公演名称

〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉の申込

公演概要

日時:2025年11月3日(月、文化の日)開場13:30 開演14:00 終演予定 15:30/会場:こうふ亀屋座 (甲府市丸の内1丁目11-5)/主催:甲府 文と芸の会/料金 無料/要 事前申込・先着90名/内容:第Ⅰ部 講座・朗読 「新樹の言葉」と「走れメロス」講師 小林一之(山梨英和大学特任教授)朗読 エイコ、第Ⅱ部 独り芝居 「走れメロス」俳優 有馬眞胤(劇団四季出身、蜷川幸雄演出作品に20年間参加、一篇の小説を全て覚えて演じます)・下座(三味線)エイコ

申込方法

右下の〈申込フォーム〉から一回につき一名お申し込みできます。記入欄の三つの枠に、 ①名前欄に〈氏名〉②メール欄に〈電子メールアドレス〉③メッセージ欄に〈11月3日公演〉とそれぞれ記入して、送信ボタンをクリックしてください。三つの枠のすべてに記入しないと送信できません(その他、ご要望やご質問がある場合はメッセージ欄にご記入ください)。申し込み後3日以内に受付完了のメールを送信します(3日経ってもこちらからの返信がない場合は、再度、申込フォームの「メッセージ欄」にその旨を書いて送ってください)。 *〈申込フォーム〉での申し込みができない場合やメールアドレスをお持ちでない場合は、チラシ画像に記載の番号へ電話でお申し込みください。 *申込者の皆様のメールアドレスは、本公演に関する事務連絡およびご案内目的のみに利用いたします。本目的以外の用途での利用は一切いたしません。

2025年10月30日木曜日

甲府への疎開と空襲―太宰治と甲府5

 太宰治の一家は、昭和20(1945)年4月、東京から甲府に疎開してきた。その後、7月に甲府で空襲に遭う。この疎開と空襲という体験は「薄明」に綴られている。この作品は昭和21年12月、新紀元社から刊行された作品集『薄明』に掲載された。あくまでも戦後に書かれた小説であり、太宰夫人の津島美智子によると事実とは異なる部分もあるようだ。

 冒頭はこう語り出されている。


 東京の三鷹の住居を爆弾でこわされたので、妻の里の甲府へ、一家は移住した。甲府の妻の実家には、妻の妹がひとりで住んでいたのである。
 昭和二十年の四月上旬であった。聯合機は甲府の空をたびたび通過するが、しかし、投弾はほとんど一度も無かった。まちの雰囲気も東京ほど戦場化してはいなかった。私たちも久し振りで防空服装を解いて寝る事が出来た。私は三十七になっていた。妻は三十四、長女は五つ、長男はその前年の八月に生れたばかりの二歳である。


 誰にとってもそうであろうが、太宰の疎開生活もやはり苦労が多かったようである。

 私たちは既に「自分の家」を喪失している家族である。何かと勝手の違う事が多かった。自分もいままで人並に、生活の苦労はして来たつもりであるが、小さい子供ふたりを連れて、いかに妻の里という身近かな親戚とは言え、ひとの家に寄宿するという事になればまた、これまで経験した事の無かったような、いろいろの特殊な苦労も味った。甲府の妻の里では、父も母も亡くなり、姉たちは嫁ぎ、一ばん下の子は男で、それが戸主になっているのだが、その二、三年前に大学を出てすぐ海軍へ行き、いま甲府の家に残っている者は、その男の子のすぐ上の姉で、私の妻のすぐの妹という具合いになっている二十六だか七だかの娘がひとり住んでいるきりであった。

 義妹も、かえって私たちには遠慮をして、ずいぶん子供たちの世話もしてくれて、いちども、いやな正面衝突など無かったが、しかし、私たちには「家を喪った」者のヒガミもあるのか、やっぱり何か、薄氷を踏んで歩いているような気遣いがあった。結局、里のほうにしても、また私たちにしても、どうもこの疎開という事は、双方で痩せるくらいに気骨の折れるものだという事に帰着するようである。

 疎開する側も疎開を受け入れる側も〈双方で痩せるくらいに気骨の折れるものだ〉というのが太宰の結論だった。太宰はすでに中年に達し自分の家族も持っていた。若い頃とは異なり、それなりの〈気遣い〉人間的な配慮を心がけていたようだ。


 太宰は昭和20年の4月から7月までの甲府での疎開生活を次のように振り返る。

 甲府へ来たのは、四月の、まだ薄ら寒い頃で、桜も東京よりかなりおくれ、やっとちらほら咲きはじめたばかりであったが、それから、五月、六月、そろそろ盆地特有のあの炎熱がやって来て、石榴の濃緑の葉が油光りして、そうしてその真紅の花が烈日を受けてかっと咲き、葡萄棚の青い小粒の実も、日ましにふくらみ、少しずつ重たげな長い総を形成しかけていた時に、にわかに甲府市中が騒然となった。攻撃が、中小都市に向けられ、甲府も、もうすぐ焼き払われる事にきまった、という噂が全市に満ちた。


 甲府の春から初夏へかけての季節感が巧みに描写されている。そして、甲府空襲の噂が広まってきたことを伝えている。その頃、長女は目を患い、病院に通っていた。このまま失明するのでないか太宰は不安になっていた。そのような日々を過ごすなかで、7月6日の夜、空襲が始まる。太宰はその時の様子をこう述べている。


 その夜、空襲警報と同時に、れいの爆音が大きく聞えて、たちまち四辺が明るくなった。焼夷弾攻撃がはじまったのだ。ガチャンガチャンと妹が縁先の小さい池に食器類を投入する音が聞えた。
 まさに、最悪の時期に襲来したのである。私は失明の子供を背負った。妻は下の男の子を背負い、共に敷蒲団一枚ずつかかえて走った。途中二、三度、路傍のどぶに退避し、十丁ほど行ってやっと田圃に出た。麦を刈り取ったばかりの畑に蒲団をしいて、腰をおろし、一息ついていたら、ざっと頭の真上から火の雨が降って来た。


 太宰たちは蒲団をかぶって畑に伏した。蒲団で火焔を押さえつけて消していった。夜が明けると、町外れの焼け残った国民学校の教室で休ませてもらった。太宰は妻と子を教室に置いて、妻の実家を見に出かけたが、屋敷は全焼していた。その日は義妹の学友の家で休ませてもらい、翌日は家の穴に埋めておいた品々を掘り出して大八車に積んで、妹の別の知人のところへ行った。

 甲府は、昭和20年7月6日の夜から7日の未明にかけて、アメリカ軍のB-29爆撃機131機に爆撃された。甲府市内は火の海となり、市街地の74%が焼き尽くされた。死者1127名、被害戸数18094戸という多大な犠牲があった。太宰が文化の綺麗に染み通るハイカラな街と書いた甲府の建物や街並のほとんどが、その一晩で失われてしまったのである。


 太宰夫妻は焼失した県立病院が郊外の建築物に移転したことを聞いて、長女を連れて行く。眼科医はこのままですぐに目は良くなると言った。それでも妻は注射を頼んだ。

 その後の様子を太宰はこう語っている。


 注射がきいたのか、どうか、或いは自然に治る時機になっていたのか、その病院にかよって二日目の午後に眼があいた。
 私はただやたらに、よかった、よかったを連発し、そうして早速、家の焼跡を見せにつれて行った。
「ね、お家が焼けちゃったろう?」
「ああ、焼けたね。」と子供は微笑している。
「兎さんも、お靴も、小田桐さんのところも、茅野さんのところも、みんな焼けちゃったんだよ。」
「ああ、みんな焼けちゃったね。」と言って、やはり微笑している。


 題名の「薄明」は、この長女の視力が回復したことを表しているのだろうが、甲府空襲の夜から朝にかけての薄明の時の出来事を描こうともしたのだろう。また、戦後の昭和21年に発表された作品であることから、戦後が少しずつ薄明を迎えているという意味合いもあったかもしれない。


 「薄明」の〈「ああ、焼けたね。」と子供は微笑している〉〈「ああ、みんな焼けちゃったね。」と言って、やはり微笑している〉という場面は、「新樹の言葉」の最後で内藤幸吉兄妹がかつての自分たちの家が燃えているのを微笑して見ている場面と似ている。話者の〈私〉青木大蔵はその微笑を〈たしかに、単純に、「微笑」であった〉と語っている。

 「新樹の言葉」を書いたのは昭和14年、「薄明」を書いたのは昭和21年。その間に戦争による空襲と火災があった。内藤兄妹は虚構の人物であり、太宰の長女は実在の人物である。内藤兄妹はすでに辛酸を舐めるいるが、長女はまだ五歳でまだ何も経験していない。微笑の意味合いは異なるが、それでも、太宰がこの二つの場面で微笑という表現を使っているのはとても興味深い。


 確かでな単純な「微笑」。戦前、戦中、戦後という激変の時代でこのような微笑を太宰治は希求していたのかもしれない。


2025年10月26日日曜日

甲府の名所や街の喫茶店-太宰治と甲府 4

 新田精治は「甲府のころ」(八雲書店版『太宰治全集』附録2 昭和23年9月)で、昭和13(1938)年から14(1939)年までの太宰との思い出について書いている。「富岳百景」に登場する富士吉田の青年〈新田〉は新田精治がモデルになっていると思われる。「富岳百景」を引用する。

新田といふ二十五歳の温厚な青年が、峠を降りきつた岳麓の吉田といふ細長い町の、郵便局につとめてゐて、そのひとが、郵便物に依つて、私がここに来てゐることを知つた、と言つて、峠の茶屋をたづねて来た。

〈新田〉が郵便局勤めで郵便物によって太宰治が天下茶屋にいることを知つたことは、おそらく「新樹の言葉」の郵便屋〈萩野〉の設定と行動に活かされているのだろう。


 新田は甲府で暮らし始めた太宰の家を何度か訪れた。その出来事を次のように回想している。

御崎町のお家は、空襲の時焼けてしまつたさうだけれど、御崎紳社の前あたりの小路を這入つて、一番奥まつた静かなお家だつた。『東京八景』に家賃六円五十銭と書かれてゐる、あのお家だつた。前にさゝやかな庭があり、花壇があつて、大きなバラがアーチみたいに植わつてゐた。陽当りのいゝ手頃なお住ひだつた。横手は桑畑で、街の騒音から遠く、一日ひつそりとしてゐた。御坂以来の静養で、御体の調子も好いらしく、指先なぞもう震へなかつた。(御坂に居られた頃は煙草を吸ふ時なぞ、幽かに指先が震へてゐた。)それに訪間客もなかつたので、僕等はお伺ひすると、湯村やら、武田神社やら遊び歩き、いつも終列車まで御邪魔した。『愛と美について』はこの頃書きためてをられた。

 現在、太宰の家の跡に「太宰治僑居跡」の石碑がある。そのすぐ近くに御崎紳社がある。西の方に歩くと二十分ほどで湯村温泉、北の方に歩くと二十五分ほどで武田信玄を祭神とする武田神社がある。太宰は昭和17年2月と翌年3月に湯村温泉の「旅館明治」に滞在して小説を書いた。この旅館は今年8月にリニューアルされて太宰治資料室も設けられた。

 太宰は青年たちを連れて甲府の名所や中心街を遊び歩いたようだ。『愛と美について』に収録された「新樹の言葉」にもその体験が反映されているだろう。


桜が咲く頃、お訪ねすると、「君等が来ると言ふんで、甲府で一番綺麗なこのゐるうちを探しといたんだよ」と言つて、岡島の横のトレビアンといふ小さな喫茶店に案内して呉れた。十七、八と二十二、三位の女の子が、二人ゐて、どちらも美人だつた。「しつかりやれよ。男はね、一生のうち一人だけ女を騙してもいゝんだよ」と先生は囁いた。併し僕も田邊君も仲々もてなかつた。暫らく飲むと先生はばかに陽気になつて、「ナタアリヤ握手しませう。ナタアリヤ、キスしませう」と女の子の手を握つたり肩を抱かうとしたり、ネチネチからかひ出した。他の客は不安さうに僕等を見るし、女の子は寄りつかなくなるし、もてないことおびたゞしく、さんざんのしゆびでトレビアンを出ると、「君等は、なんてもてないんだらう、吉田からわざわざ来て、あんなに飲んだつて、何の収穫もなかつたぢやねえか。新田と田邊とぢやあ、僕だけが、もてるにきまつてゐるから、わざといやがらせをやつて嫌はれたんだよ」とクツクツと例の大笑ひをされた。

 〈岡島〉は岡島百貨店。江戸時代後期から茶商、呉服商、両替商をしていた。昭和13年(1938)年9月、甲府の中心街に地上5階の大型店舗を建設し百貨店の営業を始めた。ちょうど太宰が甲府で暮らし始めた頃である。その横の〈トレビアン〉という小さな喫茶店のことも調べてみたのだが分からなかった。当時から岡島の周辺は賑やかで店がたくさんあった。〈田邊〉は「富岳百景」で〈短歌の上手な青年〉として登場している。

 この岡島百貨店の店舗は甲府空襲でも焼けずに残った。その後、改築や増築を繰り返して総合百貨店として山梨県民に親しまれてきたが、2023年2月で閉店し、建物が解体されることになった。現在は近くの商業ビルの三階分のフロアに入り、屋号も〈岡島百貨店〉から〈岡島〉へ改称し営業している。


市制祭の日、街を見て歩き、澤田屋の二階の喫茶店へ這入つた。その日は音楽の話で、「ベエトーベンの第五なんか最も芸術的なものだが、同時に最も通俗的なものだね、あれなら誰だつてわかる筈だ。今やつてゐるあゝいふ俗悪な曲と違ふ」併しその時ラヂオが、やつてゐた俗悪な曲といふのは、丁度第五だつた。「ありやあ、なんだらう、聴いたことが、ある様だねえ」と先生、「あの俗悪な曲が、先生第五ですよ」と僕。「なんだ、さうか」と例の大笑ひ。街を歩き過ぎて疲れ、僕はウトウトと居睡りをしてゐると、激しい調子で先生が、何か言つてゐる。コックが註文したコーヒーを忘れて了つて、いつ迄も持つて来ないのを叱つてゐるのだつた。「余り待たせるんで、疲れて睡つてゐるぢやあないか。可哀さうに、忘れたなんて、失敬な、もういゝよ、出よう、出よう」と澤田屋を出た。僕は恐縮しながら、先生の愛情を感じた。 



 〈澤田屋〉は甲府の和菓子製造の老舗として現在も営業している。黒糖の羊羹でうぐいす餡を包んだ「くろ玉」が有名だ。レトロあまい、とでも言えるような上品な甘みが特徴である。昭和4(1929)年の誕生以来、ほとんど変わらない製法でひとつひとつ手づくりをしているそうだ。ロングセラーのお土産でもある。

 澤田屋のHPに昭和9年頃の澤田屋の写真があったので、ここに掲載させていただく。説明文には〈1階は店舗、2階はレストラン、3階は和室。3階建てのビルは当時珍しかったが甲府空襲によって消失〉と記されている。太宰たちが行った〈澤田屋の二階の喫茶店〉はこの2階を指していると思われる。澤田屋には今もカフェが併設されている。




 太宰が新田や田邊を連れて甲府の中心街を歩き、岡島百貨店横の喫茶店や澤田屋二階の喫茶店に入り、コーヒーを飲んで愉快に話をして楽しく過ごした。僕と妻はシアターセントラルBe館で映画を見るときに、中心街の駐車場に車を駐めて、澤田屋の近くを歩いていくことがよくある。そのとき、太宰がここで青年たちと愉快な時を過ごしたことを想い出す。八十数年の時を隔てているが、甲府の街の同じ場所を歩くといろいろな想像が浮かんでくる。


2025年10月22日水曜日

津島美知子の証言-太宰治と甲府 3

 太宰夫人の津島美知子は、「御崎町から三鷹へ」(八雲書店版『太宰治全集』附録4 昭和23年12月)で、甲府での生活をこう振り返っている。  

 御崎町時代は、朝から午過まで机に向ひ、午後三時ごろからお酒が始まり、酔ひつぶれて倒れるまで飲んで、ときには、とくいの義太夫など出ることもあつた。「お俊伝兵衛」や、「壺坂」「朝顔日記」などがおはこだつた。それで、一月の酒屋の払ひは、二十円くらゐのものだつたから、安心だつた。

 朝から昼過ぎまでの執筆、一息ついて午後三時頃からの飲酒、そして「新樹の言葉」に書かれているように銭湯や豆腐屋に出かけたのだろう。小説を書くことと酒を飲むことが生活の中心にあった。


 このころ、二度、小旅行をした。八十八夜のころ、諏訪から、蓼科の方へまはつた。この時、上諏訪の宿では、酔つて、はめを外してしまつて、むやみに卓上電話を帳場にかけたり、テーブルクロースを汚して、弁償させられたりして失敗だつた。蓼科では、蛇がこはいといつてせつかくの風景をたのしむこともなかつた。大体、野外を歩くことや、樹木、風景などには、興味が無いやうに見えた。六月に、「黄金風景」の賞金五十円で、修善寺、三島の方へ遊んだ。このときは、失敗が無くて助かつた。三島では、なぜか興奮して、きり雨の中に、あやめの咲いてゐる古びた町を、お酒と甘い食物を、探して歩きまはつてゐた。

 新婚時代の二度の小旅行。諏訪と蓼科。修善寺と三島。羽目を外した出来事。太宰が自然の風景を〈たのしむこともなかつた〉〈興味が無いやうに見えた〉とあるが、確かに、太宰の小説には風景描写が少ない。今でも甲府から近くの県外の地に遊びに行く場合、長野の諏訪や松本、静岡の伊豆半島が候補となることが多い。昔も今も変わらない。


 「駈込み訴へ」は十四年の十二月、炬燵に当つて、盃を含み乍ら、全部口述して出来た。この年のものの中では、口述筆記のがかなり多い。「富岳百景」「女の決闘」「アルト・ハイデルベルヒ」のそれぞれ一部、「黄金風景」「兄たち」それからこの「駈込み訴へ」の全部である。太宰は、大てい、仕事にとりかかるまへ、腹案や書出しのきまるまでに手間がかかつたやうだ。「賢者の動かんとするや、必ず愚色あり。」といふのが、その折の口ぐせで、仕事にとりかかるまへ、いつも、さかんに愚色を発揮した。冗談めかしてゐるだけに、遊んでゐても傍のみる目には苦しげに、痛々しくみえた。机に向ふときは、頭のなかにもう、出来てゐた様子で、憑かれた人の如く、その面もちはまるで変つて、こはいものにみえた。「駈込み訴へ」のときも二度くらゐにわけて、口述し、淀みも、言ひ直しも無かつた。言つた通り筆記して、そのまゝ文章であつた。書きながら、私は畏れを感じた。

