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2016年5月5日木曜日

春からの隔たり-『桜の季節』2[志村正彦LN126]

  桜の季節が過ぎると、それを待っていたかのように、桜ならぬ花々が咲き始める。数日で散り、葉に変わり、緑で自らを覆う。主役を他の花に譲り、新緑の並木として、街の背景に退く。
 今、我が家の花壇でも、家人が丹精込めて育てた花々が、赤、白、黄、橙、紫、色という色を奏でる。咲きほこり、目に眩しい。気温も高い。今日は立夏。暦の上だけでなく、もう初夏のようだ。季節は動いていく。

 時を桜の季節に戻したい。普通、桜の歌、桜ソングでは、桜が咲くあるいは散る、どちらにしろ桜の「花」に焦点をあてて歌を作る。咲き、散るという春の「時」の「舞台」で繰り広げられる出会いや別れが物語の中心となる。

 志村正彦『桜の季節』にも、「桜のように舞い散って/しまうのならばやるせない」の〈散る〉、「坂の下 手を振り 別れを告げる」の〈別れ〉という定型的なモチーフがないわけではない。しかし、志村は冒頭に「桜の季節が過ぎたら」という時、「遠くの町」という場を設けることで、そのモチーフを微妙にずらしていく。彼の作る物語はどれも、多少なりとも、その時と場が一般的な物語の中心から外れている。

 イメージとして語る。何かを水面に落とす。さざ波が立ち、その波の輪が中心から外側へと動いていく。志村はその波紋を描く。周辺への静かな動きに自らの想いを重ね合わせる。その波紋の動きに乗って、思わず、「桜の季節が過ぎたら」「遠くの町」という表現に出会った。その波紋がさらに外へ外へと動く、その行き着く先に、「桜が枯れた頃」という言葉と遭遇した。論理的には上手く語れないのでイメージに仮託してみた。

 この過程は意識的なものというより、志村正彦の資質がその波紋のような動きをとらえたとみるべきだろう。彼の作る歌にはいつも不思議な奇妙な味わいがある。作り物のようで現実感がある。この歌の一節「作り話に花を咲かせ/僕は読み返しては 感動している!」は、あるいはそのような事態を伝えているのかもしれない。

 志村正彦の作品は、いわゆる「中心」から隔たったところに存在している。その距離に彼らしい感性の在り方が示されている。
 『桜の季節』には春からの隔たり、その動きのようなものが刻み込まれている。

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