2016年5月29日日曜日

フェルナンド・ペソアの作用 [ペソア 1]

 志村正彦の歌について書くようになって、ここ数年の間、日本の近現代詩や海外の詩をあらためて読むようになった。読んだことのなかった詩人、若い頃に読んだだけでほとんど忘れかけている作品。その過程で出会い、最も惹かれたのがフェルナンド・ペソア(Fernando Pessoa)だった。

 1888年、ペソアはポルトガルのリスボンで生まれた。幼少期は南アフリカのダーバンで過ごし、その後リスボンに戻り、貿易会社で働きながら詩や散文を書き続けた。1935年、47歳の生涯を閉じたが、生前はほとんど無名の存在だった。
 没後、それもかなりの年数を経てから、残された膨大な遺稿が整理され出版されると、ポルトガルの国民的詩人、さらにヨーロッパを代表する20世紀の詩人としても高く評価されるようになった。
 
 ペソアは、「異名 heteronimo」という自分自身と異なる人格の「書き手」を創りだし、その「異名者」たちに詩や散文を書かせた。アルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスの三人が代表的な異名者の詩人だ。ペソア名義の詩もあるが、現実の作者ペソアというより、「同名者」ペソアの作品と考えた方がよいようだ。
 「Pessoa」という名はポルトガル語で「人」「人格」という意味らしい。英語の「person」と同語源のラテン語由来の言葉だ。多数の異名者と同名者を生みだしたペソアは、その名そのものがひとつの宿命だったようにも考えられる。

 詩の翻訳書は、『ポルトガルの海 増補版』(池上岑夫編訳、彩流社、1997年)、『ペソア詩集 (海外詩文庫16)』(澤田直編訳、思潮社、2008年)。この二冊を合わせても全詩の一割に満たないそうだ。海外の詩については、ほんのわずかでもその原語に触れたことがあれば近づきやすい。音の響きや文字の印象、「物」としての言葉が重要だ。ポルトガル語が全く分からない僕にとって、ペソアの詩はやはり遠い遠いところにある、というのが実感だ。
 そのもどかしさを抱えていたころに、ペソアの詩に楽曲をつけた作品を集めたアルバム『フェルナンド・ペソア集〜ファドとポルトガルの魂』(Fernando Pessoa | O Fado e a Alma Portuguesa [Deluxe Edition CD+Livro])があることを知り、入手した。



 このアルバムの紹介文によると、ファド歌手がペソアの詩に曲をつけて歌いはじめたのは70年代からで、90年代以降の世代はペソアの詩を盛んに取り上げるようになった。現在では、ペソアの詩はファドに不可欠のものとなった。
 CDアルバムの収録曲は20曲。シンガーについては全く知識がないが、ポルトガルの代表的な歌い手のようだ。CDのケースを兼ねた80頁ほどの洒落た書籍には、ポルトガル語の原詩とその英訳が収められている。英語を通じて、詩の意味がおおよそ浮かび上がることがありがたい。現在このCDブックは版元品切れのようだが、youtubeに制作会社による紹介映像がある。断片ではあるが音源として聴くこともできるので、この作品の雰囲気が伝わるだろう。


 この映像はパート1、続くパート2もある。

 ペソアの詩や散文の牽引力は非常に強い。想像の世界で、読者に作品の舞台であるリスボンの街並みを歩かせるような作用を持つ。その作用のせいか、昨年の夏、僕はポルトガルに行き、ペソア博物館(Casa Fernando Pessoa)を訪れた。ゆかりのある場も歩いた。
 断続的になるかもしれないが、その出来事を何回かに分けてここに記したい。

2016年5月22日日曜日

「路地裏の僕たち」が贈るラジオ番組 [志村正彦LN131]

 「路地裏の僕たち」は志村正彦の同級生たちの集まりで、地元富士吉田で色々と重要な活動をしてきた。その彼らがこの五月から、「エフエムふじごこ」というコミュニティーFM局で、志村正彦・フジファブリックや富士吉田の情報を発信する番組「路地裏の僕たちでずらずら言わせて」を始めた。

 「ずらずら」は何かを列挙する時に使う副詞だが、甲州弁の「ずら」と掛けているのだろう。「ずら」は文末表現。語源は「つ・らむ」(古文文法的には、強意+現在推量の助動詞)らしい。確かに「推量」の意味もあるが、どちらかというと、話し手がある事を言う際に聞き手の同意を求めるような場合に使う。「そうずら」は「そうだろう」ではあるが、「そうだよね」「そうにちがいないよな」というように聞き手に働きかける。

 毎週日曜日の14時00分~14時30分にオンエア。日曜日の昼過ぎは外出することが多く、なかなか聞けなかったが、今日初めて聞くことができた。甲府では受信できないが、幸いにして、インターネットサイマルラジオで配信されている。(できれば、アーカイブのような形でネット上に保存していつでも聞けるとありがたいです。)
 今日は、「路地裏の僕たち」Tシャツを着ての放送ということだった。「茜色」の地に縦書三行で「路地裏/の/僕たち」の文字が記されたこのTシャツは、彼らが主催するイベントで着用されることがあるので、ご覧になられた方もいるだろう。これを着て『茜色の夕日』を歌ったNHK「のど自慢」の予選(三年前の7月、富士吉田市民会館・ふじさんホールで行われた)に出た話が続き、フジファブリック『陽炎』が放送された。