 津島美智子は太宰の口述筆記をしていた。「富岳百景」の一部もその中に含まれていることがこの文章で判明した。自分自身も登場人物となるこの作品を口述で筆記したときに、津島美智子の胸中にはどんな思いが去来したのだろうか。

 「駈込み訴へ」は〈言つた通り筆記して、そのまゝ文章であつた〉というのは貴重な証言である。

 最後に〈書きながら、私は畏れを感じた〉とあるが、この畏れのようなものが太宰の文学の本質につながるのだろう。


2025年10月19日日曜日

「九月十月十一月」-太宰治と甲府 2

 太宰治「新樹の言葉」冒頭の甲府賛歌。その原型となる文章がある。

 「国民新聞」1938(昭和13)年12月9日から11日まで三日間連載された「九月十月十一月」。〈(上)御坂で苦慮のこと〉〈(中) 御坂退却のこと〉に続いて〈(下) 甲府偵察のこと〉が書かれている。(中)の末尾では〈峠の下の甲府のまちに降りて來た〉〈工合がよかつたら甲府で、ずつと仕事をつづけるつもりなのである〉〈甲府の知り合ひの人にたのんで、下宿屋を見つけてもらつた〉と甲府で暮らし始めた経緯に触れている。


 太宰は〈私は、Gペン買ひに、まちへ出た〉と語り、「甲府偵察」に出かける。長くなるが、(下)の全文を引用したい。 (引用元:青空文庫


(下) 甲府偵察のこと

 きらきら光るGペンを、たくさん財布にいれて、それを懷に抱いて歩いてゐると、何だか自分が清潔で、若々しくて、氣持のいいものである。私は、Gペン買つてから、甲府のまちをぶらぶら歩いた。

 甲府は盆地である。いはば、すりばちの底の町である。四邊皆山である。まちを歩いて、ふと顏をあげると、山である。銀座通りといふ賑やかな美しいまちがある。堂々のデパアトもある。道玄坂歩いてゐる氣持である。けれども、ふと顏をあげると、山である。へんに悲しい。右へ行つても、左へ行つても、東へ行つても、西へ行つても、ふと顏をあげると、待ちかまへてゐたやうに山脈。すりばちの底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思へば、間違ひない。


 太宰の甲府偵察を甲府市民の目で検証してみたい。

〈銀座通りといふ賑やかな美しいまちがある。堂々のデパアトもある。道玄坂歩いてゐる氣持である〉とある。前回も書いたが、戦前、昭和前期までの甲府の街には、規模は小さいが綺麗でモダンな洋風建築も多く、従来の和風建築とも調和が取れた美しい街であったようだ。その洋風と和風の調和のある街並みは甲府空襲でほとんどすべて失われてしまった。もともと、甲府の中心街は甲府城の城下町の跡で発展していった。通りが南北に整備されているので今もその名残はある。戦前の甲府は地方都市としては相対的に人口も多く、活気もあった。

〈まちを歩いて、ふと顏をあげると、山である〉については、当然ではあるが、今も全くその通りである。視線の近くに建物があっても視線をその向こう側に向けると山々が見える。二千から三千メートル級の高い山々が東西南北に連なり、視界を囲んでいる感じがある。良くいえば包まれ感というか安定感があるのだが、悪くいえば窮屈で鬱陶しいかもしれない。


 裏通りを選んで歸つた。甲府は、日ざしの強いまちである。道路に落ちる家々の軒の日影が、くつきり黒い。家の軒は一樣に低く、城下まちの落ちつきはある。表通りのデパアトよりも、こんな裏まちに、甲府の文化を感ずるのである。この落ちつきは、ただものでない。爛熟し、頽廢し、さうしてさびた揚句の果が、こんな閑寂にたどりついたので、私は、かへつて、このせまい裏路に、都大路を感ずるのである。ふと、豆腐屋の硝子戸に寫る私の姿も、なんと、維新の志士のやうに見えた。志士にちがひは、ないのである。追ひつめられた志士、いまは甲府の安宿に身を寄せて、ひそかに再擧をはかつてゐる。


〈甲府は、日ざしの強いまちである〉という箇所は甲府市民の実感にとても合致している。太宰の甲府探索は11月頃であるから晩秋から初冬の日差しである。夏の甲府盆地の酷暑はよく知られている。夏は強烈な日差しにおおわれるが、冬の日差しもけっこう強い。冬の甲府は気温がかなり低くなるが、光の強さは春や夏を思わせるときがある。太宰の観察眼は鋭い。

〈裏まちに、甲府の文化を感ずる〉〈この落ちつきは、ただものでない〉〈爛熟し、頽廢し、さうしてさびた揚句の果が、こんな閑寂にたどりついた〉という指摘は、甲府市民では感じ取ることができないものであろう。〈爛熟〉〈頽廢〉〈さびた〉揚句の果ての〈閑寂〉という感覚は、今の甲府の裏町には感じられないというのが正直なところではあるが、なんとなくほんの少しだけ分からないこともない、とも言える。江戸時代、甲府で流行った芝居は江戸でも流行ると言われていた。山梨は徳川幕府の直轄領であり、甲府城の周辺には甲府勤番の武士が住んでいた。芝居を見る目が優れた人が甲府には多いという定評があった。そのような文化の痕跡が街の表や裏に残っていたのかもしれない。太宰治という外部の視線からの甲府の裏町のこの特徴を記憶にとどめておきたい。

 さらに、〈豆腐屋の硝子戸〉に写った自分の姿が〈維新の志士〉のように太宰には見えてくる。〈追ひつめられた志士〉に自分を重ね合わせ、〈甲府の安宿に身を寄せて、ひそかに再擧をはかつてゐる〉と決意するのは、この時の太宰治の心境をよく表している。太宰にとって甲府は再起の再出発の場所であった。


 甲州を、私の勉強の土地として紹介して下さつたのは、井伏鱒二氏である。井伏氏は、早くから甲州を愛し、その紀行、紹介の文も多いやうである。今さら私の惡文で、とやかく書く用はないのである。それを思へば、甲州のことは、書きたくない。私は井伏氏の文章を尊敬してゐるゆゑに、いつそう書きにくい。

 ひそかに勉強をするには、成程いい土地のやうである。つまり、當りまへのまちだからである。強烈な地方色がない。土地の言葉も、東京の言葉と、あまりちがはないやうである。妙に安心させるまちである。けれども、下宿の部屋で、ひとりぽつんと坐つてみてやつぱり東京にゐるやうな氣がしない。日ざしが強いせゐであらうか。汽車の汽笛が、時折かすかに聞えて來るせゐかも知れない。どうしても、これは維新の志士、傷療養の土地の感じである。

 井伏氏は、甲府のまちを歩いて、どんなことを見つけたであらうか。いつか、ゆつくりお聞きしよう。井伏氏のことだから、きつと私などの氣のつかぬ、こまかいこまかいことを發見して居られるにちがひない。私の見つけるものは、お恥かしいほど大ざつぱである。甲府は、四邊山。日影が濃い。いやなのは水晶屋。私は、水晶の飾り物を、むかしから好かない。


 この箇所では、井伏鱒二が甲府との縁を作ってくれたことに触れている。そして、甲府が〈ひそかに勉強をするには、成程いい土地〉だと思った理由を〈當りまへのまち〉〈強烈な地方色がない〉〈土地の言葉も、東京の言葉と、あまりちがはないやうである〉と述べている。

 この三つの点は的確である。甲府は地方としてはごく普通の街である。〈強烈な地方色がない〉というのもその通りであろう。地理的に東京に比較的近く、江戸時代は幕府直轄領であり、東京の文化との接点もかなりあったことから、地方文化的な強い特色をあまり持っていない。また、甲府の方言、甲州弁は関東弁に近い。(東京の言葉よりは全体的に語気が強くて荒々しい。独自の語彙や言い回しがあるなどのが違いはあるが)この三つの理由から〈妙に安心させるまちである〉と太宰は結論づけている。東京での破綻した生活と行き詰まった作風から脱して再起を期すのに、甲府は適した街だったのだろう。安心して新婚生活と作家生活に入ることが何よりも大切であった。


 「甲府偵察のこと」では甲府を〈すりばちの底に、小さい小さい旗を立てた〉と表しているが、「新樹の言葉」ではその表現は〈当たってない〉として、甲府は〈もっとハイカラである〉ことから、〈シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた〉〈まち〉という洒落た比喩を使って表現している。〈すりばちの底〉から〈シルクハット〉の〈帽子の底〉への変化には、太宰の甲府に対する愛情のようなものがうかがえる。甲府在住の石原美智子との結婚、作家としての再出発を期した場所という背景は大きいが、太宰が甲府をかなり気に入ったことは間違いないだろう。

 太宰治にとって甲府は、文化が綺麗に染み通る〈ハイカラ〉な街であった。〈落ちつき〉のある〈妙に安心させる〉街でもあった。ちょっとくすぐったいような気持ちもあるのだが、甲府市民としてはそのことを嬉しく思う。

2025年10月15日水曜日

「新樹の言葉」-太宰治と甲府 1

 11月3日の〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉を前にして、〈太宰治と甲府〉というテーマで五回ほど連載記事を書きたい。

 第一回目は「新樹の言葉」を取り上げたい。1939(昭和14)年5月、『愛と美について』(竹村書房)に収録されて発表された。前年の1938(昭和13)年9月から太宰は御坂峠の天下茶屋で仕事をしていた。寒さが厳しくなったので11月に御坂峠を降りて、甲府市竪町の壽館という下宿で暮らし始める。翌年1月、石原美智子と結婚し、御崎町に居を構えた。

 冒頭部分、甲府賛歌と呼べるところを引用したい。 (引用元:青空文庫


 甲府は盆地である。四辺、皆、山である。小学生のころ、地理ではじめて、盆地という言葉に接して、訓導からさまざまに説明していただいたが、どうしても、その実景を、想像してみることができなかった。甲府へ来て見て、はじめて、なるほどと合点できた。大きい大きい沼を掻乾して、その沼の底に、畑を作り家を建てると、それが盆地だ。もっとも甲府盆地くらいの大きい盆地を創るには、周囲五、六十里もあるひろい湖水を掻乾しなければならぬ。

 沼の底、なぞというと、甲府もなんだか陰気なまちのように思われるだろうが、事実は、派手に、小さく、活気のあるまちである。よく人は、甲府を、「擂鉢の底」と評しているが、当っていない。甲府は、もっとハイカラである。シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれいに文化の、しみとおっているまちである。


 甲府は〈派手に、小さく、活気のあるまち〉〈ハイカラ〉であると記されている。歴史研究者によると、戦前、空襲で焼けて廃墟となる以前の甲府の中心街には、和風の建物とともに洋風の綺麗な建築が立ち並んでいた。地方としてはそれなりにモダンな街だったようだ。だから〈シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた〉まちが甲府だという洒落た比喩は、戦前の甲府を的確に表現していると考えてよい。〈きれいに文化の、しみとおっているまち〉も、あながち過剰なほめ言葉でもないだろう。残念ながら、戦後の甲府の方が特色のない街になってしまった。


 「新樹の言葉」の語り手〈私〉は〈青木大蔵〉という名の作家であり、太宰治の分身的存在である。〈私〉の乳兄弟の〈内藤幸吉〉、幸吉の妹、光吉の親友である郵便屋の萩野の三人が登場して物語が展開していく。

 物語の冒頭で郵便屋が〈私〉を訪れ、〈「あなたは、青木大蔵さん。そうですね。」「内藤幸吉さんを。ご存じでしょう?」「あなたは幸吉さんの兄さんです。」〉と謎めいた言葉を投げかける。〈私〉は〈白日夢〉を見るようであった。〈銭湯まで一走り。湯槽ゆぶねに、からだを沈ませて、ゆっくり考えてみる〉と〈不愉快〉になってきて〈むかむかする〉。〈私〉はこう思う。

東京での、いろいろの恐怖を避けて、甲府へこっそりやって来て、誰にも住所を知らせず、やや、落ちついて少しずつ貧しい仕事をすすめて、このごろ、どうやら仕事の調子も出て来て、ほのかに嬉しく思っていたのに、これはまた、思いも設けぬ災難である。〔……〕

 〈私〉が風呂から上がって脱衣場の鏡に自分の顔を写してみると〈いやな兇悪な顔〉をしていた。〈私〉の過去が押し寄せてくるように感じる。

不安でもある。きょうのこの、思わぬできごとのために、私の生涯が、またまた、逆転、てひどい、どん底に落ちるのではないか、と過去の悲惨も思い出され、こんな、降ってわいた難題、たしかに、これは難題である、その笑えない、ばかばかしい限りの難題を持てあまして、とうとう気持が、けわしくなってしまって、宿へかえってからも、無意味に、書きかけの原稿用紙を、ばりばり破って、そのうちに、この災難に甘えたい卑劣な根性も、頭をもたげて来て、こんなに不愉快で、仕事なんてできるものか、など申しわけみたいに呟いて、押入れから甲州産の白葡萄酒の一升瓶をとり出し、茶呑茶碗で、がぶがぶのんで、酔って来たので蒲団ひいて寝てしまった。これも、なかなか、ばかな男である。

 新しく歩み出そうとした人生が再び過去の〈どん底〉に落ち、〈悲惨〉へと再び逆転するという不安に〈私〉はとらわれている。これが「新樹の言葉」の底流にあるモチーフである。その不安を打ち消すために〈甲州産の白葡萄酒の一升瓶〉を飲んで寝てしまう。〈なかなか、ばかな男〉だという自虐もある。〈私〉の不安や自虐がどのように変化していくのか。それが物語のテーマとなっていく。

 この場面の〈銭湯〉のモデルは、太宰治がよく通っていた喜久乃湯温泉である。昭和元年創業で現在も営業しているこの温泉銭湯は甲府の朝日町にある。今年六月、甲府遺産に選定された。太宰ファンが訪れることでも知られている。また、一升瓶の葡萄酒はこの地では今でも飲まれている。「新樹の言葉」のディテールはリアルな甲府を感じさせる。この後の展開はぜひこの作品を読んでいただきたい。青空文庫にも入っている。少しだけ触れるなら、甲府中心街の桜町や柳町界隈、岡島百貨店と思われるデパートなどが舞台となってくる。舞鶴城跡の上の広場で〈私〉が内藤兄妹に心の中で語りかける。この場面を最後にして、この物語は閉じられる。


 太宰治は後にこう述べている。

 「新樹の言葉」は、昭和十四年に書いた。からだも丈夫になつた。すべて新しく出発し直さうと思つて書いた。言ふは易く、実証はなかなか困難の様子である。

 この言葉にあるように、太宰は甲府で生活と文学の両面で新しく出発しようとした。過去へと逆転してしまう不安からの解放。自己と他者を信じること。その勇気を持つこと。

 その強い決意が名作「走れメロス」とつながっていく。もちろん、作家本人が言うように〈言ふは易く、実証はなかなか困難〉であるのだが。


2025年10月12日日曜日

9月の甲府Be館 『早乙女カナコの場合は』『この夏の星を見る』『タンデム・ロード』『ふつうの子ども』

9月の甲府シアターセントラルBe館の上映作はバラエティに富んでいた。四つの映画について少しだけ語りたい。


早乙女カナコの場合は


 監督は山梨出身で在住の矢崎仁司。柚木麻子の小説「早稲女、女、男」の映画化。自意識過剰な早乙女カナコ(橋本愛)と脚本家志望の長津田啓士(中川大志)の大学での出会いから社会人へと至る十年間の恋愛模様を描く。過剰なものを抱えながらそれを持て余している二人は、似た者同士ゆえに惹かれ合いながらもときに衝突する。関係が近くなったり遠くなったりの繰り返し。よくある学生時代から社会人までの変化や成長の物語のように受け取られるかもしれないが、異才の矢崎監督らしくそういう定型には陥らない。橋本愛の演技が秀逸であり、特にラストシーンが素晴らしい。観客に何かを問いかける。
 上映後に監督のトークとサイン会があった。僕は「三月のライオン」(1992年)を見て、その繊細な映像と独自な演出に感銘を受けた。彼が山梨県の鰍沢町生まれと知って親しみも覚えた。それ以来矢崎作品はすべて見ているが、この「早乙女カナコの場合は」はこれまでの作風からかなり自由になり、人間が生き生きと描かれている。矢崎仁司監督の代表作になると感じた。サイン会でそんなことを少しだけ話すことができた。矢崎監督が穏やかな優しい表情をしていたことが印象に残った。後日、この映画のことを再び書いてみたい。

この夏の星を見る


 山梨県出身の直木賞作家辻村深月の同名小説を山元環監督が映画化した。2020年、コロナ禍のなかで茨城の高校の天文部の溪本亜紗(桜田ひより)が提案して、長崎の五島列島や東京都心の高校生とスターキャッチ」という天体観測のコンテストをオンラインで実施する。桜田ひよりの強い眼差しに惹かれた。星空の画像や天空の風景が美しかった。「最高で、2度と来ないでほしい夏。」というキャッチコピーがこの映画の世界を端的に述べている。
 小中学生の頃は天文少年だったので、その頃に見た月や星のことを久しぶりに思い出した。甲府の夜空は今よりずっと綺麗だった。この映画を見てもう一度天体望遠鏡で宇宙を眺めたくなる。


タンデム・ロード


 監督の滑川将人(ナメさん)とパートナーの長谷川亜由美(アユミ)がBMWのバイク1台で世界一周を目指した旅を自分たちで撮影したドキュメンタリー映画。30カ国、427日間、走行距離約6万キロの行程の記録である。映像には土地の人々との心温まる交流、美しい風景、事故や故障などの様々なトラブル、アユミの疲労や葛藤が映し出される。逆に、映像に映らなかった場面についてあれこれと想像してしまった。見ているうちにここ数年の映像ではないことに気づく。特に説明はなかったのだが2013年の撮影のようだ。最後の方で現在のアユミとその子供たちの姿が映る。十二年ほどかけてこの映画は完成されたことになる。
 ポルトガルのロカ岬など、昔訪れたことのある場所の光景が懐かしかった。コロナ以降、一度も海外に出かけたことはないが、再び旅をしてみたい気持ちになった。


