公演名称

〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉の申込

公演概要

日時:2025年11月3日(月、文化の日)開場13:30 開演14:00 終演予定 15:30/会場:こうふ亀屋座 (甲府市丸の内1丁目11-5)/主催:甲府 文と芸の会/料金 無料/要 事前申込・先着90名/内容:第Ⅰ部 講座・朗読 「新樹の言葉」と「走れメロス」講師 小林一之(山梨英和大学特任教授)朗読 エイコ、第Ⅱ部 独り芝居 「走れメロス」俳優 有馬眞胤(劇団四季出身、蜷川幸雄演出作品に20年間参加、一篇の小説を全て覚えて演じます)・下座(三味線)エイコ

申込方法

右下の〈申込フォーム〉から一回につき一名お申し込みできます。記入欄の三つの枠に、 ①名前欄に〈氏名〉②メール欄に〈電子メールアドレス〉③メッセージ欄に〈11月3日公演〉とそれぞれ記入して、送信ボタンをクリックしてください。三つの枠のすべてに記入しないと送信できません(その他、ご要望やご質問がある場合はメッセージ欄にご記入ください)。申し込み後3日以内に受付完了のメールを送信します(3日経ってもこちらからの返信がない場合は、再度、申込フォームの「メッセージ欄」にその旨を書いて送ってください)。 *〈申込フォーム〉での申し込みができない場合やメールアドレスをお持ちでない場合は、チラシ画像に記載の番号へ電話でお申し込みください。 *申込者の皆様のメールアドレスは、本公演に関する事務連絡およびご案内目的のみに利用いたします。本目的以外の用途での利用は一切いたしません。

2025年10月19日日曜日

「九月十月十一月」-太宰治と甲府 2

 太宰治「新樹の言葉」冒頭の甲府賛歌。その原型となる文章がある。

 「国民新聞」1938(昭和13)年12月9日から11日まで三日間連載された「九月十月十一月」。〈(上)御坂で苦慮のこと〉〈(中) 御坂退却のこと〉に続いて〈(下) 甲府偵察のこと〉が書かれている。(中)の末尾では〈峠の下の甲府のまちに降りて來た〉〈工合がよかつたら甲府で、ずつと仕事をつづけるつもりなのである〉〈甲府の知り合ひの人にたのんで、下宿屋を見つけてもらつた〉と甲府で暮らし始めた経緯に触れている。


 太宰は〈私は、Gペン買ひに、まちへ出た〉と語り、「甲府偵察」に出かける。長くなるが、(下)の全文を引用したい。 (引用元:青空文庫


(下) 甲府偵察のこと

 きらきら光るGペンを、たくさん財布にいれて、それを懷に抱いて歩いてゐると、何だか自分が清潔で、若々しくて、氣持のいいものである。私は、Gペン買つてから、甲府のまちをぶらぶら歩いた。

 甲府は盆地である。いはば、すりばちの底の町である。四邊皆山である。まちを歩いて、ふと顏をあげると、山である。銀座通りといふ賑やかな美しいまちがある。堂々のデパアトもある。道玄坂歩いてゐる氣持である。けれども、ふと顏をあげると、山である。へんに悲しい。右へ行つても、左へ行つても、東へ行つても、西へ行つても、ふと顏をあげると、待ちかまへてゐたやうに山脈。すりばちの底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思へば、間違ひない。


 太宰の甲府偵察を甲府市民の目で検証してみたい。

〈銀座通りといふ賑やかな美しいまちがある。堂々のデパアトもある。道玄坂歩いてゐる氣持である〉とある。前回も書いたが、戦前、昭和前期までの甲府の街には、規模は小さいが綺麗でモダンな洋風建築も多く、従来の和風建築とも調和が取れた美しい街であったようだ。その洋風と和風の調和のある街並みは甲府空襲でほとんどすべて失われてしまった。もともと、甲府の中心街は甲府城の城下町の跡で発展していった。通りが南北に整備されているので今もその名残はある。戦前の甲府は地方都市としては相対的に人口も多く、活気もあった。

〈まちを歩いて、ふと顏をあげると、山である〉については、当然ではあるが、今も全くその通りである。視線の近くに建物があっても視線をその向こう側に向けると山々が見える。二千から三千メートル級の高い山々が東西南北に連なり、視界を囲んでいる感じがある。良くいえば包まれ感というか安定感があるのだが、悪くいえば窮屈で鬱陶しいかもしれない。


 裏通りを選んで歸つた。甲府は、日ざしの強いまちである。道路に落ちる家々の軒の日影が、くつきり黒い。家の軒は一樣に低く、城下まちの落ちつきはある。表通りのデパアトよりも、こんな裏まちに、甲府の文化を感ずるのである。この落ちつきは、ただものでない。爛熟し、頽廢し、さうしてさびた揚句の果が、こんな閑寂にたどりついたので、私は、かへつて、このせまい裏路に、都大路を感ずるのである。ふと、豆腐屋の硝子戸に寫る私の姿も、なんと、維新の志士のやうに見えた。志士にちがひは、ないのである。追ひつめられた志士、いまは甲府の安宿に身を寄せて、ひそかに再擧をはかつてゐる。