 歌詞にある「あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ/英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ」が「路地裏の僕たち」という名の典拠だ。歌詞中の「駄菓子屋」、「隣のノッポ」の話と地元ならではの話が続いた。「正彦」と名で呼ぶのが同級生らしくていい。(「渡辺」をはじめとして同じ「姓」が多い富士北麓では、「名」で呼び合うことが一般的ではあるが)
 彼らの中で「正彦」は確実に生きている。

 前回、妻夫木聡の大切な人へ「贈る」曲が『茜色の夕日』だったことを書いた。誰かが誰かへ「贈る」。「贈る」という行為は志村にとって本質的なものだ。
 その文脈で考えると、『陽炎』は、志村正彦が、少年時代の「僕」自身に、「路地裏」で一緒に遊んだ幼なじみや同級生たちに、富士吉田の「あの街並」に、贈る曲である。そうであるからこそ、この曲はすべての人々に何か大切なものを贈る力を持つ。

2016年5月20日金曜日

妻夫木聡の贈る曲『茜色の夕日』[志村正彦LN130]  

 昨夜、5月19日のNHK番組「ミュージック・ポートレイト」に、妻夫木聡と満島ひかりが出演していた。前の週、番組表を見てこんな番組があるのかと思っていたが見逃してしまった。今週は前週に続く第2夜だが、見ることができた。

 この番組は、出演者の二人が人生で大切な音楽を紹介する。妻夫木聡の大切な曲の一つが、志村正彦・フジファブリックの『茜色の夕日』だった。第1夜と合わせると、10曲が選ばれたようだが、なかでも、「互いへ贈る一曲」として選ばれたのがこの歌だった。
 単に好きだ、大切だというよりも、大切な相手へ贈る一曲とされたことに心を動かされた。音楽家にとってこれほどうれしいことはないだろう。

 妻夫木は、この歌の「東京の空の星は/見えないと聞かされていたけど/見えないこともないんだな/そんなことを思っていたんだ」に触れて、当たり前のように東京で星は見えないと思っていたけれど、よく見れば東京でもきれいな星がみえる、当たり前だと捉えすぎて大事なことを忘れてしまう、そういうことを気づかせてくれる歌だと述べていた。

 調べてみると、妻夫木聡は1980年福岡県柳川市に生まれた。志村正彦と同年になる。小学生の頃に神奈川に移ったようだが、地方出身者であることにちがいはない。
 「東京の空の星」は「見えないこともないんだな」というのは地方からの上京者ならではの経験だ。遠い記憶をたどってみると、上京して石神井に住みはじめた頃、東京でもわりと星が見えるんだなと気づいたことが僕にもある。
 甲府で見る綺麗な星空とはやっぱり違うけど、それでも見えるんだな。
 それっきりで、そのことは忘れていた。『茜色の夕日』を初めて聴いたとき、その時の記憶と感覚が少しよみがえってきた。

 志村正彦の歌には、何か忘れてしまったこと、大切であったり些細であったりする出来事、どこかにしまいこんでしまった記憶を思い起こさせてくれるものが多い。

 曲に焦点をあてる番組であり、志村正彦やフジファブリックへの言及はなかったが、「2009年 ボーカルの志村正彦が29歳の若さで急逝」というテロップが出された。簡潔だが、作詞作曲者の名が画面に登場した。

 満島ひかりが選んだのは、サイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』(The Sound of Silence)だった。説明する必要もない名曲だ。
 『茜色の夕日』と『サウンド・オブ・サイレンス』。この二曲が妻夫木聡と満島ひかりの「互いへ贈る一曲」となった。この偶然の組み合せもまた、ある忘れてしまったことを思い出させてくれた。



[付記]
  幸いにも再放送が5月23日[月]午前1時10分(日曜日の深夜)に予定されています。このblogは志村正彦をめぐる「記録」という性格もあり、海外の方がこの番組を見るのは難しいのも考慮して、録画から該当部分をシナリオ風に記しておきます。(再放送をご覧になられる方はスルーしてください)


(ナレーターの声が入る)
大切にしている歌の中から互いへ贈る一曲を選んでもらいました。
(『茜色の夕日』のミュージックビデオが画面に登場。志村正彦が歌う姿が映し出される。「笑うのをこらえているよ/後で少し虚しくなった」の場面。)
(テロップが入る)
(右上)妻夫木聡/「茜色の夕日」/フジファブリック
(右下)フジファブリック/2009年 ボーカルの志村正彦が29歳の若さで急逝/「茜色の夕日」は志村が作詞作曲した初期の名曲
(ナレーターの声)
妻夫木が満島に贈る歌。それは見落としがちな大切なことを思い出させてくれる曲。
(歌詞がテロップとして流れる)
 東京の空の星は
 見えないと聞かされていたけど*
 見えないこともないんだな
 そんなことを思っていたんだ
   *映像には「けれど」とあったが「けど」が正しい。
(MVは終了するが、「僕じゃきっとできないな できないな/本音を言うこともできないな できないな/無責任でいいな ラララ/そんなことを思ってしまった」まで歌は流れた。その間、映像は妻夫木のトークに切り換わる。)
(妻夫木の話)
 当たり前のようにさ、星は見えないもんだと思っていたけど、よくよくぱあっと見たら、あっ東京でもこんなにきれいな星がみえるんだっつって。なんか当たり前になってることが当たり前だと捉えすぎて大事なことを忘れてたっていう、なんかそういうのを気づかせてくれる歌なんだよね。
 この後、妻夫木はもともと星を見るのが好きで、双眼鏡で月を見る話をしてくれた。