ふつうの子ども


 子供を描いた映画の中で稀に見る傑作だと断言したい。監督・呉美保、脚本・高田亮。小学4年生、十歳の上田唯士(嶋田鉄太)、環境問題に高い関心を持つ三宅心愛(瑠璃)、問題児の橋本陽斗(味元耀大)の三人が大騒動を起こす。唯士は心愛を、心愛は陽斗を好きという間柄が背景にある。嶋田鉄太の演技が素晴らしい。ふつうではない力量のある子どもがふつうの子どもを演じている。唯士の母恵子(蒼井優)と心愛の母冬(瀧内公美)も好演している。
 現在の子供たちが子供なりに向き合わねばならない〈行き詰まり〉の感覚が的確に描かれている。この難しい時代を〈ふつうの子ども〉たちはどう乗り越えていくのだろうか。


 『早乙女カナコの場合は』『この夏の星を見る』『タンデム・ロード』『ふつうの子ども』。9月はこの四つの作品によって、小中学生や大学生の頃、旅した時へと、時間を遡ることができた。映画を見る私たちはいつも時間を旅している。


2025年10月7日火曜日

十月の金木犀 [志村正彦LN372]

 今朝、仕事に出かけようと玄関を開けて車に向かった瞬間、全身があの甘い香りに包まれた。記憶のなかの金木犀の香りに間違いない。やっと金木犀の季節が到来したのだ。


 毎年、9月の下旬になるといつ金木犀の香りが漂うのか気になって仕方がない。あたかも〈世の中にたえて金木犀のなかりせば秋の心はのどけからまし〉といった心境なのだ。 気温が下がることによって金木犀は開花する。ところが、今年は九月になっても夏のような気候が続いた。志村正彦は「赤黄色の金木犀」で〈冷夏が続いたせいか今年は/なんだか時が進むのが早い〉と歌った。確かに冷夏が続くと夏が短く感じられ時の速度も早くなるような気がする。6月、7月から8月、9月まで非常に暑い日々が連続した今年の夏はとても長く感じられた。時の速度もゆっくりとしていた。まるで永遠に夏が終わらないようでもあった。


 このブログでは毎年のようにこの時期に金木犀の報告をしてきた。2022年には〈毎年、甲府盆地では9月の26日か27日頃に香り始める〉と書いてある。しかし、2023年は10月15日の日付で〈数日前から、金木犀が香りだした。今年は遅い〉とあり、10月10日頃だったようだ。2024年は10月17日の日付で〈一昨日から、家の周りからあの特別な香りが微かに漂い始めた。例年より二十日以上遅いことになる〉とあるので、10月15日だった。今日は10月7日。ということは去年よりも一週間ほど早かったことにはなる。

 2023年、2024年、2025年と三年続きで10月の第一週から第二週にかけて開花しだしたのは、実感としてはやはり、夏の季節が長く続き、秋の到来が従来より遅くなっているからであろう。


 金木犀が香り始めた今日、志村正彦・フジファブリックの「赤黄色の金木犀」ミュージックビデオ(YouTube フジファブリック Official Channel)と歌詞の全部を紹介したい。




  「赤黄色の金木犀」 (作詞・作曲:志村正彦)



  もしも 過ぎ去りしあなたに
  全て 伝えられるのならば
  それは 叶えられないとしても
  心の中 準備をしていた

  冷夏が続いたせいか今年は
  なんだか時が進むのが早い
  僕は残りの月にする事を
  決めて歩くスピードを上げた

  赤黄色の金木犀の香りがして
  たまらなくなって
  何故か無駄に胸が
  騒いでしまう帰り道

  期待外れな程
  感傷的にはなりきれず
  目を閉じるたびに
  あの日の言葉が消えてゆく

  いつの間にか地面に映った
  影が伸びて解らなくなった
  赤黄色の金木犀の香りがして
  たまらなくなって
  何故か無駄に胸が
  騒いでしまう帰り道


 大学で担当している「日本語スキル」という科目は読解力・思考力・表現力を育成するものだが、後期開始の9月下旬の授業ではここ数年「赤黄色の金木犀」を取り上げている。日本語の詩的表現について考えるためだ。今年も先週行ったが、その際の学生の感想を記したい。


  • 私は金木犀が大好きなので、最初に映し出された時にどんな歌だろうと思ったが、実際に聴いて歌詞を見てみて、志村さんの作詞能力がどれほど優れていたかが伝わった。
  • 「赤黄色の金木犀」は最初と最後が切ない感じでしたが中盤が盛り上がっていてアップダウンが激しい曲だと思いました。
  • 時間が過ぎるのが早く焦り始める気持ちが、今の私と重なる部分がある。
  • 志村正彦さんの作詞力とメロディの乗せ方が上手で、その時代に生きていたかったと思うとともにその才能が存分に発揮されなかったことが非常に悔やまれるなと思った。


 志村正彦の優れた作詞能力、最初・最後・中盤のテンポ、時間と焦りの感覚についての的確な指摘があった。最後の学生は〈その才能が存分に発揮されなかったことが非常に悔やまれる〉と述べている。志村がその短い生涯で才能を十分に発揮したことは言うまでもないが、この学生が言いたかったことはおそらく、志村が今も存命であればその才能をさらに発揮して素晴らしい作品を創造したが、それが現実として叶えられなかったことに対する〈非常に悔やまれる〉想いを伝えたかったのだろう。同じような想いを私も抱いている。


 毎年、この秋の季節に「赤黄色の金木犀」の歌を聴くと、たまらなくなって、何故か無駄に胸が、騒いでしまう。


2025年10月5日日曜日

飯田蛇笏・飯田龍太文学碑碑前祭/「若者のすべて」を詠む短歌 [志村正彦LN371]

  一昨日10月3日は、山梨出身で近代俳句を代表する俳人、飯田蛇笏の命日だった。この日、甲府の「芸術の森公園」で「飯田蛇笏・飯田龍太文学碑碑前祭」が開かれた。蛇笏の孫、龍太の息子である飯田秀實氏が理事長を務める「山廬文化振興会」が主催する会で、今年で十一回目を数える。蛇笏、龍太の碑のそれぞれに居宅だった「山廬」で摘まれた花が供えられた。

 この日のための「碑前祭句会」には国内外から566句の応募があり、最高賞の「真竹賞」には仲沢和子さん(山梨県北杜市)の「雲の峰父子それぞれの文学碑」が選ばれた。応募されたすべての句は冊子に閉じられて文学碑に献句され、俳人の瀧澤和治氏と井上康明氏がおのおの二人を偲ぶ話をされた。関係者や受賞者など60人ほどの参加者が飯田蛇笏と飯田龍太を追悼する特別な場であり、貴重な時間であった。

 

 「山梨県立文学館」の研修室での授賞式の後、私が「飯田蛇笏と芥川龍之介」という題で五十分ほどの講話を行った。飯田秀實理事長からの原稿依頼をいただいて、ここ一年半ほどの間、山廬文化振興会の会報「山廬」に四回に渡って「蛇笏と龍之介」という批評的エッセイを書いてきた。その原稿を元にしてスライドを作成して、二人の交流の軌跡を六つの観点を設定して振り返った。

  芥川龍之介は「ホトトギス」大正7年8月号の雑詠欄に「我鬼」の俳号で「鍼條に似て蝶の舌暑さかな」他一句を投句し、蛇笏が「雲母」大正8年7月号で「我鬼」が龍之介と知らないまま「鍼條に」句を「無名の俳人によって力作さるる逸品」と評価したことを契機として、二人の交流が始まる。手紙のやりとりや書籍・雑誌の贈答を通じてのものだったが、この二人には深いつながりやきずながあった。このテーマについては今後このブログでも書いてみたい。


 * * *


 〈甲府 文と芸の会〉を結成したこともあり、最近は地元の「山梨日日新聞」の短歌・俳句・川柳・詩の投稿欄を読むことを楽しみにしている。ほとんどが山梨県内の愛好者からの投稿であり、山梨の風景や生活に根ざした作品が多い。生活者の眼差しからの言葉に感銘を受けることや学ぶことが少なくない。毎週日曜日に掲載されるので、今日10月5日の朝、投稿欄に目を通すと、選者の歌人三枝浩樹氏に佳作として選ばれたある短歌に目が釘付けになった。


○「若者のすべて」が流れる夕暮れは若者だった頃を思いて   北杜 坂本千津子

 

 三枝氏は選評でこう述べている。


富士吉田市出身のフジファブリック、代表曲の「若者のすべて」の流れる夕暮れ。その歌に耳を澄まして「若者だった頃を」しみじみと想起する坂本さん。名曲は時代を超えて、かく人の心に甦る。


 三枝氏の選評がこの短歌のすべてを的確に語っているので、専門家でもない僕が付言することはないのだが、一つだけ触れるならば、志村正彦・フジファブリックの「若者のすべて」が短歌の中にこのように詠み込まれ、深い感慨を覚えたことである。山梨県北杜市在住の作者坂本千津子さんは「若者だった頃を思いて」とあるので、ある程度の年齢の方だと推測する。年齢や世代を超えたこの歌の広がりを感じる。

 実際、7月の「若者のすべて」と12月の「茜色の夕日」が富士吉田の夕方の防災無線で流れることはほとんど毎回、地元のNHK、YBS山梨放送、UTYテレビ山梨のニュースで放送され、山梨日日新聞に掲載される。山梨県民のかなり多くの方(ほとんどすべて、と言ってもよいくらいに)が志村正彦とその歌の存在を知っている。


 三枝浩樹氏の「名曲は時代を超えて、かく人の心に甦る」という言葉を記憶しておきたい。

 この「かく」はこの歌を聴いたすべての人のおのおのの心のなかにある。時の流れのなかにあるもの、大切なかけがえのない何かを、それぞれの姿で蘇らせる力が「若者のすべて」にはあるのだろう。


2025年10月4日土曜日

11月3日公演の申込者数(10/4 現在)

今日 10/4 現在、 〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉の申込者は、81名になりました。お申し込みいただいた方には感謝を申し上げます。

残席が少なくなってきましたので、参加希望の方はお早めにお申し込みください。

2025年9月25日木曜日

11月3日公演の〈申込フォーム〉設置

11月3日(月・祝日)、こうふ亀屋座で開催される〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉の〈申込フォーム〉をこのブログのトップページに設けました。

この〈申込フォーム〉から一回につき一名のみお申し込みできます。記入欄の三つの枠に、 ①名前欄に〈氏名〉  ②メール欄に〈電子メールアドレス〉  ③メッセージ欄に〈11月3日公演〉とそれぞれ記入して、送信ボタンをクリックしてください。三つの枠のすべてに記入しないと送信できません。特に、メッセージ欄へ何も記入しないと送信できませんのでご注意ください。(その他、ご要望やご質問がある場合はメッセージ欄にご記入ください)

申し込み後3日以内に受付完了(参加確定)のメールを送信しますので、メールアドレスはお間違いのないようにお願いします。3日経ってもこちらからの返信がない場合は、再度、申込フォームの「メッセージ欄」にその旨を書いて送ってください。

*メールアドレスをお持ちでない方はチラシ画像に記載の番号へ電話でお申し込みください。 

*先着90名ですので、ご希望の方はお早めにお申し込みください。よろしくお願いいたします。

2025年9月17日水曜日

11月3日公演情報、「こうふ亀屋座」HPに掲載

 本日9月17日、「こうふ亀屋座」のホームページの「お知らせ・イベント」欄に、 

【2025.11.3】太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会

 の情報とフライヤー画像が掲載されました。

 青字の部分をクリックするとHPが開きます。

「こうふ亀屋座」の御担当者様、どうもありがとうございました。

2025年9月11日木曜日

11月3日(月・祝日)こうふ亀屋座、〈太宰治「新樹の言葉」「走れメロス」講座・朗読・芝居の会〉開催

 11月3日(月・祝日、文化の日)の午後2時から「こうふ亀屋座」で、〈甲府 文と芸の会〉の第1回公演〈太宰治「新樹の言葉」「走れメロス」の講座・朗読・芝居の会〉を開催します。

 〈甲府 文と芸の会〉は、甲府や山梨に関わる小説や詩歌などの〈文〉の講座や演劇・音楽・映画などの〈芸〉のイベントを行うために設立しました。第1回目のテーマは、甲府ゆかりの作家太宰治の小説「新樹の言葉」と「走れメロス」です。このブログでイベントの詳細の説明や申込の受付をします。

 

 太宰治は、1938(昭和13)年の十一月から甲府に住み始めました。翌年一月に甲府の女性石原美智子と結婚して新婚生活を送ります。五月刊行の小説集『愛と美について』に収録された「新樹の言葉」は、甲府の中心街や舞鶴城跡を舞台とする作品です。

 九月、作家としての仕事のために東京の三鷹へ転居しました。翌年五月に代表作「走れメロス」を発表しました。

 「新樹の言葉」と「走れメロス」は、ストーリーは全く異なりますが、登場人物の造形や関係が類似しています。太宰の分身ともいえる存在が、兄・妹・親友という三人の若者の真摯に生きる姿に感銘を覚えて、自らの生き方を変え、再生への道を歩もうとします。

 この公演ではミニ講座・作品朗読・独り芝居の三つのプログラムによって、甲府時代の太宰治を浮き彫りにします。以下、その概要をお知らせします。


日時:2025年11月3日(月、文化の日)
    開場13:30 開演14:00 終演予定 15:30
会場:こうふ亀屋座 (甲府市丸の内1丁目11-5)  
内容:
Ⅰ部 講座・朗読 「新樹の言葉」と「走れメロス」
 講師 小林一之(文学研究[芥川龍之介・山梨ゆかりの作家] 山梨英和大学特任教授)
 朗読 エイコ(有馬眞胤の芝居に津軽三味線で合いの手を入れる活動を中心に朗読や篠笛      も行う)
Ⅱ部 独り芝居 「走れメロス」 
 俳優 有馬眞胤(劇団四季出身。舞台を中心に活動し、蜷川幸雄演出作品に20年間参加した。2005年より文学作品をすべて覚えて独りで演じる「有馬銅鑼魔」の公演を続けている)
 下座(三味線) エイコ

主催:甲府 文と芸の会
料金:無料(事前の申込みが必要です。9月25日から受付を開始します。先着90人)

 *9月25日(木)からこの〈偶景web〉内に申込フォームを設置します
 *先着90人ですので、ご希望の方は早めにお申し込みください
  よろしくお願いいたします。



〈甲府 文と芸の会〉の公式ブログはこの〈偶景web〉 https://guukei.blogspot.com です。



2025年9月8日月曜日

『太陽(ティダ)の運命』佐古忠彦監督/山梨と沖縄

 8月31日、シアターセントラルBe館で佐古忠彦監督の映画『太陽(ティダ)の運命』を見た。この日は佐古監督の舞台挨拶もあった。今日は昨日に続いて、佐古監督の舞台挨拶を含め、この映画について書きたい。


 佐古監督はTBSの元キャスターだからご存じの方が多いだろう。現在は映画監督として、沖縄の歴史と現実をテーマとする『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』(2017年)、『米軍が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』(2019年)、『生きろ 島田叡-戦中最後の沖縄県知事』(2021年)と今回の『太陽(ティダ)の運命』(2025年)の四本の映画を制作してきた。まず、予告編を添付する。


 

 この日の観客は30名ほどでいつもよりかなり多かった。上映後、監督がこの作品について語った。RBC琉球放送の資料室で30年間の映像を見て、映画に使う箇所を探していったそうだ。ニュース映像自体は短く断片的でもあるので、その基になった素材映像を見つけるのも大変なことだっただろう。Be館で語ったことを正確に再現できないので、その三日前に地元のUTYテレビ山梨で放送されたインタビューの記事を紹介したい。


「反目しあっていた2人が長い時を経て、結果同じ道を歩んでいく、そこを紐解くことが、実は沖縄の歴史を見ることにもなり、この国が沖縄に対してどう相対してきたのかの答えがある」

「民主主義だと言って常に少数派の上に多数派があぐらを書き続けている状態が果たして民主的といえるのかどうか、多数派こそが実は考えなければいけない事象がここにあるのではないか」

「複雑な感情を抱えながら人間が物事を動かしてきた歴史だと強く感じる。どんな人間ドラマがあったのか、そこにぜひ注目してほしい。その先にあるのが沖縄という場所であり、丸ごと日本の歴史だというところをぜひ伝えたい」


 佐古監督が沖縄そして日本の歴史や社会、政治の現実をドキュメンタリー映画で一貫して追究している。沖縄と本土、地方自治と国家、日本とアメリカ、民主主義の少数派と多数派という関係のあり方を鋭く問いかける。イデオロギーではなく、人物の生き方を通じて問い続けているところが優れている。

 監督の舞台挨拶の後、パンフレットのサイン会があり、僕もサインしていただいた。その時少し言葉を交わすことができた。穏やかな視線と物腰の柔らかい姿が印象的だった。


 沖縄と山梨にもいろいろな関わりがある。

 戦後、1945年から米軍は富士北麓(富士吉田市と山中湖村)にある「北富士演習場」に常駐していたが、1956年、その大部分が沖縄に移った。その11年の間、現在の沖縄と同様の事件や事故が起きたことを地元紙の山梨日日新聞社の取材班が「Fujiと沖縄」という連載記事で綿密に報道した(2022年1~6月新聞連載、2023年6月書籍『Fujiと沖縄』刊行[山梨日日新聞社]、第22回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞)。つまり、富士北麓の困難や混乱を結果として沖縄に押しつけたことになる。このような事実に無知であった僕は衝撃を受けた。また、北杜市出身の八巻太一は沖縄各地で教員を務め、退職後に私財を投じて私立沖縄昭和女学校を設立し商業教育を推進したことも「Fujiと沖縄」の記事から詳しく知ることができた。

 音楽でも深いつながりがある。

  甲府育ちの評論家竹中労は、『美空ひばり』や『ビートルズ・レポート』など音楽に関する著書が多いが、70年代初頭から琉歌沖縄民謡のレコードをプロデュースし、コンサートも企画して、嘉手苅林昌を始めとする「島唄」を紹介した功績は大きい。また何といっても、甲府出身の宮沢和史・THE BOOMの「島唄」が挙げられる。1992年1月のアルバム『思春期』で発表され、1993年6月シングルとして発売されて大ヒットとなった。この歌によって沖縄戦に関心を持った人は数知れないだろう。リリースから三十数年が経つが、この歌の影響力は非常に強い。


 8月にBe館で見た『マリウポリの20日間』と『太陽(ティダ)の運命』は、ニュースの取材記者や番組のキャスターであるジャーナリストが監督した。ドキュメンタリー映画の持つ、映像の力、時間を記録する力の可能性を強く感じた。『木の上の軍隊』は劇映画だが、実話を元にしているのでドキュメンタリー的な要素があり、そのことが作品に力を吹き込んでいた。

 Be館の小野社長とも少し話ができたが、この8月に『マリウポリの20日間』『木の上の軍隊』『太陽(ティダ)の運命』という作品を上映したのは、やはり戦後80年を意識しての計画だったそうだ。このような企画をするミニシアターが地方にあることには大きな意義がある。

