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2016年5月29日日曜日

フェルナンド・ペソアの作用 [ペソア 1]

 志村正彦の歌について書くようになって、ここ数年の間、日本の近現代詩や海外の詩をあらためて読むようになった。読んだことのなかった詩人、若い頃に読んだだけでほとんど忘れかけている作品。その過程で出会い、最も惹かれたのがフェルナンド・ペソア(Fernando Pessoa)だった。

 1888年、ペソアはポルトガルのリスボンで生まれた。幼少期は南アフリカのダーバンで過ごし、その後リスボンに戻り、貿易会社で働きながら詩や散文を書き続けた。1935年、47歳の生涯を閉じたが、生前はほとんど無名の存在だった。
 没後、それもかなりの年数を経てから、残された膨大な遺稿が整理され出版されると、ポルトガルの国民的詩人、さらにヨーロッパを代表する20世紀の詩人としても高く評価されるようになった。
 
 ペソアは、「異名 heteronimo」という自分自身と異なる人格の「書き手」を創りだし、その「異名者」たちに詩や散文を書かせた。アルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスの三人が代表的な異名者の詩人だ。ペソア名義の詩もあるが、現実の作者ペソアというより、「同名者」ペソアの作品と考えた方がよいようだ。
 「Pessoa」という名はポルトガル語で「人」「人格」という意味らしい。英語の「person」と同語源のラテン語由来の言葉だ。多数の異名者と同名者を生みだしたペソアは、その名そのものがひとつの宿命だったようにも考えられる。

 詩の翻訳書は、『ポルトガルの海 増補版』(池上岑夫編訳、彩流社、1997年)、『ペソア詩集 (海外詩文庫16)』(澤田直編訳、思潮社、2008年)。この二冊を合わせても全詩の一割に満たないそうだ。海外の詩については、ほんのわずかでもその原語に触れたことがあれば近づきやすい。音の響きや文字の印象、「物」としての言葉が重要だ。ポルトガル語が全く分からない僕にとって、ペソアの詩はやはり遠い遠いところにある、というのが実感だ。
 そのもどかしさを抱えていたころに、ペソアの詩に楽曲をつけた作品を集めたアルバム『フェルナンド・ペソア集〜ファドとポルトガルの魂』(Fernando Pessoa | O Fado e a Alma Portuguesa [Deluxe Edition CD+Livro])があることを知り、入手した。



 このアルバムの紹介文によると、ファド歌手がペソアの詩に曲をつけて歌いはじめたのは70年代からで、90年代以降の世代はペソアの詩を盛んに取り上げるようになった。現在では、ペソアの詩はファドに不可欠のものとなった。
 CDアルバムの収録曲は20曲。シンガーについては全く知識がないが、ポルトガルの代表的な歌い手のようだ。CDのケースを兼ねた80頁ほどの洒落た書籍には、ポルトガル語の原詩とその英訳が収められている。英語を通じて、詩の意味がおおよそ浮かび上がることがありがたい。現在このCDブックは版元品切れのようだが、youtubeに制作会社による紹介映像がある。断片ではあるが音源として聴くこともできるので、この作品の雰囲気が伝わるだろう。


 この映像はパート1、続くパート2もある。

 ペソアの詩や散文の牽引力は非常に強い。想像の世界で、読者に作品の舞台であるリスボンの街並みを歩かせるような作用を持つ。その作用のせいか、昨年の夏、僕はポルトガルに行き、ペソア博物館(Casa Fernando Pessoa)を訪れた。ゆかりのある場も歩いた。
 断続的になるかもしれないが、その出来事を何回かに分けてここに記したい。

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