 『茜色の夕日』が取り上げられた部分は2分弱続いた。

2016年5月18日水曜日

Char、武田神社で。

 5月15日、武田神社の甲陽武能殿で行われたCharのアコースティックライヴに行ってきた。

 甲陽武能殿は野外の能楽堂。時に薪能が開催されるが、ロックのライブは初めてのことだろう。なぜ武田神社そして能楽堂という場が選ばれたのか分からないが、思いがけない取り合わせはロック的かもしれない。
 夕方5時過ぎに開始。日中は27度に届く気温で五月とは思えない暑さ。それでも神社は樹々が豊かで、緑がさわやかだ。舞台前の芝生の広場に席を設けていた。600席ほどだったが、ほぼ満員。年齢層はやはり高いが、若い人も少し混じっているのがうれしかった。

 Charはアコースティックギター、他にアコースティックベース、パーカッション、アコーディオン(時にキーボード)という四人編成。PAを通してかなりの音量だったので、純粋なアコースティックライヴとは言えない。
 歌と演奏が始まる。独特のグルーブ感があって、ここちよい。数曲の後、ニュー・サディスティック・ピンクの天野滋君が作ってくれた曲だと紹介されたのが、『空模様のかげんが悪くなる前に』だった。 

  ニュー・サディスティック・ピンク、NSP。1974年の『夕暮れ時はさびしそう』がヒットした。僕らの世代はこの歌をリアルアイムで聞いている。ラジオでよく流れていた。人をひきつける不思議な力を秘めた歌だった。
 CharはNSPのギターのバックアップメンバーとして活動し、デビューアルバム『Char』の日本語曲の歌詞を天野滋に依頼したことを大切な思い出として語ってくれた。(以前、志村正彦・フジファブリックの『陽炎』に触発されて、「陽炎」をモチーフとする歌を調べたことがあった。その時、アルバム『Char』の中に『かげろう』という名の曲を見つけた。作詞者はS.Amano。誰なのか。そのときはそのままにしてしまった。この日、Charの話でその名が天野滋だと初めて気づいた。)
 2005年、天野滋は病気で52歳の生涯を終えている。

 歌はこう始まる。

              空模様のかげんが悪くなる前に
              ゆくあてのない旅にでよう
              昔から人はみな 旅が好きなんだ
              北のはてにも 人生があり
              南のはてにも 歴史がある


 「北のはて」の「人生」、「南のはて」の「歴史」。北へと南へと、想像力が刺激される。言葉の組み合わせ方が独特だ。Charの作ったメロディとリズムが、彼の歌とギターが、その言葉をほどよくドライブしていく。まぎれもなく1970年代の感性なのだが、フォークともロックともニューミュージックとも少しずつ異なり、独自の世界を持つ。youtubeに20年前のライブ映像もある。
 間奏部を過ぎて次のように歌われる。

              静かな緑に つつまれたなら
              耳をすますと きこえるメロディー
              それは木もれ日 木の葉の吐息か
              北のはてにも 人生があり
              南のはてにも 歴史が…woo…

   ( 『空模様のかげんが悪くなる前に』 作詞:S.Amano 作曲:Char)

  「静かな緑」「木もれ日」。Charが歌う能舞台の周辺の風景がまさしくそれだった。時々、木の葉も舞い落ちてきた。 「きこえるメロディー」「木の葉の吐息か」という歌詞につながる光景もあった。歌と現実が重なった。
 歌う前、偶然にも、参拝客が拝殿の鈴を振る音がした。会場にも透き通るように響いた。Charは天野君が降りてきたと言った。なにせ「天」野だからとユーモアをまじえて微笑みながら、友を偲んだ。その伝え方には友への想いがあふれていた。

 カバー曲も多かった。クリームの『White Room』が素晴らしかった。この曲のプロデューサーはフェリックス・パパラルディだ。回想モードに包まれた。
 1985年、マウンテンが再結成されて発表されたアルバム『Go For Your Life』の邦題はなぜか『風林火山』だった。(このアルバムはフェリックスに捧げられた)
 志村正彦の幻の歌『武田の心』はどんなロックだったか。

 音楽は様々のことを思い出させる。

2016年5月14日土曜日

クルバは歌うぜ 甲府の歌を

 残念無念だった。

  今夜のヴァンフォーレ甲府VS名古屋グランパス戦。甲府が2:0とリードしていたが、後半35分に失点し2:1に。終了5分ほど前に甲府の保坂選手が怪我で退場。交代枠が残っていなかったので10人となってしまった。守り切ろうとしたが、結局ロスタイムに追いつかれ、2:2の引き分けで終わった。ホイッスルが吹かれると、選手は倒れこんだ。佐久間悟監督は天を仰いだ。ここ数年ロスタイムに追いつかれたのは記憶にない。

 怪我人が多く、チームの状況が悪い中、ここ数試合は健闘していた。それでも引き分けが多く、どうしても勝ちきれない。終了間際まで、今日こそは勝利できるかもしれないという期待があった。いやもっと切実だった。今日はどうしても勝ちたかった。最後は名古屋の猛攻にあったので、なんとか引き分けで終わったという見方もできるが。
 サッカーの神様はなかなか微笑んでくれない。