 この映画はBe館では11(木)まで上映している。その他の地域でもまだ上映中の館もある。今後配信されることがあるかもしれないので、機会があったらぜひご覧いただきたい。



2025年9月7日日曜日

8月の甲府Be館 『マリウポリの20日間』『バッド・ジーニアス』『木の上の軍隊』『太陽(ティダ)の運命』

 8月は甲府のシアターセントラルBe館で四本の映画を見た。これらの作品について少し振り返りたい。


   『マリウポリの20日間』


 ロシアがウクライナに侵攻してからマリウポリが壊滅するまでの20日間を記録したドキュメンタリー映画。ミスティスラフ・チェルノフ監督。この映画を見ていると、記憶の中にある、2022年2月の侵攻開始直後にテレビのニュース番組で放送されたAP通信の映像がいくつも使われていた。あの当時はこの映像がどのようにして撮影されたのか全く分からなかったが、この映画は撮影の過程や経緯を教えてくれた。そして、取材班のたぐいまれな使命感や勇気、緊張感や苦悩をあますところなく伝えている。いきなり侵攻が始まり日常が崩壊していく。爆弾が破裂して家や病棟が破壊されていく。その惨状にも関わらず、状況がよくつかめない。不安と絶望が広がる。死者が増えていく。直視することができない凄惨な映像が続くが、私たちが知らなければならない現実である。

 ウクライナ人の記者チェルノフたちの取材班は、やがて、ウクライナ軍の援護によってマリウポリから決死の脱出を図る。そのような過程を経て世界に配信された映像が日本のニュース番組でも見ることができた。それらの映像を元にして作成されたのがこの映画である。2024年、第96回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞を受賞し、ウクライナ映画史上初のアカデミー賞受賞作となった。また、AP通信にはピュリッツァー賞が授与された。


   『BAD GENIUS バッド・ジーニアス』


 2017年のタイ映画「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」をハリウッドでリメイクした作品。J・C・リー監督。貧しい家庭に育った秀才の少女リンは名門高校に特待生として入学し、劣等生たちから持ちかけられて、彼らを救う「カンニング」作戦を指揮するようになる。その方法がなかなか巧みであり、映画として楽しめたのだが、アメリカ社会の移民や貧困の問題にも踏み込んでいるところが単なるエンターテイメント映画ではないことを示していた。


  『木の上の軍隊』



 沖縄の伊江島で終戦に気づかないまま2年の間もガジュマルの木の上で生き抜いた二人の日本兵の実話に基づいた井上ひさし原案の舞台劇を映画化した作品。平一紘監督。

  上官の少尉(堤真一)と沖縄出身の新兵(山田裕貴)がその立場ゆえに距離があるのだが次第に互いを理解していく。飢えに苦しみながら木の上とその周りの森で孤独な闘いをを続ける。時が経つにつれて、二人の心の中で「帰りたい」という想いが強くなる。最後の浜辺の場面で上官の堤真一が微笑みながら山田裕貴に「帰ろう」という場面が秀逸だった。映画はここで終わったが、実際にモデルの二人は故郷に帰ることができたそうだ。それを喜ぶと共に、帰りたくても帰ることが叶わなかった無数の人々のことを考えた。戦場に行くことは帰ることをあらかじめ断念することでもあった。その現実を強く思い知らされた。 


『太陽(ティダ)の運命』


  沖縄県の二人の知事に焦点を当て各々の闘いの軌跡を通じて沖縄現代史を描いたドキュメンタリー映画。佐古忠彦監督。タイトルの「ティダ」は沖縄の方言で太陽の意味、古くは首長=リーダーを表す言葉である。

 沖縄本土復帰後の第4代知事大田昌秀と第7代知事・翁長雄志は、政治的立場が正反対であることから対立しながらも、大田は軍用地強制使用の代理署名拒否、翁長は辺野古埋め立て承認の取り消しを巡って国と法廷で争った。結局、対立していた二人は沖縄の平和を守るために同じ道を歩むことになる。この映画は、本土と沖縄、国家と地方自治、日本とアメリカという関係のあり方を深く問いかける作品だった。


   8月31日、シアターセントラルBe館で佐古忠彦監督がこの映画の舞台挨拶を行うことを知ったので、この映画はその日に見に行った。佐古監督の舞台挨拶を含め、この映画について考えたことを後にあらためて書きたい。


2025年9月3日水曜日

「こうふ亀屋座」の空間/11月3日の公演(太宰治「走れメロス」独り芝居 他)

 この春、甲府城跡(舞鶴城公園)の南側エリアに、歴史文化交流施設「こうふ亀屋座」と交流広場、江戸の町並みをイメージした飲食と物販の店が集まる「小江戸甲府花小路」がオープンした。

 11月3日(月・祝日)午後2時から「こうふ亀屋座」の演芸場で、〈甲府 文と芸の会〉主催の「講座・朗読・芝居の会」を開催する。横浜から招く有馬眞胤(アリママサタネ)さんの太宰治「走れメロス」独り芝居、エイコさんの「新樹の言葉」朗読と「走れメロス」下座の津軽三味線、前座として私のミニ講座が予定されている。

 有馬さんは劇団四季出身で舞台を中心に活動してきた。蜷川幸雄演出作品に20年間参加し海外でも公演した経験豊かな実力派の役者である。彼の独り芝居は、朗読ではなく一篇の小説を全て覚えて声と身体で演じる。文学作品の語りの新しいスタイルを探究している独自性がある。

(この会は無料ですが、事前の申込みが必要です。その詳細は来週お知らせします)

 

「こうふ亀屋座」

交流広場から見た「こうふ亀屋座」




 この会の準備のために先日、演芸場の舞台や客席、プロジェクターや照明の設備を実際に見てきた。江戸時代の芝居小屋を再現したデザインと木材をふんだんに利用した内装が美しい。一階と二階に席がある。120人ほどが定員のこじんまりとした空間ではあるが、木の香りが漂い、すがすがしくなる場だ。独り芝居の舞台としては最高のものだろう。


客席から舞台へ

舞台から客席へ

 この「こうふ亀屋座」は、江戸時代に甲府にあった芝居小屋「亀屋座」をイメージして建設された。 

 演劇研究者の木村涼氏は論文「八代目市川團十郎と甲州亀屋座興行」(早稲田大学リポジトリ)で〈亀屋座は明和二年(一七六五)創設の芝居小屋で、時代を代表する名優が出演している芝居小屋である〉として、七代目と八代目市川團十郎、五代目松本幸四郎、三代目坂東三津五郎、五代目岩井半四郎などが一座を率いて芝居を上演したと述べている。

 江戸時代、甲府で流行った芝居は江戸でも流行ると言われていた。山梨は徳川幕府の直轄領であり、甲府城の周辺には甲府勤番の武士が住んでいた。芝居を見る目が優れた人が甲府には多いという定評があったようだ。

 「亀屋座」は甲府の中心街から少し南に下った現在の若松町にあった。「こうふ亀屋座」は元の場所とは異なるところに建てられたのは、この小屋の演芸場で様々なイベントを実施して、このエリアを人々の集いの場にするためだろう。


 「小江戸甲府花小路」の小路には、食べ物屋、甘味処、カフェ、お土産屋などの店舗がある。小路の向こう側には「甲府城跡」(舞鶴城とも呼ばれる)の石垣や展望台が見える。近くには「舞鶴城公園」もある。甲府の中心街はかなりさびれてきたが、この江戸情緒の街並みや芝居小屋は新しい拠点となる。


小江戸甲府花小路


 このエリアから南に下ると、移転して再オープンした「岡島」やいろいろな飲食店や商店が続いている。この一帯が中心街の散策コースとしてとても綺麗な空間になってきたのが、甲府市民としてはとてもうれしい。 


2025年8月31日日曜日

2024.8.4/2025.2.6 フジファブリック活動休止前の二つのライブ [志村正彦LN370]

 今日で8月が終わるが、真夏のピークは去ることがない。

 気象庁によれば統計的に最も暑い夏になるそうだ。僕の住む甲府は昔から全国でも有数の酷暑の街。猛暑日の日数は今日で53日となり、過去最多の更新が続いている。実感としてもこれまでで最も暑い夏だ。できるだけ外出を避け、家に籠もり、PCに向かうことが多かった。偶景webのリニューアル、〈芥川龍之介の偶景〉シリーズの開始があり、ブログの記事を三日に一度ほどのペースで書いてきた。


 6月25日に、『フジファブリック LIVE at NHKホール』DVD/Blu-rayが発売された。今年2月6日(木)に開催された活動休止前最後のフジファブリックのワンマンライブの映像である。以下の三つの仕様があった。

・完全生産限定盤(Blu-ray 2枚組+48P LIVE写真集) ※大サイズ豪華三方背BOX仕様
・通常盤初回仕様(Blu-ray 2枚組+24P LIVE写真ブックレット) ※トールサイズクリアスリーブケース仕様
・通常盤初回仕様(DVD 3枚組+24P LIVE写真ブックレット) ※トールサイズクリアスリーブケース仕様

 完全生産限定盤と通常盤初回仕様は数に限りがあり、通常盤初回仕様は初回仕様が完売になり次第トールサイズクリアスリーブケースが付属していない通常盤へと切り替わるそうである。つまり、通常版を加えると四つ以上の仕様があるようだ。こんなにも仕様を複数化するのは、ファンへのサービスという面もあるが、ビジネス面での判断があるのだろう。他のアーティストでもこういう傾向があり、DVD・Blu-rayのパッケージソフトが以前ほど売れない現実がある。




  僕が購入したのは通常盤初回仕様のDVD。「24P LIVE写真ブックレット」を開くと、メンバー欄に〈山内総一郎/金澤ダイスケ/加藤慎一/一行開け/志村正彦/一行開け/Support Musician/伊藤大地 drums/朝倉真司 percussion〉、Special thanks to欄は左右の2段あり、左側の最後に〈志村家のみなさま/フジファブリックに関わってくださったみなさま〉右側に〈志村正彦〉一人が掲載されていた。

 活動休止前最後のライブということもあり、本編からアンコールまでMCも入れたほぼ全編の映像が記録されていた。配信にはなかった映像も挿入されて編集されていた。山内・金澤・加藤の姿もクリアに映し出されていたが、その表情はやはり四十代半ばの男性のものだった。時の流れを感じざるを得ない。メジャーデビューから21年の年月が経ったのだ。

 メンバー三人が最後に挨拶をしてステージから去った後、観客が静かなたたずまいのまま力強く拍手を続けていた。フジファブリックのファンならではの姿と拍手の音でエンディングを構成した編集が良かった。


 一年と少し前の2024年8月4日、フジファブリック 20th anniversary SPECIAL LIVE at TOKYO GARDEN THEATER 2024「THE BEST MOMENT」に出かけた。このライブでは特に、志村正彦の音源・大型モニターの映像とステージでの生演奏を複合させた演出による「モノノケハカランダ」「陽炎」「バウムクーヘン」「若者のすべて」と、アンコールでの冒頭で2008年富士吉田市民会館ライブの志村の〈この曲を歌うために僕はずっと頑張ってきたような気がします〉というMCが入った後は志村の声と生演奏だけで構成された「茜色の夕日」に感銘を受けた。映像ではあるのだが、志村正彦の表情とその変化に魅了された。時には強い眼差しで、時には憂いを秘め、時には笑顔で見つめている。片寄明人によると、志村家、メンバー、スタッフの皆で考えた選曲、演出、映像だったようだ。

 この五曲はこのライブのテーマである「THE BEST MOMENT」、最も素晴らしい瞬間、最も重要な時を表現していた。おそらく、この「THE BEST MOMENT」はまさしく、この8月4日のこの瞬間においてのみ存在させるという意図や合意があったのではないだろうか。そのためか、このライブの映像は(少なくとも現時点まで)発売されることはなかった。今、それで良いのだ、「THE BEST MOMENT」はあの時だけのものだ、という気持ちもあるのだが、心のどこかに、あの特別な五曲を含む映像が(どのような形でもよいが)リリースされないことを残念にも思う。


  これまで発売されたフジファブリックのライブ映像を挙げてみる。発売日、パッケージの名称、メディア(DVD or DVD/BD)を示す。また、志村正彦在籍時のものは青字で記しライブの日時を( )内に記す。(他にドキュメンタリー映像の中にライブが入っていることもある)


①2006年 7月12日 『Live at 日比谷野音』DVD (2006年5月3日 日比谷野外大音楽堂)
②2008年12月17日『Live at 両国国技館』DVD (2007年12月15日 両国国技館)
③2010年6月30日 「FAB MOVIES LIVE映像集」DVD[『FAB BOX』所収] (2003年~2009年 各地 全20曲)
④2011年7月20日『フジファブリック presentsフジフジ富士Q -完全版-』DVD/BD
⑤2013年4月17日『FAB LIVE』DVD/BD
(2012年12月11日Zepp DiverCity Tokyo/2011年12月16日Zepp Tokyo/2012年7月19日恵比寿リキッドルーム)
⑥2014年4月16日『Live at 富士五湖文化センター』DVD (2008年5月31日 富士五湖文化センター)
⑦2014年4月16日『Live at 渋谷公会堂』DVD (2006年12月25日 渋谷公会堂)
*2014年4月16日『FAB BOX Ⅱ』DVD ⑥⑦所収
⑧2014年5月21日『FAB LIVE Ⅱ』DVD/BD
⑨2015年4月8日『Live at 日本武道館』DVD/BD
⑩2016年2月17日『Hello!! BOYS&GIRLS HALLTOUR 2015 at 日比谷野音』DVD/BD
⑪2019年7月10日『Official Bootleg Live&Documentary Movies of“CHRONICLE TOUR”』DVD (2009年6~7月 全国9会場10公演)
⑫2019年7月10日『Official Bootleg Live&Documentary Movies of“デビュー5周年ツアーGoGoGoGoGoooood!!!!!”』DVD (2009年9~10月 全国8会場10公演)
*2019年7月10日『FAB BOX Ⅲ』DVD   ⑪⑫所収
⑬2020年2月26日『フジファブリック 15th anniversary SPECIAL LIVE at 大阪城ホール2019 「IN MY TOWN」』DVD/BD
⑭2022年12月7日『フジファブリック LIVE TOUR2022 ~From here~” at 日比谷野音』DVD/BD
⑮2025年6月25日『フジファブリック LIVE at NHKホール』DVD/BD
*なお、2019年8月28日『FAB LIST 1』CD(初回盤)にはライブ音源CD(2005年7月21日渋谷AX)がある。


 20年の活動歴の中でライブ映像は15のパッケージでリリースされている。こうしてまとめてみると、フジファブリックはライブバンドでもあったという事実が見えてくる。卓抜な演奏力があった。そして活動休止前に、2024年8月4日のTOKYO GARDEN THEATERが〈志村正彦のフジファブリック〉のライブ演奏の集大成、半年後の2月6日のNHKホールが〈山内・金澤・加藤のフジファブリック〉のライブ演奏の集大成という意図で開催されたのだろう。


 また、『フジファブリック LIVE at NHKホール』には付録として、最近の五つのMUSIC VIDEOを収録した『FAB CLIPS 5』が付属されたいた。ミュージックビデオとそのメイキング映像などを収録したDVD『FAB CLIPS』は、結局、1から5までリリースされたことになる。フジファブリックはミュージックビデオにも力を入れてきた。

① 2006年2月22日 『FAB CLIPS』(1)
② 2010年6月30日 『FAB CLIPS 2』*「SINGLES 2004-2009」初回生産限定盤の付録
③ 2015年4月8日  『FAB CLIPS 3』
④ 2020年1月29日 『FAB CLIPS 4』
⑤ 2025年6月25日 『FAB CLIPS 5』*『フジファブリック LIVE at NHKホール』の付録


 最後に一人のファンとしての願望を書きたい。

 2024年8月4日の20周年記念「THE BEST MOMENT」TOKYO GARDEN THEATERライブの映像を含めて、いろいろな権限を何とか調整してその他のフェスやスタジオライブなどの映像を収録した『FAB BOX Ⅳ』とでも名付けられる映像集・音源集をリリースしてほしい。そうするだけの価値のある映像である。


2025年8月27日水曜日

「若者のすべて」-夏の終わりに聴きたい“グッとフレーズ”[志村正彦LN369]

 8月22日(金)夜7時からTBSで『この歌詞が刺さった!グッとフレーズ』第21弾の3時間スペシャルが放送された。夏の後半という時期に合わせ「夏の終わりに聴きたい“グッとフレーズ”」の特集があった。

 今回の出演者は、MCの加藤浩次(極楽とんぼ)、アーティストゲストのデーモン閣下(聖飢魔Ⅱ)・田邊駿一(BLUE ENCOUNT)・矢井田瞳、スタジオゲストの影山優佳・川村エミコ(たんぽぽ)・末澤誠也(Aぇ! group)・土田晃之、・矢作兼(おぎやはぎ)、VTRゲストの狩野英孝・橋本環奈・原菜乃華・間宮祥太朗。

 番組の半ば頃に「夏の終わりに聴きたい」というコーナーがあり、ZONEの「secret base~君がくれたもの~」、山下達郎「さよなら夏の日」、フジファブリック「若者のすべて」、米津玄師「灰色と青」(+菅田将暉)、松任谷由実「Hello, my friend」などが選ばれていた。


 「若者のすべて」を取り上げた部分を簡潔に紹介したい。テロップやクレジットの言葉は〈〉で括る。


 街頭インタビューでのコメントの後で、イントロが始まり、〈若者のすべて フジファブリック/ユニバーサル ミュージック〉というクレジットが示され、「若者のすべて」のミュージックビデオが流され、志村正彦が歌う姿が映し出された。歌詞のテロップが横書きに縦書きにと変わり、フォントの大きさも変化した。〈グッとフレーズ〉という字と共に、鮮明な黄色の字で〈ないかな ないよな きっとね いないよな〉が縦書きで、〈会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ〉が横書きで表示された。

 次に下記の歌詞が一面に示され、街頭インタビューのコメントが加えられた。

 

   ―グッとフレーズ-   

 ないかな ないよな      

 きっとね いないよな     

 会ったら言えるかな     

 まぶた閉じて浮かべているよ 

           作詞 志村正彦   


 ここで初めて作詞者の「志村正彦」の名が登場した。やはり作詞者の名は必須である。

  MCやゲストの話の後で、ナレーターが語り始めた。そのテロップを記したい。


〈夏の恋に期待するも〉 
〈結局何もなく終わってしまう〉
〈誰もが共感できる経験を歌詞に〉

〈2番 主人公に嬉しい展開が!〉


 続いて、2番のミュージックビデオと〈ないかな ないよな なんてね 思ってた/まいったな まいったな 話すことに迷うな〉が表示され、この歌詞をまとめた画面に切り替わった。


