公演名称

〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉の申込

公演概要

日時:2025年11月3日(月、文化の日)開場13:30 開演14:00 終演予定 15:30/会場:こうふ亀屋座 (甲府市丸の内1丁目11-5)/主催:甲府 文と芸の会/料金 無料/要 事前申込・先着90名/内容:第Ⅰ部 講座・朗読 「新樹の言葉」と「走れメロス」講師 小林一之(山梨英和大学特任教授)朗読 エイコ、第Ⅱ部 独り芝居 「走れメロス」俳優 有馬眞胤(劇団四季出身、蜷川幸雄演出作品に20年間参加、一篇の小説を全て覚えて演じます)・下座(三味線)エイコ

申込方法

右下の〈申込フォーム〉から一回につき一名お申し込みできます。記入欄の三つの枠に、 ①名前欄に〈氏名〉②メール欄に〈電子メールアドレス〉③メッセージ欄に〈11月3日公演〉とそれぞれ記入して、送信ボタンをクリックしてください。三つの枠のすべてに記入しないと送信できません(その他、ご要望やご質問がある場合はメッセージ欄にご記入ください)。申し込み後3日以内に受付完了のメールを送信します(3日経ってもこちらからの返信がない場合は、再度、申込フォームの「メッセージ欄」にその旨を書いて送ってください)。 *〈申込フォーム〉での申し込みができない場合やメールアドレスをお持ちでない場合は、チラシ画像に記載の番号へ電話でお申し込みください。 *申込者の皆様のメールアドレスは、本公演に関する事務連絡およびご案内目的のみに利用いたします。本目的以外の用途での利用は一切いたしません。

2025年10月22日水曜日

津島美知子の証言-太宰治と甲府 3

 太宰夫人の津島美知子は、「御崎町から三鷹へ」(八雲書店版『太宰治全集』附録4 昭和23年12月)で、甲府での生活をこう振り返っている。  

 御崎町時代は、朝から午過まで机に向ひ、午後三時ごろからお酒が始まり、酔ひつぶれて倒れるまで飲んで、ときには、とくいの義太夫など出ることもあつた。「お俊伝兵衛」や、「壺坂」「朝顔日記」などがおはこだつた。それで、一月の酒屋の払ひは、二十円くらゐのものだつたから、安心だつた。

 朝から昼過ぎまでの執筆、一息ついて午後三時頃からの飲酒、そして「新樹の言葉」に書かれているように銭湯や豆腐屋に出かけたのだろう。小説を書くことと酒を飲むことが生活の中心にあった。


 このころ、二度、小旅行をした。八十八夜のころ、諏訪から、蓼科の方へまはつた。この時、上諏訪の宿では、酔つて、はめを外してしまつて、むやみに卓上電話を帳場にかけたり、テーブルクロースを汚して、弁償させられたりして失敗だつた。蓼科では、蛇がこはいといつてせつかくの風景をたのしむこともなかつた。大体、野外を歩くことや、樹木、風景などには、興味が無いやうに見えた。六月に、「黄金風景」の賞金五十円で、修善寺、三島の方へ遊んだ。このときは、失敗が無くて助かつた。三島では、なぜか興奮して、きり雨の中に、あやめの咲いてゐる古びた町を、お酒と甘い食物を、探して歩きまはつてゐた。

 新婚時代の二度の小旅行。諏訪と蓼科。修善寺と三島。羽目を外した出来事。太宰が自然の風景を〈たのしむこともなかつた〉〈興味が無いやうに見えた〉とあるが、確かに、太宰の小説には風景描写が少ない。今でも甲府から近くの県外の地に遊びに行く場合、長野の諏訪や松本、静岡の伊豆半島が候補となることが多い。昔も今も変わらない。


 「駈込み訴へ」は十四年の十二月、炬燵に当つて、盃を含み乍ら、全部口述して出来た。この年のものの中では、口述筆記のがかなり多い。「富岳百景」「女の決闘」「アルト・ハイデルベルヒ」のそれぞれ一部、「黄金風景」「兄たち」それからこの「駈込み訴へ」の全部である。太宰は、大てい、仕事にとりかかるまへ、腹案や書出しのきまるまでに手間がかかつたやうだ。「賢者の動かんとするや、必ず愚色あり。」といふのが、その折の口ぐせで、仕事にとりかかるまへ、いつも、さかんに愚色を発揮した。冗談めかしてゐるだけに、遊んでゐても傍のみる目には苦しげに、痛々しくみえた。机に向ふときは、頭のなかにもう、出来てゐた様子で、憑かれた人の如く、その面もちはまるで変つて、こはいものにみえた。「駈込み訴へ」のときも二度くらゐにわけて、口述し、淀みも、言ひ直しも無かつた。言つた通り筆記して、そのまゝ文章であつた。書きながら、私は畏れを感じた。

 津島美智子は太宰の口述筆記をしていた。「富岳百景」の一部もその中に含まれていることがこの文章で判明した。自分自身も登場人物となるこの作品を口述で筆記したときに、津島美智子の胸中にはどんな思いが去来したのだろうか。

 「駈込み訴へ」は〈言つた通り筆記して、そのまゝ文章であつた〉というのは貴重な証言である。

 最後に〈書きながら、私は畏れを感じた〉とあるが、この畏れのようなものが太宰の文学の本質につながるのだろう。


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