 僕と家族はいつもバックスタンドの自由席で応援している。終了後、選手たちがバックスタンドでの挨拶を終え、ゴール前の方に歩き始めた時に、ゴール前のコアサポーターたちの集団、甲府のクルバたちがある歌を歌い始めた。鳴物もなく、メガホンも使わずに、斉唱のようにして、声を合わせて大きく歌い出した。これまでになく、歌が力強かった。

  俺らはここに居る 君は一人じゃない
  クルバは歌うぜ 甲府の歌を

 その瞬間、心が動かされた。かなりグッと来た。
 歌詞がまっすぐに届いてきた。選手たちにもまっすぐに伝わった。純粋な声援、応援の歌だった。聞きなれている歌なのだが、この日は別の歌のように響いた。言葉そのものが歌から立ち上がってきた。

 実は、名古屋の監督、小倉隆史は、2003年から2005年までJ2の甲府に在籍していた。それまでの甲府には、日本代表歴があり知名度が高い選手が加入することはなかった。J2で低迷し、観客も少なく、資金力もなかった。だから小倉の加入が当時のサポーターにとってどれだけうれしかったことか。誇りでもあった。彼は期待通りフォワードとして活躍し、甲府の発展に大いに貢献した。2005年、大木武監督の指揮の下で次第に出場機会を失った。その年、甲府はJ1に昇格したが、戦力外通告を受け、引退を決めた。
 もともと 「レフティモンスター」小倉隆史は、日本のサッカーの将来を担うフォワードとして高く評価されていた。しかし靭帯断裂など大怪我が続き、オリンピックにもワールドカップにも出場できなかった。日本のサッカーの歴史において最も悲運な選手だと言える。

 2006年3月5日、甲府のJ1ファーストゲーム、清水エスパルス戦の前、引退セレモニーが行われた。ユニフォームでなくスーツを着た小倉だった。甲府サポだけでなく清水サポからも大きな拍手が起きた。甲府にとっても最も晴れやかな日が、皮肉なことに、小倉の引退日となった。彼にとっては不本意な引退だったろう。いつか指導者になって「捲土重来」してほしい。あの日、そんなことを思った。心の中で感謝し、激励した。

 あの日から10年が経つ。名古屋の監督に就任して、小倉が甲府のホームスタジアムに帰ってきた。試合前の相手チーム紹介で小倉監督の名が呼ばれると、大きな拍手が起きた。あの日と同じようにスーツを着ていた。今度は監督としてのスーツ姿だ。小倉にとっても、甲府の古くからのサポーターにとっても、今日の試合は特別な意味を持っていた。

 帰宅後、スカパーの録画で試合終了後の監督インタビューを見た。小倉は紹介時の拍手に対して「相変わらずあたたかいサポーターでとてもうれしかった」と述べた上で、だからこそ監督として目指しているサッカーを、自分の志すスタイルを甲府のサポーターに見せかったと語っていた。それを見て、もう一度僕はグッと来てしまった。小倉のこの十年の想いが伝わってきた。今日の引き分けは彼の強い想いが手繰り寄せたのかもしれない。

 たかがサッカーされどサッカー。

 選手、監督、サポーターやファンの想い、歴史に絡まった様々な出来事、輝かしい日々や挫折の日々の記憶。スタジアムにはそれらが渦巻いている。

 そしてそこには歌がある。
 

2016年5月12日木曜日

農鳥のことなど-『桜の季節』5[志村正彦LN129]

 今朝は、昨日の雨も上がり、五月のすがすがしく晴れた空が広がっていた。いつもの場所、勤め先の入口にある桜の樹の向こう側に富士山を見た。雪解けが進んでいた。八合目あたりから上にはまだ残雪がところどころあるが、山肌は青みがかり、夏の富士へと移ろいつつある。これから一月半ほど経つと、すっかり夏山へと変わる。

 日中の気温は29度を超えた。それでもこの時期らしく不愉快な蒸し暑さはなかった。帰宅後、NHK甲府の夜のニュースで、「富士吉田市で、富士山の雪どけに伴って現れる鳥のように見える雪形、『農鳥(のうとり)』が12日確認された」という報道があった。(NHK NEWS WEBにその記事と映像が載っている)

 農鳥はさすがに甲府盆地からは見えない(それらしきものが見えないこともないのだが、形がはっきりしない)。富士北麓の地では春の訪れを告げる風物詩として、農家が農作業を始める時期の目安とされてきた。寒冷のこの地の桜の開花は遅い。桜の季節が過ぎてまもなく五月を迎える。しばらくすると、農鳥が現れる。大地にも街にも活気が出てくる。短い期間で、春から初夏へ、そして山開きの時へと向かっていく。
  志村正彦『桜の季節』の「桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい?」にも、このような時節の背景があるのかもしれない。

 数回にわたって、『桜の季節』について書いてきた。この一年間、ある桜の樹を見つめ続け、その経験をもとに考えた。巡り合わせのように視た二つの番組、「桜守」佐野藤右衛門の話、岩崎航の「桜吹雪」の詩にも触発された。番組との出会いは半ば偶然だが、その偶然によって動かされるのは大切な作用となった。今日の農鳥のニュースもそのように働いた。
 『桜の季節』と桜についてまだ書いてみたいことがあるが、季節も移り変わったので、今年はひとまず終わりとする。いつかまた再開したい。季節の循環のように、書くことも循環していく。

