2025年8月10日日曜日

甲斐・甲州・甲府-芥川龍之介・井伏鱒二・太宰治

 近代文学の作家の中で、芥川龍之介、井伏鱒二、太宰治の三人は山梨を訪れ、深い関わりを持った作家の代表的存在である。

 彼らの山梨や甲府の呼称には違いがある。彼らはどう呼んでいたのか。以下、その特徴を示した例を引用したい。呼称には下線を引く。 


 芥川龍之介

・甲州葡萄の食ひあきを致し候 あの濃き紫に白き粉をふける色と甘き汁の滴りとは僕をして大に甲斐を愛せしめ候
        1910(明治43)年10月14日 山本喜誉司宛書簡

・春雨の中や雪おく甲斐の山
        「蛇笏君と僕と」 「雲母」1924(大正13)年3月号
 
 井伏鱒二

・この青梅街道は、新宿角筈を起点にして青梅を過ぎ甲州に通じてゐる。同じやうに甲州街道も角筈から出発し、小仏峠を過ぎて甲州に通じてゐる。この二つの街道は不思議にも――不思議ではないかもしれないが、甲州の石和と酒折の間、甲運村といふところで再び合致してゐる。そしてこの合致点は新宿角筈の繁昌ぶりとは反対にひつそりとした村落だが、人気の荒つぽいといふ点では新宿角筈あたりと変りない。
・街道といふものは個性を持つてゐるのかもしれない。それ以上に街道の交叉点には、特に濃厚な個性が生れるのかもしれない。
        「甲州の話」  「都新聞」1935(昭和10)年1月22-25日

 太宰治

甲府は盆地である。四辺、皆、山である。

・よく人は、甲府を、「擂鉢の底」と評しているが、当っていない。甲府は、もっとハイカラである。シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれいに文化の、しみとおっているまちである。
        「新樹の言葉」 『愛と美について』竹村書房  1939(昭和14)年5月刊


 芥川龍之介の 山本喜誉司宛書簡は、第一高等学校の学校行事で甲府に滞在したときのものである。甲府に二泊して、笛吹川で行軍演習を行った。「春雨の中や雪おく甲斐の山」は、山梨出身の傑出した俳人飯田蛇笏に贈った俳句である。芥川は俳句、紀行文、書簡などで「甲斐」という平安時代以来の古称で呼んでいる。

 井伏鱒二は釣りを好み、山梨をよく訪れた。広島生まれだが、山梨を第二の故郷のように思っていた。街道を歩くことも好んだので「甲州街道」という名にも含まれる「甲州」という古風な名で表現している。

 太宰治は昭和13年11月から甲府で暮らし始め、翌年1月に甲府の女性石原美智子と結婚した。「新樹の言葉」は甲府の中心街や甲府城跡(舞鶴城公園)が舞台となっている。昭和14年9月に東京の三鷹に転居したが、その後も、妻の実家の石原家や甲府湯村温泉の旅館明治などに滞在して小説を書いた。昭和20年4月から甲府に疎開し、7月の甲府空襲も経験している。太宰の居住地や生活圏は甲府市内であったことから「甲府」について語っている。

 芥川龍之介の〈甲斐〉、井伏鱒二の〈甲州〉、太宰治の〈甲府〉。各々の呼び方には、三人の作家としての個性や山梨との関わり方が表れている。


 ところで現在の山梨県には、甲府市・甲州市・甲斐市という「甲」のつく名の市が三つある。2004年から2005年にかけての市町村合併で、塩山市、勝沼町、大和村が合併して甲州市、竜王町、敷島町、双葉町が合併して甲斐市が誕生した。また、それ以前から山梨市がある。中央市という市も存在している。山梨の県庁所在地は甲府市であるが、他県の人は甲州市・甲斐市さらに山梨市や中央市と混乱してしまうかもしれない。実にややこしい、というのが正直なところであろう。


 今後このブログでは、芥川龍之介・井伏鱒二・太宰治が甲府について記述した紀行文、小説、書簡などのテクストを取り上げていきたい。甲府や山梨と関わる文学作品を探究することが、〈甲府 文と芸の会〉設立の理由であり、会の活動の目標でもある。

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