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2016年1月12日火曜日

1978年、NHKホール、David Bowie。

 1978年12月12日夜、渋谷の公園通りは、David Bowieの通りと化していた。

 その夜、NHKホールで「Low and Heroes World Tour」が開かれた。日本ツアーの最終日だった。終了後、コンサートでBowieが被ったのと同じ帽子姿の女の子がたくさん公演通りを歩いていた。華やいだ高揚した気分にあの日の聴衆は満たされていた。何かこれまでとは次元の違う経験をしたという悦びが渦巻いていた。

 37年前のことだ。さすがに記憶が薄れている。ネットで調べると、当日のセットリストを記している方がいた。さらに、NHKが「ヤングミュージックショー」で放送した短縮版の1時間番組がyoutubeに「David Bowie - Tokyo 12-12-1978」として upされていることを知った。有り難い。(著作権の問題はあろうが、貴重な音楽の記録として皆に共有されるのは意義がある)
 あの日のライブの感触が少しよみがえってきた。

 僕は確か二階席後方の右側にいたはずだ。奥行きのあるホールゆえ、かなり前にステージがある。後方に蛍光管のようなものが縦に数十本置かれている。重厚で陰鬱なシンセサイザーの音がホールの地を這うように広がっていく。『Warszawa』。それまで経験したことのない音と演出に聴衆は静まりかえっていた。次は『Heroes』。歌物が始まり、聴衆も少しずつ日常的な感覚、ある種の落ち着きを取り戻してきた。 「we can be heroes, just for one day」の言葉が強く迫る。youtubeの映像を見ると、記憶よりテンポがゆったりしている。当日は見ることが当然不可能だったBowieのupの表情からはある種の風格すら感じる。その後、ラストに至るまでの展開はほとんど思い出せない。アンコールになると、白い水平帽に似た帽子をつけて登場。背後の蛍光管がフルに点灯し、眩い光に包まれたことを除いては。
 未だに、あれだけの高揚感を得たコンサートはない。大方は忘れてしまっても、その感触というか残像は我が身に残っている。
                                                  
  このツアーはその名が示すとおり、アルバム『Low』『Heroes』を中心としていた。その後リリースされた『Lodger』を含め、この三つはベルリン三部作と呼ばれ、Tony Visconti とBrian Eno の協力のもとに制作された。


 彼の創造の絶頂期に位置するこの三部作に関して、彼自身はどのように捉えていたのか。ネットで検索して、次のインタビューを見つけた。
Uncut Interviews David Bowie & Tony Visconti On Berlin,  March 2001)

  ベルリン三部作が「post-punk/ambient/electronica/world music」の礎石になったという問いかけに対して、David Bowieはこの三作品の重要性を認識した上で、次のように語っている。

 Tony, Brian and I created a powerful, anguished, sometimes euphoric language of sounds.

 一連の表現を「力強い、苦悶に満ちた、時には陶酔をもたらす音の言語」とでも訳せばよいのだろうか。単なる「sounds」ではなく「language of sounds」とあるので、「language」に力点があるのだろう。ある種の「言葉」であり、「様式」「方法」という意味合いもあるのかもしれない。この表現は、1978年12月12日、渋谷NHKホールで聴いた音と声の記憶にそのまま重なる。
 確かに、それは強力にうねり、広がる音だった。彼の声は、時には沈鬱さと高揚感を、苦悶と陶酔を、闇と光を、聴衆に与えていた。

 志村正彦作詞作曲、フジファブリック『茜色の夕日』がBowieの楽曲の雰囲気に通じると指摘された、と彼の日記にある。コードの一箇所が同じということだ(具体的には分からないが)。これは単なる部分的なものだろうが、志村正彦がDavid Bowieをどのように受けとめていたのかは関心がある。

 世界の、日本の、いわゆる「オルタナティヴ・ロック」の大きな源流が、Bowieの作品、特に『Low』『Heroes』『Lodger』というベルリン三部作にあることは間違いない。
 David Bowieがその69歳の生涯を閉じた。「ロック」はかなり前からだが、今、「オルタナティヴ・ロック」も、その輝きを失いつつある。
 

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