 この「偶景web」も開始以来、三年半ほどになる。今年になって、回数が増えた。単純に書いてみたいことが多いからだが、「志村正彦ライナーノーツ」を中心として、他の音楽に関すること、日々の風景や出来事、小さな旅や遠くへの旅など、様々な事柄について記している。お節介ながら紹介したい音源や映像、VF甲府の話題もある。個人的な備忘録のような感じもある。少しでも書くことで、その後展開していく契機を得られる。長文のもの、短文のもの、量や質は異なるが、とにかく続けていくことにする。
 私の住む甲府でのイベント、例えば「桜座」でのライブについては、記録する意味合いもある。東京と異なり山梨では、何かを書き記す人の絶対数が少ない。誰かが書き残しておかねば、忘れられてしまう。そのことへの抗いでもある。

 春夏秋冬、時や季節に応じて、風景を眺めることは心を動かす契機となる。僕の場合、この年になって、それを志村正彦・フジファブリックの歌から教えられた。誇張ではいささかもなく、そう言いきれる。五十歳代の摩り減って衰えた感受性であっても、何かしら動いていくものがある。この動いていくものを少しでも捉え、記してみたい。

2016年5月10日火曜日

痛みの通奏低音-『桜の季節』4[志村正彦LN128]

 フジファブリック  『桜の季節』のミュージックビデオを見るといつも、それを見つめるこちら側のまなざしが凝固するような瞬間がある。
 志村正彦が「桜が枯れた頃」と歌い、もう一度『桜が枯れた頃』と繰り返すシーンだ。その時の彼の苦しげな哀しげな表情を見ると、ある種の痛みのようなものすら感じてしまう。声量を上げ高いキーを歌う箇所でもあるのだが、「桜が枯れた頃」という言葉そのものを伝えようとして、あの表情になっているのではないか。無意識的なものかもしれないが、そのような気がする。

 『桜の季節』についての一連のエッセイを書き続けながら、この歌の中にある痛みのような感触について考えてきた。そんな最中、四月の終わり頃にNHKのETV特集『生き抜くという旗印〜詩人・岩崎航の日々〜』という番組を見た。詩人岩崎航の存在については、二年ほど前、このblogのことを時々紹介していただいている方のtweetで知った。それ以来、彼のblog「航の SKY NOTE」を時々読んでいた。
 「どうしようもなく/孤独の時間に/こみあげた思いひそかに研ぎ澄ます/それを/凱歌として突き貫くのだ」という五行歌がある。生きることそのものを闘うための「凱歌」。それがどれだけ孤独な行為であったのか。現在に至る日々をこの番組は丁寧に追っていた。その中で紹介されたある五行歌に心を動かされた。

   校庭の
   桜吹雪が
   痛かった
   ただ黙って
   空を見ていた

 「桜吹雪」が「痛かった」という経験。この経験を理解することは端的に不可能だと言える。可能なのは、つまらない抽象的な言葉でその輪郭を描くことくらいなのだが、あえて試みるなら、心だけでも身体だけでもなく、存在が受け取っている痛苦、という輪郭がひとまず浮かび上がる。その痛みを抱えたままただ沈黙して空を見る。桜を見るのではなく空を見るところに、二重の痛みがある。五七五の短歌調の韻律が、偶然かもしれないが、この詩の重心を支えている。
 桜は美しさ、儚さ、喜び、悲しみ、様々な感覚、感情を伴って表現されてきたが、「痛かった」という捉え方と共に表現されたことは、私たちの詩の歴史の中にはほとんどないであろう。

 岩崎航の「桜吹雪」の詩の舞台は「校庭」。『桜の季節』のMVの主な舞台は、歌詞と直接の関係はないが、「教室」や「学校」だ。そんなことも連想を促したのだが、この二つの作品の表現する世界は異なる。孤独の在り方も異なる。しかし、その孤独の深さにおいてどこか通底しあうものを感じる。
 冒頭に書いたように、志村正彦の『桜の季節』、この歌の奥底にも通奏低音のように「痛み」の感覚が流れている。

2016年5月7日土曜日

ある桜守の話-『桜の季節』3[志村正彦LN127]

 今日の夕方、NHK「NEXT 未来のために」の番組『桜守 心をつなぐ 佐野藤右衛門 88歳の春』を見た。(5月10日(火) 午前1時30分再放送の予定)

 佐野藤右衛門さんは枯れていく桜の命をつなぐ「桜守」だ。88歳の今も、全国各地から桜の枝を持ち帰り、枯れかけた桜に接ぎ木をして育てていく。この番組は、京都円山公園の「祇園しだれ桜」を東日本大震災の被災地に植樹する姿を追う。このしだれ桜の樹齢は千年となる可能性があるそうだ。桜守は千年という時を守る始まりにいる。
 佐野さんが祖父、祖母、父のことを思い出し、次のように語る。
  
  小さいころは桜の下に おじいが連れて行ってくれても 桜そのものは 全然気にならへん 一緒に行って 握り飯を食わしてもらえる方が楽しかった おじいが言うてた おばあが言うてた おやじが言うてたという話を 桜に引っかけて そのときの情景を思い浮かべると 自分がそうして大きくなってきた
 みな 人は変わっていく 変わっていくけれど伝えてくれるのは 桜 そういうふうにして 次の世代に いろいろな物語が伝わっていく

