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2022年4月24日日曜日

現実

 2016年の夏、ロシアに旅行した。モスクワとサンクトペテルブルクの二つの都市を回った。

 モスクワの空港の手荷物検査は2回あった。自動小銃を持った警備員もいた。入国審査も他のヨーロッパの国に比べて厳しかった。凄いというほどでもないにしろ、何かしらの緊張感があった。

 サンクトペテルブルクといえば、ゴーゴリの『外套』そしてドストエフスキーの『白夜』。この二つの作品には思い入れがあるので、そのゆかりの場所を見た。エルミタージュ美術館のコレクションは素晴らしかったが、その割に観覧者が触れられそうな距離に展示されているなど、展示の仕方がおおらかなことに驚いた。

 モスクワ。赤の広場、クレムリン。私たちの世代では、この地はロシアというよりもソ連、ソビエト社会主義共和国連邦の中心地という印象が強いが、かつての社会主義の要塞といったイメージはなかった。観光客が多く、賑わいを見せていた。土産店には、ソ連・ロシアの歴代の指導者(書記長や大統領)から成るマトリョーシカがあり、人形の顔を見てその名を思いだしていった。

 空港でも街でも、ユーラシア大陸の様々な民族を見かけた。私もいきなりロシア語(だと思う)で話しかけられたことがあった。その時は少し特徴のある黒い帽子を被っていた。帰国して調べると、キルギス人の被る帽子に似ていたので、もしかしたら、キルギス人に間違えられたのかもしれない。キルギス人は日本人と似ていると言われている。ロシアは、多様な民族から構成されているユーラシアの大国であると妙に納得した。 

 学生時代を振り返る。ロシア・フォルマリズムの文学理論。ロマーン・ヤーコブソンの言語理論。構造主義、物語の構造分析、記号論の源流。そして、ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』。私たちの世代の学生で文学理論に関心のあるものにとって、必読の文献だった。ポリフォニーの理論は大きな影響を与えた。ロシアの文学理論は、1910年代から30年代、今から百年前に発展し、その後深化していった。

 私にとってロシアは何よりも、文学と言語の理論の国であった。


 ロシアのウクライナ侵略から二ヶ月が経つ。

 私が知っていることは、ニュース映像やネットの情報で得たものに限定されるが、その一部になんらかの虚構がある可能性を排除できないにしても、その情報源が多様な媒体からもたらされていることを考慮すると、総合的に判断して、それらの情報がこの侵略の〈現実〉を伝えていることは間違いないだろう。

 国際政治にも国際法にも全くの素人である私がこのブログに書くことがあるとしたら、日本という場でのこの現実をめぐる様々の言説、そこで使われる言葉の問題、日本の言論の在り方についてである。言葉や言説についての教育や研究に携わる者として、今日はこの点について書いてみたい。

 この間、特に違和感を持ったのは、〈戦争〉という言葉である。戦争の定義は、通常、〈武力による国家間の闘争〉である(実際にはいろいろな定義があるようだが)。国際法上は、戦争は〈宣戦布告〉により始まり、当事国間に〈戦時国際法〉が適用される。当事国のロシアは戦争ではなく〈特別軍事作戦〉と命名している。それゆえに、と言うべきだろうか、宣戦布告はいまだない。

 日本の言論での〈戦争〉という括り方に違和感を持ち、この問題について考えあぐねていたが、危機管理の専門家、福田充氏(日本大学危機管理学部教授)のツイッターの発言によって、考え方を整理することができた。

福田充 Mitsuru Fukuda@fukuda326 Apr 20
「戦争」というメディア的概念の誤用によって、侵略する側と、侵略される側という圧倒的な関係性の非対称性、権力的な非対称性、コミュニケーションの非対称性が無視されて全てごちゃごちゃに語られる日本の弊害の拡散に、一部の研究者や記者、思想家などインフルエンサーも加担しています。 