〈甲府は、日ざしの強いまちである〉という箇所は甲府市民の実感にとても合致している。太宰の甲府探索は11月頃であるから晩秋から初冬の日差しである。夏の甲府盆地の酷暑はよく知られている。夏は強烈な日差しにおおわれるが、冬の日差しもけっこう強い。冬の甲府は気温がかなり低くなるが、光の強さは春や夏を思わせるときがある。太宰の観察眼は鋭い。

〈裏まちに、甲府の文化を感ずる〉〈この落ちつきは、ただものでない〉〈爛熟し、頽廢し、さうしてさびた揚句の果が、こんな閑寂にたどりついた〉という指摘は、甲府市民では感じ取ることができないものであろう。〈爛熟〉〈頽廢〉〈さびた〉揚句の果ての〈閑寂〉という感覚は、今の甲府の裏町には感じられないというの正直なところではあるが、なんとなくほんの少しではあるが分からないこともない、とも言える。江戸時代、甲府で流行った芝居は江戸でも流行ると言わていた。山梨は徳川幕府の直轄領であり、甲府城の周辺には甲府勤番の武士が住んでいた。芝居を見る目が優れた人が甲府には多いという定評があった。そのような文化の痕跡が街の表や裏に残っていたのかもしれない。太宰治という外部の視線からの甲府の裏町のこの特徴を記憶にとどめておきたい。

 さらに、〈豆腐屋の硝子戸〉に写った自分の姿が〈維新の志士〉のように太宰には見えてくる。〈追ひつめられた志士〉に自分を重ね合わせ、〈甲府の安宿に身を寄せて、ひそかに再擧をはかつてゐる〉と決意するのは、この時の太宰治の心境をよく表している。太宰にとって甲府は再起の再出発の場所であった。


 甲州を、私の勉強の土地として紹介して下さつたのは、井伏鱒二氏である。井伏氏は、早くから甲州を愛し、その紀行、紹介の文も多いやうである。今さら私の惡文で、とやかく書く用はないのである。それを思へば、甲州のことは、書きたくない。私は井伏氏の文章を尊敬してゐるゆゑに、いつそう書きにくい。

 ひそかに勉強をするには、成程いい土地のやうである。つまり、當りまへのまちだからである。強烈な地方色がない。土地の言葉も、東京の言葉と、あまりちがはないやうである。妙に安心させるまちである。けれども、下宿の部屋で、ひとりぽつんと坐つてみてやつぱり東京にゐるやうな氣がしない。日ざしが強いせゐであらうか。汽車の汽笛が、時折かすかに聞えて來るせゐかも知れない。どうしても、これは維新の志士、傷療養の土地の感じである。

 井伏氏は、甲府のまちを歩いて、どんなことを見つけたであらうか。いつか、ゆつくりお聞きしよう。井伏氏のことだから、きつと私などの氣のつかぬ、こまかいこまかいことを發見して居られるにちがひない。私の見つけるものは、お恥かしいほど大ざつぱである。甲府は、四邊山。日影が濃い。いやなのは水晶屋。私は、水晶の飾り物を、むかしから好かない。


 この箇所では、井伏鱒二が甲府との縁を作ってくれたことに触れている。そして、甲府が〈ひそかに勉強をするには、成程いい土地〉だと思った理由を〈當りまへのまち〉〈強烈な地方色がない〉〈土地の言葉も、東京の言葉と、あまりちがはないやうである〉と述べている。

 この三つの点は的確である。甲府は地方としてはごく普通の街である。〈強烈な地方色がない〉というのもその通りであろう。地理的に東京に比較的近く、江戸時代は幕府直轄領であり、東京の文化との接点もかなりあったことから、地方文化的な強い特色をあまり持っていない。また、甲府の方言、甲州弁は関東弁に近い。(東京の言葉よりは全体的に語気が強くて荒々しい。独自の語彙や言い回しがあるなどのが違いはあるが)この三つの理由から〈妙に安心させるまちである〉と太宰は結論づけている。東京での破綻した生活と行き詰まった作風から脱して再起を期すのに、甲府は適した街だったのだろう。安心して新婚生活と作家生活に入ることが何よりも大切であった。


 「甲府偵察のこと」では甲府を〈すりばちの底に、小さい小さい旗を立てた〉と表しているが、「新樹の言葉」ではその表現は〈当たってない〉として、甲府は〈もっとハイカラである〉ことから、〈シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた〉〈まち〉という洒落た比喩を使って表現している。〈すりばちの底〉から〈シルクハット〉の〈帽子の底〉への変化には、太宰の甲府に対する愛情のようなものがうかがえる。甲府在住の石原美智子との結婚、作家としての再出発を期した場所という背景は大きいが、太宰が甲府をかなり気に入ったことは間違いないだろう。

 太宰治にとって、甲府は文化が綺麗に染み通るハイカラで安心できる街だった。ちょっとくすぐったいような気持ちもあるのだが、甲府市民としてはそのことを嬉しく思う。

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