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2016年5月10日火曜日

痛みの通奏低音-『桜の季節』4[志村正彦LN128]

 フジファブリック  『桜の季節』のミュージックビデオを見るといつも、それを見つめるこちら側のまなざしが凝固するような瞬間がある。
 志村正彦が「桜が枯れた頃」と歌い、もう一度『桜が枯れた頃』と繰り返すシーンだ。その時の彼の苦しげな哀しげな表情を見ると、ある種の痛みのようなものすら感じてしまう。声量を上げ高いキーを歌う箇所でもあるのだが、「桜が枯れた頃」という言葉そのものを伝えようとして、あの表情になっているのではないか。無意識的なものかもしれないが、そのような気がする。

 『桜の季節』についての一連のエッセイを書き続けながら、この歌の中にある痛みのような感触について考えてきた。そんな最中、四月の終わり頃にNHKのETV特集『生き抜くという旗印〜詩人・岩崎航の日々〜』という番組を見た。詩人岩崎航の存在については、二年ほど前、このblogのことを時々紹介していただいている方のtweetで知った。それ以来、彼のblog「航の SKY NOTE」を時々読んでいた。
 「どうしようもなく/孤独の時間に/こみあげた思いひそかに研ぎ澄ます/それを/凱歌として突き貫くのだ」という五行歌がある。生きることそのものを闘うための「凱歌」。それがどれだけ孤独な行為であったのか。現在に至る日々をこの番組は丁寧に追っていた。その中で紹介されたある五行歌に心を動かされた。

   校庭の
   桜吹雪が
   痛かった
   ただ黙って
   空を見ていた

 「桜吹雪」が「痛かった」という経験。この経験を理解することは端的に不可能だと言える。可能なのは、つまらない抽象的な言葉でその輪郭を描くことくらいなのだが、あえて試みるなら、心だけでも身体だけでもなく、存在が受け取っている痛苦、という輪郭がひとまず浮かび上がる。その痛みを抱えたままただ沈黙して空を見る。桜を見るのではなく空を見るところに、二重の痛みがある。五七五の短歌調の韻律が、偶然かもしれないが、この詩の重心を支えている。
 桜は美しさ、儚さ、喜び、悲しみ、様々な感覚、感情を伴って表現されてきたが、「痛かった」という捉え方と共に表現されたことは、私たちの詩の歴史の中にはほとんどないであろう。

 岩崎航の「桜吹雪」の詩の舞台は「校庭」。『桜の季節』のMVの主な舞台は、歌詞と直接の関係はないが、「教室」や「学校」だ。そんなことも連想を促したのだが、この二つの作品の表現する世界は異なる。孤独の在り方も異なる。しかし、その孤独の深さにおいてどこか通底しあうものを感じる。
 冒頭に書いたように、志村正彦の『桜の季節』、この歌の奥底にも通奏低音のように「痛み」の感覚が流れている。

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