 佐野さんの孫が桜守の仕事を継ぐ。引用した言葉はこの家の代々に、そして、私たちの記憶の中でも引き継がれていくだろう。

 前回、志村正彦の『桜の季節』について、水面に広がる波紋の像を想い描いて、「桜の季節が過ぎたら」という表現の行き着く先に「桜が枯れた頃」という言葉と遭遇した、と書いた。この捉え方をすれば、この歌は、桜の花の季節を過ぎた頃から桜の葉が枯れた頃までの時間、春から晩秋、初冬へと至る時間を舞台とすることになる。「桜が枯れた頃」は、一年の春夏秋冬の循環の中に位置づけられる。

 しかし、この水の輪の動き、波紋がことのほか大きくなり、ある水面の境界線を超えていくと想像したらどうだろうか。一年という時間の区切り越え、何十年という時を超えてていくのだとしたらどうなるのか。ありえないことではあるが、ここではありえることとして考える。
 そうなれば、「桜が枯れた頃」は、桜の樹木そのもの死、桜の枯死という「像」が想い描けてくる。すべては想像の世界の出来事だが、切り取る時間の枠組によって、その像が変容していく。そして、『桜の季節』という歌の像も変化していく。

 現実の世界では、佐野藤右衛門さんのような桜守がいる。枯れかけた桜がよみがえることもある。その桜は次の世代に伝わる。
 『桜の季節』の歌の世界では、「桜が枯れた頃」は永遠に「桜が枯れた頃」のままである。それでも、それであるがゆえに、この歌は、歌として、物語として、次の世代に伝わる。
 私たち聴き手も、桜守ならぬ「歌守」のような存在として、志村正彦・フジファブリックの作品を伝えていくのだろう。

2016年5月5日木曜日

春からの隔たり-『桜の季節』2[志村正彦LN126]

  桜の季節が過ぎると、それを待っていたかのように、桜ならぬ花々が咲き始める。数日で散り、葉に変わり、緑で自らを覆う。主役を他の花に譲り、新緑の並木として、街の背景に退く。
 今、我が家の花壇でも、家人が丹精込めて育てた花々が、赤、白、黄、橙、紫、色という色を奏でる。咲きほこり、目に眩しい。気温も高い。今日は立夏。暦の上だけでなく、もう初夏のようだ。季節は動いていく。

 時を桜の季節に戻したい。普通、桜の歌、桜ソングでは、桜が咲くあるいは散る、どちらにしろ桜の「花」に焦点をあてて歌を作る。咲き、散るという春の「時」の「舞台」で繰り広げられる出会いや別れが物語の中心となる。

 志村正彦『桜の季節』にも、「桜のように舞い散って/しまうのならばやるせない」の〈散る〉、「坂の下 手を振り 別れを告げる」の〈別れ〉という定型的なモチーフがないわけではない。しかし、志村は冒頭に「桜の季節が過ぎたら」という時、「遠くの町」という場を設けることで、そのモチーフを微妙にずらしていく。彼の作る物語はどれも、多少なりとも、その時と場が一般的な物語の中心から外れている。

 イメージとして語る。何かを水面に落とす。さざ波が立ち、その波の輪が中心から外側へと動いていく。志村はその波紋を描く。周辺への静かな動きに自らの想いを重ね合わせる。その波紋の動きに乗って、思わず、「桜の季節が過ぎたら」「遠くの町」という表現に出会った。その波紋がさらに外へ外へと動く、その行き着く先に、「桜が枯れた頃」という言葉と遭遇した。論理的には上手く語れないのでイメージに仮託してみた。

 この過程は意識的なものというより、志村正彦の資質がその波紋のような動きをとらえたとみるべきだろう。彼の作る歌にはいつも不思議な奇妙な味わいがある。作り物のようで現実感がある。この歌の一節「作り話に花を咲かせ/僕は読み返しては 感動している!」は、あるいはそのような事態を伝えているのかもしれない。

 志村正彦の作品は、いわゆる「中心」から隔たったところに存在している。その距離に彼らしい感性の在り方が示されている。
 『桜の季節』には春からの隔たり、その動きのようなものが刻み込まれている。

2016年5月3日火曜日

"Triste plaisir " Gilles de Binchoisー古楽フェスティヴァル〈山梨〉

 毎年このゴールデンウィークの時期に甲府では、古楽フェスティヴァル〈山梨〉、国際古楽コンクール〈山梨〉が開かれている。その一つとして開催された「15世紀の巨匠たち(第28回国際古楽コンクール〈山梨〉優勝者によるコンサート)」に、一昨日出かけた。西欧の古楽を甲府で聴けるのはこの機会くらいしかない。しかもこのコンサートは無料だった。主催者にほんとうに感謝を申し上げたい。

 会場は甲府商工会議所の2階会議室。甲府の街中を会場とする条件と予算の制約のためにこの場所となったのだろうが、これはこれで手作り的な感じがしてよい。あの桜座でもクラヴィコードの展示会があった。コンクールの方は山梨県立図書館の2階ホールで行われた。音楽をめぐる環境に厳しいこの時代で音楽の場を確保するためには、様々な協力を得たり、公立の施設を借りたりするネットワークや知恵が必要だ。どのジャンルでもそれは変わらないだろう。