  ―グッとフレーズ-    

 ないかな ないよな      

 なんてね 思ってた        

 まいったな まいったな    

 話すことに迷うな      

     作詞 志村正彦   


 ナレーターが〈好きな人とまさかの遭遇〉と語った。

 この後、MCやゲストの間でこの場面をめぐっていろいろな話が出るのだが、印象深かった箇所のテロップを書き写す。


加藤浩次  〈これは声をかけたんですかね?〉
末澤誠也  〈どっちでも捉えられる〉
加藤浩次  〈どっちですか皆さん〉
土田晃之  〈この時点では話しかけてない〉
川村エミコ  〈私は話しかけてる〉〈話しかけて一緒に花火を見てる〉
      〈でも何も言えなくて〉〈関係はどうなるのかな?〉
      (変わるのかな)〈同じ空見てるな〉
……
川村エミコ  〈花火の音が間を埋めてくれて〉
      〈助けてくれる情景が浮かぶ〉


 川村エミコの最後のコメントに説得力があった。二人が再会したとしてもあまり言葉を交わすことがなく、その間を花火の音が埋めてくれて、沈黙を助けてくれる。確かにそのような情景も浮かんでくる。


 今回の「若者のすべて」の歌詞考察は、〈ないかな ないよな〉部分のフレーズが1番から2番へ、〈きっとね いないよな〉⇒〈なんてね思ってた〉、〈会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ〉⇒〈まいったな まいったな 話すことに迷うな〉と転換していくことに焦点を当てていた。この転換されたフレーズが「若者のすべて」のキーフレーズの一つであり、この番組で言う〈グッとフレーズ〉であろう。これまで「若者のすべて」の歌詞の素晴らしさに触れた番組はいくつもあったが、今回の番組のようにこの歌詞の転換とそれによる歌詞の意味の展開について取り上げるものはほとんどなかったように思う。


 このシリーズ番組を振り返ると、2022年12月29日放送の『この歌詞が刺さった!グッとフレーズ〜私を支えた歌詞SP2022〜』でも「若者のすべて」が取り上げられた。この時は、ナレーターが「実はこの曲を作詞作曲したボーカルの志村正彦さんはこの曲をリリースした2年後、29歳の若さで亡くなったのですが、生前この曲についてこう語っていました」という説明が入り(テロップでは〈作詞・作曲Vo.志村正彦さん 「若者のすべて」リリースの2年後… 2009年12月24日29歳で急逝〉と表示)、両国国技館ライブでの志村のMC〈センチメンタルになった日だったりとか 人を結果的に裏切ることになってしまった日 色んな日があると思うんですけども そんな日の度に 立ち止まって色々考えてた それはちょっと勿体ない気がしてきて 歩きながら 感傷に 浸るっていうのが 得じゃないかなって思って 止まっているより歩きながら悩んで 一生たぶん死ぬまで 楽しく過ごした方がいいんじゃないかなということに 26、27歳になってようやく気づきまして そういう曲を作ったわけであります〉がテロップで示された。

 ナレータは続けて「そして志村さんはその思いをこの二行のフレーズに込めたといいます」と話した。志村の歌声と次のテロップが表示された。


       ―グッとフレ ーズ―      

     すりむいたまま 僕はそっと歩き出して 


 つまり、2022年12月の番組では、〈すりむいたまま 僕はそっと歩き出して〉が〈グッとフレ ーズ〉に、今回2025年8月の番組では〈ないかな ないよな きっとね いないよな/会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ〉〈ないかな ないよな なんてね 思ってた/まいったな まいったな 話すことに迷うな〉という〈ないかな ないよな〉をめぐる対比的な歌詞が〈グッとフレ ーズ〉にされている。TBS『この歌詞が刺さった!グッとフレーズ』シリーズは毎回「若者のすべて」の歌詞を丁寧に考察していることが分かる。

    

 「若者のすべて」には三つのキーフレーズ、〈グッとフレ ーズ〉があるだろう。TBS番組が示したように〈すりむいたまま 僕はそっと歩き出して〉のフレーズと〈ないかな ないよな〉をめぐる対比的なフレーズ、その二つに〈最後の花火〉〈最後の最後の花火〉という対になるフレーズを加えると三つになる。この三つのフレーズを複合的に交錯させながら、聴き手はこの歌の物語を心の中のスクリーンに投影していく。これが「若者のすべて」の尽きない魅力となっている。



2025年8月24日日曜日

夏季休暇中の山梨への旅(三)八ヶ岳・南アルプス[芥川龍之介の偶景 5]

 7月28日、芥川龍之介と西川英次郎は昇仙峡から甲府に戻り、上諏訪まで汽車に乗った。前回述べたように、この旅程の参考となった徳冨蘆花は青梅街道を通って塩山、甲府、そして昇仙峡に行った後に富士川水運で静岡へ向かったが、中央線が開通したことによって、二人は汽車で長野へ向かうことができた。鉄道という近代のテクノロジーによって、高速で移動する車窓から眺める風景とその変化というパースペクティヴが生まれた。新しいパノラマビューであり、それを記述する主体の眼差しを誕生させた。

 芥川は中央線の車内の人々や車窓から八ヶ岳や南アルプスの山々を興味深く眺めて、次のように描く。

 汽車が驛々で止る每に 必 幾人かの農夫の乘客がはいつてくる。それでなければ自分等と同じ樣な檜木笠の連中がやつてくる。作物の話が出る。空模樣の話が出る。無遠慮な雜談と 氣のをけない髞笑とは 間もなく 彼方にも此方にも起つた。今は〔車〕内は、山家の人の素樸な氣で 充される樣になつた。

 汽車が進むにつれて 目の前には八ケ嶽の大傾斜が開けて來る 落葉松の林 合歡の花 所々に散在する村落。其處から上る白い烟 さては野に牛を飼ふ人の姿。―自分等〔欠字〕 物を眺めながら窓によつて この山間にすむ甲州人の剛健な素朴な生活の事を考へて見た。

 農夫たちが作物や空模様についておそらく甲州弁で話しあっている。芥川は耳をそばだてて聞いていたのだろう。親しいもの同士の遠慮のない雑談や高笑いによって、車内は山国の人々の素朴な気風で満たされる。次第に車窓から八ヶ岳が見えてくるが、山岳の風景だけでなく「この山間にすむ甲州人の剛健な素朴な生活」のことも考える。

 そのうち、南アルプスの山々の荘厳な姿が視界に入ってくる。

 甲信の山々は いづれも頂を力と熟との暗影を持つた 深い銅色の雲に 埋めながら、午後の日の光をうけて 遠いのは藍色に 近いのは鼠色に 濃い紫の皺を縱橫に刻で 綠の野の末に大きなうねりをうたせてゐた。永河の遺跡が見られると云ふのは そこであらう。白根葵の咲くと云ふのは そこであらう。 長へに壯嚴な山々の姿。―雪にうづもれた其頂には宇宙の歷史が祕めてあるのではあるまいか。

 ここで芥川は、「深い銅色の雲」のもとに「午後の日の光」を受けて、「遠いのは藍色」「近いのは鼠色」に「濃い紫の皺」を刻んだ南アルプスの山々を描写している。芥川の眼差しは色と光とその変化に敏感である。「長へに壯嚴な山々の姿」「雪にうづもれた其頂」に「宇宙の歷史」が秘められている、という箇所はこの『日誌』の中で、風景の荘厳さとその悠久な時間への感嘆が最も込められた記述である。


 このあたりの表現は、国木田独歩の「忘れえぬ人々」(『武蔵野』明治34年)の影響を受けているかもしれない。芥川が書いた車中の農夫たち、山間にすむ甲州人は、独歩の言う「忘れえぬ人々」のような存在である。

 独歩は九州旅行で立ち寄った阿蘇山を次のように描いている。 

天地寥廓、しかも足もとではすさまじい響きをして白煙濛々と立ちのぼりまっすぐに空を衝き急に折れて高嶽を掠め天の一方に消えてしまう。壮といわんか美といわんか惨といわんか、僕らは黙ったまま一言も出さないでしばらく石像のように立っていた。この時天地悠々の感、人間存在の不思議の念などが心の底からわいて来るのは自然のことだろうと思う。

 独歩は阿蘇山を見て「天地悠々の感」「人間存在の不思議の念」を思い浮かべる。厳かな風景から漢語的で抽象的な観念や感覚を思い浮かべている。この表現のあり方と芥川が山梨の荘厳な山々に「宇宙の歷史」という観念を見いだした叙述には共通点がある。

 芥川龍之介にとって国木田独歩は特別な存在であった。昭和2年の小説「河童」では尊敬すべき先人としてニーチェ、トルストイ、ゴーギャンらと共に日本人ではただ一人独歩の名を挙げている。同年の文学論「文芸的な余りに文芸的な」では「独歩は鋭い頭脳を持つてゐた。同時に又柔かい心臓を持つてゐた。しかもそれ等は独歩の中に不幸にも調和を失つてゐた。従つて彼は悲劇的だつた」と書き、独歩を「詩人兼小説家」として捉えている。


 柄谷行人は『日本近代文学の起源』で、独歩や芥川が記した荘厳な山岳美について次のように述べている。

 総じて、ロマン派あるいはプレ・ロマン派による風景の発見とは、エドマンド・バークが美と区別して崇高と呼んだ態度の出現にほかならない。美がいわば名所旧跡に快を見出す態度だとすれば、崇高はそれまで威圧的でしかなかった不快な自然対象に快を見出す態度なのである。そのようにして、アルプス、ナイアガラの滝、アリゾナ渓谷、北海道の原始林――などが崇高な風景として見出された。明らかに、ここには転倒がある。 〔……〕

リアリズムとは、たんに風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない。それまで事実としてあったにもかかわらず、だれもみていなかった風景を存在させるのだ。したがって、リアリストはいつも「内的人間」なのである。

 柄谷は、ロマン派やプレ・ロマン派の人間によって、名所旧跡の風景ではなく、山岳などの荘厳で崇高な自然の美が新しい「風景」として発見されたと考えている。そして、そのような風景の発見が、結果的に転倒されて、崇高な自然の美に憧れる「内的な人間」を創り出す。ロマン派的な主体にとって崇高さは至上の観念の一つとなる。芥川も独歩もそのような主体、「内的人間」である。彼らは風景を創出するために、リアリズムの文章を描いていく。紀行文や日誌はそのスタイルの具現化である。


  この後、芥川と西川の二人は長野県の諏訪に入り、小諸、浅間山、軽井沢と移動して、8月1日に東京に帰った。

 8月21日の日誌には、上野の図書館に行き、館上の西の窓から夕暮れの空を見た際に「そゞろに甲斐の山の夕暮もしのばれる」と書いている。山梨の風景については繰り返し想い出したようだ。

 ここで「甲斐の山」という言葉が使われていることにも注目したい。この言葉はやがて、芥川が飯田蛇笏に贈った「春雨の中や雪おく甲斐の山」という俳句に結実していく。


2025年8月21日木曜日

夏季休暇中の山梨への旅(二)甲府・昇仙峡 [芥川龍之介の偶景 4]  

  7月26日の夜、芥川龍之介と西川英次郎は甲府の佐渡幸旅館に泊まった。

 十一時何分かの汽車で 甲府へついて 「佐渡幸」(宿屋)の二階に この日記をつけ終つたのは 丁度二時である。西川君は例の通り「峨眉山月半輪の秋」を小さな聲でうたひながら 疲勞がなほると云つて、ちやんとかしこまつてゐる。

 二人が甲府駅に着いたのはおそらく夜十二時近くだった。その後旅館で律儀にも二時まで日誌を書いた。

 佐渡幸旅館の本店は柳町通りに、支店は甲府駅前にあった。明治後期から昭和前期にかけて、甲府を訪れた文学者がよく泊まっていた宿舎である。当時の絵はがきを入手したのでその画像を添付する。




 翌日の27日には昇仙峡まで歩き、猪狩村の宿に宿泊した。

 昇仙峡は甲府市北部の荒川上流にある渓谷。国の特別名勝にも指定された景勝地である。花崗岩の断崖や奇岩・奇石、清く澄んだ水の流れ、四季折々で変化に富んだ渓谷美を楽しめる。2020年、「甲州の匠の源流・御嶽昇仙峡~水晶の鼓動が導いた信仰と技、そして先進技術へ~」が文化庁の日本遺産に認定された。


 芥川は友人の上瀧嵬に手紙を出し、その文面を日誌で披露する。

 今日はいやにくたびれて 日記をかく氣にもならぬ。上瀧君へ手紙を出す。

 「甲府からこゝへ來た 昇仙峽は流石にいゝ 水の靑いのと石の大きいのとは玉川も及ばないやうだ しかし惜しいことに、こゝ(昇仙峽)の方が眺めが淺いと思ふ 昇仙峽は藤と躑躅の名所ださうな この靑い水に紫の藤が長い花をたらしたなら さだめて美しい事と思ふ  亂筆不盡」

 手紙をかきをはつた時には 山も川も黑くくれて鬱然と曇つた空には 時々電光がさびしく光る。こんな時には よくいろな思がをこるものだ。大きな螢が靑く 前の叢の上を流れてゆく。(二十七日 荒川の水琴をきゝつゝ。)

 16歳という若さゆえの体力があるとはいえ、真夏の季節に甲府の中心街から昇仙峡まで徒歩で歩いたのでかなり疲れたことだろう。昇仙峽は流石にいいが、眺めが浅いと述べている。青い水と紫の藤の長い花の想像、黒い山と川、曇った空、大きな蛍。昇仙峡という美しく静かな渓谷の中で、芥川の心にはいろいろな思いが浮かんできたようだ。旅の《偶景》は人の想いを喚起する。


 そもそも、芥川龍之介と西川英次郎はなぜ青梅街道を歩いて山梨に入る旅を試みたのか。

 西川によると、二人は徳冨蘆花の「甲州紀行はがき便」(『青蘆集』所収、明治35年刊)という紀行文を読み、その行路を辿る計画を立てて実行したようである。日向和田、氷川、丹波山、塩山、甲府、そして昇仙峡という行程までは同じだが、その後、蘆花は鰍沢から富士川を舟で駿河へと下り、東海道線で逗子へ帰ったが、二人は中央線が開通したこともあり、汽車で上諏訪へ向かった。

 また、田山花袋の紀行文の影響もあるかもしれない。明治27年4月、田山花袋は、甲府徽典館の学頭も勤めた林靏梁が奥多摩を描いた文章に感化され、多摩川上流へ徒歩で向かった。その際の「不遇山水」(「多摩の上流」と改題され、『南船北馬』明治32年刊に収録)という紀行文で「山愈奇に水愈美なり」「天然の美のかくまで変化の多きものなるかを感ぜしむ」と書いている。明治後期、花袋は紀行文の名手として知られていた。芥川は学生時代に小説家としてよりも紀行文家としての花袋を評価していたので、この花袋の文章がこの旅程に影響した可能性もある。


 この時代、鉄道をはじめとする交通網が発達した。徳冨蘆花や田山花袋らの紀行文にも影響されて、青年は各地を旅するようになった。そして、作家志望者は旅の日誌や紀行文を書くことを試みた。芥川龍之介もその一人であろう。 

       (この項続く)


2025年8月18日月曜日

夏季休暇中の山梨への旅(一)丹波山・塩山[芥川龍之介の偶景 3]  

 明治41(1908)年の夏、芥川龍之介は16歳、東京府立第三中学校の4年生だった。夏季休暇中の7月24日から8月1日までの9日間、親友の西川英次郎と山梨と長野へと旅した。 その際の日録が、丹波・上諏訪・淺間行 明治四十一年夏休み「日誌」(『芥川龍之介未定稿集』、引用文は同書による)、として残されている。この日誌には芥川が山梨で見た様々な《偶景》の記述がある。

 なお、この自筆資料は山梨県立文学館に収蔵されている。昨年10月から、同館のデジタルアーカイブ内で「暑中休暇日誌」という名で画像が公開されたので、インターネット上で閲覧可能である。


 西川英次郎(ひでじろう)は後に東京帝国大学の農科に進学し、農学博士となり、鳥取大学や東北大学などの教授を歴任した。府立三中時代の五年間を通して学年全体で、西川が一番、芥川が二番という成績だった。 才気煥発な芥川に対して冷静沈着な西川というように性格は異なるが、大秀才同士で仲が良かったようだ。


 7月21日に夏休みが始まり、日誌はその日から書かれている。21日に〈學校へ汽車の割引券と證明書とをもらひに行く〉〈一日中 旅行の準備に何くれとなく忙しい〉、23日に〈茣蓙も帽子も施行の準備はのこりなくすン だ〉〈明日は雨のふらない限り出發する豫定である〉〈同行は西川君〉とあるように、夏休みの最初の三日間で旅行の準備を進めた。茣蓙(ござ)は徒歩旅行中の休憩のために用意したのだろう。


 7月24日、芥川と西川の二人は東京を出発する。日向和田までは汽車、そこから青梅街道を歩き、氷川で宿泊する。芥川は氷川が〈淋しい町〉であると繰り返し記している。

 25日、氷川から丹波山へと歩いていく。

 氷川と丹波山との間の路はわすれ難い、ゆかしい路であつた。右は雜木山 左は杉木立。

 道中のところどころに滝がある。玉川の流れが見える。寺、半ば傾いた山門、道祖神の祠。静けさにみちた村の人々の生活を羨む。

 村がつきると又山になる。靑黑い山と靑黑い谷 その間を縫ふ白い細い道 玉川の水の音 水車小屋 鶯の聲――あゝ夏だ。

 十六歳の少年は青梅街道の夏を満喫したようだ。日暮れに山梨に入る。鴨沢を経て、丹波山の宿「野村」に泊まる。後に芥川は「追憶」というエッセイでこう述べている。

 僕は又西川と一しよに夏休みなどには旅行した。西川は僕よりも裕福だつたらしい。しかし僕等は大旅行をしても、旅費は二十圓を越えたことはなかつた。僕はやはり西川と一しよに中里介山氏の「大菩薩峠」に近い丹波山と云ふ寒村に泊り、一等三十五錢と云ふ宿賃を拂つたのを覺えてゐる。しかしその宿は淸潔でもあり、食事も玉子燒などを添へてあつた。


 7月26日、二人は丹波山から落合を経て塩山へと向かう。『日誌』にはこうある。

 丹波山から落合迄三里の間は殆ど人跡をたつた山の中で 人家は素より一軒もない。はるかの谷底を流れる玉川の水聲を除いては 太古の樣な寂寞が寥々として天地を領してゐるばかりである。

