、『夕暮れ』から『茜色の夕日』へ。

 外から夕方5時のチャイムが聞こえてくるとまもなく、下岡晃の登場。椅子に座り、アコースティックギターを奏でる。

 カバー曲だろうか、知らない歌から始まった。続いて『GOLD RUSH』。「シャッターばかりが異様に目立つ駅前通りをゆっくり流す」と歌い出される。彼の故郷近くの飯田市と富士吉田市の街並みが似ているというMC。今はシャッター通りという共通性もあるのだろう。
 数曲を経て、「胸骨と胸骨のすき間に 真ん丸い大きな穴が あいたので」という無気味な言葉が抑揚のない語りのように歌わる。『夕暮れ』だ。

  「夕暮れです 夕暮れです 夕暮れ」って サイレンが サイレンが鳴る
  夕暮れ 死者数名。

  夕暮れのオレンジの粒子が 蒸発して
  反射して 光ってる様が好きなんだ。

 「夕暮れ」は、視覚というよりも聴覚を刺激する音として表されている。サイレンが鳴り、「死者数名」と告げる。サイレンの音とオレンジの光が乱反射して、生と死の境界が踏み越えられる。生きる場が「グラグラ」と揺らいでいる都市生活者の静かな悲鳴のように「夕暮れ」が連呼される。つかの間、すぐに次の歌が始まった。

  茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すことがありました

 『茜色の夕日』だった。突然、「志村正彦」という名も『茜色の夕日』という名も触れずに歌い出された。予想外の展開に、どこか緊張感のようなものが生まれた。この歌が、他ならぬ富士吉田でそして下岡によって歌われたという驚き、喜び、そして哀しみを伴う複雑な感情と共に。

 引用でそのまま記したように、下岡は意識的にか無意識的にかあるいは単なる錯誤か分からぬが、「思い出すこと」と歌った。志村は「思い出すもの」と書いた。「もの」か「こと」か、その差異が気になり、歌を追うことが少し遅れてしまう。(このことは機会を改めて書いてみたい)僕の位置からは彼の表情はうかがえない。なんとなく直視できないような気持ちもあり、耳を澄まして聴くことに集中した。
 次第に、声に力が込められていく。

  僕じゃきっとできないな できないな
  本音を言うこともできないな
  無責任でいいな ラララ
  そんなことを思ってしまった

 記憶の中の聴き取りを言葉にしてみた。「無責任でいいな ラララ」はひときわ大きく、高く、強く歌い上げられた。『茜色の夕日』が下岡晃の声と息によって命を吹き込まれたように感じた。歌い終わると、ぼそっと「いい歌だね」と呟いた。そこで終わった。
 結局、志村の名も曲名も何も言われなかった。沈黙のままに、沈黙のままだからこそ、伝わるものがある。そのことが歌い手と聴き手の間に共有されていた。


 歌だけが存在していた。だからこそ、不在の志村正彦が存在していた。


 下岡のライブは、現在の状況と対峙する『抱きしめて』でひとまず閉じられた。淡々とした歌い方が続いたが、クールな熱情とでもいうべきものが強く感じられた。
 下岡晃・アナログフィッシュの『夕暮れ』と志村正彦・フジファブリックの『茜色の夕日』。オレンジ色の風景と茜色の風景。
 人工的な「オレンジ色」は、都市生活者の憂鬱や悲哀が熱をおびて発光しているかのようだ。それに対して「茜色」は、「子供の頃のさびしさが無い」「短い夏」、「見えないこともない」「東京の空の星」という季節や風景、迂回された形で描かれる自然を想起させる。下岡と志村の資質や世界は異なるが、きわめて優れた「都市の歌」の作り手、歌い手としての同時代性がある。

 2015年12月、富士吉田のリトルロボット。
 下岡晃は『夕暮れ』から『茜色の夕日』へと、大切なものをリレーして走り続ける走者のようだった。

   (この項続く)

2015年12月14日月曜日

佐々木健太郎&下岡晃(Analogfish)ツアー、富士吉田・リトルロボット。

 昨夜、12月13日、富士吉田のリトルロボットで開かれた佐々木健太郎&下岡晃の「真夜中の発明品ツアー ~虹のない人生なんて~山梨編ツアーファイナル!!~」に行ってきた。
 
