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2022年5月15日日曜日

沖縄復帰50年。島唄。

 5月15日。1972年のこの日に沖縄が日本に復帰してから半世紀が経った。当時の僕は中学生だったが、新聞やテレビのニュースで大きく報道されたことは記憶に残っている。

 山梨の僕にとっては、沖縄は遠い遠い地だった。70年代の半ばから、沖縄のロック、コンディション・グリーンや紫が注目されるようになった。二つのバンド共に、ハードロックやブルースロックなどの洋楽のサウンドだった。その後、喜納昌吉とチャンプルーズの「ハイサイおじさん」によって、沖縄民謡のリズムや音階に基づくロックも聴くことになった。僕にとっての沖縄は、音楽の比重が大きかった。

 高校生の頃、僕は『ミュージック・マガジン』や『話の特集』で竹中労の記事を読んだ。『琉歌幻視行 島うたの世界』(1975年)も読み、〈琉歌〉の存在を知った。労の父、竹中英太郎は山梨日日新聞社の記者だったことがあり、戦時中と戦後の一時期まで、労は甲府に住んでいた。労は甲府中学(現在の山梨県立甲府第一高等学校、僕の母校でもある)で学んだのだが、校長退陣運動で退学となる。高校の恩師が労の同級生だったので、その時の話を少しだけ聞いたことがある。


              表紙画:竹中英太郎


 竹中労には『美空ひばり』や『ビートルズ・レポート』など音楽に関する著書が多いが、70年代初頭から、琉歌沖縄民謡のレコードをプロデュースしたり、コンサートを企画したりして、嘉手苅林昌を始めとする島唄を紹介した仕事も特筆される。竹中労によって、島唄に出会った「本土」の人間は少なくないだろう。

 父の英太郎は甲府で暮らしたが、優れた挿絵画家でもあった。没後の1989年、労の監修による回顧展が甲府のギャラリーで開催された。当時は山梨県立文学館に勤めていたので、その仕事もかねて、展覧会を見に行った。会場に竹中労がいた。おだやかな表情をしていた。何か話しかけたかったのだが、結局、話しかけることはできなかった。その二年後、労は63年の生涯を閉じた。

 甲府市の湯村には、英太郎の娘、労の妹である竹中紫が館長を務める「竹中英太郎記念館」がある。英太郎の作品や労の資料が展示されている。竹中英太郎・労の父子にとって、甲府は第二の故郷ともいえる地だろう。今日5月15日の山梨日日新聞の「FUJIと沖縄」シリーズの「山梨関係者の足跡息づく」で、「竹中労 島唄を通し文化紹介 復帰問題問い続ける」という題の記事があった。その中で、竹中紫さんの「兄の後半生は島唄と共にあった。島唄を愛し、愛された人」という言葉が紹介されている。


 島唄というと、やはり、THE BOOM・宮沢和史の「島唄」が思い浮かぶ。ほとんどの音楽ファンにとっても同様だろう。「島唄」についてはこのブログで何度か書いてきたが、今日は、「THE BOOM - 島唄 (オリジナル・ヴァージョン)」の映像とオリジナルの歌詞を紹介したい。


      THE BOOM - 島唄 (オリジナル・ヴァージョン)



   THE BOOM  島唄
   作詞:宮沢和史 作曲:宮沢和史 

でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た 

でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た 
くり返す悲しみは 島渡る波のよう 

ウージの森であなたと出会い 
ウージの下で千代にさよなら 

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ 
島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の涙 

でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ 
ささやかな幸せは うたかたの波の花 

ウージの森で歌った友よ 
ウージの下で八千代の別れ 

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ 
島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を 

海よ 宇宙よ 神よ いのちよ このまま永遠に夕凪を 

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ 
島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の涙 

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ 
島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を 


 「島唄」は、1992年1月22日リリースの4枚目アルバム『思春期』で発表された。このアルバムは「子供らに花束を」など聞き手に問いかける作品が多かったが、なかでも「島唄」は印象深い作品だった。

 前作、1990年9月発売の3枚目アルバム『JAPANESKA』に沖縄民謡・音階を取り入れた「100万つぶの涙」があったが、「島唄」はその歌詞の世界において、沖縄戦とその犠牲者への想いを歌っていた。宮沢の転機となる作品だという直観があった。しかし、その時点ではその後の展開はまったく想像できなかった。翌年1993年6月、この「島唄 (オリジナル・ヴァージョン)」シングルが発売されて、大ヒットとなった。この映像には若々しい姿と声の宮沢和史がいる。


 あらためてこの歌を聴くと、〈でいごの花が咲き〉〈でいごが咲き乱れ〉〈でいごの花も散り〉〈うたかたの波の花〉というように、〈花〉の表象の変化のなかに、沖縄戦の犠牲者への想いが表現されている。 宮沢和史の歌詞には、志村正彦や藤巻亮太と同じように、自然の風景や景物がよく描かれる。山梨のロックの詩人には、自然を描くことから、自己の存在、社会や歴史の出来事、世界の在り方を問いかける歌が多い。

     

  西日本新聞の記事〈「島唄よ海を渡れ」宮沢和史、歌い続け縮めた心の距離 沖縄復帰50年〉(2022/1/31)の中で、宮沢の想いが次のように述べられている。 


 完成しても発表には迷いがあった。「ヤマト(本土)の人間だし、戦争も知らないし」。山梨県出身の自分が歌っていいのか、不安を抱えながら世に送り出した。

 CDは150万枚超を販売する大ヒットとなる。応援の一方、批判の声も大きく響いた。「民謡をろくに知らないヤマトンチュ(本土の人)が」「ウチナー(沖縄)の音階を使うな」

 平和を希求する沖縄戦への鎮魂歌だ、と言いたい。でも、言葉でそれを訴えるのは音楽家として敗北だと思った。「歌い続ければ、本当の意味を分かってもらえる。いつかは心に染みていくはず」。そう信じた。


 沖縄復帰50年の今日、島唄と深い関わりのある山梨ゆかり・出身の二人の人物、竹中労と宮沢和史のことを書いた。竹中労が亡くなったのは1991年、宮沢和史「島唄」が生まれたのは1992年。山梨出身の青年が「島唄」を作ったことを労は喜んだに違いない。

 宮沢の〈歌い続ければ、本当の意味を分かってもらえる。いつかは心に染みていくはず〉という発言は重い。歌は、言葉による説明ではなく、歌うという行為であるのだから。

 歌が心に染みいることによって、何らかの形で、現実に働きかけることを信じたい。


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