太宰治の一家は、昭和20(1945)年4月、東京から甲府に疎開してきた。その後、7月に甲府で空襲に遭う。この疎開と空襲という体験は「薄明」に綴られている。この作品は昭和21年12月、新紀元社から刊行された作品集『薄明』に掲載された。あくまでも戦後に書かれた小説であり、太宰夫人の津島美智子によると事実とは異なる部分もあるようだ。
冒頭はこう語り出されている。
 東京の三鷹の住居を爆弾でこわされたので、妻の里の甲府へ、一家は移住した。甲府の妻の実家には、妻の妹がひとりで住んでいたのである。
 昭和二十年の四月上旬であった。聯合機は甲府の空をたびたび通過するが、しかし、投弾はほとんど一度も無かった。まちの雰囲気も東京ほど戦場化してはいなかった。私たちも久し振りで防空服装を解いて寝る事が出来た。私は三十七になっていた。妻は三十四、長女は五つ、長男はその前年の八月に生れたばかりの二歳である。
誰にとってもそうであろうが、太宰の疎開生活もやはり苦労が多かったようである。
私たちは既に「自分の家」を喪失している家族である。何かと勝手の違う事が多かった。自分もいままで人並に、生活の苦労はして来たつもりであるが、小さい子供ふたりを連れて、いかに妻の里という身近かな親戚とは言え、ひとの家に寄宿するという事になればまた、これまで経験した事の無かったような、いろいろの特殊な苦労も味った。甲府の妻の里では、父も母も亡くなり、姉たちは嫁ぎ、一ばん下の子は男で、それが戸主になっているのだが、その二、三年前に大学を出てすぐ海軍へ行き、いま甲府の家に残っている者は、その男の子のすぐ上の姉で、私の妻のすぐの妹という具合いになっている二十六だか七だかの娘がひとり住んでいるきりであった。
義妹も、かえって私たちには遠慮をして、ずいぶん子供たちの世話もしてくれて、いちども、いやな正面衝突など無かったが、しかし、私たちには「家を喪った」者のヒガミもあるのか、やっぱり何か、薄氷を踏んで歩いているような気遣いがあった。結局、里のほうにしても、また私たちにしても、どうもこの疎開という事は、双方で痩せるくらいに気骨の折れるものだという事に帰着するようである。
疎開する側も疎開を受け入れる側も〈双方で痩せるくらいに気骨の折れるものだ〉というのが太宰の結論だった。太宰はすでに中年に達し自分の家族も持っていた。若い頃とは異なり、それなりの〈気遣い〉人間的な配慮を心がけていたようだ。
太宰は昭和20年の4月から7月までの甲府での疎開生活を次のように振り返る。
甲府へ来たのは、四月の、まだ薄ら寒い頃で、桜も東京よりかなりおくれ、やっとちらほら咲きはじめたばかりであったが、それから、五月、六月、そろそろ盆地特有のあの炎熱がやって来て、石榴の濃緑の葉が油光りして、そうしてその真紅の花が烈日を受けてかっと咲き、葡萄棚の青い小粒の実も、日ましにふくらみ、少しずつ重たげな長い総を形成しかけていた時に、にわかに甲府市中が騒然となった。攻撃が、中小都市に向けられ、甲府も、もうすぐ焼き払われる事にきまった、という噂が全市に満ちた。
甲府の春から初夏へかけての季節感が巧みに描写されている。そして、甲府空襲の噂が広まってきたことを伝えている。その頃、長女は目を患い、病院に通っていた。このまま失明するのでないか太宰は不安になっていた。そのような日々を過ごすなかで、7月6日の夜、空襲が始まる。太宰はその時の様子をこう述べている。
 その夜、空襲警報と同時に、れいの爆音が大きく聞えて、たちまち四辺が明るくなった。焼夷弾攻撃がはじまったのだ。ガチャンガチャンと妹が縁先の小さい池に食器類を投入する音が聞えた。
 まさに、最悪の時期に襲来したのである。私は失明の子供を背負った。妻は下の男の子を背負い、共に敷蒲団一枚ずつかかえて走った。途中二、三度、路傍のどぶに退避し、十丁ほど行ってやっと田圃に出た。麦を刈り取ったばかりの畑に蒲団をしいて、腰をおろし、一息ついていたら、ざっと頭の真上から火の雨が降って来た。
太宰たちは蒲団をかぶって畑に伏した。蒲団で火焔を押さえつけて消していった。夜が明けると、町外れの焼け残った国民学校の教室で休ませてもらった。太宰は妻と子を教室に置いて、妻の実家を見に出かけたが、屋敷は全焼していた。その日は義妹の学友の家で休ませてもらい、翌日は家の穴に埋めておいた品々を掘り出して大八車に積んで、妹の別の知人のところへ行った。
甲府は、昭和20年7月6日の夜から7日の未明にかけて、アメリカ軍のB-29爆撃機131機に爆撃された。甲府市内は火の海となり、市街地の74%が焼き尽くされた。死者1127名、被害戸数18094戸という多大な犠牲があった。太宰が文化の綺麗に染み通るハイカラな街と書いた甲府の建物や街並のほとんどが、その一晩で失われてしまったのである。
太宰夫妻は焼失した県立病院が郊外の建築物に移転したことを聞いて、長女を連れて行く。眼科医はこのままですぐに目は良くなると言った。それでも妻は注射を頼んだ。
その後の様子を太宰はこう語っている。
 注射がきいたのか、どうか、或いは自然に治る時機になっていたのか、その病院にかよって二日目の午後に眼があいた。
 私はただやたらに、よかった、よかったを連発し、そうして早速、家の焼跡を見せにつれて行った。
「ね、お家が焼けちゃったろう?」
「ああ、焼けたね。」と子供は微笑している。
「兎さんも、お靴も、小田桐さんのところも、茅野さんのところも、みんな焼けちゃったんだよ。」
「ああ、みんな焼けちゃったね。」と言って、やはり微笑している。
題名の「薄明」は、この長女の視力が回復したことを表しているのだろうが、甲府空襲の夜から朝にかけての薄明の時の出来事を描こうともしたのだろう。また、戦後の昭和21年に発表された作品であることから、戦後が少しずつ薄明を迎えているという意味合いもあったかもしれない。
「薄明」の〈「ああ、焼けたね。」と子供は微笑している〉〈「ああ、みんな焼けちゃったね。」と言って、やはり微笑している〉という場面は、「新樹の言葉」の最後で内藤幸吉兄妹がかつての自分たちの家が燃えているのを微笑して見ている場面と似ている。話者の〈私〉青木大蔵はその微笑を〈たしかに、単純に、「微笑」であった〉と語っている。
「新樹の言葉」を書いたのは昭和14年、「薄明」を書いたのは昭和21年。その間に戦争による空襲と火災があった。内藤兄妹は虚構の人物であり、太宰の長女は実在の人物である。内藤兄妹はすでに辛酸を舐めるいるが、長女はまだ五歳でまだ何も経験していない。微笑の意味合いは異なるが、それでも、太宰がこの二つの場面で微笑という表現を使っているのはとても興味深い。
確かでな単純な「微笑」。戦前、戦中、戦後という激変の時代でこのような微笑を太宰治は希求していたのかもしれない。










