2025年10月15日水曜日

「新樹の言葉」-太宰治と甲府 1

 11月3日の〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉を前にして、〈太宰治と甲府〉というテーマで五回ほど連載記事を書きたい。

 第一回目は「新樹の言葉」を取り上げたい。1939(昭和14)年5月、『愛と美について』(竹村書房)に収録されて発表された。前年の1938(昭和13)年9月から太宰は御坂峠の天下茶屋で仕事をしていた。寒さが厳しくなったので11月に御坂峠を降りて、甲府市竪町の壽館という下宿で暮らし始める。翌年1月、石原美智子と結婚し、御崎町に居を構えた。

 冒頭部分、甲府賛歌と呼べるところを引用したい。 (引用元:青空文庫


 甲府は盆地である。四辺、皆、山である。小学生のころ、地理ではじめて、盆地という言葉に接して、訓導からさまざまに説明していただいたが、どうしても、その実景を、想像してみることができなかった。甲府へ来て見て、はじめて、なるほどと合点できた。大きい大きい沼を掻乾して、その沼の底に、畑を作り家を建てると、それが盆地だ。もっとも甲府盆地くらいの大きい盆地を創るには、周囲五、六十里もあるひろい湖水を掻乾しなければならぬ。

 沼の底、なぞというと、甲府もなんだか陰気なまちのように思われるだろうが、事実は、派手に、小さく、活気のあるまちである。よく人は、甲府を、「擂鉢の底」と評しているが、当っていない。甲府は、もっとハイカラである。シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれいに文化の、しみとおっているまちである。


 甲府は〈派手に、小さく、活気のあるまち〉〈ハイカラ〉であると記されている。歴史研究者によると、戦前、空襲で焼けて廃墟となる以前の甲府の中心街には、和風の建物とともに洋風の綺麗な建築が立ち並んでいた。地方としてはそれなりにモダンな街だったようだ。だから〈シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた〉まちが甲府だという洒落た比喩は、戦前の甲府を的確に表現していると考えてよい。〈きれいに文化の、しみとおっているまち〉も、あながち過剰なほめ言葉でもないだろう。残念ながら、戦後の甲府の方が特色のない街になってしまった。


 「新樹の言葉」の語り手〈私〉は〈青木大蔵〉という名の作家であり、太宰治の分身的存在である。〈私〉の乳兄弟の〈内藤幸吉〉、幸吉の妹、光吉の親友である郵便屋の萩野の三人が登場して物語が展開していく。

 物語の冒頭で郵便屋が〈私〉を訪れ、〈「あなたは、青木大蔵さん。そうですね。」「内藤幸吉さんを。ご存じでしょう?」「あなたは幸吉さんの兄さんです。」〉と謎めいた言葉を投げかける。〈私〉は〈白日夢〉を見るようであった。〈銭湯まで一走り。湯槽ゆぶねに、からだを沈ませて、ゆっくり考えてみる〉と〈不愉快〉になってきて〈むかむかする〉。〈私〉はこう思う。

東京での、いろいろの恐怖を避けて、甲府へこっそりやって来て、誰にも住所を知らせず、やや、落ちついて少しずつ貧しい仕事をすすめて、このごろ、どうやら仕事の調子も出て来て、ほのかに嬉しく思っていたのに、これはまた、思いも設けぬ災難である。〔……〕

 〈私〉が風呂から上がって脱衣場の鏡に自分の顔を写してみると〈いやな兇悪な顔〉をしていた。〈私〉の過去が押し寄せてくるように感じる。

不安でもある。きょうのこの、思わぬできごとのために、私の生涯が、またまた、逆転、てひどい、どん底に落ちるのではないか、と過去の悲惨も思い出され、こんな、降ってわいた難題、たしかに、これは難題である、その笑えない、ばかばかしい限りの難題を持てあまして、とうとう気持が、けわしくなってしまって、宿へかえってからも、無意味に、書きかけの原稿用紙を、ばりばり破って、そのうちに、この災難に甘えたい卑劣な根性も、頭をもたげて来て、こんなに不愉快で、仕事なんてできるものか、など申しわけみたいに呟いて、押入れから甲州産の白葡萄酒の一升瓶をとり出し、茶呑茶碗で、がぶがぶのんで、酔って来たので蒲団ひいて寝てしまった。これも、なかなか、ばかな男である。

 新しく歩み出そうとした人生が再び過去の〈どん底〉に落ち、〈悲惨〉へと再び逆転するという不安に〈私〉はとらわれている。これが「新樹の言葉」の底流にあるモチーフである。その不安を打ち消すために〈甲州産の白葡萄酒の一升瓶〉を飲んで寝てしまう。〈なかなか、ばかな男〉だという自虐もある。〈私〉の不安や自虐がどのように変化していくのか。それが物語のテーマとなっていく。

 この場面の〈銭湯〉のモデルは、太宰治がよく通っていた喜久乃湯温泉である。昭和元年創業で現在も営業しているこの温泉銭湯は甲府の朝日町にある。今年六月、甲府遺産に選定された。太宰ファンが訪れることでも知られている。また、一升瓶の葡萄酒はこの地では今でも飲まれている。「新樹の言葉」のディテールはリアルな甲府を感じさせる。この後の展開はぜひこの作品を読んでいただきたい。青空文庫にも入っている。少しだけ触れるなら、甲府中心街の桜町や柳町界隈、岡島百貨店と思われるデパートなどが舞台となってくる。舞鶴城跡の上の広場で〈私〉が内藤兄妹に心の中で語りかける。この場面を最後にして、この物語は閉じられる。


 太宰治は後にこう述べている。

 「新樹の言葉」は、昭和十四年に書いた。からだも丈夫になつた。すべて新しく出発し直さうと思つて書いた。言ふは易く、実証はなかなか困難の様子である。

 この言葉にあるように、太宰は甲府で生活と文学の両面で新しく出発しようとした。過去へと逆転してしまう不安からの解放。自己と他者を信じること。その勇気を持つこと。

 その強い決意が名作「走れメロス」とつながっていく。もちろん、作家本人が言うように〈言ふは易く、実証はなかなか困難〉であるのだが。


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