 實にこの昏々たる睡眠土は 自然の殿堂である。思想と云ふ王樣の 沈默と云ふ宮殿である。

 あらゆる物を透明にする秋の空氣が この山とこの谷とを覆ふ時 獨りこの林の奧の落葉をふみて 凩の聲に耳を澄したなら 定めて心地よい事であらう。

 この日誌は学校の宿題として課せられたものだろうが、芥川はそれを契機として自分なりの紀行文を書こうと試みたのではないだろうか。山国の風景を写生文的な口語文で叙述しているが、その印象は〈太古の樣な寂寞〉〈寥々として天地を領してゐる〉〈思想と云ふ王樣の 沈默と云ふ宮殿〉などの漢文の美文調の表現で記されている。また、秋の風景やその感触も想像しているところが季節に敏感な芥川らしい。


 芥川と西川は夜7時頃塩山駅に到着した。甲府行の汽車を待つ間、外を歩き空を仰いだ。

 紫に煙つた甲斐の山々 殘照の空 鉛紫の橫雲。

 それも程なくうつろつて 終には野もくれ山もくれ 暮色は暗く林から林へ渡つて 空はまるで限りのない藍色の海の樣。涼しい星の姿が所々に見えて いつか人家の障子には 燈が紅くともる樣になつた。

 龍之介の眼差しは、甲斐の野、山、林、空、星、人家に対して、「紫」「殘照」「鉛紫」「暮色」「藍色」「紅」と色合や光の濃淡が微妙に変化する《偶景》を捉えている。

 自分等は 塩山の停車場に七時から十一時迄汽車を待つた。眠くなれば、外を步いた。步いては空を仰いだ。

 嚴な空には 天の河が煙の樣に流れてゐた。


 当時の中央線の本数は少なかったので、二人は四時間も待つことになる。夜も更けて、山国の「天の河」の光が美しく見えたことだろう。この後二人は汽車に乗って甲府に向かった。

        (この項続く)


2025年8月12日火曜日

7月の甲府Be館 『104歳、哲代さんのひとり暮らし』『テルマがゆく! 93歳のやさしいリベンジ』『ルノワール』

 7月は、甲府中心街の「シアターセントラルBe館」で三本の映画を見た。この三つの作品についての感想を少し書きたい。


『104歳、哲代さんのひとり暮らし』

 104歳の石井哲代さんのひとり暮らしの日々を追うドキュメンタリー映画。監督は山本和宏。地元紙の中国新聞で哲代さんを取材した連載記事やベストセラーとなった書籍が元になった。哲代さんは広島の尾道の山あいにある一軒家で一人で生活している。笑顔の表情、ユーモアある言葉が生き生きと撮られている。自宅から坂道を後ろ向きでゆっくりと下りる姿が時々挿入されるが、この映画のリズムを奏でている。
 哲代さんは〈みんなになあ、大事にしてもろうて、ほんとうにいい人生ですよ、だった、言ったらいけんけん、人生です、ingでいきます!〉と語る。いつも〈ing〉でいくこと、この現在進行形の生き方に感銘を受けた。百年を超える時間も現在進行形で流れている。時はいつも現在である。




『テルマがゆく! 93歳のやさしいリベンジ』

 93歳のテルマがオレオレ詐欺で奪われた1万ドルの金を取り戻すストーリー。ジョシュ・マーゴリン監督の祖母の実話が元になっている。役柄同様に93歳の女優ジューン・スキッブが電動スクーターに乗って行動する姿がとてもカッコイイ。仲良しの孫ダニエルをフレッド・ヘッキンジャーが好演している。
 見る前は冒険活劇風の愉快な展開を予想したのだが、映画はアメリカ社会の歪んだ現実をリアルに描いていく。先進国はオレオレ詐欺や高齢化社会など共通の問題を抱えていることを痛感した。     





『ルノワール』

 早川千絵監督の『PLAN 75』に続く長編第二作。1980年代後半、11歳の少女フキ(鈴木唯)は闘病中の父圭司(リリー・フランキー)と仕事ばかりの母詩子(石田ひかり)と3人で郊外の家に暮らしている。感受性が豊かなフキはあれこれと想像をめぐらせる。当時流行した伝言ダイヤル(出会い系サービスのはしり)で知り合った男との場面が緊迫感をもたらす。
 11歳の少女の固有な存在感を際立たせた演出は評価できる。ただし、作品内の現実と想像(というよりも幻想や妄想じみたもの)を交錯させながら映像が展開していくが、その転換、切り替わるポイントがつかみにくいところが気になった。脇役の中島歩、河合優実、坂東龍汰を含めて役者たちが好演していただけに、そのことが残念だった。





 この三作は、104歳と93歳の高齢女性から11歳の少女まで、女性の生き方を余すところなく描いている。特に高齢者の場合、女性の方が生き生きと現実に向き合っているように感じた。そのような意味での「女性賛歌」の映画には独特な魅力がある。


2025年8月11日月曜日

「海のほとり」の夢 [芥川龍之介の偶景 2]

 作家の書簡を読んでいると、その日付に目がとまることがある。ある作品が書かれた日付から特定の周年、例えば十年後、五十年後、百年後に当たる日に、その作品について想いをめぐらすことがある。

 今日からちょうど百年前の1925(大正14)年8月11日に、芥川龍之介は次の手紙を当時の「中央公論」編集長の高野敬録に送っている。

冠省今夕は失礼仕り候明日夕刻お出で下され候やうに申上候へどもそれにては気がせき候間明後日の朝にして頂きたく、ねてゐてもわかるやうに致す可く候間何とぞ右様に願ひ度候 頓首 

 この手紙で言及されている作品は「海のほとり」。芥川はその原稿を11日に高野に渡す予定だったが、完成させられなかったので、明後日13日の朝まで延期することをお願いしている。「ねてゐてもわかるように」とあるのはおそらく夜遅くまで原稿を書くので、朝は起きられないので原稿を所定の場所に置いて家族に托すことことを想定したのだろう。

 8月12日の渡辺与四郎宛書簡に次の歌が書かれている。

ウツシ身ハ恙ナケレドモ汗ニアヘテ文作ラネバナラヌ苦シサ

 〈文作ラネバナラヌ苦シサ〉とあるが、この〈文〉とはこの時取り組んでいた「海のほとり」を指すだろう。芥川はこの作品にかなり難儀したようだ。12日には再度高野敬録に〈明朝と申上げ候へどもどうもはかどらず候間明夕までお待ち下され度候。間に他の仕事などはまぜずに書きつづけ候〉という手紙を出している。執筆は〈どうもはかどらず〉ということで13日の夕方まで再度延期することを伝えている。〈間に他の仕事などはまぜずに書きつづけ〉とあえて記しているのは、一月に三四扁の作品を仕上げることもあった芥川が「海のほとり」に専念することを誓ったのだろう。

 このように芥川龍之介は苦労して「海のほとり」を完成させたが、この短編小説は彼の転機となった重要な作品である。芥川は晩年の二年間、1925(大正十四)年8月から1927(昭和二)年7月にかけて、一人称の語り手が自らの夢を語る一連の短編小説を発表したが、この「海のほとり」がその最初の作品である。1925(大正十四)年9月発行の雑誌「中央公論」に掲載された。


    * * *


 「海のほとり」は、1916(大正5)年の晩夏、芥川が友人の久米正雄と千葉県の一宮海岸で過ごした日々が素材となっている。二人は7月に東京帝国大学を卒業。8月17日から9月2日まで海岸近くの宿に泊まり、海で泳ぎ、小説も書いた。芥川はまだ二十四歳の若者であった。〈ボヘミアンライフ〉だと自ら述べているように、大学卒業から就職までの間の束の間の自由気儘な生活を謳歌した。その夏の体験を素材にして、九年後の1925(大正14)年の夏、この小説は書かれた。芥川の分身である〈僕〉と久米をモデルとした友人の〈M〉が一宮海岸の宿と海岸で過ごしたある一日の出来事が、三つの章に分けて語られている。以下、あらすじを示す。


 一章では、雨が降って外出できない〈僕等〉(〈僕〉と〈M〉)は宿で創作や読書をしている。そのうち〈僕〉は眠りに落ち、〈鮒〉が現れる夢を見る。覚醒後にその〈鮒〉が〈識域下の我〉であり、無意識の自分が夢に現れたものだと考える。二章で〈僕等〉は海に泳ぎに行く。〈嫣然〉と名付けられた少年の話をしたり、〈ジンゲジ〉と呼ばれた少女の姿を眺めたりして、海辺で時を過ごす。三章では晩飯の後に〈僕等〉は友人〈H〉と宿の主人〈N〉と四人でもう一度浜へ出かける。〈ながらみ取り〉や〈達磨茶屋の女〉の印象深い話を聞く。〈僕等〉は宿に戻りながら東京に帰ることを決める。


 このブログの第2回目で書いたことだが、ブログ名の〈偶景〉はロラン・バルトの《INCIDENTS》の邦訳『偶景』から借りてきたものである。〈INCIDENT〉は〈出来事〉〈偶発事〉などと訳されるが、訳者の沢崎浩平氏は〈偶景〉という造語を作り、書名とした。

 バルトは、〈偶景〉を〈偶発的な小さな出来事、日常の些事〉、〈人生の絨毯の上に木の葉のように舞い落ちてくるもの〉を描く〈短い書きつけ、俳句、寸描、意味の戯れ〉のような〈文〉であると記している。

 「海のほとり」の夢の中の光景も海辺の出来事の光景も、作者芥川の人生に〈舞い落ちてくる〉光景とその断片である。芥川のこれらの表現をバルトの言う〈偶景〉だと捉えてみたい。晩年は特にそのような〈偶景〉の戯れを書くことを芥川は試みた。戯れとは言っても、軽やかなものではなく、幾分かは不安に彩られた戯れではあるのだが。


 作品の夢の中で〈鮒〉が現れる部分を引用したい。

 僕は暫く月の映つた池の上を眺めてゐた。池は海草の流れてゐるのを見ると、潮入りになつてゐるらしかつた。そのうちに僕はすぐ目の前にさざ波のきらきら立つてゐるのを見つけた。さざ波は足もとへ寄つて来るにつれ、だんだん一匹の鮒になつた。鮒は水の澄んだ中に悠々と尾鰭を動かしてゐた。
 「ああ、鮒が声をかけたんだ。」

 夢の中の〈僕〉の眼差しは〈月〉〈池〉〈海草〉〈潮入り〉〈さざ波〉を捉えていく。〈さざ波〉は寄って来るにつれて次第に一匹の〈鮒〉に変わり、〈水〉の中で悠々と動く〈鮒〉の〈尾鰭〉に眼差しが注がれる。夢の中で多様に変化し動いていく〈偶景〉との遭遇。〈僕〉はその〈偶景〉から〈鮒〉の〈声〉を聞き取る。

 この〈鮒〉が象徴しているものは何だろうか。〈鮒〉の〈声〉は何を伝えようとしているのか。

 この問いに応答するために書いた論文が筆者にはある。 「山梨英和大学紀要」23 巻 (2025)に掲載され、電子ジャーナルプラットフォームのJ-STAGEにも公開されている「芥川龍之介「海のほとり」の分析」(小林一之)という研究ノートである。ジークムント・フロイトとジャック・ラカンの精神分析と夢解釈の理論と方法に依拠して、夢の象徴や言葉・シニフィアンの連鎖を分析した。文学作品の夢の分析に関心のある方に読んでいただければ幸いである。


 「海のほとり」は、芥川が晩年に追求した〈「話」らしい話のない小説〉の一つとも言われている。確かに、物語らしい物語はなく、様々な〈偶景〉、夢とその連想、海辺での何気ない出来事や会話の断片から構成されている。〈「話」らしい話のない小説〉は、作中の夢の表現や主体の無意識が露呈されていく叙述によって構成されている。〈話〉のある小説は作者の意識によって統御され、閉じられていくのに対して、〈話らしい話のない小説〉はその統御が解除され、無意識が開かれていく。そして、作者の無意識が生み出した〈偶景〉は読者にも作用していく。



2025年8月10日日曜日

甲斐・甲州・甲府-芥川龍之介・井伏鱒二・太宰治

 近代文学の作家の中で、芥川龍之介、井伏鱒二、太宰治の三人は山梨を訪れ、深い関わりを持った作家の代表的存在である。

 彼らの山梨や甲府の呼称には違いがある。彼らはどう呼んでいたのか。以下、その特徴を示した例を引用したい。呼称には下線を引く。 


 芥川龍之介

・甲州葡萄の食ひあきを致し候 あの濃き紫に白き粉をふける色と甘き汁の滴りとは僕をして大に甲斐を愛せしめ候
        1910(明治43)年10月14日 山本喜誉司宛書簡

・春雨の中や雪おく甲斐の山
        「蛇笏君と僕と」 「雲母」1924(大正13)年3月号
 
 井伏鱒二

・この青梅街道は、新宿角筈を起点にして青梅を過ぎ甲州に通じてゐる。同じやうに甲州街道も角筈から出発し、小仏峠を過ぎて甲州に通じてゐる。この二つの街道は不思議にも――不思議ではないかもしれないが、甲州の石和と酒折の間、甲運村といふところで再び合致してゐる。そしてこの合致点は新宿角筈の繁昌ぶりとは反対にひつそりとした村落だが、人気の荒つぽいといふ点では新宿角筈あたりと変りない。
・街道といふものは個性を持つてゐるのかもしれない。それ以上に街道の交叉点には、特に濃厚な個性が生れるのかもしれない。
        「甲州の話」  「都新聞」1935(昭和10)年1月22-25日

 太宰治

甲府は盆地である。四辺、皆、山である。

・よく人は、甲府を、「擂鉢の底」と評しているが、当っていない。甲府は、もっとハイカラである。シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれいに文化の、しみとおっているまちである。
        「新樹の言葉」 『愛と美について』竹村書房  1939(昭和14)年5月刊


 芥川龍之介の 山本喜誉司宛書簡は、第一高等学校の学校行事で甲府に滞在したときのものである。甲府に二泊して、笛吹川で行軍演習を行った。「春雨の中や雪おく甲斐の山」は、山梨出身の傑出した俳人飯田蛇笏に贈った俳句である。芥川は俳句、紀行文、書簡などで「甲斐」という平安時代以来の古称で呼んでいる。

 井伏鱒二は釣りを好み、山梨をよく訪れた。広島生まれだが、山梨を第二の故郷のように思っていた。街道を歩くことも好んだので「甲州街道」という名にも含まれる「甲州」という古風な名で表現している。

 太宰治は昭和13年11月から甲府で暮らし始め、翌年1月に甲府の女性石原美智子と結婚した。「新樹の言葉」は甲府の中心街や甲府城跡(舞鶴城公園)が舞台となっている。昭和14年9月に東京の三鷹に転居したが、その後も、妻の実家の石原家や甲府湯村温泉の旅館明治などに滞在して小説を書いた。昭和20年4月から甲府に疎開し、7月の甲府空襲も経験している。太宰の居住地や生活圏は甲府市内であったことから「甲府」について語っている。

 芥川龍之介の〈甲斐〉、井伏鱒二の〈甲州〉、太宰治の〈甲府〉。各々の呼び方には、三人の作家としての個性や山梨との関わり方が表れている。


 ところで現在の山梨県には、甲府市・甲州市・甲斐市という「甲」のつく名の市が三つある。2004年から2005年にかけての市町村合併で、塩山市、勝沼町、大和村が合併して甲州市、竜王町、敷島町、双葉町が合併して甲斐市が誕生した。また、それ以前から山梨市がある。中央市という市も存在している。山梨の県庁所在地は甲府市であるが、他県の人は甲州市・甲斐市さらに山梨市や中央市と混乱してしまうかもしれない。実にややこしい、というのが正直なところであろう。


 今後このブログでは、芥川龍之介・井伏鱒二・太宰治が甲府について記述した紀行文、小説、書簡などのテクストを取り上げていきたい。甲府や山梨と関わる文学作品を探究することが、〈甲府 文と芸の会〉設立の理由であり、会の活動の目標でもある。

2025年8月9日土曜日

〈偶景web〉のリニューアル

 〈偶景web〉は2012年12月にスタートして、今年で14年目に入りました。おかげさまで、記事の総数が六百ほどに達し、ページビューも五十万を超えました。この機会にこのブログをリニューアルします。

 今後も〈偶景web〉の主要コンテンツが「志村正彦ライナーノーツ(LN)」であることに変わりはありませんが、「芥川龍之介の偶景」という新しいシリーズを設けました。筆者の研究テーマである芥川作品についてのエッセイを試みていきます。また、これまでも書いてきた多様なテーマについての批評的エッセイ、甲府や山梨に関わる作品や出来事などの記事を増やしていくつもりです。 

 トップ画面の色やデザインを変えて、indexを再構成し、項目も再整理しました。 「シリーズ・テーマ  index」が最も大きな分類になりますが、いくつかの項目を加えました。「作家 index」も作り、主宰者の情報なども更新しました。

 この夏、このブログの主宰者は〈甲府 文と芸の会〉という会を設立しました。甲府や山梨に関わる小説や詩歌の〈文〉の作品の講座や演劇・音楽・映画などの〈芸〉のイベントを開催するための会です。このブログで講座やイベントの告知や申込、テーマ作品の紹介などを行いたいと思っております。なお、11月3日(文化の日)に甲府ゆかりの作家太宰治の講座・朗読・芝居のイベントを開催する予定です。

 以上の経緯から、ブログの説明文も「志村正彦ライナーノーツ/芥川龍之介の偶景/多様なテーマの批評的エッセイ/〈甲府 文と芸の会〉」に改めました。

 今後ともよろしくお願い申し上げます。


2025年8月6日水曜日

「若者のすべて」の善きもの-小川洋子『サイレントシンガー』[志村正彦LN368]

 『サイレントシンガー』の「完全なる不完全」「不完全さがもたらす善きもの」という表現から志村正彦の歌が思い浮かんできたと前回書いた。今日は志村正彦の作品に即し書いてみたい。志村の歌の場合、この不完全さは表現の欠落や不在として現れている。


 例えば、「若者のすべて」の鍵となるフレーズ。

 ないかな ないよな きっとね いないよな
 会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ


 「ないかな」「ないよな」と「ない」が二つ反復される。しかし、いったい何が「ない」のか。それがわからないまま「きっとね」を挿んで、「いないよな」に続く。

 「会ったら言えるかな」とあるので、誰かと会うことが仮定されている。その誰かは、歌の主体〈僕〉にとって会ったら何を言えるか困惑するような相手、おそらくは恋愛対象のような存在のことだろう。この場面全体が「まぶた閉じて浮かべている」と閉じられていることもその印象を強くしている。

