一昨日10月3日は、山梨出身で近代俳句を代表する俳人、飯田蛇笏の命日だった。この日、甲府の「芸術の森公園」で「飯田蛇笏・飯田龍太文学碑碑前祭」が開かれた。蛇笏の孫、龍太の息子である飯田秀實氏が理事長を務める「山廬文化振興会」が主催する会で、今年で十一回目を数える。蛇笏、龍太の碑のそれぞれに居宅だった「山廬」で摘まれたヒガンバナなどの花が供えられた。
この日のための「碑前祭句会」には国内外から566句の応募があり、最高賞の「真竹賞」には仲沢和子さん(山梨県北杜市)の「雲の峰父子それぞれの文学碑」が選ばれた。
応募されたすべての句は冊子に閉じられて文学碑に献句され、俳人の瀧澤和治氏と井上康明氏がおのおの二人を偲ぶ話をされた。関係者や受賞者など60人ほどの参加者が飯田蛇笏と飯田龍太を追悼する特別な場であり、貴重な時間であった。
「山梨県立文学館」の研修室での授賞式の後、私が「飯田蛇笏と芥川龍之介」という題で五十分ほどの講話を行った。飯田秀實理事長からの原稿依頼をいただいて、ここ一年半ほどの間、山廬文化振興会の会報「山廬」に四回に渡って「蛇笏と龍之介」という批評的エッセイを書いてきた。その原稿を元にしてスライドを作成して、二人の交流の軌跡を六つの観点を設定して振り返った。芥川龍之介は「ホトトギス」大正7年8月号の雑詠欄に「我鬼」の俳号で「鍼條に似て蝶の舌暑さかな」他一句を投句し、蛇笏が「雲母」大正8年7月号で「我鬼」が龍之介と知らないまま「鍼條に」句を「無名の俳人によって力作さるる逸品」と評価したことを契機として、二人の交流が始まる。手紙のやりとりや書籍・雑誌の贈答を通じてのものだったが、この二人には深いつながりやきずながあった。このテーマについては今後このブログでも書いてみたい。
〈甲府 文と芸の会〉を結成したこともあり、最近は地元の「山梨日日新聞」の短歌・俳句・川柳・詩の投稿欄を読むことを楽しみにしている。ほとんどが山梨県内の愛好者からの投稿であり、山梨の風景や生活に根ざした作品が多い。生活者の眼差しからの言葉に感銘を受けることや学ぶことが少なくない。毎週日曜日に掲載されるので、今朝も投稿欄に目を通すと、選者の歌人三枝浩樹氏に佳作として選ばれたある短歌に目が釘付けになった。
○「若者のすべて」が流れる夕暮れは若者だった頃を思いて 北杜 坂本千津子
三枝氏は選評でこう述べている。
富士吉田市出身のフジファブリック、代表曲の「若者のすべて」の流れる夕暮れ。その歌に耳を澄まして「若者だった頃を」しみじみと想起する坂本さん。名曲は時代を超えて、かく人の心に甦る。
三枝氏の選評がこの短歌のすべてを的確に語っているので、専門家でもない僕が付言することはないのだが、一つだけ触れるならば、志村正彦・フジファブリックの「若者のすべて」が短歌の中にこのように詠み込まれ、深い感慨を覚えたことである。山梨県北杜市在住の作者坂本千津子さんは「若者だった頃を思いて」とあるので、ある程度の年齢の方だと推測する。年齢や世代を超えたこの歌の広がりを感じる。
実際、7月の「若者のすべて」と12月の「茜色の夕日」が富士吉田の夕方の防災無線で流れることはほとんど毎回、地元のNHK、YBS山梨放送、UTYテレビ山梨のニュースで放送され、山梨日日新聞に掲載される。山梨県民のかなり多くの方(ほとんどすべて、と言ってもよいくらいに)が志村正彦とその歌の存在を知っている。
三枝浩樹氏の「名曲は時代を超えて、かく人の心に甦る」という言葉を記憶しておきたい。
この「かく」はこの歌を聴いたすべての人のおのおのの心のなかにある。時の流れのなかにあるもの、大切なかけがえのない何かを、それぞれの姿で蘇らせる力が「若者のすべて」にはあるのだろう。
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