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2016年1月8日金曜日

ライブハウスの原点の「場」を作った男の自伝

 今は地方都市でも、ライブハウスや時にライブを行うカフェなどがあり、音楽の実演を聴く「場」が日常の延長上にある。

 僕が上京して学生生活を始めた1977年にはすでに、東京のような大都市では各スポットごとに何軒かのライブハウスがあった。現在に比べればその数はとても少なかったが、情報誌の『ぴあ』や『シティロード』のライブ情報をチェックして、興味のあるバンドのライブに行くというスタイルが広がり始めた。音楽好きの「お上りさん」青年の一人である僕も、記憶をたどると、渋谷の屋根裏、新宿ルイード、吉祥寺の曼荼羅などに出かけた日々が思い浮かぶ。
 中でも強く印象に残っている場はやはり新宿ロフト。1980年前後の「東京ロッカーズ」の拠点でもあった。中でも「フリクション」のギグ(当時はそんな風に呼んでいた)。その音は、こちらの具合が悪くなるほど強烈だった。「場」と音楽の記憶は切り離せない。

 70年代前半、日本語ロックの創世記を代表するバンド、はっぴいえんど、はちみつぱいの拠点の「場」として、渋谷BYGがあった。
 僕が東京にいた頃にはすでにライブの公演はなかったので、その存在すら知らなかった。かなり後になってから、日本語ロックの重要な場であったことを知識として受けとったにすぎない。このblogで何度も言及や引用させていただいている音楽評論家の浜野サトル氏がレコード係として勤め、ジャズのライブの企画もしていたことも書籍を通じて知った。

 どのような場であったのか。これはやはり浜野氏自身の言葉を引いてみたい。「二五年目の聴き手へ」(浜野サトル『新都市音楽ノート』)という文に次の記述ある。

 『風街ろまん』が世に出た七一年は、はっぴいえんどのマネージャーであった石浦信三を中心につくられたマネージメント集団「風都市」が、東京・渋谷にできた店BYG(ビグ)を拠点に新しい活動を始めた年でもあった。喫茶店であると同時に玄米食のレストランでもあったBYGは地下にライブ・スペースをもっていて、彼らはそこで当時のおもだったフォーク&ロックのミュージシャンたちを総ざらいしたといっていいプログラムを組み、連日、ライブを提供しはじめたのである。
 BYGをライブハウスの先駆けにしたこの活動は、大きな影響力をもった。閑古鳥の鳴く日もないではなかったから、出演して得られる金銭はミュージシャンたちの生活の基盤にはとてもならなかっただろう。しかし、ある出演者の音楽の魅力が噂で広まると、その客席にはレコード産業を中心とした音楽関係者がずらり顔を並べた。やがて、そこから一人また一人とシンガー、ミュージシャンがピックアップされ、レコード・デビューを飾っていく。BYGの地下は、発足まもなくして音楽産業に新しいタレントを供給する装置となっていったのである。


 渋谷BYGが日本語ロックの始まりの場の一つであるとと共に、若者の「都市音楽」を「音楽産業」という新しいビジネスへ供給する場と化していくことの貴重な証言にもなっている。ここで触れられている「風都市」については、氏が編集に加わった『風都市伝説 1970年代の街とロックの記憶から』 (CDジャーナルムック、音楽出版社 、2004/4/9)に詳しく紹介されている。

 しかし、この書籍やネットで読める資料を読んでも、渋谷BYGそのものの歴史、特にそのライブスペースがどのように生まれ、どのような経緯で日本語ロックの重要な場となり、短い時間で終わりを迎えたのかはよく分からなかった。
 渋谷BYGは一種の謎のような場だったのだが、その謎が解けるblog『人生の心の引き出し ―サヨナラを残して―』が最近誕生した。(浜野氏の文「人生の心の引き出し」にその経緯が記されている)

 blogの説明に「新宿ピットイン、渋谷BYGを作った男、酒井五郎が遺した手記を公開していきます」とあるように、この手記の書き手であり主人公である一人称「おれ」は「酒井五郎」。入力者の浜野氏によって毎日更新されているが、彼の自伝、歴史物語はまだ始まったばかりだ。
 内容も文体もまさしく「ハードボイルド」調。連載小説を読むように、面白く痛快だ。(と書いたが、小説ではなくあくまで実話、自伝なのだが)
 そしてすでに、現実の軋みや時代の苦さのようなものも伝わってくる。

 日本のジャズそしてロックのライブハウスの原点にある「場」が、新宿ピットインと渋谷BYGだ。その二つの場を作った男の物語を読むのが日々の愉しみとなっている。
             

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