  繰り返される「ないかな」「ないよな」に焦点を当てれば、その「ない」の主語は誰かと再会するという出来事になるかもしれない。つまり、再会することが「ない」という意味になる。あるいは、「い」「ない」に焦点化すれば、その主語は人間になる。恋愛対象のような人間が「いない」ことになる。

 この二行のフレーズは、歌の主体「僕」、その背後にいる作者志村正彦の複雑で陰影に富んだ心象風景を表してるだろう。そしてその繊細な表現が聴き手の心にやわらかく作用していく。小川洋子『サイレントシンガー』の言葉に依拠してこの二行を捉えるなら、不在や否定という不完全な表現をすることが、この歌に「善きもの」をもたらしている。

 再会が「ない」、人が「い」「ない」。出来事の不在、人の不在。どちらにしても、「ない」「いない」という不在や否定の反復によって、不完全な関係を表現している。また、その不在や否定に、「…かな」「…よな」「…ね」「…よな」という〈僕〉の戸惑い示す助詞をつけることによって、曖昧さやある種の迂回が付加され、表現がある種の不完全さを帯びる。

 このような表現によって、「若者のすべて」は完全なる不完全な歌として存在している。「ないかな ないよな きっとね いないよな」という不在や欠落を帯びた不完全なフレーズが、この歌そのものとその聴き手に「善きもの」を与えている。歌詞だけでなく、メロディやリズムにも、抽象的にしか言えないのだが、どこか完全な不完全さを帯びているように聞こえる。儚いがかけがえのない楽曲という感触だ。志村正彦は完全なる不完全を無意識に追い求めたのかもしれない。


 今年の夏はマクドナルドのCM「大人への通り道」篇で「若者のすべて」が使われた。ときどき放送される映像には「♪若者のすべて/フジファブリック」という表示が小さく示されていた。CMの場合は曲名と歌手・バンド名のみが記されるのが基本だから、作者の「志村正彦」の名がなかったことに特に違和感を覚えなかった。志村の名を知ることがなくても、この歌を気に入り口ずさむ人が増えてくるだろう。そして、音源や映像に関心を持つ人もきっと出てくるだろう。ささやかなものかもしれないが、人々に善きものを与えるだろう。


 志村正彦という固有名について思いをめぐらすと、小川洋子『サイレントシンガー』のリリカのことが浮かんできた。

 仮歌の歌手リリカの名が記されることは絶対にない。名は最初から最後まで「ない」ものとして扱われる。リリカの存在もまた「ない」ものようである。しかし、毎日夕方の五時になると、少女が歌う『家路』が町役場から流れてきて、人々はその歌に耳を澄ませる。

 年に二度、7月に「若者のすべて」、12月に「茜色の夕日」が富士吉田市役所の防災無線のチャイムとして、これからもずっと流されてゆくだろうが(それを強く願うが)、遠い未来において、志村正彦という固有名を知る人が少なくなったとしても、あるいは忘れられてしまったとしても(そんなことはないと筆者は確信しているが)人々はこの歌に耳を澄ませるだろう。

 「若者のすべて」は善きものを与え続けるだろう。


2025年8月3日日曜日

「完全なる不完全」「不完全さがもたらす善きもの」-小川洋子『サイレントシンガー』[志村正彦LN367]

 小川洋子の『サイレントシンガー』が志村正彦の歌を喚起させた、と前回書いたが、今回はこの小説の重要なモチーフについて、ストーリーに触れることは最小限にしながら書いていきたい。


 「内気な人々」が「アカシアの野辺」と名付けられた土地に集まって暮らしていた。内気な人々は沈黙を愛していた。十本の指を駆使した指言葉でつつましく会話していた。

 リリカのおばあさんは長年のあいだ雑用係として「アカシアの野辺」で働き、行方不明となった男の子のために人形をいくつも作った。おばあさんはリリカに「人間は、完全を求めちゃいけない生きものなのさ」「余分、失敗、屑、半端、反故、不細工……。そういう、不完全なものと親しくしておかなくちゃ」と答える。人形の材料はすべて野辺で手に入れた不完全なものだった。

 おばあさんは、野辺で売っているお菓子にはわざと小さな「不完全」をしのばせてあるという内緒話もする。この「不完全」というのは、例えば、星形バタークッキーの詰め合わせの中に一つだけヒトデ形が混じっている、という程度のたわいないものだったが、おばあさんはその「不完全」が「ささやかな幸運の印」であり、「野辺の人たちは、完全なる不完全を目指している」と格言めいたことを言う。


 リリカはおばあさんに育てられ、歌うことを覚えていく。リリカの歌はどこからともなく評判となり、仮歌の仕事が入るようになった。ケーブルテレビ局のテーマ曲、コンペに出すアイドルソングなど地味な仕事ばかりだったが、リリカに不満はなかった。依頼者が望む声を差し出して、どんなふうにでも歌うことができた。歌に正解はないからだ。それでもときに、依頼側の理想に応えられないで責められることもあった。

 話者はリリカの内部の声を次のように語る。その箇所を引用する。


 そういう時は、歌は自在に姿を変えられる風なのだから、自分を空っぽにして、その風に身を任せていればいい、と言い聞かせ、一度深呼吸をした。胸を満たすのは野辺の沈黙だった。すると自然に、再び声があふれ出てきた。

 自分の歌はどこへ消えてゆくのだろう。スタジオからの帰り、車を運転しながら時折考えた。自分の歌はお手本などと高われるほど立派なものではない。鬱陶しがられないよう、本物の歌手の耳元に潜み、もし必要なら、行き先をほんのわずか照らして差し上げましょうか、とささやくだけだ。レコーディングが終われば、仮歌はもう必要ない。それ以前に、選ばれなかった無数のパターンの仮歌は既に捨てられている。ひととき存在したわずかな証拠も残さないまま、蒸発している。

 料金所の彼が忘れ去られた文字を蘇らせるように、仮歌の痕跡をたどる何ものかが、この世界にはいるのかもしれない。不完全さがもたらす善きものを、受け止めようとする誰かが。


 「自分の歌はどこへ消えてゆくのだろう」という問いかけは、仮歌の歌手リリカの固有のものである。仮歌が存続することはない。仮歌は常に既に捨てられ、消えていく。それでも、「不完全」な仮歌の痕跡をたどる聴き手がこの世界にいるかもしれない。その聴き手は「不完全さがもたらす善きもの」を受け止めようとするだろう。リリカは仮歌の歌手であり、本物の完全な歌手からすると不完全な存在である。それでもその不完全な歌手は痕跡として在り続けるだろう。

 「野辺の人たち」が目指している「完全なる不完全」とはどういうものか。「完全」と「不完全」は対立する概念である。その二つを結びつけた「完全」「なる」「不完全」という表現は矛盾しているとも言えるが、「不完全」なものを「不完全」なものとして内包したまま、そのままに、「完全」なものとなっていく過程を示した表現だと考えてみたい。「完全なる不完全」なものが人に「善きもの」を与えることができる。


 この「不完全さがもたらす善きもの」という表現について考えているうちに、志村正彦・フジファブリックの作品が思い浮かんできた。完成された彼の歌は、声も言葉も歌い方も完全な水準に達している。しかし、その完全のなかにはある種の不完全が痕跡のようにして刻み込まれている。そして、その不完全さが聴き手に「善きもの」をもたらしている気がする。

                          (この項続く)


2025年7月20日日曜日

「若者のすべて」のチャイムと小川洋子『サイレントシンガー』の冒頭シーン[志村正彦LN366]

 今年も、志村正彦の誕生日をはさむ7月7日から13日まで、富士吉田の防災行政無線の夕方6時のチャイムが志村作詞・作曲のフジファブリック「若者のすべて」に変更され、その音が市内に響いた。

 その映像がYouTubeで流されたり、SNSで語られたりした。夏7月の「若者のすべて」と冬12月の「茜色の夕日」は富士吉田の風物詩とも言えるチャイムとなっている。7月と12月をあわせて、今回で28回目を迎えるという。


 6月30日、小川洋子の『サイレントシンガー』(文藝春秋)が刊行された。六年ぶりの原稿用紙400枚の長篇小説。早速手に入れて、一日かけてゆっくりと読んでいった。




 冒頭のシーンを読んでいくうちに、志村正彦のチャイムのことが浮かんできた。長くなるが引用したい。(ちなみに、この箇所を含む部分が発行元の「試し読み」に掲載されている)   


 毎日、夕方の五時になると、町役場から流れる『家路』が、山の中腹に広がるE-5地区にまで聞こえてくる。

響きわたる  鐘の音に
小屋に帰る  羊たち

 歌声は、麓を伝い、稜線を越え、森を抜けてくる間に、遠のいたり渦を巻いたり途切れ途切れになったりする。それでも、歌っているのは小さな女の子だ、というのは分かる。

夕日落ちた  ふるさとの
道に立てば  なつかしく

 一音一音、何の迷いもなく、のびやかに空中に広がってゆく。目を見開き、両手を脇にぴたりとつけ、爪の先まで真っすぐにのばして歌っている姿が、目に浮かんでくる。

ひとつひとつ 思い出の
草よ花よ 過ぎし日よ
過ぎし日よ

 まだ十分な厚みを持っていない舌のせいで、言葉の端々にあどけなさが漂っている。きっと、過ぎし日、などという言葉の意味も知らないに違いない。


 「若者のすべて」の歌詞を知るものなら誰でも、冒頭の一行から「夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて」という一節を想い出すのではないだろうか。

 ある町に夕方五時に流れる「家路」は、ドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調「新世界より」第2楽章のメロディに弟子の音楽家ウィリアム・フィッシャーが歌詞を付けた「Goin' Home」を、文学者・作詞家の野上彰が翻訳したものである。この曲の歌詞では、堀内敬三「遠き山に日は落ちて」の方が親しまれているが、他のヴァージョンもたくさんあり、宮沢賢治の歌曲「種山ヶ原」はその最も初期のもののようだ。

 この小説では「家路」は町役場が録音したテープで流されている。富士吉田の「若者のすべて」も、期間は限定されているが、市役所の無線のチャイムとして放送されている。「家路」も「若者のすべて」も、その町その市の人々に親しまれている。


 繰り返し再生されて録音が古びてしまったせいなのか、あるいは元々そうなのか、『家路』は町の役場よりももっと遠いどこかから、長い時間を経てはるばる届いているかのような錯覚を呼び起こす。皆をここではないどこかへ帰りたい気持ちにさせる。そこが心休まる場所であろうと、なかろうと、そもそも帰るべき場所がどこなのか分からなくとも、とにかく家路につく時が訪れたのだ。
 歌声は、帰る、というそこはかとなく心細い歩みに寄り添う。先頭を羊たちが導き、最後尾を歌声が見守る。それなのに、この歌をうたっているのが誰なのか、知っている者はいない。知ろうとする者さえいない。


  「家路」の録音テープは、町の「皆をここではないどこかへ帰りたい気持ちにさせる」が、「この歌をうたっているのが誰なのか」を知っている者も知ろうとする者さえもいない。やがて、この『家路』を歌っている小さな女の子が「リリカ」であることが明かされる。小川洋子はリリカの一生を静謐な声で語ってゆく。題名の「サイレントシンガー」、沈黙の歌い手という矛盾する言葉の組み合わせが、この小説の本質をかたちづくる。


 「家路」の歌詞には「響きわたる  鐘の音に」「小屋に帰る  羊たち」「夕日落ちた  ふるさとの」「道に立てば  なつかしく」「ひとつひとつ 思い出の」「草よ花よ 過ぎし日よ」という言葉がある。夕方、ふるさとの家に帰る道沿いで草や花を見て、なつかしさにつつまれて過ぎし日を想い出す。

 この歌のモチーフから志村正彦のいくつかの歌を想起した。

 例えば、「若者のすべて」の「街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ/途切れた夢の続きをとり戻したくなって」、「茜色の夕日」の「茜色の夕日眺めてたら/少し思い出すものがありました/晴れた心の日曜日の朝/誰もいない道 歩いたこと」、「陽炎」の「あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ/英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ/また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ/残像が 胸を締めつける」、そして「赤黄色の金木犀」の「赤黄色の金木犀の香りがして/たまらなくなって/何故か無駄に胸が/騒いでしまう帰り道」。


 〈帰りを急ぐ〉〈途切れた夢の続き〉〈茜色の夕日〉〈少し思い出すもの〉〈あの街並〉〈残像〉〈金木犀〉〈帰り道〉、一連の風景やモチーフが志村の世界を貫いている。

 彼の歌の中心に、〈故郷に帰る〉、そして矛盾するようではあるがその逆の〈故郷に帰ることができない〉という心のあり方を感じる。

 小川洋子の『サイレントシンガー』、「家路」の歌詞、リリカの歌声は、このような志村正彦の歌を喚起させた。

                      (この項続く)


2025年7月18日金曜日

「若者のすべて」/マクドナルドCM「大人への通り道篇」[志村正彦LN365]

 今日、関東地方で梅雨が明けた。ここ数日の雨模様の天気から晴天に一変。真夏の日差しに包まれた。眩しい光の季節の到来だ。

 午後3時少し前のことだった。

 PCで作業をしていると、壁際のテレビから突然、志村正彦の声が聞こえてきた。「若者のすべて」の冒頭だ。驚いて画面を見ると、マクドナルド・ハンバーガーのCMだった。永作博美の姿とドライブスルーが見えた。


 早速、YouTubeのマクドナルド公式を探すと、「大人への通り道」篇というCMが見つかった。「“家族”に寄り添い続けるブランド、マクドナルドが届ける新TVCM」「永作博美さんが母親役で、マクドナルドのTVCM初出演!ドライブスルーを通じて、母が子の小さな成長に気付くハートフルストーリー〜新TVCM『大人への通り道』篇 2025年7月15日(火)より地上波にて放映開始〜」と書かれていた。三日前から放送が始まったようだ。

 「大人への通り道」篇 には30秒ヴァージョンと60秒ヴァージョンの二つある。60秒、30秒と連続して再生される映像を紹介したい。





   夏を予感させるあの印象深いイントロから、志村の声が「真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた/それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている/夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて」まで、画面の物語の背景に響いていく。ロケ地は長崎。免許を取った息子が運転する軽乗用車に同乗する母(永作博美)と娘。長崎名物の市電が接近する。マックのドライブスルーに行き、ダブルチーズバーガーを注文。「ドライブスルーは、大人への通り道」という言葉で映像は終わる。

 マクドナルド公式(McDonald’s)の説明にはこうある。

CM「大人への通り道篇」は誰もが一度は経験する“成長の通過点”を、ドライブスルーという舞台でやさしく描いています。ついこの間まで後部座席にいた息子が、いまは自分の運転で家族をドライブスルーに連れてきてくれている。その成長に、よろこびと、ほんの少しの切なさがこみ上げます。親子の関係性が変わっても、ずっと訪れる場所でありたい。そんな願いを込めています。 


 フジファブリックには「Cheese Burger」という愉快な歌がある。マクドナルドのラジオCMだった。それ以来のフジファブリックの音源起用になるのだろう。

 それにしてもなぜ、「大人への通り道」篇に「若者のすべて」が使われたのか。「真夏のピークが去った】という季節感、「それでもいまだに街は 落ち着かない」という街のざわめき。夏という時。夏という場。夏の感触。そしてCMでは流れなかったが、「世界の約束を知って それなりになって また戻って」という一節が、このCMの「大人への通り道」というモチーフにつながるのだろうか。


 今回のCMの「ダブルチーズバーガー」を注文する息子の声は、「Cheese Burger」の「チーズ とろけそうなチーズ/パンにはさんだビーフ 想像しただけで 早歩き」という志村正彦の声と呼応しているのかもしれない。そう考えると、このCMが愛おしくなる。


2025年7月10日木曜日

志村正彦と飯田龍太の「陽炎」[志村正彦LN364]

  今日7月10日は志村正彦の誕生日である。1980年、山梨の富士吉田市で生まれた。同じ7月10日に生まれた偉大な俳人がいる。飯田龍太。1920年、山梨の境川村で生まれた。

 六十年を隔てて、志村正彦は飯田龍太と同じ日に誕生した。時代も表現形式も一般的な知名度も異なるこの二人を同一の誕生日ということでエッセイの俎上に載せることに違和感を持つ方もいるかもしれないが、山梨の四季の風景に触発されてきわめて優れた言葉を紡ぎ出したことから、今日はこの二人の「陽炎」を表現した作品について書きたい。


 志村正彦・フジファブリックの「陽炎」は夏の名曲である。2003年の作。

 詩人は、「少年期の僕」の「残像」と「今の自分」にとっての「出来事」を描く二つの系列によって歌詞を構成している。まず「残像」系列を引用する。

  あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
  英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ
  また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ
  残像が 胸を締めつける

 「残像」の系列では、歌の主体「僕」は、過去へ、「あの街並」という場へ、「路地裏の僕」自身へと回帰していく。「英雄気取った」少年期を想起しているうちに「残像」が次々に浮かんでくる。この「残像」はもうすでにそこには残っていないが、消えてしまったにも関わらず、記憶に残り続けている心象や感覚のことであろう。「残像」は執拗に現れて、歌の主体の「胸を締めつける」。 次に、「出来事」の系列を引用する。

  きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
  きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう
  またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
  出来事が 胸を締めつける

 「今」、現在という時。「きっと今では」と「きっとそれでも」、「無くなったもの」と「あの人」、「たくさんあるだろう」と「変わらず過ごしているだろう」。対比的な表現によって、複雑な陰翳を帯びた「出来事」が次々と現れて、歌の主体の「胸を締めつける」。「あの人」に焦点化していくが、「あの人」が誰なのかは分からない。歌詞の一節にあるとおり、「あの人」は「陽炎」のように儚く揺れている。

  そのうち陽が照りつけて
  遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる
  陽炎が揺れてる

 最後のパートでは「陽炎が揺れてる」が三度繰り返されるが、歌い方が変化していく。揺れているものが静止していくように感じられる。陽炎は揺れてやがて消えていく。

 残像も出来事も、過去の物語も現在の物語も、揺らめきが消えてゆき、すべてが静けさに包まれる。志村正彦はそのように歌い終えている。


 飯田龍太にも「陽炎」を季語とする名句がある。

 

  陽炎や破れ小靴が藪の中


 1971年の作。第六句集『山の木』に収録されている。

 「陽炎」は春の季語。日光で地面が熱せられ、風景が細かくゆれたりゆがんで見えたりする。「陽炎」が揺らめくなかで、俳人の眼差しが「破れ小靴」に注がれる。「小靴」とあるので子どもの靴だと想像される。履きつくされて擦り切れて破れてしまったのか、「破れ小靴」がなぜか「藪の中」で見つかる。「破れ」たままでそこに在る。そこに在り続けている。しかし、時間の経過とともに朽ちはてていくようでもある。