 小雨が降るあいにくの天気の中、甲府から御坂峠を抜けると、そこに見えるはずの富士山はやはりない。山梨県民の僕らはまあよいのだが、県外から来られた方は残念なことだろう。新トンネルのおかげで今日も1時間ほどで吉田に着く。新倉山浅間神社近くの「しんたく」で吉田うどんをいただく。いつもは何も入っていないかけうどんだが、天ぷらうどんにした。寒い時期はこってりした野菜天ぷらが美味しい。身体もほかほかしてくる。

 開演時間まで間があるので、春にリニューアルオープンした「ふじさんミュージアム(富士吉田市歴史民俗博物館)に寄る。駐車場から博物館までの並木のある道沿いに富士講信者の宿坊「御師の家」が移築されている。霧雨が煙る中、この道が博物館へのアプローチになっている。江戸時代に時をさかのぼるような気分になる。

 博物館の展示は、最新の映像技術を駆使して、親しみやすく分かりやすいものになるように工夫されていた。「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」という視点で世界文化遺産になったためか、歴史民俗の博物館の性格を強めているのだろう。初めて知ることも多く勉強になった。
 甲府で暮らしているが、であるがゆえにか、にもかかわらずと言うべきだろうか、富士山や吉田はやはり少し遠い存在であり、まだ知らないことの多い場であることを再認識できた。富士吉田に行かれる方はぜひ見学されることを勧める。

  博物館を出て北口本宮冨士浅間神社の前を通り、右折。富士道、本町通を、上吉田から下吉田へと下っていく。先ほどの展示室の地図にあった御師の家跡が左右にところどころある。江戸時代のにぎわいを想像する。吉田という街並みそのものに江戸の文化が染み通っているのかもしれない。
 前回書いたことだが、浜野サトル氏はblog『毎日黄昏』で志村正彦の歌を「都会の少年の詩」だと読みとっている(「響き合い」)。通りを下りながらその指摘が浮かんできた。確かに、彼の詩には「街」や「路地裏」の雰囲気が漂う。
 吉田と江戸。富士講や登山のつながりによる歴史的な関係。近代に入ると、絹織物の産業による東京や横浜との交易。その記憶や残像のようなものがどこかで志村少年に作用していたのかもしれない。

 金鳥居を過ぎ、下吉田の街へ。シャッター街と化してしまった通りの中で「リトルロボット」を見つける。月江寺近くのこの地域にはまだ少し活気がある。通りを少し下って「TORAYA」に寄り、ショートケーキを二つだけ買う。近くに駐車して会場に入った。
 「リトルロボット」はこの通りの空き店舗を改装して造られたコミュニティカフェで、ペレットストーブの展示販売もしているそうだ。様々なイベントの場となることも目指していて、今回、「どうしておなかがすくのかな企画」の勝俣さんが佐々木健太郎・下岡晃の両氏に呼びかけてこの企画が実現した。彼は甲府の桜座やハーパーズミルでも素晴らしいライブを主催している。仕事を持ちながら、山梨で音楽を聴く場を広げようとしている「志」のある方だ。以前から富士吉田でこのような企画を考えていたようで、ようやく実現することになり、とても喜ばしい。
 会場は気持ちのいい空間だった。ペレットストーブも焚かれていて、あたたかい。座席は四十ほどで満員だった。このライブが告知されるとすぐに売りきれとなったそうだ。

 今年は8月にハーパーズミルで佐々木健太郎と岩崎慧(セカイイチ)、10月に桜座でanalogfish(佐々木健太郎・下岡晃・斉藤州一郎)とmools、そしてこの12月にこの場所で佐々木健太郎と下岡晃を聴くことになった。
 いろいろと感じ、考えることも多かったので、二人の歌については次回以降具体的に書くことにしたい。それでも全体の印象を簡潔に書くとすると、とてもとても素晴らしい歌の会であり、一日経った今も、その余韻が残り続けている。
 佐々木健太郎と下岡晃という現在の「日本語の歌」の歌い手、作り手として最高の水準にある二人が各々そしてコンビとして歌うのを間近で聴くという贅沢な時間を過ごすことができた。上手に形容できないのだが、これまでの僕のライブ経験の中で最も、とてもあたたかいものが心にしみこんでくる「歌の会」だったと言える。

 そして、下吉田という場で開かれたこのライブには、ことさらに言われるのではなく、その名の宣伝という形もとられずに、それでもみんなの想いとしてひそかに共有されているものとして、志村正彦という不在の存在があった。

   (この項続く)