 今年は佐藤裕希恵(ソプラノ、昨年第28回優勝者)を中心に、福島康晴(テノール)、菅沼起一(リコーダー)、小坂理江(ハープ)、上田美佐子(中世フィドル)の五人のユニットがGuillaume Dufay(1400-1474、ギョーム・デュファイ)等のブルゴーニュ楽派を始めとする15世紀の作品を歌い奏でた。佐藤裕希恵さんの明るく華やかでしかも繊細な声が素晴らしかった。
 僕にとっては初めて聴く作品ばかりだったが、美しい旋律と多声的な響きに心を動かされた。「世俗歌」に分類される歌が多かったが、その世俗のありようにも関心を持った。フォークやロックは現代の世俗歌だ。

 特にジル・バンショワ(1400-1460、Gilles de Binchois)の『悲しき悦び(Triste plaisir)』の美しい響きとフランス語の歌詞に魅了された。詩はAlain Chartier (1385-1433アラン・シャルティエ)。youtubeの音源 【Lena Susanne Norin (Alto), Randall Cook,Susanne Ansorg】を紹介させていただく。(なお、当日のプログラムに翻訳が掲載されていたので、冒頭の四行を引用させていただきます)

        Triste plaisir

  Triste plaisir et douloureuse joye,
  Aspre doulceur, desconfort ennuieux,
  Ris en plorant, souvenir oublieux
  M'acompaignent, combien que seul je soye.


      悲しき悦び

  悲しき悦びとつらい楽しみ
  苦き甘美と苛立ちの癒し
  涙の笑いと忘却の思い出
  私と共にあれ、私は孤独であるけれど。 


 「悲しき悦び」相反する感情、矛盾する感覚。「忘却の思い出」忘れていく記憶、あるいは忘れてはならない記憶。歌の主体はそれらの記憶と共に一人で生きていく。その言葉は500年以上の時、文化や国境を越えて、現在の聴き手にそのまま伝わってくる。

 時に、異なる時代、異なる様式の音楽に触れることは、聴き手として揺さぶられる。自らの音楽体験をふりかえることになる。あたりまえのことかもしれないがそのことを強く感じた。

2016年4月30日土曜日

『桜の季節』その一年 [志村正彦LN125]


 この一年、ある桜の樹を眺めてきた。

 春、夏、秋、冬、四季の季節ごとにその姿を見つめ、記憶してきた。
 この桜は勤め先の校舎入口近くにある七本の樹の一つ。この樹の向こう側、甲府盆地の南側に広がる御坂山系の稜線、その真中よりやや東側に、富士山の姿が望める。近景の桜、遠景の富士。遙かな小さな富士ではあるが、桜と富士という風景を眺められる。

 ここでフジファブリック『桜の季節』を聴いてみたい。



  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない
 
  oh ならば愛をこめて
  so 手紙をしたためよう
  作り話に花を咲かせ
  僕は読み返しては 感動している!

  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない
 
  oh その町に くりだしてみるのもいい
  桜が枯れた頃 桜が枯れた頃

  坂の下 手を振り 別れを告げる
  車は消えて行く
  そして追いかけていく
  諦め立ち尽くす
  心に決めたよ

  oh ならば愛をこめて
  so 手紙をしたためよう
  作り話に花を咲かせ
  僕は読み返しては 感動している!

  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない
   
    (作詞・作曲 志村正彦)  *リフレイン部を一部省略。

 「桜の季節過ぎたら遠くの町に行くのかい?」この言葉を追いかけるように、桜の季節を過ぎた時期、その後の時間の光景に注目した。落花直後のさびしげな姿。葉がすぐに出て緑に包まれる新緑の頃。眩しい夏の樹の濃い影。光の落ちつく秋の涼しげな姿。晩秋の「桜紅葉」の季節。

 やがて葉は枯れる。寒さが増すたびに一枚一枚と落ちていく。地面の葉。まだ色鮮やかなものもあれば、色がくすんでしまったものもある。北の風が吹くとあたりに舞う。年を越す頃には葉がすっかり落ちる。枝と幹だけの桜は暗い灰色と濃い茶色が混ざり合う。午後になり日が差さなくなると、ほとんど黒色の樹と化す。「桜が枯れた頃」とはこのような季節を指すのだろうか。
 この桜の樹は、葉がなくなると逆に、その隙間から御坂の山越しに冬の富士がよく見える。樹の黒灰色と雪景色の富士の白色、そのコントラストが影絵のようだ。

 二月の終わりから三月の初め、暖かくなると桜の樹に何か力が宿りはじめる。中旬からつぼみを観察する。少しずつふくらみ、二十日を少し過ぎた頃から徐々に咲き始めた。例年より少し早い。自分が育てているわけではないが、一年という時を共に過ごしたので、なんだか見守ってきたような気分だった。今年の桜の季節は格別だった。感慨があった。三月最後の週末に満開となり、週明けの四月初めには散り始めていた。

 この桜の樹は、幹がまだ細く、樹皮の感じも若い。十数年前に校舎が新築されたときに新たに植えられたものだろう。樹齢は二十歳ほどか。
 桜の樹の寿命は五十年といわれるが実際はそれよりも長く生きるようだ。そうであるなら、桜と人間の寿命は同じくらいの時間になる。「桜の季節」と「人の季節」が重なる。

