I, I can remember Standing, by the wall And the guns, shot above our heads And we kissed, as though nothing could fall And the shame, was on the other side Oh, we can beat them, forever and ever Then we could be heroes, just for one day
5行目の「the shame, was on the other side」という一節は全く抜けていた。この「the other side」という言葉と、今朝の新聞記事が伝えた壁崩壊前の状況とが何となく結びついてしまう。「the other side」は何を指し示しているのか。具体的な状況としては、やはり、壁の向こう側と捉えることができるのか。あるいは違う背景があるのか。そもそも、「the shame」の意味が難しい。
さらに、このブロックでは「we could be heroes」と歌われていることに、迂闊にも初めて気づいた。この歌ではすべて「we can be heroes」と繰り返されていると思いこんでいた。僕の拙い英語力でも、「can」と「could」ではニュアンスが異なることくらいは分かる。一般的には「could」の方が実現の可能性は低くなるだろう。(ここで明確に説明できる能力はないが)
その夜、NHKホールで「Low and Heroes World Tour」が開かれた。日本ツアーの最終日だった。終了後、コンサートでBowieが被ったのと同じ帽子姿の女の子がたくさん公演通りを歩いていた。華やいだ高揚した気分にあの日の聴衆は満たされていた。何かこれまでとは次元の違う経験をしたという悦びが渦巻いていた。
37年前のことだ。さすがに記憶が薄れている。ネットで調べると、当日のセットリストを記している方がいた。さらに、NHKが「ヤングミュージックショー」で放送した短縮版の1時間番組がyoutubeに「David Bowie - Tokyo 12-12-1978」として upされていることを知った。有り難い。(著作権の問題はあろうが、貴重な音楽の記録として皆に共有されるのは意義がある)
あの日のライブの感触が少しよみがえってきた。
僕は確か二階席後方の右側にいたはずだ。奥行きのあるホールゆえ、かなり前にステージがある。後方に蛍光管のようなものが縦に数十本置かれている。重厚で陰鬱なシンセサイザーの音がホールの地を這うように広がっていく。『Warszawa』。それまで経験したことのない音と演出に聴衆は静まりかえっていた。次は『Heroes』。歌物が始まり、聴衆も少しずつ日常的な感覚、ある種の落ち着きを取り戻してきた。 「we can be heroes, just for one day」の言葉が強く迫る。youtubeの映像を見ると、記憶よりテンポがゆったりしている。当日は見ることが当然不可能だったBowieのupの表情からはある種の風格すら感じる。その後、ラストに至るまでの展開はほとんど思い出せない。アンコールになると、白い水平帽に似た帽子をつけて登場。背後の蛍光管がフルに点灯し、眩い光に包まれたことを除いては。
未だに、あれだけの高揚感を得たコンサートはない。大方は忘れてしまっても、その感触というか残像は我が身に残っている。
このツアーはその名が示すとおり、アルバム『Low』『Heroes』を中心としていた。その後リリースされた『Lodger』を含め、この三つはベルリン三部作と呼ばれ、Tony Visconti とBrian Eno の協力のもとに制作された。
Tony, Brian and I created a powerful, anguished, sometimes euphoric language of sounds.