 副田氏は、戦争というメディア的概念を〈誤用〉(この誤用という表現は、恣意的な使用あるいは党派的な適用という意味だろうが、まだ充分には理解できていない)することによって、侵略する側と、侵略される側という圧倒的な関係性の非対称性を無視している日本の一部の言論を批判している。確かに、この非対称性を無視どころか否定さえしている論者もいる。

 現実を直視しないで、自分の固定観念だけで考えると、現実の関係性そのものを捉え損ねる。そうするとさらに、現実の関係性よりも、自分自身の理想や観念、主義やイデオロギーによって見出した関係性の方へと思考が横滑りしていく。副田氏の観点に拠るのであれば、関係の圧倒的な非対称性がある種の対称性へと整理されていく。〈侵略する側と侵略される側〉という非対称的な関係が、〈戦争する側と戦争する側〉少なくとも、〈戦争をする側と応戦した側〉という対称的な関係へと置き換えられる。歪められると言ってもよい。

 国際法の専門家、酒井啓亘氏(京都大学大学院法学研究科教授)は3月20日の時点で、次のようにツイッターで述べている。

酒井啓亘(Hironobu Sakai)@UtBeneVivas Mar 20
備忘録として。周知のとおり、国際法の観点からすると、ロシアが主張する個別的自衛権による武力行使の正当化が困難なのは、ウクライナによるロシアへの先行武力攻撃の不存在から明らか。国連憲章51条は、「武力攻撃が発生した場合」に自衛権行使を国連加盟国に認めているから。

 要するに、「先行武力攻撃の不存在」は明白であり、主権国家による主権国家に対する武力の一方的な行使、侵略である。国連憲章も正当な「自衛権行使」を認めている。侵略・攻撃とそれに対する自衛・反撃は、当然、非対称的なものである。この場合、非対称的な関係と対称的な関係との間には絶対的な差異がある。

 しかし、対称的な関係を見出す論者は〈戦争〉として捉えがちである。そうなると、戦争の〈当事国〉同士という対称的な関係によって、いわゆる「どっちもどっち論」によって、「喧嘩両成敗」的な論を提示しやすくなる。当事国に対する中立論や、各々の原因を想定した両論併記論にも陥りやすい。さらに、その背景としての「代理戦争」論や根拠のない陰謀論まで持ち出してくる。このような論によって、当事国を相対化する視線が強くなる。この思考の流れは、その論者をメタレベル的な視点に立たせる。

 このメタレベル的な視点は、結果として、その論者にある種の思考停止をもたらす。そのような傾向を持つ専門家、研究者が一定数いる。意外にも、と言いたいところだが、ある面ではこれは当然なのかもしれない。ある局面で思考停止する方が、自分の主張や学説の一貫性を保つことができるからだ。メタレベルからの俯瞰する視点によって、当事国各々の原因や背景という方向に思考が向かう。当事国が対称化され、結果として、相対化されてしまう。「どっちもどっち論」の循環による思考停止。この現状についての強い違和感がある。

 全ての出来事は、その原因をかなりの次元まで遡ることができる。様々な原因、理由、背景を指摘できるだろう。しかし、それはあくまでも〈論〉にすぎない。あらゆる論は、その論じる主体の姿勢をあからさまにする。無意識の在り方を露呈させる。


 2022年、日本の言説の世界に起こっているのはこのような事態である。専門家や研究者は大学の教員である場合も多いので、この現状には特に関心がある。

 論は論であり、現実は現実である。その現実を、前回紹介したピーター・ゲイブリエルの言葉を再度引用するなら、世界の目が、今、見つめている。そして、この世界の現実に対して、思考停止に陥ることなく、今、この場で、思考を深めていくこと。その思考が現実に対して少しでも何らかの作用を果たすこと。働きかけること。私がこの二ヶ月間で考えて特に伝えたいことをこのブログに書かせていただいた。


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