 桜の季節とは、桜が咲き散るという桜の「花」の季節だけでなく、新緑、桜紅葉、葉の枯れる季節、桜の「樹」としての時間のすべての季節だとすればどうか。私たちの桜の見方感じ方が変わるだろうか。最近そんなことを考えている。この一年、桜の樹を眺めていたことが影響しているのかもしれない。

 「桜の季節過ぎたら」「桜が枯れた頃」。志村正彦がそのような表現で思い描いたのがどのような光景、どのような世界だったのかはかは分からない。ただ彼には故郷で、桜の一年、桜の春夏秋冬を見つめていた時があった。それは確かなことのように思われる。

 『桜の季節』には「桜」そのものを見つめる時間、そのような季節が凝縮されている。

2016年4月28日木曜日

ボブ・ディランと岡林信康

 一昨日26日、渋谷オーチャードホールでボブ・ディラン。昨日27日、甲府桜座で岡林信康。二日間連続で日米のフォーク、フォークロックの原点の存在のライブに行ってきた。連続となったのは偶然なのだが、色々な意味でこの二人の現在を聞き比べることができた。

 僕がディランに最も親しんだのは、70年代中頃の作品、1974年『プラネット・ウェイヴズ』1975年『血の轍』、1976年『欲望』の時代だ。1983年の『インフィデル』あたりまでは一作ごとに追いかけたが、その後は遠ざかっていった。だから、少なくとも70年代のディラン・ファンだとしても、本来の意味でのディラン・ファンではないのだろう。

 26日、勤めを少し早く終え、4時に甲府を出発。6時半に渋谷に到着。オーチャードホールの座席は2階席の奥ほぼ中央、かなり遠くからディランを見下ろすような位置だった。観客はほぼ満員。やはり60歳代くらいの方が多い。勤め帰りのサラリーマンも目立つ。
 ディランの登場。スーツ姿にハットを被る。立ち姿はもうすぐ75歳になる年齢とは思えない位、率直に格好いい。だが、ステージで歩き出すとひょこひょことした何とも言えない歩きになる。年齢相応、つまり「おじいさん」の歩き方だ(ちょっと可愛くもあるのだが)。そんなことも超然として、あのしゃがれ声で力強く歌う。時にハーモニカやピアノも奏で、音楽を存分に楽しんでいる。
 心を動かされたのは、やはり『ブルーにこんがらがって』。70年代のあの頃、最も良く聴いていた歌の一つだからだ。でもパフォーマンス自体にはあまり満足できなかった。もとから期待してはいないのだが、さびしい、残念な気持ちが残る。
 最近のディランのことはほとんど知らないので、雑駁な印象を記すが、この日の彼はアメリカ音楽の伝統を一身にまとう「シンガー」だった。
 2部構成、長めの休憩を挟んで2時間ほどのコンサートが終わり、甲府に帰ると12時を過ぎていた。さすがに疲れた。

 岡林信康についても、僕は1977年リリースの『ラブソングス』で出会った「遅れてきた世代」の一人だ。やはり70年代の後半となる。その後は時々消息を聞くくらいで、遠い存在だった。

 27日、勤め帰りに桜座に。近いことは有り難い。この日は150人ほど詰めかけ、満員。年齢は60歳代後半が中心、70歳代前半と思しき方も少なくない。今年70歳を迎える岡林の同世代のファンが集ったことになる。それにいつもと違い、県内の方が多いようだ。これはうれしかった。岡林が甲府に来たのは30年ぶりのことらしい。
 初期の歌から最新作まで、軽妙でユーモアのある語りをまじえ進んでいく。岡林の方も2部構成、休憩を挟む2時間のステージだった。
 一番心に響いたのは『26ばんめの秋』。季節の風景に対するまなざしと心の内側への問いかけが自然にとけあう。歌の純度の高さにあらためて気づくことができた。
 また、歌は聴き手のものだということを話題を変えながら繰り返し語っていたことが印象深かった。この発言については回を改めて書いてみたい。

 ディランは20世紀のアメリカ音楽の厚い伝統に守られている。その言葉も英米文学やユダヤ・キリスト教の言葉の伝統に支えられている。それは事実であり、それ以上でもそれ以下でもない現実なのだろうが、正直に言うと、そのことに違和というか疎隔されるような感覚も持った。孤高の単独者というより、伝統のそれもかなり自由な(これが彼らしいが)体現者としてのボブ・ディラン。自分自身に対する固定的な捉え方、その枠組みからたえず抜け出そうとしてきた彼の軌跡の到着点なのだろうか。

 岡林にはディランが身にまとう重厚な音楽の伝統はない。あるのだとしても、この国のフォークやロックの未だに豊かとは言えない伝統というか蓄積だけだ。そのことは僕たち聴き手も共有している。
 それでも、岡林信康の歌から、そのたぐいまれな純度が持続していることが伝わってきた。それは小さなものにすぎなく、厚みがないものかもしれないが、彼の歌のいくつかに純粋な力を感じとることができた。

 ボブ・ディランと岡林信康。偶然、二日続いて二人を聴いた。数の規模は違えど、熱心なファンに恵まれ、幸せな歌い手だ。彼らの歌についてあらためていつか書いてみたい。