一連の表現を「力強い、苦悶に満ちた、時には陶酔をもたらす音の言語」とでも訳せばよいのだろうか。単なる「sounds」ではなく「language of sounds」とあるので、「language」に力点があるのだろう。ある種の「言葉」であり、「様式」「方法」という意味合いもあるのかもしれない。この表現は、1978年12月12日、渋谷NHKホールで聴いた音と声の記憶にそのまま重なる。
確かに、それは強力にうねり、広がる音だった。彼の声は、時には沈鬱さと高揚感を、苦悶と陶酔を、闇と光を、聴衆に与えていた。
世界の、日本の、いわゆる「オルタナティヴ・ロック」の大きな源流が、Bowieの作品、特に『Low』『Heroes』『Lodger』というベルリン三部作にあることは間違いない。
David Bowieがその69歳の生涯を閉じた。「ロック」はかなり前からだが、今、「オルタナティヴ・ロック」も、その輝きを失いつつある。
昨年の暮れ12月は、13日富士吉田リトルロボットでの佐々木健太郎&下岡晃、20日東京メルパルクホールでの鈴木慶一(45周年記念ライブ)、26日甲府CONVICTIONでのTRICERATOPS(“SHOUT TO THE STARLIGHT TOUR”追加公演)、29日甲府桜座での三上寛(「深沢七郎の世界観」ライブ)と半月ほどの間に、色々な場所に行った。中高年世代ゆえにけっこうきついものがあるが、「一回性」を逃したくないとこのような次第になる。(我ながら少しあきれてしまうが、行けるうちは行かなきゃね)いずれも様々なことを感じ、そして考えさせられた。(鈴木慶一、和田唱・TRICERATOPS、三上寛のことは後日書いてみたい)
まだ数日前のことだ。25日クリスマスの夜、テレビをつけて、BSチャンネルをupさせていくと突然、「街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ」という声と字幕が耳と目に飛び込んできた。『若者のすべて』だ。槇原敬之が歌っていた。データを見ると、BS-TBSの『槇原敬之 Listen To The Music The Live ~うたのお☆も☆て☆な☆し』という番組だった。この放送のことは全く知らなかった。途中からなのが少し残念だったが、たまたま見られたことを喜んだ。
下岡が十曲ほど歌った後、佐々木健太郎のステージが始まった。「Almost A Rainbow スウェット」を着て登場。立って弾き語りをするので姿がよく見える。
今年は8月のハーパーズミル、10月の桜座、そして12月のリトルロボットと、三度目の佐々木健太郎だ。四ヶ月の間だが、季節は夏、秋、冬と移り変わった。季節や場所、人の組み合わせによって、歌の感触も異なる。
最初は『Tired』。最新作『Almost A Rainbow』の曲だ。美しいがややかげりのある声で歌われる。
3曲目は『Good bye Girlfriend』。他に『ガールフレンド』(『ROCK IS HARMONY』収録)という曲もあるので、「Girlfriend」もの三部作ということになるだろうか。佐々木の歌には「Girlfriend」やそのような関係にある「彼女」という言葉がよく現れる。歌の主体からからして、恋する女性あるいは愛する女性が、「彼女」「Girlfriend」というように三人称的な位置にあるときに、彼独自の世界が開けてくる。それらの言葉がメロディの高揚感と溶けあうときに非常に魅力ある歌となる。ある種の屈折が込められてはいるが、それ以上に、華やぎと輝きがもたらされる。(今回はライブについて書いているので、彼の詩の世界については別の機会に譲りたい)
佐々木健太郎のソロデビューシングル『クリスマス・イヴ』。
2013年12月、北海道ではCMソングにもなったようだ。そうすると、二年前の札幌ではこの歌が流されていたのだな、そんなことを想う。
Official Music Videoがあるので紹介させていただく。(うかつにも今日まで、映像中のサンタクロースが下岡晃らしいことに気づかなかった。そういえば歌の中の「サンタクロース」と「パパ」は友達だった)
「一昨日、GO FOR THE SUNというイベントを、フジファブリックとHINTOとで8年ぶりにやりました。楽しかったけど、志村くんがいたらもっと楽しかった。だから今日はフジの曲をやります」と言って、『茜色の夕日』。2009年に急逝したフジファブリック・志村正彦の歌を、言葉をしっかり掴み取るように丁寧に歌い込む。歌はこうやって彼を想う仲間によって継がれ、いつまでも鮮やかな色を放つ。そしてそれを聴ける幸せを噛み締めた。
佐々木健太郎が言及している「GO FOR THE SUN」のイベントは、2005年、アナログフィッシュ、フジファブリック、SPARTA LOCALS(作風は異なるが実質的な後継バンドがHINTOになる)の三つのバンドの合同企画によって行われた。2005年11月23日、恵比寿のLIQUIDROOMで開かれたファイナルのアンコールでは、あの『今夜はブギーバック』(スチャダラパー+小沢健二)が歌われた。その映像がyoutubeにあり、すでに二十二万回を超える再生回数となっている。志村ファンにとってはもうなじみの映像であろうが、この機会にここでもリンクさせていただく。