 俳人はある痛みの感覚を持ってその「破れ小靴」を見つめている。時の流れについても儚さや痛ましさやを感じている。飯田龍太は三十六歳の時に五歳の次女を病臥一夜にして失う。この句にはその次女の面影が宿っているという説がある。俳人の眼差しには深い哀しみが込められているとも考えられる。

 「藪の中」はありのままの風景だろうが、この言葉は芥川龍之介の小説「藪の中」も想起させる。「破れ小靴」そのものが謎めいた物であり、謎の迷宮の中に陽炎のように存在しているとも考えられる。生と死に対する問いかけがあるのかもしれない。

 また、切れ字の「や」、「破れ」の「や」、「藪」の「や」という「や」の連鎖と「やぶ」音の反復が独自の韻律をつくる。さらに「の中」という語法を伴うことによって、音がループする感覚を奏でている。


 志村正彦の眼差しは少年期の「胸を締めつける」「残像」に、飯田龍太の眼差しは子どもの「破れ小靴」に注がれている。表現された世界は異なるが、胸が締めつけられるような痛みの感覚が共通している。そして、「陽炎」が揺れはじめる。生と死、過去と現在の迷宮のなかに表現主体が包み込まれる。


 今日は7月10日。志村正彦と飯田龍太。日本語ロックを代表する存在と現代俳句を代表する存在。山梨で生まれた二人の詩人が同一の誕生日である偶然を祝したい。


2025年6月29日日曜日

6月の甲府Be館『小学校~それは小さな社会~』『教皇選挙』『敵』『リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界』

  6月は「シアターセントラルBe館」で四本の映画を見た。

 僕も妻もいろいろと忙しい毎日を送っていて、このところ、週に一度の映画館通いが唯一の愉しみである。Be館は甲府の中心街にあるので、映画の前後にランチを食べ、街を歩く。日常から解放される。ささやかだがそれなりにぜいたくな時の過ごし方かもしれない。今日はこの四本の映画について少しだけ感想を書きたい。






山崎エマ監督『小学校~それは小さな社会~』  父親が英国人、母親が日本人である山崎監督は、日本の公立小学校、インターナショナルスクールの中高、米国の大学で学んだ。小学校が「日本の子どもたちを“日本人”に作り上げる」というモチーフで、東京の世田谷区立塚戸小学校の生徒・保護者・教師を一年間撮影したドキュメンタリー作品だが、教師と生徒の人間的な交流と学校全体としての集団的な規律訓練が交錯する姿を丹念に追いかけている。この映画を見ながら、半世紀以上前になる小学校での出来事の記憶がぼんやりとうっすらと浮かび上がってきた。懐かしいという感情ではなく、こういうこともあったのだという発見のようなもの。それがこの映画の核にある。



エドワード・ベルガー監督 『教皇選挙』  新しいローマ教皇を選出する教皇選挙(コンクラーベ)をめぐる人間模様を描いた映画。4月にフランシスコ教皇が亡くなりコンクラーベが行われたこともあって話題作となった。予備知識がなかったのでドキュメンタリー的な作品なのかと思っていたが、実際はミステリー仕立ての映画だった。結末は想定外の展開になる。ほんのわずかに伏線が張られてはいるが、その伏線には誰も気づかないであろう。そのことを含めて、すべては前教皇の意志である、という物語の展開がバチカンらしいのかもしれない。



吉田大八監督『敵』  筒井康隆の同名小説の映画化。七十七歳の主人公の男は元大学教授。フランス文学・演劇の権威だったが、妻に先立たれ、日本家屋で一人暮らしの日々を送る。老齢や孤独ということもあってか、男は次第に自らの夢や妄想にひきこまれていく。原作者の筒井康隆がずっと(作家生涯をかけてというべきだろう)探究しているテーマだ。吉田監督は美しいモノクロ映像の陰翳と秀逸なカット割りとモンタージュによってこの難しいテーマを見事に映像化している。ただし、「敵」を映像として実体化するような戦闘的シーンは不要だった気がする。夢や妄想はあくまでも自らの内部の「敵」、無意識の「敵」として存在するのが筒井文学の本質であるからだ。


エレン・クラス監督『リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界』  報道写真家リー・ミラーの人生を描いた伝記映画なのだろうが、見終わったときに感じたのは本質的に、戦争の本質を厳しく鋭く映し出した戦争映画ということだった。写真家の眼差しが戦争の犠牲者たちを捉える。その過酷な仕事に打ち込む写真家の姿。映画内の映像だとはいえ、見ることに耐えられない残酷な被写体の姿。人間の生と尊厳を根こそぎ奪い取る戦争の姿。なぜリー・ミラーが戦争の報道写真を撮ることになったのかという問いは最後にインタビューで語られることになる。一言で言えば、戦争と性を貫く男性の暴力との闘いになるのだろうが、そのモチーフは的確に表現されている。



 四本の映画はそれぞれ本質的な問いかけを持っていた。甲府市内に残る唯一の映画館「シアターセントラルBe館」はミニシアター系作品の二番館のような存在だが、上映作の選択がいつも素晴らしい。この甲府の地でこのような映画を鑑賞できるのは特筆すべきことだ。

 この映画館はこのまま存続してほしい。僕たちにできるのは、とにかく、Be館に通うことだと思っている。

2025年5月31日土曜日

「こうふ亀屋座」「小江戸甲府花小路」/Be館『35年目のラブレター』

 4月19日、甲府市の中心街に江戸情緒あふれるまちなみを作るプロジェクトとして、甲府城の南側エリアに歴史文化交流施設「こうふ亀屋座」と交流広場、その周辺に江戸の町並みをイメージした飲食物販等施設「小江戸甲府花小路」という小路がオープンした。

 「こうふ亀屋座」には120人収容の演芸場と五つの多目的室が設けられている。記念イベントとして、落語会、能楽会、「宮沢和史TALK&LIVE」という音楽会が演芸場で開かれた。文字通り演芸の場である。

 この建物は、江戸時代の芝居小屋「亀屋座」をイメージして建設された。 江戸時代、甲府で流行った芝居は江戸でも流行ると言われていた。芝居を見る目が優れた人が甲府には多いという定評があった。


 先々週、「こうふ亀屋座」と「小江戸甲府花小路」の界隈を歩いた。岡島という老舗百貨店の新店舗の方から北東側に歩いて行くと、このエリアに入ることができる。確かに江戸を思わせる小屋と小路だ。なんだかタイムスリップした気分になる。話題のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の映像も浮かんできた。


食べ物屋、甘味処、カフェなどの店舗もある。その向こう側には「甲府城跡」(舞鶴城とも呼ばれる)の石垣が見える。近くには「舞鶴城公園」もある。中心街の散策コースとしてはとても綺麗な空間になっている。甲府の中心街はかなりさびれてきたが、この江戸情緒の街並みや芝居小屋が新しい拠点となってほしい。



 先週はシアターセントラルBe館に出かけた。これで三週間連続となる。

 今回は『35年目のラブレター』。監督・脚本、塚本連平。役者は主演西畑保:笑福亭鶴瓶、西畑皎子:原田知世、保(青年時代):重岡大毅、皎子(青年時代):上白石萌音。



 文字の読み書きができなかった保が夜間中学で字を覚えて、妻の皎子にラブレターを書くという実話を基にした映画である。こういうストーリーであると、いわゆる「感動もの」的な作品に思われるかもしれないが、この映画は適任の役者や抑制された演出によって優れた作品になっていた。

 重岡大毅は、2022年7月から9月まで放送されたテレビ東京のドラマ「雪女と蟹を食う」で好演していた。このドラマの挿入曲に、志村正彦・フジファブリックの「サボテンレコード」と「黒服の人」が使われた。上白石萌音は、2022年5月7日のNHK総合の番組「こえうた」で志村正彦・フジファブリックの「若者のすべて」を歌った。そんなこともあり、この二人には親しみを抱いていた。保と皎子の出会いから結婚へと至る展開には心が温まった。懐かしくて尊いものがあった。


 映画の中で時が進んでいくが、どうにもならない悲しい出来事が起きる。しかし、青年時代や新婚時代の二人の回想が挟まれ、現代と過去の間に「スリップ」が起きる。その「スリップ」が生きていく力を与える。未来への時間を開いていく。『侍タイムスリッパー』や『知らないカノジョ』と同様に、「スリップ」が演出上の素晴らしい効果をあげている。

 ラストシーンで、笑福亭鶴瓶と原田知世、重岡大毅と上白石萌音の二つのカップルが、公園の二つのベンチに隣り合わせで座っている。一つの空間にスリップしている。その幻の場面が秀逸だった。とりわけ美しかった。

2025年5月18日日曜日

「シアターセントラルBe館」再開!『侍タイムスリッパー』『知らないカノジョ』映画館というスリップの場

 志村正彦・フジファブリックの「消えるな太陽」は、「映画の主人公になって/みたいなんて誰もが思うさ/無理なことも承知の上で映画館に足を運ぶ俺」と始まる。志村にとって映画館も太陽、光の場だったのであろう。

 映画の主人公になってみたいなんて、さすがに思うことはないが、映画館に足を運びたいとは思う。でも、私の住む甲府にはもう映画館がない。時々通っていた中心街の映画館「シアターセントラルBe館」は2023年12月から休館になってしまった。非常に残念だった。ここは良質な作品を上映する甲府のミニシアターとも言える場。このblogでも何度も上映作について書いてきた。休館ということだったがそのまま閉館となってしまう恐れもあった。


 ところが、シアターセントラルBe館が5月2日から再開されることになった。とてもとても嬉しかった。地元のメディアでも大きく報道され、山梨日日新聞の記事には「小野社長は「『映画の街』として栄えた市内中心街にある映画館として、長く続けてきた文化のともしびを消したくない。映画館からしばらく疎遠になっている人も、これをきっかけに足を運んでほしい」と語ったとある。この小野社長の心意気が有り難い。

 出井寛『山梨シネマ120年』(山梨ふるさと文庫2019)に山梨の映画館の歴史が詳しく書かれているが、最盛期の昭和30年代前半には甲府市内に十五の映画館があった。伝統的に甲府は興行が盛んな街だった。江戸時代には歌舞伎の芝居小屋があり、大正時代以降は映画館が娯楽の場となった。しかし現在は山梨県内に、この復活したBe館(略してこう呼んでいる)と昭和町のイオンモール内にある「TOHOシネマズ 甲府」というシネコンの二つしかない。富士北麓地方ではかつて富士河口湖町にあったのだが今はもうない。

 早速、妻と二人でBe館に出かけた。先々週は『侍タイムスリッパー』、先週は『知らないカノジョ』と、二週間続けて見た。



 



 『侍タイムスリッパー』は、幕末の侍が現代の時代劇撮影所にタイムスリップするという荒唐無稽な物語。主役の山口馬木也の姿や立ち居振る舞いが毅然として凜々しいが、ところどころユーモアも醸し出す。安田淳一監督による自主制作映画だが、脚本、俳優、演出、映像のすべてが素晴らしい出来映えだった。

 タイムトラベルものの定型に陥ることなく、侍という存在、幕末から現代までの時代の変化、そして時代劇そのものについて問いかけるメタ的な視点がある。全国で上映されるようなヒット作となったことも頷ける。



『知らないカノジョ』の監督三木孝浩は、志村正彦・フジファブリックの「若者のすべて」を重要なモチーフとしたNetflix映画『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』を監督したということから、この最新作にも興味を持った。主演は中島健人とシンガーソングライターのmilet。この二人が恋愛し結婚するのだが、各々の仕事や立場が逆転した〈もう一つの世界〉に入り込んでしまう。小説と音楽の制作もモチーフになっている。脚本の質がとても高いことに驚いたのだが、日本映画離れをしているなと思って帰宅してから調べてみると、フランス映画『ラブ・セカンド・サイト はじまりは初恋のおわりから』のリメイクだということを知ったので別の意味でも驚いた。リメイクであるからにはオリジナルを見てみたい。幸いにして配信サイトにあった。

 

 いくつかの場面での小さな違いはあるものの基本的なストーリーは同じだった。しかし、決定的な違いがあった。ネタバレになるかもしれないが、少しだけ言及したい。オリジナル版の『ラブ・セカンド・サイト はじまりは初恋のおわりから』では二つのパラレルワールドが展開するが、リメイク版の『知らないカノジョ』には三つのパラレルワールドが存在する。この第三のパラレルワールドが重要な意味合いを持つ。そしてこの点においてリメイク版はオリジナル版を超えた作品となっている。三木監督や脚本の登米裕一・福谷圭祐の功績になるだろう。


 というわけで、休館時から一年半を経てタイムスリップしたかのように甲府の中心街に再び現れた「シアターセントラルBe館」で、時代のタイムスリップもの『侍タイムスリッパー』とパラレルワールドのスリップもの『知らないカノジョ』の二つの映画を二週の間スリップしながら鑑賞した。


 あらためて気づかされたことがある。映画館そのものがスリップの場である。いつもは自宅のテレビモニターで配信サイトを通して見ているが、やはり日常と地続きの感がある。映画館では外界が遮断され、暗闇に包まれてから、スクリーンという光の場にスリップする。二時間ほどの時間かもしれないがその時間を超えて、日常からもう一つの世界へとスリップできる貴重な経験の場である。


付記:ページビューが50万を超えました。このblogが始まった2012年12月から12年半が経ち、記事の総数は579になります。拙文を読んでいただいている方々に深く感謝を申し上げます。


2025年4月27日日曜日

「消えるな太陽」[志村正彦LN363]

 フジファブリック「消えるな太陽」(詞・曲:志村正彦)は、2003年6月21日発売の2ndミニアルバム『アラモード』に収録されている。僕はまだ聴いたことがないが、富士ファブリック時代のカセットテープにも収録されたヴァージョンもあるそうなので、最も初期の曲であることは間違いない。この曲はメジャーデビュー後に再録音されていないが、2006年5月3日の日比谷野外音楽堂でのライブが収録されたDVD『Live at 日比谷野音』でライブヴァージョンを視聴できる。この映像では志村正彦のブルージーなギターソロが味わえる。 

 ここではYouTubeの「フジファブリック Official Channel」にある音源と歌詞を紹介したい。   




映画の主人公になって
みたいなんて誰もが思うさ
無理なことも承知の上で映画館に足を運ぶ俺
ステレオのヴォリュームを上げて
詩の無いラブソングをかけて
ありったけアドレナリン出して目が覚めるだけ

ああ 欲しいメッセージ 要らないメッセージ
どんなメッセージ 解らない
暗い街にせめてもの光を

レコードの針を持ち上げて ラジオに切り替えたらすぐ
頭にくる女の声で目が覚めるだけ   

ああ 欲しいメッセージ 要らないメッセージ
どんなメッセージ 解らない
暗い街にせめてもの光を

消えるな太陽 沈むな太陽
消えるな太陽 沈むな太陽

ああ 欲しいメッセージ 要らないメッセージ
どんなメッセージ 解らない
暗い街にせめてもの光を

燃え上がれ 燃え上がれ太陽 照らせよ太陽
燃え上がれ太陽 照らせよ太陽 ああ


 〈映画の主人公〉になるという〈無理なこと〉を承知の上で映画館に行く〈俺〉の物語。映画館の暗闇に浮き上がる光の光景を見てから、〈俺〉は家に帰ってくる。閉ざされた部屋のなか〈ステレオのヴォリューム〉を上げ〈詩の無いラブソング〉をかける。そのうちに興奮して目が覚める。〈レコードの針〉を持ち上げて〈ラジオ〉に切り替えると〈頭にくる女の声〉が聞こえてくる。〈俺〉の日常がもたらす苛立ちや焦燥が伝わってくる。〈俺〉の孤独は映画や音楽によっても満たされない。

 〈詩の無いラブソング〉という言葉が気になる。この場合の〈詩〉を〈詞〉〈言葉〉だと捉えてみる。そうすると、言葉のないラブソングということになる。言葉のない、言葉が語られることのない、言葉が聞こえてこない、言葉が伝わってこない、あるいは、言葉が消えてしまっている、そのようなラブソング。

 そのラブソングに不在の言葉とは、続く箇所の〈欲しいメッセージ〉、〈要らないメッセージ〉、〈解らない〉〈メッセージ〉に連鎖していくだろう。〈俺〉は〈詩の無いラブソング〉に不在の〈メッセージ〉、本来はあるべき〈メッセージ〉を追い求めている。その〈メッセージ〉は〈暗い街にせめてもの光〉をもたらすものである。その光とは端的に〈消えるな太陽〉という比喩で指し示されるものだ。


 〈俺〉は〈暗い街〉で音楽の道を歩みはじめている。〈消えるな太陽〉〈沈むな太陽〉〈燃え上がれ太陽〉〈照らせよ太陽〉と連呼される〈太陽〉とは、志村正彦が追い求めている歌そのものの比喩ではないだろうか。〈ああ〉という反復される声がその意志を表している。

 〈消えるな太陽〉というメッセージは次第に〈燃え上がれ太陽〉というメッセージに進んでいく。志村の声もギターも力強くなっていく。自分自身の歩む道を〈照らせよ〉と、太陽に呼びかけている。


 この曲が初期の作品だという前提から少し考えてみたことがある。

 志村は『東京、音楽、ロックンロール 完全版』(2011年)の「生い立ちを語る」で、「茜色の夕日」に関連して、次のように発言している。(402頁上段)

〈サメの歌とかトカゲの歌とか、何が言いたいのかよく分かんないような曲ばっかりだったのが、明確に“キミ”に対しての、明確なメッセージソングっていうのをはじめて作れたので、とても自信につながりました。

 この証言からすると、「消えるな太陽」の歌詞の〈詩の無いラブソング〉、不在の〈メッセージ〉とは、志村が独自の歌を生み出す過程での試行錯誤を表しているとも考えられる。


 志村正彦は、何が言いたいのかよく分からない曲から、ある特定の二人称〈キミ〉を対象にした曲へと転換することによって、〈明確なメッセージソング〉を創り出した。その歌はまた、自らが〈主人公〉になることも意味していた。その意味では志村は自分の作品の主人公になった。

 「茜色の夕日」は、一人称の〈俺〉から二人称の〈キミ〉への〈メッセージ〉を明確に伝える〈詩のあるラブソング〉だった。「消えるな太陽」は、「茜色の夕日」への歩みの軌跡の一つであるのかもしれないが、この歌に込められた〈メッセージ〉を追い求める力によって作品自体が輝いている。